目 五 次
現 人 神 と 八 紘 一 宇 の 思 想 ︱ ︱ 満 州 国 建 国 神 廟
序満州の宗教的前提0国家神道
0諸宗教
儒教国家満州国
0王道楽土
0日満一徳一心
満州帝国の国家神道0天皇教の導入
0建国神廟八紘一宇の思想
現 人 神 と 八 紘 一宇 の 思 想
︵島川︶
島
ナ │ │
雅 史
ω皇道連邦
0民族差別の正当化0敗戦と神社六・結語
一 序 ・ 国 家 神 道
は ︑
日 本 国内 に お い て は 上 ″ か ら
″ の コ ン フ ォ
―‑ 51 ‑―
i i 督
│ │ │
史苑︵ 第四三巻第二号︶
にあり︑またこの﹁前近代的というよりも︑むしろ前法的
な君主政﹂︵ 相沢久︶に向けて国民統合の方向を示すこと
にあった ︒さらに国家神道は靖国神を創出してその体系に
民衆的基礎を獲得し︑ 一定の 〃下から″の支持を醸成する
ことに成功したのである ︒
一方 ︑近代日本の対外膨脹の過程の中で ︑国家神道は戦
争・侵略を正当化する理念となった ︒天皇が神聖不可侵で
ある以上 ︑その統帥権の下に行なわれる戦争はすべて〃聖
戦〃であった ︒神国日本の論理は靖国神に支えられて ︑海
外侵略へ向かう八紘一宇の思想へと展開して行くのである ︒
そして ︑動員された日本の民衆のみならず ︑軍事占領され
た植民地の民衆もまた ︑﹁天壊無窮の皇運を扶翼﹂するこ
とが求められた ︒
海外植民地において ︑国家神道はその神権的・暴力的な
本質を露わにしている︒天皇制国家は八紘一宇の名におい
て 〃大東亜〃に日本を盟主とする垂直的統合国家を建設し
ようとした ︒占領地での国家神道は当然のことながら民衆
統合の支柱とはなり得なかったが ︑そこに近現代の日本で
支配的であった政治思想が最も純化されて表現されている
という点で ︑また侵入した日本人の行為を正当化する理念
であったという意味で ︑重 .要な問題を照明するものになっ
ている ︒ 筆者は前稿﹁現人神と靖国の思想﹂において ︑神国日本
の論理を ︑天皇教と靖国神の結合を媒介とした国内コンフォーミティ形成という視点から検討した ︒
本稿は ︑海外植民地で露わになるこの国家神道=天皇教
の﹁前法的﹂様相を ︑研究の少ない侃儡国家満州国の場合
について確認しようとする試みである︒
二・満州の宗教的前提
偽︺国家神道
一九〇六年︵ 明
3 9︶一二月刊神社協会雑誌﹄満の﹃に﹁
韓た於ける神社﹂という紀行文が載っている ︒そこでは ︑
激戦地旅順にさえ神社が見えないのはどうしたことか ︑と
筆者が嘆く程度であり大小計七社の名を挙げるにとどまっ
ている ︒うち﹁満﹂に属するものは二社にすぎない ︒その
一ほ遠陽所在の招魂社で ︑ 一九〇四年︵ 明
3 7︶適会の陽戦
の戦死者と前後の病死者将校以下三七六〇名の遣骨を合葬
したもので ︑墳墓が即神社となっており︑他には安東県に
私設の小神社︵ 祠堂︶がある︑と記されてい ︵貌︒招魂社は
特殊例であるので ︑この時点では﹁満﹂の神社は事実上小
神社一社のみであった ︒後年の﹃神社協会雑誌﹄では満州
の神社の﹁暗矢﹂として ︑ 一九〇五年︵ 明
3 8︶軍﹁ 当時の
一‑ 52 ‑一
‑ 53 ‑―
政署に於て ︑神宮逢拝殿として安東に安東太神官を建立﹂し︑文 れが﹁現今の安東神社の起源﹂となったと記述されているが ︑この﹁太神宮﹂が私設小神社のことであろうか ︒
また ︑″独立〃時の﹃満蒙年鑑﹄は神社の起源を一九〇八年設立の二社に求め ︑この﹁祠堂﹂を神社とは見なしていない︒その後明治年間に七社の設立を見るが ︑神社数が増加するのは大正年間で ︑この時期には三五社が新設されている︒以後満州国 〃独立〃の一九三三年︵ 昭7︶三月までに増加したのはは二社にとどまり︑この時点で計四五社であった︵ 設立年判明分︶ ︒その大部分は関東州・満鉄付属地に所在している︒︵付表I・I参照︶
一九三二年︵ 大
満鉄道於東及南州に︶勅今関州る1 1名 ︑
神社廟宇及寺院に関する件﹄は ︑神社設立には大使の許可を要すると規′定し︑さらに二四年︵ 大
1 3
︶一〇月の﹃神社設立内規﹄によって統制されることになった ︒この﹃内規﹄は第一項で祭神の性格を次のように規制している︒
左の諸神の一柱たること ︒
一 ︑皇祖皇宗列聖及皇族の諸神 ︒
二 ︑国家に対して勲功顕著なる諸神 c
三 ︑国土経営の勲功顕著なる諸神 ︒
四 ︑
民族 の祖 神
にし
三て 室 崇の 敬 特 篤に
かり
諸し 神
︒ 第 五項 で
は ︑
子氏 崇 敬者 が 一五
〇 戸以 上 あ る こと
︑ だた
現 人 神 と 八核 一年 の 思 想
︵ 島 川
︶
し﹁銃 住日本人少なきときは百戸以上あること﹂を指定している ︒なお ︑日本国内では遠隔地居住者を崇敬者と呼んだが ︑満州の場玲 は氏子とは日系を ︑崇敬者とは日系以外の信者を意味した ︒
丁九二四年︵ 大
わ多岐にた祭神は満鉄付属地位置てそのり関東州内にし・ 神社はほぼ設立れた以前1 3︶一〇月にさ
二六種に達している ︒対して二五年︵ 大
三五年︵昭︶降1 4以
皇大神天照位置設立社満州国内に︶末ではほぼし1 0まの︑︑
明治天皇 ︑大国主神の三神が主として祀られ ︑特に満州国行政国内の三六社においてはこれ以外の祭神を有するものは朝鮮神宮 ︑楠木正成を配祀した二社のみとなっている ︒︵付表I・Ⅱ参照︶
焦 ン
評
茶
難 髄 雅
縫
鑓
ぜ
になっているのである︒ 一九四二年頃にはこの傾向は最も顕著となっている︒︵表①︶
神社の規模は大小さまざまであった ︒付表I・Iの神社計八〇社中で ︑最大のものは氏子戸数二二 ︑二O①の大連神社であり︑劉家河神社の一九が最少となっている︒付表Iは一九三五年末︵ 昭
約六つ表③になますのる対照より本人人をるとう口日︑︒ 戸氏子数統てと応す人計に対よれにほぼる口っでのこる︑ 調査であ現在一六年末の︶は1 0I︑
史 苑
︵ 第 四 三巻 第 二号
︶ 表
1 満 ・ 州 神 社 状 況
昭 型
○
︑ 三 年
昭 和 一 八 年
一一 ご一 一
︵ 二一
︵ 昭 一〇
︶ ご一
︵ 同
︶ 三 六
︵ 昭 一
︶一
― ―
一 │
一 一一 一
一 ︵
1督 晶 骨 品 楊
神
一中卯い抑 抑蝉治天 一
抹 ヽ大国主神等 一六 一明治天ヨ
一 ︑ 事代主神 ︑靖田神 ︑応神天皇 一等 市円
同 同 九 四
同 九 七 天 照 大 神 と 明 治 天 皇 天 照 大 神 と 明 治 天 皇
︑ 天 照 大 神 と 明 治 天 皇
︑ 天 照 大 神 と 大 国 主 神 そ の他
七 五 大 国 主 神 二 神 武 天 皇 六 四 専
任 神 職 在 社 一
一八 人 六一 社
三
〇 人
︵ 昭 一〇
︶ 二 二社
︵ 昭 一〇
︶
五〇社
氏 子
満 領 満 関 ・
州 忌 啓 束 暑
L F l 内地 州 数
四五 ︑三工二 一︑一二四三 二三 ︑五七七
