本山コレクション「發掘佛器」の検討 : 高麗を中 心とする東アジアの仏教関連遺物を巡って
著者 丹野 拓
雑誌名 関西大学博物館紀要
巻 6
ページ 157‑168
発行年 2000‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/16557
モ︑トヤマ今回取り扱う資料は本山コレクションとして関西大学博物館に所蔵さ
れている資料である︵本山コレクションとは故本山彦一毎日新聞社社長
の収集された資料であり︑故末永雅雄本学教授がその整理をされた縁に
より︑関西大学が寄贈を受けたものである︶︒﹃本山考古室要録﹄には資
料番号三一二として﹁發掘佛器一括︵出土地︶不詳1三鈷2独鈷3
輪寶4銅瓶和鏡等破片5銅碗︵此分出土地異る?︶﹂と記載されてい
る︒このうち1の三鈷︑3の輪宝︑4の銅瓶二個体分︵六片︶︑また︑
5の銅碗が確認できる︒4の﹁銅瓶和鏡等破片﹂の中に含まれるものと
して︑﹁三二一︵四︶﹂と注記された遺物に︑四葉形・三葉形垂飾金具が
あるが︑これは形状.厚きともに和鏡破片と間違うものではない︒
本稿では検討対象とする資料の出土地・一括性・該当資料の認定が不
確かであることを考慮し︑日本列島・朝鮮半島の双方を視野に入れて解
説を加える︒また︑﹁和鏡﹂﹁等﹂に相当する可能性がある遺物もまとめ
て記述することとする︒
|はじめに 本山コレクション﹁發掘佛器﹂の検討
l高麗を中心とする東アジアの仏教関連遺物を巡ってI
八三鈷杵V
サンコショ念怒形三鈷杵と呼ばれる古式の形態をとる密教法具である︒独鈷や三
鈷などの鈷は︑もと帝釈天や執金剛神の持物である金剛杵︵バジュラ︶
という武器をもととしており︑堅固と擢破の二徳の力を借りて煩悩を打
ち砕き︑仏性を顕現するための道具として作られている︒それゆえに︑
古い遺物ほど︑利器としての特徴を備えている︒石田茂作氏によると朝
鮮半島例として全羅南道順天にある曹渓山松廣寺に念怒形三鈷杵がある
ハセと報告される︒松廣寺例は把の中央に四弁花紋をあらわし︑弛三鈷形へ
の過渡期の様相を見せるものという︒日本では入唐八家のうち六家が弛
三鈷形の三鈷杵を請来しているが︑当品のような念怒形の特徴を有する
ものはそれ以前に伝えられた形態であるといわれる︒類例は正倉院所蔵
の鉄製三鈷杵・白銅製三鈷杵︑福島県慧日寺所蔵の白銅製三鈷杵︑奈良
県個人蔵︵奈良国立博物館﹃増補密教法具﹄資料伽八九︶︑また︑栃木
県日光男体山︑奈良県吉野弥山から出土した銅製三鈷杵が知られている︒
二遺物各説 丹野拓
一五七
当資料は加熱を受けて摺曲しており︑表面には気泡がみられる︒把の
断面形は判然としないが︑端部にゆくほど細くなり︑その端部には三線
の痕跡がわずかに観察できる︒鋒の軸に対する付根部では︑被熱の上か
ら︑研磨した痕跡が残る︒中鈷・脇鈷の鋒がともに鋭い逆刺を有するこ
とは︑本資料のみの特徴となっている︒その断面形は慧日寺例と類似し︑
平坦な隅丸六角形に近い︒松廣寺の三鈷鈴や日本における三鈷杵の形態
と比較すると︑当資料は統一新羅の時期の製作が考えられる︒
八三鈷輪宝V
輪宝は梵語でチャクラといい︑古代インドの武器の一つである︒仏教
では煩悩を擢破する威力をもった法具として用いられる︒釈迦の説法を
転法輪と呼ぶのも釈迦の教えが煩悩を砕破する様を輪宝に瞼えてのこと
である︒
コケ〃輪宝は四つの部分から成り立っている︒中心の円形部分が穀︑八方に
