関西大学における村野藤吾の建築とその後
著者 川道 麟太郎
雑誌名 関西大学博物館紀要
巻 10
ページ 207‑228
発行年 2004‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/12786
前・戦後を通して活躍した昭和 ての活動はほぼ昭和期に過不足
,'、
図
1
くなっている︒彼の建築家とし
公沌
村野藤吾
八四年︶に宝塚で九十三歳で亡 ねばならない︒ 月にわたって︑
︱つの地域や施設のために継続的に多数の仕事をした例
物が
︑ 関西大学千里山キャンパスには建築家村野藤吾が設計にかかわった建 一中・一高を含めて四十棟ほどある︒
くつかの建物は既に取り壊され︑
関西大学の建築の仕事をしたのは︑
事を続け︑
昭和五十九年︵一九 なくおさまる︒
まさしく︑戦
期を代表する建築家である︒村
はじめに
正確にはあったである︒
し)
また改造を受けたものも多い︒村野が 昭和二十四年に竣工した建物から昭 和五十五年に竣工したものまでの約三十年間である︒このような長い年 は︑村野の長い設計活動の中でも他にはない︒稀少かつ貴重な例と言わ
村野は明治二十四年(‑八九一年︶に唐津に生まれ︑
死の当日まで仕
二0七
図
2
昭和30
年のキャンパス北西部鳥厳(法文学舎1
号館新築工事および千里山図書館増築工事の竣工直前に撮られたもので、左側に大学院関連施 設、左手前にもとの「以文館」が見える)
関西大学における村野藤五口の建築とその後
川
道
麟
太
郎
図3 大学院学舎
(手前は大学ホールのポーチ)
発をした︒村野は関西大 経・商の四学部からなる 和
二 十 三 年 に 法
・ 文
革に伴い︑関西大学は昭
村 野 藤 吾 の 初
期の建築 部ではあるが︑それらには村野らしさがよく現れている︒
︵ 図
2)
︒それらは村野の関西大学での建築の けて出来上がった︑大学院学舎ゾーン 野は芸術院会員や文化勲章の誉れを受け︑名声を博した建築家ではあるが︑他方︑権威や権力を嫌い︑も
あっ
た︒
ただ︑彼は時代や体制の中で仕事をする建築家として︑若い
頃は別として︑激しい面をあまり表にはあらわさなかった︒気骨と諦念
の同居が村野の人間性そして建築の特徴と言えるのかもしれない︒
本稿では︑この村野が関西大学でした建築を見るとともに︑
その後どのようになっていったかを︑今日の建築の保存・活用問題を背
景に論じていきたい︒ それらとしばしばぶつかった気骨の人で
それらが
ただし︑紙数の関係で︑ここで個別に取り上げる
建築は︑村野が設計した最初期のもので︑
学舎ゾーンの建築である 昭和二十四年から三十年にか
︵現﹁岩崎記念館﹂周辺︶と法文
︵一︶大学院学舎ゾーン
敗戦後の教育制度の改
新制大学として新たな出 ーンが完成する︒ 学のこの新たな出発と時期を一にして︑
かし
︑ それの後
教授の個室群か
ら成
り︑
その使
くぶん変わって
ば︑ほぼ当時の
ままである︒し
い る の を 除 け
4観も窓割りがい図
大学院研究室等平面図
っていない︒外 い方は今も変わ る︒内部は主に らは平屋に見え るが︑中庭側か 方向に伸びる というのは南北
その建築にかかわったことにな
① る︒昭和一︱十四年に村野の設計で最初の大学院学舎︵図
3)
が竣
工す
る︒
この建物は木造二階建で︑白い壁面に赤いフレンチ瓦の屋根を持つ灌洒
な建物であった︒これに続いて︑昭和二十七年に大学院研究室と階段教
② .
室および大学ホールが竣工し︑それらが庭を囲むように連なってこのゾ
大学院研究室 階建の建物であ
二
0八
は 内 部 の オ ー デ ィ ト リ ウ ム が
はその典型的な例である︒それ
ャンパスでも︑特別講堂と呼ば な扱い方をする︒ 5
るが︑村野はしばしばそのよう
図 特別講堂
合いは設計上難しいところであ
方に雁行状に取り付いていた階段教室は今はない︒この階段教室は平面 的には扇を開いたような形をとり︑断面的には階段状になったユニーク
な建物であった︒このような階段状になった大講義室は︑
西欧の古い大 学で見かける由緒あるタイプのものである︒大学院研究室の手前にある 側はほぼフラットであるが︑建物の西側と南側は傾斜地になっていて︑
その地形に合わせて︑建物を雁行させるとともに段状の構成をとってい
るのである︒裏側の外部のデザ
ところもある︒
傾斜地での建物と地面との取 れる誠之館四号館︵図
5)
など
地面には地肌も表
に富んだ形をしているのは︑
6
図 ぼ っ て き て も
︑
二0九
また現在の正門
大学ホールとそのポーチ 創設当初の正門を入って坂をの
この大学のキ
る︒大学ホールが建った頃は︑ 建てられ眺めにくくなってい に新しい
﹁以
文館
﹂ が近接して
外観も南正面側は︑平成十五年 変わっていない︒
しか
し︑
その
われて崖地の風情を残している
ているが︑外観は当初とあまり
も自然風で︑
は建物の中身はすっかり変わっ
違っ
て︑
あまり手を加えず植栽
ての機能も果たしていた︒今で インは表側の整備された庭とは
館が建つまでは大学本部とし
これらの建つ敷地の地形による︒表の中庭
﹁岩
崎記
念館
別館
﹂
と呼んでいる︶
︵ 図
4)
が平面的にも断面的にも変化
大学ホールも含めて︑
これらのひとつながりの建物︵現在はこの部分を
土地の勾配に合わして階段状客席になっている︒建物は一方を小山の上 にのせ︑他方を下の道路面に合わせて建っている︒内外ともにコンクリ
ート打ち放しや荒い吹き付け材で仕上げられ︑
その外壁面は小山の傾斜 した地面に直接入り込んでいる︒建物と地面との関係は自然のままで野 性的である︒傾斜地で建物を建てるのに︑大掛かりな造成をできるだけ 避けて︑自然の状態を生かすデザインを心掛けていたのだろう︒村野は
よく﹁ブルドーザーを入れるのは最小限にしたい﹂
③
ある
︒
と言っていたそうで このゾーンの一番手前・南側にある建物が大学ホールである
この建物は当初理事長や学長の部屋があり
︵ 図
6)
︒
昭和四十年に関西大学会 を通って坂をのぽってきても︑
その南正面はよく見えた︒昭和
図7
を︑キャンパスの中に探索してみるのも面白い
︵ 図
8)
︒タイル張りを見
広島の世界平和記念聖堂
(昭和28年)
地がつぶされずに全体に細やかな陰影がつけられている︒
やや粗々しい テクスチュアでありながら陰影にいくつかの段階があるので︑全体に非
常に親しみやすい効果をあげている︒この建築こそ︑村野藤吾の作品の 視覚的調和を意図してデザインされている︒ 坂道の手前にある勾配屋根のある建物︵もとの 思われないほど落ち着いた雰囲気を持っている︒
一見したところ︑
の心理に影響するものは︑私なりに考えれば︑
であり︑﹁光線を反射するような面の取り方をしないことです﹂などと述
⑤
べている︒村野はしばしば﹁シェードのある﹂デザインを心がけている
とも言う︒
わざくすんだ粗面のセメントレンガを考案してつくらせ︑
パスの建物の壁面によく使っている︒
