̲ !ャ上と上 ̲鵬 ―
尾 張 西 部 地 域 に お け る お 札 降 り に つ い て
は じ め に え﹁ え じ なゃ かい
﹂ に つ い て
は ︑
れこ ま 数で 多 く 研の 究 が い 鞠 厳 峠 中焼
・ 全
伸 鞠 府 嚇 舶 !布
﹁ な
勅 勅 れ確 無 帥 類 射 蠍
直 ﹃
晩
︼ 阿 t 部 真 琴 司 え え じ なゃ い か﹄ の民 衆運 動
﹂ な がど あ
り ︑
地 域 軸 玖 そ れ に限 たっ も
のと
し て山 吉口 一 阿﹃ 波 え
ヽじ
ゃ な かい
﹄ 静 有 詠装 智 男 三 ・ 浦 俊 男 南﹁ 関 東 にお け る え﹃ え
牒静隷中北推籍ヤ一い却静 一
叫荘 ゃなど経
民衆運動﹁ええじゃないか﹂の全国レベルでの地域的な
特殊性は ︑西垣晴次﹃ええじゃないか﹄で明らかにされた ︒﹁ええじゃないか﹂の歴史的意義を問うためにも ︑こうした個々の地域的な実態・特色を堀りさげてみる必要が
尾張西都地域におけるお札降りについて︵ 小島︶
小 島 穂 波
ある︵ 率はないか ︒
拙稿において基礎史料としてとりあげるものは ︑すでに
﹃稲沢市史﹄によってある程度知られているものであるが ︑
さらに地域的性格を明らかにしながら降下の実態を統計的
に分析して私見を述べていきたい ︒
︵ 1 一 一
新人物往来社刊 ︑ 一九七三年 ︒
︐一一ヤ﹃岩波講座日本歴史﹄近世5所収 ︑ 一九七七年 ︒
→・一 一 大阪歴史学会編﹃近代社会の成立L崩壊﹄所収 ︑吉川弘文館刊 ︑ 一九七六年 ︒
三七号所収三 考﹂令歴史学研究い一ナイ七四年︶高島郎工デカ﹁ヽャ・ 所収三省生 一九編民衆歴史﹄刊木潤之介﹃本の々日5︑︑ か﹂︵佐九六八年伊藤忠士ええない波新書︶ 一﹁じゃ・︑ かL ︵ 岩雄﹂ええない︵ 4︶藤谷俊おかげい﹃﹁まと﹁じりゃ
︶ ︒
︵ 5 一 ャ
徳島土俗芸術研究所刊 ︒
︵ 6
︶ ﹃歴史学研究﹄三八五号所収 c
稲碧 東浦起刈谷半一宮沢南な︵ 7︶愛知県では田・・・・・
‑ 29‑―
史苑︵ 第四〇巻第一号︶
ど各市町村史誌 ︒その他岐阜︒長野・静岡三電 京都
大阪・奈良 広島・呑川各府県の県市町村史誌類に散見す
︺る︒
東京大学版会安丸夫治維新﹄出良明︒ 維﹄︵ 岩波全書︶井土清本現代史︵ S遠茂樹治新﹃︶山﹃明日・
動思相営解説の ︵ 岩波店思大系民衆運か﹂書刊本想﹃えない日じゃ︑″え 参おかげ︐と﹁ ″り
︶ ︒
一 ︑
尾 張 に お け る え﹁ え じ ゃ な い か
﹂ 特の 徴 い わ ゆ る え﹁ え じ なゃ い
﹂か
は ︑
慶 応 年三 八 月 か ら 慶 応
︵1︶
年四 に かけ
て ︑
束 は 江 戸 か ら 西 は四 国 土 佐 讃 ﹁ 岐 ま で 見に ら れ た 民 衆 運 動 を 呼 ぶ が
︑ そ れ ぞ れ 地 域
によ
てっ
︑ 呼 び 方 や 札 降 り を き かっ け すと 人る 々 動の き に は 差 が あ
る ︒
た と え ば
︑ 尾 張 で は え﹁ え じ なゃ い
﹂か 重の 要 な 要 素 で あ る え え じ なゃ い か 歌の は ・ や し 言 葉 現の 象 は み ら れ な
い っ
エ
エジ
ャ ナ イ
カ ︑
あ る い はそ れ 近に い はや し 言 葉 が 入 っ た 歌 と とも 踊に がり く り ひ けろ ら れ た の
は ︑
伊 勢 近 ・ 設 以 西
で ︑
特 顕に 著 な の は山 陽 四 国 地 方 限に ら れ
る ︒
さ
て ︑
名 古 屋 地 方 に お け る
﹁え え じ なゃ い か
﹂ に つ い て 知
る も の
に ︑
尾 張 崎の 関 学 派 を お さ め た 細 野 要 斉 兄の 聞 符 録 で あ る 感巧 興 漫 筆
﹄ が あ
る ︒
其祀り方は ︑店頭を屏風或は様竹にて隔て一問とし ︑
階を幾級にも作り︑上に新薦を敗 ︑前に神酒︼強飯
英子ヽ野菜・流呆・魚等思ひノく ヽ︑に並べ爛柱形状机床 道齢
を点じ ︑前にも幕を張掲け ︑提灯に各其神号を幕し ︑
長き竹の笹のつきたるを簿頭に双立し ︑しめ純をはり︑町内家毎に提灯を椿に掛たるもあり︑⁝⁝観拝者
各糞銭を投ずるにより︑別に祭銭箱を設たるもありな続献彰神前 仏前へ直に投たるほ銭重畳して積りたり︒少年の者 ︑種々の打扮して馬を牽き走り︑成は列歩躍りあるくもあり︒大八草を二輛紳しネをはり︑其
内に乗りて太鼓・笛等を鳴し ︑長縄をつけて斉くもあり︑毎街のにぎわひ人気瓢孤たり︒⁝⁚︵ 慶応三年︶九月十日しるす ︒
これによってお札降りに対する人々の反応がわかる ︒ま
た ︑
熱田駅の娼校 ︑髪を刻て男子の音のごとくにし ︑裸体
に稲絆一 表性を着 ︑ 輸輛神を結びて馬のとうに出づ一一 ︵0︶とあるように ︑ Fそたじゃないか﹂の一つの要素である女
子の男装もみられるが ︑伊勢の場合ほどには一般的で■な
かったようである ︒
同時に﹃感興漫筆﹄には ︑お札降りにまつある様々の奇
跡が書かれている ︒
駿 河 町 載呪 特脚 祥 或家
秋へ 業 御の 札降 たり をる
︑ 棚 上に げ た まる に氏 早て 祭く らざ しり かば
︑ 石降
り 屋て 瓦 を 砕
き ︑
症 蒙を り たる
者も
あ
り ︑
とふ
キ ︑た︑
関戸富家の控家 ︑熱田新日の内に在り︒其家に関戸が弟某任す ︒此者札の降を悪日せしかば ︑何者か来りて首を引抜き持去る ︒送一 第十月初也 ︒又一説に ︑此首 ︑
美濃岐阜因幡山下相撲興行中 ︑土俵場へ降たりと云 ︒
その他にも ︑札降りの事実を軽祝・疑惑する者に対する
報いとして ︑様々の奇談が書かれている ︒
後者の場合 ︑この主人公が ︑関戸家の者であったためのデマと思える ︒富家は ︑冨家らしく盛大に祭り︑祝宴を開くべきで ︑それを拒否することは殊に人々に反感を与え ︑
このようなデマを峰される原因になったのではないかと思う︒あるいは ︑偶然にこの時期に死亡した︵ 殺された︶モ人公が ︑お札降りを悪日して祭らなかったためによるもののように単に噂されたものか ︒
