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2018年度 国際文化情報学会 各部門最優秀賞・奨励 賞

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2018年度 国際文化情報学会 各部門最優秀賞・奨励

著者 法政大学 国際文化学部

出版者 法政大学国際文化学部

雑誌名 異文化. 論文編

巻 20

ページ 1‑110

発行年 2019‑04‑01

URL http://hdl.handle.net/10114/00021672

(2)

論文部門(学部学生)

浅草の観光地化

― 衰退から再興へ 50 年の歴史をひもとく―

松本・華井ゼミ

柳 谷 愛

第 1 章 観光地として衰退と再興を繰り返す浅草 1.1 半世紀前、観光地とは程遠かった浅草

「浅草」と聞いて連想するものは何だろうか。浅草寺、仲見世通り、着物の着付け体験や人 力車、隅田川花火大会、スカイツリーなど、浅草の名所 • 名物を上げれば枚挙にいとまがない。

浅草が観光地1であることは当たり前だと思われているかもしれない。しかし、そんな浅草も 半世紀前には廃れていた。当時の浅草は周辺住民から「汚い、怖い、暗い」と言われることがあっ た。なぜ浅草は、現在とは異なるこれらの印象を持たれていたのだろうか。

「汚い」というイメージは当時の浅草が抱えていた隅田川の水質汚濁問題と、浮浪者や浮浪 児の溜まり場とされていたことに起因する(森田 1997)。当時隅田川の水質汚濁が原因で 16 年もの間隅田川花火大会は中止され、また戦後浅草は浮浪者や浮浪児の溜まり場とされてい た。

また半世紀前には「怖い町」というイメージがあった。例えば、1958 年の毎日新聞の記事 で浅草は「観光客が恐怖する町」として取り上げられている2。客の弱みにつけ込み、脅して 金を取る「暴力ポン引き」が浅草には約 300 人おり、地方からの観光客の間では「浅草は怖い」

が定評であった3

明治時代から 1960 年ごろまで浅草は、娯楽を楽しむ観光地として栄えていた(森田 1997)。しかし、1964 年に開催された東京オリンピック、カラーテレビの普及、新宿や渋 谷などに観光客が集まるようになったことなどが原因で観光客数が減少し4、衰退した。それ まで浅草に足を運んで観られていた映画や演劇、落語がテレビで放映されるようになった上、

オリンピックの影響でテレビを購入する家庭が増え、わざわざ浅草まで来る人が激減してし まったのである(ibid.)5

1960 年前半、浅草で人気を博していた娯楽施設は、カラーテレビに取って変わられ、客足

1 本稿での観光地とは、日常と違う何かを求め、日常生活圏の外へ移動して消費をする場所(神田 2016)、そして、余暇、ビジネス、

その他の目的のため、日常生活圏を離れ、継続して 1 年を超えない期間の旅行をし、また滞在する人々の諸活動をする場所である という国土交通省の定義を用いる。

2 「恐怖する観光客 “ 桃色 ” で誘い身ぐるみはぐ」『毎日新聞』、1958 年 5 月 14 日。

3 同脚注 2

4 浅草文化観光センターが観光客数のデータを取り始めたのが 1986 年、台東区観光課がデータを取り始めたのが 2006 年からなので 1960 年代の浅草の衰退を観光客数で比較することはできない。

5 その結果、1959 年浅草には 36 軒の興行施設があり、1964 年までは映画や寄席を楽しむ人で歩けないほどであったが、映画館など の閉鎖が相次ぎ、1988 年には 18 しか残らず、日本初の映画専門の劇場であった電気館も 1976 年に閉鎖された (「浅草六区の豪華 “ シ ルバーマンション ” 建設へ−−地元と合意」『毎日新聞』、1988 年 7 月 6 日 )。

最優秀賞

(3)