四三二
二 八 一 ︑ 九 七
︵ 昭 一〇
︶ 四 二
︑ 五九
〇
︵ 昭
〇一
︶ 二九 七 ︑ 三 九
︵ 昭 一 こ 神 社 総 経 費
一
一九三 ︑八七二円
︵ う
ち満鉄より 一〇 ︑二六一円︶
一六 四
︑ 四 四 六 円
︵ 昭
一〇 堂
大 ︵距 碑 輔 嗽諌 ︺六 伽ぃ 的﹁
一 円一
│
一‑ 54 ‑ 一‑ 55 ‑一
昭 部 ケ 四 復 出 和 司 ツ X 亥 」典
貫 品 雪 曾 宮 督
昌 ] 宮 暑 畠 :
○ 鑑 文 詢 九 六
号 L 教 ポ 三 ・
一万以上
一 ︲︱
一
前 二 者 の 数 字 は
一九
三 五 年 末 現 在
︑ 後 者 は
一九
三 六 年 末 現 現 人神 と
八紘
一宇 の一思 想
︵ 島
川︶
在の数字 ︒出典・付表I・口︒
八八四 ︑ 一
満州
国 の人 は日 一九 三 年六 関 ︑ 東 州 三は 五年 数の 字
︒ 典出 外 ・ 務 省 東 亜局 編
﹃第 二 八回 満 国州 及 華中 民 国在 留
本邦
人 及外 国人 人 統口 計
﹄表 第S 二九 回 同・
﹄ ︒
氏 子戸 数 は付 表
I︑ Ⅱ︒
五万 人 在の 留 本日 人 対に し 氏て 子戸 数 約は 一〇 万戸 であ
る ︒
し
かも
氏 子中 約の 七割
は日
政本 府 直の 轄 地 在に
住し
て いる
︒ 職神 数 に
つい
ては
︑ 三 年五 九 月末 時の 点
で ︑
満﹁ 州 職神 会﹂ 会員 在の 社す るも 三の 二社 神 ︑ 職数 計 三〇 名 であ
る ︒
複 数 神の 職 を 有 す る も の は 連大
︵ mり
金 ︑ 比 羅
︵ 一し
沙 ︑ 河 日 会
じ ︑
奉 天
︵ 二︶ 撫 ︑ 順
︵ 二︶
五の 社
で ︑
他 在は 職 一名 の 神 社 であ たっ し ︒
かも
職神 在 社 神の 社 は ほぼ 東関 州
︵ 七︶
表2・満州神社規模
│ │
満 )│1国
九 丙 │
表3・満州人口と氏子戸数
苑史
︵ 第 三四 巻第 二号
︶ 表
4 日・ 本 関 係 人 口 昭 合 澳 香 中 関 満
和 拝
: 貰
東 州
大 計 F 可キと 国 ) i i 国
昭和一〇年末
昭和九年末
昭和︻ハ年末
昭和七年末昭和六年末
昭和二年末
昭和四年末
昭 和 一年 末 昭 和 一一 年 末 昭 和 元 年 末 大 正 一四 年 末
つ〇 ︑六t口 工二五︑八七九一十一 十一 ︑
一一 一十 一︵一七ユ ︑工に五十四八︑八三六一四七 ︑一三八一四三 ︑五〇i一二人 ︑一一全︵
一三 ︑八一内一工末 ︑三九九一二三 ︑0五十 五四九︑七五二
内六丈︑工二六 れ〇 ︑べ〇五 三工的︑六︿一 二八六︑大九四 二︿三 ︑八七〇 工二七︑六一四
四四 一︵
十 一 ︑一
一 一一口〇八︑三七五
三六
十三 七十 ︑九二
一 ︑工三五
三九︑九︿四
三二七 ︑一一六i
三工三 ︑九門
三一理︑九〇三
〇五 ︑九一︿
二九九︑五︿九
二九〇︑九二エ 八三二︑七六七
七六七 ︑八〇七大七八 ︑七的八六〇〇 ︑一五五六エエ ︑五六i六〇九︑七十二
五れれ︑九〇四
五七九 ︑工三四
五六〇︑的二七
五四四 ︑五五二
五三
内 ︑口
五 出 典 外 務 省 東 亜 局 編
三八五 ︑五六八一六六︑三六九六〇︑三二〇
一二 一 ︑十五四 八八
二五四︑〇 一五六四 ︑
一一 ︑
三四三
し三
八九九︑五三四 一九九七六
七︑九九〇
一一人
︿︑ 五べ
一一 人 ︑ 一 べ一 一一 七 ︑工五六 六︑内〇一 六 ︑一 九九 二︑八七内 五︑七九八 五︑正三〇 五︑内五四 五︑大t六 一︑内ロ
査 三
五︑九六内
五︿
一
六︑二〇九
一 ︵ ︑
〇一一︿
一 ︑ 一 ︵ 四 内 ︑ 一 ︵ 七九 四 ︑ 内内 一︺
内 ︑ 一 〇︿
一一一 ︑
︿五 一 と 一 ・一 ︑
一一一 ︑ 七一 一一︿
四五 一 一
一一 ヽ一 一五
一 一 一 一 ︑ 内 一
一 一一 ︑一 十一べ一 ︵ 七〇五七
i四れ︑〇七五
〇九︑六七七十七八︑六六九一エエ︑内六一三七︑八五︿一三六 ︑t
一三〇 ︑一一一一一工四︑三四六一二〇 ︑五匹三一一七 ︑一七内
一
下七
六七〇 一二三一 九 ︑七
一 一一一一中一十
﹃第二九回満州国及中華民国在留本邦人及外国人人日統計表﹄ ︒
四七キ一一 一辛 一
閉〇一一 やヰ+
六 ︑三七〇 一 四︑九七三
耳 一 一一
一十 一 一
男 │
ム ロ湾
了十 人
一 一一一 │
重 一 〇
一三︑九五四一七六
一 四上
全〇
一三︑べ二内十 一一 ︑一一 十一一一一〇︑八四一一〇 ︑モ〇七れ︑ti九
九︑工★
︿︑九八エ八︑七〇六
九︑∞八t
八︑九一 三八七︑二五三
‑ 56 ‑―
一‑ 57 ‑一
表 5 対 満 日 本 人 移 民 第 期 五 カ 年 計 画 実 績
経警督否犀象:審盤 を
十 十 了
関東州
満鉄付属地
満州国 関東局司政部行政謀
各地帝国領事始
現人神と八紘一宇の思想︵島川︶ 神社行政については上の表の通りである︒
氏子・崇敬者は三人以上の総代を推挙し︑氏子総代または崇敬者総代はその住所氏名を関東州では民政署長 ︑付属地では警察署長に届け出なければならず ︑両署長が﹁不適任と認むる者﹂は改選させることができた ︒また神職の任命には﹁氏子総代又は崇敬者総代の推薦に係り且大使の認可を必要とする﹂ことになっていた ︒神社が﹁内地﹂と異なるのは ︑①神職が﹁官吏又は官吏待遇たる身分を有しな
い非 味位
い砲 馳瑞
卵卿 粧導 端境 的 〃 な 小肇 隻↑
囃紳 的榊 弾韓
す 化
る こ
は と で き か な た っ わ け で あ が る 神 ︑
社 は
先 の
﹃内
規
﹄ を 始 行め 政 的 に 完は 全 に 日 本 側 統の 制 下 置に か れ て い た 一 ︒ 九 三 七 年
︵ 昭
1 2︶
の 満﹃ 州 国 に於 け る 治 外 法 権 撤 廃 及 び 南 満 州 鉄 道 付 属 地 行 政 権 移の 譲 関に す る 日 本 国 満 州 国 間 条 約
﹄ で は 神 ︑ 社
︑ 本日 人 教 育
︑ 兵 事 行の 政 権 は例 外 規 定 と し て 日 本 側 留に 保 さ れ た
︒ 神 社 に つ い て は
︑ こ 条の 約 の
﹁ ヽ 付
ヽ 属賜
ヽ 定
並 両 国 全 権 間 の了 解 事 項
﹂ に よ れ ば
︑ 神﹁ 社 は
︑ 其 本の 質 上
︑ 日 本 国 ヌ は 本日 国 民 が
︑ 日 本 国 法 令 に 依 てっ
義 鰈 聾 十纂 輸 舞 藁
の
神﹃ ︼
社 協 会 雑 誌
﹄ は
︑ こ 付の 属 揚 定 に つい て 言﹁ ふ迄
l i i .も
l 十1 + │ │
│ │ │
│
史苑︵ 第四三巻第二号︶
なく︑祢社 ︑体我 ︑か大 ︑和 ︑民 ︑族 ︑特 ︑有 ︑の ︑も ︑の ︑であり︑ 一般宗教と
