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藩主前田斉広の参勤交代を中心に

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(1)

藩主前田斉広の参勤交代を中心に

著者 川上 真理

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 69

ページ 25‑41

発行年 2008‑03‑24

URL http://doi.org/10.15002/00011557

(2)

近世「公儀」は、寛永十一一年(一六三五)に発布された(1)武家諸法度によって確立したとされる。この確立の一つの要件としては、寛永武家諸法度第二条に規定された「大名小名在江戸交代」すなわち参勤交代が、戦国大名が軍事力の優越を挺子とした起請的形式による法度の制定によって擬制的な家結合を実現していた段階から、法度や起請を不要とする参勤奉仕によって外様大名を編成することに成功したことがあげられる。これにより、諸人名は、江戸城中における年中行事や月次行事での拝謁行為の中に徳川将軍への服属を表明し、諸大名間の序列編成を可視化されるこ

とになった。

近世後期における入国儀礼と附祭(川上) はじめに

近世後期における入国儀礼と附祭

l加賀藩十二代藩主前田斉広の参勤交代を中心にI

さて、武家諸法度が個別大名による領同支配制度を前提とする限りにおいて、個別大名にも同様に拝謁儀礼による家中の序列編成を迫る。そしてこのことは、近世「公儀」が農民に対する武家領主の身分的階級的共同利害達成のための機構として形成されたことから、その儀礼への非武士身分の関わりも考慮しなければならないことを示す。右のことは、村社会が関わった将軍への産物献上儀礼を検討することで、幕府と藩、そして民衆との関係における統合と序列化の論瑚が明らかにされたことからも明nで(2)ある。そこでは、民衆の儀礼行為が領主権力を机対化するものであることが示された。これに対し、本稿では、民衆の儀礼行為が領主の正当性を担保する作用に注目する。一一一一口い換えるならば、領主は儀

川上真理

(3)

1加賀藩の参勤交代の概要初めに、忠田敏男氏の成果により加賀藩の参勤交代を慨(3)観しておく。参勤交代の制度化以後、加賀藩において対象となるのは一一一代藩主利常から十一二代藩主斉泰までである。その間、江戸への着駕は全九一一一回のうち、四月が一一六例、七月が一一二例、三月が一九例、江戸からの発駕は全九七Mのうち、四月が二四例、一一一月が一一一例、八月が一八例であった。参勤の準備は、前年十一月に伺い、許可を得てから四、五○日間で行われる。この間に供家老の選任、供人の決定と通知、宿割り、旅費・日当・駄賃の支払計算とその支給、宿割札の書き上げと宿場との交渉、行列の編成付けと各人の役割分担そして各人への通知、宿々問屋への宿継人馬の依頼が行われる。 礼行為を介さずしては存在し得ないという立場をとる。このような観点から、加賀藩十二代藩主前田斉広の家督相続・就封の儀礼を検討する。このことにより、当該期の加賀藩主の支配を下支えした心性を提示し、そこに近世後期における大名の存立要因を展望する。 法政史学第六十九号

入国儀礼の構造 ルートは北国下街道(二九里余)、中山道を経由する北国上街道(一六四里)、東海道経由(一五一里余)の三つであった。藩主は馬上で金沢城を出立し、金沢の町端の城の総門「松門」まで行列をたてる。ここまでの一里二六町を騎馬、後は駕篭に替える。板橋宿の下屋敷で旅装束を改め、本郷の上屋敷へ入り、そのuのうちに老中他関係各所へ着府の挨拶をする。一一、三日以内に登城し御礼を述べる。賜暇は上使(老中)を迎えて受ける。このときに将軍からの下賜品を頂戴する。下賜品は享保改革以前は銀一○○○枚・時服一○○着であったが、それ以後は銀一○○枚・縮緬三○巻となり、幕末は銀一一○枚・巻物一○巻と更に減少する。これを受けた後、一週間以内に登城し辞見の挨拶をする。このときの引き出物には鷹二裾と馬二疋を頂戴す

る。初めての帰国には、八家のうちの一人が加賀藩領の越中(4)と越後の国境になる境宿まで一二○里を迎えに出る。このときには、城下から一里半離れた森下から行列を建て、津幡宿から家臣が出迎える。寺社方・出家方・神主も御目見に出る。着城後、帰国御礼の使者を江戸へ派遣する。その使者は初入国には八家から、二度目からは人持が勤める。初 一一一ハ

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2十二代藩主斉広の初入国ここでは、十二代藩主斉広の家督相続と初入国の様子を(5)時系列にみていく。(6)まず家督相続の手続きである。享和二年(一八○二)一一一月二日、十一代藩主治脩が病気のため隠居し斉広に家督相続する願書が、幕府先手武藤圧兵衛から御用番老中戸田采女正へ提出される。同九日に許され、同十八日・二十二日に国許で披露された。また十一Hには治脩の肥前守、斉広の筑前守から加賀守への改名がなされ、同二十七日に国許で披露された。斉広は同年四月十五日に家督御礼のために江戸城へ登城し、黒書院で熨斗鉋を頂戴する。このとき、家臣も御目見を許され、将軍へは長甲斐守・前田内匠助、世子へは右二者に加え今村内記・津田玄蕃・前田織江・不破彦三・織田主税らが謁する。また、同十七日には紅葉山を参詣し、六月二十六日には日光へ御礼の使者を派遣している。次ぎに帰国の手続きである。同年五月二十五日に帰国御 入国には供の足軽・小者にまで赤飯と酒が振る舞われ、町では盆正月が行われる。帰国の祝賀会として能興行が行われる。

