家領の黒住教
著者 井ヶ田 良治
雑誌名 社会科学
号 76
ページ 31‑52
発行年 2006‑03‑03
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000009816
は じ め に
民衆の歴史を探ろうとする時︑新しい史料として裁判記録を用いた研究が目につく︒対象とする時代が古代であれ中世であれ︑はたまた近世であれ︑時代の如何を問わず︑英雄でも豪傑でもない︑名もない民が史料に残るこ とは少ないが︑例外的なのは︑為政者の禁制に触れ︑囚われたり︑過酷な吟味を受けたり︑追放刑や御仕置きを受けたりした民衆たちである︒当時の世間の常識からすると︑﹁世ばなれ﹂したり︑異能であったり︑ともかくも常人らしくない民として裁判記録に名を留めるからだ︒だが︑そうした非常人たちのなかに存外に民衆の真実が伺えるのではないか︒こうして︑裁判記録が民衆史の史料として取り上げられたのはさほど古いことではない︒異端審問の記録を用いた新しい民衆史の先駆ともいえる︑E・ル・ロア・ラドリエのEmmanuel le Roy
Ladurie,Montaillou--village occitan de 1294 │1324. ﹃モンタイユー﹄︵刀水書房︑一九九O年︶は多くの人に新鮮な歴史像を提供した︒魔女裁判の研究は古くから数多くあったが︑その多くは︑魔女裁判の苛酷さと拷問の残酷さを現代のファシズムなどの非人間性とかさね合わせ
近世後期における民衆宗教の伝播 │ │ 丹 後 田 辺 牧 野 家 領 の 黒 住 教 │ │ 井 ヶ 田 良 治
はじめに1.史料としての裁判記録2.文久二年の黒住教事件3.黒住教信徒の祈祷禁止令違反事件4.孝行介護と居村立帰り5.結びにかえて
た﹁告発﹂の歴史研究であった︒そのうちに︑文化人類学的関心からする研究が︑審問のむごさではなく︑その対象となった民衆の心性にようやく焦点をあてるようになった︒異端審問裁判記録ならざるエセックス州の国王刑事裁判記録のなかから︑英国の異端裁判を拾いだして︑英国の魔女の個人主義などの特徴を分析したマックファーレンAlan Macfarlane, Witchcraft in Tudor and Stuart England. ︵一九七O年︶も︑そのひとつである︒ 異端審問裁判記録そのものではないが︑国王の恩赦記録を分析したナタリ・ゼーモン・デヴィス Natalie Zemon Davis, Fiction in the Archives:pardon Tales and
Their Tellers in Sixteenth-Century France. ﹃古文書のなかのフィクション- 一六世紀フランスの恩赦嘆願の物語﹄︵平凡社︑一九九O年︶も同じく司法記録を用いた民衆史の秀逸として特筆してもよいであろう︒さらに︑民衆の心性の深みにまで堀り下げて︑歴史叙述から歴史学の新しい方法論にまで分け入ったのは︑カルロ・ギンズブルグ﹃ペナンダンティー一六︑七世紀の悪魔崇拝と農耕儀礼﹄︵せりか書房︑一九八六年︶であり︑その﹁人類学者としての異端裁判官﹂・﹁糺問裁判から民族誌へ﹂などの提言は︑歴史学の方法論上の刺激的な問題を読者に問いか けてくれる︒ 裁判記録を利用した民衆史は︑単に埋もれた民衆の姿を下から発掘するだけではない︒それは︑大きく人類の歴史全体を豊かにしてくれる可能性がある︒ジム・シャープの語るところをきいてみよう︒彼は語る︒﹁下からの歴史が︑下層階級のアイデンティティを確立するのにいかに大切なはたらきをするとしても︑それはゲットーから抜け出し︑歴史の主流を批判し︑再定義し︑強化するのに用いられなければならないということである︒・・・下からの歴史は︑・・われわれにも歴史があることを確信させてくれる︒しかしやがて時が立てば︑主流的政治史を修正し︑ゆたかにする重要なはたらきをすることになるはずである﹂︵ピーター・バーク編﹃ニュー・ヒストリーの現在﹄
人文書院︑一九九六年︶ 本稿はそうした方法に学んで︑日本の近世の裁判記録を用いて︑近世後期の民衆史の一こまをかいま見てみようという史料紹介の試みである︒
1 . 史 料 と し て の 裁 判 記 録
まず︑裁判記録についての関心が現在どうなっているか
をみておこう︒ 故河音能平氏の中世文書の機能論の提言以来︑中世の裁判記録に対して関心が高まり︑ 高橋一樹﹁鎌倉幕府における訴訟文書・記録の保管利用システム﹂︵﹃歴研﹄2002.1︶や同﹁鎌倉幕府訴訟文書の機能論的考察﹂︵﹃古文 書研究﹄54.2001.11. ︶など︑中世訴訟過程の研究が進んでいるが︑中世については︑紛争解決機関において作成された記録の残存するものは乏しいのが日本の実情である︒これに対して︑近世の紛争解決機関では︑恒常的に膨大な記録が作成されていたにも関わらず︑判決集・先例集・伺問答集を除き︑﹃御仕置例類集﹄を例外として︑紛争解決過程の記録の研究は︑幕府中央の機関はもちろん︑諸藩の裁許過程についても︑吟味・訴訟の記録に関する研究は︑いかにも乏しい︒わずかに最近に︑ 安藤正人﹃江戸時代の漁場争い│松江藩郡奉行所文書から│﹄臨川書店や︑同氏の御徒文書の一件袋整理作業の成果である︑同氏﹁松江藩郡奉行所﹃民事訴訟文書﹄の史料学的研究﹂︵高木俊輔・渡辺浩一編著﹃日本近世史料学研
究│史料空間論への旅立ち﹄北海道街学図書刊行会所収︶などを通じて︑安藤正人氏が先駆的な文書機能論的業績を発表されているにすぎない︒ そこで︑筆者がこれまで調査し︑裁判史研究会で一部の活字化をおこなってきた︑丹後田辺牧野家領の裁判記録を素材に民衆の歴史史料を探ろうというのが本稿の趣旨ということになる︒さまざまな事件が取りあげうるが︑近世後期の民衆宗教としての黒住教の伝播をとりあげることとする︒というのは︑教祖や教壇の正式の言説だけでなく︑その教を受容した民衆の側からの信仰情況に触れることができると考えたからである︒ この史料群は︑現在﹃丹後田辺藩裁判資料﹄と名付けられ︑綾部市立図書館に蔵されているが︑その詳細については︑筆者と岩野英夫氏との共同研究﹃丹後田辺藩裁判資料の研究﹄︵科学研究費補助金一般研究︵C︶研究成果報告書︑
