日本軍のビエンチャン進駐
―ビエンチャンにおける仏印武力処理とその後を中心に―
The invasion of the Japanese Army in Vientiane, Laos
-Focus on the Japanese coup de force in Vientiane and the ensuing months-
菊池 陽子 Yoko Kikuchi
東京外国語大学総合国際学研究院
Institute of Global Studies, Tokyo University of Foreign Studies
要旨
In this paper, I will examine the invasion of the Japanese Army in Vientiane mainly in accordance with documents from the Japanese side. These documents show that the Japanese army invaded Vientiane without big battles on 10th Mar. 1945. After occupation, the Japanese Army established military administration in Vientiane, but left the administration to Lao officials and did not intervene in the administration. At the beginning, the administration was confused, but gradually it began to function. The Japanese army considered Vientiane was peaceful. However, under Japanese occupation, some Lao organizations prepared for the independence movement that appeared after surrender of Japan.
キーワード:ラオス,ビエンチャン,日本軍,仏印武力処理
Keywords: Laos, Vientiane, The Japanese Army, The Japanese coup de force in Indochina
はじめに
第二次世界大戦中、東南アジアの多くの地域は日本軍の占領下に置かれたが、インド シナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)は、1945年3月9日までフランスの植民 地政権が存続していた地域であった。なかでもラオスは、1940年9月の北部仏印進駐、
1941年7月の南部仏印進駐以降、日本軍が駐留し日本とフランスによる二重支配1下に 置かれていたベトナムやカンボジアと異なり、1945 年 3月 9 日の仏印武力処理の準備 が本格化するまで日本軍は進駐していなかった。ラオスにおける日本軍による支配は敗 戦までの約5か月間であった2。
約 5 か月という短期間ではあったが、スチュアート-フォックスによれば、この時期 を挟んでラオスのナショナリズムは文化的ナショナリズム(ラオスの文学や音楽等の賞 賛やラオス史の復活などを通して、ラオスアイデンティティーを形成しようとするもの)
から、ラオスの独立を目標とする政治性を帯びた運動に変化していった3。ローガンも 日本占領下のラオスでナショナリズムは成長し、ラオスの人々が独立を実現可能な計画 に組み込めるようになったと述べており4、欧米の研究者に、この時代はラオス史にお いて歴史的な転換点であるという認識は共有されている5。
こうした認識は、日本占領後にラオスのナショナリズムが政治性を帯びた運動(ラオ スの独立を求めるラオ・イサラ(自由ラオス)運動)となって表出したことから導き出 されており、日本軍については、ラオスの支配者であったフランスを一掃したことがラ オス人に政治的な経験を与えることになり、ラオスのナショナリズムの変化を加速化さ せる触媒の役目を果たしたと分析されている6。日本軍によって、ラオスを支配してい たフランスは無敵ではないということが示され7、ラオス人が自分たちは無力ではない ことに気付いた8というのである。筆者はこうしたこれまでの分析に異を唱えるつもり はなく、日本占領期に対する認識をこれまでの研究と共有している。
しかしながら、こうした分析においては、フランスを一掃したことがラオス史におけ る日本軍の一義的な役割であるため、短期間であるとはいえ、この間の日本軍の行動、
日本軍によるラオス統治、日本軍によって何が変化したのか、しなかったのか等、具体 的な日本占領期についての言及はあまりなされてこなかった。もちろん、すでに拙稿で 指摘した通り史資料の制約9も影響しており、この時期の全貌を明らかにするのは容易 ではないし、明らかにした結果、これまでの分析や認識に何らかの変更を迫ることにな るとは限らない。ただ、そうではあっても、日本占領期が歴史的転換点であるのであれ ば、その時期の日本軍の行動を明らかにし、具体的に検証することは必要であろう。
本稿では、すでに拙稿において検証してきたルアンパバーン10、パクセ11、タケク12、 サワンナケート13に続き、ビエンチャンにおける武力処理及びその後の状況や日本軍の 支配について可能な限り明らかにしたい。ビエンチャンの状況については、ガンが、フ
ランス側の史料とビエンチャンで武力処理を行った歩兵第 8 連隊第 3 大隊の迫政則の 回想録を使用して言及している14。後述のように、歩兵第8連隊第3大隊がビエンチャ ンに駐留していたのは1か月強であり、敗戦時までの状況は迫の回想録には描かれてい ない。筆者は、迫以外の軍人の回想録や連隊史などの日本側史資料を使用し、ガンの研 究も参照しつつ、敗戦時までの状況を可能な限り明らかにする。
I. フランス植民地下のビエンチャン
1893 年にラオスがフランスの植民地になった時、フランスはラオスをベトナムの管 轄下に3つに分けて統治した。その後、「上ラオス」と「下ラオス」の2つに分けたが、
1899年にラオスを1つの行政区とした15。その際、ビエンチャンをフランス植民地ラオ ス全域の行政的中心と定め、これ以降、ビエンチャンに理事長官府が置かれることにな った16。フランスはハノイ等、他のインドシナの都市と同じように、ビエンチャンも秩 序だった都市に作り上げ、インフラを発展させようとしたが、他の都市よりも仏領イン ドシナにおいて政治的経済的な重要性が劣っていたために発展は限定的であった。1930 年代においても道路は未整備未舗装で、上下水道も不十分であった17。
1910 年代からハイフォンとサイゴンで貿易業を営み、1942年時点ではハイフォンで 内河航業を経営していた水谷乙吉は、1942年に出版された自著『仏印老檛』で「日本人 では唯一の老檛縦貫旅行者」と自らを称しているが、ハノイからビエンチャンへは、自 動車でサムヌアまで行き、その後は馬背で山間を横切って行ったと述べている18。さら に、同書でビエンチャンへの交通路として、水路ではサワンナケート-ビエンチャン間、