いずれにしても ︑人々は ︑お札降りという事実がどれだけ神聖で ︑犯しがたいものであるかを説き ︑作為を作為にょって ︑それをあたかも人為を超越したもののように仕立て上げ ︑自ら酔い ︑﹁皆共産業は忘れたるが如くにして ︑
神事 仏事に力を専にし ︑相会しては飽食 ・酔飽﹂の状態
尾張西部地域におけるお札降りについて︵ 小島︶
であ
た っ
︒ 尾 州 半 国 小の 栗 家 は江 戸 初 期 以 来 の 旧 家
で ︑
代 々 の酒 造 家 あで がる
︑ 近 郷 近 在 か ら 昼 夜 参 請 に
つめ
か け 人る 々 に酒 を 振 舞
い ︑
人
︵ 々
弊 様
々 芸の を 披 露
し ︑
七 旧 七 夜 のお 祭 り 騒 ぎ であ たっ と
いう
︒ そ れ ぞ れ 家 応に じ た 際 方り を
し ︑
ま た そ う す
べき
でも
あ たっ ので あ ろ
う ︒
ま
た ︑
美 濃 路 宿の 場 あで 起る
対そ
は ︑
笹 馬 俄 踊か 等 を 氏 神 に
︵ 献
既
て ︑
豊 年 吉の 兆 と し 館て 飲 馬 食 踊 り 狂 村い 内 練を り 歩 たい
︒ れこ 対に す る 藩 側 反の 応
は ︑
ど の よ う な も の であ たっ の で あ
ろう
︒ 触 書 に よ る と
︑ 此 節 在 おヽ い て 神 札 降 候 付二 一 ︑ 尊 信 之 筋 方 過 分 物 数 奇 遊 興 間ケ 敷 儀 増 長 いた 候し 而 不ハ 可 然 儀 候二 間
︑ 右 妹 心 得 違 無 之 様 可致 候
一 ︑
御 城 下 町 ヽ に お い て 市ハ 家 奉 公 人 之 内 小 衛 な 取ど 掴 行 候 儀 等
︑ 奇 怪 之 事 有 之 山
︑ 在 おヽ い
ても
若 右 殊 之 儀 有 之 候 ハ
ヽ ︑
早 速
可申
出 候 右 之 趣 相 触 候 様 御 勘 定 奉 行 衆 被 中 間 候 粂 村 キ 之 考 え も 篤
と
可申
聞 候
︑ 此 触 書 承 知 之 上 即 刻 順 達 納 村 け 可 返 候
︑ 以 上 九 月 十 七 日 上 止 二
︵ 衛
̲一 R()̲̲
‑ 3 1 ‑
史苑︵ 第四〇巻第一号︶
お祭り騒ぎが増長し ︑治安が乱されるのを恐れている ︒
また十月帳日にも ︑地方御勘定奉行より御触れが廻ってい
フ ︵ や ︒
神 仏 御 札 天 降 付二
︑ 夫 祭ミ 方 之 儀
︑ 方 今 公 辺 お ゐ て 不 一形 御 模 様 も 有 之 既 大 納 言 様 御 上 京 二も 相 成 候 付
︑ 諸 事 相 慎 居 候 半 而 難ハ 成 折 柄 付二 己 来
︑
⁚
⁝ 天 降 之 御 札 是ハ 迄 之 通尊 崇 礼 敬 い た し
︑ 其 宅 お い て 一度 限 神 酒等 相 備 候 上
︑ 御 札 所ハ 氏 神 社 等 へ相 納
︑ 遊 興 間ケ 敷 儀 ハ 勿 論
︑ 日 を 重 ね 宅 に お い 相て 祭 り 候 儀 とも 決 而 致 間 敷 候
︑ 若 相 背 候 も の有 之 候 ハ 吟ヽ 味 之 上 急 度
可申
付 候 告 候 条
︑ 此 段 衛 と 相 心 得 村 下 印二 判 刻 付 せ し め 早 順ヽ 達 留 村 方 此 状 可 返 候
︑ 直 上 但
︑ 御 札 降 之 境 是ハ 迄 之 通 不 洩 様 陣 屋 え 可 申 遣 候
は 机 !名 月 古 ︵ の期
醜卵 嗅駒
勘周 ︵ 命 ︲理 確感 ・ て 神晦 十 一一﹄
毎ギ 句貯 の 際 任
降 り は
︑ 十
一月
に 入 る と す
か っ
り 下 火 に な
てっ
い る
︒
︵・ 9
︶各古屋・一宮の史料の中では ︑当時の人々は ︑この現象をはっきりと﹁御札祭り﹂の名称で呼んでいないが ︑尾張・美濃・三河では援稗 からみて﹁お札祭り﹂の呼称が内容 的 に み て ふ さ わ し
い ︒
尾 張 地 方 おに け る
﹁え え じ なゃ い
﹂か
は ︑
大 坂 阿 ・ 波 に 比 べ
て ︑
世 直 し 的 性 格 は弱
いと
言 え だる
ろう
︒
次 項 以 下 で
︑ 尾 張 西 部 地 域 御の 札 降 り の 史 料 か ら
︑ い わ ゆ る
﹁え え じ ゃ な い か
﹂
のき
かっ け を な す 御 札 降 り の状 況 を 明 ら か に し
︑ そ れ が ど う 作 為 さ れ て い たっ の か を 採 り た
い ︒
註
二二九頁参照丹後琴前掲論文二五四〇︵ 1阿部真ヤ !・︒︑︑
生野銀山町では慶応四年の四月におよぶ ︒備中浅回郡里之庄方面では六月中旬におよぶという異例もある ︒
︵ せ
︶西垣晴次 ︑前掲書 ︑二九!一一〇頁参照 ︒
︵ ︱
︶西垣晴次 ︑前掲書 ︑ 一八頁参照 ︒ Fケ
ヽ じ
ゃないか﹂を
構成する要素 ︑①神符の降下 ︑0神符を祭婚を設けて祀る ︑③祝宴 ︑④男子の女装・女子の男装 ︑0ええじゃないかの歌と踊り︑⑤領主の命令による平常化 ︒以上六つ ︒
頁〇夏二七〇二八〇参照二九一一掲言!!︒︑︑ 三〇三百参照西原帖次前伊藤忠士前掲論文二︵ 1︶︱︒︑︑︑
︵ 5
︶ ﹃名古屋叢書﹄二二巻随学編う所収 ︒
︵ 6
ャ 註3に同じ︒
︐! ャ﹁慶応伊勢御影見聞諸国不思桟之抽﹂翁民☆運動の口t想﹄日本思想大系工八巻 ﹁一﹁波書店所収︶参照 ︒男子が女装 ︑女子が男装 ︑また老母が顔に星をぬり娘に初装して ︑
卑撲なええじゃないかの秋と踊りで沸く︒よ臣歳かたき夜
打ち︵これは御上より差留め︶や時わ御前 羽衣牛のは︱・
物を大八車に乗せ練り歩いた ︒十月に入って札が降り始め ︑十二月上旬まで娠わった ︒
︵ S
︶西垣晴次 ︑前掲書では ︑個人の批判精神がくずれていく
︵9︶ 状態を示す例としてあげられているが ︑関戸某の場合は豪商であるために ︑直接 ︑関戸に対する批判も含まれていたのではないか ︒