の取り方にも︑シェードを付けようとする意図がよく表れている︒タイ ル張りにはしばしば粗面のタイルが使われ︑中にはタイルの裏面の荒さ
を好んで︑
そのことがこの大学の建物にもよく現れている︒村野はわざ
りも幅が広く︑
るなら︑床に張ってあるタイルも︑
ソフトな壁の取り扱い﹂︑
それをキャン タイルの種類・張り方やその目地 わざわざ裏側を張っているものもある︒目地は普通されるよ
あるいは深くとられる︒
そうした村野の壁面のデザイン その種類・パターン・足触りなどで
なるところである︒村野はこの大学の建築について︑ 山図書館や工学部学舎のデザインにも使われている︒
また
︑
Jこで中が
︵中略︶近づくにつれて壁面
三十八年に千里山キャンパスを取材に訪れた建築評論家の中真己はその
印象を下記のように綴っている︒
﹁この大学内の村野の作品でもっとも古い建築である赤い屋根瓦の建 築は︑柱と梁を露出して表現のモチーフとするデザイン系列の源であり
原型である︒︵中略︶
﹁以文館﹂を指す︶との
のテクスチュアがはっきりしてくる︒柱も梁も吹き付けられた材料の被 覆にコンクリートの型枠の跡がかすかに残っている︒煉瓦状の材料も目
この建物は明らかに︑
まさかこれが戦後に建てられたと
中で︑ある意味ではもっとも重要な意義を持っているのではなかろうか︒
一連のラーメン構造をモチーフと した系列の原型として︑広島の平和聖堂︵図
7)
や横浜市役所庁舎や早 稲田大学文学部校舎のような傑作がここから出発していると思われるか
④
らで
ある
︒﹂
中真己は関西大学を訪れて︑大学ホールの建物に︑村野の作品系列の 中で重要な位置を占める︑ラーメン構造の骨組を露出した外観デザイン のルーツを発見しているのである︒この意匠は関西大学では︑後に千里 述べている壁面のテクスチュアや陰影も︑村野のデザインのポイントと
﹁マッスとして学生
とくに外壁のデザインの手法として︑
︱ ︱
10
大学ホールの建物は今はその壁面の多くが蔦︵アイビー︶
物の状態は︑
ー・リーグ﹂
なくても︑ 面白いものが沢山ある︒
図8 タイル張り事例
に被われ︑
そのデザインの詳細ははっきりは見えにくくなっている︒このような建
ア メ リ カ 東 部 の 歴 史 あ る 名 門 校 に 名 付 け ら れ た
﹁ ア イ ビ の名称の由来となっているものである︒壁面の詳細は見え 入口前で建物から飛び出しているポーチはよく目に付く︒大
けずに優雅につくり上げているのである︒
︵ 図
3)
︒こ 編むように折り曲げて造った曲線の骨組みとガラスの屋根で出来ている︒
建物の道路側の角には︑飾り物の鳩がとまっている︒
その近くには鉄
︵ 図
9)
︒こ
の街路灯は以前はキャンパスの各所に立っていたが︑今はわずかしか残 っていない︒これらの建物周りやエクステリアの入念な設計は
キャン パスの雰囲気をつくり上げるのに大切である︒村野はそれらの要素をコ ンクリート︑鉄筋やガラスなど︑手近に得られる材料を使って費用をか
︵二︶法文学舎ゾーン 昭和二十三年に新制大学になった後の学生数の増加はめざましく︑施 設の拡充が急務になっていた︒
理事会は昭和二十五年に拡充五箇年計画 を立て︑法文学舎の改築等を決定し︑
村野にその建築設計をゆだねた︒
既にその場所には︑学舎のほか︑千里山図書館︑講堂兼武道場・演劇場
︵﹁威徳館﹂︶などが建っていた︒授業を続け既存の建物を使いながらのエ 筋コンクリート製の少しお茶目な感じの街路灯も立っている の
中 庭 側 の ポ ー チ は 鉄 筋 を
口を飾っている 軽
快 で 華 や か な ポ ー チ が 入
で は ア ー ル
・ ヌ ー ボ ー 調 の
が立ち
︵ 図
6)
︑ 北 面 中 庭 側
や か に 跳 ね 上 が っ た ポ ー チ
は 鉄 筋 コ ン ク リ ー ト 造 の 軽
学 ホ ー ル の 東 面 の 道 路 側
B ふ に
雹
図9 街路灯
が︑これは一期工事と て 少 し 狭 く な っ て い る
でくびれて︑奥に向かっ ない︒この中庭は中央部 もよく見かけるものでは は︑西欧の大学に必ずし そ
の 人 間 的 な ス ケ ー ル
る ︒
一号館の中庭︵図
1 0 ) よ く 見 か け る も の で あ
欧の大学のキャンパスで
図
10
法文学舎1
号館の中庭(クァドラングル) • 竣工当時事であったため︑法文学舎一号館は三期に分けて工事が進められ︑
二十七年から三十年にかけて順次出来上がっていった︒
庭をコの字型に囲み︑三期でそれらの表に正面になる棟が付け加えられ
て一号館は完成した︒三期工事は東端部で千里山図書館の増築工事とも
⑥
一体に進められ︑
建物によって囲まれた中庭を︑
クアドと呼ぶ︒
はそのタイプのものであ
るが
︑
それを表のピロッ
ティ側から見通した姿や
期工事の継ぎ目のところ
を利用したものである︒ わ
れた
︒
それは西 それら全体の設計や工事はやや複雑な条件のもとに行 昭和
一期と二期で中
西欧ではクアドラングルあるいは単に
壁構造になっているものなどが混在している
︵ 図
1 1 )
︒柱と梁の取り付き それが適当に︑この中庭の姿に変化と深みを与えている︒
ところで︑この一号館の建物は︑目立つものではなく︑ごく普通に見
えるものであるが︑少し細かく見ていくと︑多様にデザインされている
ことがわかる︒上記の中庭の外壁は白いフラットな壁面で構成されてい
この建物も反対側にまわると︑同じ白色の外壁ではあるが少し様
子が違う︒柱型が大きく外に出て凹凸を繰り返しているところや
けになる板状の壁が斜め方向に出入りを繰り返しているところなどがあ
一号館の正面の東西に長い棟は︑三期工事で最後に付け加えられた
ものであるが︑後ろの建物より高さが低く抑えられ︑
の基調も︑後ろの部分とまた違っている︒柱・梁の軸組を外に出し︑
で出来上がった白色の壁のデザインとは明らかに違う︒
物が東側で千里山図書館の増築部分とつながっていて︑
合わせたこともあるが︑
ありながら︑
その外観デザイン
それ
は︑
そのデザインに
それにしても︑同じ設計者による同一の建物で
その表側︑中庭側︑裏側でそれらの外観の扱いは違ってい
る︒この設計者に︑デザインをそろえて︑外観全体を統一的に見せよう
外側から建物の内側へと目を転じても︑柱と壁の位置関係︑
梁の取り付きの関係などに統一性がなく︑それぞれの場所で違っている
のにいささか驚かされる︒柱と壁は空間的にも構造的にも︑ とするという意志は見られない︒ イル張りの腰壁と窓の開口部分で構成するデザインであり︑ る ︒ る
が︑
口
日除
夕
一期と二期
この建
また柱と 同じ位置で
ずれずに一体になっているのが合理的であるが︑この建物では必ずしも
そうはなっていない︒柱と壁がずれているもの︑壁が厚くなって一部で
ー 3階西側廊下
2 2
階西側廊下(左写真の下階)3
図
1 1
3
階北側廊下4 3
階東側廊下法文学舎
1
号館の3
階コの字型の3
面と2
階1
面の中庭側各廊下方 も