一九九三年︶を参照してほしい︒ここでは︑別稿の繰り返しになるが︑行論の理解をたすけるために︑簡単に﹁資料﹂の特徴を紹介しておきたい︒ 丹後田辺牧野家は三万五千石の譜代大名で︑当該史料群はその郡奉行所の記録である︒牧野家は︑初代親成︵チカシゲ︶が寛文頃の所司代︑ついで寛文八︵一六六八︶年田辺藩主となり︑三代英成が享保の頃に寺社奉行加役・所司代となり︑五代維成︵コレシゲ︶が安永年間寺社奉行となるという︑司法関係にかかわりの深い譜代大名の
家柄であった︒京都府立総合資料館に寄託されている牧野家領郡奉行役所文書︵谷口房治家文書︶によると︑﹁寺社御奉行御加役中御手留之類﹂とか︑﹁文化十︵一八一三︶酉年江戸屋舗ニ而御手留の類︑林六三郎郡奉行勤務中御預り申帰候節︑役向見合候分︑荒増旧記方ニ而抜書致置候処︑今文政六年二月□為致置︑臼井忠之丞調﹂などという書き込みにみられるように︑自藩の裁許に幕府中央の裁判実務を参考にすることに熱心だった藩である︒代官の公事出入吟味物については︑すでに別稿︵拙稿﹁丹後
田辺藩郡奉行代官の地域支配﹂同志社大学人文科学研究所﹃社会科
学﹄第七二号︑二OO四年︶に紹介してある︒代官吟味以外の郡奉行役所の記録としては︑公事出入吟味物日記と公事出入伺進達控がある︒公事出入吟味物の一件ごとの法廷日誌とでもいえる﹁公事出入吟味物日記﹂は︑文政六︵一八二三︶年から明治四年までの公事出入事件関係一四二件︐吟味物一四三件がある︒また︑吟味詰となった時点で奉行から御用番家老に伺い決済を得る伺進達文書の控が﹁公事出入吟味物伺進達控﹂であるが︑これは文化一O年︵一八一三︶から明治三︵一八七O︶まで︑約三五O件分を数えることができる︒以後︑前者を﹁日記﹂︑後者を﹁書類﹂または﹁進達控﹂と略称しよう︒ 文政五年までの﹁日記﹂から︑吟味物︵刑事事件︶の判決のみを抜き書きしたものが﹁刑罪筋日記抜書﹂と呼ばれ︑享保一O︵一七二五︶年から文政五︵一八二二︶年分まで︑計一八巻︵谷口房治家文書の内︶がある︒﹁日記﹂から抜き書きした時点で︑﹁日記﹂そのものは廃棄されたと考えられる︒現存の文政六年以後の日記は︑抜き書きをしないままに明治維新を迎えた結果︑思いがけなく今日に残存したものと思われる︒ 文書主義の行政国家ともいうべき律令制の伝統をもつ日本では︑平安鎌倉の時代から︑裁判にあたって多種多様で詳細な記録が作成されていたようである︒しかし︑その現物は残念ながら現在殆ど残存していない︒公家法でいえば︑裁許にあたって詳細な明法勘文が作成されていることはよく知られている︒裁許の際でも︑まず事書・訴陳状の要点・勘判︵法源・勘判︶が書かれ︑それをもとに陣定で裁許の論議がおこなわれていたと思われる︒陣定で判決案が決まると︑官宣旨が出され︑宣旨が出される︒ 鎌倉幕府の場合でも︑引付奉行の手で問注記が作成され︑それを準備資料として引付沙汰がおこなわれ︑その記録として引付記録︵日記︶が作成される︒それを素材
として︑引付衆の評議の結果引付勘録事書が作成されて︑評定へ提出され︑評定衆による評定沙汰がおこなわれ︑引付勘禄事書が承認されると︑頭書︵﹁無相違﹂と記すという︶を加え︑判決原案にあたる評定事書となる︵勘判︶︒こうして︑奉行の一員の手で裁許下知状草案が起草され︑引付方で審議︑添削の上︑裁許下知状原本︵下知符案︶が作成された︒こうした複雑で詳細な記録で現今残存しているものは皆無に等しい︒このように文書主義の裁許制度では︑詳細な記録が作成されているのだが︑現在ではその実物をみることは殆どできない︒この記録作成の伝統が江戸幕府に受け継がれたとすると︑近世には︑古代中世にもまして︑膨大な記録が作成されたものと推測できる︒実は︑丹後田辺藩裁判資料は︑その近世版なのである︒その点で日本の裁判史研究上︑近世のみならず︑古代中世のそれを推測させる貴重な史料なのであるが︑その全面的検討については︑今後に残さざるを得ない︒本論では︑その民衆史の史料としての効用を考えるにとどめたい︒
2 . 文 久 二 年 の 黒 住 教 事 件
丹後田辺牧野家領では︑領外からの布教宗教者の立ち入りに異常なまでに神経質であり︑文化八︵一八一一︶年には次のような触れを出している︒﹁近来諸国より社僧社人類多く入込︑色々奇説申触︑勧化寄進等相勧︑村々ニ而取次世話人等相頼祈祷旦那等抔と唱へ候様相聞候︑以来伊勢河守御師御免勧化之外︑急度御差留被仰付候間︑右様之者罷越候はゝ徘徊差留早々番人へ申付︑御領分送り出可申候︵以下略︶﹂︵﹃御用書留帳﹄安久家文書︑﹃舞鶴
市史﹄通史編上︑八五九頁︶︒この触れがその後長年にわたって厳格に遵守されていたとはいえないが︑佐土原藩の修験者泉光院野田成亮が文化十一年に全国廻国の途中に当地を訪れた時︑その日記に﹁田辺は日本一の御倹約被仰出︑他国の諸山嘉例の御祈祷其外配札他国の托鉢修行の人決していれず︑七ケ年の間右の通りの由︑因て国内段々凶事発り︑当文化十一年七月廿七日廿八日の両日田辺領内の山くずれにて田地壊れ其数を知らず﹂と記している︵﹃日本九峰修行日記﹄日本庶民生活史料集成第二巻︑﹃舞鶴市史﹄通
史編上︑八六一頁︶︒少なくとも文化十一年段階では︑触れの趣旨が生きていたことがしられる︒ 幕末にはこの触