関戸・伊藤次郎左衛門 ︑内回の三氏は ︑尾張藩御用達商人中の最高格式である﹁三家衆﹂と言われた ︒御用達商人四家とともに七家とも呼称されて藩から格別の待遇を受けた ︒関戸家は慶応四年の御用達名袴の筆頭に記された翁名古屋市史﹄政治編第二 ︑三六八頁・林童一﹃名古屋商人史﹄昭和四一年 ︑中部経済新聞社刊 ︑二〇四︱六頁参照︶ ︒﹃感興漫筆﹂一七三頁 ︒
﹃半国市誌﹄本文一編 ︑昭和四六年 ︑三一二!三頁参照 ︒
﹁起町史﹄下巻 ︑昭和三〇年 ︑二三八頁参照 ︒﹃新編一宮市史﹄資料編八 ︑昭和四五年 ︑五一一四号文書 一中 ︒
同上書 ︑五一一九号文書 ︒
﹃感興漫筆与十月中は市街村落猶所々に降て祭りしが ︑
十一月に入てすべて止む﹂ ︒
︵ h︶ ﹃天降神佛記録﹄︵稲沢市村頼周一氏蔵︶による ︒名古屋よりも遅くまで続き ︑最終札降りは十二月十五日︒
︵・ 7
︶ ﹃半田市誌﹄本文編三一四頁参照 ︒
︵ ︲ 8
︶伊藤忠士 ︑前掲論文 ︑三二〇!一頁参照 ︒
6︶原稿城﹁心に掟置豆実
九二号文書収 一 ︒︑ 所資中料編十新編一宮市史﹄﹂ ︑﹃
統一札祭﹂名称で﹂おのさ三地方お札祭のと﹁﹁しりり︑ 阿部真琴前掲論文では尾た﹂名称になているま祭のっ︑︒ 札七〇頁尾張美濃で二では垣晴次前掲書﹁御︵2 0︶西・︑︑
尾張西部地域におけるお札降りについて︵小島︾ れている ︒美濃でははっきヶ︐お札姿り﹂と呼ばれている令岐阜県史﹄通史編近代下巻参照
︶ ︒
大坂文三〇六頁参照では頃伊藤忠士前掲論︵2 .︶日︒︑︑︑
一 ︑
快く思っていない家に故意に札を投げつけ ︑酒肴の強要をする者もあらわれている ︒
か吉一波えぢない︵2 2︶山﹃阿口ミゃ
食物西要たてい建具破損た飲をるをしししりり︒︑ 込意出快家踊み故にや頃思ていないにては日くりりっ︑︑ 込旅所八頁参照阿波はみ﹂芸術研究刊四でとこ﹁踊り︑︒ 徳俗﹄ ︑ 昭和六年島土 ︑
二 ︑尾張西部の札降り状況
慶応三年 ︑中嶋郡下津村の庄屋村瀬周蔵によって書かれた﹃天降神俳御記録﹄を基礎史料とする ︒この記録は ︑中嶋郡ヽ春日井郡・丹羽郡におよぶ︵ 現在の稲沢市を中心として一宮市南部 ︑西春田井郡にわたる︶札降り状況を示し
ている ︒
記載内容は降下月日・札名 ヽ村名 氏名とともに ︑その人の印が捺印されている ︒村方を代表して庄屋名のみの場合もあり︑また庄屋が代筆し代印している場合もある ︒寺社の場合は ︑札名の上に大きく寺社の朱印が押されているものが多い ︒また吾重村の大宮別宮では ︑降下した札名のほかに﹁奉納経﹂としるされ﹁大宮別宮﹂の単郭門形の朱
品 盆 a c a n
一‑ 32 ‑一
‑ 3 3 ‑
史苑︵ 第四〇巻第一号︶
印が押されている ︒
形式としては ︑全く社寺参拝納経帳と同じである ︒表紙
に﹁大願主村瀬周蔵﹂と書かれていることからもわかるよ
うに ︑記録者が自分の健康を祈願レさ納経帳の形をとって
残したと言われている ︒
降下の月日に違いがあっても ︑農家も寺社も含めてほぼ
村ごとにまとめて書かれているのは ︑ 一括して同一日に廻ったことを示している ︒また時には ︑何回かにわたって同
一村名が繰り返し記載されているものもある ︒これは ︑そ
の都度その村へ出掛けて行ったことが知られる ︒
お札降りのあった家を廻り︑このような参拝記念帳のよ
うなものを作ることが ︑村瀬周蔵の個人的な興味と信仰心から初められたものか ︑あるいは当時 ︑この地域で流行し
たものなのかどうかはわからないが ︑丹羽郡浮野村の庄屋
原稲城が︵ 慶応三年︶九月四日に名古屋城下へ出かけて行った時 ︑神仏札の天降りがあって祭ってあるので ︑﹁袋か
しこ拝し廻りて﹂と記述しているところから ︑巡拝もあっ
たことが知られる ︒しかしこのような形で残されたものと
して ︑今までに発見されているのは ︑この一冊である ︒こういったことが行なわれた背景に ︑知多郡の新四国八十八
ケ所巡りの影響があったのかもしれない ︒
1︑降下地域と時期
今 ま で 発に 見 さ れ た史 料 中の で 全 国 的 に み 最て も 早 い例
︵ 3
︶は三河御︵ 泊鑑 の八月四日である ︒つぎに八月十五日の速江
磐田郡見付宿と ︑東海道を東下し ︑八月二十日の長良川沿
︵ 5
︶岸の美濃武儀郡上有知村︵ 岐阜県美濃市︶と続き ︑尾張中
鵠珊 氏永村︵一宮市︶の八月二十七日 ︑名古屋の八月二十
八日の順である ︒これによっても明らかのように ︑必ずし
も街道添いに徐々に波及していったとは言えない ︒
﹃天降神仏御記録﹄による札降り地域は中嶋郡 ・丹羽
郡・春日井郡の五六ケ村にわたっている ︒この地域には美
濃路・岐阜街道が通り︑美濃路の宿場である清須宿 ・稲葉
宿がある ︒最も早い時期の降下は日付け無記載の八月 ︑小
池正明寺村の村方辻に秋葉大権現の札が降り︑日付のわかるものとして ︑八月二十七日 ︑氏永村に大黒天四枚が降っ
ている ︒
降下月日が詳しく書かれている村に限ってその降り方を
みてみると ︑たとえば重吉新回は十月二十三日に集中して
降っている ︒また ︑多加木村は十月十五日の一枚を除い
て ︑二六枚中二五枚は九月十六日から二十日の間に集中し
ている ︒清須小塚分は九月とだけ記載のものがあるので止
確にはわからないが ︑九月二十三日のものが多い ︒下津村は九月十九日から十一月二十八日までの二か月余りの間
に ︑息をするように ︑降ったり降らなかったり交互にやっ
て る よ う で あ
る ︒
降 下 月 日 記の 載 が あ
るも
の 全は 体 約の 半 数 強
で ︑
月 のみ 記 載
のも
のを あ わ せ
ても
三 分 の 二程 であ
る ︒
村 に よ てっ は ま たっ く 記 載 のな 村い も あ り 正 確 に は統 計
でき
な
い ︒
全 般 的 みに て九 月 中 旬 か ら 十 月 末 ま で 降に 下 は集 中 し て い
る ︒
村 別 最に 初 の札 降 下 月 日 を み て み る と
︑ 街 道 筋 添に てっ 徐 に々 降 下 し て い たっ の で
はな
い こ がと 知 ら れ
る ︒
同 一村 で 日 を改 め 繰て り 返