ルアンパバーン-ビエンチャン間の定期船、陸路ではルアンパバーン-ビエンチャン間、
ビン-シェンクワン-パクサン-ビエンチャン間の行程を紹介している19。ルアンパバー ン-ビエンチャン間の水路は「可成り危険」で、陸路は途中、自動車道がないため馬に 乗り全行程5日であるとされている20。ビンからの行程は、シェンクワンまでは乗り合 い自動車があるものの、その先のパクサンまでは途中から馬で(途中まで乾期には自動 車道を使用できる)4日を要し、パクサンからはビエンチャンへ電報を打って自動車を 呼ぶ21とある。水谷がいつの時点の経験や情報によってこの行程を紹介しているのかは 明らかではないが、1942 年に出版された本に紹介されていることを考慮すると、1940 年代初めの時点で、ベトナムからビエンチャンへのアクセスは相当悪かったといえる。
ベトナムからビエンチャンへ行くには、国境に近いサムヌアやシェンクワンまで自動 車で行き、そこから先は自動車が通れないため、数日、馬の背に揺られるか、自動車道 の開通していたメコン川岸のサワンナケートやタケクまで自動車で行き、そこから定期 船で北上するかであった。ビエンチャンはラオスの行政の中心であったが、1940 年代 になってもインドシナの行政や経済の中心であるハノイやサイゴンとのアクセスは悪 かった。それだけではなく、王都であるルアンパバーンとのアクセスの悪さが示してい るように、ラオス領内のアクセスに関しても、行政の中心地であるビエンチャンとラオ スの各都市とのアクセスが確立されてはいなかった。フランスはビエンチャンに理事長 官府を置いてはいたが、ビエンチャンをラオスの政治的、経済的中心として発展させよ うとはしていなかったし、仏領インドシナの5つの地域のうちの一中心としても発展さ せようとはしていなかったことがうかがわれる。ビエンチャンはメコン川対岸のタイ側 に開かれていた都市であった。
ビエンチャンの人口構成に関しては、植民地官僚の大部分はベトナム人、商売をして いるのはベトナム人と中国人であり22、1943年の統計では、ビエンチャンの人口は23,200 人で、そのうちラオス人が9,570人(約41.5%)、ベトナム人が12,400人(約53%)、中
国人が900人(約4%)、その他300人(約1.5%)となっている23。フランス植民地期
のラオスの諸都市はルアンパバーンを除きベトナム人人口がラオス人よりも多い24が、
ビエンチャンも人口の半数以上をベトナム人が占める都市であった。こうした人口構成 は日本軍進駐時もほぼ同じであったと考えてよいであろう。
II. ビエンチャンの武力処理
ビエンチャンにおいて武力処理を実施したのは歩兵第8連隊第3大隊であったが、4 月中旬、ビエンチャンを離れた25。代わりに敗戦時までビエンチャンの警備にあたった のは、歩兵第83連隊第11中隊であった26。ここでは、まず、歩兵第8 連隊史や同第3 大隊長、迫政則の回想録27を中心に武力処理の状況について明らかにする。
1. 武力処理の準備
歩兵第8連隊第3大隊(以下、迫部隊とする)は、仏印武力処理については何も知ら
されないまま移動を命じられ、スマトラからシンガポール経由で1945年2月にバンコ クに到着した28。そこで、第21師団の指揮下に入り、ビエンチャン攻撃の命を受け、2 月下旬、タイ東北部のウドンに移動して武力処理に備えることになった29。迫によると、
ウドンには第3大隊の他に協力部隊や配属部隊が次々と到着し、総勢2,000に近い大兵 力になった30とのことであるが、連隊史によれば、第10中隊が到着し連隊砲中隊の増援 を得た31とのことであるので、多く見積もっても兵力は 1,000 くらいではなかっただろ うか。
攻撃の命を受けていたが、ビエンチャンの状況がわからなかった迫にビエンチャンの 情報をもたらしたのは、「在ビエンチャンの憲兵2 名」とビエンチャンで雑貨商を営ん でいた邦人であった。憲兵2名は武力処理の2か月位前から商社員に変装しビエンチャ ンで情報収集を行っており32、雑貨商の邦人は1年ほど滞在しており現地住民とも親し かった人物であったそうである。この3名がウドンにやってきて一般情勢や地形などの 情報を伝えた33。
武力処理開始日と時間の連絡が第38軍から届いたのは、開始の3日前であった34。こ の後、攻撃計画を策定するために必要なフランス軍の兵力、編成、陣地の細部、兵営内 の状況などの情報を得るため、迫は自らビエンチャンに行き、敵情視察を行い35、武力 処理開始の前日にウドンに戻った36。ウドンで翌日の作戦会議を開いたが、迫によれば、
師団から派遣されていた参謀は何ら指示を出さず、作戦の実施は迫に一任された37。ベ トナムからのアクセスが悪かったビエンチャンにおいては、急遽移動させた部隊でタイ 側から武力処理を実施せざるをえなかっただけではなく、日本軍が駐屯していなかった ため、武力処理前に憲兵を派遣してはいたものの、フランス軍に関しての正確な情報は ほぼない状態であった。直前に仕入れた現地情報を頼りに武力処理を実施した。
2. 武力処理の実施
迫部隊は3 月 9 日の夕方、ウドンを出発しメコン川岸のノンカイ付近に集結、22時 頃より渡河を開始した38。渡河作業に時間を要し、メコン川対岸への移動が完了したの は10日午前2時頃であった。迫部隊のうち第11中隊はチモイ(ママ)の兵舎39及び市内の 要所占領、第10中隊は保安隊兵舎及び東兵舎の攻略、第9中隊は北兵舎攻略と各中隊 に任務が与えられていた。しかし、第 11中隊は、チモイ兵舎で敵からの猛烈な抵抗を
受けたため、第10中隊とともに攻撃し、午後、占領した40。迫によれば、占領直前、多 くの兵士は逃亡し、現地兵7名が捕虜となったが、フランス人は死傷者も含め一人もい なかった。そのため、フランス人は現地兵に第一線を守らせ、危なくなると一早く逃げ 出したのだろうと推測している41。
チモイ兵舎占領後、第11中隊はビエンチャン市内、第9、10中隊はそれぞれ北兵舎、
東兵舎を攻撃した42。ビエンチャンは静まり帰っており、総督官邸(ママ)43はもぬけの殻 であった。両兵舎も小規模の抵抗はあったが夕刻までには完全占領し、ビエンチャンは 大激戦というほどのこともなく占領することができた44。
この時、ビエンチャンにいたペッサラート(ルアンパバーン王国副王兼首相)の自伝
45によると、彼は、10日の朝、弟のスワンナプーマーからサイゴンでの日本軍による仏 印武力処理の連絡を受けた。ペッサラートはすぐにルアンパバーンに戻ることに決めた が、この時、すでに銃声や爆発音が市内にいたペッサラートには聞こえていた。フラン ス人が日本軍に武器が渡らないように造兵廠を爆破し、家族をビエンチャンからバンビ エン(ビエンチャンから北に約160キロ-筆者)に避難させているとの知らせも入って いた。こうした中、ペッサラートは、ラオス人官僚に通常通り任務をこなすように伝え、
午後3時半、ルアンパバーンに向けて出発した46。
