1 はじめに
加藤一郎
2 出土埴輪の概要と特徴
五條猫塚古墳の出土遺物というと、5世紀における対外交渉を象徴する豊富な金属系遺物に目を奪わ れがちである。しかし、本書の報告編における「研究の目的」の項目でも触れられているように、埴輪 は五條猫塚古墳が含まれる近内古墳群あるいは紀の川(吉野川)流域の諸古墳などとの関係を整理する 鍵となる重要な遺物といえる。また、五條猫塚古墳の埴輪について上述の諸古墳と比較・検討すること は、日本列島内における集団間関係を検討する基礎にもなりうると思われる。よって、ここでは五條猫 塚古墳の埴輪の特徴について検討を加え、その編年的位置づけを考えた上で、近内古墳群内や紀の川(吉 野川)流域における位置づけを検討するとともに、その意義について考察を加えてみたいと思う。
現在、奈良国立博物館に収蔵されている五條猫塚古墳の埴輪には、円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、
囲形埴輪が含まれているが、以下にこれらの埴輪の特徴について箇条書きでまとめておきたい。
① 窖窯焼成である
② 円筒埴輪は、底径が約 22 ~ 27㎝、第1段高が約 12 ~ 15㎝である
③ 円筒埴輪の口縁部高は報告編の 244 頁第 158 図 19 より約 13㎝であったと推測される ④ 円筒埴輪の口縁部は直立する形状である
⑤ 円筒埴輪の突帯間隔も口縁部高の約 13㎝に近いものと推測される ⑥ 円筒埴輪の外面調整は、タテハケが主体であり、ヨコハケは顕著ではない
⑦ 円筒埴輪の第1条突帯では成形時の指押圧痕や板押圧痕がナデで消されずに残存している ⑧ 円筒埴輪の第1段に透孔を持つものがある
⑨ 円筒埴輪には鰭を持つものがある
以上が、五條猫塚古墳出土埴輪の特徴である。以下では、これらの特徴などをもとにして、その位置 づけについて考えていきたい。
3 出土位置について
埴輪の分析に入る前に、まず、これらの出土位置について確認しておきたい。発掘報告によれば、円 筒埴輪列は墳頂平坦面や墳丘裾において検出されている。また、特筆すべきは竪穴式石槨の北壁から約
1.4 m離れた位置に 25㎝間隔で北壁に平行して円筒埴輪が4個体存在していたという。そして、これ らの円筒埴輪の約 10㎝下方から鉄鏃群、小札甲、帯金具などの遺物が出土したようである。このよう な特殊な役割を付与されていたとも考えられる円筒埴輪の検出状況については今後、注意しておく必要 があろう。
また、囲形埴輪や木樋・木漕形土製品は墳頂部から出土した可能性が高い。こうした埴輪類について は、導水施設などとの関連が推測されるとともに、造出周辺での出土が多い印象を受ける。しかし、青 柳泰介氏の研究などを参照すれば、墳頂部から出土した例も散見される〔青柳 1999〕。そうした事例 としては、岡山県月の輪古墳や群馬県赤堀茶臼山古墳などをあげることができるが、これらの古墳は典 型的な前方後円墳でない点が注意される。円墳や方墳などの中小墳においては、大型前方後円墳におい ておこなわれていた祭式をそのまま実行しようとしても物理的に不可能であるため、変容した形で実行 されていたことを示す点で重要といえる。
4 編年的位置づけ
ここでは、五條猫塚古墳出土埴輪の編年的な位置づけについてまとめておく。まず、前述①の特徴か ら判断して、大阪府誉田御廟山古墳の段階よりもさかのぼることはないと考えられる。なお、通常、窖 窯焼成技術が王権中枢以外の地域に波及するのは、それよりも一段階新しい大阪府大山古墳の段階以降 と考えられるので〔加藤 2003〕、①の特徴からは大山古墳の段階以降と考えるのがすなおである。また、
地域差や系統差もあることから一概には判断できないが、⑥の特徴が王権中枢で顕著になってくるのは 大阪府土師ニサンザイ古墳の段階以降であり、⑦の特徴は大山古墳の段階以降といえる。
