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アポリネールの日本への受容と堀口大學

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Academic year: 2021

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(1)

著者 伊勢 晃

雑誌名 コミュニカーレ

号 5

ページ 51‑58

発行年 2016‑03

権利 同志社大学グローバル・コミュニケーション学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014463

(2)

アポリネールの日本への受容と堀口大學

伊 勢   晃

I

日本における近代詩の発展は翻訳によるところが大きく、すぐれた翻訳詩 によってその内容や表現を拡大してきた。さらには、日本人の感覚を変えた といっても過言ではないだろう。1905 年に出版された上田敏の訳詩集『海 潮音』が、イギリスやドイツの作品に加えて、まだほとんど紹介されていな かったフランス象徴詩を紹介した。彼の訳によるヴェルレーヌの「落葉」は、

原詩との距離はあるものの、今でも日本人の愛唱する詩として生き続けてい る。また、永井荷風の『珊瑚集』(1913)により、われわれはボードレール の世界を知り、三木露風や萩原朔太郎に受け継がれていく。

日本におけるアポリネールの最初の紹介は、プレイアッド版の書誌にある とおり、詩人堀口大學による『異端教祖株式会社』(L'Hérésiarque et Cie)の 抄訳(1924)によってである。しかし、日本人に新精神の詩人の存在を実質 的に知らしめたのは翌年 1925 年に刊行された訳詩集『月下の一群』による。

この中で初めて詩「ミラボー橋」("Le pont Mirabeau")が紹介され、その訳 文は今なおアポリネールの翻訳に影響力をもっている。

日本においては、戦前の堀口大學や堀辰雄らの翻訳に引き続き、1959 年 に紀伊國屋書店から『アポリネール全集』が出版され、アポリネールの認知 度が高まった。さらに、1979 年には青土社から、恋文や同時代の芸術家へ の手紙を含む『アポリネール全集』全四巻が出版された。

しかしながら、これら二つの全集は多くの課題を残していることも事実で ある。つまりすべての作品が翻訳されているわけではないこと、校注作業が 不完全であること、時事・美術評論がほとんど訳出されていないといったこ

『コミュニカーレ』5(2016)51−58

©2012 同志社大学グローバル・コミュニケーション学会

(3)

とである。このような問題がありながらも現在、青土社版全集の出版以降、

アポリネールに関する出版活動はほとんど成されていないのが実情である。

上述したとおり、アポリネールの最初の紹介者である堀口大學の訳業が、

日本におけるアポリネールの受容に与えた影響は非常に大きい。本研究ノー トでは、堀口大學をとおして、日本におけるアポリネールの受容の特徴につ いて考えてみたい(1)

II

堀口大學は 1892 年に東京で生まれる。父は当時まだ東京帝国大学の学生 であった。外交官になった父が朝鮮に単身赴任したため、父母の故郷である 新潟県長岡に移り住むが、3 歳の時に母を亡くし、以後 18 歳まで祖母に育 てられる。18 歳で上京、詩人与謝野鉄幹が主催する「新詩社」に入門し、

詩の創作を始めている。慶応義塾大学文学部に入学するが、1911 年に父の 任地メキシコに赴くこととなり中退する。父がフランス語を母語とするベル ギー人と再婚していた影響もあり、フランス語の習得につとめている。以後 14 年間にわたりベルギー、スペイン、スイス、ブラジル、ルーマニアなど で海外生活を送ったが、この長い海外滞在中に、フランス文学に興味を抱き、

特に高踏派の詩やポール・ヴェルレーヌ、レミ・ド・グルモンなど象徴派の 詩に傾倒した。

帰国後は、89 歳でこの世を去るまでのあいだに、膨大な数の詩作、翻訳 やエッセイ、評論の執筆などを精力的に行い、大正、昭和という時代におけ る我が国の文壇において大きな役割を果たすとともにその影響力は現在も続 いている。