︑ 直 角 の 二 方 向 か ら く る 梁 が 上 階 の 床 下 の 位 置 で 柱 と そ れ ぞ れ 必 要 な 寸 法 で 取 り 合 っ て い る の が 最 も 合 理 的 で あ る が
︑ 必 ず し も そ う は な っ て い な い
︒ 梁 巾 を 柱 の そ れ に 合 わ し て 柱
・ 梁 で 視 覚 的 に 一 体 に 見 え る フ レームを構成しているもの︑片方の梁︵桁梁︶
るためにそうしている︒
する廊下を一巡しても︑
を逆梁にしているもの︑
キ ャ ン テ ィ レ バ ー に し て 外 壁 の と こ ろ で 桁 梁 を 無 く し て い る も の な ど が 混 在 し て い る
︒ こ の 後 者 の 二 つ は
︑ 窓 の 開 口 を 上 階 の 床 い っ ぱ い ま で 取 い ず れ も 視 覚 的 効 果 や 空 間 構 成 上 の 必 要 造 形 的 意 図 か ら そ う な っ て い る
︒ こ の 建 物 の 二 階 あ る い は 三 階 の 中 庭 に 面 そ れ ぞ れ の 面 で デ ザ イ ン が 違 っ て い る の に は 驚
かされる
の と は ま た 違 っ て
︑ 張
り つ め る 方 式 を 採
な外観のデザインは︑ っている︒
そ の よ う
壁 面 全 体 を タ イ ル で
ザ イ ン は 一 号 館 の も
ている︒しかし︑
そ じ ゾ ー ン に 完 成 さ せ
は 法 文 学 舎 二 号 館 と
1 2 )
︑昭和四十二年に
︵ 図
1 1 )
︒
図
12
法文学舎研究室1
号棟一番奥側には大講義室の棟があるが︑これはスパンが 大 き く 階 高 が 高 い た め に 屋 根 に 鉄 骨 の ト ラ ス 梁 が 架 け ら れ
︑ 部 屋 の 中 央 部にはトップライトが天井を断続的に縦断する形で付けられている︒
柱と壁の位置関係の取り方︑
そ れ に 柱 と 梁 の 取 り 付 き 方 に し て も
︑ 構 造的︑生産的あるいは空間構成的に合理的で一般的な方法があり︑
した方が当然設計の手間もはぶけるが︑
舎 研 究 室 一 号 棟
︵ 図 三
号 館 を そ れ ぞ れ 同 れ
ら の 建 物 の 外 観 デ
必 ず し も そ う し た 方 法 は と ら れ て い な い
︒ 村 野 に と っ て 構 造 は 従 属 的 で あ り
︑ 構 造 の 斉 一 性 や 合 理 性 を 使って全体の統一を図ろうという意志も希薄である︒
むし
ろ︑
そう
それぞれ の空間の必要や特性に応じて多様であることを選んでいるようである︒
こ の 一 号 館 が 完 成 し た 後
︑ 村 野 は 昭 和 三 十 四 年 に は 法 文
~
学︵三︶キャンパスの統一性とイメージ る ︒ ものである︒研究室一号棟は学舎一号館と連結されるものであり︑館・三号館も一号館に隣接して︑物
であ
るが
︑
は洋風の特定の建築様式でつくられている︒
ッションスクールであるからである︒
ヘクタールから出発して︑
また
︑
しか
し︑
や様式性の有無の違いについては︑このこと以外にも︑
多い不整形な土地であったのに対して︑
が原
﹂
上が原キャンパスの場合は
という呼称が示すようにほぼ平らな整った土地であった︒千里山
キャンパスの場合は士地取得の状況から︑全体的なマスタープランを立
﹁ 上
それまでの大学院学舎ゾーンにも法文学舎ゾーンにも現れてこなかった
それらで共通の中庭をつくる一連の建
それらは一号館とは全く違った外観のデザインになってい
千里山キャンパスの建築の統一性や様式性のなさは︑学内外の人たち
からよく耳にする︒関西学院大学の上が原キャンパスなどと比較すると︑
いっそうそのことが強く意識される︒関西学院大学の上が原キャンパス
その設計者はヴォーリズで
あり︑彼は英語教師として来日してその後に建築を始めた人である︒こ
のキャンパスが洋風の建築様式を持っているのは何よりもこの大学がミ
両キャンパスでの統一性
土地条件の違い
が大いに関係している︒関西大学の千里山キャンパスの場合は最初約五
土地を継ぎ足しながらキャンパスを拡張して
いったのに対して︑関西学院大学の上が原キャンパスの場合は当初に二
十五ヘクタールのまとまった土地を取得してキャンパスが形成された︒
それらの土地が千里キャンパスの場合は千里丘陵にあって起伏の
二号
﹁木を多く植えるということですね︒木が育っ
てることが難しく︑建築の統一性や様式性を前もって設定することが困
難で
あっ
た︒
また︑起伏の多い土地という点では︑大きな造成工事を避
けて︑建物を敷地の状況に合わせて建てていく方が統一を図るよりも︑
千里山キャンパスが建築の統一性や様式性を持たなかった理由として
これらの諸点が挙げられるが︑
威主義や絶対主義︑
われることも︑
それら以外にもやはり︑この建築を担当
した設計者村野の考え方や個性が強く作用していたと思える︒村野は権
あるいは何か特定の教条などにとらわれることを極
度に嫌った建築家である︒彼は若い頃は建築の古い様式主義と戦い︑
た同時に近代主義にも強い疑問を抱いていた︒村野は過去の様式にとら
理論や教条にとらわれることも︑
のため、彼は特定の様式や主義•主張にたよることなく、
風︑折衷的なもの︑明快で単純な形態のもの︑
ど︑さまざまな建築をした︒
った
︒
さて
︑
その
点で
は︑
ともに嫌っていた︒
西洋
風︑
まそ
彫塑的で造形的なものな
理論や主義•主張を前面に立
てて活躍する建築家の多かった近代において︑評価の難しい建築家であ
そのような村野が︑この関西大学のキャンパスの建築に込
村野は後に︑関西大学の建築をめぐる川添登との対談で︑大学院学舎
﹁大学院というものがどこの大学でもわからない時代に
⑦ こしらえた﹂と述べている︒彼は彼なりのイメージを描いて設計に当た
ったはずである︒具体的にそのことを述べたものはないが︑村野はしば
しばキャンパスについて︑低い建物と木々や庭のことを述べている︒学
校建築をめぐる座談会で︑ の建築について︑ めたものは何であったのだろうか︒ 日本 むしろ理にかなっていたとも言える︒
二︱
四
村野はさらに低層の建物について︑ ている︒村野は後に︑自分としては
﹁あ
れ
として て陰になってくると︑くても救ってくれます︒いようにできないものか︒つくりだとか環境のつくり方が建築に反映して学生の心理に及ぼす影響
⑧ は非常なものです﹂などと述べている︒こういった村野の発言を受けて︑
﹁学
園﹂
いくらかそこに潤いが出てきて︑建物は少々悪
したがって︑
なるべくならば低い建物の方がいい﹂︑
建築計画学者の吉武泰水は自分の考えも交えて︑学校建築のあるべき姿
⑨ という言葉を当てている︒
初︑キャンパスについて﹁学園﹂
あまり高い建物はなるべく建てな というイメージを描いていたのではな
いか︒彼が関西大学で最初に完成させた大学院学舎ゾーンは︑低層の建 物と庭で出来ており︑確かに﹁学園﹂と呼ぶにふさわしい雰囲気を持っ 大学院の初期の建物が自分じゃ一番好きなんです︒後は何かその時代の
⑩ 影響を受けて⁝﹂と語っている︒
