は じ め に
年代半ば以降に,日本の大学ではしばしば産学連携の重要性が主張され, 年代には 大学発のベンチャーや
TLO
の設立などがなされた。筆者は以前,戦前戦後の産学共同研究の あり方を俯瞰し,戦前ばかりでなく戦後にも(とりわけ 年代末の大学紛争の時期以前には)産学協同研究がなされたことを論
( )
じた。
本発表においては,戦後の産学連携のあり方を一つの研究所,東京大学の生産技術研究所(生 研)に焦点を当てることで検討する。同研究所が編集し出版していた『生産研究』は同研究所 の研究成果の紹介ばかりでなく,当時の所員の活動や意見などが比較的自由に記述されており,
同研究所と産業界との関係に関しても多くの情報を得ることが可能である。
年の生研の開所から 年代末の大学紛争時期の前後までの時期にわたって,特に産業 界との関係に注意を払いつつ生研の研究活動,制度的仕組み,所員の考えなどを追うことにす る。
* 東京大学大学院総合文化研究科
テーマセッション報告
戦後日本の産学連携
――東大生研を中心に――
橋 本 毅 彦
*は じ め に
生産技術研究所の発足
機関誌『生産研究』に現れる生研の研究活動 年以降の生研における研究
生研と東大紛争 お わ り に
99
生産技術研究所の発足
東京大学の生産技術研究所は,戦時期に発足した第二工学部が戦後になり,再編されて存続 することになった研究所である。第二工学部の学科は,第一工学部とほぼ同様に,土木,船舶,( ) 航空機体,航空原動機,造兵,電気,建築,応用化学,冶金の 学科が設置され,多くの教員 が千葉のキャンパスに着任し,研究教育に従事した。終戦とともに,戦争の要請で発足した第 二工学部の将来について学内で協議がなされ,第一工学部との合併や千葉に理工系大学を新設 する案なども出されたが,学内に新たな研究所を新設することが決定され,それが現在まで続 く生産技術研究所(生研)となった。
生産技術研究所の設立目的は,戦後日本の社会の生産現場の技術向上を目指すこととされた。( ) 戦後日本を統治した
GHQ
の経済科学局は,戦前に創設された航空研究所が戦後の航空研究の 禁止とともに改編されていた理工学研究所と合併することを提案したが,大学側の主張が通り 千葉の敷地に独立の研究所として発足することになった。その開所は 年 月,その 年後 の 年に生研は東京の六本木に移転し,さらに 年にはさらに駒場に移転し現在に至って いる。生研の研究部門は 部に分かれており,第一部基礎分野,第二部機械・船舶,第三部電力通 信,第四部化学・冶金,第五部土木・建築とされ,各部門にいくつかの専門分野が設けられた。
生産現場の技術向上とともに研究成果の実用化試験ということも目標に含まれた。計画として は資源エネルギーを担当する部門とともに,品質管理などを研究する経営分野担当の部門も追 加される予定だったようだが,実現はされなかった。
機関誌『生産研究』に現れる生研の研究活動
発足当初から『生産研究』という機関誌が月刊で出版されるようになったが,その第 号に は著名な関係者――生研所長,東大総長,GHQを代表してハリー・C・ケリー,経団連会長,
工業技術庁長官――からの言葉が発刊の祝辞として寄せられ,戦後日本社会における生産技術 の発展を担おうとする生研に対する期待が語られて
( )
いる。ケリーは大学の使命として後進の教 育があるが,それとともに現在の課題として科学技術の生産への応用が急務であると指摘する。
( ) Takehiko Hashimoto, “Hesitant Relationship Reconsidered : University-Industry Cooperation in Postwar Japan,” in Lewis M. Branscomb, Fumio Kodama, Richard Florida eds., Industrializing Knowledge : University-Industry Linkage in Japan and the United States(Cambridge, Mass. : MIT Press, 1999), pp. 234―251.