は区別せられるものであるから⁝⁝日本人固有のものとして取扱ひ ︑英の行政も之を満州国の行政に移すよりも日本側に保留するのを妥当と解されたものと考える﹂︵ 傍点引用者︶と解説している ︒これ以後 ︑満州国内の神社は﹁満州国駐軸 特命全権大使﹂爺囚束軍司令官︶が管掌することになった ︒
卜 =
︲ ︱ ︲ ︲ 一関 ︲ 神 ︲
︲ 数 ︲ 一中期 日一掛 川 胃 日 ︲ 所 ︲ ︲ ︲
泰天忠章並塔百一五︑八〇四十同四三年一月
一春 天千代田広場
一八
他 神の 道 施 設 と し て は 各 地 設に け ら れ た 忠 霊 塔 忠 ・ 魂 碑 が あ る
︒ 日 本 側 所 管 忠の 霊 塔 は 一九 四
〇 年
︵ 昭
︶1 5
ま で に 九 基 建 設 さ れ
︵ 表
⑥
︶ そ 後の ハイ ラ 忠ル 霊 塔 を 加 え て
一〇
基 と な り 合 ︑ 祀総 数 は 約 一 一万 三千 達に し た
︒ そ 大の 部 分 は 露日 戦 争 以 降 の 日 本 人 で あ る が ︑
一九
四
〇 年 以 後 は 関 東 軍 司 令 官 指 揮 下 に戦 没 し た 満 州 国 軍 警 も 合 だ さ れ て い る
︒ 約 言 す れ ば 神 ︑ 社 は 祭 神 規 定 始を め と す 諸る 規 制 見に ら れ る 通 り
︑ 天 皇 制 政 治 思 想 可の 視 的 支 柱 と し て 在 ︑ 満 日 本 人 たの め 満に 州 地 域 へ移 入 さ れ た も の で あ てつ
︑ 満 ″ 州 国 民 ク 大の 部 分 を 成 す 中 国 人 の 崇 〃 敬 者
″ 割の 合 は 全 く 無 視 L るフ も の で あ たっ
︒
︹︺諸宗教一方 ︑日露戦争を契機として ︑日本の諸宗教も国家神道にきびすを合わせて満州への進出を開始している ︒満州″建国″三カ月前の一九三十年︵昭6︶末の段階で ︑教派神道・仏教・キリスト教の状況は表0の通りである ︒この時点で国家神道は四三社神職二二名であり︑布教所数では他宗に優るもののその実態は前記の通りであつて ︑天理教一宗の布教者数一〇一名に比しても内容的遜色は覆い難い ︒
とはいえ ︑この三派にしてもそのほぼすべてが﹁日本側﹂だ汁︶の宗教であったことに変わりはな地 ︒
承 斉 吟 新
徳 震 尊 京
]留 怠
斉 聡 忠
皆る 霊 讐 皇 霊
六 四 四 五
同同同堀
̲ 九 九
年 年 年 年 七 七 二 工
祭神総計
典出 高・ 馨山 編
﹃ポ ケ トッ 満州 国 要覧
﹄ 康 徳 年八 版 一︵ 九
四 一︶ C
徳 恰 源 雨
表7・日本側諸宗教︵昭和六年末︶
一 問内 東 州内 一 満 鉄付 属 地
数 一 所一 戸 一
徒 一 倍 一 布
│ 戸 葛 丁
仏 教
1 天日 臨 浄 曹 真 真
│
屋英星
市 藤 恵 │
︼退
戸 │
布 教 老
派 ︐ 小
数 一 所
転
社 数 一 を立 教 一
線 姫 一 期 碑 一
理 教
一
す 孝
一
評 説
道 本 局
六
︑ 三〇 三
八七七
四五三
一 ︑一一二五 一 ︑二五九一二三八
一三〇
九四三
七二三 二五一一一
三七一
一 ︑三〇七
一 ︑七八九
一〇〇
一八八四七七 一戸 一
離 一
四 │ │ │ ∪ 一
十 三 三
一五一
計 十の
二五
│ 六 一 四 二 五 七
一 七
十 一
三
一 一
九 五
一
二 二
―一 立 こ
│ ○ 六
一 四
一 一
五 七 五
│ │ に 十○ ○ 二 │ ―
二 十 │ 十 一 九 五 二 十 一
七︵∪
布 教 者
信徒戸 数
四
︑ 四 八 五 一
八九〇
九四九二〇一
十一一 十一
十二七
五〇二一二五
│ │
│ │ │ │ │ │ │ │ │ ││
領 事 館
内 一
︲ 矧 刊 一
布 教 所
布 教 者
―‐ │ │ │ 十 一 │ │ │ │
一‑ 59 +
現人神と八紘一年の思想︵島川︶
現 人 神:
と /(
紘 宇の 取 オロ
島 リ│ │
表8︐満州国諸宗教
罪 │ ★ 一 合 十 一 巾 ^ │ ⌒ │
舅 │ユ全 上陛ど:lg宮尽1教
捨1者 ̲三 ̲ニ
ド̲ニー引理上 ― ― 二
督 1 景 五二十 昌六= 1 景 = 十 回
雷│̲ち 主 ̲̲豊 、 重̲呂三二腫堕̲̲:ヨ ̲陸
醤 1 壬 │ = 十̲ 1 味 」
̲ 1 下 │ ノ ャ │ こ │
gl昔 ̲三 二
十 事 二 三
十 三 十 塾 玉̲躍
自 1 亭 ○ 六 十 / ― ( 三 十 ∩ 有 ̲ 1 督
曙 1 空空 空 │ テ雪 全 1 貸み ノ (
に ⊇ ̲と̲ゴ吐1̲五 ̲二 ̲生 上上 互̲三
―‑ 61 ‑一
一‑ 60 ‑―
史苑︵第四三巻第二号︶
六 七
出 典
﹃満・ 年州 鑑
﹄ 和昭 八年 版 c 満 州 地域 にお い 近て 代 の 外 ″ 来
〃宗 教 の中 例で 外的 土な 着 性 持を てっ たい のは
︑
マ 一︱
ロツ
かパ ら のキ リ ス 教 ト 場の 合 であ る 天 ︒ 教主
︵ カ
リト クツ
︶ 場の 合 そ ︑ 噌の 矢 は 一八 三 年八 の 満﹁ 教州
﹂区 設の 定 続に く 四 一年 の ラフ ン 人ス 教 長区
ヴ ロェ ー ルの 満入
︑ およ び 七 年三
︵ 明
︶6 の
シー
モン 布の 教 動活 求に
めら
れ
︑ 耶蘇 教
︵基 督 教 とも 呼 ぶ プ・ テロ
スタ
ント
︶ 場の 合 は 一八 末大 年
のウ
リィ ア
ムソ
ン
︵ス
コ ツ
ト ラ
ンド
型
■ 協 会
︶ に 求 め ら れ る c 一九 四
〇 年
︵ 昭 晰
︶ の 時 点 で
︑ 新 旧 両 派 信の 者 数 は
〇二 万 人 強 達に し て い る
︵ 表
①
︶ が
﹁日
本 側
﹂ 宗の 教 に 比 し そて 特の 色 と な てっ い る の は 満 〃 州 人
〃 対に
す る 浸 透 度 高の さ であ る
︒ 最 大 天の 主 教 場の 合 を 例 に と れ ば
︑ そ 教の 勢蔽 表
③ の 通 り であ
り
︑ し か も そ 信の 者 は 満﹁ 州 於に け る 宗各 教 の中 で 最 も 真 面 日 に し
て ︑
か 志つ 操 堅の 国 な 宗る 派 の
﹂一 と し 評て 価 れさ て い る じ
一 一一一 一 一ハ
九五四十五
八〇
八七一一〇三五七
九七四 三四〇七二
六九一九六
一〇四
一一六四
〇一 七 一 ハ 一 一
坊一三一
一八
一一 一一一
一七五
百三九
一五
①
六七五
九四六
三 ︑八八九
碗 史
︵ 第 四三 第巻 二号
︶ 表
9 満 ・ 州 カ ト リ クッ 教 教 勢 一覧 需和 三 年七 現月 と
一 的 陶 ン
道 道 司
幹
︵ 満 州 国 人
と ﹈ ﹁
教 師
︶
中 一
範 弗
学 校 教 師
︷ 卿
蜘 い理 八九
〇 名 教 会 受 持 小 区 域 数
八一
八区
公 所
⌒ 共ム 不
四
六 一三 個 所 聖 書 学 校 数 編