フクモウ放射状に伸びる独鈷形の部分を輻︑外周の車輪形の部分を網︑一番外側
ホウの武器形の部分を鋒という︒武器となる鋒の部分の形態により︑八鋒輪
宝︑八鋒三鈷輪宝︑八角輪宝に分けられる︒本資料は三鈷輪宝で︑日本
では主に地鎮具として使用されるものである︒
当資料は最大長十三・一面︑網外径約九・五皿輻外径約六・八四
穀径約四・一四厚さは約二・○mと一定であり︑重さは約一四○gで
ケシある︒透かし彫り銅板に︑毛彫りを施して造られている︒穀の中央に柵
を差し込む方形の孔を設ける︒櫛は﹃蘇悉地掲羅経﹄や﹃陀羅尼集経﹄
他の経軌では木製を本義とすると説かれ︑遣存し得なかったことも考え
られる︒孔の周囲に蓮華を刻するが︑中房に蓮子を廻らし︑単弁︵二重 弁︶を八弁配し︑その問にざらに八弁配する形の十六弁で飾る︒輻は穀との連接に蓮華を飾った独鈷形で割り込みはない︒輻は放射状に線刻を施す︒鋒は弛三鈷形で中鈷と脇鈷の先端まで︑表現されている︒また︑鈷は逆刺を有している︒
三鈷輪宝の例として︑仁和寺金堂趾出土品︵平安︶︑奈良県玉林氏所
蔵品︵鎌倉か室町︶が挙げられる︒後者は製作方法が本資料と同様であ
るが︑中央に孔を開けていないものである︒
八瓶①.②V
本山コレクションには︑二つの瓶がある︒細頸で口縁部が坏状を呈す
るものを瓶①︑注ぎ口を有する水性を便宜的に瓶②と呼ぶことにする︒
ケピョウ寺院で使われる主要な瓶には︑水瓶と花瓶がある︒水瓶は僧具とし
て︑あるいは仏菩薩に浄水を供える飲食供養具として使われるものであ
る︒花瓶は香水を入れるための容器であり︑口を遮蔽するために花を挿
して使用する︒転じて︑平安時代頃から供花具としての側面も生まれる
と考えられている︒
瓶①は高麗あるいは李氏朝鮮の銅瓶である︒類例は朝鮮古蹟図譜
伽色雪・東京国立博物館蔵品肋弓こつが挙げられる︒前者は器高二三・
八四胴径一四・五mであり︑高台は高い︒瓶①も高台接地面が不揃い
の破面であり︑内側に折れ曲がった部位が存在するので︑高台は本来の
形状ではないことが知られる︒高台があと一即高かったものとすると︑
器高二四・五四胴径一四・○mほどに復原できる︒また︑東京国立博
物館蔵品のように高台が四五mと高いものである可能性もある︒口縁
部の形態からは花瓶としての使用が考えられる︒管見では︑日本国内に 一五八
は瓶①と同形の銅瓶は知られていない︒
瓶②は高麗の水性である︒東京国立博物館では志貴形水瓶として扱わ
れている︵東京国立博物館肋弓毘雷︶・器高は二一面以上であり︑二五函
程度になると予測される︒口径約八・九四胴径約一五・五四底径約
一○・一面・頚部・胴部は約一皿肩部は約一両︑注口部は約一両の厚
さを測る︒胴の下部に一条の突線︑頸と肩には子持ち三条の紐飾りを飾
る︒底は端部のみ地面に接して内湾し︑中央に径一・一面の孔を有する︒
注ぎ口は断面六角形を呈し︑付根・注口元部・注口先端部に二条・二条
・四条の沈線を施す︒各々︑外側四面・外側二面・内側四面を線刻して
いる︒頚部に三四mの穿孔があり︑可動式の蓋を接合した把手を取り
付けていたことが推測される︒このような形態の水性は︑朝鮮古蹟図譜
に︑承盤を組み合せるものも知られている︒なお︑日本では室町時代の
装飾性の高い志貴形水瓶に︑本形態からの影響がみられる︒
瓶①②は共に破片であり︑内部を観察するには好資料である︒内面調