( ) 第二工学部の歴史については,東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史 部局史三』(東 京大学, 年), ― 頁,大山達雄・前田正史編『東京大学第二工学部の光芒―現代高等教育へ の示唆』(東京大学出版会, 年)などを参照。
( ) 同書, ― 頁。
( )『生産研究』第 巻第 号, 年 月, ― 頁。
技術と文明 巻 号(160)
100
「原材料不足と労賃の上昇から,工学者の責任は非常に大きい。日本は最大限の工学を原料の すべての グラムに至るまで輸出と国際消費に利用されるようにせねばならない」と述
( )
べる。
生研所長の瀬藤象二は講演で,産業界の生産現場と結びつく研究として 種類の研究がある と述べる。第一は,大学研究所が企業の研究所に代わって行う基礎研究,第二は大学に所属す る多くの専門分野の教員の協力による「総合研究」,そして第三は大学での研究成果を生産現 場で実施するための準備となる実用化のための試験である。第一の種類の研究については,次 のように述べる。
一件卑近と思われる問題でも,これを仔細に検討すると,既存の知見のみで片づかず多く の新しい研究を必要とするものである。我々は生産の実際問題の中から特に緊要なものを 取り上げて,所謂オッツケ仕事でなく,最も合理的に解決することを目標とする。( ) 第二の総合研究については次のように述べ,そのための組織の設置計画にも言及する。
生産の技術的問題を真に学理的且つ経済的に解決するには,多数の専門分野の研究者がそ の智能を総合して研究することが必要である。我々の研究所には各種の専門家が揃ってい る[が,]問題によっては本郷の各学部並びに駒場の理工学研究所等の本学内の諸機関のみ ならず,学外の研究者や技術者にも協力を求める必要が生ずる。そのために生産技術研究 所商議会,連絡会議,協議会等を設けることを予定している。( )
そして第三の実用化試験については,次のように述べる。
実験室における研究の成果を実際の生産現場で実施するためには,中間規模の試験を経る 必要がある。而してこの試験を生産現場で行うことは多くの場合得策でないのである。何 故ならば,それ等は多くの新しい工程や新しい処理を含み,従って各工程中に新しい測定 技術による綿密周到な観測を必要とするからであって,これを遺漏なく行うには研究所内 に中間工場を設け,研究者自身がその観測を連続的に実施して不完全なところを補い,現 場担当者に指示を与え得るまでの経験と,工業的規模で実施するための装置を設計するに 必要な資料を得なければならないのである。我々の研究所は土地も広く,建物にも或程度 の余裕があるから,これを利用して所内で実用化試験を行い
( )
得る。
この第三の中間規模の試験に関しては,化学技術を専門とする所員の一人福田義民がその研 究開発上の意義を述べている。
一般に化学関係の新製品乃至は実験室的研究は二つの立場から行われる。その一つは各種 の原料物質と,それに課すべき温度,圧力その他の条件を求める工業化学的方法であり,
( ) Harry C. Kelly, “Industrial Science Education”『生 産 研 究』第 巻 第 号( 年), 頁。ケ リーについては次の伝記がある。吉川秀夫『科学は国境を越えて―ケリー博士評伝』(三田出版会,
年)。
( ) 瀬藤象二「生産技術研究所の使命」,『生産研究』第 巻第 号, 年, 頁。
( ) 同上。
( ) 同上。
戦後日本の産学連携(橋本)
101
他はその成果を多量生産に移して工業化するための化学工学的方法である。しかしながら 後者の立場からしてもまだ理論や計算のみによって多量生産の問題を全面的に解決できる とはかぎらないのであって,むしろ解決不能の部分がはるかに多いという現状である。従っ て新規の生産方式を工業化する前提として,少なくとも原則として工業的量産設備のあり 方を推断するのに必要な中間試験的研究が不可欠となるのである。もちろん,既存の工業 的設備からの類推によって問題が解決される場合も少くはない。……しかしながら,それ だけで総ての場合を処理するには化学的現象はあまりにも複雑多岐であって,……現実的 には新規生産方式を工業にまで展開せしめる基盤は原則として中間試験の他にはないので
( )
ある。
そのような中間試験,試作機の開発について,以下のようなテーマが研究所の設立以降の数 年間で進められた。
脳波記録装置の中間生産(糸川英夫)
新型高精度微分解析機の試作(山内恭彦)
小型超高速度カメラの製作(植村恒義)
逆張力引抜機械の試作及(鈴木弘)
時計歩度の電気的測定装置(高木昇)