が遠のいたことにより、周辺の商店も閉店を余儀なくされた。そのため、当時の浅草は活気 がなく、「暗い」という印象を持たれていたのである。

本項では、1960 年代の浅草が持たれていたイメージと衰退の歴史について説明したが、そ れ以前にも 浅草は衰退と復興を経験している。次項では浅草に関する先行研究をもとに、

浅草の歴史を江戸時代からひもとく。

1.2 娯楽の町として栄えていた浅草の歴史

浅草が観光地として発展し始めた江戸時代(飯島 2015)から振り返る。江戸時代の浅草 は歌舞伎小屋や新吉原や見世物小屋で栄え、富裕層も庶民も遊ぶことができる町とされてい た(ibid.)。明治時代には活動写真館という映画館や喜劇、剣劇の劇場などもでき、日本初の 娯楽誕生の町とされていた(ibid.)。その後大正時代には日本のモダニズムの流れに肖り、浅 草は欧米の文化を楽しむモダニズムの町とされた(森田 1997)。当時浅草では浅草オペラや ジャズなどが流行したのである。

このように江戸時代から娯楽の町として栄えていた浅草だが、1923 年の関東大震災や 1945 年の東京大空襲による被害を受け浅草寺の本堂などの歴史的建造物が焼失してしまった

(ibid.)。しかし、地元住民や行政やゆかりのある人々の力によって浅草は被害を克服し、娯 楽の町として復活した(台東区編纂委員会 1997)。

図 2. 東京大空襲直後の浅草 図 1. 関東大震災の直後の浅草

(出典:飯島 2015) (出典:ibid.)

前項でも述べたように、娯楽の町として復興した浅草だったが、1964 年に開催された東京 オリンピック、カラーテレビの普及、新宿や渋谷に観光客が奪われたことなどによりその後 再び衰退したのである。

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1.3 1960 年代以降の浅草の歴史研 究と本研究の問い

1960 年代以降の浅草の観光地化に ついては、それに関わった団体の活動 をまとめた文献はある。しかし浅草が なぜ再観光地化したのかの背景を調査 した学術的な論文はない。そこで複数 の団体へのインタビュー調査をもとに 浅草の観光地化のプロセスを整理し、

そこから「『汚い、怖い、暗い』とい うイメージがあった 1960 年代の浅草 が、どのように今日のような日本を代 表する観光地になったのか」という問 いに取り組む。

第 2 章観光地化の難しさ 

2.1 人々の働きかけによって成り立つ観光地

浅草は歴史のある町なので、自然に観光客が集まってくるのではないかと思う人がいるか もしれない。しかし、前章で述べた浅草の盛衰の歴史に見られるように、そこにある歴史的 建造物や娯楽施設が常に観光客を呼び込むわけではない。

資源論に関する文献において、ジンマーマン(1985)は、資源は「在るもの」ではなく「成 るもの」であると言い、森重(2012)は観光資源とは、観光に利用するために人々の働きか けの対象となり得る地域の要素であると説明している。資源論の先行研究が示しているのは、

そこに「あるもの」や「地域の要素」は人々の働きかけによって観光資源になっていくとい う考え方である。

本論文では資源論のアプローチを使って、1960 年代に客足が遠のいて衰退した浅草が、ど のように再び日本を代表する観光地になっていったかを明らかにする。

2.2 「内向きの観光まちづくり」と「外向きの観光まち作り」

働きかけるアクターに着目した上で、その「働き」をどう分析するかは重要である。のち に観光資源となる要素への働きかけを分析する枠組みとして敷田(2009)が提起した「内向 きの観光まちづくり」と「外向きの観光まちづくり」を本論文では参照する。

敷田(2009)は「内向きの観光まちづくり」は、地域の関係者が地域磨きには熱心であるが、

地域外のことを意識せずに、ブランディングやマーケティングが欠如した状態であるという。

図 3.現在観光地として人気な浅草寺、仲見世通り

(右の枠内)と、劇場や娯楽施設が多くあった 六区(左の枠内)の位置関係

(出典:Google mapより筆者作成)