し 降 下 す 場る 合 も あ り
︑ 降 下 時 期 と 地 理 的 な 条 件 か ら 一つ 傾の 向 性 を 見 出 す こ と は で き な
い ︒
尾張西部地域におけるお札降りについて︵小島︶
時 刻 に
つい
ては
︑ す で に 稲﹃ 沢市 史
﹄ 統に
計が
出 れさ て
いる
︒ 図
1
のよ
う 早に 朝
から
午前 中 ま でが 多
い ︒
朝 覚日 め 発て 見 たし と
いう
形 式を と たっ こと が知 れら
が ︒
2
︑ 降 下 枚 数 札と 種 降 下 し た 総 枚 数 は神 仏 号 不 記 載 の 二一 枚 を 加 え て 六 五 七 子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 中 酉 成 亥
ノ ノ ノ ノ ノ ノ ノ ノ ノ ノ ノ / 刻 刻 刻 刻 刻 刻 刻 刻 刻 刻 刻 刻 註 、『天降神彿御記録』に よって作成。木セ、・金 々、も枚数 に含む。時刻の記載のあるのは55枚 で全体の10分の1である。その他「朝」と記載の あ るもの10枚、「夜」とあ るもの9枚がある。
表 1 降 下 神仏 札 種 別 校 数
名 十 枚数
神 仏 名 降 剰 神 仏 名 卜 刻 神 仏
1 1 3 不 神 明 王 3
2 2
2
2 2 2 2
2 2 2 37 秋 突 大 権 現
天 照 皇 大 神 宮 津 島 牛 頭 天 王 大 黒 天 国 府 宮 大 神 宮 善 光 寺 如 来 豊 川 稲 荷 御 獄 出 南 無 阿 弥 陀 仏 熱 田 皇 太 神 官 伊勢 朝 熊 虚 空 蔵 多 賀 大 社 大 峯 山 ! 金 昆 羅 大 権 現 洲 原 大 神 宮 行 者 神 変 大 菩 薩
7貯 4官
般 若 都 最 初 稲 荷 弘 法 大 師 地 蔵 甚 目寺 観 音 鬼子 母 神 自山 宮 疫 神 斉 八 幡 宮 北 野 天 満 宮
島大 明 神 恵 比 須 尊 天 愛 宕 山 天 道 大 日如 来 豊 受 大 神 宮 谷 汲 観 吉
社
先 明 山 立 大 明 神 香 良 洲1 皇大 神
世音 善 薩 瀧 光 明出 金 光 明最 勝 玉 経 立 山
弁 天 運 お 守 そ の 他
1 枚 の み 降 下 の 札 神号 仏 号 不 記 載
被 数 神 見 命 命 田 妙 彦 貴 清 勢 名 己 真 能 少 大
4 4 4
] 5
12 6●17
̀枚抑 図 1昨 下枚数 の時刻 関 係 グラフ
―‑ 35 ‑
史苑︵第四〇巻第一号︶
2 2 2 1 1 1
1
枚
︑ 神 仏 名 総の 種 類 は 八 五種 ︒ 一種 で 二枚 以 上 の神 仏 名 を あ げ れ ば 表 1
のよ
う で あ
る ︒
秋 葉 大 権 現
︵一
七三 枚
︶ 天 ・ 照 皇 大 神 官
︵一 二 八枚
︶ の 二種 が 圧 倒 的 多に く
︑ こ の両 者 合の 計 は 全 体 の 三分 の 一以
のように枚数に比して札種の少ないところi もあり︑逆に多
加木村・三ツ丼村︒日下部村のように枚数に比して札種が
多いところもある ︒
表1の札種と枚数の関係は全般的な傾向を示すものであるが ︑これを個々の村別にみた場合は特異な傾向がみられる ︒たとえば小山村の場合では八六枚中 ︑大神宮の札が四五枚で半数以上を占め ︑全体の村としては第一位である秋
美山の札は七枚にすぎない ︒小池正明寺村は津島牛頭天王
が秋葉山・大神宮を娘いて最も多く ︑二九枚中 ︑半数以上の一六枚を占める ︒三ソ井村では六字名号が最多である ︒
清須宿・清須十間町﹁清須田中町分t清須小塚分︼清須内北市場・清須外町と宿場 ︒町場いずれも大神宮に比べると圧倒的に秋業大権現が多い ︒小沢村は稲美村と境を接し ︑実際の稲葉宿のある村であるが ︑やはり秋葉大権現が
比較的多い ︒宿場あるいは在郷商人の多い六角堂村 ・土器野新田村は大神宮に比べて ︑秋葉大権現が圧倒的に多い ︒
註
発 一〇八頁参照昭和三年刊︶ 沢市史﹄四︵ 1﹃稲︒︒
稲掟置言葉︶城︵ 2原に﹁心
﹂ ︒
三〇三頁参照藤士前掲論文︵ 3︶伊忠︒︑︑
二三頁参照掲書三四︵ 4︶西垣晴次前︱︒︑︑
頁参和一年五照編近代下昭四早県史﹄通史︵ 5︶ ﹃岐︑︒︑
尾張西部地域におけるお礼降りについて︵ 小島︶
上を
占 め て
いる
︒ こ 地の 域 秋の 美 信 仰 は現 在
でも
秋﹁ 葉 講
﹂ ま た は 秋﹁ 実 さ
﹂ん と 呼 び 残 てっ い
る ︒
津 島 牛 頭 天 王 も 地 域 一帯 広に く 信 仰 を集 め て お
り ︑
府国 宮 豊 ・ 川 稲
荷∵
熱 田 神 宮 等
︑ 尾 三 地 方 神の 社 が や は 上り 位 にあ
る ︒
ま た 尾 張 門 徒 の中 心 地 域 であ る か ら 阿 弥 陀 如 来 南 ・ 無 阿 弥 陀 仏 が 口 に 立
つ ︒
わ ず か で はあ る が
︑ 能 勢 妙 見 と い たっ 蓮日 宗 札の も あ
る ︒
総 枚 数 に比 較 し て札 種 は多 種 多・ 岐 わに た てっ お り
︑ 少 数 者の が 何 ら か の意 図 を も てっ 降 ら せ た と
いう
こ と は不
可能
で あ
る ︒
木 仏
・ 金 仏 ま で も 降 下 し て い る と な れ ば 尚
一 史で
あ
る ︒
札 種 に つ い て
は ︑
同 じ 尾 張 例の を み る
と ︑
知 多
︵ ・ 3
︶
郡 半 図 場の 合
︑ 上 位 四 位 は れこ 同と じ であ
り ︑
中
︵ ︲ 4
︶島郡起宿は豊川稲荷大明神︵ 豊川珍質牛王紙・豊 川 愛 染 明 王 御 影 各 枚一 を 合 め
︶て 南 ・ 無 阿 弥 陀 仏 名 号 秋 ・ 離 和 御 札 天 ・ 照 虫 大 神 宮 の順 であ
る ︒
エ 河
でも
刈 谷 は秋 葉 南 ・ 無 阿 弥 陀 仏 天 昭小 皇 大 神 宮 津 ・ 島 牛 頭 天 王 順の であ
る ︒
村別の降下枚数 ・札種数をみると ︑表2のようでかなり