も︑低い建物の方がいいと思う︒というのは︑
をとったりすることをできるだけ避けたい﹂
物が威圧的になることを強く嫌った︒建築が大きな姿をとることや何か 様式をまとって権威や威厳を主張するのは好きでなかった︒関西大学は 大阪の地において︑法律学校を前身として発足し︑広く市民の大学とし
て自由闊達︑実学︑
反権力などを尊ぶ気風を持つ︒彼が権威主義を嫌う
態度は︑関西大学の気風とも呼応していた︒ ︵法文学舎一号館を指す︶と
圧迫したり︑圧倒的な形
⑪
からだとも言う︒村野は建 また︑戦後の開放された雰
囲気の中で︑大学に自由闊達の精神を求めて︑村野はキャンパスの建築 に特定の様式性や統一性を付与することを避けたとも言える︒
そういう ﹁それは許されないでしょうけれど
ニ︱
︱口
で表
現す
れば
︑村
野は
当
﹁庭
の
二︱
五
門のようなもので︑それを抜け 人にとっては︑言うならくぐり て
いた
︒
その下を通過していく 3 ー
ち が 門 衛 の 人 た ち と 話 を 交 わ し
図 門衛所(撤去)
でカウンター越しに訪れた人た ら道路側に水平に伸び︑その下 えた水平の庇が門衛所の建物か ひっそりと建っていた︒低く抑 かくデザインされてはいたが ものではなかった︒きめこまく れていたが︑その建物は目立つ ん手前に門衛所
︵ 図 1 3 )
が置か が︑村野がつくり上げたものは︑
この大学のキャンパスの規模やイメー
和︑たぐいなきこの学園︑⁝﹂と歌い始められる︒
みに︑大正十一年につくられた関西大学の学歌は 物を特徴付け ものよりはむしろ
それぞれの場所やそれぞれの建築の必要に応じて建 キャンパス全体に多様性を与えようとしていたのではな
いか︒統一性に寄与するものがあるとすれば
それは木々や庭と低層の 建物から成る全体の雰囲気あるいはその風景であったのであろう︒
村野の権威主義や威圧的なものを嫌う態度は︑ ちな
﹁自然の秀麗人の親
昭和二十七年に出来上 がったキャンパス正門付近の設計にもよく現れている︒北側にあった旧 正門を︑大学の拡張とともに現在の正門のある位置に移す設計であった
ジからすると︑ずいぶんと小規模で抑えたものであった︒
入口のいちば
︵一︶大学院学舎ゾーンの変化
そ の 後 の 建 物 の 変 化
張る
な﹂
という言葉をデザイン上も大事にしていたと言われる︒実際︑
彼の設計した建物は一般に門や入口は抑えめで小ぶりに出来ている︒こ
の大学の村野の設計した建物の入口を見ても︑
村野はこの大学で
ある大学で見られるものであるが︑彼はそういうものには関心を持たな
かったようである︒
側にきれいに整った芝生の中庭がつくられ︑
そろ
えら
れ︑
そのことはよくわかる︒
正門付近は全体として︑極めて親しみやすく威圧感
この門衛所や銀杏並木も
今はなく︑現在は正門付近にも大きな建物が建っている︒これも大学の 拡大や発展のもとでは仕方のないことであろう︒近年︑総合図書館の裏
そのまわりの建物の色調が
ある種の統一感がつくり出されている︒このような統一性
は︑かつて村野が考えたキャンパスのイメージには無かったものである︒
これも時代の推移の中で生まれてきたものである︒
このゾーンは︑出来上がってからちょうど半世紀ほどがたち︑今日で は建物に収まっている中身や機能といったものはほとんど入れ替ってい る︒わずかに︑教授の個室の棟として建てられた大学院研究室がほぼ同
は同じ村野の設計によって︑ 様の使われ方をしているぐらいである︒最初に建った木造の大学院学舎
昭和四十九年に鉄筋コンクリート造四階建
など全く感じさせないものであった︒
﹁時
計塔
﹂
しかし
というものもつくらなかった︒多くの権威
てさして長くない銀杏並木の緩い坂をのぼっていった︒村野は
﹁門
戸を
ill← ,̲,,, 大学院研究室のもとの中庭側廊下
てい
る︒
の大学院関係の
棟がそうであった︒このように では経商学舎︵昭和三十二年竣エ︶の西端高層部の個人研究室 ろでもよくしている︒関西大学 のつくり方を︑村野は他のとこ れている︒このような廊下の壁
14
ヽそれがまっすぐに変えらヽ
グザグにつくられていたが︵図 れている︒ここの壁はもとはジ が︑片廊下の内側の壁が改造さ が連なる構成は変わっていない た︑内部についても教授の個室 の﹁尚文館﹂︵大学院棟︶の竣成とともに大学院関係は全部そちらに移り︑この建物は内部が改造されて現在は外国語教育研究機構が入っている︒昭和四十九年の建替えとともに︑その用地の拡大のために︑奥にあった階段教室も同時に撤去された︒大学ホールは昭和四十年の関西大学会館の竣成とともに本部機能はそちらに移り︑
その後は国際交流課などが入
っていたが︑これも平成八年の新関西大学会館の竣成とともにそちらに
移り︑現在は改造されて一・ニ階ともに学生用の軽食兼談話室に変わっ もとの大学院研究室の棟は︑外観は大きくは変わっていないが︑中庭
側の大きな開口部の窓割りがサッシュの取替え時に変えられている︒ ﹁岩崎記念館﹂に建替えられたが︑
ま その後︑平成十二年
二 ︱
六
側の壁面をすっきりして 掃除などもしやすくした わざわざ改造工事をして
まで得られる大きな効果 いためであろう︒しかし︑ 広くしたいことと︑廊下 く︑個室内部を少しでも 改造されている︒おそら
払われてまっすぐの壁に
しか
し︑
その壁は取り
図
15
経商学舎研究室棟のもとの外観てい
た︒
である︒壁をジグザグにすることによって︑廊下に直線的に流れる通路 の部分と入口前に三角形の淀むアルコーブ状の部分ができる︒
それによ
って︑各部屋の前にポーチのような空間ができ︑仮にドアーを廊下側に 開いたとしても通る人に当たることはない︒
それらの点でこの方が理に かなっていると言えるのである︒大学院研究室のこのところの廊下は中 庭に面し︑中庭側は一面が大きな窓の開口部になっている︒廊下からは 外の中庭が見えるし︑中庭側からは中の廊下の様子が伺える︒ジグザグ
に配置された壁は︑中庭側から建物を見る人にも変化のある姿を伺わせ やものが停滞するところでもある︒
つまり通過と停滞が起きる場所なの
するのは単に面白くするためではなく︑
ところである︒しかし同時に︑ まっすぐにするよりも︑それの
方が機能的で理にかなっているからである︒廊下は人やものが通過する
そこは各部屋の入口が面するところで人
の観点からも︑のこしていきたいところである︒ 小さな
﹁以
文館
﹂ は壊され︑それに代わって大きな
﹁以
文館
﹂
二︱
七
が新築さ 気をのこしている︒しかし
この
ぶ子
園﹂
の雰囲気は再開発の圧力が働
山キャンパスの中でも独特のものであり︑村野の描いた はあったのであろうか︒
もとの壁の意味合いを理解せずに︑
たメリットのためにそれを壊していたとすれば︑
ある︒経商学舎研究室棟の方も︑
ちょっとし それはまことに残念で うに造り変えられている︒斜めの部屋配置に応じて︑外壁側も廊下と同
じようにジグザグ状になり三角形のバルコニーが各部屋に付いていたが
︵ 図
1 5 )
︑この棟の場合は︑