なお、これも一概には判断できないが、②の比較対象を示せば、第1段高は奈良県室宮山古墳では 15 ~ 16㎝、奈良県掖上鑵子塚古墳では 15 ~ 17㎝、奈良県近内鑵子塚古墳では 17㎝、大阪府七観古 墳では 13㎝、誉田御廟山古墳では 11 ~ 13㎝、大山古墳では 10.5 ~ 12.0㎝、土師ニサンザイ古墳で は9~ 12㎝、大阪府西陵古墳では 10㎝、奈良県今井1号墳では 10.5 ~ 13.5㎝である。奈良県内では 地域内の脈略で第1段の高いものがみられることを指摘しうる。
また、⑨の鰭を持つ円筒埴輪は、五條猫塚古墳との関連が推測される地域に限っても、奈良県つじの 山古墳、今井1号墳、室宮山古墳、掖上鑵子塚古墳、和歌山県陵山古墳、大阪府西陵古墳などで確認さ れているようである。
これらの特徴を勘案すると、五條猫塚古墳出土埴輪はおおよそ大山古墳~土師ニサンザイ古墳の段階 に位置づけられるものと筆者は考える。
5 近内古墳群内での位置づけ
近内古墳群の変遷については幾つかの先行研究があることから、ここではそれらの研究を参照しつ つ、新たな資料も加味しながら近内古墳群の変遷と五條猫塚古墳の位置づけについて考えてみたい。
近内古墳群は五條市北部の近内町の周囲に存在する丘陵上に分布しており、大型の円墳や方墳を含む
第 228 図 近内古墳群とその周辺
100 基以上の古墳によって形成されている古墳時代中期を中心とする古墳群である(1)。この古墳群の 最大の特徴は、前方後円墳が含まれない点である〔神庭 2005〕。この近内古墳群内の主要な古墳とし ては、近内鑵子塚古墳(円墳:径 85 m)、丸山古墳(円墳:径 37 m)、西山古墳(方墳:一辺 54 m)、
五條猫塚古墳(方墳:一辺 32 m)、つじの山古墳(方墳:一辺 52 m)、塚山古墳(方墳:一辺 24 m)、
青墓古墳(方墳:一辺 38 m)などをあげうる(第 228 図)。
ここでは、まずこれらの古墳の円筒埴輪について概観しておく。なお、近内古墳群の埴輪資料につい ては発掘品ではない採集品も多く含まれることから、その扱いには一定の注意を要することを付記して おきたい。
近内鑵子塚古墳の円筒埴輪は黒斑を持つことから野焼き焼成によるものと考えられ、外面調整は静止 痕があまり明瞭ではないもののBb種と思われるヨコハケがほどこされているようである。底径は 28
1
1 2 3 5 4
6
7 荒
荒 坂 坂 峠 峠 越 越
風 風 の の 森 森
え え
峠 峠 越 越 え え
峠 峠 越 越 え え
重 重 阪 阪
近
近 内内 古古 墳墳 群群
1 五條猫塚古墳 2 近内鑵子塚古墳 3 丸山古墳 4 西山古墳 5 つじの山古墳 6 塚山古墳 7 今井1号墳
0 1:50,000 2㎞
㎝、第1段高は 17㎝、突帯間隔は 13㎝であり、御所市に所在する室宮山古墳や掖上鑵子塚古墳の円筒 埴輪に類似する(第 229 図1)。これらの三古墳については、ほぼ同時期の築造とみてよいと思われる。
この近内鑵子塚古墳の次の段階に位置づけられるのが、丸山古墳と西山古墳である。これらの古墳の 円筒埴輪は窖窯焼成によるもので、おそらくBc種になると思われるヨコハケがほどこされている(第 229 図2・3)。
そしてこの次の段階に位置づけられるのが、五條猫塚古墳(第 229 図4・5)、つじの山古墳(第 229 図6)、塚山古墳と考える。特に五條猫塚古墳とつじの山古墳については、ナデ調整の円筒埴輪が 存在する点、突帯に指押圧や板押圧の痕跡を持つ点〔坂 1991〕、鰭を持つ点など共通する要素が多く、