勤 な
鞄
押 輸
甥
︶ 一 全
二 校
一同 学 ︐生
〇た一 ︷り 中一 五一一夕﹁一四一十 ︑一四 〇三〇名一 ︑ 七校
五四箇所
一 ︑七一二名一二一ハ体 回辞別
七一二名
五箇所
六二箇所
五五六 ︑公一九名
二個所
一一箇所
出 典
﹃・ 満 州 宗 教 誌
﹄ 二 十○
︱ 十 一頁
︒ 表
③ で 外の 国 人 聖 職 者 は
︑ 全 国 十 一教 区 で各 教 区 毎 に 国 籍
を 統
一し
て い る 仏
︵二 教 区
︶ ︑
米
︑ 加
︵一
じ ︑
スイ
ス ︑
独
︑ 壊
︑ ベ
ルギ
ー
︵ 二︶
︑ 露 各の 国 人 で あ る が
︑ 注
目 す べ き は 満 州 国 人 聖 職 者 の数 と
︑ 学 校 社 ・ 会 福 祉 事 業 等 数の 値 であ る
︒ さ ら 信に 者 の内 訳 を 最 大 教 区 吉の 林 教 区 で 見 る と
︑ 満 州 国 人 信 擁
三 八
︑ 八 四 三
︑ 日 本 人 信 徒 約 五
〇
︑ 外 国 人 信 徒 二
︑ 九
〇
〇 と な てっ お り
︑ 地 域 的 民 ・ 衆 的 基 礎 を 確 立 し て
いる
とこ が わ か る
︒ 在 来 諸 宗 教 場の 合 は
︑ 民 衆 生 活 で 土の 着 度 に お い 当て 然 に
も
﹁日
本 側 宗の 教
﹂ を 無 視 し う る ほ ど 高の さ を 持 てっ い た
︒
︵ 表
①
︶ 一九 三 六 年
︵ 昭
︶1 1
の 時 点 で 寺 ︑ 院 教 会 数 は
客 F 口淋 桁 慮 辞 義 , 博訂 同 f r F
種 養 容
中
刷 診 療 老 老 孤 児 学
工 人 児 学
場 所 者 院 院 数 院 数 院 生 校
︵ 男生女生去︶
︵ 育嬰堂と称す︶
︵ 男女共︶
︵ 施医院と称す︶
⌒一箇年延人員︶
‑ 6 2 ‑
‑ 63 ‑一
五 ︑ 一七六 ︑信徒数二五〇万強を数えている︒神社との比
では寺院教会数で約一対五O①である ︒しかも︑この他宗
教の数字は実際の何分の一かなのである ︒例えば本表①で
は全宗派にわたってその数字は激増している ︒しかし︑こ
れは実際に施設信者が増加したということではなく︑満州
国政府によってその国民が 〃発見〃されていく過程を表し
ているのに過ぎない ︒反満抗日の ″匪賊〃の解放区︵ 後注
8 9
文献参照︶については公式統計に全く現れてこないわけ
である ︒ 一九三二年︵ 昭7︶末の仏教信徒数を例にとれば ︑
奉天省・六九七 ︑三一六 ︒苦林省・三九 ︑九三二 ︒黒竜
省・五 ︑七七七 ︒熱河省︐統計なし︒興安省・統計なし︒
東省特別区・一〇 ︑九二一 ︒新京特別市・二 ︑五二二 ︒と
なっている ︒熱河 ︑興安両省はこの記録の編者の言うよう
に﹁治安の不確定の為に全然調査が出来﹂なかったのであ
る ︒表⑤は ︑国家としての満州国の実態を示しているものと言えよう︒
三・儒教国家満州国
● 工道楽土
満州国は儒教思想を掲げて発足した ︒﹃満州国建国宣言﹄
は ︑﹁三千万民衆の意向を以て⁝⁝満州国を創立す﹂と述
現人神と八紘一字の思想︵ 島川︶ べ
政ず真正民意絢﹂王道義実施は必のに﹁主を﹁ことう︑ヽ 一
行﹂することを約束し︑国民に対して﹁当に礼教を是れ崇
ふへし﹂と命じている︒
﹁礼教﹂すなわち儒教は清代までの国教であったが ︑中
華民国の成立以来国家による祭祀は廃止されていた ︒清朝
の廃帝淳儀を執政に立てた満州国は ︑同じくその前代の儒
教政治思想をもって 〃上から〃のコンフォーミティ形成を
企てたのである ︒
当時の文廟︵ 孔子廟︶は政府文書によれば﹁概ね往年の
祀典廃止と共に之を顧るもの少く︑徒に自然の跳梁 ︑兵匪
の侵害に委ね ︑廟宇は毀損し︑増壁は倒潰し︑旧態を↓維持
するもの無く甚だ憂慮すへき状況﹂にあった ︒満州国はこ
の遺物に依って ︑﹁近世断く廃れたる祀孔典礼を復活し之
を目祭となし︑以て民心の拠る所を宣明﹂しようとしたの
である︒文廟数は一九三三年︵ 昭8︶の時点で国内に六三とされているが ︑他宗教の場合と同じく︑熱河 ︑興安↓省所
在のものは含まれていない ︒三五年︵ 昭
︶段階七1 0では八
廟となっている ︒四四年︵ 昭
︶時点は八八れ1 9のでさと︑
﹁建国前開建﹂分として七五という数字があげられている ︒
また設置者別では省立七 ︑県立七三 ︑旗立一 ︑市立二 ︑私
立五となっている ︒
″大同〃元年︵ 昭7︶にはこの文廟を中心として ︑全国
⁝⁝︐■﹁1︐一≡ど
史苑
︵ 第
三四 巻 第 二号
︶ 的 な 儒 教 振 興 運 動 が 企 画 さ れ た
︒ 八 月 の政 府 文 教 部 訓の 今 は 次 の よ う 命に
じ て
いる
︒
一 ︑
本 年 秋 季 孔の
子祭
は 新 京 及 各 地 方 に於 て 均 し く 盛 大 な る 典 礼 を 挙 行 す
︑ 各 地 方 は 事 前 祭に 祀 関に す る 一切 事の 項 を 準 備 す
へし
︒ 二
︑ 各 地 方 文の 廟 は 資 力 許の す 限 り 速 修に 理 を 加 へ装 飾 を な す
へし
︒ 三
︑ 本 部 よ 祭り 祀 参 考 小 冊 及 尊 孔 宣 伝 標 語 を 印 刷 し 送 付 す
︑ 各 省 区 市 は 所 属 に命 令 配 布 せ し め或 は 重 要 な る も の を 公 示 す
へし
︒ 四
︑ 丁 祭 日 に は 各 地 方 於に て 市 民 全 体 大 会 を 開 催 し 孔 子 事の 蹟 を 講 演 す
︑ 各 省 区 市 県 公 署 よ り 之 を 主 催 す
︒ 五
︑ 各 校 学 生 は 師 長 指の 導 に よ り 校 内 に 於 て 祀 孔 典 礼 を 挙 行 し 並 孔 子 の 言 行 道 徳 学 問 等 に関 し 講 演 を 為 す
へし
︒ 同 年 秋の 季 中 央 祭丁 で は 鄭 国 務 総 理 が 主祭 官 と な り
︑ 翌 年 秋の 祭 で は 執 政 淳 儀 が 祀 祭 を 行 な たっ
︒ こ の時 の 祀﹁ 典
﹂ 様の 子 前の 半 三 分 の 一ほ ど 次の 第 を引 用 し て み よ う
︒ 対﹁ 引 官 恭
しく
執 政 を 先 導 し て 先 師 祝 案 前 詰に り
︑ 三 庄 香 を 上 り 迎 神 礼の を 行 ひ 復て 位 し 典 ︑ 楽 平 之 章 を 奏 す
︒ 同 時 分 引 官 張 景 恵 以 下 分の 献 官 導を き 配て 位 従 位 及 び 東 西 両 簾 先 賢 先 儒 上に 香 し 迎 神 礼の を 行 ひ
︑ 詑
り て 執 政 各 分 献 官 を 随 へ再 び 先 師 位 前 諸に り
︑ 三 施 九 叩 し て
︑ 初 献 礼の を 行
ひ ︑楽宣之章を奏し︑羽籍の舞を舞ふ⁝⁝﹂
新京文廟の場合はハ先師が正位の孔子 ︑配位が宗率曽子 ︑