差がみられる ︒
村別に札種の様子をみると一棒一ではない ︒降下枚数と札
極数はおよそ比例するはずであるが ︑塩尻村︒重吉新田村
︵ 6
︶西垣晴次 ︑前掲書 ︑四〇・四一貢参照 ︒
︵ 7
︶支邑も合めて五六村 ︒名古屋和泉町の一軒は除いた ︒﹃稲沢市史﹄一八一頁でキヨス不明となっているのは ︑札の中に清須外町の庄屋安藤善六 ︑同じく三輪彦九郎の名があるところから ︑清須外町のことと思われる︵ ﹃清洲町史﹄昭和四四年参照
︶ ︒
︵ 8
︶ ﹃稲沢市史﹄に不記載の札をそれぞれ比例配分して作成された月・旬別集計がある ︒
︵ 9
︶ ﹃稲沢市史﹄一八三頁参照 ︒
︵ 1 0
︶ ﹃半田市誌﹄本文編三一六頁に ︑西成岩の降札の時間別集計が出されている ︒昼・夜も比岐的多い ︒
︵ 1 1
︶ ﹃稲沢市史﹄では六五四枚になっている ︒三枚の誤差か出た ︒それぞれの札枚数にも誤差が出ている ︒
︵ ・ 2
︶ ﹁秋葉三尺坊﹂﹁秋美観音﹂﹁秋葉山﹂は秋業大権現として一括した ︒﹁大神官﹂﹁神明社﹂︵一枚︶は天照皇大神官としてこれに含めた ︒﹁惣社大神官﹂﹁惣社大明神玉串﹂は国府官神主と記載があるので国府宮大神官として一括した ︒また﹁日本惣社﹂曇枚︶は ︑津島牛頭天王が秀吉から与えられた称号とされているのでこれに含めた ︒﹁高無阿弥陀仏﹂と﹁阿弥陀如来﹂は一つにした ︒﹁庚申大黒﹂﹁三頭大黒福寿天﹂は大黒天に ︑﹁鬼子母十女神﹂は鬼子母神に ︑﹁高野山九重御守﹂
延葉地威尊蔵菩﹂れれた E﹂薩﹁大師にそぞ含め﹁地 ︒ 大遍金弘法南無師照剛﹂は︻ ︲
命地蔵大菩薩﹂を一括して地蔵とした ︒疫神斉に﹁疫神禦
御荻﹂を含めた ︒また大黒天は木仏・金仏を含む ︒その他 ︑
御守札も数多くあるが ︑それぞれその種の札枚数に数えた ︒
表 2 村 別 降 下枚 数 お よび種 別 数
小 山 下 津 清 須 小 塚 分 土 器 野 新 日 三 ツ丼 小 池 正 明寺 下 之 郷 多 加 木 塩 尻 清 須 宿
日下 部 清 須 田 中町 分 赤 池 西 堀 江 重 吉 新 回 国 府 官 小 沢 治 郎 ナし 石 橋
一‑ 36 ‑―
一‑ 37 ‑一
史苑︵第四〇巻第一号︶
︵ 蛸︶ ﹃半田市誌﹄本文編による ︒
︵ ︲ 4
︶起宿脇本陣﹁林家文書﹂による ︒九月降下の札の統計 ︒
︵ ︲ 5
︶伊藤忠士 ︑前掲論文参照 ︒
三
︑ 降 下 階の 層 軒 ・ 一数 村と 柄 総枚 数 六五 枚四 対に
し ︑
降 下 総の 軒数 は四 六 七 軒 で あ
る ︒
のこ
内 ︑
首字 持を
つ家 六 軒六
︑ 屋 号 持を
つ家
〇四
軒 ︑
寺 社が 三 二軒
︑ 苗字 はな
いが 庄 屋 であ
るも
二の 軒 合 ︑ 計 一 三〇 軒 なと
る ︒
れこ 全は 体 約の 三〇
% を占 め
る ︒
河三 の刈
︵ 3 ︶
高結果がてがいい出いるとう︒ 比率成岩場合階層高者ほ降下の谷知多郡西ののいども︐︑︵ 4︶
一軒で数種類の札が降っている家もある ︒三種以上降下 した家の村名・氏名をあげれば表3のようである ︒
二一軒のうちで苗字・屋号を持ち者と寺社で一〇軒あり
約五〇%を占める ︒二種の札降下の家についても ︑五九軒のうち苗字・屋号を持つ者と寺耕ぞ二①軒を占め ︑約三四%になる ︒
この結果から複数種の札降下の家は ︑苗字 ・屋号を持つ家や寺社に降った割合が大きいということができる ︒同時に一軒の家に多種類の札が降ったということは ︑降ったというよりも ︑その家に祭祀してある札を持出して ︑その家で降ったと称した ︑あるいは降らせたものと推察される ︒
﹃感興漫筆﹄の﹁其家に応ずる神仏の御札・御影降る﹂の記事はこのことを窺わせるものである ︒
表3の一五枚 ・一一種の天桂寺よ曹洞宗︶ ︑九枚・五種
井 井 2 9
3 2 4 9 8 6 2 5 5 5 7 4 4 8 9 8 5 6
・ 0 7 . 3 ︒ 9 9 5 3 3 . 7 9 8 5 8 7 3 3 9 5
表 3 多 種 類 神 仏 札 降 下 村 別 ̀ 氏名
表 4 国 府 官 神社 社 家 社 僧 へ の神札 降 下 状 況 下 札 名
量縫座
%
象 種 1 村
│ 名
1 氏
> 飲 確 宮 枚 官 官 官 麻 大 神 二 神 神 神 宮 御 皇 大
< 大 大 大 神 祓 雑 皇 宮 皇 皇 皇 大 宮 宮 大 伊 照 神 照 照 田 原 神 神 神 祝
︲天伴僕︲天十居艦ふ ︲産着藤璃僧薦薦主痛楽璃神︱ュぽほドほ卜降ドドぽ世伊卜障
門 介
天 夫守計 衛問大濃 大前主書馬右左長美院安備部図数浅賀瀬部徳藤口々野出藤須障悔︲威格儒性E陰r″障
跡 呼 中 の 甲 Ψ 町 印 呼 跡
尾張西部地域におけるお札降りについて︵小島︶
衛 寺 右 桂 澤 天 部
郷 下 之 日 下
7 1 石 橋
1 孫 蔵
5 1 多加 木
1 西 堀 江
│
1 野村 治 良助 1 長
谷 院
下 之 郷 清 須 十 間 町 多加 木 四 ツ家 島
多加 木 花 池 清 須 田中 町 分 清 須小 塚 分 清 須 宿 土 器 野新 田
源 左 衛 門 園 六 繁 右 衛 門 か どや 治 兵 衛 村 手 利 左 衛 門 佐 藤 勘 助 林 石 衛 門
涼 中 文 右 衛 門 長 左 衛 門 角 屋 伊 功 酒 井 藤 功 文 左 衛 門 勇八 吉 島 屋 亦 兵 衛 天 島三 郎 左 衛 門 降
数 札 数 戸
一月
村
丹 羽 中 島 丹 羽 春 日井 中 島 丹 羽 中 島
丹 羽 春 日井 丹 羽
中 島 丹 羽 中 島 春 日 中 島
4 2 4 2 3 . 7 3 7 3 3 3 3 3 . 1 3 . 0 2 . 9 2 8 2 ゃ6 2 . 6 2 . 4 2 . 1 2 , 1 1 8 1 . 8 1 . 6 1 . 5
1.1
1 0 16
24 25 9 12 7 14 77 14 8 35 20 12 17 5 9 4 6
46 34 30 27 20.
16.
16.