整・接合痕の観察から︑製作方法を順を追って復原する︒
まず︑芯金に縄を巻き︑真土を貼り付けて中子をつくる︒芯金は瓶①
一・四四瓶②一・一面である︒中子は轆轤挽きで形を整える︒︵瓶①
の底部内面は土器を手で挽きあげる際の回転ナデ痕跡が残るのであるが︑
光に弱して観察すると︑中央に直径一・四mの細い圏線がはしり︑その
内側のみ状態が粗く光沢がみられない︒︶次に蝋を塗布し︑一m程度ま
で削る︒この時︑瓶②は紐飾りを削り出す︒瓶①は芯金を引き抜いて︑
その孔を土で埋める︒瓶②は芯金のまわりに埴汁を塗るなどの方法で孔
を残して鋳造したものであり︑底部形状から考えると︑栓を詰めて使用 することを意図しているものであろう︒その後は︑鋳物土で包み︑乾燥・脱蝋・素焼きの後︑溶解させた銅を流し込み製作される︒瓶②は鋳造後に注口を接合する︒注口の貼り付け部分は肩に合わせて﹁く﹂の字状をなし︑幅五mの円滑な面をなす︒また︑頸部と胴部︵当資料では頸部の孔を通る断面上は破損が激しいため︑別部分を実測した︶に孔を穿ち︑把手を取り付ける︒
完形例として︑﹃朝鮮古蹟図垂座所載の写真を載せる︒これは八寸四
部あるいは五分と報告され︑慶尚南道河東郡花開面発見の資料である︒
、I側
劇
一五九
写真1 高麗水注完形例
八薬師如来像鏡像V
﹃本山考古室要録﹄には﹁和鏡﹂という記述がある︒形態的に類似す
る南宋の湖州鏡のことと理解するならば︑朝鮮半島における一括資料と
いうことになる︒但し︑当鏡は鏡像として転用されているもので︑通常
ならば﹁鏡像﹂と記載されるのではないかとも考えられる︒
鏡は直径一二・四mの円鏡に切り込みを入れた形態の葵花形であり︑
図像は縦一○・○四横六・八mである︒切り込み部分には︑粒状の小
さな鋳バリが残っているのが観察できる︒縁は蒲鉾形︑鏡背の紐には貼
り付けた痕が見られる︒水銀のアマルガムを利用して接合したのであろ
う︒鏡面中央から鏡端までの反りは約二・五度である︒
まず︑鏡としての説明を行う︒鏡は晴代の海獣葡萄鏡を境に技術的に
容易な平坦な形態へと遷移する︒鏡背面に展開される図像の題材も変化
をみせる︒本鏡は鏡背が陽鋳のみを有する素紋であり︑実用本意の鏡と
い﹄えう︵︾O
この六花鏡は湖州鏡と呼ばれる宋代の鏡である︒鏡背の矩形内に﹁湖
州真石念︑二叔家照子﹂と文言を陽鋳する︒湖州とは唐代に置かれた州
の名称で︑石家は湖州鏡を鋳造する有力な家である︒湖州鏡は︑中国北
半を抑えた金の領土を除き︑東・南・西に広く拡散分布し︑日本での出
土も多い︒中国ではしばしば墓誌や紀年銘を有するものとともに副葬さ
れ︑早い年代のものでは北宋哲宗の元祐辛未︵一○九二年︑比較的降
る年代では南宋孝宗の淳煕壬寅︵二八二︶年のものが確認できる︒後
者は﹁湖州真石家念二叔照子﹂銘が陽鋳されており︑成都の未子山にあ
る長方形大型双穴溥室墓から石碑とともに出土している︒当鏡像の年代 も︑およそ推し量られよう︒湖州鏡は鏡形により分布に偏りがあり︑六花鏡は九州を中心として西日本及び朝鮮半島から出土する傾向にある︒
銘文中の﹁念﹂とは二十の意で︑﹁石念二叔﹂は石家の二十二番目の
男の意味である︒﹁湖州真石家念二叔照子﹂との銘文のものが通常の表
記といえるが︑例えば﹁湖州石十郎家無比煉銅照子﹂などという銘文を
陽鋳するものもあり︑﹁石家念二叔﹂と﹁石念二叔家﹂は強調するもの
が﹁念二叔﹂個人であるかその家であるかの差と考えてよいのであろう︒