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また「外向きの観光まちづくり」は、ブランディングやマーケティングを重視しすぎるあまり、

地域外ばかりを気にするまちづくりになってしまうと指摘する。その上で、「内向きの観光ま ちづくり」でも「外向きの観光まちづくり」でもない「総合的な観光まちづくり」であるべ きであると提案している。

本論文では、働きかけたアクターに着目しながら 1960 年代から時間を追って浅草の再観 光地化の軌跡をたどった上で、「内と外」の枠組みを使ってアクターの分析を行う。

2.3 調査対象の詳細と調査方法

調査協力者の起点としたのは、浅草おかみさん会理事長の冨永氏である。この会は、「ゴー ストタウン」と呼ばれた浅草を再興するために、近隣の女性によって構成され、浅草で日本 初のサンバカーニバルを開催したり、二階建てバスを走らせたり、観光案内看板を作るなど の振興活動をした(冨永 2014)。

このようなイベントは一つの団体だけではなく、いくつもの団体や個人によって成し遂げ られたのではないかと考え、冨永氏に 1960 年代の浅草の再興に携わっていた他のアクター を紹介してもらい、表 1 の計 11 団体 16 名の方々にインタビュー調査を行った。これらの人々 は、50 年前に浅草の再興のために立ち上がり、浅草を見守ってきたグループ、50 年前に立 ち上がった親世代から引き継いだ新しい世代、観光地浅草に目をつけ、外の地域から浅草に 入ってきた企業・個人、区政に関わる行政関係者という 4 つに分類できる。

表 1. インタビュー協力者の詳細(出典:インタビュー結果をもとに筆者作成)

インタビュー

協力団体 インタビュー

協力者(年齢) 団体の詳細 協力者の詳細

浅草観光連盟

冨士滋美(70)

1947 年に誕生した、浅草の 復興と観光振興を目標とし た団体

会長

飯島邦夫(56) 事務局次長(広報)

雑賀重昭(34) 台東区中央町会青年部リー

ダー、

浅草商店連合会 丸山眞司(68)

1949 年に誕生した浅草の商 店街の活性化と発展を目標 とした団体

理事長 協同組合ふるさ

と創成にっぽん おかみさん会

冨永照子(80)

1968 年に誕生した浅草の再 生を目標とした女性のみで 構成される団体

会長

台東区商店街連

合会 稲葉雅通(60)

1999 年に誕生した台東区の 商店街の活性化と発展を目 標とした団体

理事長

浅草神社奉賛会 小関栄寿(69) 浅草神社の維持と三社祭の 運営を行う団体

副会長、浅草中央町会会長

藤田和弘(75) 副会長

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台東区観光課 伊東剛

上記の団体のイベントや施 策 に 区 の 補 助 金 の 提 供 を 行っている

台東区観光課係長

さわだ屋

遠藤あみ(31) 老舗 60 年の着物屋で、浅草 で初めてレンタル着物を開 始した店

3 代目

遠藤佳代子(60) 2 代目

澤田美恵子(84) 1 代目

浅草公園町会元

町会長 高橋賢二(77)

町 会 費 で 商 店 街 の ホ ー ム ページを作ったり、デジタ ルサイネージにより英語で お店の紹介をする看板を作 る町会

浅草公園町会元会長

時代屋 藤原英則(56)

1987 年に横浜で創業した 人力車を運行する会社で、

1996 年に浅草で初めて人力 車を運行した会社

浅草観光人力車組合代表

えびす屋 梶原浩介(34) 1992 年に京都で創業した 人力車を運営する会社で、

2000 年に浅草での営業を開 始した

浅草車夫の会代表

第 3 章 様々な時代を生き抜く浅草 3.1 古き良き浅草の復活

本章では、1960 年代以降の浅草の再興に貢献したと考えられる様々なアクターの「働きか け」を時系列に沿って整理する。1960 年代の衰退から再興するために奮闘した地域住民によっ て構成される浅草神社奉賛会という、三社祭を運営する団体がある。700 年の歴史がある三 社祭だが、浅草がゴーストタウンと呼ばれ商店も閉店してしまい、三社祭に参加する神輿の 担ぎ手がいなくなってしまったのである。

