九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
史料と人物 V(中津市歴史民俗資料館 分館 医家 史料館叢書 12)
Yoshida, Yōichi
Kurume University : Ass. Professor
Ōshima, Akihide
Kumamoto Prefectural University : Ass. Prorofessor
ミヒェル, ヴォルフガング
Faculty of Languages and Cultures, Kyushu University : Professor emeritus
http://hdl.handle.net/2324/26220
出版情報:2013-03-31. Nakatsu City, Board of Education バージョン:
権利関係:
目
凡例 編者前書き
次
村上玄秀﹁論語聞書﹂ ︵明和六年写︶について 吉田洋一
………﹁雲澤先生痢疾口授﹂に見る医学と医療 大島明秀
………大江億司写﹁動脈一覧図﹂とその背景について ミヒェル・ ヴォルフガング
………﹁明治十二年刊﹃診断図説﹄と大江億司写﹁診断図説 図譜﹂について ミヒェル・ ヴォルフガング
………︻資料紹介︼ ①村上医家史料館所蔵﹁孫子集解﹂
………②松下見林﹃神國童蒙先習﹄
………
③大江雲澤夫婦の金婚式記念写真
………
④潜龍院殿御手跡
………︻目録︼ 村上医家史料館資料目録 第四部 文学
………
Abstracts
︵英文要旨︶
………
索 引
………
1
62 32
85 110
112 116 118 120
135 128
︻凡例︼
一︑底本は村上医家史料館蔵﹁論語聞書﹂︵史料番号 九部︑八七︶︑大江医家史料館蔵﹁雲澤先生痢疾口授﹂︑及び同館蔵 ﹁診断図説 図譜﹂並び に掛幅﹁動脈一覧図﹂を使用した︒
一︑原文の欠字・改行・平出・削除線その他体裁は総じて底本の表記を反映するように記した︒
一︑異体字・略字などは通用する字句に改めた︒
一︑見せケチや削除線は二重線で︑修正前の文字が判読できないほど塗りつぶしている箇所は■︑虫損・破損等で判読不能な箇所は□または
﹇ ﹈にて示した︒また修正がある場合は丸括弧で補足した︒
一︑﹁論語聞書﹂原文の各項目はゴシック体︑その割書︵注︶は明朝体で記した︒また頭注は各丁の最後に付し︑挿入箇所が分かる部分は原文の
直後に︵挿入︶と記した︒
一︑﹁雲澤先生痢疾口授﹂で︑明らかに訓点が通らない箇所もあるが︑原文の表記どおりに翻刻した︒
はじめに
村 上 家 六 代 目 玄 秀( 延 享 二 ・ 一 七 四 五 年 ~ 文 一 五 ・ 一 八 一 八 年 ) に関しては、 既に二〇〇七年度の医学史料叢書により、 その後 半 生 に つ い て 言 及 し
緯 な ど を 瞥 見 し た 妻 に 対 す る 診 療 の 様 子、 息 子・ 玄 水 が 久 留 米 藩 に 留 学 し た 経 解明を試みた。 その結果、 藩出仕の詳細や五代藩主奥平昌高の 、藩 に 出 仕 し て い た 時 期 を 中 心 と し て
1らず依然として不明瞭である。 の 事 績 に 関 し て は 史 料 も 乏 し く、 先 行 研 究 で も 触 れ ら れ て お 。し か し な が ら、 玄 秀 が 藩 に 出 仕 す る 以 前
2そこで本稿では、 村上玄秀が明和六(一七六九) 年に作成し たとされる「論語聞書」 について検討し、 青年期の玄秀の事績 についての解明を試みる。
一、 書誌の検討
「 論 語 聞 書 」は 、表 紙 に 同 名 と 、「 京 師 葛 陂 先 生
語 集 解 聞 書 」と あ り 、そ の 下 に 割 書 で 次 の よ う に あ る ( 図 一 )。 体 の 摩 耗 に よ り 判 別 で き な い 状 態 で あ る 。一 丁 表 の 内 題 に は 「 論 表 紙 の 左 端 に は 、「 当 今 」と 「 当 時 」と い う 記 述 が み え る が 、原 本 自 て い る 。罫 線 入 り の 竪 帳 が 全 二 一 丁 、二 つ 目 で 綴 じ ら れ て い る 。 講 義 」と 記 さ れ
3吉田 洋一 村上玄秀「論語聞書」 (明和六年写)について
図一 「論語聞書」の一丁
(村上医家史料館蔵)。
明年歳次己丑六年冬樞承葛陂先生之凾丈聞其講義維岳□
「己丑六年」
は前述の明和六年のことであり、 その前年、 玄秀 二四才の時に「葛陂先生」 の講義を受けていたことが分かる。 後 表 紙 に は、 「 明 和 六 年 十 一 月 廿 三 日 終 ル 玄 秀 二 十 四 才 」と ある。 これが講義の終了を意味するのか、 玄秀が書写した日付 を記したのかは不明である。 「 葛 陂 先 生 」と は、 当 時 京 都 を 中 心 に 活 動 し て い た 高 葛 坡( 一 七 二 四 ~ 七 六 )の こ と で あ る。 葛 坡 は 中 国 明 代 末 の 反 乱( 崇 禎 の 乱 )を 避 け て 帰 化 し た 明 人 の 後 裔 で、 石 島 筑 波