同一の製作者集団から供給された埴輪の含まれている可能性が高い。なお、つじの山古墳の埴輪には五 條猫塚古墳と似る一群のほかに、胎土に径3㎜前後の砂粒を多く含み、焼成が須恵質となる割合の多い 一群が少数ながら存在する点が注意される(2)。また、塚山古墳については窖窯焼成で外面調整にタテ ハケを主体とする円筒埴輪が確認されており、現状では五條猫塚古墳やつじの山古墳と同時期に位置づ
1
2
3
4
5 7 8
6 10cm
1:6
1: 近内鑵子塚古墳 2・3: 丸山古墳 4・5: 五條猫塚古墳 6: つじの山古墳 7・8: 今井1号墳 第 229 図 近内古墳群周辺の出土埴輪
6 紀の川(吉野川)流域における位置づけ
(1)紀の川流域の埴輪出土古墳
ここでは、五條猫塚古墳との比較という観点から、五條猫塚古墳も該当する紀の川(吉野川)流域に おける中期古墳の埴輪について検討しておきたい。
紀の川流域の中期古墳で一定量の埴輪が確認されている古墳としては、中流に位置する和歌山県橋本 市陵山古墳、下流北岸に位置する和歌山市車駕之古址古墳、茶臼山古墳などをあげうる。なお、いわゆ る淡輪系埴輪が共通してともなうことから大阪府岬町宇度墓古墳、西陵古墳、西小山古墳などが含まれ る淡輪古墳群についても紀の川北岸勢力との関連が指摘されており〔川西 1977、坂・田村 1989 など〕
(3)、これらの古墳の埴輪についてもここでの検討に含めることとしたい(第 231 図)。
(2)紀の川中流域
まず、紀の川中流域にあたる橋本市陵山古墳(円墳:径約 46 m)では、窖窯焼成でおそらくBc種 けられるものと考えられる。
なお、近内古墳群には含まれないが近隣に存在する今井1号墳(前方後円墳:墳長 35 m)の埴輪に ついては、有黒斑のものが存在するという指摘がされているものの〔堤・関川 1980〕、五條文化博物 館所蔵資料には円筒埴輪で第1段高が 10.5㎝や 13.5㎝となるものや鰭などが確認でき、その一部には 胎土や色調などが五條猫塚古墳の埴輪と類似するものがある(第 229 図7・8)。これらのことから、
今井1号墳については五條猫塚古墳より下る時期に位置づけうると判断しておきたい。
これらのことを総合すると、近内古墳群は奈良盆地と紀の川(吉野川)流域を往来する二つのルート である重阪峠越えのルート(紀路、巨勢路)と荒坂峠・風の森峠越えのルートの中央に、室宮山古墳や 掖上鑵子塚古墳と時を同じくして大型円墳である近内鑵子塚古墳が築造されることが嚆矢となるようで ある。そして、その後に重阪峠越えのルート上に丸山古墳と西山古墳がほぼ同時に築造される。さらに、
その後に荒坂峠・風の森峠越えのルート上に五條猫塚古墳、つじの山古墳、塚山古墳という三基の方墳 がほぼ同時に築造される一方で、重阪峠越えのルート上では南下した場所に前方後円墳である今井1号 墳が築造されたという様相を復元しうる(第 230 図)。
第 230 図 近内古墳群周辺における古墳の変遷
荒坂峠・風の森峠越えルート 重阪峠越えルート
丸山古墳
(円墳 :37m)
西山古墳
(方墳 :54m)
五條猫塚古墳
(方墳 :32m)
つじの山古墳
(方墳 :52m)
今井1号墳
(前方後円墳 :35m)
近内鑵子塚古墳
(円墳 :85m)
塚山古墳
(方墳 :24m)
王陵
誉田御廟山
大山
土師ニサンザイ
になると思われるヨコハケを持つ円筒埴輪が確認されており(第 232 図2)、鰭がつく個体(第 232 図3)
も確認されていることが注目される(4)〔河内ほか 1992〕。また、円筒埴輪の口縁部の形状は、ほぼ直 立するものである(第 232 図1)。こうした口縁部の形状や鰭を持つ特徴は五條猫塚古墳の埴輪とも共 通するが、現状では両者に直接的な関係があるとはみなせない。陵山古墳の円筒埴輪は大山古墳の段階 頃かと判断されることから、陵山古墳の埴輪の影響を受けつつ五條猫塚古墳の埴輪が成立した可能性を 考えておきたい。
(3)紀の川下流域と淡輪古墳群