れも緩んだのであろうか︒文久二︵一八六二︶年に領民の間に新しい民衆信仰の動きが現れた︒ 同年四月十八日︑二つの事件に就いて郡奉行役所で吟味が開始された︒ひとつは︑﹁河原村吉兵衛悴政助奇怪申触候一件﹂︵三四九︑この番号は同史料群の目録番号である︑以後検索のため同様に表示する︶︒もう一つは︑﹁千原村百姓惣三郎外拾人祈祷いたし候吟味一件﹂︵三五O︶︑である︒後者が黒住教関係の事件であるが︑この二件は︑吟味取りかかりも四月一八日と同日であり︑裁許も九月五日と同日であることから︑牧野家では同種の事件として︑共通の基準で裁許しようとしたものであろう︒その証拠に︑後者について奉行役所の吟味が詰み︑御用番家老の求馬殿に裁許原案を伺ったのが八月六日で︑その間実に四ヶ月の時間をかけて検討したものとみられる︒前者は︑後者の伺いが御用番で承認された後の八月廿六日と︑前者より二十日遅れて御用番に伺い︑前者とともに九月五日に裁許の申し渡しをおこなっている︒こうした郡奉行役所の慎重な取り扱い方からみて︑この間に︑この種他国宗教者の布教にたいする藩としての方針をあらためて固めたものと思われる︒その契機となったのか︑最初の黒住教の事件だったのてある︒ 第一の黒住教事件の内容に入る前に︑政助の事件について概略をみておこう︒担当奉行は内海雄右衛門であるが︑四月十八日に政助を奉行所に呼出し︑糺した上で吟味中町宿預けとし︑四月廿五日に再び評席に呼出し︑雄右衛門が吟味し︑五月十二日には吟味所で一件を糺し︑五月十三日に﹁町宿預差免︑他国出留﹂を申し渡した︒九月五日に申し渡された裁許の内容をみると︑政助は﹁先年丹波天座稲荷神主松田要より稲荷下ケ唱祈祷受伝授之後︑大川村長門より御厩祈祷譲受罷在候に付﹂頼みに任せて各所で稲荷下ケをしてやっていたという︒﹁神職ニも無之上者﹂︑たとえ祈祷の権利を譲り受けたとしても︑猥りに加持祈祷などをできる身分ではなく︑ことに︑稲荷下ケは﹁奇怪之筋﹂にも相当り﹁旁不埒ニ付﹂︑急度申しつけるべきところ︑﹁全く心得違之趣にも相聞候付﹂︑﹁此度之義者不及沙汰︑以来右稲荷下ケ其外牛馬祈祷たりとも差留候間︑神職ニ紛敷義致間敷候﹂と︒これが裁許の趣旨である︒ 奇怪祈祷について幕府の態度をみると︑享保十二年に禁止触れ書きがあり︑御定書ではその五十三に﹁新規之神事仏事并奇怪異説御仕置之事﹂があり︑その﹁添候例書﹂の六に︑江戸払いの伺に対し︑御差図として﹁奇怪
異説申触候もの江戸払之御定ニ候ハ︑拵事を致︑或いは少之事を色々取繕申立候もの共之事ニ候︑﹂としている︒この事件の被告について幕府としては︑﹁有躰を不申迄之儀ニ候︑江戸払いに不及︑過料可申付事﹂と軽い咎としている︒政助に対する寛大な裁許は幕府のこの例にならったものであろう︒ 次に黒住教事件に移ろう︒前述のように吟味取りかかりは四月十八日であったが︑その評席に出廷したのは︑立合内海雄右衛門・平井四郎左衛門の両人である︒ともに郡奉行で︑雄右衛門が本事件の掛り奉行である︒調方︵江戸幕府の町奉行所の公事方の与
力にあたる︶二人︑小頭二人︑添勤二人︑同心出人二人が列席し︑被疑者は︑千原村から百姓惣三郎以下五名︑尾藤村から清右衛門以下五名︑常津村から松五郎と五右衛門の両人であり︑﹁その方共祈祷いたす趣相聞︑始末委細可申聞﹂と口頭で掛り奉行の雄右衛門が糺し︑その答えを聞いた後︑一同を村へ返した︒四月二十一日︑﹁千原村惣三郎外十人致祈祷候一件﹂という﹁頭書﹂が御用番家老に提出されて正式に裁許手続きにはいったのは廿一日であるが︑それにはわざわざ﹁四月十八日出﹂と︑添え書きして︑裁許手続きの開始日が十八日であること を明確にしている︒日記はそれから五ヶ月後の閏八月六日に跳んで︑同日﹁右一件取調候付︑申渡書を以︑御懸り求馬殿江申上候事﹂とあり︑ここで︑奉行役所の作成した裁許原案が御用番の家老に上申されていることがわかる︒日記でみるかぎり︑凡その刑事吟味物の裁許は︑一月足らずで︑長いものでも二ヶ月位が普通である︒本黒住教事件の裁許が︑最初の吟味から裁許原案伺まで五ヶ月の長期間かかったのは︑奉行役所及び藩の中枢が民衆宗教の祈祷行為について基本方針を策定するのに苦慮し︑評議を重ねたからだと推察されることは先に述べたとおりである︒ようやく九月五日に︑被告らが呼び出されて︑雄右衛門が裁許を申し渡した︒ 申渡は口頭でおこなわれ︑日記はそのままを文章化して記録している︒ ﹁其方共義︑神道者伯州笹間新右衛門と申者え︑致入門︑請伝授候迚︑病人回復祈願いたし遣候義者︑神職ニ紛敷百姓之身分不埒ニ付︑急度可申付処︑畢竟礼物等貰請利徳ニ抱り候義ニも無之間︑此度之義者不及沙汰︑以来急度差留候間︑神職ニ紛敷義致間敷候︑右申渡趣一同証文申付﹂
当初︑吟味をうけたのは十二名であったが︑裁許の白州に呼び出されたのは十名であった︒それは︑﹁右之外︑尾藤村利兵衛・常津村五右衛門吟味之節者呼出候へとも︑無構ものニ付︑落着之節相除候事﹂とあるので︑二名は咎めをうけなかったことがわかる︒罪状は︑神職にあらざる百姓の身分で︑祈祷をおこなったことである︒ただし︑依頼者から礼物などをうけとっていないので︑今回は﹁沙汰に及ばない﹂︑これが裁許の趣旨である︒そして︑以後の祈祷を禁止することで︑事件は落着した︒ 推測するに︑田辺藩では︑この時に︑黒住教などの民衆宗教は︑本人や家族などの祈りそのものは咎めず︑神職に紛らわしい祈祷行為︑とりわけ神職などの宗教身分にあらざる百姓が礼銭をうけとるのは︑職業身分制度に抵触するものとして処罰するという原則を新たに立てたものと思われる︒したがって︑礼銭を取らない惣右衛門以下の祈祷は︑沙汰に及ばず︑咎のかぎりではないとしたのである︒しかし︑公衆への黒住教の祈祷行為は奇怪な宗教行為として以後禁止し︑それに違背したものは処罰する旨を申し渡したのである︒
3 . 黒 住 教 信 徒 の 祈 祷 禁 止 令 違 反 事 件
黒住教の祈祷を禁止はしたものの︑領民の間では︑災害や病に苦しむ人がたえなかった︒とりわけ︑病に苦しむ人々は︑禁令を冒して︑黒住教の先達に救いを求めたであろう︒かくて第二の事件かおこった︒禁令の出た翌年文久三︵一八六三︶年のことである︒﹁千原村百姓惣三郎・助右衛門祈祷いたし候吟味一件﹂︵三六一︶である︒この事件は六月六日に取りかかって︑七月廿五日には落着しているから︑その間わずか二ヶ月である︒六月六日の五ツ時に惣三郎を呼出し︑懸り奉行城所次郎兵衛が相奉行平井四郎右衛門とともに︑﹁其方義︑先年差留置候処不相用︑祈祷いたし候趣相聞︑始末有体申聞﹂と尋ね︑一通り相糺したうえで︑町宿鍋屋平左衛門に預けた︒ついで︑助右衛門を呼出し︑同じく吟味した︒四ツ時に再度両名を呼出し︑再度次郎兵衛が相糺した上︑吟味中助右衛門は入牢︑惣三郎は元のとおり町宿預けとした︒十日︑﹁千原村惣三郎外壱人︑差留申候義を不相用︑神職ニ紛敷義致し候一件吟味﹂という吟味物頭書が半折に書いて進達された︒翌十一日四時に両名を評席に呼出し︑一人ずつ︑懸り奉行の次郎兵衛が相糺し︑助右衛門は元