堀口大學の創作活動に大きく影響したのは、フランスの様々な文学者や芸 術家との幸運な出会いと交流であろう。マリー・ローランサン、ポール・フォー ル、アンドレ・サルモン、ポール・モーラン、ジャン・コクトーなど、名前 を列挙するだけでも同時代のフランスの文芸、芸術思潮を知る立場にあった ことが理解される。

これらの出会いの中でも彼の創作や翻訳に与えたもっとも大きな出来事の ひとつは、その交流が一生続くことになる、マリー・ローランサンとの出会

(4)

いであると言える。1914 年 6 月、ブリュッセルに滞在していた大學は、マ ドリッドにいる父親から、祖母と共に至急スペインに来るようにとの電報を 受け取る。外交官としていち早くヨーロッパの情勢を知る立場にあった父の 機転により、大學は辛うじて戦禍をのがれることができた。

1915 年 1 月に、ある若いスペイン人画家に促され、ちょうど同時期に戦 禍を逃れマドリッドに滞在していたマリー・ローランサンのアトリエに入り、

大學はそこで初めて、ローランサンの絵画を目にし、その「夢のような、幻 のような」作品に感銘を受ける。そしてついに同年 5 月にローランサンと会 う機会が訪れる。  

大學はこのとき女流画家から、アポリネールという詩人の名前をはじめて 聞くことになる。ローランサンはアポリネールとの関係について、消え去る こととなったその恋の顛末や、しかし今も連絡を取り合っていることなどを 大學に話している。また、詩人の肖像画を描いたと言って、「アポリネエル が足の無い白馬に、黑い背廣服を着て跨がつて、大砲の側に立つてゐる光景」

の画を見せたりもしている(2)

このような偶然の出会いから、この日本の詩人はフランスの女流画家と親 友になり、共に散歩をしたり、絵画の手ほどきを受けたり、アポリネールか ら届く手紙を見せてもらったりすることにより、知らない間に新精神の詩人 アポリネールにつながっていくことになったのである。

III

大學は『詩と詩人』(1940)の中で、アポリネールの数奇な人生を詳細に 語りながら、この詩人に最大限の賛辞を送り、詩人の伝記と評論を兼ね備え たすぐれた紹介をしている。

第一次歐州大戦で死んだ數多い藝術家の中で、誰を一番愛惜するかと訊ね られたら、僕はギイョオム・アポリネエルだと言下に答へる。彼が死んでか ら、すでに 13 年餘りになる。しかし、私には、今なほ毎年、必ず二度や三 度は、「アポリネエルが生きてゐたら!」と思ふことがある。事實、彼なき あとのフランス藝壇は、その中心を失った形であり、なんとなく元氣がない。

(5)

(…)先驅者としての彼、指導者としての彼、詩人としての彼、作家として の彼。今日まで彼が生きてゐたら、どんな仕事を成し遂げてゐるであろうと、

思ふだけでも、私の心は躍るのである。(…)かつてのフュチュリズム、キュ ビズムの運動、新精神の運動のような華々しさは、どこにも見られなくなっ た。(…)こんな魔術者が、またと二人あるだらうか?(3)

大學は終戦後 1919 年頃からアポリネールの詩を翻訳し始め、1925 年に翻 訳詩集『月下の一群』を出版、この中でアポリネールの詩 35 篇を訳出して いる(4)。彼のアポリネールの作品に対する好意、こだわりは非常に大きな ものがあり、日本で最初のアポリネールのまとまった翻訳詩集である『アポ リネール詩集』を 1954 年に新潮文庫版で発表している。この訳書は 2010 年 の段階で 46 刷になっていることからわかるとおり、日本にアポリネールと いう詩人の読者を獲得するために最も貢献した書物であるといって間違いな い。大學はこの文庫本の第 15 刷改版の後書きで、「アポリネールには代表作 というものがない。否、あまりに代表作が多すぎるので、どの一編も代表作 にはならないのだ。つまり、遺された詩篇の全部が代表作というわけだ」と 述べ、特に詩集『アルコール』については、「『アルコール』には試作的な不 備や未熟は全然ない。どの一編も完璧完熟の作品のみだ」と高く評価してい る(5)