湖州石家念二叔の鋳造した照子︵鏡︶は︑他の照子よりも多く確認でき︑
日本へ招来された湖州鏡でも最も多いものであろうと思われる︒陽鋳で
注目されるものとして﹁湖州南廟前街西石家念二叔真青銅照子﹂があり︑
関西大学所蔵のこの六花鏡の鋳造者の店の所在地が判明する︒湖州鏡に
は他に﹁湖州儀鳳橋石家⁝﹂銘の陽鋳をもつものがある︒儀鳳橋は紹煕
三︵二九二︶年に焼け落ち︑翌年に再建されてからは紹煕橋の名で現
在に至った︒このことから儀鳳鏡銘を有する湖州鏡は二九二年以前の
鋳造であることが知られる︒湖州とは唐代に置かれた州で︑元代では
﹁路﹂︑明代には﹁府﹂と改め︑中華民国になって廃された地である︒今
の断江省呉興県治の地にあたる︒
紐は鋳造後に貼り付けた痕跡を残している︒紐孔は狭いものの紐を通
すには充分開通しており︑鏡として使用されたことが推される︒鏡胎の
材質・配合比は分析していないが︑銀白色に輝き︑白銅鏡の範晴に分類
されるものである︒
以上の特徴をもった湖州鏡の鏡面に薬師如来像を線刻し鏡像とする︒
日本において︑鑿を用いて鏡面に線刻像を彫り始めたのは︑永延二︵九 一六○
八八︶年銘の線刻阿弥陀五尊像を最古の確認例とする︒像は二重円相光
を背負った偏胆右肩の如来坐像である︒持物は上端の尖った宝珠状の薬
壺で︑薬師如来像であることがわかる︒
鏡像は平安前期に︑天台法華の神仏習合思想を背景として盛行したと
いわれている︒神道で御神体とされていた鏡に︑その本地である仏・菩
薩の像をあらわしたものと認識されていた︒しかし︑一九五四年︑京都
市嵯峨清涼寺の釈迦如来像の胎内から五臓・経巻・文書などとともに水
チョウネン月観音像鏡像が発見きれた︒その鏡像は同時に発見された﹁責然入宋
求法巡禮行並瑞像造立記﹂から︑東大寺の僧育然が台州の開元寺で匠人
張延皎・延襲に依頼して造り︑九八七年に持ち帰ったものであることが
明らかにされた︒醍醐寺所蔵の如意輪観音像鏡像もまた︑技術の差に還
元し難い異質な精密さで仕上げられており︑その製作を唐代末期頃に求
める保坂氏による考察があり︑首肯されるものである︒
中国や朝鮮半島でも信仰の対象となる像を線刻した鏡像に相当するも
の︵懸板と呼称する︶がみられる︒如来形のものもあるが︑楊柳観音や
水月観音などのいわゆる変化観音や天部︑三尊像︑塔を円盤の両面に線
刻した例がある︒当鏡像は湖州六花鏡に薬師如来坐像を線刻したもので
あり︑日本出土例に共通する簡素な作風を示すことから︑西日本からの
出土と考えてよいであろう︒当資料と同様に湖州鏡を用いて︑日本で像
を線刻したと考えられるものに次のようなものがある︒
一点は﹁湖州真石家念二叔照子﹂と陽鋳された鏡に聖観音を毛彫り
した桜井市大神神社所蔵の鏡像である︒直径二・四mの円鏡で︑鏡像
を掛けるために五mほどの孔が穿たれている︒もう一点は後烏羽天皇御 陵石造十三重塔納置の比丘形鏡である︒御陵は京都府左京区松林院町に所在する︒﹁湖州︵四字不明︶︑︵四字不明︶照子﹂と陽鋳きれた円形の白銅鏡で︑孔を二ヶ所穿ち︑銅線を取り付けている︒像は蓮華座上に坐す僧形の像で︑二重火焔光背をあらわしたものである︒また︑鏡面に文言を線刻した六花鏡が宮崎県安久経塚の陶製鏡筒の蓋として出土している︒こちらは鏡背に﹁湖州石十五︑郎練銅照子﹂と陽鋳のある鏡で︑鏡面に承安五季︵二七五年︶に匂当僧経秀と藤原太子︵おおいこⅡ長女の意︶が息災等のために施入した旨を針害したものである︒