14 14 1 3 1 2 1 1 1 0 1 0 7 7 6 4 4 4 4
9C 71 108 54 152 9C 96 67 277 145 229 116 211 187 48 110 56 62 137 91 210 治 郎丸
石橋 法 寺 平 島
堀 江 長 野 浅 野 沖 下 之 郷 法 成 寺 稲 島 九 日市 場 北 市 場 中 之 郷 吾 重 外 崎 北 島
田
小 山 国府 宮 塩 尻 土 器 野 新 田 小 池 正 現寺 猿 海 道 小 沢 松 下 多 加 木 清 須
重 吉 ( 新田含 む) 五 日市 場 下 津 三 ツ丼 赤 池
落 合 ( 支邑含 む) 六 角 堂 井 之 ロ 氏 永
日下 部 子 生 和
表 5 村 別 戸 数 , 降 下 戸 数 比 率表
妙 興 寺
図2降 下 村略位 置図
史苑︵第四〇巻第一号︶
の長谷院︵ 浄土宗︶は枚数と札種類の比からみて ︑なんとなく意図的な不自然な降下況状が感じられる ︒さらに国府宮神社の社家・社僧の降下状況をあげると表4のよ>で一層 ︑意図的な降下であったことを示している ︒
神主以下社家・社僧合計一四家中一〇家に降っている ︒
降下月日は九月末から十二月半ばまでで ︑この降下地帯では最終的な時期まで散発的に続いて降下している ︒しかもこの地域では第四位の札数である国府宮神社の札がない ︒
これは ︑社家・社僧もこの札降りの風潮に乗りおくれまいとする気持が徐々にひろがっていったことを示し ︑また神仏札は神仏の加護のある家 ︑善行のある者へ降るのであるから ︑寺社こそ ︑それを証拠だてるためにも降る︵ 降らせる︶必要があったため ︑自己の国府宮神社の札をさけたのであろうか ︒
7︶ ぎに﹃尾張絢行記﹄所収の村にかぎって ︑村別に村戸数と降下軒数 ︑その割合を示せば表5のようであり︑村相互の位置関係と割合を示せば図2のようである ︒
この地域の特徴としては ︑美濃路の宿場である清須宿・
稲葉宿があり︑清須の助一郷村に北市場・六角堂・井之口・日下部・西堀江の五ケ村 ︑稲葉の助郷村に小池正明寺・松
ぃぃ一 稲
ノ 島
宮 .
郵却約 ︑ .
韓い一御部屋 .
販韓ゃ党移軸い巾鵜f鵜兼
尾張西部地域におけるお札降りについて︵ 小島︶
③
① ①
③
ナ 下 の に 総 の 寺 街 る ■f 降 立 ぅ 庄 ォ、i は が 流 需
ヲ
@
②
①
3 0 % 以 上
2 0 ‑ 一‑ 3 0 % 1 0 ‑ ‑ 2 0 %
1 0 % 以下
一‑ 40 ‑一
‑41‑
表 6 降 下 村 の 「村 柄 」 状 況
蟹 雁 J陥1村名
丹 羽 小 山 中 島 i 国 府 台
『尾 張御 行 記』 の村 柄 関 係 記 載 事 項
丹 羽 奉 日井 丹 羽
中 鳥
丹 T r l 中 島
春 日井 ツ 丼
池
史苑︵第四〇巻第一号︶
村 少 弊 ホ ニ 商 貧 一茶 土 菜 田 ク 冬 東
︐ 小 芳
︑
︐葡
︐ 村 一 一 小 一 小 農 準 立 姓
一 向
田
¨ ト リ 綿 テ
︐二
︐
︐小 少
︐ 7シ テ 牛 カ リ 薙
シ 貧
︐ 新
︐ 日
¨ ト リ 綿 テ
︐ 二
︐
︐ 小
少
︐ ラ
子 / 牛
カ リ 薙
シ 貧
︐ 第 下 第 下 テ 平 村 百 持 り 一 戸
︻ 道 卜 = ノ ニ 斉シ ツ リ 下
ロ リ リ ア ニ
︐
︐ 水 ア 胡 ク テ リ
︐ ︐
︐
︐ 二
︐ 高 テ 小 テ ナ テ
︐ 街 ホ
″ タ リ 接 舎 ナ レ
︐ 戸 作 セ 立 所 リ リ 用 そ 芽 多 セ︐一 リ リ ツ リ リ リ 持 ニ テ 一 所 シ シ 路 ノ
︐ カ一一 ヲ 駅 り 作 リ ハ 出一 フ 村 ノ レ セ 地ニ
牛 姓 り 出
一 ノ
作
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作 カ ア リ リ 一一 リ キ 十一 耗 濃 橋 ツ 市カ ハ 界 二
︐ カ 作ク
テ 瓜 リ テ 準 ク 出 故 キ 内 百 力 売 産
︼ ′
産 ヲ ハ モ カ カ リ カ
︐ ョ 村 衰 美 川 ナ 余 民 卜 間 リ ハ 多 ヲ シ 西 送 二 平 ツ リ ル ア ノ 小 ハ ヘ 名 疏 名 流 姓 者 ハ ハ カ リ 也ハ モ 小 ニ 新ハ 地 ノ 細 村 ノ ナ 姓 類ヲ
準 瓜
ヘリ
︵ ラ ウ ナ ニ 物
︐ 姓 井 ′/
棄 ︐ノ 業 百 ル 姓 姓 ハナ
姓 所 立 古 同 々 一 P
︐ノ
業 中 葉 口﹈ 村 百 綿 ノ ニ 市ハ 力 古 口専 へ 古 同中 国 り
︐ 百 回 恨
︐ 一 子
︐ 一 小 ス 百 首 戸 卜 百 キ 村 小 漸 民 り 昌 農 村 稲 二 貧 小 木 瓜 古 同 夏 井 ハ 持 ヲ 市 地 ノ 菜 セ シ 小 小 大 り 第 茄 り 第 皆 7 小 小 農 ス 小 ヨ 屋
寺 堂 重 宜 花 牧 角
官 称蓮 西六
落合村枝郷
松 下 多加 木 清 須
重 吉 ( 新田 周 む) 五 日市 場
下 津
中 大 小 百 姓 入 交 レ リ, ク, 村 中 ニテ耕 橋 , 民 多 シ,
リエ ア リテ, 町 並 二農 商 入 交 レ 問 屋 あ ブ, 舟 ツ ヽキ ニテ商 ヒ繁
ヒス ル 者 二 戸 ア リ, 村 ナ リ,
一 二 村 含 シテ稲 棄宿 卜唱 へ, … 店 商 星 モ建 ナ ラヘ リ,
地 ハ 沙 交 リナ リ,
物 ハ 人 参 茄 子 青 瓜 牛 芳 真 桑 瓜 西 井 ノ市 ヘ モ 出 セ リ,
… 二 区共 竹 木 茂 レ リ, ハ 専 ラ エ ン ジ ン フ作 り, 下 小 田 西 砂 マ ツチ入 交 り也 , 一 体 細 民 百 姓 ハ カ リ也 , 麦 小 物 ノ外 菜 園 西 瓜 r l 薙葡 フ ツ ク リ下小 田 井 ノ リア シ, 漸 々 二衰 耗 シ宅地 ヲ専 ラ作 り下 小 田井 市 ヘ ウ リ出 持 高 平 準 ノ所 ナ リ村 立 ′ヽ大 体 ヨ ナ リ, 第 一 菜 読 ヲ作 り, 下 菜 腕 ヲ作 り, 下 小 田 井 へ売 出 ヒ 下 小 田 井 へ売 出 セり,
下 小 日 ) │ へ売 出 セ リ,
第 一 菜 読 ヲ作 り, 落 合