近世後期における入国儀礼と附祭(川上) 暇の内命を受け、国許へは六月六Hに披露された。この正式の使者は七月二十五日に迎えられた。そして上使老中安藤対馬守より白銀一○○枚・巻物三○、西丸側用人水野出羽守より巻物二○をそれぞれ拝領する。また広敷用人小笠原大隅守より巻物を拝受する。御礼として対馬守・出羽守へ御刀を進呈した。暇御礼のため何二十八Hに登城し、黒書院にて御目見、熨斗鞄を頂戴し、腰物・鷹・馬を拝領した。このとき長甲斐守・前田織江も巻物を頂戴している。国許へは八月七日に披露された。

いよいよ帰国でh肌・八月十三Hに江戸を発駕する。道

中の行列には御先一一一口叩を当番・非番ともに建てられる。その様子は、当番が鉄炮二十五挺・弓二十張・長柄二十筋、非番が鉄炮二十五挺・弓二十張・長柄十本であった。供そして年寄衆長甲斐守・家老前田織江・人持組横浜善左衛門・同成瀬監物が同行した。遂に八月二十五日に着城となる。御通筋へはその場所の奉行人等や町方・村方役人、支配境へはその場所の郡奉行、町端には町奉行両人・町同心が鵬迎える。人持・頭分は着城後に二丸で、「御着城之御様子奉承知為恐悦登城」・「御帰城之上恐悦御奏者番⑧謁」と祝詞を記帳し退去する。

一七

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この日、留守居の表小将や若年寄ほかと対面し祝詞を受ける。前藩主治脩への使者人持大村武次郎、将軍への帰国御礼の使者人持横山大作に対面し命を伝える。同日は道中供の諸士へ振る舞いがある。年寄は檜垣之間で二汁五菜、人持・頭分は柳之間で一汁五菜、平士と御歩小頭等は新廊下で料理、与力・御歩横凹・御歩・御算用者・御料理人・御細工者は御台所御賄所で料理、足軽・小者は御算用場と御作事所で赤飯・酒、これらをそれぞれ頂戴する。翌二十六日五半時に歴代藩主の菩提寺である宝圓寺・天徳院へ参詣する。八月二十八日には、左の通りに能州四郡十村・山廻・新

田裁許・無役御扶持人などの郡力役人へ申渡があ久旭・

今般御入国為御恐悦、来十日・十一日・十一一百・四・五日之内一日休日之儀一統可申渡候、且又右に付於金沢町、作物等格別之沙汰無之様申渡候間、其心得可有之旨申来候條、可有其心得候、以上、八月廿八日高田弥左衛門神保縫殿右衛門能州四郡十村山廻新田裁許 法政史学第六十九号

無役御扶持人中これは九月十日から十五日のうち一日を休日とすることを命じている。また同時に金沢町には作り物などを出すことを禁じている。九月十五日から十月十二日までの九日間に順次、家中・寺社・町人の御礼が行われる。初日は九時前に諸大夫の年寄・それ以外の年寄・家老・若年寄および小松城代などの人持、八時過に小将横目・小将などの平士、儒者・医者・坊主といった平士並、七半時前に射手・異風・新番頭などの平士が独礼、二日目は五半時前に前日当番だった人持および小将・馬廻一一一組などの平士、四時過に馬廻三組・小松魚津在住の平士などが独礼、三Ⅱ目は五時に小松城番・馬廻三組などの人持および平士、四時前に馬廻三組・同御用番支配といった平士が独礼、四日目は五時過に小松御番頭・定番馬廻六組などの平士、四半時に組外四組などの平士並、五日目は前日当番の分や寺社奉行支配平士など、および御歩小頭や御料理頭といった平士並、五半時過に遠所附・大工頭などの平士・同並・与力など、六日目は五半時過ぎに御使帰の者、九時前に平士隠居や年寄・人持の嫡子.一一三男、年寄の凹男以下、頭分の嫡子、七日目は正月六日に年頭御礼をする寺社、八日目は正月十五日に年頭御

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1入国祝儀能の概要祝意を表す規式は祝儀能である。その一つである入国祝儀能は、原則的に家督後初めての入国に際して行われた。それを示せば次の通りである。四代藩主光高の寛永十九年(一六四二)正月五日(一日間)、五代藩主綱紀の寛文元年(一六六一)閏八月十八・十九日(二日間)、六代藩主吉徳の享保十年(一七二五)九月一一十八日・十月一・四・ 礼をする寺庵、九日目は猿楽役者・検校・町医者などの組外となっている。年頭御礼と比べて、隠居や庶子の御礼順が検校や町医者に先んじる点に違いがみられる。このときは第一節でみられた祝儀能は開催されていない。また、次回以降の交代には三月もしくは四月に斉広が帰国すると、その翌々月に支藩大聖寺藩主が帰国の途上に金沢城に登城している。儀礼の中心となるのは身分序列ごとに行われる御礼である。だが、この前後には、郡方役人へ休日を命じることや金沢町に作り物などの祭りめいたことを禁止することが行われていた。これは、祝うことについての興味深い事象を示している。そこで次章では、祝儀について検討する。