日本軍とペッサラートの行動は双方の記述から整合性があり、第10、11中隊がチモ イ兵舎を攻撃し、まだビエンチャン市内には入ってきていない時に、ペッサラートは市 内から出てルアンパバーンに向かった。そして、双方の記述から、フランスはビエンチ ャン市内で日本軍と戦うつもりはなく、退却の時間稼ぎのためにチモイ兵舎で抵抗した と考えられる。ペッサラートは10日の夜10時にバンビエンに到着したが、その時、バ ンビエンにはビエンチャンから避難してきたフランス人家族や軍人がすでに多数いた47。
3. フランス兵の追走とルアンパバーン攻撃
北兵舎を攻撃した第9中隊は、ここに3日ほど駐留し、フランス兵を追ってルアンパ バーンへ向かうことになった。その際、工兵一個分隊48と道案内兼通訳の憲兵曹長が配 属され尖兵中隊となり、大隊に先行して、敵情視察、地雷その他障害物の早期発見、大 隊のための露営地準備などを行うことになった。その途中で、フランス兵を発見し投降 を呼びかけたが逃げられたこともあれば、フランス兵が白旗を掲げて投降してきたこと
もあった。ルアンパバーンまでの道は、大木が切り倒されていたり、岩山が爆破され道 路が塞がっていたり、地雷が仕掛けられていたりと妨害作業が行われていた。こうした 障壁を取り除き、大隊主力の進路を確保しながらルアンパバーンへ進んだ49。
一方、迫部隊主力はビエンチャン駐留中に軍からルアンパバーン攻撃の細部命令を受 け、約20日間ビエンチャンに滞在した後、第11中隊の1個分隊と医務室、保安隊指導 要員4名を残してルアンパバーンに向かった50。ルアンパバーン到着までについては、
すでに拙稿で論じた51のでここでは繰り返さない。ルアンパバーンでの武力処理が成功 し、4月8日のルアンパバーン王国「独立」後、迫部隊はビエンチャンに戻り、4月中 旬タイに移動した52。『戦史叢書』によれば、タイの戦備強化のための措置であった53。
III. 日本軍によるビエンチャン支配
迫部隊がビエンチャンを離れた後、警備を引き継いだのは歩兵第83連隊第11中隊で あった。ここでは、先述の連隊史、回想録の他に、第11中隊長、浜田喜久穂の回想54、 日本軍の通訳を務めていた川島順平の回想55などを使用して、日本軍によるビエンチャ ン支配について明らかにする。
1. 迫部隊による支配
ビエンチャンの武力処理を終えた迫部隊は、3 月 11 日の朝、フランス総督官邸に日 の丸を掲げ、入城式を行い、迫がフランス総督の乗り物であったオープンカーに乗って、
兵営、警察署、官庁、学校、病院などの他、主な市街地を一周した56。翌、12日、朝10 時、総督官邸前で、迫が、フランス総督に代わってその任にあたること、警備と治安に ついては日本軍が責任を持つこと、行政についてはラオス独立を前提としてラオス人自 身の手でやってもらうこと、日本軍に協力すること等を宣言した57。迫によれば、軍か らは行政指導について細部の指示はこなかった。行政上の空白を避けるため、行政職に 就いていた現地人のうち最上級の職にあった者たちを集め、その中から全員に推薦させ て最高指導官を選び、これまで通りに行政事務を行うように要求した58。実質的には軍 政の施行であるが、ビエンチャンの状況を把握しないままに支配しなければならなくな った日本軍にとって、行政をこれまでの現地の行政官に任せるということ以外にとれる 方法はなかったであろう。また、仏印武力処理にあたっての「即時独立付与」の方針59
は、ビエンチャンではすぐに実行されなかったが、すでに伝達されていた。
さらに、迫によれば、ルアンパバーンに出発する 20日程の間に、行政の継続だけで はなく学校を再開させ子供たちの教育を継続し、日本軍とラオス側との合同運動会や演 芸大会を開催してラオス人との間に信頼関係を醸成することに努めた。なかでもこれま でビエンチャンの納税事務所であったところに「ラオス独立準備事務所」の看板を掲げ たことは、ラオスの群衆の胸にラオス独立を現実のものとして刻み込ませ、「群集心理 的にたくまぬ効果をあげたかもしれない」と回想している。経済面では、接収した銀行 に大量の紙幣があったため、普通、軍事占領中は軍票を使用するが、経済の混乱を避け るためにそのまま使用することにした。運動会や演芸大会の経費は、押収したアヘン60 を現地の華僑に換金してもらってまかなったという61。
軍事面では、フランス軍の下にいたラオス人やベトナム人で捕虜となった民兵のうち、
日本軍に忠誠を誓ったものは兵補として使用したという62。これに関しては、連隊史に 述べられている保安隊員のことであると考えられる。日本兵のなかから保安隊指導員が 任命されており、保安隊員の食糧の受領、兵舎の見回り、勤務指導、給料支給などが任 務であった63ことから、フランス人が逃げた後に残った兵(ベトナム人が多かったと考 えられる)をビエンチャンの治安維持要員として使用する意図があったと考えられる。
迫によると、フランス軍が逃げたビエンチャンには、民間のフランス人が取り残され たが、多くは老人婦女子で200名余りであった。1943年のビエンチャンの人口のうち、
ラオス人、ベトナム人、中国人を除いた人口が約300人であったことを考慮する64と、
ビエンチャンで日本軍が収容したフランス人の人数はこれくらいであってもおかしく はない。日本軍は彼らを一か所に収容した。3 月 12 日にビエンチャンに到着した川島 は、ビエンチャンの総督以下、各官庁の役人は住民の治療に必要な国立病院の院長以外、
軟禁されていたと述べている65。
川島によると、迫部隊にはフランス語のわかる通訳が1名しかいなかったが、その通 訳は敗残兵を追う通訳として北に連れていかれたので、ビエンチャンではフランス語の できる者は川島ただ一人だけであった66。ビエンチャン占領後にフランス兵を追ってル アンパバーンに向かった第9中隊の通訳のことであろうが、連隊史と川島の記述は整合 性がある。たった一人の通訳であった川島は、フランス人官吏との折衝、ラオス人官吏 による行政府職務の継承、町に残されたフランス人将校の家族の苦情の聞き役、ラオス 人、ベトナム人からの陳情などを一手に引き受けることになった。占領した日本軍はビ
エンチャンの行政機構について無知であり、フランス人の官吏を全部馘首して軟禁し、
代わりにラオス人を昇格させて任に当たらせたため、にわかに昇格した人々は生まれて 初めて人を指揮する地位についたので何もできず、あらゆる苦情不平が連隊本部にもち こまれたと記している67。
フランス人に代わり、ラオス人に行政を継続させたことは迫の記述と一致しており、
迫もラオス人が行政を命令される立場から命令する立場になり、混乱し、何でも日本軍 に聞きに来るので、応召前に県庁に勤めていた中尉をラオス人行政官の指導官として対 応させたと述べている68。迫は通訳の川島については記していないが、日本側指導官と ラオス人の仲介をしていたのが川島であった。いきなり行政を継続せよと命じられたラ オス人側の事情を聞き取り、日本軍とラオス人官吏の取り継ぎ役をしていた川島は、町 の機能が全部とまってしまっていた69と述べており、日本軍が期待したようにラオス人 行政官への業務の移行がすんなりと行われたわけではないことがうかがわれる。