井 之 口 氏 永 日下 部 子生 和
下 小 団 井 へ 売 出 セ
中 島 ニテ農 フ事 生 産 トス, 出 町 ニ ハ 小 商 ヒ
ノ所 ナ リ, ハ大 体 ヨキ所 ナ リ,
多 シ, 野 菜 物 ハ 下小 田井 市 へ 出 ハ 平 準 ナ ル所 ナ リ, 村 立 夕ヽ大 体
‑ 43 ‑一
雷預ヽ■H■4
雪 旨 脅 │:;「 畳 督 チ 誉 旨 ケ 暑 曇 ,二 言 母 '安 塀 署 者
1 2 1 3 4
6 7 貿 警 す と チ 暑 需 テ 伊 持二 畠 ニ ハ 茶 木 モ 栽 ル 也 , 小 百 姓
拶 戸 重 案 す匡 す生 逢 │ 夕 斉 憂 察 芳 音 各 啓 ラ貢付 署 隼彙 七 戸 ア リ, 操 綿 ノ仲 買 ヲ シ, 一 ノ宮 村 へ交 易 セ リ, 又 大 工 二 人 木 挽 三 人 ホ トア リ,
細 民 クヽカ ジエ テ村 立 ア シ, 元 来 貧村 ニテ僅 僕 又 ハ ロ億
8 9 10 11 12
14
lll
17 18 19 20 21 カ セ キ ニ出 ル者
小 村 小 高 ノ村 ニ テ高 二準 シテ / ヽ戸 口多 ク, 小 百 姓 ハ カ リニ テ村 立 ア シ
場 一 轡仏 ぽ降伍井 ︲中 之 郷
棒腰︲牌﹂
播封Y匿ぱΨ坐
一
尾張西部地域におけるお札降りについて︵小島︶
2 2 1 ′′
│
23
於 保
島 治 郎九
丹 羽 伝 法 寺 平 島
壌■招■4マ■■!﹁ 史苑︵ 第四〇巻第一号︶
一%代の村をみると ︑中之郷村は
小百姓﹂吾一 ︲ハカリ︑
望村は﹁弊民多ク至テ貧村ナリ﹂ ︑外崎村は﹁村立ヨク﹂
北島村は﹁村立ヨクシテ⁝頭百姓モ二三アリテ提商ヲ兼タ
ル者モアリ﹂ ︑陸田村は﹁小百姓ハカリニテ貧村ナリ︑操
締ヲ商ヒ一ノ宮へ出ス者二戸アリ﹂ ︑妙興寺村は﹁持高ハ
平準ノ所ニテ小百姓ハカリ也 ︑村立ハ大体ヨン﹂である ︒
以上 ︑降下割合の両極を対比したが ︑表5と表6を企休
的にみた傾向としては ︑富裕な村柄のところへ多く降下し
ているようであるが ︑﹁村立ヨキ﹂外崎村 ・北鳥村は一%
代にとどまっている ︒また二位の塩尻村 ・六位の猿海道村︐八位の松下村・九位の多加木村は弊民・細民・貧村 小
百姓の字句が示すように決して富裕村ではない ︒これを伊
藤氏が三河の刈谷坂下町の例によって﹁下層民衆の富商ら
に対する反感と抵抗が ︑打ちこわしなどの直接的攻撃の形
ではなく ︑変形された形で表現されたものということがで
︵ 1 1
︶
き ょ
う ︒
﹂ と い う 下 層 民 衆 が 富 商 接に 待 さ せ よ う と し て降 ら せ 解た 釈
や ︑
れこ と は一 逆 に上 層 者 方の か ら 民 衆 の不 満 を そ ら す た め に降 たっ 称と し
て ︑
祝 宴 を開 い 振て 舞 いを し た と
いう
解 釈 で 一応 説の 明 は で き
る ︒
し か し こ 解の 釈 が す べ て であ る な ら ば
︑ 中 之 郷 吾 ・ 髪 陸 ︒ 田 妙 ・ 興 寺 な ど の弊 民 細 ﹁ 民 の多 貧い 村 も 同 様
に ︑
高 率 降で たっ
り ︑
降 ら せ た り す
る よ う な 状 況 が あ ら わ れ る ずは で あ
る ︒
少 く とも ︑ 一%
代の低率にとどまったのはなぜかという疑問が残る ︒
証
軒数︵三枚︶がが数にえたある ︑︒ 村﹂﹂安全﹂︶氏名之﹂中中︵ 1の中に﹁村ツ﹁村﹁村﹁井日じ
︐々一 ・ 清須小塚分の﹁庄屋半七﹂ 清須田中町分の﹁庄屋半之右術門﹂のこと︒
行つ
︸ 一
岡本建回﹁刈谷町のお札降り﹂も地方史研究﹄略号所収︶
参照 ︒
︵ 4
︶ ﹁半田市誌﹄本文編三一七哀参照 ︒
合︐一﹃稲沢市史﹄八八︱二九〇頁参照 ︒
︵ 6
≡ ﹃名古屋叢書続編﹄第五巻 第六巻所収 ︒
→! 一 村戸数は ︑﹃尾張狗行記﹄の﹁今戸﹂︵覚政四年の数値︶による ︒落合は ︑官重 称宜圧 進花寺﹁西牧の四支出を
含む ︒
︵ S
! ﹃新編一宮市史本文編上﹄昭和四五年 ︑九二二!九二五
頁参照 ︒
︵ 9
︶ ﹃西批把島町史﹄二六三︱工八九頁参照 ︒小島広次﹁批
把占市場と藩役人﹂︵ ﹃地方史研究﹄
5 6
・5 7
号所収︶・小出
保治﹁批把島市場を通じてスた名古屋の商圏﹂﹁名古忙開
府と批把告開市﹂︵ デ﹁古との商四﹄所収︶参照 ︒
︵ 1 0
︶清須では ︑村役人︵立合米はいずれも苗字帯力 宗門一札を許された清須の名家︶にはほとんど降っている ︒札の
中に ︑立合校衆を兼ねた庄屋あるいは総庄屋である河村惣
兵衛 早川清太夫 安藤羊六 ︑に屋の庄屋半七︵順尾半七のことと思われる︶・庄屋半之右衛門︵石黒半之右衛問あことと思われる︶・三輸彦三郎 ︑立合役次の武田長兵衛 ︑
侑総年寄の武田新蔵 ︑また稲柔騒動の際襲撃にあった富家の河村新兵衛の名がある︵ ﹃清洲町史﹄昭和四四年 ︑ 一九四!二〇六頁参照
︶ ︒
︵ 1 1
︶伊藤忠士 ︑前掲論文 ︑三二二頁 ︒
む す び
いま
ま で
︑ 述 べ た と こ ろ を ま と め る と
︑
つぎ
の よ う に な
ブつ ︒
的尾張西部地域のお札降りは ︑ほぼ名古屋と同じ時期
︵全国的にみると早い時期︶に始まり︑名古屋より遅くま
で続いた ︒
0降下の札種は ︑同じ尾張の各地と似通っている ︒また
尾三地方の神札が上位にある ︒
0村別にみて ︑その最多札種や札極数は様々である ︒
的町場︵ 宿場︶村や在郷商人の多い村は秋葉大権現の札が ︑また社家層は天照皇太神官の札が圧倒的である ︒
0苗字・屋号を持つ者や寺社は降下の割合が高く .また複数種の神仏札が降下している ︒
0村戸数と降下軒数との割合は ︑全体的にみると富裕な
村柄のところへ多く降下していると言えるが ︑逆に ︑﹁村
立ヨキ﹂村でも低率の村もある ︒弊民・細民の多い貧村で
高率のところも低率のところもある ︒伊藤氏のように上層
尾張西部地域におけるお札降りについて︵ 小島︶
者
への
札 隊 り を 下 層 民 衆 変の 形 的 な 攻 撃 と
いう
解 釈 や
︑ こ れ 逆と 下に 層 民衆 の 満不 そ ら し の た め 先の 取 り に よ る 上層 者