鏡像のうち︑造形が変容して円盤に半肉彫の像をあらわしたもの︑円
盤に丸彫の仏像を貼りつけたものを掛仏とよぶ︒その名の通り︑本堂の
柱などに懸けた状態で使用きれた︒半肉彫りで尊像をあらわすことは十
一世紀初頭より始まると認識されており︑線刻の鏡像と百年を優に超す
あいだの併行関係にある︒関西大学博物館所蔵の湖州鏡は流通及び鏡と
しての使用を経た後に造像に至る契機を以って︑鏡像へと転じたもので
ある︒本資料と安久経塚出土の湖州六花鏡には孔が穿たれず︑大神神社
蔵品と後鳥羽天皇御陵出土品の湖州円鏡には孔が穿たれている︒孔を穿
っ行為の時期的・地域的趨勢は︑土中埋納から建築物への奉斎への変化
を示すものではないだろうか︒当鏡像は︑鏡としての使用時には花弁の
間を上に向けているが︑薬師如来像は約一五度回転させて︑花弁の中央
を上に向けて線刻する︒これは六角形や八角形を円形として認識する日
本人の意識が反映された結果であろうが︑紐に紐を通して懸けると図像
が斜めを向いてしまい具合が悪い︒本鏡像は鏡像が掛仏に転化する以前
の︑埋納を前提とした造像ではなかろうか︒
一一ハー
八四葉・三葉形垂飾金具V
金銅製の垂飾金具で︑孔をあけ吊るしたものであろう︒共に片面に金
箔が残存する︒四葉形飾り金具は︑孔を用いて吊り下げると︑復原縦長
一三・○四横長一○・七四厚さ○・九mとなる︒三葉形飾り金具は
直線で切られた辺を下にして吊り下げた場合︑縦長二・三四横長一
三・五四厚ざ○・七mとなる︒直線の辺は折り曲げることにより切り
離したような粗い切断面を呈している︒本来は縦一九・四翌別後の四葉
形垂飾金具であり︑三葉形に作り替えたことが考えられる︒孔の形も四
葉形のものの孔は方形であり︑三葉形に転じたあとで穿孔したものは円
形と不整形の方形となる︒穿孔の形態差は一貫した製作工程からは生じ
にくいことから︑破損による作り替えが行われたものと考えられる︒
八銀子・鍋子・把手形金具V
﹃本山考古室要録﹄記載の﹁他﹂に該当する可能性のある資料である︒
一括出土の資料か不明であるが︑年代・分布が重なるものであるので同
地の出土と考えてよいであろう︒
サイシ高麗の叙子︵叙・答・串Ⅱかんざし︶が五点ある︒図②左から①l⑤
とする︒①I④は屈曲部に稜を有する︒①は石製であり︑金属製のもの
を真似て稜を作り出したものと考えられる︒②は黒銀色の光沢を有し︑
③l⑤は緑青をふく︒また︑⑤は半楕円球の頭部を付す︒高髻などの髪
形が流行するのに合わせて一本足から二本足の叙が派生したと考えられ
サイキョウヅカタイマイており︑彩筐家では銀製・硴瑁製のほか︑髻状の頭髪に挿さったまま
の状態で竹製漆塗叙が四本検出されている︒高麗の時期のものは短く太
くなる傾向にある︒①︑②︑⑤は︑江原春川市漆田洞と皇龍寺出土の出 土例と類似し︑仏頭叙としての使用が考えられるものである︒
セッシ録子︵録Ⅱ毛抜き︶が一点ある︒幅六m厚さ一而の銅線を曲げてつ
くる︒長さ八・一四外圧により︑少し曲がっている︒幅三皿厚さ一
・五mの別の銅線で円環を付ける︒
把手形金具が一点ある︒片方の端部が欠失しているが︑残存する側の
端部は若干厚みを増している︒わずかながら両面ともに金箔が残存して
いる︒加圧のため︑三ヶ所にひびが入る︒手で引くのにちょうどよい形
態をしているので︑何らかの引き手として使用したものとしておきたい︒