のように帰牢︑惣三郎は︑手鎖の上町宿預けとした︒六月廿二日には九ツ時に両名を調方吟味所に一人ずつ呼出し︑調方以下で相糺した︒それから一ヶ月は︑恐らく奉行所内で評議を重ねたのだろう︒御仕置き付や類例などは残っていないが︑御用番家老の求馬殿への伺書を上進したのが︑七月廿一日で︑廿四日には︑家老からの御下知があるものとして︑廿五日の一件落着を予定して︑両人を呼出し︑千原村の属する川口東の代官も出廷させたうえで︑口書に署名捺印させ︑五ツ時から白州で裁許を言い渡した︒ まず︑惣三郎と助右衛門の口書をみよう︒黒住教の伝播の様子がリアルにわかる︒﹁惣三郎申上候︑田畑高五石余所持︑家内四人相暮罷在候︑然ルニ︑去ル申年︵万延元︶二月中頃と覚︑私相煩居候処︑宮津御領河守明石屋五兵衛と申者方江︑但馬国和田多大之進参り居︑宗忠明神呪いたし︑殊之外利生有之由申聞候之者有之候ニ付︑私方え相招き呪いたし貰ひ講釈等承り候処︑右宗忠明神者︑元備前国吉備津宮神職黒住左京藤原宗忠と申者ニ而︑同人病気之処︑天照皇大神宮御利生ニ而病気平癒いたし︑夫より右呪相始り候由︑右左京死去後 神ニ祝ひ籠︑其後吉田家より明神号被差免候趣︑右明神信仰之者は神文いたし︑執心ニ寄︑天心・本御鬮・下御鬮・賞書と四段之免許有之︑右許状貰ひ候者は呪講釈いたし候事之由相噺︑兼而利生請候付︑神文差出祈念いたし候処︑賞書・下御鬮迄貰ひ請︑然ル処︑去ル酉年︵文久元︶二月頃と覚︑伯州笹間新右衛門と申者右呪いたし候者之由ニ而︑私方江参り候付︑是又講釈等承り︑夫より同人丹波辺江参り候付︑六日程附添罷在︑尚又色々咄承り候付︑其後親類近所又者無拠方より被頼候節者︑呪いたし遣居候処︑昨戌年︵文久二︶四月受御吟味候付︑右之始末申上御吟味中之処︑同七月廿八日と覚︑但馬より丹波黒井村江免許無之者参り居候由︑同国伊崎村塩見六右衛門と申者より為知越候付︑罷越対談いたし候処︑用事ニ而参り候者の由ニ付︑其儘差置其辺逗留いたし罷在候内︑祈禱頼参リ候付︑御吟味中如何と存候得共︑いたし遣︑且又同八月十八日と覚︑丹波殿村ニ呪いたし候者有之︑日々五六百人之人数参詣いたし候間︑御洗米等私ニ拵候而者︑神慮ニも不叶候間︑改ニ参り候様︑丹波私市村に罷在候中林貢之助と申者より申越候付︑助右衛門同道同所迄参り候処︑長
ずなと申所より右貢之助を呼に参り候付︑殿村者相止︑長ずな之方江名代ニ罷越候様被頼候付罷越︑夫より有岡・岡安・向田辺彼地此地呪いたし歩行︑閏八月初旬帰村仕︑猶又同月中高津江村親類吉三郎方より頼越候付︑罷越いたし遣し候処︑同九月五日御差留被仰付候間︑親類近所等より相頼候節者無拠いたし遣し候得共︑其余者相慎ミ罷在︑然ル処︑当正月廿二三日覚︑名前不覚︑綾部町方より頼ニ参り候付︑恐入候義と候得共︑使之者同道罷越︑作州三ツ石半兵衛と申者同席ニ而一夜講釈呪等仕候処︑同所役人より差留候付︑夫より福知山町方并土村ニ而一夜ツヽ同様いたし罷帰り︑其外名前不覚候得共︑河守之者昨春より当春迄ニ三四度罷越候付︑呪いたし遣し候義ニ而︑右何れも祈祷講釈いたし遣し候節者︑拾弍銅より壱朱五匁位︑亦者品物等ニ而志之謝礼貰らひ請候義ニ御座候処︑此度右始末御吟味請︑恐入候義に御座候︑﹂﹁助右衛門申上候︑私儀田畑高八斗余所持いたし︑家内七人相暮罷在候︑然ル処︑先年来私病気ニ付︑色々療治等手を尽し候得共︑兎角不宜折柄︑去ル申年二月頃と覚︑河守町方ニ住居いたし居候弟田丸屋 吉助と申者罷越︑宗忠明神呪いたし候者蓼原村江参り居︑利生有之候付︑是非罷越候様︑相進メ候付︑罷越講釈承り︑呪等いたし貰ひ候処︑追々快相成︑難相成義と存居候折柄︑但馬国和多田大之進と申者前書惣三郎方罷越候付︑猶又講釈等承り候処︑右惣三郎申上候訳柄ニ付︑其節私始家内中神文差出祈願いたし居候折柄︑去ル酉年正月中伯州笹間新右衛門と申者河内表江罷越候付︑妹頼ニ参り講釈承り猶々祈念いたし候付︑賞書貰らひ請︑折々呪等もいたし候処︑昨戌年四月中御吟味ニ相成︑夫より御差留ニ相成候迄之義者︑前書惣三郎申上候通︑且又当三月初旬福知山町方名前不存者ニ出逢候所︑水間村庄屋角右衛門方江参り呉候様申候付︑罷越講釈呪等いたし遣候処︑村内より追々頼ニ参候付︑罷越︑右同様いたし遣七八日斗りも罷在候内︑喜多村伊助殊之外信仰いたし︑神文差出呪いたし呉候様相頼候付︑いたし遣し候処︑暫連歩行呉候様申候付︑夫より同人同道︑一々名前不覚候得共︑和江村・蒲江村・八戸地・八田村・下漆原村・女布村・高野由里村・引土村等頼越候方江罷越候処︑追々参詣又者呪頼候者も有之候間︑講釈呪等いたし遣し︑是又七八日罷在︑
夫より長浜村之内五ツ森五右衛門方へ罷越︑前同様いたし遣︑行永村林右衛門よりも頼越︑前同様講釈呪等いたし遣し候処︑是又信仰いたし祈願之ため二三日附歩行度申聞︑兼而佐波賀村清左衛門より呼使参り候間︑右使并伊助・林右衛門同道︑当町方江出︑夫より船ニ而同村江罷越呪いたし居候処︑名前不覚上安久村より迎ひニ参り候間︑河辺中村井之允よりも頼越候得共︑日数も相立候付︑一先帰宅いたし度︑相断︑上安久村江罷越︑前同様いたし遣一宿罷在候内︑右井之允より是非参り呉候様使参り候間︑無拠罷越︑是又講釈呪等いたし二宿罷有候処︑追々近村よりも参詣又者呪等頼ニ参り候者有之︑井之允不快も少々快由ニ而信仰いたし候付︑色々相噺候内神文差入候得者猶宜︑且又湯ニ入︑月代いたし︑身を清め訴願いたし候義者︑可然事ニ候得共︑薬を飲候而者惑候訳ニ而︑神慮ニ不相叶抔と聞及候事相咄置︑夫より瀬崎村よりも頼越候間︑参り掛候処︑同人も参り度由申候付︑同所峠迄参り掛候処︑先方より断ニ付︑途中より引返︑大丹生村ニ而同人と別れ︑林右衛門・伊助同船当町方迄罷帰り一宿いたし︑翌日林右衛門は帰村いたし︑伊助ハ送呉候付︑同道帰 