自 身 の札 降 ら せ と い たっ 単 純 な わ きり 方り に は問 題 が
︑残
る ︒
降 下 高の 率 低 ︼ 率
は ︑
東 海 道 中と 山 道 を
つな
ぐ 幕 府 直 時 街 道 あで 美る 濃 降 や 尾 張 藩 重の 要 道 路 であ 岐る 阜 街 道 の 沿 村 で あ る か 否 か に関 係 が あ る の で はな い か 考と え ら れ る が
︑ 図
2 示の す よ う
に ︑
高 率 低 ・ 率 ばに ら
つき
が あ てっ 一 関 係 が な い と い え
る ︒
た だ 図 2 点で 線 で囲 んだ
よう
に高 率 の 村 が々 地 域 帯 を な し て
いる
こ と は注 目
でき
る ︒
が 陶 那 功 的 葡 喘
一 中
︻ 醜 ド 賄 お 暉 ヤ
つ ォ L
歳輔
れ 坤 H
﹄姫
と こ ろ か ら
︑ 政 治 的 な 行 為 を 持 た な い
で ︑
一種 流の 行 の よ う にな たっ 札 降 り に個 人 的 な 興 味 悪 ・ 戯 か 降ら ら せた も の も あ る 思と わ れ
る ︒
も ち ろ
ん ︑
消 極 的 な 意 味 の打 ち わこ し 変 博 形 的 な 攻 撃
︑ あ る い は そ 防の 止 策 と し て 降の 下 も 当 然 あ たっ で はあ
ろう
︒ 尾 張 西 部 地 域 にお い て
は ︑
極 め 多て 数 種 札の 降 がり あ る か ら
︑ 数 人 手の に よ る 札 降 り 札 降 ら せ と い たっ も の なで い こ と 確は か であ
る ︒
何 を 目 的
と し て 札の 降 り な の か と
いう
問 題 のほ か
に ︑
一側 が 札 降 り 連の 錬 作 用 を 引 き お こさ せ た の
かを
考 察 す る
のも
重 要 な 問 題 であ
る ︒
れこ を 考 え る う え の カ ギ の
一つ
と し
て ︑
﹁え え じ なゃ かい
﹂ に お け 村る 落 で 共の 同 体 意 識 影の
―‑ 44 ‑一 一‑ 45 ‑―
漏
︐
史 苑
︵ 第
〇四 巻 第 一号
︶ 響 は 見 逃 せ な
い ︒
丹 羽 郡 浮 野 村 の庄 屋 原 楠 城
︵ 雅 号
︶ 懺の 悔 的 な 感 慨 記 に
よ る と
︑
子 も 天 降 ま す 大 神 其 篤 い二 た し 置 事 恐 在 迎
︑ 仏 檀 之 脇
︵マ
後御祭朝馴た経輪念差置其別中夕るも二二と口り︑︑︶一 ︑
佛勤行相営 ︑其後同し廿七日嘉助方二御札御降 ︑翌日
夜林吉弥兵衛忠助等えも御降在之二付 ︑夫々村内方御神酒を備 ︑信仰之人々ハ銘々二備物等いたし ︑大に歓
喜いたし七日七夜が内ハ通夜いたす弥と人々之信仰不
一形 ︑予も天降の神わか家二祭り有らハ ︑外之並に御祭り申貰ひ度 ︑種々不談いたし候処不得其儀 ︑徒二数日を過し此事而己思煩て寝るに ︑︵ 以下略︶と ︑自分の家も﹁外之並に御祭り中貰ひ度﹂と願っている
のは ︑まさに共同体における意識である ︒しかも村方や信
仰の人々が種々の供物をし﹁大に歓喜いたし七日七夜が内
ハ通夜いたす杯と人々の信仰不一形﹂であれば純粋な信仰
心の存在も無視できない ︒﹁小百姓ハカリニテ貧村﹂の浮
野村では ︑札降りのあった平百姓四人の家へは村方から神酒が ︑信仰者からはそれ 一それの供物が供えられて参拝が行なわれ ︑庄屋のところへは札降りがあって ︑すでに祭って
いても村民は参請に来ないので﹁種々示談いたし候処不得
其儀﹂のほどであるから ︑少くとも ︑ここでは下層民の変
り騒ぎが結果的には討幕派の動きをカバーすることにもなった︵藤谷俊雄﹃﹁おかげまいり﹂と﹁ええじゃないかと︵岩波新書︶一十三で一十七頁 ︑西垣晴次前掲書一〇九頁︒二六〇F二六二頁 ︑高島一郎﹁工ヽデ十ナイカ考﹂含歴史学研究﹄
3 3 7
号所収︶参照
︶ ︒
頁参照掲書二六七八垣晴次前︵ 4︶西!︒︑
︵ 5
︶﹁心に掟置言葉
︲ .︒
︵ 6
︶ ﹃尾張狗行記﹄による ︒
尾張西部地域におけるお札降りについて︵小島︶
形 的 な 攻 撃 と か上 層 者 先の 取 り 攻 撃 防 止 と い たっ 解 釈 に よ る 札 降 り 考は え ら れ な
い ︒
稲 城 家の に札 降 り が ま だ な か たっ 時 期
に ︑
名 府 之 参 り 候 処
︑ 名 府 町 え々 諸 国 之 神 仰々 其 外
︑ 所
々 杯
も 数 多 天 降 坐 迎
︑ 名 府 中 祭 り 有て け
る ︑
稲 城 曇 か し 拝こ
し 廻
り
て ︑
我 も 何 率 御 札 御の 降 被 成 を 拝 し 度
と ︑
か つ 矮ハ 人 之 業 而二 さ ま
く ヽノ︑ .
の札 を 格
︑ 空 え 吹 上 打 上 杯 而 順 風 任二 吹セ 為 散 候 敗
と ︑
実 わ二 か 心 之 い た ら ぬ 事 を 頼 み と
︑ わ が 家
への
御 札 降 下 を 強 く 期 待 し て い
る ︒
札 降 り は 有﹁ 難 き こ
﹂と であ
り ︑
そ れ は 同 時 に 選﹁ ば れ た者
﹂ 対に し 降て 下 す る と
いう
意 識 を 生 む こ と
にも
な たっ
︒ 庄 度 で あ 稲る 城 だ け で な く
︑ 国 府 宮 社 家 社 僧 な 共ど 同 体 の中 で 権の 成 者 と し て
は ︑
村 民 対に し
て ︑
御 札 降の 下 は権 威 を 守
る ︑
あ る い 権は 威 を 高 め る 好 機 であ たっ の で あ
ろう
︒
二・ 一 F
︵ 1
︶﹃感興漫筆﹄﹁万松寺の情 ︑日蓮宗英寺︵ 円頓寺︶の管 ︑
札を出して降らせ捕られたり
﹂ ︒
︵ !︶阿部真琴 一 削掲論文 ︑二一人頁参照 ︒
︵ 3
ヤ 札の降下は政治的作為ではないかという説が言われてき
た ︒実際に政治的な作為によって降らせたという証言もある ︒確かに ︑京都においては﹁ええじゃないか﹂が政治的に利用・増長された面がある ︒﹁ええじゃないか﹂のお祭
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