さらに、川島は、ラオスの行政について、フランスは官吏としてベトナム人は多少用 いたが、ラオス人はほとんど登用しなかったなかで、日本軍はベトナム人も官庁から追 放してしまったので行政は全く麻痺してしまった70とも述べており、日本軍は占領地の 混乱を避けるために行政の継続を求めていたが、ラオス人官吏がほとんど行政に関与し ていなかったビエンチャンにおいて、これまで未経験の任務を遂行しなければならなく なったラオス人官吏が困惑してしまったことは想像に難くない。ただ、ラオス側からす れば、新しい支配者を前に、行政継続を求められても、自分たちの裁量権をどのくらい 日本軍が認めるのかがわからなければ簡単には動けなかったのではないか。まず、日本 軍の認識を見極める必要があったと考えられる。こうしたことが、行政の混乱を招き、
一時停止状況に陥いらせたと推察できる。
こうした状況のなかで、川島と親しくなったラオス人、つまりフランス語に堪能で数 少ないラオス人官吏であった人物、として川島は3名のラオス人を挙げている。カタイ さん、プーマさん、アベイさんの3名である。カタイさんはカターイ・ドンサソリット のことであり、川島は、総督府に勤めていた人物で、「熱烈な愛国者で、ラオスの独立 を希求していた」、外交、経済の面で豊富な知識を持っていたと評している。プーマさ んはスワンナプーマーのことであり、メコン川の運輸船を日本軍に使用させてもらうよ うビエンチャンの土木局を訪れた時に出会い、当時、日本軍によって、土木局の技師か ら土木局長に昇格させられたばかりであった。アベイさんはニュイ・アパイのことであ
り、当時、ビエンチャンの高校71でフランス文学を教えていた。この3人と総務局長を していたチャウカン72という60くらいの老人が要職についたラオス人であった73。
文化面では、日本軍は新聞の発行を命じ、日本語講座を開設した。ラオス語新聞を発 行せよと命じられ、ラオス側は1週間を要して裏表一枚の新聞を発行したが、川島がニ ュイ・アパイらラオス人の要人から聞いたところでは、新聞の読者がいない、掲載する 記事もないとのことで1号出ただけで廃刊になった74。この第1号に関しては、タイ国 立公文書館にタイ語訳が保存されている75ので、第1号が発刊されたのは確実であるが、
ガンは、「ラオ・チャルーン」76と名付けられたこの新聞は、3号まで発刊され、共栄圏 思想、白人に対する黄色人種の連帯、独立獲得のためラオス人が日本軍と協力する必要 性が説かれていたと記している77。筆者はこの新聞を入手し得ていないため、1 号で廃 刊となったのか3号まで発行されたのかは判断できない。ガンの記述からは日本軍が内 容にかなり関与していたようにうかがわれるが、当時の日本軍が新聞の内容にまで強く 関与できたのかは疑問が残る。川島によれば、日本軍は、ラオスが独立国になるにはラ オス語新聞が必要との考えから発行を命じたそうであるが、フランス語のわかる者は川 島だけで、新聞発行には関与していなかった。文化面で指令を出していたのはタイのバ ンコクから移駐してきた鈴木78という憲兵中佐であったが、フランス語もラオス語もわ からない状況であった79。日本軍のなかに新聞の内容にまで踏み込んで指導できる人材 がいたとは考えにくい。ラオス側が日本軍に忖度した可能性はあるが、そうであるなら ばラオス人はどのような経路でどのようにして共栄圏思想などの日本の主張を入手し ていたのであろうか。
日本語講座に関しては、前述の鈴木がラオス・日本の親善のために日本語を覚えさせ ることが必要であると判断して、自らが集会場の教壇に立って日本語の初歩を教えたそ うである。2、30人の受講者がおり、1か月近く続き、ラオス人に好評であった80という が、受講生はどのように集めたのか、受講生の目的、使用した教科書など具体的なこと は不明である。迫は、日本語の勉強を通して日本への関心を高めることができ、日本語 教師への希望も高まったと述べている81が、迫は4月中旬にはビエンチャンを離れてお り、日本語講座を担当していた鈴木も同時期にビエンチャンを離れ、講座自体が終了し たようであるので、実際、ラオス人に日本への関心を高めるほどの教育であったのか疑 問である。
武力処理から約1か月間、迫部隊によってビエンチャンは支配され、この間、最も権
限を持っていたのは大隊長の迫であったが、通訳として迫の近くにいた川島は、迫82の 行ったことは、逃げたフランス兵への討伐軍を出し、ときどき視察と称してフランス人 の抑留者の家を訪ねまわっていただけであったと述べている。川島が実際に目にしてい たビエンチャンの行政を指導していた人物は、鈴木と若い士官(迫がラオス人の指導官 に任命した中尉であろう)の2人であった。迫は、行政面では現地の指導者が日本軍に 何でも聞きに来るほかは、占領地が20日間くらいで経済も産業も元に戻り治安も維持 されるようになったことをちょっと考えられないことだとし、その理由を、仏教信仰を 同じくすることや、日本人の統治者ぶらない態度がラオス人の日本人への密接さを生じ させているからであるとしている83が、こうした彼の認識が、どこまでラオス人やビエ ンチャンの状況を正確に反映していたのかは不明である。部下からの報告を都合よく解 釈し、日本占領地のあるべき姿、日本軍の見たかった占領地の姿をビエンチャンに投影 したのではないであろうか。
日本軍占領下ビエンチャンの最初の1か月は、フランス人官吏不在のなかで、ラオス 人にとっては、新たな支配者である日本軍への対応を迫られ、行政機能が停止した時期 であったといえる。上から現状維持の方針しか伝えられていなかった日本軍は、武力処 理にあたった各部隊が現場で具体的な対応をするしかなかった。現地事情に疎く、ラオ ス人がこれまで通りに行政を進めてくれればよいと考えていた日本軍と、行政経験に乏 しく、新たな支配者である日本軍の意向を見極めていたラオス人官吏との間に、このよ うな行政機能停止という事態が生じたといえよう。
2. ルアンパバーン最高顧問の赴任と歩兵第83連隊第11中隊長による支配
3月下旬、迫部隊はルアンパバーン攻撃のためビエンチャンを離れた。ビエンチャン には、前述のように警備のための部隊だけが残された。同じ3月末、ベトナムのドンホ イの警備をしていた歩兵第83連隊第11中隊長(浜田喜久穂)に連隊長から、歩兵第8 連隊第3大隊(迫部隊)より警備を引き継ぎ、保安を確立するようにとの命令が下って いた。浜田はこの時、連隊長からタケク事件84のことを聞き、タケクの警備隊に反省を 促すようにと伝言され、タケク経由でビエンチャンに向かうことになった。伝令と二人 で自動車を利用しドンホイからタケクへ向かい、警備にあたっていた歩兵第83連隊第 12中隊長に連隊長の言葉を伝え、翌日、メコン川を遡航してビエンチャンに向かった。
ビエンチャン到着は4月4日の夕方で、2日後、後続の中隊主力と配属となった機関銃
小隊無線分隊が到着した85。
ルアンパバーンを占領し、4 月 8 日、ルアンパバーン王国が「独立」宣言を行うと、
迫部隊はビエンチャンにもどった。ビエンチャンに戻る際に、サイゴンに行くルアンパ バーン王国皇太子を護衛しながら戻った86そうであるが、皇太子をサイゴンの日本軍司 令部の土橋勇逸のところまで送り届けた山崎剛太郎は、護衛については記憶していない。
山崎は、当時、フエの領事館に勤務しており、渡邊耐三領事(山崎はハノイから来たと 記憶しているが、川島はサイゴンと記載している87)からラオスに行くことを打診され、