「オリンピックのあとは神輿の担ぎ手がいなくなっちゃってね、祭りが成立しな いっていうんで色んな全国のお祭りに出向いて、浅草の神輿も担がないかと交渉し に行ったもんだよ。その影響でまた人が集まったんだよ。でもやっぱりおかしな人 たちが集まってきたりもしたけどね、排除することはできないからこちらで三社祭 のルールを作ったりね、警察で祭り前の会議をそういう危ない人とはやってなるべ くトラブルが起こらないようにしていたよ」6

6 浅草神社奉賛会、藤田和弘氏へのインタビューより

(7)

700 年以上の歴史ある祭りへの参 加者の減少に直面していた浅草では、

浅草神社奉賛会のような地域の団体 が率先して集客を行った。三社祭が 3 日で 180 万人を集客する祭りにまで 成長した背景には、「地元の祭り」で あるからといって浅草以外の住民を排 除せず、むしろ積極的に勧誘する地域 住民の姿勢、トラブルを回避するため のルールを策定しそれを周知したり、

警察との連携を図ったりした地元の団 体の存在があったと考えられる。

芸能の町・浅草で育った芸人にも浅草は助けられた。浅草の劇場は多数の著名な芸能人を 輩出した。彼らは浅草生まれではないが、長年浅草の劇場に出演し、「浅草に育ててもらった」

という意識があるという。彼らが、浅草を復活させようと 1977 年に浅草観光連盟と協力し て行った浅草芸人祭りである(森田 1997)。

「浅草から誕生した芸能人ってたくさんいるのよ、稼ぎがなくて食べられないよう な時から浅草の人たちに育てられてるから、そういう人たちは浅草を巣立ったあと にも浅草を思ってくれてる、77 年の浅草芸人祭りの時みたいにね、テレビで紹介し てくれたりね」7

地域住民が浅草の外から来る人を拒まず、良い関係を築こうとしたり、かつて浅草で育て られた芸能人の協力を得てマスメディアに取り上げられることになり、浅草の魅力は広まっ た。団体や個人が浅草の再興に向けて活動するにあたり、浅草の「汚い、怖い」というイメー ジを払拭することは浅草の再興に必要不可欠だったと言える。

1960 年代の浅草にあった「汚い、怖い」を払拭する取り組みがなされたのが 70 年代である。

まず「怖い」への対策は 1972 年の迷惑防止条例の制定である。この条例により悪質なぽん 引きは取り締まられたが、浅草観光連盟が警察に悪質なぽん引きの実態を伝えたこともこの 条例に繋がった(森田 1997)。もう 1 つの「汚い」に取り組んだのは浅草育ちの内山栄一区 長である。彼は隅田川の水質汚濁問題を徐々に解決し、同年に 16 年ぶりに隅田川の花火大 会を復活させた(森田 1997)。

こうして次第に「怖い」「汚い」という浅草のイメージは払拭されていった。60 年代半ば

7 浅草おかみさん会、冨永照子氏へのインタビューより

図 4. 現在の三社祭の様子

(出典:浅草神社奉賛会 2018)

(8)

から 70 年代終わりにかけて行われた、三社祭の活性化、芸人祭り、治安の回復と隅田川花 火大会の復活は、いずれも古き良き浅草を取り戻す働きかけと言える。

3.2 新たな奇抜なアイデアへの挑戦

「怖い」「汚い」といった負のイメージの払拭をいわば「守り」とするならば、隅田川花火 大会と同じ年に運行が始まった二階建てバスは新たな魅力を打ち出す「攻め」の働きかけで ある。発案したのは浅草商店連合会だった。