それらが同時に取り払われて︑廊下側も外壁 側もまっすぐの壁に置き変わっている︒個室群の間仕切壁を取り払って 教室に改造するためには仕方がなかったのであろう︒柱は取り外すこと ができないので︑外壁側で柱だけが斜めの配置のままにのこって︑
ての面影をしのばせている︒
いる
が︑
旧大学院研究室の方はさいわい︑外壁側は ジグザグ状の外壁とバルコニーをもとのままにのこしている︒
この旧大学院学舎のゾーンは︑最初に建てられた木造の大学院学舎が 鉄筋コンクリート造四階建の建物に建替えられ︑
いくぶん様子を変えて それでもその他の低層の建物で中庭を囲むその雰囲気は︑
くもとでは弱い存在となる︒庭は建築余地となり︑低層の建物は高層化 し容積を増すのに容易であるからである︒実際︑少し離れて建っていた れた︒この再開発の圧力は坂を上ってすぐそばまでやってきている︒こ
のゾーンはキャンパスの中でもユニークで美しく 形成の歴史を見る上でも重要なところであり︑
﹁学
園﹂
かつ
千里
の雰囲
千里山キャンパスの キャンパス・アメニティ
これを教室棟に改造するときに同じよ
白い斜路があり︑
︵ 図
1 6 )
︒斜路は壁から離されて微妙に折れ曲がり︑
路の裏面なども面白い形にデザインされている︒学生たちがその斜路を 上り下りするときなどは︑全体として劇場空間のような雰囲気を醸し出 す︒正面棟を通り抜ける西側のもう一方の開放部分には︑美しい螺旋階 にも付いている︒この旧図書館の外には︑折れ曲がって宙を舞うような
支え
︑
そのそばから大きく育った柳の木が斜め方向に伸び上がっている︒
この 石は
︑
斜路が付いている
ゞ
<カ
︵ 図
1 8 )
︒
その斜路は低い位置で石のかたまりがこれを
これと同じタイプの階段が近くの旧図書館︵現・博物館︶
の内部
段が顔をのぞかせている
︵ 図
1 7 の
3)
︒この階段は各方向からよく目に付
そのそばの壁は色タイルを使って装飾が施されている
それを支える柱や斜 もとは建設現場にころがっていた石とコンクリートでつくら
素も健在なものが多い︒
一号館正面棟の中庭前のピロッティには形の面
それでもなお︑村野の設計に ぶん込み合ってきているが︑ などの新設棟が加わってずい
図
1 6
には他の設計者による研究室 や学舎二号館・三号館︑さら
二号棟•三号棟や学舎四号館
よる当初の雰囲気が十分にのこっている︒建物内外に付けられた建築要 身の設計による研究室一号棟
このゾーンは︑後に村野自 ︵二︶法文学舎ゾーンの変化
法文学舎1号館の斜路
1
「円神館」入口前の階段(撤去)3 法文学舎1号館の階段
図17
2 4
法文学舎の煙突まわりの階段
関西大学会館の内部階段 階段事例
一号館の裏庭には面白い形の背の高い白い煙突が立っている︒
その煙
いところである︒ れた人造石であるが︑今では古びた自然石のように見える︒この斜路はデザイン上の逸品である︒使われなくなった建物やその部位はいずれ取り壊される運命にあるが︑何とかこれをのこせないものか
工夫が欲し 現在は使われていないが︑
これは一号館にある斜路や螺旋階段とともに
二︱八
館にいるようで楽しい︒ も︑さながら︑
そ れ ら の 博 物
階 段 や 斜 路 だ け を 見 て 回 っ て
ンパスの中で村野が設計した 長
に と っ て 大 切 で あ る
︒ キ ャ
い る こ と が
︑ 我 々 の 生 活 や 成
心 く ば り さ れ た 美 し い 環 境 に
図
19
法文学舎研究室1
号棟西入ロポーチ(撤去)
付かれなくても︑
そういった
し い 曲 線 を 描 い て
︑ 見 た 目 に も 美 し い
︒ 手 す り の 高 さ が
︑ 昇 り 始 め の 低 い位置で低く取られて︑それが徐々に高くなっている場合も少なくない︒
これらのデザインはよほど注意しないとわからないが︑
た と え 普 段 は 気
図
20
大きく軒一杯まで取られ︑
二︱
九
かつそ は 他 の 階 の も の よ り 開 口 部 が 少 し
誠之館
1
号館入口前の踏段(撤去)つ く 位 置 が 違 っ て い た
︒ 三 階 の 窓
口 部 の 大 き さ と そ れ ら の 壁 に 取 り
‑.二階の窓と三階の窓とでは開 変
わ っ て い る
︒ 当 初 の も の は
︑ る
︒ 中 庭 を 囲 む 壁 面 の 窓 の 構 成 が
の デ ザ イ ン か ら は 改 変 を 受 け て い
部分であるが︑ に
な る 場 所 が 一 号 館 の 中 庭 を 囲 む
すりひとつを取り上げても
そ れ ら は 握 り や す い 形 と 肌 触 り を 持 ち
︑ 美
った
︵ 図 2 0 )
︒いずれも取り払われて今はない︒ いることによる︒例えば︑手 で 美 し い も の に し よ う と し て
のある造形物になっていた︵図
1 9 )
︒ 同 様 に
︑ い ら な く な っ た 石 や コ ン ク
図
18
千里山図書館(現・博物館「簡文館」)の斜路 常
的 に 使 わ れ る そ れ ら を 快 適
く な る こ と と
︑ 特 に 村 野 は 日
その辺 る た め
︑ 必 然 的 に そ れ ら が 多
こ の 地 が 起 伏 の 多 い 土 地 で あ
わけよくデザインされている︒ 段
や 斜 路 は 村 野 に よ っ て と り
いる
︵ 図
1 7 の
2)
︒ 屋 内 外 の 階
さ れ た 螺 旋 状 の 階 段 が 付 い て
突 の 周 り に も 周 到 に デ ザ イ ン
村 野 は 建 物 の 足 元 ま わ り や ア プ ロ ー チ に も 気 を 配 っ た デ ザ イ ン を 施 し てい る︒
あり
︑ そ れ は 階 段 や 斜 路 と 同 じ よ う に 人 々 が 直 接 に 動 き 回 る と こ ろ で か つ わ れ わ れ の 目 に 付 き や す い と こ ろ だ か ら で あ る
︒ 昭 和 三 十 四 年 に 村 野 の 設 計 に よ っ て 建 っ た 法 文 学 舎 研 究 室 一 号 棟
︵ 図
1 2 )
しては極めてシンプルなものであり︑
は建物と ま た そ の 入 口 も 小 さ く 質 素 で あ る が 入 口 の 足 元 ま わ り に は や や 特 異 な デ ザ イ ン が 施 さ れ て い た
︒ ポ ー チ
に当たる部分にコンクリートの板状の床が張りだし︑
造石が受け︑さらにその石が段状になって地面へと続いていた︒
にある材料を使い質素ではあるが︑
そ れ を 自 然 石 や 人 そ
の 機 能 を 満 足 さ せ る と と も に 作 意 リ
ー ト を 利 用 し て つ く っ た 段 状 の 踏 石 が 誠 之 館 一 号 館
︵ 生 協
︶ 前 に も あ こ
の 法 文 学 舎 の
︱ つ の ポ イ ン ト こ
こ も 村 野 の 当 初
図
21
工学部学舎の窓枠改修工事に伴うファサードの改変(左がもと)る︒あまり平坦で画一的な壁面に囲まれることは︑
ない
︒