近世後期における入国儀礼と附祭(川上) 二饗宴と祝儀能 六・十五・二十一日(六日間)、八代藩主重煕の延享五年(一七四八)一一月十一・十五・十八・一一十一・一一十三・一一十七日(六日間)、十二代藩主斉広の文化八年(一八一一)’一月二・六・十一・十三・十五・十八日(六日間)の計五(9)回となる○七代藩、王宗辰は入国せずに死没、九代藩主重靖は入国直後に死没、八代・十代・十一代の各藩主は藩の財(、)政難のために開催していない。では、十二代藩主斉広の初入国祝儀能開催決定に関わる流れを確認しておこう。斉広は、享和二年一一一月に家督を相続、同年八月に初入国するが財政難のため祝儀能を開催せず、同三年九月十一一一日に参勤の途につく。四度目の帰国となる文化五年三月には、同年正月十五日に焼失した金沢城二九に対する幕府からの復興資金を遠慮し、そのことによ(u)り、’二ヶ年の在国および五ヶ年の年中献上が用捨となる。二九御殿は同六年四月九日に落成し、同二十六日に斉広が移徒する。そこで二十六日、二十七日に金沢町へ「遊祝」

が命じら仏組。翌年九月十四日に「御城御造営御成就之儀

御家督井御入国御祝儀之御含妾以、来一一月御能被仰冊候

条、」として祝儀能が開催される運びと哩秘・

文化七年十一月一一十五日、御算用場奉行および金沢町奉行に対し、左の通りに御殿普請への献金を追々返金する旨

(7)

法政史学第六十九号

を記した覚聿日が出さし池・この中に祝儀能に関する発一一一一口が

ある。御城御造営も士民之志により全く御成就之儀、誠感被為思召候事に候、乍去不今更御財用之御手繰故、是に被為報候諸恩沢も薄く、急に思召之通に難被為成、朝暮恥被為思召候、然共追々思召之通に至り候様、庶民安穏之御政事遂年被仰出度思召候、就中来春は久々無之御入国御祝儀等之御含に而御能被仰付候事茂御造営御成就故之儀与御喜悦被思召候、また、祝儀能終了後の文化八年八月四日には「御殿閣御造営も御成就に付、御規式御能之儀者社穆にもか、り申事故不被仰付而者難叶事故、御規式御能も被仰付候、」と発言

して乢溌。これらを勘案するに、藩主の意思は、大方、次

のようなものであった。士民の志を得て御殿が落成したことを殊のほか嬉しく思う。そして士民の気持ちに応え、安穏な生活を約束できるようになりたいと願う。このように心情を吐露しながら士民の協力に謝意を述べている。そして、御殿落成のおかげで祝儀能が開催できると喜んでおり、あたかも謝意を表するための祝儀能開催であるようである。しかしながら、この背景には、能は国家に関わることな 2十二代斉広の入国祝儀能ここでは、文化八年二月に開催された入国祝儀能の具体

的な運営についてみてい⑭。まず、その開催通知は次のよ

うな手順で出された。文化七年九月十四日に祝儀能開催の担当三名が任命され、彼らより御奏者番・町奉行・御用人・御台所奉行・御省略奉行・御横目へ、「御城御造営御成就之儀御家督井御入国御祝儀之御含妾以、来二月御能被仰出候条、万端享保十年・延享五年御祝御能之節之趣二相心得御用意可有之候、尤其節之様子可被害出候事」と言い渡された。同八年正月、人持諸頭・組支配の面々ヘ御能拝見が命じられ、同時に参加者氏名の横目への提出が命じられる。その見物者は殿中において、一~五日目に家中二五六四人、六日目に寺方一五三人、白洲において連日町方一一五四九人、郡方が七五五人以上、諸役人が七九二人、総計六八一一一一人以上が各日に振り分けられる(表1)。次ぎに、この次第を確認しよう。儀式は、献上・対面・芸能・酒食・芸能・賜物・酒食・芸能・対面で構成され ので行いたいとの意思があった。つまり祝儀能はあくまで藩の威信のために行われるものであったのである。

(8)