亜聖孟子など四 ︑従位が一二 ︑先賢先儒が一五三位耐られている ︒拝礼法は文教部礼教司の制定した﹁親行釈尊礼
節﹂に則っている ︒三晩九叩は三回ひざまづいて九回地に
叩頭する ︒薄儀はこの時これを二回 ︑三叩を二回 ︑拝を
一回している ︒この時点では ︑宗教的にはまさに清朝あ復解になっている ︒
満州国は儒教国家として出発した ︒しかしその前標一 たる
文廟は前代遺物と化していたのであって ︑その民衆的基礎においては国家神道と大同小異であったと言えるだろう︒
ただし︑中国の文廟国家祭祀には歴史的伝統があり︑民俗宗教としての儒教も広範な信者を持っていたのであるから︑
日本の神道よりは国教としての可能性はありえたであろう︒
減亡王朝大清帝国の形骸をまとった新国家は関東軍・板垣少将によれば﹁軍閥の暴政下に呻吟して居りました三千万民衆に対し天与とも称すべき希望と光明とを与へ ⁝⁝王
道薬土を建設せんとする﹂五族協和の理想国家であった ︒
しかし︑板垣が淳儀を推戴した東北行政委員会なるものを
弁護して﹁三千万民衆の総意と云ふても︑人民が一々発言
する方法もありませんので是等個々に独立した各独立者の
合意結合の結果に待たざる可からざるは勿論であります﹂
―‑ 64 ‑―
一‑ 65 ‑一
と 述 べ て い る の は
︑ 語
る に落 ち た 言と う
べき
あで ろ う
︒ こ れ が
﹁真 正 民の 意
﹂ の 正 体 で あ る
︒ 満 州 国 は 関 東 軍 急の 造 国 家 であ たっ
︒ 関 東 軍 自 体 が 満 州 地 域 に 対 す る 明 確 な 方 針 を 持 てっ いな か たっ こ と は
︑ 例 え ば 石﹃ 原 莞 商 資 料
﹄ 建の 国 前 数 年 分 を 見 れ ば 明 ら か で あ る
︒ そ の 公 私 文 書 に よ れ ば
︑ 支 配 形 式 と し て 最﹁ も 簡 明 な 軍る 政
﹂ 台関 東 軍 満 蒙 領 有 計 画
﹄ 一九 二 九 年 七
︶月
﹁ ︑ 我 領 土
﹂ 翁満 蒙 問 題 私 見
﹄ 三 一年 五 月
︶ ︑
旦ど 統 帝 を 頭 首 と す 支る 那 政 権
﹂ 翁満 蒙 問 題 解 決 策 案
﹄ 三 一年 六
︶月
﹁満 ︑ 蒙 総 督 府
﹂ 翁満 蒙 統 治 方 案
﹄ 三 一年
〇一
︶月
︑
﹁日
本 指 導 監 督 下 簡に 明 直 歳 な る も の﹂ 翁満 蒙 問 題 行の 方
﹄ 三 一年 一二 月
︶ ︑
と 推 移 し て い 税 o こ 国の は 塊 儡 国 家 以 外 何の 物
でも
な か たっ
︒ そ れ ゆ え
︑ 急 造 れさ 満た 州 国 が 儒 教 理 念 立に つ独 立 国 家 と し て 体の 裁 を と 場る 合
に ︑
主 人 た る 皇 道 国 家 日 本 と の関 係 を 理念 的 に 整 合 さ
せな
け れば な ら な い と い う 問 題 が 生 じ た
″建︒ 国
″の 年 の 一〇 月
﹃ ︑ 満 州 評 論
﹄ 誌 上 で 小 山 貞 知
︵ 満 鉄 嘱 託 自・ 治 指 導 部 顧 問
︶ の
﹁王 道 主 義 国 家 連 合
﹂ と
いう
論 文 が こ の 問 題 扱を てっ
いる
︒ 小 山 は 三道 特の 徴 と し て
︑ そ の 王位 が 天﹁ 之 を 定 天め は 民 意 帰の 趨 に よ り て そ の人 決を す
﹂る こ と を 挙 げ て い る
︒ っま
り 禅﹁ 談放 伐 姓易 革 命等
﹂
によ
てっ 者王 個人 置は 換 可 能だ 言と
う︒
対 し 皇て 道 場の 合 は王 位が
一﹁ 天 万乗 君の
﹂
現人神と八紘一子の思想︵ 島川︶
在に る の で 世﹁ 界 に 比 類 な き 安 定 性
﹂ を 持 てっ
いる
と
いう
︒ 彼 は こ う 結 論 す る
︒ 皇﹁ 道 は そ れ 自 体 他 民 族 に 移 植 す る こ と は 困 難 な り
︒ 然 る に 王道 国 の 王﹃
﹄ 位 は 民 意 の帰 趨
︑ 離 反 に よ り 革て 命 性 を 持
つも
の あで る と 同 時 所に 謂 王 道 は こ れ 支を 那 民 族 以 外 如の 何 な 社る 会 に も 移 植 得し ら る る
︒ 然
り 而
し て
⁝
⁚ そ れ 実の 践 は ド ー し て も 皇 道 指の 導 能 力 を 侯 外つ は な い であ ら う
︒
⁝
⁝ 而
し 皇て 道 国 日 本 は そ 神の 武 を 以 て
︑ 及 び そ 経の 営 助
を 以
て ︑
東 洋 的 王道 主 義 国 家 連 合 を 支 援 指 導 す
べき
で
キあヤ ツつ﹂
現 人 神 理の 念 は 三 権 神 授 説 を 超 え
るも
であ たっ
︒ こ 理の 論 後は 述 の 八 ″ 紘
一宇
思の 想
〃 連に な る
︒
● 呂 満
徳 一
一 心
一九三四年︵ 昭9︶三月 ︑執政薄儀は皇帝に即位する ︒
こ れ
は ︑前年八月の日本政府閣議決定﹃満州国指導方針要綱労 が確定している﹁満州国は立憲君主制を究極の目標とする﹂という方針の早期の実現に他ならない ︒廃帝薄儀の半生の目標は清皇帝としての復鮮であつた o建国時にはそ
勲姉 捜守
期い 毎脇
姉期 以抑
帥ホ 均諭
説時 郵争
味政 雑卵
車願 ︑
連 盟 脱 退 は 民 ″ 本 国 家
〃 粉の 飾 を 不 要 に し て
︑ 廃 帝 宿の 願
i l と 正 ̲
苑史
︵ 第
三四
巻第
二号
︶ 道に を 開 いた の であ
る ︒
満 州 国 成の 立 が 唐 突 で あ たっ よ う に
︑ 帝 政 実 施 も 唐 突 な も の で あ たっ
︒ 橘 僕 編の 集 なに る 満﹃ 州 評 論
﹄ と
いう
雑 誌 は 毎 年 関 東 軍 国 ・ 務 院 揚 ・ 和 会 な ど 年の 賀 祝・ 賀 広の 告 を 載 せ
︑ 軍 首 脳 論の 文 な ど 掲を げ て い 御る 用 雑 誌 と い う
べき
も ので あ る が
︑ こ 雑の 誌
で ・さ
復え 辟 論 否は 定 し て い た
︒ 三 三 年 一月 小の 山 論 文 は 言 う
︒
﹁建 国 未 だ 一年 も 経 た ず 王化 尚 ほ 治 ね か ざら る に
⁝ 内⁝ 治 安 を ナ イ ガ シ にロ 外し 際国 関 係 顧を ずみ 今 直 政に 体 変を 革 帝し 政 を 布 か ん と す がる 如 き 全は
く 清 朝 復の 鮮 を 夢 む か 否 ざら れ ば 一部 人 士 権の 勢 を 獲 得 せ ん と す
る 野 心 行 為 と い ふ よ り 外 何に 等 意 味 を な さ な
い ︒
i
︵ か
か
︶る 政 治 運 動 は 絶 対 に之 れ 排を 除 す る を 要 す 歌 ︑ 当て 局 の 注意 促を が す
﹂ ︒ 橘 撲 も 言 う
︒ 天﹁ 命 説 と い ふが 如 き 迷 信 を 別 L し て