「浅草商店連合会の主人がイギリスのロンドンの下町を訪問した時に二階建てバス に乗ってね、同じ下町である浅草に二階建てバスを日本初で走らせたら全国から観光 客を集めて、商店も繁盛するんじゃないかって発案されたのが二階建てバスだよ」8。 新たな娯楽や他の地域に負けないようにと、浅草はより新しいものを取り入れようとした。

二階建てバスを日本で初めて運行することで全国から観光客を集めようと発案した浅草商店 連合会だが、その実現は一筋縄ではいかなかった。

「うんと苦労したのが、高さ制限だったの。運輸大臣のとこに何度も行って口説い たのがおかみさん会で、あと 1500 万の足りないお金をサントリーからもらってき たのが私なのよ。それで実現して全国からたくさんお客さんがきて、1000 万の黒字 になったのよ」9

法的な制限や資金不足などの問題を浅草商店連合会は抱えていたが、浅草おかみさん会の 働きかけと地域のつながりを生かすことで二階建てバスの日本初の走行を 78 年に実現する ことができ、利益を生み出した。

また 80 年代に入り、浅草の再観光地化のために開催されたのが浅草サンバカーニバルである。

このサンバカーニバルも当時日本初のイベントでたくさんの観光客を集めたが、開催までには 資金集めに苦労し、うまくいってからは観光客が集まりすぎて、警察沙汰になったこともあった が、地域住民による交渉の末、今年で 37 回目を迎える浅草の一大イベントになったという。

企業とのタイアップをしての二階建てバスの運行とサンバカーニバルは、古き良き浅草を 取り戻す取り組みとは一線を画す。浅草おかみさん会の冨永照子会長の「まちづくりにはや ましさと好奇心が必要なのよ」という言葉に表れるように新たな発想で集客を図った働きか けだと言える。奇抜とも思える大型イベントの開催は、徐々に変容を見せていった。

8 浅草商店連合会、丸山眞司氏へのインタビューより 9 浅草おかみさん会、冨永照子氏へのインタビューより

(9)

3.3 浅草寺周辺の魅力を高めた時期

80 年代終わりからは歴史的町並みという現在の浅草に観光客が持つイメージに近いイベン トが行われるようになる。1988 年、浅草観光連盟は江戸の歴史を振り返るイベントを開催 した。江戸の町並みを再現し、歴史ある土産物店や飲食店などの店主は着物で接客をする「東 京時代まつり」を開催し、50 万人の観光客を集めた(森田 1997)。

「浅草の歴史を一挙に楽しんで頂ける行事をしたいと考えて、観光連盟は京都の時 代祭りを真似て東京時代祭り始めて、2013 年まで 22 回行いました。」10

時代祭りは京都の真似であり、浅草にあった過去の祭りの復活ではない。しかし、歴史をテー マにした祭りは浅草寺近辺の風情にマッチし、結果的に浅草寺や浅草の歴史に興味を持つ人 を増やしたと言える。

2010 年に行われた台東区の「観光客動向調査」によると浅草寺、食事、散歩が浅草来訪者 の目的の大部分であり、それらを求めてリピーターが増えた。

そのことから 2004 年には浅草寺周辺景観形成特別地区が定められ、建物の高さや色が制 限されるようになった。イベント中心だった浅草の再観光地化はこうして徐々に浅草寺周辺 の魅力を高めていく働きかけに移っていく。

浅草寺周辺の魅力を高め、江戸の町の雰囲気を利用した名物が人力車である。2018 年現在 で 20 以上の人力車運行会社が浅草にはある。浅草で人力車が始まったのは 20 年ほど前で、「時 代屋」という 1987 年に横浜で人力車の運行を始めた会社が、1996 年に浅草でも人力車を走 らせ始めた。その経緯について、「時代屋」と、2000 年に浅草で人力車を始めた「えびす屋」は、