紀の川下流域の木ノ本古墳群やこれらとの関係が想定される淡輪古墳群では、似たような組成の埴輪 が確認されている。すなわち、これらの古墳ではおおまかにみて、淡輪系といわれる須恵器に由来する
五條猫塚古墳
陵山古墳 淡輪古墳群
木ノ本古墳群
和 歌 山 県 大 阪 府
奈 良 県
紀
の
川 大 阪 湾
0 1:500,000 20 ㎞
第 231 図 紀の川流域における中期古墳
1 2
3
4 10cm 1:6
第 232 図 陵山古墳出土埴輪および須恵器
技術を多用する一群(以下、淡輪 系埴輪とする)と王権中枢におけ る古墳の埴輪と同様の一群(以 下、王陵系埴輪とする)の二群が 存在する。なお、これら二群の折 衷的なものや変容したものも存在 するが、そのような細かな差異を 分析できるほど資料が充実してい ないのが現状である。したがっ て、ここでは各古墳におけるこの
大別二群についてみていきたい。
木ノ本古墳群 木ノ本古墳群に属する車駕之古址古墳(前方後円墳:墳長約 86 m)では、王陵系埴 輪と淡輪系埴輪が確認されている。王陵系の円筒埴輪では第1段外面にB種ヨコハケがほどこされ、第 1段高が約 10㎝となる資料の存在が注目される(第 233 図1)。これは後に触れる茶臼山古墳や西陵 古墳における王陵系埴輪と類似する様相といえる。また、蓋形埴輪も確認されており、小栗明彦氏の分 類をあてはめるとすれば立飾部(第 233 図2)がⅡe型式、笠部(第 233 図3)がC3XP型式に分
王陵系埴輪
淡輪系埴輪
淡輪系埴輪 王陵系埴輪
車駕之古址古墳
茶臼山古墳 1
2
3 4
5
6
7 8
50cm
1:10
第 233 図 木ノ本古墳群の埴輪
第 234 図 淡輪古墳群の埴輪
類可能であり〔小栗 2007〕、おおむね大山古墳の段階頃に位置づけうる。淡輪系の円筒埴輪では4条 5段構成のものが確認されている(第 233 図4)。破片資料も含めると、第1段高は 11.0 ~ 13.5㎝、
突帯間隔は 12㎝前後、口縁部高は9~ 13㎝となっており、後に触れる西陵古墳や宇度墓古墳における 淡輪系埴輪と似た様相を示している。
また、同じく木ノ本古墳群に属する茶臼山古墳(前方後円墳:墳長約 45 m前後か)においても王陵 系埴輪と淡輪系埴輪が確認されている。王陵系の円筒埴輪では、第1段外面が斜め方向のハケ、第2段 外面にBc種ヨコハケがほどこされ、第1段高と突帯間隔ともに約 10㎝の個体が確認されている(第 233 図7)。この資料についてもやはり先に触れた車駕之古址古墳や西陵古墳における王陵系埴輪に類 似する要素といえるであろう。一方、淡輪系埴輪での円筒埴輪では、第1段高が 10.0 ~ 14.5㎝、突帯 間隔が 10.0 ~ 12.5㎝の範囲に収まるようであり、こちらも車駕之古址古墳などと似た様相を示してい る(第 233 図8)。
ここで木ノ本古墳群の様相をまとめておくと、淡輪系埴輪と王陵系埴輪のいずれの系統の埴輪も両古 墳で確認されており、どちらもほぼ似たような様相を示すことが指摘できる。淡輪系埴輪におけるタタ キ調整の出現頻度から両者の新古について言及されることもあるが、ナデ消されることがある点や資料 の現状を踏まえるとそこまで判断することはここでは保留しておく。なお、王陵系埴輪ではどちらの古 墳においても大山古墳の段階以降に位置づけうる資料を確認できる点が、淡輪系埴輪の王陵系埴輪との 併行関係を考える上で非常に重要である。
淡輪古墳群 淡輪古墳群に属する西陵古墳(前方後円墳:墳長約 210 m)では、王陵系埴輪と淡輪 系埴輪の二者が確認できる。西陵古墳における王陵系の円筒埴輪では第1段外面がナデ調整で、第2段 外面にB種ヨコハケのほどこされた資料が注目される(第 234 図1)。この資料は第1段高が 10㎝で あり、第1段の外面調整がナデであることも考慮すれば、誉田御廟山古墳の段階までさかのぼることは 考えがたく、大山古墳の段階以降とみるのがすなおである。突帯成形時の指による押圧の痕跡を残した ままの破片がある点もこの推測を裏づけるものと考えられる。なお、おそらく王陵系埴輪に属すると思 われる資料で鰭を持つものがある点も注意される(第 234 図2)。また、淡輪系の円筒埴輪は破片資料