︑ 凡 ゆ 帝る 制 論 者 及 び そ 共の 鳴 者 達 の 主 張 す る と こ ろ は
︑ 世 襲 君 主 制 以 外 に は 基国 乃 至 民 心 安を 定 さ せ 形る 体 を 発 見 得し な
いと
い ふ に あ る ら し
い ︒
併 し こ 説の 柳は か 独 断 嫌の がひ あ る
︒ 先 づ 第
一に
王道 思 想 の 間 明 者 た る 原 始 儒 教 の学 者 達 天は 命 が 至 っ て 不 安 定 な も の であ る こと を 主 張 し
︑ 随 てっ 元 首 任の 期 は 終 身 制 を 理想 と し
︑
︵ 唐 虞 禅の 譲
︶ 世 襲 制 は 次 善 道の 過に ぎ な い
︵ 三
代 放の 伐
︶ と 批 判 し 居て
る
︒ れこ 依に れ ば 天 命
説 乃 至王 道論
純の 真 立な 場 於に はて 清 朝 滅の 亡 は申 す 及に ば ず 薄 ︑ 儀 氏 系の 統 世に 襲 君主
たる
地位
与を
へる
と
いう
こ と
にも
何等
根の 拠 を見 す出
こと が
でき
な ぜ地
﹁天 命 説 乃 至 道王 論 純の 真 な 立 場
﹂ は 関東 軍 に 全 く 無 縁
のも
の であ たっ 淳 ︒ 儀 皇の 帝 登 極 は ま さ 橘に 言の う 天﹁ 命 説 と い
ふが
如 き 迷 信
﹂ 基に づ い て 行 な わ れ た の であ る
︒ 執 政 就 任 場の 合 と 同 じ く 車 ︑
一 帝
即 位 の 場 合 も 三﹁ 千 万 民 衆 意の 向
﹂ が 喧 伝 さ れ た
︒ 鄭 国 務 総 理 帝の 制 実 施 声の 明 は
者ロムノ︒
﹁王道楽土の実現を謳歌せるは ︑これまことに天佑といはざるべからず ︒この天佑は ︑わが満州国の建国が ︑天命に遵由せると共に⁝⁝執政の乾徳に因る ︒順天安民は ︑建国の理想なり︒今や天佑の加護顕著にして ︑王道を頌唱証歌せる人民は ︑至情を尽して執政の天命に順ひて帝位に即かれんことを請願して己まず ︒﹂鄭国務総理の机上には﹁温るる至情を書きつらねた請願書が ︑刻々︑山と積まれ﹂ ︑その結果総理は﹁民意︱︱即ち﹃天意﹄によって動かざるを得なかった﹂というoつまり︑帝制実施を正当化した理念も︑王道国家論の帰結としての天命説 ︑儒教主義であった o
淳儀の登極は事実上の復辟であったが ︑先の総理声明は﹁これを誤りて ︑清朝の復辟となすが如きは ︑建国の理想
‑ 66 ‑一
―‑ 67 ‑一
と 使 命 と 忠に な る 政 府 断の じ て 取 ら ざ る 所
﹂ で あ る と 強 調 し て い る
︒ れこ は な お内 外
への
配 慮 が あ たっ た め で あ り
︑ 同 日 に 出 さ れ 謝た 外 交 部 総 長 談の 話 は 次 の よ う 述に べ て い
一る︒
﹁中華民国は ︑右即位の結果につき︑何等危瞑猜疑の要なき次第で ︑日・満・支の二国が相提携して東亜の和容に
尽すの途は ︑いよいよ広く一開かれたものと思拠﹂近衛が〃国民政府を相手にせず〃と声明するのは〃康徳五年〃の一月である ︒︵満州国の年号は 〃大同〃 ︑満州帝国の年号は〃康徳し関東軍のみならず支那派遣軍が中国全土を制だしていたならば ︑淳儀の夢であった 〃後清〃帝国が成立していたかもしれない ︒
薄儀の即位式は宗教的行事としての﹁郊祭の儀﹂と政治的行事としての﹁登極の儀﹂に分けて行なわれたが ︑後者は淳儀が皇帝として初の詔書を下達する場であって ︑即位そのものは前者において成立していた ︒政府文書によって﹁郊祭﹂の主要な次第を見よう︒
﹁三日間に亘る潔斉を済ませられた 新帝は⁝⁝満州古風の礼装いと厳かに天壇上に南面して御着席 ︑此時磨柴迎神の俵あり︑続いて皇帝年神案の前に進ませられ ︑玉を薦して定位に復して拝礼遊ばされ ︑更に再び神案の前に進ま
せられて三爵⁚⁝次いで承望の儀あり︑終って送神の儀 ︑
現人神と八紘一年の思想︵ 島川︶
送 燎 儀の あ り
︑ 故 に滞 り な
く 式 典 を 終 り 珂⁝
﹂ 膳 柴 迎 神 と は 柴 を 燈 い 天て 神 を 迎 え る こと
︑ 承 璽 は
﹁受 天 之 命
﹂ と
いう
国 璽 を 受 け る とこ で
︑ こ こ 即で 位 が 成 立
︒ こ の 間 淳に 儀 は 三 晩 九 拝 を 行 な てっ い る
︒ 満﹁ 州 古 風 礼の 装
﹂ と 清は 皇 帝 竜の 抱 あで り
︑ れこ は 登﹁ 極 儀の
﹂ で着 用 し た 満 州 国 大 元 帥 服 を 郊 祭
でも
使 用 す る よ う
にと
いう
関 東 軍 の意 向 抵に 抗 し 薄て 儀 が 獲 得 し 復た 辟 夢の で あ たっ
︒ し か し
︑ 愧 儡 王 道 国 家 満 州 帝 国 真の の 上﹁ 帝
﹂ は 日 本 帝 国 で あ たっ
︒ 即﹃ 位 詔 苦
﹄ は
﹁右 ら ゆ る 守 国 遠の 図 経 邦 の 長 策 は 常 に 日 本 帝 国 と 協 力 同 心 以 永て 国 を 期 す べ
﹂し と 宣
一 〒
てし いる
︒ 執﹁ 政 全は 人 民 に せ対 責て 任 を 負
﹂ふ と 明 言 し 暫た 定 基 本 法 た る 政﹃ 府 組 織 法
﹄ 廃は 止 さ れ た
︒ か わ っ て 制 定 さ れ た
﹃組 織 法
﹄ は 明 治 憲 法 模に し て 満﹁ 州 帝 目 は 皇 帝 之 を 統 治 す
﹂ と 書 き 出 さ れ て い る 政 ︒ 府 説の 明 に よ れ ば
﹁以 前 満の 州 国 と 法の 制 上 差の 異
﹂ は 次 の 点三 要に 約 さ れ
る
︵イ ︒
︵ロ
︵ハ
こ の 輔﹁ 弱機 関
﹂ 実の 権 次は 長
の日
本人 吏官 が 粧 てっ い た での あ てっ 満 ︑ 帝州 国 と は そ 形の 式 内・
容と
も
に日
本 帝
以前の民主制を廃して君主制にしたる事君主を神聖不可侵とし別に輔珂機関を設けたる事軍令事財 を一般国務の外に置き別に輔弱機関を設けたる事
苑史
︵ 第 三四 巻第 二号
︶ 国 の 復 〃 辟
〃 で あ る の 他に な ら な か たっ
︒ 一九 三 五 年
︵ 昭
︶1 0︑
皇 帝 薄 儀 は 第
一回
訪 後日 の 五 月
︑ 回﹃ 墾 訓 民 詔 書
﹄ を 国 民 に 下達 し て そ の 上﹁ 帝
﹂ への 忠 誠 要を 求 し て い る
︒ 朕﹁ 日 本 天皇 陛 下 と 精 神 一体 の如 し 雨 衆 庶 等 更 に当 に 仰 いて 此 意の 体を 友し 邦 と 一徳 一心 以 て 両 国 永 久 基の 礎 を 隻 定 し 東 方 道 徳 意の 義 を 発 揚 す
へし
﹂ 日〃 満 一徳 一心
〃 は 本日 支 配 の ス
ロー
ガ とン な たっ
︒ も ち ろ んそ 収の 叙 す
べき
一﹁
﹂ は 上﹁ 帝
﹂ 意の 志 で あ る
︒ 一 九 三 六 年
︵ 昭