ほど良い変化とプロポーションが必要である︒
大きさ•構成・壁
への取り付き方が
すべて統一されて︑ の時にサッシュの
の二十年間である︒
しか
し︑
この間に千里山キャンパスにある六学部の 製に変えられ︑
そ ので︑後にアル
西大学の仕事をしている︒その後は昭和四十九年の
チ ー ル 製 で あ っ た
初 の サ ッ シ ュ は ス
が 必 要 に な る
︒ 当
れらは枠で縁取られて壁から少し突き出ていた︵図
1 0 )
︒これらの開口部
の微妙な変化は︑この中庭の景観や雰囲気をつくり出すためのものであ
やはり退屈で面白く
しかし︑このよう
に細心の注意を払ってデザインされた開口部も︑窓のサッシュの取り替
ど の 窓 も 同 じ も の
てしまった︒サッ
で
︑ 年 月 を 経 れ ば
変えられてしまったのである︒これと同様のことが現在︑
大掛かりに進行中である︒ここではサッシュのアルミ製への変更ととも
に︑村野が当初デザインした窓割りを逆さに変え︑改修工事が行われて
︵ 図
2 1 )
︒おそらく窓の開閉のしやすさと若干の維持管理上の問題か
らそうしているのであろうが︑
体の各面のファサードの雰囲気が変わってきている︒これなども︑
の人々の気付かないままに進んでしまうのであるが︑
デザインが理解されないまま変えられているようでいささか残念である︒
︵三︶全体を通じて
ニ ニ
O
工学部学舎で
工学部の場合は大掛かりなので︑建物全
個々の建物については紙数の関係上︑ せっかくの苦心の
上述のものしか扱えないが︑
こでは村野が関西大学で設計した建物全体のその後の変化を概観してお
きたい︒われわれが現在までに調べた結果をまとめると園
m ]
のようにな
る︒これらの中には︑村野だけでなく︑大学内の施設課や他の設計事務
所が協力して設計に関与したものも若干数含まれる︒全体の数で見れば︑
村野は三十一年間に四十の建築工事の設計をしたことになる︒昭和二十
四年から昭和四十四年の二十年間はほぼ途切れることなく︑継続的に関
﹁岩
崎記
念館
﹂
と昭
和五十五年の第一高等学校新校舎である︒継続的にかかわったのは最初
全学部および一中・一高の中心的施設の設計にかかわり︑キャンパスの
全体的雰囲気と骨格をつくっていったと言うことができる︒
それらの建物がその後どのようになっていったかを表1
に見ると︑多
さ ら に は 取 り 換 え
必然的に補修や さ
れ 痛 み や す い の
こ
シュは風雨にさら に
つ く り 変 え ら れ
え工事に合わせて︑
一般
いる
図書館は上から吊られていたブー わり浮いたような姿を失い︑専門
2 2
図.
図
23
千里山図書館(現・博物館「簡文館」)
に建っていた千里山図書館はふん その姿を変えていた︒高いところ いたピロッティ部分が壁で囲われ 確保のために︑吹き放ちになって 時代に既に︑書庫その他の部屋の ることにもなる︒どちらも図書館
専門図書館(現・
機能や用途を越えて長く生き続け ての存続価値が認められ︑それの
「円神館」)
ちや すい
︒ そのために︑建物とし
の1階まわりの改変
くそれ自体で象徴性や記念性を持 かし一方︑円い建物は目立ちやす り︑無理を伴うことにもなる︒
し
とす るが
︑ それが難しい仕事にな
れに応じて︑必然的に改造を必要
計 し た 学 舎 に 大 規 模 な 増 築
会 学 部 学 舎 で は
︑ 村 野 の 設
の余地を使って研究室棟が 結
す る 形 で 四 号 館 が 新 設 さ
を く ず し て 学 舎 一 号 館 に 連
の1階まわりの改変
なかなか難しい︒用途が変るとそ
く心くばりが払われているように思える︒
くの建物が大きな変化を受けていることがわかる︒既に撤去されている ものも少なくなく︑残っているものもほとんどが増・改築を受け︑建物
﹁簡
文館
﹂ 中で他の用途に変更されたものの代表例である︒
それ自体が完結した形態であるので︑
円い形態というのは︑
それに変更や増築を加えることは
た︵図
2 3 )
︒
部 学 舎 で は 建 物 を 撤 去 し て れ
︑ ま た
︑ 庭 や 敷 地 境 界 部 増
築 お よ び 新 築 さ れ た
︒
~
社二つの円い図書館︵現
︵ 図
2 2 )
と現 の用途が変わってしまっているものもかなりある︒
﹁円
神館
﹂︶
は︑途
る
︒ 法 文 学 舎 で は 運 動 場
の建替工事が多くなってい れ
の 難 し い 経 商 学 舎 と 工 学
増築工事が多く行われ︑
そ 文 学 舎 と 社 会 学 部 学 舎 で は
る
︒ 増 築 余 地 の 得 ら れ た 法
れに大きな変化を受けてい
ス状の各部屋の下に壁が入れられ︑当初のデザインの特徴は失われてい
その後︑大規模な総合図書館の新設とともに︑
専門図書館は昭和六十年に研究所や事務局の入る建物に︑
建物の使い方に大きな変更をきたしながらも︑
千里山図書館 は昭和六十年に考古学資料館に︑平成六年には関西大学博物館へと変り︑
そして現在は︑
学生が使う情報センターに造り替える工事が進んでいる︒この工事では
その改修デザインにはよ 各
学 部 の 学 舎 で も そ れ ぞ
表
1
関西大学における村野藤吾の建築とその変更凡例: S=昭和、 H=平成。木=木造、 RC=鉄筋コンクリート造、 S=鉄骨造、 SRC=鉄骨鉄筋コンクリート造。
増築・改築・改修=いずれも小規模なものは除き、大がかりなもののみを記載。
●鞠名奪 ●設囀 その艤
(
[
]()内内は名は建称物の内変容更、を示す) 鐵工年
闇 員
賣化の●● ●考^ 干 玩 子 舌 S24 不Z 猾 云 ・ 建 習 S49年、岩崎記念館建設に伴い撤云
守衛所および正門 S27 RC1 撤去 建替 HS年、新関西大学会館建設に伴い撤去 大[[学大岩学崎ホー院記念ルホ館ール別館]]
S27 RC3 改造 用 途 変 更S282部年年改、一部生を研究軽室食に改談造話
H内l 造学 用 の • 室に用途変更、
大お[学岩よ院崎び研階記段念究室教館室別館]
S27 RCl地1 一部翡撤去
HS4Sし5H81932年、年年年外、、、、尚国階サ廊文語段下ッ館研教のシが究室ュジ機完のをグ成構撤取ザ教、去グり大員換の学個壁え室院面と研に変を究変更直室更線が状移に転変 第一学舎(法文) 1号館 S27‑
R
S地C3一一l部部2 改修 H元、 H5‑12年、サッシュの取り換えと変更 S30
第一高等学校校舎 S28
一一増部部撤撤築去去 建建替替 SS4311 .年32、.4理新7校年科特舎に増建別築教室建設に部伴い一部撤去 S55年、 設 に 伴 い 一 撤 去
経商新館 S28 RC2 撤去 建替 $60年、第_学舎1号館ゼミ棟建設に伴い撤去 円(形千の増図里書山築)書館館図 S30 RC3
翡 542年、リ旧ビー館ロト書テ打庫ィち部部放分分しにを部増増分簗築に 書庫:S6 S53年、
コンク 塗装