淡輪系埴輪 淡輪系埴輪
王陵系埴輪
西陵古墳
西小山古墳
1
2 3 4
5 50cm
1:10
ばかりでその全体像は不明 であるが、第1段高が 9.5
~ 13.0㎝であることが確 認できる(第 234 図3)。
同じく淡輪古墳群に属す る 宇 度 墓 古 墳( 前 方 後 円 墳: 墳 長 約 175 m ) に お いても、西陵古墳と同様に 王陵系埴輪と淡輪系埴輪の 二者が確認できる。宇度墓 古墳における王陵系の円筒 埴輪の様相は不明である
7 五條猫塚古墳出土埴輪の意義
本稿では五條猫塚古墳出土埴輪の特徴を指摘するとともに、近内古墳群内や紀の川(吉野川)流域に おける位置づけを検討してきた。その結果、五條猫塚古墳出土埴輪の編年的位置づけについては、王陵 系埴輪に属するものではないものの、外面調整、第1段高、成形・整形手法などから判断して大山古墳
~土師ニサンザイ古墳の段階におおむね位置づけられるものと考えた。
また、五條猫塚古墳が属する近内古墳群の変遷を埴輪から検討した結果、近内古墳群は奈良盆地と紀 の川(吉野川)流域を往来する重阪峠越えのルート(紀路、巨勢路)と荒坂峠・風の森峠越えのルート の両者を掌握する形で室宮山古墳・掖上鑵子塚古墳と同時期に近内鑵子塚古墳が築造されることを嚆矢 とすることを示した。その後、近内古墳群では重阪峠越えのルート上に丸山古墳と西山古墳がほぼ同時 に築造され、さらにその後に、荒坂峠・風の森峠越えのルート上に五條猫塚古墳、つじの山古墳、塚山 古墳という三基の方墳がほぼ同時に築造されたようである。このような近内古墳群内における古墳の変 遷と立地の推移を考慮すると、紀の川と奈良盆地を結ぶルートについては主要なルートが常に一定では なく、変化を繰り返していた可能性が考えられる。また、埴輪の検討からは五條猫塚古墳とつじの山古 墳の埴輪が酷似することを指摘した。
続いて、紀の川流域において五條猫塚古墳との関連が推測される時期に該当する古墳の埴輪を検討し た結果、紀の川流域では大山古墳の段階頃に大型古墳が出現し、いずれの古墳にも埴輪がともなうこと を示した(7)。また、紀の川下流域および淡輪古墳群においては、王陵系埴輪と淡輪系埴輪がしばしば 共伴しており、王陵系埴輪の型式から判断してこれらの古墳は上述したように大山古墳の段階頃に位置 づけることが可能である。そうした中で、淡輪古墳群の西小山古墳についてはこれらの古墳よりも若干 さかのぼる誉田御廟山古墳の段階に位置づけうる可能性があることを淡輪系埴輪の検討から推測した。
このことは誉田御廟山古墳を TK216 型式段階とみる筆者の編年観からすると〔加藤 2008〕、西小山古 墳出土の須恵器が TK216 型式段階に位置づけられること〔辻川 2007 など〕とも整合する。特に淡輪 系埴輪の出現については、最古段階となる可能性を指摘した西小山古墳における円筒埴輪の第1段の非 が、形象埴輪が多数確認されている〔土生田 1987〕(5)。一方、淡輪系埴輪では第1段高が 11㎝に復 元できるものや、口縁部高が 12㎝となる円筒埴輪がある〔土生田 1987 など〕。
また、淡輪古墳群に属する西小山古墳(造出付円墳:径約 50 m)では淡輪系埴輪のみが現状で確認でき、
円筒埴輪の第1段高が 15.5 ~ 17.0㎝である(第 234 図4・5)。この第1段高は淡輪系埴輪の中では 非常に高いものであり、第1段高が徐々に縮小していく方向に変化することを考えれば、西小山古墳の 淡輪系埴輪がこれらの中でもっとも古い時期(誉田御廟山古墳併行か)に位置づけうることを示してい る可能性がある。