フ(》o献上一日目に年寄八家は近習を介して雁・鯛・鳧、一万石以上の人持は奏者番を介して鴨、六日目に寺方は餅菓子・篠椋などを献上する。対面一・一一日目の人持・頭分以上は奥書院で御目見をし、大広間で惣礼となる。このとき御意を得る。六日目の宝圓寺等は大広間で年寄等に挨拶し、終わって大広間で惣礼となる。このとき御意を得る○三・四・五日目は御徒並は横廊下で平伏する。芸能御能始めは一日目が奥村助右衛門、二日目が奥村左京である。表2に番組表を記した。一・二・六日目は翁立てで、三・四・五日目は翁がない。したがって、前者に神(Ⅳ)事的性格がよみとれる。また、一口HHに大黒風流と開口が(田)あう○□その説明をみてみよう。大黒風流に登場するのは大黒面に赤地錦の直垂・帽子・袋、白の大口を着した大黒天であるb彼は真紅の房の付いた小槌を持ち、唐冠を冠した鼠を連れている。そして、「このところ、富貴にして目出度き折柄なれば出たる」と一一一一口い、三面六臂の大黒天の由来を舞う。つまり、福禄の神である大黒天がその使者である鼠を連れて、家督相続・御殿落成を言祝ぎにやって来たのである。

近世後期における入国儀礼と附祭(川上) 次ぎに開口である。江戸時代の開口は、儒者が五七調のリズムに儒教の文言などをのせて作成した。それは、当該(⑲)儀式の趣旨を反映した内容となっている。〈う回の開口はどのようであろうか。一開ロハ礼脇ノ後左右シテそれあしたにはト楓上出ス小節ニテー謡う也、夫ヨリ直二挿、是ハト名乗ヲ調上、次二今を始メのト次第を翻上、次二旅衣末はるノート道行ヲ謡う丁都テ常ノ如シ、但シ小鞁早メ頭

ナシト云州Ⅵ憾乢#肺臓拙煉ソ紬川棚加仙帥朏杁一帯

開口野尻直啓考夫朝には業命を修め、昼ル其職を考へ、安きにつくの理りも、継て久しき世々の風、恵になひく春なれは、宜もとみけりさき草の、殿つくりせし幾八千代、栄へ栄ふる国とかや国語魯語下諸侯朝修メ天子之業命ヲ、昼ル考其国職ヲ、夕省其典刑、夜徹百工、使無稻淫スル丁、而後即安古今集序此殿は宜も富けり幸草の三シ葉四シ葉に殿作リシテ幸草ハ槍の木三シ葉四シ葉ハ三棟四棟ナリこれは、藩儒野尻直啓が中国春秋時代の歴史を記した

(9)

坦昌田朴恕・K÷貝db11111

表1文化八年二月祝儀能見物者

89

「1

定番以上 御馬廻・組外・御目見得

平士以下徒並

l1llLih ll

(遠所町方)永原進之丞大村友右衛門多羅尾左一郎

|’

御造営方御普請御会所懸町人□門町役人等

'1

開催日家中・寺方人数町方人数郡方指引人数諸役人人数

2月年寄中等人持頭分不残年寄中子弟人持子供

33 12

十間町常福寺上地町上近江町下近江町同三番町光専寺上地町上材木町並町役人御用聞寺社門前地 435木幡左門吉田兵馬萩原源太左衛門 200御造営方御扶持方大工等65

2月6日人持頭分

御奥小将・御表小将・御大小将・平士之内役掛之人々

頭分嫡子・人持二三男等魚津御馬廻与力以下 412233

77

11 野町竪町今町中町並町役人御用聞寺社門前地 425中村逸角白江金‐I一郎多羅尾左一郎高田弥左衛門吉田兵馬大村友右衛門 200御造営方御扶持方大工等寺社門前地 66 2月11日御馬廻・御目見得以上平士以下 352213 石浦町荒町木新保町森下町卯辰町並町役人御用聞等寺社門前地 421永原進之丞大村友右衛門吉田兵馬 200御造営方御扶持方大工等寺社門前役人御普請御門懸町人 64

(10)

観晋Ⅱ

割当巡霊呈黒迄lQペ画遜=Aj窒灘(三当)''1111

■Ⅱ

堀)||片原町観音町新丁鍵町並町役人御用聞等寺社(門前地脱力)

||Ⅱ’

2月15日御目見得以上御射手・御異風・右組々代番相勤候悴・緒組小頭等・新香小頭並新番組御寄・御儒者.御医師・与力・御徒等 323209 )'1南丁片町木倉町河原町下木材町並町役人御用聞寺社門前地 407木幡左門吉田兵馬子千羽彦太郎 155御造営方御□、、門懸町人寺社方門前役人 66

2月18日方円寺・天徳院・瑞龍寺・林憩和尚・如来寺・和泉寺・妙成寺・勝奥寺・観音院・長楽寺・天平寺・白山長吏

平僧勝奥寺家司同用人同伴僧白山長吏伴僧

91 84 11

尾張町

橋場町下堤町横堤丁安江丁横安江丁宗善寺上地町塩谷町並町役人御用聞寺社門前地 429(遠所町方)高田弥左衛門吉田兵馬萩原源太左衛門主附御扶持人十村新)||郡沼保村彦四郎砺波郡内嶋村孫作石川郡田井村次郎吉羽咋郡本江村惣助能美郡波佐谷村文兵衛砺波郡田中村小四郎 御造営方寺社門前地役人御□、n門懸町人□□町役人等河合養春・徳田純作勝奥寺近習

63724

27172549792

(11)