︶1 1
の 満﹃ 州 評 論
﹄ 誌 上 で か の 小 貞山 知 は 次 の よ う に 立 論 す る こ と が
でき
た
︒ 王﹁ 道 政 治 と は
⁝ 哲 ⁝ 人 政 治 で あ る
︒
⁝
⁝ 数 に 謂 ふ 王道 政 治 と は 支 那 古 代 思 想 所の 謂 王 道 政 治 非に ず し て
︑ 寧 皇ろ 道 政 治 を 内 容 と す
るも
の であ る
︒ 即 ち 本日 天 皇 大の 御 心 を 政 治 上 に 顕 現 完 成 す る こ と を 理 想 と す るも の
であ
る
︒
⁝
⁝ 今
日 は 日 満 一徳 一心 の関 係 を 強 化 す る こと に よ り 皇 ︑ 帝 の 哲 人 性 が 可 能 と な り
︑ 満 州 国 王 道 政 治 実の 現 性 と 永 久 性 を 持 つ とこ にな たっ
﹂ ︒ 一九 三 九 年
︵ 昭
︶1 4
八 月
︑ 民 生 部 祀は 孔 礼の に お け る 服 制 を そ れ ま で 清の 朝 制 廃を し 協て 和 服 礼 装 を も てっ 替 え
︑ ま た 距
晩 九 叩 礼の も ゆ る や か な 三鞠 男
︵ お
じ ぎ を す
︶る に 変 たっ
︒ れこ は 翌 年 の 国 家 神 道 導 入 布の 石
でも
あ たっ で あ
ろうか ︒
・ 四・満州帝国の国家神道
偽︺天皇教の導入
﹁日満一徳一心﹂の帰結として ︑またもや唐突に今度は日本の国家神道が天降ることとなる ︒〃紀元二六〇〇年〃︵一九四〇︶に第二回の訪日をした皇帝薄儀は帰国後 ︑﹃国本隻定詔書﹄を喚発した ︒
﹁朕数に敬て 建国神廟を立て国本を悠久に隻め国綱を無彊に張るか為に詔して曰く我国建国より以来⁝⁝日に隆治に踏る族の淵源を仰き斯の五績を念ふ皆 天照大神の神妹 天皇陛下の保佑に頼らさるはなし⁝⁝朕か子孫をして
万世祗み承け無窮に年あらしむ庶幾くは日本惟神の道に隻り国綱忠孝の教に張り⁝⁝篤く神床を保たむ﹂この変異を﹃満州帝国概覧﹄は次のように説明している ︒
﹁皇帝陛下におかせられては亦御滞在中伊勢神宮 ︑橿原神宮其の他聖地を御参拝あらせられ親しく日本肇国精神に
触れさせ給ひ神ながらの大道を極めさせられ⁝⁝日本天皇陛下の御心を以て御心とせられる ︒御乾徳高き皇帝陛下におかせられては⁝⁝建国神廟に天照大神をいきまつり⁝⁝ヽ永へにその奉仕を命じ給ふたのである ︒斯くの如く今や日
―‑ 68 ‑一 一‑ 69 ‑―
満 両 口
は 完 全 に 一体 と な 磐り 石 安の け き 上 に 立
つを
得 た
﹂ 総 務 長 官 星 野 直 樹 に よ れ ば 訪 日 の 御﹁ 目 的
﹂ は
﹁ ︑ 天 皇 性 下 に 御 対 面 あ ら せ
ら れ 神 詣に で ら れ
る こと
﹂ に あ たっ
︒ 薄 儀 は
﹁た と ひ 御 暇 が あ てっ も 御 見 物 等 は 一切 遊 ば さ れ す
﹂ ︑
重 大 行 事 の前 に は人 に も 会 わ ず
﹁斉 戒
﹂ し て い た と い う
︐ 首 席 接 伴 員 本 庄 大 将 は 博 儀 の 敬 〃 神
〃 念の の 深 さ を 強 調 し て い
る ︒
例﹁
へば
臣 下 者の や
︑ 随 員 者の な ど が 話 し て ゐ る 話 題 中の
に ︑
三
言 ︑
大 神 と か 桃 山 と 言 ふ言 葉 が 出 た と き 性 下 に は直 ち 威に 儀 を 正 し
︑ 時 に 御は 起 立 遊 ば さ れ 御て 聴 き にな る の を 例 と す る の で あ り ま し た
﹂ ︒
各 種 文 書 は
︑ 淳 儀 が 第 二 阿 訪 日 で 国 家 神 道 の 霊 感 に う た れ て 帰 国 後 そ 国の 教 化 を 図 たっ
︑ と
いう
公 式 見 解 を 書 いて
いる
︒ し か し 星 野 の言 う よ う に 最 初 か ら 御﹁
目 的
﹂ は そ こ にあ たっ の で あ り
︑ 薄 儀 の 伊 勢 参 年 の 目 に は 陛﹁ 下 御 参 拝 御の 時 刻 を 期
し て
︑ 満 州 帝 国 四 千 万 国 民 も 亦 斉 し く 神 宮 逢 拝 の赤 誠 を 捧 げ 奉 たっ
﹂ の で あ る
︶ と も あ れ
︑ 国 家 神 道 導の 入 は 皇﹁ 帝 陛 下 御 頻 ら 御の 発 意
﹂ で 決 定 さ れ た
︒ こ こ に は
﹁天 意
﹂ も 民﹁ 意 帰の 趨
﹂ も な く
︑ 単 薄に 儀 の 主 観 みの が 根 拠 と な デ
い L
る ︒
国 家 神 道 の 導 入 は 国 教 の 変 更 を 意 味 す る 大 事 件 で あ たっ
︒ 忠﹁ 孝 の 教
﹂ は 従 位 に さ が り
︑ 祀 孔 の 国 教 か ら む し ろ 修 身 的 儒 学 的 立 場 に 追 い や ら れ て し ま たっ
︒ 満 州 帝 国 政 府 編 纂 現 人 神 と 八紘 宇一 の思 想
︵ 島
川︶
の〃正史″﹃満州建国十年史﹄はこの大転換と〃建国精神〃とを整合するのに必死である︒
﹁真に﹃満州国﹄を建国せしめた原理原動力たるものは ︑
天皇の大御心即ち 天照大神の神意であるが ︑建国当初に於ては一般国民の意識に明陳であったとは言へないご〃正史〃は続けて ︑﹁満州建国は ︑事変の背後に存する精神 ︑日本国体の原理 ︑即ち 天皇の大御心によって ︑始めて実現されたるもの﹂である以上 ︑﹁養正一徳の日本国体原興による八紘一字の理想﹂とは ︑﹁建国理念そのよ︶の
の開顕深化﹂に他ならない ︑と言焚︒
満州国が﹁三千万民衆の意向﹂によってではなく︑
推進れた強圧的な形でさべ宗教言きにデタとクう︒ーー 教化皇教の国はまさの天既述通であたはのこことりりっ︑ 全存在なか民衆基礎が道的満国家神のしであ州国にくる︒ れ迎﹂の一気呵成可決議案はにさただけでの質問が出と︑ ﹄神照大神は何のか珠激か天と部大丁﹃﹁治安臣らでは ︑ 務院会議れた臨時国廟創建案が上程建国神さ教たであっ︒ 縁宗神道は無の﹂国家各独立者にて立たとも﹁独しっう︑ 板嬌言添人民衆は射が中国もとよ全正鶴いりをてるく︑︑ 把握は建れたい﹂て国さと存す精神にう変背後にるよのっ 事﹁ ︲
臼一 建国神廟
史 苑
︵ 第 四三
巻第
二号
︶ 一九 四
〇 年
︵ 昭
1 5︶
七 月 組 ︑﹃
織 法
﹄ 第に 九 条 と し て 皇﹁ 帝 は 国 祭の 祀 を 行 ふ﹂ と
いう
規 定 が 追 加 さ れ た
︒ 日 本 古 代 神の 祗 官 模に し 祭て 祀 府 が 設 置 さ れ
︑ 国 務 院 参 ・ 議 府 等 と 並 び 皇 帝 直に 隷 す 独る 立 官 庁 と な たっ 祭 ︒ 祀 府 総 裁 に は 元 関 東 軍 参 謀 長 で協 和 会 中 央 本 部 長 橋の 本 虎 之 助 中 将
︑ 副 総 裁 に は 元 官 内 府 大 臣 沈 瑞 麟 が 任 命 さ れ た