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( 一 七 〇 八 ~ 五 八 )に 学 び、 京 都 に 講 説 し た。 こ の 頃 京 都 の 詩 文 壇 は 空 前 の 活 況 を 呈 し て い た よ う で、 皆 川 淇 園( 一 七 三 五 ~ 一 八 〇 七 )や 龍 草 廬( 一 七 一 四 ~ 九 二 )ら が 一 堂 に 会 し て い た
村(一七一六~八四) などの名がみえる ( 一 七 二 七 ~ 八 九 )、 中 井 竹 山( 一 七 三 〇 ~ 一 八 〇 四 )、 与 謝 蕪 た 菅 茶 山( 一 七 四 八 ~ 一 八 二 七 )の 行 状 な ど に は、 那 波 魯 堂 当 時 の 著 名 人 が 数 多 く 集 ま っ て い た ら し く、 そ の 一 人 で あ っ 四( 一 七 六 七 )年 頃、 京 都 に 塾 を 開 い て い た と い う。 こ の 塾 は 。葛 坡 は 早 く に 父 を 亡 く し た 後 放 浪 し て い た が、 明 和
5。
6こ の 頃 の 村 上 玄 秀 の 事 績 に 関 し て は 不 明 で あ る が、 葛 坡 が 九 州 を 訪 れ た と は 考 え に く く、 玄 秀 が 京 都 へ 留 学 し て い た と 推定するのが妥当であろう。 二、 「論語聞書」 の内容について
『論語』
は、 学而から堯曰までの二〇篇で構成されているが、 原本の記述箇所は、 学而第一…一丁表~六丁表
為政第二…六丁表~一一丁表
八佾第三…一二丁表~一三丁裏
と な っ て お り、 一 四 丁 表 に「 子 路 第 十 三 」と あ る。 里 仁 第 四 から先進第十一までの語句に関しては注釈らしきものを見い だ す こ と が で き な い。 同 丁 に 顔 淵 篇 十 二 の 語 句 の 注 釈 が 記 さ れ て い る の み で あ る。 そ の 後、 子 路 第 十 三( 一 四 丁 表 )か ら 陽 貨第十七(一九丁表) までは字義の羅列が続き、 判読が困難と な る。 陽 貨 篇 は 二 〇 丁 裏 ま で 記 述 が あ り、 二 一 丁 表 に は、 理 由 は 判 然 と し な い が、 『 春 秋 左 氏 伝 』の 襄 公 二 十 六 年 条 の 備 忘 が ある(図二) 。
一 三 丁 裏 ま で の 箇 所 は、 『 論 語 』の 全 文 に 注 釈 を 付 け て お り、 漢 唐 代 の 注 釈 書 を は じ め、 朱 子 の『 論 語 集 註 』、 伊 藤 仁 斎 (一六二七~一七〇五) の『論語古義』 、荻生徂徠(一六六六~ 一 七 二 八 )の『 論 語 徴 』な ど を 併 用 し て い る。 な か で も『 論 語 徴 』に 関 し て は、 大 部 分 の 箇 所 に 引 用 を 施 し て い る。 引 用 部 分 に は「 徴 ニ 云 」、「 徂 徠( 先 生 )云 」な ど の 記 述 が み え る。 ま た、 徂 徠 の 門 人 で あ る 太 宰 春 台( 一 六 八 〇 ~ 一 七 四 七 )や 服 部 南 郭( 一 六 八 三 ~ 一 七 五 九 )、 板 倉 璜 渓( 一 七 〇 九 ~ 四 七 )ら の 注釈を引用している箇所もみえる。
さらに、 玄秀自身が解釈したと思われる部分もみえる。
を参考にしてその解釈を踏襲していることに対して、 は 和 を 貴 し と 為 す。 …) 」の 句 に 関 し て、 仁 斎 や 徂 徠 が『 礼 記 』 『 論 語 』学 而 篇「 有 子 曰、 礼 之 和 為 貴。 …( 有 子 曰 く、 礼 の 用
「 礼 ハ 礼 論 語 ハ 論 語 ナ リ 和 ガ ナ ケ レ ハ 先 王 ノ 道 モ 一
片ニナルナリ
」
7と 記 し、 『 論 語 』本 来 の 解 釈 を 忠 実 に 把 握 し よ う と す る 姿 勢 が見受けられる。
以下の諸子百家を含めて例示していることに対して、 攻 む る は、 斯 れ 害 あ る の み。 )」 の 解 釈 に 関 し て は、 朱 子 が 老 子 『 論 語 』為 政 篇「 子 曰、 攻 乎 異 端、 斯 害 也 已。 ( 子 曰 く、 異 端 を
「 朱 注 ニ 老 荘 楊 墨 仏 法 ニ マ デ カ ケ ル 非 ナ リ 孔 子 ノ ト
キニハ老子ノミアリ其外ハナシ
」
8と 記 し、 『 論 語 』成 立 期 の 時 代 背 景 を 遵 守 し な け れ ば な ら な いと説いている。
図二 「論語聞書」最終丁の部分
(村上医家史料館蔵)。
おわりに 体の儒学史を概観し論ずる必要があると思われる。 医 学 が ど の よ う に 関 わ っ て い る の か と い う こ と は、 中 津 藩 全 で あ ろ う と 思 わ れ る。 た だ、 玄 秀 の 後 半 生 に 於 い て、 徂 徠 学 と 未 見 の 部 分 が 多 い の で、 現 状 で 結 論 を 出 し て し ま う の は 早 計 がら玄秀自身が「徂徠学派」 であるか否かは、 本人の言及など 徠 学 が 影 響 を 及 ぼ し て い る こ と は 自 明 の 理 で あ る。 し か し な 『 論 語 徴 』の 引 用 が 多 い こ と な ど か ら、 玄 秀 の 論 語 解 釈 に 徂
図三 子路十三(一六丁表)の部分
(村上医家史料館蔵)。
図四 村上玄秀自筆署名
(村上医家史料館蔵)。