大學によるアポリネールの数多くの訳業の中で、名訳として知られ、もっ とも人口に膾炙し、日本の詩壇にも大きな影響を与えたものは、詩集『アル コール』所収の「ミラボー橋」であることに異論は無いであろう。この詩の 翻訳は他にも数多く存在するが、いずれも堀口大學の訳に影響を受けている。

また堀口大學自身も何度も改稿しているほど、彼にとっても特別の詩であっ たと考えられる。

大學の翻訳の特徴は、平易な日本語で、衒学的なところがなく、しかも音 楽性が高いところにある。「ミラボー橋」においても原詩が備える平明さや 叙情性、音楽性を損なうことのない訳文となっている。大學は「彼(=アポ リネール)の詩の本質が音楽的な叙情性に終始一貫されていて、立体派以後 の『カリグラム』(一九十三年から一九十八年に至る六年間の作品の集成)

(6)

にあっても、立体的な努力は十分うかがわれるが、読者の心に深く渗み入る ポエジーそのものは、彼に独特のリズムとアクセントの強い抒情であり、思 い出のせつない歌であり、ふられた男の嘆きである」(6)と考えている。「ミ ラボー橋」については、原詩にあるすべての語の意味が訳出されていないと か、句読点がないために文法上の誤解を含んでいるといった指摘もあり(7)、 後の翻訳では改善に向けたさまざまな工夫がなされ学問的に精緻な翻訳と なっている。しかし、堀口大學訳が今も絶大な支持を得ているのは、訳詩の

「詩」としての完成度が高いということにあるのだろう。彼は『詩と詩人』で、

訳詩は原詩をわがものにしたようなイリュージョンが得られるものだと書い ており、訳詩は詩人堀口大學のものとして、新しい生命を吹き込まれるので ある。

(…)求められて譯したもの、目的があつて譯したものは、只の一篇もない のである。何のあてもなく、ただ譯して之を國語に移しかへる快樂の故にの みなされたものだつた。(…)「しばしば私にあつては、或るものを愛するこ との極みは、それに觸れてみるのが念願となつて現れる。しかるに、美しい 詩章は美しい戀人のやうに、愛すべきものである。私は愛人の新鮮な肌に觸 れる時のやうな、身も世もあらぬ 情 念 をこめ、愛する詩章に手を觸れた。

それがこれ等の譯詩である。」こんな氣持ちで、僕は、好きな詩、いいと思 ふ詩が見つかると、樂しんでそれを國語に移しつづけた。かうすることによ つて、僕には、はじめてそれ等原作の詩をわがもの4 4 4 4にしたやうなイリュジョ ンが得られるのだ。譯詩は僕にあつては、一種の所有慾の現れだとも言へ る(8)

IV

堀口大學によるアポリネールの日本への紹介について確認してきたが、そ の当時の日本の海外芸術の受容状況はどうであったのだろうか。これには、

森鴎外による「椋鳥通信」の果たした役割が大きい。これは、諸外国の芸術 思潮や文化現象、最新の流行など幅広い情報をいち早く伝える画期的な翻訳 消息記事であったが、鴎外は 1909 年 5 月にいち早くマリネッティの『未来

(7)

派宣言』を翻訳、紹介している。これ以降、未来派やキュビスムなど前衛芸 術に関する雑誌、新聞記事が数多く発表されるようになる。また木村荘八に よ る フ ラ ン ク・ ラ タ ー の『 芸 術 の 革 命 』(Frank Vane Phipson Rutter, Revolution in Arts)の翻訳や蘇武緑郎によるメッツァンジェとグレーズの