八二器︵濯水器か︶V
シャスイキズコウキニキ濯水器と塗香器という香供養具のセットを二器という︒両者とも同形
態をしており︑大型のものが濯水器︑小型の物が塗香器として用いられ
る︒その具体的な大きさは鎌倉時代の紐飾りを有する二器に限ると︑濯
水器の鋺で器高五・一面︑口径九・○四塗香器の鋺で器高四・四四
口径八・二翌別後の数値となる︒本資料は器高五・八四口径一○・○m
であることから︑濯水器ではないかと考えている︒蓋・台皿は欠失して
いる︒本山考古室要録に﹁銅碗︵此分出土地異る?︶﹂と記載されるも
のに相当するものであるが︑腰の屈曲や高台の高さは日本の二器に近似
するものである︒唐招提寺・室生寺・法隆寺・西大寺・浅草寺などの二
器と同様に︑鎌倉時代の資料であろう︒
濯水とは香水を散して心身のけがれを除き︑場やものを清める行為の
ことである︒濯水器に香水を入れ︑梅等の材を一寸二分から一寸八分く
らいの散杖を用いて散濃する︒胴部に紐飾りを有するものが多く︑当資
料も子持ち三条の紐飾りを有する︒ 一一ハーー
以上述べたように︑関西大学博物館所蔵の本山コレクション三一二番
資料は︑中国南宋の湖州鏡︑朝鮮半島の統一新羅の三鈷杵と︑高麗の三
鈷輪宝・銅瓶・水性・垂飾金具・叙子b鋸子・把手形金具︵うち銅瓶は
李氏朝鮮まで降るかもしれない︶︑日本の奈良・鎌倉時代に相当する銅
鋺・二器︑を含んだ資料群であったことが理解される︒一括の發掘佛器 八銅鋺V銅鋺は多くの伝世例・出土例が知られる︒毛利光俊彦氏の﹁古墳出土
銅鋺の系譜﹂︵﹃考古学雑誌﹄六四巻一号︶によると︑平底で蓋が伴わな
い形態の鋺は︑およそ器高四・○mから七・二皿口径九・一面から十六
・八mの法量を有する︒本資料は平底で︑蓋は伴出せず︑器高六・五叫
口径一六・一mを測り︑器高一に対して口径は二・四八となるものであ
る︒三河国分尼寺や東京の饅頭穴横穴出土の銅鋺と類似する法量を有す
る当資料は前項の二器とともに﹃本山考古室要録﹄記載の﹁銅碗﹂に含
まれたものであると考えられる︒当資料は腰が張らず︑口縁部は肥厚し
ない︒最大径部外面に微妙な沈線がまわるが︑視覚的には無紋である︒
﹃法隆寺伽藍縁起井流記資財帳﹄﹃大安寺縁起井流記資財帳﹄によると︑
鋺は銃とも書きへ鉢・多羅・鉗︵箸︶・鉈︵匙︶とともに飲食供養具を
構成する︒製作年代は高麗よりも古いことが想定され︑朝鮮半島からの
一括出土遺物ではなく︑日本国内で出土した資料ではなかろうか︒出土
・伝世銅鋺のとの比較から︑奈良時代頃の遺物と考えられる︒
三終わりに
とは︑統一新羅から李氏朝鮮までの時期に存続した寺院趾からの出土資料と考えられる︒また︑二器と銅鋺は日本の寺院趾出土遺物と考えている︒鏡像に関しては︑南宋の鏡を日本で鏡像に転じたものと考えられる︒使用用途別にまとめると︑密教法具︵三鈷杵︶︑鎮壇具︵三鈷輪宝︶︑僧具あるいは供養具︵瓶①②︶︑香供養具︵二器︶︑飲食供養具︵銅鋺︶︑荘厳具︵垂飾金具︶となる︒鏡像は埋納︑叙子は仏頭飾りの可能性を考慮できるものであることを述べた︒今回は遺物の観察を中心に︑分布・年代傾向を考察し︑当資料群に位
置付けをあたえることを意図した︒各遺物ともに類例が少なく︑大変貴
重な資料である︒東アジアの仏教を理解する上での一助となれば望外の
喜びである︒
なお︑小稿を成すにあたり︑網干善教先生・平松良雄氏・山口卓也氏