宅いたし︑同人も帰村仕候義ニ而︑右所々歩行候内︑呪等相頼候者江神文差出可然旨相咄候処︑追々差入候得共︑多分之義名前覚不申︑且又右講釈呪等いたし遣候者より拾弍銅より弍三匁迄志之礼物貰請候義ニ御座候処︑此度右始末御吟味請︑恐入候義ニ御座候﹂この被告人の申口の記録は︑中世でいえば︑準備のための﹁問注記﹂に該当するものであり︑吟味の上の事実の摘要とでもいえる︒そのなかの罪状にあたるものを両人が認めて︑吟味詰となった︒惣三郎と助右衛門の両人は七月廿五日に︑次のごとく犯罪事実をみとめた︒﹁右之通︑銘々申立之候処︑被仰聞候者︑先年以来︑宗忠明神呪と唱江家内ニ右神号を祭り︑冷水を供江︑病者ニ為飲︑又者湯気を吸吹掛抔いたし祈祷いたし候付︑昨戌年九月中差留置候処︑猶又其以来惣三郎者丹波辺所々ニおいて怪敷義説︑祈祷いたし︑於御領内も親類近所任頼ニ祈祷いたし︑其毎拾弍銅より壱朱五匁︑又者品物等謝礼ニ貰請︑助右衛門者御領内所々ニおゐて︑是又同様祈祷いたし︑夫々謝物貰請︑或者神文を進め其門類ニ引入︑又者怪敷を説候より重病之者入湯月代いたし候仕義および候段︑一
同百姓之身分農業を疎ニし︑諸人を惑し︑神職ニ紛敷いたし方︑殊ニ一旦差留候義を不相用候段︑別而不届之旨受御吟味︑申披無御座候﹂この口書によって︑当時の黒住教の伝播の実態と教団の布教組織を伺うことができる︒惣三郎は持高五石︑助右衛門は持高八斗の零細な小百姓であり︑ともに︑入信の動機は病であった︒他の祈祷依頼も殆ど病の治癒であり︑そのため︑神文を勧め︑水を供えてそれを飲ませたり︑重病者は湯に入れ︑或いは湯気を吸って吹きかける︑さらには月代を剃る等の所作をおこなうのが治療方法であった︒その伝播の道筋は︑最初の和田多大之進は但馬からの来訪であり︑さらに伯州笹間新右衛門が文久元年に訪れている︒おそらくは備前・美作の黒住教の本拠から︑伯耆・但馬へと教線をのばしてきたのであろう︒また︑黒住教の教団の組織の仕方をみると︑故宗忠が神格を得た後は︑明神信仰として︑神文をいたすとある︒﹃黒住教教書﹄の御年譜をみると︑﹁神文﹂として﹁忝天地同躰之本心不乱様可致修行者也﹂︵﹃黒住教教書﹄四三一頁︶という簡単なものから︑﹁掛麻久母惶伎 日大御神御直伝鎮魂之大道に入門仕御講説御伝授共被為成下御神恩冥 加至極難有仕合奉存候然上者以丹誠堅御神教相守生涯変心仕間敷候若相背者可蒙御罰者也︑仍神文如件﹂︵同前書
四六三頁︶のように長文のものなど︑さまざまである︒要は入門宣誓といえる︒入門し修行をかさねると︑信仰と修行の深さによって︑許状が発行される︒許状には天心・本御鬮・下御鬮・賞書の四段があり︑許状を貰ったもののみが呪や講釈をすることができた︒つまり︑免許授与者のみが治療や布教をすることができるのである︒惣三郎は三段目の下御鬮を免許され︑助右衛門は賞書を請けて呪講釈をおこなっていた︒免許のないものが勝手な祈祷をおこなったり布教をしたりすると︑﹁神慮にも不叶﹂と︑それを止めるように惣三郎たちが気をくばっている様子が口書からうかがうことができる︒教団内の統制は︑とくに奇怪な祈祷とみなされて弾圧されるのを避けるためであろうか︒惣三郎は主に河守から南の丹波一帯を︑助右衛門は︑由良川下流域及び舞鶴から北一帯を布教している︒助右衛門の方が領内担当だっただけに罪状が重かったのであろうか︒略地図を参照してほしい︒○で囲んだ村が惣三郎と助右衛門の関係した村であり︑藩の全域にわたっていたことがわかる︒
黒住教丹後伝播地図
七月廿五日に次のように申し渡しがおこなわれて一件は落着した︒﹁其方共義︑先年以来宗忠明神呪と唱︑家内ニ右神号を祭り︑冷水を供江︑病者ニ為飲︑又者湯気を吸吹掛抔いたし︑祈祷いたし候付︑昨戌年九月中差留置候処︑猶又其以来惣三郎は丹波辺所々ニをいて怪敷義を説︑祈祷いたし︑於御領内茂︑親類近所等任頼祈祷いたし︑其毎拾弍銅より壱朱五匁︑又者品物等謝礼ニ貰ひ請︑助右衛門は御領内於所々︑是又同様祈祷いたし︑夫々謝物貰ひ請︑或ハ神文を進め︑其一類ニ引入︑又者怪敷義を説候より︑重病之者入湯月代いたし候︑及仕義候段︑一同百姓之身分農業を疎ニし︑諸人を惑し︑神職ニ紛敷いたし方︑殊ニ一旦差留候義を不相用候段︑別而不届ニ付︑惣三郎者所払︑助右衛門者田辺払申付︑構場所読之︑但惣三郎︑者千原村并御城内徘徊致間敷候︑助右衛門構場所徘徊致間敷候︑右申渡趣︑一同証文申付﹂裁許は口頭で︑懸り奉行の城所次郎兵衛が申し渡した︒被告両人が爪印︑捺印した請書に附添人の村役たちが奥書署印したうえで︑美濃紙に書かれた助右衛門の﹁構場 所書付﹂が手渡された︒それには︑田辺払構場所として﹁京橋︑大野辺より内︑高橋︑大内町︑築地︑吉原町︑千原村︑右之場所徘徊すべからざる者也﹂と記されていた︒このように藩の禁令にもかかわらず︑民の病苦や悩みが深いかぎり︑民衆宗教の伝播はとどまらなかったのである︒ 黒住教の思想史的研究は︑すでに村上重良氏の解説﹃日本思想大系︑民衆宗教の思想﹄に詳細であり︑民衆宗教思想については︑新しい観点からする桂島宣弘氏の﹃幕末民衆思想の研究﹄がある︒民衆の受容に力点をおき史料の紹介を主とする本稿としては︑教団の宗教思想については︑筆者にその用意もないので︑それらの参照を読者に期待するにとどめたい︒
4 . 孝 行 介 護 と 居 村 立 帰 り
惣三郎や助右衛門が居村を追放されてから二年︑慶応元︵一八六五︶年の暮れ︑両人が禁止されている居村に時々帰っていることが発覚した︒第三の黒住教事件である︒前二回の事件については︑﹁吟味物日記﹂だけが残っていたが︑今回の事件については︑反対に﹁公事出入吟味物伺進達控﹂だけが残っている︒吟味詰になった後︑奉
行所の評議を経た裁許原案の伺が奉行から御用番家老に進達され︑裁可を得ることとなるが︑第三の事件に関しては︑日記は隠滅し︑進達控のみが残ってるのである︵公