奇しくも観光業を行う会社として東京は外せなくなり、その中でも観光客を多く集め、人力 車の風情に合う町は浅草しかなかったという点で同じ見解を示した。

「初めは地域住民の方々や区や警察や浅草寺から邪魔だとか、呼び込みが威圧的だ とかたくさん御意見をいただいたものだよ。その時に苦情を言うだけじゃなくて一 緒に人力車組合を作ってくれたり、人力車を道に置いても何も言われないように人 力車専用レーンを作る交渉を区にしてくれたりした方がいてね、商店連合会の丸山 さんだよ」11

苦情もあるが、散歩や食事で訪れる観光客にとっては浅草寺を中心とした浅草がより魅力 的になると考え、手を差し伸べた地元の団体もある。地域住民に反対されるような車夫を改

10 浅草観光連盟、冨士滋美氏へのインタビューより 11 時代屋、藤原英則氏へのインタビューより

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善するため、時代屋やえびす屋は住民からの意見を集めそれらの団体に伝える浅草車夫の会 や、20 以上ある浅草の人力車運行会社の多くが所属し情報共有を行う浅草観光人力車組合を 組織した。また、えびす屋は人力車で走るだけではなく、なにか地元住民のためにできるこ とはないかと、毎朝車夫全員で浅草の清掃をしたり、走行中には AED を全人力車に乗せたり している12。このように外部の組織でありながらも、地域住民の意向を取り入れようとする姿 勢を持った団体がある。

人力車とともに浅草の観光客が好むものが安値で借りられるレンタル着物である。今日で は、雷門の前でレンタルした着物を着て写真を撮る観光客をしばしば見かける。このレンタ ル着物は、2010 年に老舗の着物店によって始められた。

「料亭やホステスの人々がメインの客層だったんですけど、バブル崩壊と同時にお 客さんが減少してしまったんです。うちも販売だけではお客さんは獲得できない状 況になってしまって。2010 年に私が京都旅行に行った際に着物を着ている女の子 がいて、浅草もこんな町並みにしていきたいなと考えて、母と祖母に提案して始まっ たのが、レンタル着物です」13

需要の変化に対応し、2010 年にレンタル着物を始め、レンタル着物は歴史ある町を味合う ことができる一つのアイテムとして人気を得て、浅草の観光地化に貢献し続けている。その 人気に伴い、現在では 33 店舗のレンタル着物店が浅草にはある。

このように浅草寺を中心とした恒常的な観光地となった浅草は上記のような魅力を国内に とどまらす海外にも発信しようと、中国人観光客向けの「C-Trip」というプロジェクトが浅 草観光連盟や外部のイベント会社によって行われていたり、19 カ国語対応で毎日更新される

「365ASAKUSA」というアプリが現在では普及している14

芋づる式で紹介されたインタビュー協力者の話しを年代順に追うと、これらの働きかけが 直近の動きである。次章では、浅草の再観光地化に関係した様々なアクターの約半世紀の働 きかけを整理し、結論と考察を述べる。

表 2:戦後直後の浅草の復興と、行われた行事

(出典:森田(1997)と各インタビューをもとに筆者作成)

年 組織 事柄

1965 浅草神社奉賛会 浅草以外の祭りを行う地域から参加者を集める

1972 台東区 迷惑防止条例

1975 台東区 内山栄一区長当選

12 えびす屋 梶原浩介氏へのインタビューより 13 さわだ屋、遠藤あみ氏へのインタビューより 14 浅草観光連盟 雑賀氏へのインタビューより

(11)