超音波探傷器及び厚味計(高木昇,丹羽登)
ラジオアイソトープ
C
を含有する医療用合金の製造(加藤正夫)
試験溶鉱炉での酸素製鉄の研究(金森九郎)
高粘性アルギン酸の製造研究(高橋武雄)
魚油等より乾性油を製造する研究(増野実)
軽量不燃書庫の試作(星野昌一)
地上写真測量用図化機械の改良(丸安隆和)
例えば,この中の金森九郎による試験溶鉱炉での研究は,小型のキューポラを利用したもの だが,研究室は八幡製鉄(現新日本製鉄)と協力し,同社の施設を利用して共同実験などを行っ た。八幡製鉄では トン規模の試験溶鉱炉を建設して試験を行ったが, トン試験炉は規模は 小さいがそれでも 人の操業人員を必要とし建設費だけでなく操業費も大きなコストがかかっ ていた。しかしそれより小さい溶鉱炉は保熱に十分な対策がとられないと難しいと考えられた。
そこで生研では高周波誘導電気炉を小型溶鉱炉の保熱用として活用し,通常難しいとされてい た トン以下の規模である トンの試験溶鉱炉を構内に建設し,製鉄技術の改良を目指した研 究がなされるようになったので
( )
ある。企業で利用された試験炉より小さく,大学で製造された 電気炉よりは大きい。 トン試験炉などは,今日の目からすればかなり生産現場に近い試験研 究のように思われるが,当時広い敷地をもっていた生研にとっては,生産現場と大学を結ぶ「中 間試験」の意図と目的によく沿ったプロジェクトだったと言えよう。
生研の生産技術研究所協議会が設置され, 年 月に最初の会合が開催された。委嘱委員 は学内と生研の教員とともに,他大学の学識経験者,また産業界から日立製作所,日本製鋼所,
三菱重工業などの企業や日本海事協会からの代表が務めた。会合では総合研究の振興,生産現
( ) 福田義民「論説:中間試験」,『生産研究』第 巻第 号( 年), 頁。
( ) 金森研究室「 トン試験溶鉱炉の建設について」,『生産研究』第 巻第 号( 年), 頁。
技術と文明 巻 号(162)
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場との緊密な連絡,製造業界代表者からの鋼材やアルミの改良の要望などの意見が出さ
( )
れた。
また生研代表からは,総合研究の課題として,アルミニウム,電子顕微鏡,精紡機の高能率化,
製塩副産物の利用などのテーマについて「共同研究班」が立ち上がって共同研究に着手されて いることが報告された。
半年後に第 回の協議会が開催されたが,そこでは研究所への助成機関の必要性,法人組織 か会社組織の設立を要望する意見が出さ
( )
れた。第 回の協議会ではそのような助成機関の設立 が議題として検討された。詳細は記されていないが,GHQとの関係で設立が困難視されてい たが,そうではないことが判明したとされて
( )
いる。その後,そのような助成機関として財団法 人生産技術研究奨励会が正式に設立された。 年にはこの奨励会が十分に確立されたとして,
生研の発展を検討してきた協議会の機能は奨励会に移行され,協議会は解消されることに
( )
なった。
外部の助成機関の設立にあたっては,企業からの委託研究の経理の扱いとの関連でも要望さ れていた。第 会の協議会開催後に『生研研究』に寄せられた論説文にその事情を見ることが できる。上に引用した中間試験に関する論説を書いた福田は,「委託研究の制度について」と 題する記事でそのことを述べている。工学と工業とを結びつける研究として,
しかし委託研究については,今後解決すべきいろいろな難点がある。その最大のものは研 究費の経理に関する問題である。すなわち,委託研究費はすべて一旦国庫に納められてか ら,一般国費の歳出と同じ方法により支出され経理され,そのために……幾多の不便があ る。これらの不便があるために,ともすれば公式の委託研究にせずにいわゆる内職的な研 究を好むことになるが,筆者としては外部の委託研究は,あくまでも公式の委託研究とし,
上記の諸種の不便は,別の方法によって明朗に解決すべきであると考える。そのためには 適当な外郭団体を合法的に作ることが必要となってくる。( )
福田がここで「不便」としてあげているのは,とりわけ補助研究員への謝金の支払いと,会 計年度の枠組みへの拘束である。福田が寄稿した号は委託研究の特集号になっており,そこに はいくつかの事例が論文として掲載されている。また同号には事務部からの説明も載っており,
そこでも生研で遂行されてきている代表的な委託研究や中間試験の事例を紹介しているが,そ れとともに企業側からの質問に答える形で,研究成果の秘密の保守と公表の原則について次の ように記している。