『キュビスムについて』(Jean Metzinger et Albert Gleizes, Du Cubisme )の翻 訳が出版されている(9)。このように、当時の日本には新しい文学、芸術を 受け入れる土壌がすでに用意されていたために、堀口大學が『月下の一群』

で紹介した前衛詩人も人々に受け入れられたのであろう。さらに、大學が、

多くの文学者や芸術家と実際に交流を持ち、当時の文学、芸術界に身をおき ながら、詩人としての目で新傾向の作品を解釈し、紹介するという姿勢が、

新しい文学・芸術の潮流を形成することになったのである。

アポリネールは、時代の潮流と堀口大學という詩人による紹介という二つ の幸運によって、日本では文学、芸術の両面からエスプリ・ヌーヴォーの旗 手として受容され、評価され続けているのである。

注:

(1)本稿の内容を基礎とした論文が、フランスの雑誌Europe(n°1043, mars 2016)に掲載される予定である。

(2)大學は帰国後 1917 年 4 月号の『新潮』にマリー・ローランサンとの出会い を「キュビスムの女神」という回想で発表している。これが日本語で記され たローランサン文献の最初のものである。また大學はこの女流画家の詩も翻 訳している。

ŒC 6, pp.148-165.

長谷川, p.206.

(3)ŒC 6, pp.309-312.

(4)翻訳詩集『月下の一群』は、当時日本では名前も知られていなかったアポリ ネールやスーポー、ヴィルドラック、ピカビア、コクトー、ジャコブ、ルヴェ ルディなど、66 人の詩人の作品 340 篇を集めた翻訳詩集で、日本の現代詩 に大きな影響を与えることになる。アポリネールの作品は『動物詩集』、『ア ルコール』、『カリグラム』などから選ばれている。また、ローランサンの作 品も 4 篇含まれている。

(8)

(5)ŒC 5, p.617.

(6)ŒC 5, p.619.

(7)たとえば、第 3 連に関していえばFaut-il qu'il m'en souvienneのfalloirが訳 出されていないとか、中性代名詞en が第 4 連のLa joie venait toujours après

la peineを指しているように訳出されていることなど。

(8)ŒC 6, pp.364-365.

(9)「椋鳥通信」については以下の論考に詳しい。

山口徹「文芸誌『スバル』における「椋鳥通信」 : 一九〇九年のスピード」『学

術研究. 国語・国文学編』53, 早稲田大学教育学部, 2005, pp.39-49.

また当時の海外新興芸術論については以下の書籍参照。

『海外新興芸術論叢書 刊本篇』全 12 巻, ゆまに書房, 2003.

『海外新興芸術論叢書 新聞・雑誌篇』全 10 巻, ゆまに書房, 2005.

参照文献:

Guillaume Apollinaire, Œuvres en prose, « Bibliothèque de la Pléiade », tome I, Gallimard, 1977.

『堀口大學全集』5, 6 巻 日本図書センター, 2001. (ŒCと略)

堀口大學『月下の一群』講談社, 2015.

亀井俊介, 沓川良彦『名詩・名訳ものがたり』岩波書店, 2005.

関容子『日本の鶯 堀口大學聞書き』岩波書店, 2010.

長谷川郁夫 『堀口大學−詩は一生の長い道』河出書房新社, 2009.

島岡晨「<論説>概説フランス詩の影響」『立正大学文学部論叢』110 号, 立正大 学文学部, 1999, pp.55-71.

三宅京子「アポリネールの新精神<エスプリ・ヌーヴォー>と日本 : 堀口大學を 通して見る前衛の受容」『総合社会科学研究』3(5), 総合社会科学会, 2013, pp.17-32.

(9)

Daigaku Horiguchi and the Reception of Guillaume Apollinaire in Japan

Akira Ise

Keywords: Guillaume Apollinaire, Daigaku Horiguchi, Translation and Literature

参照

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