︒ 国 務 院 で は 各 部 結 長 に は中 国 人 を 当 実て 権 は 日 本 人 次の 長 が 握 る と
いう
体 制 を と てっ たい が 祭 ︑ 祀 府 に は こ 種の 形の 式 的 配 慮 す ら 見 ら れ な
い ︒
笑 務 官 街 た る 総 務 処
︑ 祭 務 処 処の 長 は 日 本 人 が 任 命 さ れ
︑ 奉 祀 官 と し て 本日 か ら 神 職 が 聘 用 さ れ た
︒ 祭 務 処 長 は 元 宮 内 省 掌 典 の 八束 清 貫 で あ る
︒ 伊 勢 神 宮 満の 州 版 と し 建て 国 神 廟 が
︑ ま た そ 摂の 廟 と し て
︑ 靖 国 神 社 満の 州 版 た 建る 国 忠 霊 廟 が 創 建 さ れ 祭 祀 府 の 管 掌 下 に お か れ た 建 ︒ 国 神 廟 は 宮 延 府 内 に建 設 さ れ
︑ 皇 帝 訪 日 時 伊に 勢 神 宮 修で 祓 を 受 け た 鏡 を 神 体 と し た
︒ そ 神の 域 は 逐 次 拡 張 さ れ て
一方
坪 に 及 ん だ が
︑ 一般 国 民 の参 拝 は 許 さ れ な か たっ
︒ 一九 四 年二
︵ 昭
︶1 7
神に 廟 を 移 転 し 国 民 の参 拝 を 許 可 す 計る 画 が 公 表 さ れ て
いる
が
︑ 敗 戦 ま で実 現 を 兄 な か たっ 建 ︒ 国 忠 霊 廟 祭の 神 は 満﹁ 州 事 変 勃 発 以 後 建 回 為の 殉に じ た 英 霊
﹂ 翁建 国 十 年 史 し で あ り
︑ 創 設 時 に 二 四
︑ 一四 柱一
︑ 後 に 約は 五 柱万 達に し て い る
︒ 新 京 南 郊 所に 在 し て 神 域 は 一三 万 六 千 坪 を 擁 し
︑ 造 営 に は 国 民 勤の
労 奉 仕 運 動 が 組 織 さ れ た
︒ こ の 聖﹁ 汗 奉 仕
﹂ 運 動 動の 員 数 は 延 べ
一四
万 人 を数 え た と 言 う 建 ︒ 国 神 筋 は 四
〇 年 九 月 一 五
日 に 忠 ︑ 霊 廟 は 同 一八 日 鎮に 座 祭 が 行 な わ れ て い る
︒ 建 国 神 廟 鎮 座 祭 は 午 前 二 時 過 ぎ と
いう
深 夜 執に 行 さ れ た
︒ そ 情の 景 を 正 〃 史
〃 は 以 下 の よ う に 描 い て い る
︒
﹁皇 帝 陛 下 に は
⁝ 建 ⁚ 国 元の 神 と 崇 め ま
つる
天 照 大 神 神の 霊 を
︑ 此 神の 殿 神に 御 親 斎ら 鎮ひ め ま
つら
せ給 ふ た
︒ 此 間の
︑ 神 殿 内 外 燈の 燎 は 一斎 に 掻 き 消 さ れ
︑ 天 地 は 神 秘 幽 玄
⁝
⁝ 森 厳 極 り な き 此 の 一瞬
︑ 奉 仕 員 卜 参 列 員 等は し く
︑ 神 来 霊の 感 打に た れ
︑ た だ 大 前 に 深 く ひ れ 伏 す みの で あ っ た
︒﹂
こ の鎮 座 祭 式の 次 第 は次 の 通 り で あ る 祭 ︒ 場 への 進 入 は 参 列 諸 員 と し 張て 総 理 以 下文 武 官
︑ 関 東 軍 司 令 官
︵ 副
総 裁 前 道一︶
︑ 皇 帝
︵ 総 裁 前 導
︶の 順 行で な わ れ た
︒ 暗 闇 中の 皇で 帝 を 祭 主 と し て 天 〃 降 り
〃 鎮の 祭 が 行 な わ れ た 後
︑ 皇 帝 が 拝 礼 し 満﹁ 語
﹂ 各の 文 を 述 べ
︑ 橋 本 総 裁 が
﹁日
文 告 文 を 奏 上 盛 翼
﹂ し た後 梅に 津 司 令 官 が 拝 礼 し
︑ 皇 帝
︑ 東関 軍 司 令 官 順の で 人二 退が 場 し かて
ら ︑
参 列 諸員 拝が 礼 し て
いる
︒ 首 相 た 張る 務国 総 理 は
﹁参 列員 代
﹂表 と し
て ︑
飯 村 関東 軍 参謀 す長 と とも 拝に 礼
し︑
午前 四時
過ぎ
式に 終は 了 し
た ︒
式 次第 見に れら 通る り 関 ︑ 東 軍 令司 官 満は 州 臣国 下 超を 越 主し 権 者皇 帝 に準 ず るも
のと
し 扱て わ
れ ︑
東関 軍参 課 長
―‑ 70 ‑一 一ヤ7 1 ‑
は首相と同格に扱われた ︒儀式責任者は日本の陸軍中将で
あり︑実務者たる日本人神職の長は宮中祭祀を担当してい
た八束である︒ここに 〃独立国〃満州の実態が最も端的に
現れているのである ぅ
満州国の国家神道は関東軍によって 〃創建〃されたもの
であった ︒片倉衷の回想によれば ︑ 一九三七年︵ 昭
︶1 2頃
宮内庁御用掛であった吉岡安直関東軍参謀︵ 当時中佐︶よ
り﹁国民精神崇敬の中心﹂とするために天照大神を祀るこ
とが提起され ︑同年末に満州国政府および協和会中枢部に
おいて議論がかわされることになったと言う︒片倉自身は
﹁建国廟あるいは建国神廟には異論がなかったが ︑祭神に
ついては十分な検討を要すべしとの意見﹂であり︑他の関
東軍幹部の間でも意見が分かれていた ︒これを列挙すると
次のようになる ︒
い 片倉参謀 ︱︱清の太祖 ︑満蒙に因縁ある明治天皇 ︑
天神 ︑日満の忠霊 ︒
0 石原参謀副長︱︱日本人関係は除き︑漢民族の崇敬
する祭神 ︒
0 植田関東軍司令官︱︱各民族共通の神 ︒これが困難
なら各民族それぞれ?郡を選択して合祀 .
ω 士日岡御用掛 ︱︱天照大神 ︒
この祭神問題の議論の中で吉岡案が台頭するのであるが ︑
現人神と八紘一年の思想︵ 島川︶ 片倉志﹁私は賛意を表さなかった ︒日本の神道家からも反
論が出た﹂と述べている ︒﹃満州恩史﹄の解説によれば ︑
●案十 は ︑天神は一般になじみが薄く︑清の太祖愛規覚羅は
清朝の復鮮という印象を与え ︑現帝がその子孫であるとこ
ろから反対された ︒孔子・釈迦・キリスト・あるいは天神
等の日本の神を祀るのは満州国との結びつきが無理である
とされた ︒石原と吉岡を両極として ︑片倉と植田は神々の〃翼賛会〃の結成を目論んでいるわけであるが ︑植田の言う﹁各民族共通の神﹂とはどのような内容を持つものであ
ろうか ︒
とまれ ︑三七年八月には片倉案になる﹃満州国政策進行
に関する要望﹄が総務長官に出され ︑﹁神廟の創建に付⁚
⁝国家目的達成のためその理念を帰一し︑各民族の信仰と
なり真に満州国永遠の生命の中心たるべき中心﹂となるよ
う﹁適切な方策﹂を講じることが要求されている ︒三九年︵ 昭
任︶九梅津東軍司令官着神廟計1 4月関のとにとも︑︑
画は吉岡少将によって推進され ︑翌年六月の皇帝第二回訪日へとつながって行くのである ︒片倉はこれに最後まで反
対であったと言い ︑四〇年七月の自らの日記を示している ︒
﹁今日︑満州皇帝は建国神廟と吉岡少将とを利用し︑そ
の帝位の安泰を図れりというも過言でない﹂
神廟問題は結果として神廟と忠霊廟という形で実現する
!︱定F⁝⁝︱︼よど