ここで淡輪古墳群の様相をまとめておくと、淡輪系埴輪が三古墳全てで確認でき、第1段高の類似か ら西陵古墳と宇度墓古墳に共通性が認められる一方で、西小山古墳の第1段高が非常に高い点が特筆さ れる(6)。また、王陵系埴輪では西陵古墳において大山古墳の段階以降に位置づけうる資料を確認でき る点が、淡輪系埴輪の王陵系埴輪との併行関係を考える上で非常に重要である。
常に高い点が、紀の川上流域や奈良県葛城周辺地域における野焼き段階の円筒埴輪(近内鑵子塚古墳、
室宮山古墳、掖上鑵子塚古墳)に由来する可能性があり、紀の川上流域における埴輪生産と紀の川下流 域における須恵器生産とが融合した結果とみることができるかもしれない。
このように考えてよければ、五條猫塚古墳が含まれる奈良県五條市域や葛城地域などの紀の川上流域 が紀の川を媒介として淡輪古墳群や紀の川下流域と密接な関係あったとみることができる。そして、こ の淡輪系埴輪については大分県真玉大塚古墳、福岡県大城大塚古墳、岡山県橋本塚古墳などにおいても 確認されており〔鐘方 2003、辻川 2007〕、そこに紀氏やその同族との関係をみいだす魅力的な見解も 提示されている〔鐘方 2003〕。筆者もその可能性を否定するものではないが、あえて考古学的な事実 を追加するとすれば、埴製枕の考察においても指摘したように(第 10 章1)、紀の川流域を含めてこ れらの古墳の近隣においてはしばしば石や粘土塊や土師器といった素材の枕が使用されることがあり、
こうした素材の枕が使用されている古墳からは韓半島系の希少遺物がまれに出土することを指摘しう る。これらが紀氏やその同族によってもたらされたものかは不明であるが、紀の川流域の諸勢力が広範 囲に活動していたことは間違いないと思われる。
また、淡輪系埴輪はただちに五條猫塚古墳出土埴輪と関連するわけではないが、同じ紀の川流域に位 置し、かつほぼ同時期に帰属することは確実であり、しかも上で指摘したようにその成立には紀の川を 媒介とした奈良県葛城地域との関係も推測されるものである。したがって、五條猫塚古墳の被葬者がこ うした動向と無関係であったとは考えがたい。しかし、五條猫塚古墳では淡輪系埴輪でも王陵系埴輪で もない系統の埴輪を採用しており、あえてそうした埴輪を採用しているとも思える点に五條猫塚古墳の 被葬者の独自性がみいだせる点を強調しておきたい(8)。このことは紀の川を通じて奈良盆地へ往来す る際の交通の要衝となる地を自然と掌握することができる五條という立地の独立性も反映されているも のと考える。
謝 辞 本稿の作成にあたっては、以下の方々や諸機関よりご高配賜った。末筆ながら記して謝 意を表したい。
河内一浩 木場幸弘 辻川哲朗 深澤太郎 前坂尚志 山田俊輔 大阪府教育委員会 宮内庁書陵部 國學院大學博物館 五條市立五條文化博物館 橋本市あさもよし歴史館
第 235 図 本稿において言及した古墳の併行関係
五條 紀の川中流域
丸山 西山
車駕之古址 茶臼山 陵山
西小山
五條猫塚 つじの山 塚山 掖上鑵子塚
今井1号墳
西陵 宇度墓 近内鑵子塚
王陵
誉田御廟山
大山
土師ニサンザイ
葛城 紀の川下流域 淡輪古墳群
室宮山
<註>
(1) 近内古墳群と呼称される古墳のまとまりは、現在の近内町を含む小盆地を基盤とした集団の奥津城という意 味では何らかの関係性を有するといえるが、特定の場所に連続して築造されているわけでも、一つの丘陵上に 築造されているわけでもなく、かなり散漫な分布となることから「古墳群」として認定しうるのかどうか、あ るいは別の設定が可能なのかどうかなど今後の検討課題といえるのではなかろうか。
(2) この一群については、底部付近でケズリがみられることなどから、淡輪系埴輪の影響を受けている可能性も考 えられる。