表2文化八年二月祝儀能能番組表

『魯語」および「古今集」仮名序を参照して作成した。ここで引用された「魯語』は、「諸侯」には「天子」の命令を遂行し、領民への政事を行い、「百官」を統制することがその職務であると説いている。また、「古今集」仮名序からの引用は、そこに示された歌の六類型の一つである「祝い歌」に例示されたもので、ここに類別される歌は世の中の栄えを讃えて神に申し述べるものという。つまり、 法政史学第六十九号

2月2日

2月6日 2月111J 2月13日

」iiiN 塗璽珊一識原

典拠)「文化八年二月御規式御能一 件」(「国格類聚j16.23-45)。

狂言は、実際には能の間に 演じられたと推察されるが、

記録の形式に準じ能演目の 末尾に記した。

将軍に対する大名、大名に対する家臣の勤めを説き、その治世の永続と世の中の栄耀を謡ったものである。ここには歴史に学ぶ態度と和歌により感情を表現する態度が顕れている。かつて、享保期の開口が孟子の『尽心ノ篇』を参照し、菅原道真や「梅」を読み込んで仁政と藩の永続を説くものであったのに比べると、客観的な態度とい

うことができ秘。

ところで、当時の藩の学問の状況はどうであったか□寛政四年(一七九二)に設立された藩校明倫堂では、朱子学、易学、医学、算学などの学科が講じられた。この前後に上級武士たちが儒者を家臣として召し抱える例が多くみられ、明倫堂開設時の教授陣には各家の儒臣たちが多く含まれる灯また、斉広は蘭学を中心とした実学の受容に積極(皿)的であった。開口における観念から実証を重んじる性格への変化は、このような学問状況の中から生まれたといえょ

話7。酒食一・六日目には脇能の後の狂一一一一口がはじまると菓子が出される。六日目にはさらに茶も供される。中入り藩主が退座し、この間に賜物がある。賜物・酒食一日目に舞台上では奏者番から猿楽へ纒頭が行われる。下賜品は、宝生・諸橋・波吉各太夫へ要脚三○

日付 狂言演目

2月2H 麻生 粟田口 米市

2月6日 煎物 釣狐 蜘盗人

2月11日 餅酒 比丘尼 合柿

2月13日 餐の|F1 素抱落 若一

2月15日 唐相撲 祢宜山伏 井杭

2月18日 松脂 花子 靭猿

能演目 2月2日 刻。{E乱一 大黒風流

(開口) 高砂 田村 羽衣 張良 金札

2月6日 と5トコ則 難波 八嶋 熊野 春日龍神 養老

2月111J 氷室 兼平 東北 道成寺 右近

2月131] 白楽天 経政 吉野静 石橋 呉服

2月15日 竹生鴫 `忠則 半蔀 融酌之舞 志賀

2月18日 宅国-.コ 弓八幡 箙 六浦 弦上 猩々

(12)

○頁、唐織・熨斗目・時服である。各日とも殿中の各部屋では家中および寺方へ料理が振る舞われる。また、白洲で

は左の通りに町人等へ振る舞いがh腿・

白洲町方見物人数

一御白洲一一一間二九間之仮屋並てこ筋出来遡伽蝋輔為 来之但下二板を敷、屋根者松之挽板一一而葺之融拙捌 鮒蝦噸嶋四方野交之幕を張、御間之方ハ町人、御

屏風之方肴御郡方也、一御赤飯・御酒頂戴町人背町会所引請一而町役人方相渡有之分者香代方相渡、最前ハ御縁一而代ルノ~

頂戴仕候由猟脚所

一本町者亭主分、地子町ハ役人井御用間、其外者一組合一人宛鬮取を以惣代罷出、都而町会所方通札相渡之、見物場所は、白洲に仮屋を設え、幕を廻らし、御殿側を町方、離れて郡方と配椴される。ここでの赤飯と酒の頂戴は町会所ごとに町役人が代表する。町人の見物は、本町は亭主分、地子町は役人と御用聞、組合町から一人とし、これらの者には事前に町会所から通札が渡される。加賀藩の城下は、武家地・町人地・寺社奉行支配の門前地・郡奉行支配の郡地に分かれていた。町人地は、成立時

近世後期における入国儀礼と附祭(川上) に御用地などに接収されないことを認められ、夫役を負担する本町・地子銀を納入する地子町・地子町内部に発生し、高額負担と引替に地子町より格上となった七ヶ所の三つに区分される。町の自治組織は年寄一町肝煎一組合頭一十人組となっており、十人組は五、六軒~一四、五軒で編(羽)成される。すなわち、町人の見物は、本町は全一P、地子町は藩の支配機構に関わる看、十人組からは閲により選州された者に、その権利が与えられていた。芸能三日月の演凹には〈道成寺〉がある。この曲は難易度の高い曲で経験を積んだ役者でなければ演じられない。こういった難曲・稀曲があるときには「道成寺井珍敷御能

有之日ハ被仰出次第年寄中等子弟罷出可申腱製」と、特

別に年寄中などの子弟に見物が許されることがあった。対面一・六日目のみ御能終了後に開始時と同じように御礼がある。一・二日目に見物した人持・頭分は翌日に登城し御礼をしている。ここまでの検討から特徴的な点をあげておこう。番組表からは、一面においては、そこに宗教性を帯びた儀式的性格が見られる。それを示すのは、〈翁〉が演じられた三日間である。〈翁〉に登場する翁とは祖先神であり、子孫の