事出入吟味物進達留21│8︶︒しかし︑事件の内容とそれに対する藩中枢・奉行役所の対応の詳細は﹁書類﹂︵伺進達控︶の方がよくわかるのである︒別稿﹁丹後田辺牧野家領の刑事吟味﹂︵未刊︶にも記したように︑﹁伺進達控﹂は︑吟味と申口を基とした事実の摘要︑犯罪事実にはじまり︑附札による罪状判断︑御定書に照らした御仕置付︑類例︑見合例︑という構成となっているが︑本件については︑恩赦が加わっているので︑さらに恩赦の例をも引用している︒ 事件名は︑﹁元千原村惣三郎︑助右衛門御構場所徘徊いたし︑其上祈祷呪等いたし候一件﹂となっている︒文久三年に追放刑となった両人は︑それぞれお構場所とされる居村に立ち帰っており︑さらに祈祷呪をしていた︒その風聞を聞きつけて︑組の者の手で召し捕られ︑吟味をうけた︒当時惣三郎は尾藤村の百姓家に︑助右衛門は尾藤村の百姓家にそれぞれ厄介になっていた︒両人が吟味のため入牢させられたのは︑十月廿二日である︒両人 の吟味の結果をみよう︒
﹁惣三郎︵三拾九歳︶吟味仕候処︑・・・・︵文久三年︶御仕置被仰付︑夫より尾藤村理兵衛義者︑此者本家五郎兵衛子方之者ニ而︑至而懇意ニ付︑相頼厄介ニ相成︑同人方ニ而百姓いたし罷在候処︑千原村ニ者女房てる・幼年之悴而已罷在︑迚茂耕作等者難出来候付︑多分為致下作居候間︑甚無心許折々者夜分密ニ罷越︑一日も逗留︑或一宿等いたし︑何角心添等いたし遣︑未明ニ前書理兵衛方江帰り︑同人江者近所朋友之方ニ泊候様申成︑彼是時日茂相立︑数度之義ニ茂相成候間︑月日者聢と覚不申︑然ル処当六月中父長喜大病取結候由申越候間︑夜中密ニ見廻ニ参り︑折々者罷越看病等いたし遣候内︑終に死去いたし候間︑其節も罷越世話等いたし︑其後引続母共相煩候付︑前同様折々者見廻看病等ニ罷越候︑且亦昨子年二月九日︑峰山金毘羅江参詣之途中千原村常八と申者ニ出会候処︑同人義茂参詣いたし度由申聞︑即同道いたし︑宮津御領分四ツ辻村米屋七右衛門と申者懇意ニ付︑同人方ニ一宿いたし︑翌十日金比羅江参詣之上︑同所御家中土田直記と申仁者廻縁ニ付︑
一宿いたし︑十一日罷帰り候途中︑以前心易クいたし候但馬住窪田庄四郎と申者ニ出会候処︑京都江上り候様申聞候間︑同道いたし︑前書四ツ辻村角屋庄右衛門方江右峰山御家中直記娘縁付居候而廻縁之者ニ付︑一宿いたし候処︑庄右衛門弟菱屋何某之女房病気之由ニ而︑窪田庄四郎此者江宗忠明神江祈願之上︑呪いたし貰度由申聞︑此者義者直記方ニ而茂兼々被頼居候間︑不得止事︑右菱屋方江罷越︑呪いたし遣候処︑絹切三尺計謝礼ニ貰請︑同十二日帰村いたし︑其後去る十月十六日宮津御領外宮村梅原忠右衛門方ニおゐて三丹御影と唱へ候講有之︑宗中明神信仰之者参詣いたし候義ニ付︑此者茂罷越候得共︑親共服中ニ付︑祈祷者一切不致︑無拠被相頼候義差図いたし候而罷帰候︑同廿一日前書申立候通り︑母共見廻ニ参り候序ニ︑元居宅江立寄居候処被捕︑此度右始末吟味請候義之旨申之候﹂惣三郎は︑本家の下作人である尾藤村の理兵衛の家に厄介になり︑農作業に従事し︑時々居村の自宅へ帰って女房子供の面倒を見︑時には一泊し︑父が病気になると看病に︑亡くなると葬式の段取りに帰村し︑母が病に倒れると︑又々看病に帰村したという︒尾藤村は居村の隣村 であり︑夜陰に紛れて往復するのは至極容易であったろう︒祈祷呪にしても︑専ら領外ではあるが︑丹波の各地へ旅行し︑活動していたことが知られる︒では助右衛門の方はどうであったか︒﹁助右衛門︵五十五歳︶吟味仕候処︑元千原村住居罷在候処︑去る亥年差留置候義を不相用︑祈祷いたし候義ニ付︑吟味之上同年七月中払仕置被仰付︑夫より尾藤村瀬右衛門者︑本家安兵衛親類ニ而廻縁ニ付︑右瀬右衛門方ニ厄介と相成候得共︑平生疝積ニ而百姓働者いたし兼候間︑河守新町田丸屋吉助者此者弟ニ付︑同人方ニ而猪子揃亦者被雇候而相暮罷在候処︑老母有之︑老病ニ而此者事而已苦労ニいたし候旨︑申越候間︑不得止事︑右瀬右衛門ニ者内々ニ而夜分密ニ見廻ニ罷越︑折々者一両日茂逗留いたし︑看病等いたし遣候義︑彼是度々ニ相成︑月日等者聢と覚不申︑然ル処︑昨春三月頃水間村長左衛門夫婦連四国遍路ニ罷出候節︑此者元居宅江立寄︑十四五日茂逗留いたし候処︑同村七右衛門者右長左衛門女房之弟ニ付︑右礼旁罷越候より心易相成︑当六月十四日者氏神祭礼日ニ付︑祭礼者無之候得共︑参り呉候様申越候間︑罷越︑同人方ニ而種々馳走ニ相成
候上︑右氏神江参候︑同村源左衛門ニ出会可罷越旨申聞候間︑同人方ニ一宿いたし候処︑翌朝和江村五左衛門参り︑同人弟油江村江縁付煩居候付︑是非呪いたし呉候様申聞候間︑不得止事︑同人方得罷越呪いたし遣候処︑追々同村之者参︑呪相頼候間︑無拠四五人いたし遣候得共︑謝礼等一切請不申︑其中女壱人より拾弍銅貰請候而已︑翌日者直ニ引取候義ニ而︑前書申立候通り︑老母共相煩居候事故︑当十月廿一日ニ茂︑同様見廻ニ罷越︑逗留いたし居候を被捕︑此度︑右始末吟味請候義之旨申立候﹂ このように︑助右衛門も縁戚を頼って隣村に住み︑老母への介護孝行のために居村にこっそりと立ち帰り︑逗留したりしていたが︑同時に︑由良川下流域の村々に逗留している︒吟味の結果︑以上のほかには祈祷・呪をしていないと判断され︑吟味詰となった︒直接の違反者は二人であったが︑それを受け入れた家族や親類があるので︑今回はそれらも咎をうけることとなった︒惣三郎の本家の五郎兵衛は五人家族︑高十石壱斗八合八勺所持の四十六歳の百姓であり︑惣三郎の女房てるは三十弍歳︑助右衛門の悴治助廿弍歳と助右衛門女 房その五十歳は高九斗壱升三合五勺所持で六人家族である︒さらに両人の居村の村役人たちも居村立ち入りを止めなかった罪を論じられた︒附札をみると︑居村立ち帰りについては︑﹁親共病気ニ付︑両三日ツヽ茂逗留之上看病いたし遣候義とは乍申︑いたし方も可有之︑無其義︑﹂と︑孝行からでた違反行為であることに同情を示した上で︑禁令を冒して祈祷呪をし謝礼を受け取ったことでもあり︑﹁重々不届ニ付︑惣三郎者空刺之上田辺払︑助右衛門者空刺之上御領分追放﹂を原案とし︑そのうえで︑藩主の三十三回忌御法事の赦として︑是れまでどおり︑惣三郎は所払︑助右衛門は田辺払というお仕置き原案を策定している︒奉行平井四郎左衛門と野田新が上申した御仕置附は次の通りであった︒﹁御仕置附之義元千原村 惣三郎・助右衛門右惣三郎者所払︑助右衛門者田辺払之者ニ御座候処︑何れ茂元居宅ニ度々立入︑其上祈祷呪等いたし︑御仕置不相用者ニ御座候間︑御定書ニ追放︑或者所払等申付候処︑直ニ居町居村江立帰罷在候ハヽ︑最初より御仕置不相用者之事に候間︑入墨之上最前之御仕置より一等重ク可申付ト有之候得共︑此者共義者︑