に貴重なご意見をいただき︑参考とざせていただきました︒実測図の作
成にあたっては︑高島洋氏・深谷淳氏にご協力いただきました︒記して
感謝の意を表したいと思います︒
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図2仏具実測図②
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写真2 朝鮮半島出土資料 一 六六
写真3 南宋湖州鏡鏡背面及び陽鋳銘
写真4 推定日本国内出土資料
六七 1‑ 2‑ 3
•石田茂作『佛教考古学論孜五佛具編』一九七七·10思文閣出版
•川村宗嗣『中国古鏡図説』一九七八·O七東北出版企画•『朝鮮考古資料集成第三巻朝鮮古蹟図譜』一九八二·O六出版科学総合
研究所•『朝鮮考古資料集成第四巻朝鮮古蹟図譜』一九八二·O六出版科学総合
研究所•『仏具大事典』岡崎譲治監修一九八二·O九鎌倉新書
・文化財管理局・文化財研究所編﹃皇龍寺遺跡発掘調査報告害I﹄•―二文化財管理局 山
閣
︿参
考文
献﹀
一九
三四
•朝鮮古蹟研究会『古蹟調査報告第一楽浪彩膀家』
・末永雅雄﹃富民協會農業博物館本山考古室要録﹄一九三五
・O
ニ
院•四川省博物館・重慶市博物館編『四川出土銅鏡』一九六O·10文物出
版・﹃天平の地宝﹄奈良国立博物館監修一九六一.︱‑朝日新聞社•石田茂作・岡崎譲治『密教法具』奈良国立博物館監修一九六五•O九
臨川書店・密教大辞典再刊委員会編﹃密教大辞典増訂版﹄一九六九
・O 六 法 蔵 館
・正倉院事務所編﹃正倉院の金工﹄一九七六
・O 三日本経済新聞社
・中野政樹﹁供養具﹂﹃新版仏教考古学講座第五巻仏旦C一九七六・︱二
雄山閣・光森正士﹁僧具﹂﹃新版仏教考古学講座第五巻仏具﹄一九七六・︱二
一九
八二
雄
岡書
至文堂 •奈良県立美術館編『大和美術史料第二集奈良県指定の文化財図録美術工芸
﹄一
九八
︱︱
1・
五0
同 美 術 館
・東京国立博物館編『東京国立博物館図版目録•仏具篇』一九九0·O三・保坂一二郎『古代鏡文化の研究四書藝史・鏡像・鑑鏡考』一九八六•O八
雄山閣•久保智康「平安後期出土鏡の研究序説」『岡崎敬先生退官記念論集東アジ
アの考古と歴史︵下︶﹄一九八七.︱‑同朋社
・﹃重要発見埋蔵文化財図録第一輯﹄一九八九
・1 0
管理局・阪田宗彦﹃日本の美術二八二密教法具﹄一九八九.
l
‑
•鈴木規夫『日本の美術二八三供養具と僧具』一九八九.―二至文堂
・難波田徹﹃日本の美術二八四鏡像と懸仏﹄一九九0.0
一 至 文 堂
・大滝幹夫﹃日本の美術三0五金エー伝統工芸﹄一九九一
・1 0
至文堂•河田貞・阪田宗彦•関根俊一『密教法具(別冊増補版)』奈良国立博物館
監 修 一 九 九 三
・O 二 臨 川 書 店
•『中華五千年文物集刊銅鏡(下冊)』一九九――-•O七中華五千年文物集
刊編輯委員会
・孔祥星・劉一曼﹃中國古鋼鏡﹄一九九四
・0 1
藝術圏書公司
・斎藤忠﹃高麗寺院史集成﹄一九九七
・1 0
第一書房
・斎藤孝﹁銅鏡﹂﹃博物館資料図録﹄一九九八
・O 三関西大学出版部
•久保智康『日本の美術三九四中世・近世の鏡』一九九九·Ol―-至文堂
•長崎厳『日本の美術三九六女の装身具』一九九九·O五至文堂 文化公報部・文化財
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