領事館の車でフエからビン、カンカイ経由でルアンパバーンに行った。ラオス行きの任 務については特に聞いた記憶はなく、なぜ、自分が選ばれたのかもわからないという。
日時は記憶していないが、『戦史叢書』では、渡邊のルアンパバーン到着は3月20日頃 とされている88ので、3月20日頃に到着したのであろう。その後、皇太子と渡邊とビエ ンチャンへ向かい(迫、『戦史叢書』によれば、4 月 8 日の後89)、ビエンチャンで渡邊 と別れた。山崎は記憶していなかったが、川島は、皇太子のビエンチャン来訪にあたり 催された会食に山崎、渡邊とともに招かれたことを記している90。渡邊はビエンチャン からフエの領事館に車で帰った91が、山崎は皇太子とメコン川を渡ってノンカイへ、さ らにウドンまで車で行って、サイゴンからの迎えの飛行機をウドンの飛行場で待った。
2日後に迎えの複葉機が来て、それに皇太子を乗せてサイゴンまで行き、土橋に引き渡 した。ここで自分の任務は終わったので、フエまで車で帰った92。
迫によれば、皇太子のサイゴン行きは日本側から今後の独立国としての行政について 指導を受けるためとされている93。『戦史叢書』には、国王が「独立」後の処理について 軍司令部の指示を受け、あわせてアンナン、カンボジアの状況を確かめるために派遣し たとある94。山崎は、日本軍から理由については何も聞いていなかったが、ラオスは親 仏であったため日本軍は皇太子を人質にしようとしていたのではないかと推察してい る95。ラオス側の資料からは、皇太子とペッサラートの確執により皇太子がサイゴン行 きとなったことがうかがわれ96、日本軍の求めに応じて皇太子がサイゴンに行ったので あることはわかるが、日本軍が皇太子を召喚した真意は不明である。
サイゴンへ行った皇太子は『戦史叢書』によると、4月13日にサイゴンを出発して帰 途に就いた。この時、皇太子と一緒にサイゴンの民間飛行場長をしていた石橋健陸軍中 佐が司政官としてルアンパバーン王国最高顧問に任命され、ビエンチャンに赴任した97。 石橋は迫部隊がビエンチャンを離れる前に赴任しており、浜田が迫部隊から警備の引継
ぎをする際に同席している98ので、4 月中旬にはビエンチャンに赴任したことは確かで あろう。引継ぎを済ませた迫部隊は4月中旬、ビエンチャンを離れたため、ビエンチャ ンには、石橋司政官を日本側の長として、歩兵第83連隊第11中隊(以下、浜田部隊と する)、輜重隊、憲兵、貨物廠などが駐留していた99。川島によると、その他に、ビルマ からタイを通り抜けて逃げのびてきた飛行隊の将兵も50人ほどいて、彼らは20人ほど の慰安婦を連れて来たとある100ので、200名ほどが駐留していたと考えられる。
浜田によると、浜田部隊はビエンチャン警備隊として体力、気力を保持するための演 習訓練を行い、軍紀の保持に努め、対空監視や不寝番を行った。ただし、空襲を受けた ことは一度もなく、ビエンチャンの飛行場は雑草が茫々に生え、駐屯中、飛行機の発着 は一度もない状況であった。陣地の構築は命じられてはいなかったが、殊の外神経を使 ったのは指定した地区に軟禁されていたフランス人家族の管理であった。中隊長は警備 隊での業務の他に、貨物廠や憲兵との連絡やラオス側からの要請によって会議や行事へ 石橋顧問と同席することが度々あり忙しい毎日であった101そうである。石橋の具体的な 仕事内容は不明であるが、司政官であったので、ラオス側と日本軍の間の折衝が主な任 務であったと考えられ、浜田は石橋と石橋の補佐官であった田中102とは連携して警備に 当たっていた103。浜田の回想からは、迫部隊が駐屯していた時のようなラオス側の行政 機能停止という状況はうかがわれない。ラオス側と警備隊の連絡を担っていたのはカタ ーイであり、浜田によると、彼は大変な親日家でいろんな情報を提供してくれ、精力的 に協力してくれた。また、ルアンパバーン王国首相であったペッサラートとも面識があ ったそうで、フランスの植民地政策を快しとせず、日本に特別の親近感がある人物とし て紹介している104。ペッサラートはルアンパバーン王国首相としてビエンチャンにもた びたび来ていたと考えられ、後述するように、浜田はペッサラートやカターイにラオス の人々への対応をお願いしている。浜田部隊がビエンチャンの警備を引き継いだのはル アンパバーン王国「独立」後で、ビエンチャンもルアンパバーン王国領内であったこと から「独立」していた地域であった。ルアンパバーン王国にペッサラートを首相とする 政治・行政の体制が樹立されたことで、ビエンチャンにおいてもラオス人による行政が 機能し始めたと考えられるのではないか。少なくとも、すべてのことを日本側に確認す るというような状況ではなくなったと言える。
こうした状況のなかで、日本軍は戦争続行のための資金や物資の収集を行おうとして いた。川島はビエンチャンにサイゴンの商社から社員が徴用され軍属として送り込まれ
てきたと述べている。兼松から2人、又一から2人、漁業の林兼から2人、東洋綿花か ら1人であったが、ラオスには調達できるような物資はなく仕事がなかった105というこ とであるので、日本軍としては、仏印の沿岸部に連合国軍が上陸した場合にラオスを最 終的な日本軍の籠城地とする106ためビエンチャンを兵站拠点にしようとしたが、ビエン チャンの状況を把握していなかったため、計画倒れに終わったのであろう。浜田は8月 初め、昭和通商107の谷口と名のる人からアヘン買付資金を預かり、預かっているうちに 終戦となり必要がなくなったため、その資金を復員までの現地での自活資金に使用した ことを記している108。終戦とともに必要なくなった資金であるから、戦争遂行のための 資金であると考えられるが、アヘンを買付け、そのアヘンを具体的に何のために使用し ようとしていたのか浜田は知らなかった。
ビエンチャンでは、フランスの敗残兵を糾合して日本軍に反撃しようとして潜入した ドゴール派の軍人が憲兵に逮捕されることもあった109が、浜田部隊にとってビエンチャ ンでの警備は陸の孤島での平穏な生活110であった。しかし、日本の敗戦が近くなってく るとビエンチャンの状況は変化していったようである。7月中旬、中隊復帰の命を受け サワンナケートからビエンチャンに向かった北山俊男は、インドのデリー放送がポツダ ム宣言を盛んに流し、住民にも動揺の気配が感じられ、日本軍離れを示していたと記し ている。住民の動揺を防ぐため、大規模な市街戦の演習をしたが、あまり効果はないよ うに思えたそうである111。8月上旬、石橋と田中は、連絡のためハノイに行った。その 後、2人はビエンチャンに戻ることなく、日本の敗戦となった112。
3. 日本の敗戦と日本軍の撤退
8月15日、浜田は無線で日本の敗戦を知った。隊長室で呆然としていると、午後3時 頃、カターイが訪ねて来たので、通訳を呼んで話をした。カターイは首相の使いとして 来たと言い、日本の敗戦が事実か、警備隊は今後どうするのかを尋ねた。浜田は情報入 手があまりに早いのに驚いたが、連隊長より未だ何の命令もなく、現任務を続行すると 答えた113。石橋がハノイに行って不在のなかで、日本側のトップであったのは浜田であ り、ラオス側は浜田に事実を確認しにきたのであろう。