直ニ立帰り候ニ者無御座候間︑一通りニ候得者︑惣三郎者田辺払︑助右衛門者御領分追放而已ニ而可相済義ニ御座候得共︑亦々祈祷呪等いたし候義茂有之候間︑旁右御定ニ見合︑惣三郎者空刺之上田辺払︑助右衛門者空刺之上御領分追放と御仕置附仕候﹂︒このように御定書八十五条の延享二年極を引用した御仕置附である︒両人の居村立ち帰りを隠していた家族についても︑御定書の八十五条の同じく延享二年の極を引用し︑次のように御仕置付している︒﹁右構有之者を隠し差置候者︑御定ニ追放者を隠し置候ハヽ江戸払︑江戸払之者を隠し置候ハヽ所払ニと有之候処︑御書物之内御評議之上︑以来所払之者を隠し置候者︑并御仕置ニ成候近き親族夫等を隠置候者︑男者三十日手鎖︑女者三十日押込と御座候評議書ニ見合︑五郎兵衛・治助者三十日手鎖︑てる・その者三十日押込と申上候﹂と︒ここでの﹁書物﹂とは︑恐らく藩主が江戸の寺社奉行などの役職の際に幕府の評定所の評議記録を家臣に書き写させて国元に送り︑奉行役所の業務の参考にしたものであろう︒違反行為を見過ごしていた村役人たちに対しても︑﹁等 閑之心得方一同不束ニ付︑庄屋共者急度叱り︑五人組之者共も一同叱り置候例ニ見合︑庄屋者急度叱り︑年寄組合之者共者一同叱りと申上候﹂とある︒﹁伺進達控﹂にはその後に︑天保十三年の構場所に立入った引土新町太左衛門の時の御法事恩赦裁許の例と︑嘉永元年の紺屋町平兵衛の御法事後吟味取掛之例という見合例の写しを添えた上で︑﹁崇樹院様三拾三回御忌御法事ニ付御赦伺候書付﹂が附されていた︒崇樹院は七代藩主牧野以成の法名である︒この伺は次のようである︒﹁去ル八月廿四日崇樹院様三拾三回御忌御法事ニ付︑赦被行候︑依之当時及吟味候死罪其外軽罪之者︑右御法事之御赦ニ取調可書出旨︑其以前御沙汰御座候付︑今度相伺候元千原村惣三郎・助右衛門義者︑右御法事後吟味取掛候者共ニ付︑一通ニ而者御赦免ニ者難伺者共ニ御座候︑然処︑御定書ニ名目重ク相聞候共︑事実ニおゐて強而人之害ニ不相成者︑罪科軽重格別之事と相見候付︑評議仕候処︑此者共同様御仕置被仰付候者共ニ而茂︑親大病ニ而対面願出候得者御免茂可有之義を︑此者共等閑ニ相心得候より立入候義共相聞江︑事実ニおゐて者不得止事之義茂可
有之哉︑且亦祈祷呪等いたし候義も︑親類懇意之者方ニ而無拠被相頼候より一度いたし候迄ニ而︑指而人之害ニ相成候義ニも不相聞︑利欲ニ抱り候事とも相見へ不申候ニ付︑旁別紙紺屋町平兵衛義見樹院様弍百五拾回御忌之節御法事後吟味之上︑御赦免ニ相成候例ニ見合︑元引土新町太左衛門之通御赦免可被仰付候哉︑相伺申候︑﹂伺は十二月十二日に上進された︒このように︑伺った奉行たちも︑又奉行役所の評議に加わった面々も親孝行故の違反行為に同情的であり︑法事後に恩赦を受けた先例を参照した上で︑あえて︑法事以後に摘発した構場所立入犯に恩赦を願っているのてある︒もともと︑黒住教は親孝行を奨励した宗教であり︑近世の支配秩序と対立する事の少なかった民衆宗教であったから︑かかる配慮がなされたのであろうか︒逮捕から裁許申し渡しまで︑二ヶ月も掛けて吟味評議をつづけ︑伺いを上申するのに︑二ヶ月の長きを要したのも︑奉行役所の苦慮を示すものといえよう︒ こうして︑御用番家老からの御書付が下り︑掛奉行の野田新から裁許が申渡された︒御書付には次のようにあった︒惣三郎は︑﹁空刺之上田辺払可申付処︑当八月 崇樹院様三拾三回御忌御法事之赦ニ御免︑但所払最前之通可相心得旨可申渡候﹂︑助右衛門は︑同じく︑空剃之上御領分追放の処を同じく︑減免され︑田辺払いのままとする︒惣三郎の本家の五郎兵衛と助右衛門の悴治助は︑三十日手鎖のところを赦により御免︑惣三郎の女房つると助右衛門の女房そのは三十日押込の処を赦により御免︑以下庄屋たちも急度叱りや叱りのところを御免とする︒こうして本件は完全に落着した︒
5 . 結 び に か え て
この三回にわたる黒住教事件を通してとみると︑牧野家領の民衆宗教に対する政策は︑全体としては︑新宗教行為そのものを処罰したというより︑むしろ︑礼銭を受取り神職まがいの行為をしたことを処罰しているようにみえる︒たしかに奇怪な信仰行為は禁止されているが︑家庭内での信仰そのものはかならずしも咎められていないようである︒信仰内容に関する異端裁判ではない︒被治者たちを職業身分として統制する身分秩序に違反して︑百姓身分にあるまじき宗教行為︑それも奇怪なる呪いなど︑非合理的な行為が差し止められたのである︒とりわ
け︑黒住教は︑黒住宗忠︵一七八O︶の太陽神天照大神との神人合一の神秘体験にはじまり︑﹁日々家内心得の事﹂には﹁神国の人に生れ常に信心なき事 ・腹を立物を苦にする事・己がまんしんにて人を見下す事・人の悪を見て己に悪心を増事・無病の時家業おこたりの事・誠のみちに入りながら心に誠なき事・日々有難事を取外す事 右の条々常に忘るべからず︑恐るべし々々々々︑立向ふ人の心は鏡なり おのが姿を移してやみん 黒住左京藤原宗忠六十七歳書﹂と︑日常の道徳訓を主とした心がけを説いている︒この﹁心得の事﹂が教義を説いた唯一のもので︑自筆といわれる︒﹁黒住教教書﹂に収められている書簡をみると︑
﹁少し手をあて候処︑・・・二三度程まじなひ候所︑此節はさっぱりと仕候・・︑誠に不思議成事に難有奉存候︑しかし︑是れも小子力には無御座候︑自然の御蔭と奉存候﹂九九頁﹃黒住教教書﹄︵﹃民衆宗教の思想﹄日本思想史大