[簡文館] 改造 用途変更S室60に年用、途総変合更図書館開館に伴い、考古学資料 改造 用途変更H封6鎖年、、照関西明大の学新博設物等館として開館。 開口部の 第一局等学校講堂 S30 改造 用途変更S56年、図書館兼講堂から柔剣道場へ用途変 場[景)風]館(柔剣道 改修 用 途 変 更
H
ル1
3ー年ム、に改用修途、変柔更剣道場からカウンセリング 第_学舎(経商) 2号館 S32 RC3地1 改修 S41年、前面の入ロスロープを階段に変更一部7 改造 用 途 変 更S部分41年を、普経通商教研室究に棟改建造設に伴い、個人研究棟 改修 付1号加館・2号館間の渡り廊下に腰壁や屋根を 改修 S50年、 2号館の外壁補修
一部撤去 建替 H15年、 2号館講堂部分を撤去、建替 第 一 中 闘学校校舎 S32 RC3
増築 HS366年年、、増増築築 (バルコニーを室内に取り込み)
[(扇一形中 ) 1号館]
法文学部研究室1号棟 S34 RC4地1 改修 南設西置角の入口周り整備、スロープ・階段を
場工学、部渡実り験廊場下、、 実便習所工 S34 Sl 撤去 建替 S49年‑H9年に順次建替。便所は現存 第四学舎(エ) 1号館 S35 RC5地1 増築 S40年頃、階段室周りのピロァィ部分に増築
改修 Hto‑‑15ー年ト、打サ放ッしシ部ュ分のに取塗り装換えと変更、 コ ンクリ
改造 H二15重年床、、1外階部中廊通路下設を取置 り払い大部屋型へ、
工学部製図室 S35 Sl 撤去 S36年、撤去
誠之館1号館 S37 RC2 増築 S40年、南棟を増築(生協食堂)
(会館棟)(生協) 一部3 増築 S42年、南棟に3階部分を増築 増築 S57年、南棟にさらに増築 改造 用途変更
H 塗
に12装店年舗、、化テ生さン協れトのの、配設外置部置替等にえ倉、庫協や同事談務話室室をが増大築幅、
誠(事之館務2室号・館会議室棟) S37 RC2 ・増改築造 用 途 変 更 H 11年、 1階を情に報改処造理センター・サアフイ トステーション
~
誠之館3号館(部室棟) S37 RC4
悶
S38年、和室(茶室)を増築H14年、コンクリート打放し部分に塗装 誠之館4号館 S37 RC2地1 改修 S56年、天井及び照明器具を改修
(特別講堂) 改修 H6年、正面・中 2階部分改修(開口部を閉
総合体育館[東体育館] S38 R一部SC 2
; ;
HSS53149年0年、コンク年、、更衣室S43年、部リ倉ー分庫をトを増打増放築築し部分に塗装工業技術研究所 S39 RC2
悶
建替 SHタ5102ー年年) 、、 S撤55去年し、建増替築 (学術フロンティアセン 専門囮書館[円神館] S39 RC3 増築 S41年、渡り廊下増築増築 部S5分3年の、一図部書書所庫蔵化場所の不足のためピロティ 改造 用途変更 $局60・年会、議総室合等図の書入館る建施設設にに伴変い更研究所・事務 改造 用途変更
H更の
も16撤大、年去きも、、とく情の建改報入物変セ最口ン(外外上タ付部階ーにけブにEあリV改のッっ造設たジ。置お中外庭、よ部入のび・外室口内部の内部変階化と段な 第四学舎(エ) 2号館 s39..., RC一部 改修 サッシュの取り換えと変更
S42 S5 地1
実第験四学棟舎 (エ) 2号館 S39 S3 増築 Sを増41年築、実験室棟と大教室棟を結ぶ渡り廊下 改造 H15年、火災の補修を行い、室の配置を変更 第大教四学室舎棟 (エ) 2号館 S39 S2 増築 Sを4増1年築、実験室棟と大教室棟を結ぶ渡り廊下 一部撤去 S44年、 C2ン号分館を研撤究去棟の建設に伴い南北方向
の4スI
増築 1階製図室の準備室増築 関西大学会館 S40 RC4地1 外部階段の閉鎖
改修 H7年、玄関前キャノピーの設置 一高3号館科 S40 RC4
[一高理特別教室]
経商学部研究棟 S41
字
増築 : S49年、社会学部研究棟と連結 第一学舎大中教室棟 $42 RC3 北側入口を閉鎖2号[第館一]学舎(法文)
第一学舎LL棟 S42 RC5 改修
:
H9年、エレベータを設置 3号[第館一]学舎(法文)法文学部研究室2号棟 S42 RC7 増築 S49年、 51年に増築 一部5
第二学舎(経商) 3号館 S42 SRC4 改修 S61年、サッシュ改修 第1号三館学舎 (社) 学舎 S43 SRC4地1
悶
Sコンク61年、 リ32ー・号4ト館号打を放館増し築(部ソ分に塗増築 H増l4築年、 号 シオAV装ホールなど)を 社会学部研究棟 S43 RC6 増築 S49年、経商学部研究棟と連結
[経済政治研究所] 改修 H15年、入口部分の改修
電子工学実験場 S43 RCl
[機械実習工場]
建2土第号木築四館工学学研学実舎究験・棟(場エ)
S43 RC2
S44 RC6地1 改修 サッシュの取り換えと変更 ー中2号理館科 S48 RC3地1
[一中 棟]
岩崎記念館 S49 RC4地1 改造 用途変更 H12年、研尚究文機館構新の築建に物伴にい変改更造、 用途変更 外国語
第[一一高高等校学舎校1号新館校]舎 S55 RC・ SRC5
~
が加えられた︒経商学舎では︑昭和二十八年に竣工した経商新館が昭和
六十年に経商ゼミ棟に建替えられ︑昭和三十二年に竣工した第二学舎二
号館は昭和四十一年に西端部の研究室棟を普通教室棟に改造し︑現在は
東端部の大講義室部分が撤去され容積を増す工事が進行中である︒
れの建物も村野の丁寧な独特のデザインが見られるところであった︒
って数年のうちに建替えられてしまうことも珍しくない︒
このように激しく変わっている事実を目の前にすると︑
て︑改めて考え直す必要がある︒
建築の保存と活用
建築は絵画・彫刻などと同じように鑑賞の対象物にもなる︒ 築や模様替えが繰り返され︑建物の用途変更も行われている︒ いず
工
学部では︑教室棟や研究棟の改造や模様替えはかなり頻繁に行われ︑各
学科の実験棟や製図室は順次︑容積を増す建替工事が行われている︒昭
和三十九年に竣工した工業技術研究所は二回の増築工事の後︑平成十年
には完全に撤去され︑同所で容積を増す建替工事が行われ︑名称も学術
フロンティアーセンターと改称された︒学生の厚生施設等でも︑増・改
ここでは村野の設計したものに限って見てきたが︑他の建物について
も同様の変更が進行している︒昨今の世の中では︑立派な建物でも︑建
それ
にし
ても
自分たちの足元で︑新しく建った建物が五十年から二十年ほどの間に︑
やはり驚きを禁
じ得ない︒建築計画の進め方や建物の更新や再生・活用のあり方につい
しか
し︑
建築を美術館や博物館に納めておくわけにはいかない︒建築は一定の場 所に建ち︑使い続けられてこそ本来の建築の姿と言える︒できない︒ここに建築の保存と活用の難しいところがある︒
ニ ニ 四
一方︑建築は
それぞれの土地に建って風雨にさらされれば︑必然的に痛み朽ちていく
し︑使い続けるなかでは︑使い方や要求水準の変化によって増・改築や
模様替えが必要となる︒建築をもとのままにおいておくことはもとより
ところで︑建築の保存や活用にどのような価値があるのだろうか︒何
も無理して残さなくても︑必要に応じて建替えていった方がいいのでは