北山によると15日114、浜田によると17日、敵機がビエンチャン上空に飛来し、降伏 文書のチラシを多数撒いた。チラシの表には日本降伏の文字と天皇、皇后の写真が、裏 にはポツダム宣言の内容の他に、日本兵に告ぐとして本土の焦土化、戦犯として捕らえ
られる可能性が書かれていた。このチラシに強い憤りと屈辱を感じた浜田は、部下に回 収を命じるとともに、ペッサラートに面会を求め、現地住民に回収への協力を求めた。
ペッサラートはできるだけ回収に努めると約束した115。
翌日、浜田の宿舎の周りを 50人くらいの住民が取り囲んで、シュプレヒコールをあ げていた。通訳と代表3名だけを中に入れて説明するように交渉すると、彼らはいずれ もカッファー紡績工場の従業員であることがわかった。彼らは、日本軍の進駐によりフ ランス人社長が軟禁され職を失い困っていることを訴えたので、善処することを約束し、
住民を帰宅させた。この件はカターイがフランス人社長と話をつけ、カターイから円満 に解決との報告を受けた116。いずれも敗戦直後の出来事であるが、こうしたことから、
日本軍はラオス人への対応はペッサラートやカターイ等のラオス人行政官に任せ、ビエ ンチャンの治安維持、警備、フランス人対応を行っていたと言える。
敗戦後、浜田部隊は隊員の士気を鼓舞し、かつ現地住民やフランス人に対する示威を 兼ねて、市街を走っての軍歌演習を行った117。フランス人は軟禁を解かれ、自由に行動 できるようになったが、軍事力を持たない官吏中心で、目立った行動をすることもなか った118。8月25日、ルアンパバーンに駐留していた歩兵第83連隊第3大隊主力がメコ ン川を南下してビエンチャンに到着した。この時点で、浜田はビンの連隊本部へと戻る ようにと命令を受けていることを知り、カターイとともに事情説明のため、ペッサラー トを訪問した。事情を説明して雑談に移ると、ペッサラートは兵器が欲しいとのことで あったので、フランスから押収した兵器を渡すことにした119。
その後、歩兵第83連隊第3大隊主力と浜田部隊はメコン川を下ってビエンチャンか らタケク経由でサワンナケートへ、そこから陸路自動車でビンの連隊本部へ向かった120。 川島によると、貨物廠は、敗戦後、わずかではあったが、買い入れた物資を現地の中国 人商人に買ってもらい、軍属を解かれて商社員に戻った。8月末、彼らは陸軍の分隊に 護衛され、メコン川を渡ってノンカイに出て、タイ領を南下し、再びメコン川を渡って タケクに到着し、そこからトラックでカンボジアを抜けて9月4日か5日にサイゴンに 到着した。ルートも行先も異なるので、貨物廠を護衛した部隊は浜田部隊ではないと考 えられるが、8月末には日本軍はビエンチャンから撤退したと考えられる。
IV. ラオス側の反応
日本軍がビエンチャンに駐留していた5か月強の間、日本側の資料では、当初、行政 が機能停止に陥ったものの、概ねビエンチャンは平穏であった。日本軍からすれば、予 定通り「独立」を付与し、現状が維持されていた。しかし、ラオス側の資料からは、そ の「平穏」の下で、次の時代の行動が準備されていたことがうかがわれる。
当時、タイの宣伝局の一員で、タイ側からラオスへの宣伝活動を行っていたウン・サ ナニコーン121は、日本軍進駐当時は自由タイの活動にも加わっており、自由タイの活動 を通してラオスを解放することを考えていた122。彼は東北タイとラオスを行き来して活 動しており、彼の回想録123にはカターイやカムマーオとの接触が記されている。
ウンによれば、詳しい日時は不明であるが、日本占領下のパクセでカターイに会った。
当時、カターイは日本の政治顧問を務めており、日本人と親しくしていた。彼は、日本 が戦争に負ければ、ラオスを再び植民地にしようとする帝国主義者と戦わなくてはなら なくなると、同じアジア人である日本の勝利を願っていた。そして、ラオス解放のため に抗日を勧めるウンに反して、日本への協力を勧めた。ウンとカターイはお互いの考え を受け入れることはできなかったが、ウンは、日本がラオスの人々をひどく抑圧しない ようにカターイを日本との協力に戻すことにした。日本が勝ったらカターイがラオスを 統治することを認め、連合国が勝ったら自分たちがラオスを統治する機会を得るが、カ ターイを罰することはしないと約束して、カターイはビエンチャンに戻っていった124。
ビエンチャンでは、ウンはカムマーオに会いに行った。カムマーオは当時、ビエンチ ャン市長であって、ウンとは知り合いであった。カムマーオは日本統治下のビエンチャ ンの状況は悲惨で、日本はベトナム人を使ってラオス人を抑圧している。人々はウンの 活動に喜んで合流するであろうと語り、銃を手に入れられないかと尋ねた。その後、市 長代理のカムパン・パンニャーがやってきて、彼もウンの活動に合流することになった。
彼は、ビエンチャンではベトナム人と日本人が常に道路を巡回しているので、ウンに一 人での行動は危険であることを伝えた。その後、ウンはタイのサコンナコンに戻った125。
タイに戻ると軍事訓練を受け、それが終わると、ラオスから10人から25人くらいの 若者をタイに呼び寄せ、軍事訓練を受けさせた。1つのグループが終わると次のグルー プというように、日本軍に目立たないように行った。ウンは、ラオスの若者は軍事訓練 の真の目的を知っていた訳ではなく、日本人の下で我が物顔にラオス人を抑圧するベト
ナム人に対抗する銃が欲しかったのであると述べているが、それにしてもこれだけ早く ラオス人の若者が訓練に参加したことは信じられないことであり、ラオスの若者が目覚 めたのであろうと述べている。生まれた時から抑圧されてきた若者たちが、フランス支 配下での何も知らない、何も見えない、何もできないという受け身の姿勢から、自分た ちは自身や社会や国家に利益をもたらすことができるのであると感じたからであろう としている126。
さらにウンは、南に視察に出かけたニュイ・アパイが日本軍によってサワンナケート で逮捕されたことを聞き激怒したことを記している127。ニュイ・アパイ逮捕の件は、川 島も、日本に協力していたにも関わらず憲兵に捕らえられ、敗戦時まで釈放されなかっ た128と述べている。
ウンの回想録には彼自身が日本軍に見つからないようにタイとラオスの間を行き来 して、ラオス人に抗日活動への参加を働きかけていたことが書かれており、ウンへの対 応から、当時、ビエンチャンにいたラオス人の以下のような状況が考察される。
日本軍に最も信頼されており、親日的であるとみなされていたカターイは、日本の勝 利に期待しており、抗日によるラオス独立を考えてはいなかった。ただし、ウンらの抗 日活動を妨害したり、日本軍に通告したりするようなことは行わなかった。ウンの回想 には、この時期のペッサラートについての言及はないが、日本軍に親日的とみなされて いたペッサラートも、カターイと同様に、抗日によるラオス独立を考えてはいなかった と言える。日本の敗戦直後に武器を要求したように、日本軍の存在をラオスの独立に利 用しようとしていた。一方、ビエンチャンでは日本軍に協力的とみなされていたニュイ・
アパイはサワンナケートで日本軍に逮捕されている。ビエンチャンとサワンナケートの 日本軍の連携が上手くとれていなかったせいであるのか、憲兵が逮捕に足る何らかの情 報をつかんでいたのかは不明であるが、少なくとも憲兵が彼の行動に非協力的、反日的 なものを感じ取ったと考えられ、ラオス人の反日的と思われる行動への注意は怠ってい なかった。