(3) 淡輪古墳群の被葬者と紀の川北岸勢力との関係については、疑義を呈する意見もある〔河内ほか 1992 など〕。
(4) 陵山古墳出土の蓋形埴輪(國學院大學博物館所蔵)は、大半が復元であり、扱いには注意を要する。なお、辻川 哲朗氏は陵山古墳出土埴輪に輪台技法が確認できることを指摘しているが〔辻川 2007〕、これは誤りであると いうことを私信にてご教示いただいた。私信の公表についてご快諾いただいた辻川氏に謝意を表したい。
(5) 宇度墓古墳からは鰭の出土が伝えられるが〔土生田 1987〕、これについては形象埴輪片であると判断した。
(6) 淡輪系埴輪における円筒埴輪の第1段高が西小山古墳のみ高い状況をどのように理解するかは、西小山古墳 では現状で王陵系埴輪が確認されていないこともあわせて非常に重要な問題である。西小山古墳における淡輪 系の円筒埴輪の第1段高は、淡輪古墳群だけでなく木ノ本古墳群を含めてみても突出した数値である。なお、
この第1段高については和歌山市晒山1号墳出土と推測される円筒埴輪において第1段高が 16 ~ 17㎝で黒 斑を持つ資料が確認できることから〔河内 2013〕、こうした資料の影響下で派生したと考えられなくもない。
ただし、そのように考えた場合、西小山古墳の資料が淡輪系埴輪の中で古く位置づけられることとなり、西小 山古墳を後出させて考える従来の理解〔川西 1977 など〕とは齟齬をきたすこととなるが、そのような位置づ けも考えておく必要があろう。
なお、晒山1号墳の円筒埴輪については、第1段が伝統的に高い奈良県内〔上田 2003〕に所在する室宮山 古墳・掖上鑵子塚古墳・近内鑵子塚古墳の円筒埴輪と類似するようであり、この理解が正しいとすれば紀の川(吉 野川)を媒介とした関係性が推測される。このことは、奈良県の葛城地域における須恵器の流通(奈良県極楽 寺 ヒ ビ キ 遺 跡 と 和 歌 山 県 鳴 滝 遺 跡 出 土 品 と の 類 似 性 な ど ) と も 符 合 す る よ う に み え る〔 木 下 2006〕。
このように考えられるとすれば、葛城地域周辺における野焼き段階の埴輪生産と紀の川下流域に定着しつつ あった須恵器生産とが融合して誕生した淡輪系埴輪の嚆矢としての西小山古墳という位置づけも可能である。
その場合、西小山古墳は誉田御廟山古墳の段階、その他の宇度墓古墳、西陵古墳、車駕之古址古墳、茶臼山古 墳については大山古墳の段階に位置づけられよう。
(7) それ以前の段階においては、埴輪をともなう古墳はあるものの、いずれも中小古墳であったようである〔前 田(編) 1991〕。
(8) なお、このことは、副葬品の内容とは不釣り合いとも思われる方墳という墳形を採用していることとも無関 係ではないと考える。
<引用・参考文献>
青柳泰介 1999 「囲形埴輪小考」『考古学に学ぶ』同志社大学考古学シリーズⅦ 同志社大学考古学シリーズ刊 行会 pp.447-466
上田 睦 2003 「古墳時代中期における円筒埴輪の研究動向と編年」『埴輪論叢』第5号 埴輪検討会 pp.1-32 小栗明彦 2007 「蓋形埴輪編年論」『埴輪論考Ⅰ』大阪大谷大学博物館報告書第 53 冊 大阪大谷大学博物館 pp.153-226
加藤一郎 2003 「関東における中期古墳の円筒埴輪」『埴輪―円筒埴輪製作技法の観察・認識・分析―』第 52 回埋蔵文化財研究集会 pp.228-314
加藤一郎 2008 「大山古墳の円筒埴輪―窖窯焼成導入以後における百舌鳥古墳群の円筒埴輪―」『近畿地方にお ける大型古墳群の基礎的研究』平成 17 年度~平成 19 年度科学研究費補助金〔基盤研究(A)〕研究成果 報告書 奈良大学文学部文化財学科 pp.491-514