前に言祝ぎに顕仏秘。ここでは、子孫の繁栄と豊穣を一一一一口祝

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3町衆の「馳走」前節では、祝儀能においては二つの秩序化の方向性を持つことを指摘した。そして、この武家社会の論理を反映した祝儀には町人等も参加していた。果たして彼らには、独自の論理による祝いの方法はないのか。そこで、町人による祝意の表現を、主に「加賀藩資料」から抽出し、左の表3に示した。加賀藩では、これを彼ら自身の言葉で「盆正 ぐ祖先神の来訪を受け、芸能の奉納と酒食の共同飲食が行われている。一方で、一日目には〈風流〉と〈開口〉をつけ、風流のおかしみのある言祝ぎと開口の教諭を伴う言祝ぎがなされる。こちらには世俗の秩序に則った儀式の性格が認められる。もちろん、〈翁〉も〈風流〉〈開口〉も行われない日もある。そのような日には、稀曲を演じて規定以外の者の見物を許すような、見世物としての楽しみも用意されている。言い換えるなら、規式としての祝儀能には、前田家を頂点とする「家」の永続と現世の豊穣を祈り、その「家」を基礎とする支配組織の秩序化を目論む側面と、秩序化の反面にある楽しみを重視する側面があった。すなわち、祝儀能は礼と楽の観念によって支えられていたのである。 法政史学第六十九号

月」と呼ぶので(文化六年四月二十六日条)、便宜上すべての事項にこの呼称を使用する。藩の祝儀に際して、町人が祝意を示したのは、六代藩主吉徳の享保八年(一七一一三)から十一一一代藩主斉泰の文政五年(一八二二)まで全八回が確認される。その内容と藩の対応について、それぞれみていこう。初見は享保八年五月二十四u、藩主交替を領内に告げた(妬)ときであるc「廿四日前田修理小松御城中為見分彼地に赴く、是は小松御城代故なり、今日より廿五日・廿六且一一日之内、御領国中町人百姓江、今般之御吉事を其所々奉行より相触候、依之御城下在々所々町方簾をおろし遊び、夜中はをどりを催す、侍町へ迄町人集り躍る事鶏、依之為縮、町奉行より足軽少々指出し、軽く群集を払候由、ここには「町方簾をおろし遊び」とある。通常、商家の(、)店先は大一戸を開け放ち、店内が覗けるようになっている。したがって、この旧暦五月の夏の時期に簾をおろすことは外界との遮断を意味しよう。また、「遊び」とは、本来は神を楽しませ神と人との交歓を行うためのものである。例えば、村落社会には村共同体の秩序維持の一環に、「遊び 一二一ハ

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表3盆正月実施一覧

冒駕冤亟F馬甲羅=E悪F二三要亘iTfi三m到菫市二i嘉亟

近世後期における入国儀礼と附祭(川上)

篝露呈云云

『加賀藩史料」より作成

日」として仕事を休まなければならない休み日があった。これには神祭りのための休み日と労働休業日の二種類があ

り、近世中期以降に増大することが指摘されて乢秘。そし

て、夜は躍りが行われたとある。躍りは鎮魂儀礼の一つであるから、この休みは単なる休養日ではなく、何らかを祭ることに関連して設定されたものと考えられる。すなわち、「簾をおろし遊」ぶことが祭りに由来して設定された休日であると推測されるのである。結果的には、喧喋が武家地にまで及び、町奉行の取締りを受けている。次は、享保十年九月二十八日、六代藩主吉徳家督・初入(”)国祝儀能初日の終了後に踊りが発生した。前回よりも規模が拡大していることが、左の史料から読みとれる。一九月廿八日御能以後町中躍はやり、段々人数多寄集十月中頃右町々一一躍立申候、尤町々一一提灯出シ申候、別而下堤町一六天乗宜候得ハ毎夜躍申候、十月廿七日之夜ハ安江町方宮腰町端まて家々二提灯釣申候、尤郷々|一躍ノ立ぬ町ハ無之所、十月廿八日に躍指止可申由被仰渡二て必至相止申手前之廿七日夷講一一脊戸に家来共躍ヲ立申候、祝儀能初日に始まった躍りは、開催期間中の毎晩続いた。発生から一ヶ月以上後の十月二十七日は夷講の時期に

祝儀の当日 祝儀の名目 盆正月の実施日 盆正月の実施日 藩の対応

享保8.5.9 六代吉徳家督 享保8.5.24~25 躍り 後に取締

享保10.9.28~

10.21

六代吉徳家督

・初入国祝儀能

享保10.9.28~

10.28

躍り 後に差し止め

延享2.7.25 七代宗辰家督 延享2.8.13 躍り・相撲 「盆正月」の開催を

命じる

宝暦3.5.18 九代重靖家督

宝暦3.7.28 九代重靖初入国 宝暦3.9.13 作り物 不明

宝暦4.3.11 十代重教家督 宝暦4.3.27~28 拍子(嚇子) 不明

享和2.3.9 十二代斉広家督

享和2.8.25 十二代斉広初入国 × × 作り物などを行う

ことを禁じる

文化6.4.26 十二代斉広二丸移

文化6.4.26~27 作り物・躍り狂言

・俄・おどけ躍り

「遊祝」の開催を命 じる

文化8.2.2.~18 十二代斉広家督.