ビエンチャン市長であったカムマーオは、その地位に比して日本軍にあまり印象を残 していない。彼は、ウンの動きに合流しようとしていた。そして若者も日本占領下で存 在感を増したベトナム人への反感からウンの動きに合流する者がいた。前述のようにビ エンチャンでは保安隊員を警備や治安維持に使用しており、保安隊員にはベトナム人が 多かったことから、日本軍がベトナム人を使ってラオス人を抑圧すると感じられる状況
が生じたのであろう。そうしたなかでベトナム人に対抗できる軍事力を手に入れるため にウンに合流することは一つの選択肢であったと考えられる。日本占領下に以前にも増 して顕著になったベトナム人との関係性が、独立を目指す動きを後押しすることにつな がった。
一方、現在のラオスの歴史叙述においては、この時期のウンらの活動はほとんど言及 されず、日本占領下でインドシナ共産党のラオス地方党委員会がラオスの各地域に党組 織を拡大したと説明されている。その指導の下にビエンチャンで最初に人民による蜂起 が起こったのが日本敗戦直後のカーファー紡績工場であった。このカーファー紡績工場 は、浜田の回想録にあるカッファー紡績工場と同じであると考えてよいであろう。ラオ ス側の歴史叙述では、約500名の従業員が、日本軍に、撤退前に給与を支払うこと、工 場をラオス人に引き渡すことを要求した。それに対し日本軍は発砲し、責任者を逮捕し たが、火に油を注ぐ結果となり、結局、日本軍は責任者を釈放し、工場もラオス人に引 き渡したとなっている129。浜田の記憶では50 人ほどの住民であり、日本軍が発砲した り、責任者を逮捕したりしたことは書かれていないので、どちらがより事実を反映して いるのかは現時点では確かめようがない。
しかし、ラオスでは、この蜂起は高校の教科書にも掲載されるほど有名で、この蜂起 が全国に人民による運動が拡大していくきっかけとなり、8 月 23 日にビエンチャンで 人民が日本軍から権力を奪取し、独立と自由を宣言することにつながったとされている
130。拙稿でルアンパバーンに駐留していた緒方廣業が、「ルアンパバーンに比してビエ ンチャンではベトミン勢力によるうるさい問題が生じている」と述べていたことを指摘 した131が、ビエンチャンでは日本軍占領下、ベトミンの活動と思われるような動きが散 見されていたと考えられるので、そのような活動が敗戦後に表面化したことは十分考え られる。古田元夫は、この8月 23日にビエンチャンで起こったことを「ラオスの独立 万歳」と「ベトナムの独立歓迎」をスローガンとするデモ行進とし、その中心となった のがベトナム人であったために、ペッサラートが危惧を抱いていたと指摘している132。 ラオスの教科書では、すべての階級よりなるビエンチャンのラオス人民によるものとな っている133が、ベトナム人主体の活動が活発化していた。
日本軍は気付かなかったのか、気付いていたとしても日本軍が思っていた以上に、こ の時期、ビエンチャンにおいて、ラオス人が行政を任された故に、なおさらラオス人の ベトナム人に対する危惧は高まっていたと考えられる。日本軍占領下の「平穏」であっ
たビエンチャンでは、「独立」という状況が生じたために、ラオス人の前に、日本軍を 利用して「独立」維持、自由タイなどの日本軍以外の勢力と協力して「独立」の括弧を 外すなどの選択肢が提示されていた。選択肢が多様になったなかで、それぞれのラオス 人が選択肢を見つけていったのである。そしてそれは、数でラオス人を上回っていたビ エンチャンのベトナム人にとっても同様であり、日本敗戦後の政治活動の表面化につな がったのである。
おわりに
本稿では、主として日本側の史資料を利用して、ビエンチャンにおける日本軍の武力 処理について明らかにした。ビエンチャン郊外で日本軍とフランス軍との間の戦闘があ ったが、市内の占領に関しては大きな戦闘はなく、日本軍は3月10日にビエンチャン を掌握した。ビエンチャンを掌握すると、日本軍は軍政を施行したが、当初から、現地 の行政はラオス人に任せ、フランス軍の追走、ビエンチャンの警備や治安維持、軟禁し ていたフランス人の管理を担当した。当初、ラオス人による行政は機能停止状況に陥っ たようであるが、4月8日のルアンパバーン王国「独立」後あたりから、ビエンチャン において、ラオス人による行政が機能するようになった。
日本軍にとっては比較的平穏であったビエンチャンではあったが、日本占領下でラオ ス人のベトナム人に対する危機意識がより高まり、日本軍の存在により、ラオスの独立 へ向けての選択肢が多様になったと考えられる。日本敗戦後にビエンチャンにおいて表 面化する様々な動きは、そうした多様な選択肢から準備されたといえる。限られた史資 料からの考察であり、細部まで明らかになっているとは言えないが、引き続き、史資料 を収集し、検討を重ねていきたい。
付記:本稿は日本学術振興会科学研究費基盤研究(A)課題番号 25243007 平成25~29 年度「第二次世界大戦期日本・仏印・ベトナム関係研究の集大成と新たな地平」(代表:
白石昌也早稲田大学教授(現名誉教授))の研究成果の一部です。
注
1 今日のベトナム史では日仏共同支配と呼ばれている[古田 1995:121]が、ここでは 桜井[石井 1999:336]に準じて二重支配を用いた。
2 菊池 2019a:100-101
3 スチュアート-フォックス 2010:87、93
4 Logan 2007:110
5 菊池 2019a:101 を参照。
6 スチュアート-フォックス 2010:92-93 Gunn 1988:123-124 等を参照。
7 Logan 2007:110
8 Gunn 1988:125
9 菊池 2015:430-434
10 菊池 2019a:100-117
11 菊池 2019b:48-62
12 菊池 2020a:287-300
13 菊池 2020b:118-138
14 Gunn 1988:107-119
15 スチュアート-フォックス 2010:51-52
16 Logan 2007:79
17 Logan 2007:104
18 水谷 1942:4
19 水谷 1942:69-72
20 水谷 1942:70-71 長勇(1895-1945 1941年11月~仏印機関長)[秦 1991:102] のラオス視察に同行した中村義男によれば、1942年3月、ビエンチャン-ルアンパバ ーン間の自動車道が完成したが、「一歩誤れば谷底に顚落するやうな細道」であった
[中村 1944:121]。
21 水谷 1942:71-72
22 Logan 2007:103
23 Stuart-Fox 2008:408 民族別統計であるので、Laoをラオス人ではなくラオ人とし た方が適切であるかもしれないが、本稿では、ラオス人に統一する。したがって、本 稿で使用しているラオス人は、ラオス国民という意味ではなく、タイ系ラオ人の意味 で使用している。
24 Stuart-Fox 2008:408
25 中野 1983:574
26 緒方 1982:614
27 迫政則.1964.『ラオス独立の真相-「マ」号作戦始末記-』.朝雲新聞社.