系︶などと︑不思議の療治を施し︑民衆の間では︑病の治癒が弟子の入門の契機となっている︒それが︑幕末から明治にかけてのはやり病とかかわりがあるのかどうかは︑よくわからない︒その療法は水・湯気・講説・呪などであるが︑黒住教で注目されるのは︑宗忠が不思議 の快癒の理由を自分の法力に置かず︑自然︵神︶の御蔭と説いていることである︒自然の生成のなす業とするところに︑自然神信仰としての国学神道の本質をみることができよう︒また︑教祖以外の免許授与者でも︑呪祈祷が可能であったのは︑奇跡を宗忠を超える太陽神の計らいとする宗教的思想の純化の賜物であろう︒それによって免許授与者は世俗の身分制度とは異なる教団の身分秩序に位置付けられ︑出身の如何によらず︑呪・祈祷をなし︑信仰を導くことができたのである︒まさに福沢諭吉のいう宗教に権ありである︒ ところで︑民衆の間への伝播の契機となった病の治癒・呪・祈祷についてみると︑その宗教行為は︑かならずしも同教団に固有のものではないように見える︒ 幕末の丹後田辺藩で生じたもうひとつの民衆宗教として大師信仰があるが︑その病に対する宗教的行為は黒住教のそれと大きな違いは感じられない︒郡奉行役所の吟味を受けた慶応元︵一八六五︶年今田村市郎左衛門女房けい︑大師唱え祈念ケ間敷儀致候吟味一件﹂︵日記︑三九一︶︵伺進達控︑公事出入吟味物進達留二一の五︶の概要をみると︑次のとおりである︒﹁けい申上候︑私儀全体病身ニ付十七八ケ年以来︑
弘法大師江冷水を供江線香を建て︑昼夜一心を籠メ病気平癒之祈願いたし罷在候処︑夜毎打臥候折節御大師様ニ対面の夢を見︑病気平癒為致可遣旨仰聞候付︑難有御礼可申上と心得起き返候得者︑目覚め申候付︑猶信心致候処︑御陰ニ依而病気追々平癒仕︑然ル処︑去ル亥年四月八日晩方と覚︑旅僧年頃五拾斗之御方御立寄︑其方者奇特ニ信心いたし候故︑此納経を遣し候間︑守り本尊と心得信心致し可申︑若し外ニ病人有之候ハハ冷水江此経を写し為戴︑又者痛所江為附候得者平癒可致旨御咄し置被立出︑行方者相知レ不申候間︑其後大師之御影を仏壇ニ張り︑納経共祭り信心致し候儀︑追々諸人聞伝江候哉︑参詣有之︑賽銭等被置候人有之候付︑其儀者相断候得共不聞入︑備江置候溜銭等有之候故︑夫市郎左衛門出町之節︑西町仏師屋方ニ而大師之木像調江帰り︑右仏壇ニ祭呉候間︑猶信心いたし候処︑追々参詣有之︑冷水江納経を写し候をこふ水と唱江病人ニ為飲︑又者痛所江為附候得者︑御利生茂有之候趣ニ付相頼候者江者︑其人之年並ニ病気之始末を申︑私納経を戴き一心を籠致祈念候得者︑薬喰養生方等不思議之事申演べ候を御告ケと唱江︑多人数参詣有之︑礼物 として拾弍銅より三分五分︑或者為油代壱匁︑又者線香菓子栗黍等些細之品物致受納候儀ニ御座候処︑当四月右様之義不相成趣御差留之御沙汰有之︑相止メ慎ミ罷在候得共︑其後も参詣者相止ミ不申︑御告ケ等之儀相頼ミ候人も有之候得とも相断罷在候処︑町方在方其外縁辺之ものより無拠相頼候付︑御差留之義を不相用祈念いたし遣し候儀︑此度御吟味を受恐入候儀ニ御座候﹂
けいも又崇樹院の御忌御法事の赦により所払の刑を免じられて落着しているが︑病・弘法大師信仰・霊夢・冷水供え︑納経写し︑こふ水︵香水︶など︑その宗教行為をみると︑神と仏の違いこそあれ︑黒住教のそれとの間に︑様態としては大きなへだたりはない︒病に苦しみ︑頼るべき医療のない人々にとって︑救いを求める時︑現れたのが︑黒住教であり︑弘法大師であったといえる︒これらの伝播の勢いと広さの原因は︑こうした民衆の悩みと不安にあったのである︒ しかし︑注意しなければならないのは︑こうしたステロタイプ化された信仰告白を文章化しているのは︑告白者本人ではなく︑吟味の役人であったことである︒吟味を行い被告の告白を記載したのが︑同心などの奉行役所
の下役であった結果︑告白者の心情を正しく表現していないだけではなく︑記録者の宗教概念を通じて表現されている可能性を生むだろう︒告白してものと吟味したものとの間には︑信仰体験や信仰思想の大きな差異があることは︑ギンスブルグのいう通りであり︑そこには︑お互いに質的に断絶した超えがたい隔たりがあったのである︒恐らく︑為政者の儒教的合理的思考では理解できない︑黒住教なら同教なりの︑弘法大師教なら大師教なりの独自の体験と心情が語られたに違いないが︑その微妙な差異や有り様は︑吟味者・記録者の思考のなかで捨象されてしまい︑奇怪な宗教行為という為政者側のパターン化した宗教行為表現で一括されて記録が作成されたにちがいない︒それが冷水供えやお香水などであったろう︒その表現だけから︑当時の民衆宗教の非科学性を語ることは危険である︒といっても︑この史料だけからでは︑現在のところ︑民衆の側の宗教体験を忠実に復元することはできない︒ さて︑この事件で︑惣三郎も助右衛門も︑隣村の子方百姓や縁続きの百姓家に厄介となり︑夜な夜な居宅へ帰っていたことは︑血縁縁類や家業での人的ネットの有り様を物語っているが︑それは︑同時に信仰の教線のひ ろがりの道でもあった︒奇怪な宗教行為の禁止にもかかわらず︑病の治癒に効能があるとなれば︑親類縁者の頼みを無下にことわることはできない︒十弍銅︵銭︶などの礼銭を貰わなければ︑身分制度逸脱にはならないとあれば︑親類縁者などのネットは大きく活動しただろう︒さらに︑助右衛門の行動をみていると︑その回縁の有り様は信仰による結び付が広く存在したことを物語っている︒こうして︑民衆宗教の伝播は︑民衆の間に新しい質のつながりを造りだしたものと思われる︒黒住教は︑その教理が汎神論的な自然信仰であり︑孝行を中心とした家の論理を基礎に日常生活の心のもち方に力点をおいた日常道徳訓を軸に︑病気治癒の呪いによって︑為政者の禁止にもかかわらず︑その教線を静かに拡げていったものと思われる︒ 資料の紹介を目的とする本稿にとくに結論とすべきものはないが︑すくなくとも︑教団側からの教説ではなく︑教を受容した民衆の側の実際をわずかとはいえ明らかにしえたものとして結びにかえたい︒