初入国祝儀能

文化8.2.26~27 曳山・築山に躍り

狂言・作り物

「盆正月賑ひ」を命 じる

文政5.11.21 十三代斉泰家督 文政5.12.14~15 不明 不明

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あたり、この祭りも合流している。しかし翌日には禁止が命じられた。延享二年八月十一日の宗辰家督相続に際しては「十一一一日金澤町中盆正月仕候様町奉行より申渡、躍り・相撲等所々に有之、」と、初めて藩側から金沢町中に「盆正月」を行

うように命令があり、町では躍り・相撲が行わ仏測・

重靖入国に際しては宝暦一一一年九月十一一一日に初めて「作り

物」が出乱仙、十代重教家督相続に際しては同四年一一一月二 十七・一一十八日に嚇子がなされ池、

そして、享和一一年八月一一十八日の十一一代藩主斉広初入国には、藩の財政難の影響からか、前出の通り初めて作り物などを出すことが禁じられた。ところが、落成した二九へ文化六年四月二十六日に斉広が移徒するに際しては、「遊

祝」として「盆正月」を命じて乢秘。この移徒は、祝儀能

開催が通知される以前のことである。およそ半世紀ぶりの「盆正月」では、左の史料の通りに町々において、作り物のみならず躍り狂言・俄・おどけ躍り、聯子まで加えて賑やかに祝福したことが知られる。前記有之候通廿六日朝御移徒、当町中同日翌廿七日両日遊祝申渡候、俗盆正月与云々、依之町之思ひノー作り物井躍り狂言致し賑敷奉祝、其あらまし左之通、 法政史学第六十九号

泉町挽山菊慈童の作り物、祇園ばやし(略)右之外品々略之、其外俄.おどけ躍り、嚇子物等色々、尤町家一軒毎に釣提灯灯し星の如く、殊之外賑敷事数十年以来与云々、「宮腰町にも廿六日・廿七日遊祝有之、「小松町廿七日・廿八日遊祝有之、その地域的範囲は金沢城下から港町宮腰、さらには隠居城のある小松町にまで広がっている。さらに、文化八年二月二十六日、家督・御殿落成祝儀能の終了後にも左に掲出する通り、「盆正月」のような賑わ

いが命じら払趨。

一一月廿七日、今般御城御造営御成就に付、昨日・〈7日町中盆正月賑ひ候様就申渡に、一町一町牽山築山之上に而踊狂言或大黒・武者・牛等之作り物、或一町中に□交幕を張り、店先に金屏風而已建廻し、或数百間松之流枝を棚の如くして、其下に休台等を置並べたる所も有、見物之貴賎群集、東武之浅草市に等し、悉難及楮筆賑ひ也、このときには、山車の上で踊り狂言や大黒・武者・牛などをモチーフにした作り物が披露され、町中の各店には店

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先に金屏風を建て、そこに見物所を設けるところもあり、その様子は浅草市にも匹敵する賑やかさであったという。遂に、文政五年十二月十四・十五日、最後の藩主十一二代斉泰の家督相続に際しても二日間の「盆正月」が行わ

仏晒。

このように、財政難で祝儀能が開催されなかった八代・十代・十一代の各藩主を除いては、六代藩主の享保八年以降、何らかの祝儀にあわせて、町方では「盆正月」が行われていたことになる。そして、この「盆正月」とは、藩主の代替わりなどの治世の改まりに対する町方の祝賀行為として、祭りの本来的な意味から発生し、鎮魂と再生の観念をもとに発想されたものであったと考えられる。この一八世紀前半の享保期の状況は、一八祇紀後半の延享期には藩が祝日を制定し、賑わいを強制する方向へ、同じく宝暦期には町方がそれを見世物化する方向へ進む。そして遂に、藩側は積極的に関わる姿勢を示さなくなる。ここに、藩側では意図して町人の習俗に、代替わりなどの儀礼の一端を担わせていた時期があったことが明らかであ

る。上述のことより、藩主の代替わりなどの儀礼には、礼楽思想に基づく秩序化の場としての祝儀能と祭りの本質であ

近世後期における入国儀礼と附祭(川上) 本稿では、大名統制策としての参勤交代を、大名は儀礼行為の中で存在が保証されるという観点から検討することとし、藩主と家中・町方とが関係する場をその素材とした。具体的な事例を金沢藩主の家督・就封儀礼とし、それについて、検討の場をその中心となる身分序列ごとに行われる御礼から、その前後に行われる祝儀へ移したことで、新たな知見が得られた。それは、祝賀行為には藩が主催する祝儀能と町人が行う盆正月とがあり、それぞれは礼楽思想と習俗という相反する性質のものでありながら、藩主が披露される儀礼の構成要素となっていた。藩主の承認が儀礼においてなされるのであれば、これらの祝賀行為を経た上で、統治者になるといえようCすなわち、近世後期の個別領主は、拝謁・御礼の服属関係で階層秩序を保っていたのに加え、非文字化された思想や習俗との親和によっても存立していたのである。 る鎮魂と再生の習俗に基づく盆正月と、この性質の異なる祝儀が内包されていたのである。