1977 浅草観光連盟、浅草芸友会 浅草芸人祭り 

1978 台東区、東京都 1961 年を最後に 16 年間中止されていた隅田 川花火大会が復活

1978 浅草おかみさん会 日本初の二階建てバスの走行 1981 台東区、浅草おかみさん会、浅草観

光連盟、浅草商店連合会 浅草サンバカーニバル 35 万人集客

1988 浅草観光連盟 奥山風景を再現 江戸・明治・大正の町並み  1989 浅草観光連盟 東京時代祭り 

1996 時代屋 人力車の走行が開始

2004 台東区 浅草寺周辺欠陥形成特別地区制定

2010 さわだ屋 レンタル着物開始

第 4 章 行政と地域住民の団体の活動の成果と、今後の課題 4.1 結論

浅草の 1960 年代以降の再興は大きく 3 つの流れがあったと言える。まず初めに、「汚い、

怖い」と言われていたイメージを払拭して綺麗なまちにし、古き良き浅草の復活を行った時 期である。その後、新たな奇抜なアイデアへの挑戦し、非日常のイベントを行うことによって、

とにかく一度人々に浅草に足を踏み入れてもらおうとした。そして最後に浅草寺周辺の魅力 を高め、リピーターの獲得をした時期である。

衰退直後には、浅草をなんとかしようという人々の思いがあった。浅草おかみさん会は 1960 年代の浅草の再興のために立ち上がった団体である。おかみさん会だけでなく、浅草 の再興に向けて様々な団体が衰退直後から活動を行っていた。彼らは企業とのタイアップを 行ったり、外部の人々の参加協力を得ながら、三社祭の人員確保を行ったり、芸能の町・浅 草を再現するために芸人祭りを開催したり、台東区は隅田川花火大会の復活を行った。同時に、

観光客に良い印象を持ってもらえるようにした台東区長と地域住民の働きかけがあり、隅田 川の美化が進み、迷惑防止条例により危険な物売りの取り締まりが行われた。

そのような基盤ができてからは、各団体は挑戦的な投資を惜しまず、日本初のサンバカー ニバルや二階建てバスの運行など、非日常的なイベントやサービスを行うことによって、と にかく一度人々に浅草に足を踏み入れてもらおうとした。 

そして 1990 年代には、浅草寺を中心とした日常的風情を楽しみに観光に来るようになり、

浅草寺、仲見世通り、付近の飲食店を訪れるリピーターが増えた。それに合わせ、浅草寺付 近の景観保護が行われたり、観光客が求める、浅草の歴史を表すような人力車やレンタル着 物などの事業会社が増えたりし、浅草寺周辺の魅力が高められた。

このようにして段階を踏みながら、浅草は現在のような都内有数の観光地となった。

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4.2 研究を終えて―目的ではなく手段だった浅草の観光地化

第 2 章で言及した資源化のアプローチでは、資源化とは価値を見いだす人々の働きかけと 言われていたが、浅草の事例から働きかけの仕方も様々あると考えられる。価値の再発見や 価値の取り入れや価値の画一化である。また、内と外の観光まち作りについて前節で述べた 浅草における観光地化の 3 つの流れに沿って考えると、第 1 期は内向き、第 2 期は外向き、

第 3 期はその総合であったことがわかり、常に総合的な観光まち作りを行っていたわけでは なく、プロセスごとに最善の策を取ろうとしていた。

浅草の観光地化のプロセスには上記のような有益な学びもある一方で、忘れてはならない のは浅草の観光地化は目的ではなく手段だったことである。浅草を明るくしたいという想い から浅草の人と外部の人が協働し、時期ごとにその時々の自らの地域と外の地域の状況を踏 まえた上で、浅草の歴史に潜むアイデアと他の観光地のアイデアを貪欲に取り入れ、新しい ことに挑戦し続ける姿勢が、結果的に浅草を観光地化させたと言える。浅草の再興は決して 三期で終わって安定していくものではなく、これからも街を元気にしたいと思う人々の自由 な発想が続く限り、半世紀前の荒廃した時代には戻らないのではないだろうか。