28 中野 1983:562-564
29 中野 1983:570
30 迫 1964:33 迫が回想録の前に雑誌に掲載した回想では、参謀をはじめ工兵連隊主
力、砲兵中隊、憲兵12名、無線等の配属や協力を受けた[迫 1963a :35]とある。
31 中野 1983:570
32 ラオスにはルアンプラバン(ママ)分隊、シェンクァン(ママ)分隊、タケック(ママ)分遣隊、
ビエンチャン分駐所の4か所に憲兵が配置された[大島 1979:23]が、ルアンプラ バン分隊が武力処理後[大島 1979:138]、タケック分遣隊が武力処理直前[大島 1979:202]の人員派遣であったことを考えると、ビエンチャン分駐所への派遣も武 力処理準備のためであると考えられる。なお、南方軍第一憲兵隊隊員名簿には、ビエ
ンチャン分駐所隊員として5名の名前が記されている[大島 1979:24、27、43]。
33 迫 1964:34-35
34 迫 1964:37 迫の回想録からは、ビエンチャンの後、ルアンパバーンで武力処理を
行うとの命令をいつ受けたのかは明らかではない。しかし、ルアンパバーン進撃の状 況(後述)から推察すると、この時に知らされたのではないかと考えられる。
35 迫 1964:35
36 迫 1963b:35
37 迫 1964:65
38 中野 1983:570
39 連隊史では、チモイと記されている[中野 1983:570]が、迫の回想録ではナモン とされている[迫 1963b:35][迫 1964:70-72]。おそらく、現在もラオス人民軍 の基地があるチナイモーのことであると考えられる。
40 中野 1983:570-571
41 迫 1964:73-74
42 中野 1983:571 迫によれば、第9中隊が南兵舎、第10中隊が北兵舎を攻撃したと
ある[迫 1964:75]。どちらが正確な記憶で、現在のビエンチャンではどこにあた るのかは不明。
43 理事長官府のことであろうが、日本側の回想では理事長官を総督としているものが 多い。以下、同様の表記には特に注をいれない。
44 迫 1964:75-76
45 3349 1978
46 3349 1978:28-32
47 3349 1978:33
48 おそらく工兵第4連隊第1中隊の2小隊 [厚生省援護局 1961:66]
49 中野 1983:572‐573
50 迫 1964:116‐117、中野 1983:572
51 菊池 2019a:104‐105
52 中野 1983:574
53 防衛庁防衛研究所戦史室 1969:662
54 浜田喜久穂.1995.「ラオス・ビエンチャン終戦秘話」.南幹候スマラン会『同期の桜 だより 回想録』.36号:16-27
55 川島順平.1986.『八十年間世界一周 -思い出の記』.(非売品)川島は当時、三井 物産の社員で、ラオスでの通訳兼物資調達のためビエンチャンに軍属(貨物廠配属)
として派遣された。
56 迫 1964:81、84‐85
57 迫 1964:86‐87
58 迫 1964:88‐89
59 「即時独立付与」方針の決定過程については[波多野 1996:231‐235]を参照。
60 アヘンに関しては川島がビエンチャンの税関の倉庫に「生阿片の山がうず高く積み 重ねてあった」と記している。[川島 1986:222]
61 迫 1964:88‐92、97‐99
62 迫 1964:101
63 中野 1983:572
64 Stuart-Fox 2008:408
65 川島 1986:219 川島は、ビエンチャン到着に際して、「日本軍のラオス侵攻戦」が 前々日にあったとしているので、到着は3月12日であったと考えられる。
66 川島 1986:219
67 川島 1986:219‐220
68 迫 1964:89‐90
69 川島 1986:220
70 川島 1986:228 ルアンパバーンでは、日本軍ではなく「独立」した王国政府がベ トナム人官吏を罷免した[菊池 2019a:107]。現状維持を望んでいた日本軍がなぜ ベトナム人官吏を罷免したのであろうか。ビエンチャンでは治安維持にはベトナム人 を使用したが、行政からは排除したことになる。
71 当時、ビエンチャンには高校はなかったため、中学であると考えられる。1959 年に 川島が彼との東京での再会を書いたコラムには「当時中学校の仏文学の先生」と紹介 されている。[川島 1959]
72 この人物については不明であるが、村嶋が訳出した 1945年 4 月 16 日付、ノンカイ 県知事からタイの内務大臣宛の報告によると、「日本軍はヴィエンチャン(ママ-筆者)占 領後、…土着民の文民官吏については通常通りに勤務に就くように職場復帰を求め、
土着民の官吏としては最も高位であるプラヤー・カムマーオ(ヴィエンチャン市長)
を臨時責任者として行政をさせた」とあるので、チャウカンとはカムマーオの可能性 が高いと考える。 村嶋 1998:202
73 川島 1986:224‐228
74 川島 1986:228‐229
75 村嶋 1998:204
76 「チャルーン」とはラオス語で「発展する」という意味であるので、日本語に訳すと
「躍進ラオス」というような意味になる。
77 Gunn 1988:112
78 苗字のみで名前の記載がないため、名前は不明。
79 川島 1986:228‐230
80 川島 1986:229‐230
81 迫 1964:101
82 川島は回想録で迫のことを佐胡と表記している。
83 迫 1964:110
84 日本軍がタケクの武力処理後、非戦闘員も含めフランス人を殺害した事件。詳しくは
[菊池 2020a:292‐293]を参照。
85 浜田 1995:17‐18
86 迫 1964:138
87 川島 1986:234
88 防衛庁防衛研究所戦史室 1969:646
89 迫 1964:138、防衛庁防衛研究所戦史室 1969:646
90 川島 1986:234
91 拙稿[菊池 2019a:107]では、渡邊がサイゴンまで皇太子に付き添ったと考えられ ると書いたが、ここで訂正する。ウドンで飛行機に乗ったのは皇太子と二人であった という山崎の記憶は確かであると考えられる。
92 山崎剛太郎氏へのインタヴューより。2019年 10月 10日 東京都大田区にて。イン タヴューにお時間を割いてくださった山崎剛太郎氏に心よりお礼申し上げます。
93 迫 1964:139
94 防衛庁防衛研究所戦史室 1969:646
95 山崎氏インタヴュー 2019年10月10日
96 詳しくは、[菊池 2019a:110]を参照。
97 防衛庁防衛研究所戦史室 1969:646
98 浜田 1995:18 川島も「佐胡部隊は石橋司政官が到着するのを待って(中略)タイ
のチェンマイに帰って行った」と記している。[川島 1986:240]
99 浜田 1995:20
100 川島 1986:241
101 浜田 1995:20
102 苗字のみで名前は不明。
103 浜田 1995:18
104 浜田 1995:19
105 川島 1986:239
106 日本軍のラオスを最終籠城地とする構想については[菊池 2019b:52-54][菊池 2020a:295-296]を参照。
107 昭和通商については[菊池 2020a:289‐290]を参照。
108 浜田 1995:21‐22
109 川島 1986:235‐236
110 浜田 1995:20
111 北山 2001:140‐141 北山は歩兵第83連隊第11中隊の1小隊(サバナケット警備 隊)所属で、警備隊長としてサワンナケートの武力処理を行った。詳しくは、[菊池 2020b:126]を参照。
112 浜田 1995:24
113 浜田 1995:23
114 北山 2001:142
115 浜田 1995:23‐24
116 浜田 1995:24
117 山口 1989:27
118 川島 1986:244
119 浜田 1995:24‐25
120 浜田 1995:25
121 村嶋 1998:129 ウンの宣伝活動については[村嶋 1998:127‐130]を参照。
122 Oun 1975:6
123 Oun Sananikone. 1975. Lao Issara:The Memoires of Oun Sananikone.
124 Oun 1975:7-8
125 Oun 1975:8-9
126 Oun 1975:12
127 Oun 1975:13
128 川島 1959
129 Khanaanoukammakan 2010:217‐218
130 Saenduangdet et al. 2011:93‐94
131 菊池 2019a:109
132 古田 1991:301
133 Saenduangdet et al. 2011:94