ないか︒新築によって新たな機能や要求に応じられるし︑施設のグレー
ドアップもかなえられる︒土地の高度利用も図れるし︑建設投資による
経済的効果もある︒周辺の土地利用が変化し︑また都市化が進行してい
る中で︑特定の建物だけを古いままで残すのは不合理でもある︒
それ
に︑
そもそも古いままでは︑耐震性などの観点から危険でもある︒こういっ
た議論は︑保存問題に関して建替推進側からしばしば発せられるもので
ある︒近年︑話題になった滋賀県の豊郷小学校の保存問題でもそれらの
ことが繰り返し言われた︒ヴォーリズによって設計された古い校舎の保
大阪では中之島の公会堂が近年︑巨費を使ってもとの姿に保存・再生
され
た︒
しかし︑ここに至るまでには︑建替構想を退けるなど︑努力と
計の大阪証券取引所や心斎橋の村野設計のそごう百貨店の建物は︑
ぞれ保存を求める声もあったが取り壊された︒
しか
しま
た
それ
そごう百貨
店の隣に建つヴォーリズ設計のゴシック調の大丸百貨店は保存されてい
く方針と聞く︒村野が設計したものでは︑東京にある千代田生命本社ビ 忍耐の長い道のりが必要であった︒一方、北浜の長谷部•竹腰事務所設 存問題で︑町が大揺れに揺れて町政が混乱した︒
図
24
ロンドンのテート・モダーン 美術館の内部ルが目黒区総合庁舎に転用・再生され話題を呼んでいる︒これなどでは︑
外性が生まれている。この千代田生命本社ビルのように、保存•再生で も単に同じ機能や用途を維持するのではなく︑積極的にそれらの転換を 図りながら︑建築をのこしていこうとする動きが近年世界的に顕著であ パリではかつて駅舎であった建物がオルセー美術館に生まれ変わり︑
ロンドンでは発電所がテート・モダーン美術館︵図
2 4 )
に再生され︑ウ ィーンでは大きなガスタンク群︵﹁ガソメーター﹂︶が集合住宅等︵図
2 5 ) に︑またイタリアのトリノではフィアットの自動車工場がショッピング
施設やホテルに︑
それぞれ生まれ変わっている︒これらの駅舎発電所︑
ガスタンク︑自動車工場といったものは
駅舎はやや違うにしても︑
し)
わゆる産業建築であり︑元来は本格的な建築として扱われなかったもの る ︒ 当初から庁舎として設計したものでは得られない魅力や余裕︑それに意
の合理主義的な考えのもとでは到底できないことであり︑無駄なことで 的に優れた建築かというと
にのこされたのは
たという事実があるからである︒
や時間をかけて建てられるし︑
そうかといって︑
伝 統 的 な 建 築 様 式 を 使 っ て
︑
ども設けて
必ずしもそうではない︒
やはり長くそこに建ち続けて︑
来︑石で造られ記念的で永遠なものなのである︒
﹁ガソメー
普 通 の 建 物 以 上 それらが壊されず
人々に親しまれてき また︑根底的なところでは︑
西欧にお ける建築の概念がこれに深くにかかわっている︒西欧において建築は元
それ故に︑大変な労力 そのかわりにいったん建てられれば︑
そ
ニ ニ 五
これらの建物が特別に歴史的あるいは芸術的・文化
新たに使い続けようとされているのでもある︒ も
ある
︒ しかし
このガスタンクはそれ故に︑今日まで生き続け︑
なお
に 意 匠 が 施 し て あ っ た
︒ 今 日
図25 ウィーンのガソメーター外観
ガ ス タ ン ク に 本 来 不 要 な 窓 な
大 き な 建 造 物 で あ る た め に
︑
ありながら︑
人 々 の 目 に 付 く
ター
﹂ な ど は
︑ ガ ス タ ン ク で
いた
︒ ウィーンの
っかりとデザインが施されて 設
時に
︑ そ れ ぞ れ に か な り し
上 記 の 建 物 は 規 模 も 大 き く 建
覚ではそうである︒
しかし︑
で あ る
︒ 特 に 日 本 の 建 築 の 感
れわれの子孫や地球に対して申し訳が立たない︒ストック・マネッジメ を大量に消費し︑環境の汚染や破壊に加担し︑また人々の心身に影響を
及ぼしてきた︒このようなことを放置しておくわけにはいかなない︒わ クラップ・アンド・ビルド﹂である︒これによって︑エネルギーや資源 などを重んじ︑どんどん建てては︑また取り壊してきた︒いわゆる
﹁ ス
は︑いくつかの理由がある︒まずは︑
費の考え方を反省して︑ ろ
はな
い︒
れを長く使い続けるのが原則である︒
ことも起こってくる︒
付きあい方をしてきたのである︒
本は
︑
ものは建替えられるが︑
建物を大切に使ってきた︒ その間には︑改造や転用といった
西欧では︑人々は永く伝統的に建築とそのような
その点では︑木造を伝統としてきた日
いくぶん事情が異なる︒木造は朽ちやすく︑また燃えやすいので︑
建物そのものに永遠性を期待することは難しい︒﹁喧嘩と火事は江戸の華﹂
などと言われる感覚も生まれてくる︒永遠性が求められる場合は︑神社 建築に見られるように式年造替のシステムを持つことになる︒建物その
それが持っている形式ないしは様式は踏襲され るのである︒伊勢神宮の社殿は二十年ごとに隣地に同じ建物を建替える
ことによってその永続性を保持している︒
しかし︑無論日本でも︑木造
の特性を生かし︑移築︑解体修理や部分改修などの技術を発展させて︑
そして︑今や︑建築材料としては西欧も日本 もコンクリートや鉄を使い︑材料の耐久性という点では全く異なるとこ 今日︑世界的に建築の保存や活用が話題になり盛んになっているのに
とりわけ近代の大量生産・大量消
ものを大切にし︑
また環境への負荷を減らそう
ということがある。近代の建築は機能主義・合理主義や経済性•生産性
計をした事例は他にはない︒
四 結
らが言わば﹁集客力﹂を発揮しているのである︒ ント型の建築文化を築いていかなければならない︒大学の建築教育では︑新築中心の建築学からストック・マネッジメント型重視の建築学へとシフトしていく必要があろう︒ものを大切に使い︑
いものや過去のものに興味を抱く︒ また文化や伝統を守っ
ていくことは︑二十一世紀のわれわれに課せられた責務でもある︒
しかし︑現在︑世界的に起きている建築の保存・活用の旺盛さには︑
そういった問題意識だけではなく︑現代人の心情や現代の風潮といった ものが関係している︒現代人は新製品や新規なものを求める一方で︑古
それはいつの時代にもあることであ るが︑特に時代変化や製品更新の激しい中にあって︑若者たちがその傾
向を強めているところに今日の︱つの特徴が見られる︒このような中で︑
レトロ調の建築や建築の保存・活用といったことに関心が持たれ︑
それ
﹁町おこし﹂や地域の活
性化のために︑建築の保存・活用が言われる由縁でもある︒若者の集ま
その例外ではない︒
る大
学も
また
︑ 千里山キャンパスに村野藤吾によって設計された建物が多くあること
は幾分知られているが︑
されるものなのか︑
それらがどのような特徴を持ちどのように評価
また
︑ それらが建設後どのようになっているのかに ついてはあまり関心が払われていない︒村野がこれだけ多くの建築の設
︱っ︱つの建物を見てみても︑多くのもの
が合理や統一の単純な追求を避けて︑細かく入念に設計され︑それぞれ