4.3 本論文の限界と意義

観光客増加に影響を及ぼしたのは、区や地域住民の働きかけだけではなく、他にも経済的、

政治的、社会的の要因(好景気、円安、観光ビザ)などの影響も考えられる。その点の分析 や説明が欠けている点や、本稿で解明したプロセスが必ずしも全ての観光地に当てはめられ るわけではないという点は本稿の限界である。

しかし、本研究はこれまで個別的な記録しかなかった、1960 年代以降の浅草の再観光地 化のプロセスを明らかにした。その中で、歴史だけでなく、そこにはなかったアイディアや、

その地が与えるイメージなど、観光資源になりうる様々な要素と、それへの働きかけの足跡 を記録したことには意義があると考える。

< 参 考 文 献 一 覧 >

浅草観光連盟五代目会長森田新太郎(1997)『浅草繁栄の道―浅草観光連盟半世紀の軌跡―』小竹印刷。

浅草神社奉賛会(2018)『三社祭公式読本』浅草神社奉賛会。

飯島邦夫(2015)『浅草を広報してわかったインバウンドマーケティングに足りないこと』金風舎。

石森秀三(2008)「観光立国時代における観光創造」北海道大学大学院メディア・コミュニケーション 研究院『大交流時代における観光創造』1-20 頁。

大橋昭一・橋本和也・遠藤英樹・神田孝治(2016)『観光学ガイドブック』ナカニシヤ出版。

協同組合浅草おかみさん会(2017)「浅草今むかし」『おかみさん vol.33』昭栄印刷。

織田邦夫(2018)『浅草』山浦印刷。

佐藤仁(2011)『「持たざる国」の資源論―持続可能な国土をめぐるもう一つの知』東京大学出版会。

敷田麻実(2009)『観光の地域ブランディング』学芸出版社。

(13)

ジンマーマン著、ハンカー編、石光亨訳(1985)『資源サイエンス―人間・自然・文化の複合―』三嶺書房。

杉浦直(2008)「地域文化の現代的文脈」岩手大学人文社会科学部『言語と文化・文学の諸相』217-242 頁。

台東区史編纂委員会(1997)『ビジュアル台東区史』凸版印刷。

台東区教育委員会(2013)『台東区歴史・文化』第一出版。

冨永照子(2014)「おかみさんパワーで蘇った観光地・浅草―ゴーストタウン浅草からパワースポット 浅草へ」千葉商科大学『CUC view vision 38』18-23 頁。

西村幸夫(2009)『観光まちづくり―まち自慢からはじまる地域マネジメント―』学芸出版社。

中野晴行(2010)『「はとバス」六〇年―昭和、平成の東京を走る』祥伝社。

橋本和也(1999)『観光人類学の戦略―文化の売り方と売られ方』世界思想社。

森重昌之(2012)「観光資源の分類の意義と資源化プロセスのマネジメントの重要性」『阪南論集』113- 124 頁。

渡部瑞樹(2006)「観光人類学における『ホストとゲスト』の相互関係」『くにたち人類学研究』39-54 頁。

< 新 聞 >

「浅草六区の豪華 “ シルバーマンション ” 建設へ―地元と合意」『毎日新聞』、1988 年 7 月 6 日

「恐怖する観光客 “ 桃色 ” で誘い身ぐるみはぐ」『毎日新聞』、1958 年 5 月 14 日

< ホ ー ム ペ ー ジ >

東京都(2015)「国別外国人旅行者行動特性調査 結果概要」〈http://www.metro.tokyo.jp/tosei/hodohappyo/

press/2016/09/14/documents/14_01.pdf〉(最終閲覧日 2018/7/15)。

台東区役所「台東区観光振興計画 躍進台東 2020 年に向けて」、〈https://www.city.taito.lg.jp/index/

bunka_kanko/yukyaku/newvision/TourismPromotionPlan.html〉(最終閲覧日 2018/8/30)。

参照

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