鐘方正樹 2003 「円筒埴輪の地域性と工人の動向」『埴輪―円筒埴輪製作技法の観察・認識・分析―』第 52 回 埋蔵文化財研究集会 pp.175-191
川口修実 2004 「車駕之古址古墳第6次調査」『和歌山市内遺跡発掘調査概報』平成 14 年度 (財)和歌山市文 化体育振興事業団 pp.23-51
河内一浩 2013 「紀ノ川流域の古墳時代前・中期の円筒形埴輪」『紀伊考古学研究』第 16 号 紀伊考古学研究 会 pp.21-28
河内一浩・土井孝之・三宅正浩・村田 弘 1992 「紀ノ川流域の中期古墳―木ノ本古墳群を中心として―」『考古 学論集』第4集 考古学を学ぶ会 pp.99-115
川西宏幸 1977 「淡輪の首長と埴輪生産」『大阪文化誌』第2巻第4号 財団法人大阪文化財センター pp.13- 46(のちに 1988「田身輪の首長」『古墳時代政治史序説』塙書房に所収)
神庭 滋 2005 「近内古墳群と葛城」『かづらき』4 葛城市歴史博物館 pp.45-56
木下 亘 2006 「須恵器から見た葛城の物流拠点」『韓式系土器研究』Ⅸ 韓式系土器研究会 pp.51-69 市立五條文化博物館(編) 2004 『市立五條文化博物館資料目録Ⅰ―堤昭二氏収集考古資料を中心に―』
辻川哲朗 2007 「埴輪生産からみた須恵器工人」『考古学研究』第 54 巻第3号 考古学研究会 pp.79-98 堤 昭二・関川尚功 1980 「五条市出土の古墳時代遺物」『奈良県五條市引ノ山古墳群』五條市教育委員会 pp.92-99
和歌山市文化体育振興事業団(編) 1996 『和歌山市内遺跡発掘調査概報』平成7年度 和歌山市教育委員会 橋本市教育委員会・林 勝彦(編) 1974 『陵山古墳発掘調査概報』 橋本市教育委員会
土生田純之 1987 「宇度墓出土の埴輪」『書陵部紀要』第 38 号 宮内庁書陵部 pp.47-54 坂 靖 1991 『近内古墳群』奈良県文化財調査報告書第 62 集 奈良県立橿原考古学研究所
坂 靖・田村 悟 1989 「まとめ」『木ノ本釜山(木ノ本Ⅲ)遺跡』 和歌山市教育委員会 pp.69-72
広瀬和雄 1977 「和泉・淡輪地域における古墳群の動向」『鴻ノ巣山1号古墳発掘調査報告書』 岬町教育委員会 pp.15-30
藤永正明 1981 「西小山古墳」『淡輪遺跡発掘調査概要・Ⅲ』 大阪府教育委員会 pp.56-67 前田敬彦(編) 1991 『六十谷古墳群発掘調査報告書』 和歌山市教育委員会
前田敬彦(編) 1993 『車駕之古址古墳発掘調査概報』 和歌山市教育委員会
前田敬彦(編) 1994 『車駕之古址古墳範囲確認調査概報』 (財)和歌山市文化体育振興事業団
<図版出典>
第 228 図 昭和 44 年国土地理院発行 1:25,000 地形図「五條」を使用して筆者作成
第 229 図 1:〔堤・関川 1980〕より、2・3:〔坂 1991〕より、4・5:本書報告編より、6:筆者実測(五 條市教育委員会蔵)、7・8:〔市立五條文化博物館(編) 2004〕より
第 230 図 筆者作成 第 231 図 筆者作成
第 232 図 1~3:〔河内ほか 1992〕より、4:〔橋本市教育委員会ほか(編) 1974〕より
第 233 図 1:〔前田(編) 1994〕より、2~6:〔前田(編) 1993〕より、7・8:〔和歌山市文化体育振興事業団(編)
1996〕より
第 234 図 1:筆者実測(大阪府教育委員会蔵)、2・3:〔川西 1977〕より、4・5:〔藤永 1981〕より 第 235 図 筆者作成
総括編
発行年月日
2015(平成 27)年 12 月 28 日
発 行
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印 刷
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