おわりに

(17)

(1)朝尾直弘「将軍政治の権力構造」(岩波講座「日本歴史」Ⅲ岩波書店一九七五年)・同「「公儀』と幕藩領主制」(歴史学研究会・日本史研究会編「講座日本歴史』5東京大学出版会一九八五年)。(2)大友一雄「日本近世国家の権威と儀礼」吉川弘文館一九九九年。(3)忠田敏男「参勤交代道中記l加賀藩史料を読むl』(平凡社一九九三年)。(4)家臣団は7つの身分に分けられる。すなわち、①人持組頭(八家)②人持③平士④与力⑤歩⑥足軽⑦小者である。④までが騎馬上、⑤までが士分である。士分のうち、③までが御目見以上、④以下が御目見以下であるs金沢市史」通史編2近世〈二○○五年〉一一七五~二八一頁)。(5)「諸作法之部」(「国格類聚」巻之十一川越能文庫一六.一一三’四五・〈「金沢市史』資料編4所収〉)。文化十年に書写役湯浅祇庸が編纂。(6)家督の手続きについては、十一代藩主治脩の事例を紹介した註4(一一一一一四~二一一一五頁)に詳しい。(7)これについては、家老兼若年寄前川図書が寛政九年に十一代藩主治脩の帰国道中を記した「御帰国御道中日記」(加越能文庫一六.二二’七六)に詳しい。(8)「加賀藩史料」第十一篇(前田育徳会一九三七年)一五四~一五五頁。 法政史学第六十九号

(9)『御規式井役者姓名」加越能文庫一六.九七’七二。(皿)長山直治「能と藩主l加賀藩一二代藩主前田斉広の場合l」(『石川郷士史学会々誌」第二七号一九九四年)。ここでは、文化八年の祝儀能について、ニノ九再建に協力した領民への謝意として、その披露を目的にした儀式能の開催と捉え、危機に臨んでの領民の一致協力とそれに応えての藩主の仁政であり、藩主と領民との紐帯を確認するセレモニーとして評価する。(Ⅱ)註8、七一一~七一二頁。(u)註8、八○五~八○八頁。(田)「文化八年御規式御能之一件」(註5,巻之十三。(u)註8、九七○頁、(巧)「加賀藩史料」第十二篇(前田育徳会一九一一一七年)七七~七八頁。(肥)註田。(Ⅳ)「舞正語磨」(万治元年〈一六五八〉十月六日の識語、秋翁著)では、翁を「祭如神在」と、「論語』の「八侑第三」を引用して説明している。『舞正語磨」は江戸時代唯一となる能の評判記昌舞正語磨」わんや書店一九五八年)。(型註9。(皿)拙稿「江戸城町人能の開口・演目と秩序l身分制社会の共同性空間l」(『法政史学」第六二号二○○四年九月)。(別)享保十年九月二十八日、六代吉徳の御家督井御入国御祝儀御能の開口(『御規式留」加越能文庫一六.二二’八)。 四○

(18)

(妬) グー、/ ̄へ〆 ̄へダーヘダーヘ

2524232221

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--ヘグーへ〆 ̄、/ ̄ヘ

34333231

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(別)「護国公御入国之留」加越能文庫一六.二二’五八。(釦)「加賀藩史料」第七篇(前川育徳会一九三三年)三 グーへ〆 ̄、

2827、-〆、-〆

近世後期における入国儀礼と附祭(川上)

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○グーヘ

七頁。

「加賀藩史料」第六巻(前川育徳会一九三一一一年)三三 (芸能史研究会「芸能史研究」’二二m万一九九八年)。 諏訪春雄「翁と二一番翌l芸能における来訪神の系譜l」 一三,1人

古川貞雄「村の遊びⅡ」平凡社一九八六年。文化二年の江戸H本橋界隈を描いた「煕代勝覧」絵巻な(江戸東京博物館展示図録「大江一,八百八町」二○○三 主註註註

34134

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註註註註1583030

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一○三八四八八七

頁五○二0/声P声一

夫諸侯に三シ乃宝あり土地人民政事とこそうけ継代々ハ久堅乃犬満神の末として万代猶松梅に折しも菊乃千歳まて越の白根乃本かたく恵も深き国とかや諸侯の三ッの宝の出所尽心ノ篇孟子H諸侯之宝三土地人氏政事

七八二頁。 三八一~一一一九一頁。

八三○頁。八○五~八○八頁。 四八川~囚九一頁。 (躯)「加賀藩史料」第十一一一編(前田育徳会一九三三年)二五七頁。なお、安政一一一年(一八五六)三月一・二日に開催された盆正月の番付の刷り物が残存する。町方では更に見世物化を進めながら継続されていたことが知られる。

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