当所受託規定では,委託者の希望がある場合は,研究成果の公表猶予年限を研究完了後 年迄と定めてあります。これは国立研究所としての性格上の要求と委託者の希望とを考慮
( )「生研ニュース」,『生産研究』第 巻第 号( 年), ページ。
( )『生研研究』第 巻第 号( 年), 頁。
( )「生研ニュース」,『生産研究』第 巻第 号( 年), 頁。
( ) 福田武雄「生産技術研究所 年の歩み」,『生産研究』第 巻第 号( 年), 頁。
( ) 福田武雄「委託研究の制度について」,『生研研究』第 巻第 号( 年), 頁。
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して定めたものであり
( )
ます。
この早い時期に定められた委託研究(受託研究)の制度については,『東大百年史』にも 年に「全学にさきがけて東京大学生産技術研究所受託規定を制定し厳格に運用してきた」と記 されている。( )
年以降の生研における研究
年に連合国による占領体制が終了すると,生研の研究体制にも変化が現れてきているよ うである。その変化は,『生産研究』のページにも現れている。生産技術への貢献ということ ばかりでなく,より自由な研究に関心が向けられるようにもなったように思われる。 年 月号で企画されたのは「難問特集号」というテーマだった。その号には, つの分野の専門家 から 本の論文が寄稿され,各分野における難問題が開陳されている。また所員に尋ねた結果 をリストにした「難問題一覧表」には, の回答が挙げられている。その一部を表( ) ― として 掲げた。溶接現象の解明やコールタールの未利用成分の利用,などといった分かりやすい課題 を含め,生産現場と直接間接に関係する困難な問題が列挙されており興味深い。
生産技術研究所は,英語名称が
Institute of Industrial Science
という。生産技術研究所であ れば,Institute of Industrial Technologyが日本語名称に対応した英語名称に思われるが,そ うではなくScience
が名称に使われている。この英語名に関しては,応用数学者だった山内恭 彦が強く主張したと伝えられている。航空研究所が解消されて新設された理工学研究所との役 割分担から生産現場との協力関係が研究所の目標に据えられたが,内部の所員の中には基礎研 究を志向する意向も潜在していたことが伺( )
える。
年代の半ばに生研内で大きなプロジェクトとして成長していくのがロケットの研究開発 である。戦前から航空工学を研究していた糸川英夫を中心として, 年 月に「航空電子工 学および超音速航空工学連合研究班」が結成され,翌年に研究活動を開始, 年にはペンシ ルロケットと呼ばれる センチの発射実験を所内で行い,同年のうちに秋田県道川海岸におい てペンシルロケットとともに全長 .メートルのベビーロケットの打ち上げに成功
( )
した。その 後 年には高度 キロメートルに達するラムダ 型のロケットを打ち上げるに至っている。
約 年のうちに十分実用性を有するロケットを開発するまでになったのである。
年ほど続いた観測用ロケットの研究開発事業は, 年から新設された宇宙航空研究所に 移管され,生研内でのロケット開発研究は幕を閉じることになる。また 年にはそれまでの
( ) 生産技術研究所業務部「技術の開拓―研究委託の道しるべ―」,『生産研究』第 巻第 号,
頁。
( ) 前掲『東京大学百年史 部局史三』 頁。
( )『生産研究』第 巻, 年, 頁。
( )「OB座談会『生研の生い立ち』」,『生産研究』第 巻第 号( 年), 頁。
( ) 前掲『東京大学百年史 部局史三』 ― 頁。
技術と文明 巻 号(164)
104
千葉のキャンパスから麻布の敷地に所在地を移すことになり,敷地面積も大幅に縮小すること になった。 年を境に生研の研究活動の様子やあり方も大きく変わったことが想像される。
『東大百年史』は,ロケット開発研究が終了した後,生研に「一種の空白感」が感じられたと して
( )
いる。だがまたこのような大型共同研究に発展せずとも,専門の分野での各研究が「地道 表― 難問一覧表の一部
専 門 分 野
又 は 氏 名 題 目 内 容
応 用 光 学
(久保田 広) 無色透明の偏光板
吸収のない偏光板(Polaroid)がほしい。Polaroidの発明によりニ コルが不要になり偏光の研究と利用に一大恩恵を与えたが,これ は沃素系結晶の二色性を用いているので特有の吸収がある。ニコ ルのように無色透明な偏光板が得られたらと思う。
( 岡 本 舜 三 ) 路面の凹凸の表現方法 橋の振動を研究する目的で橋面舗装面の凹凸を実測した。これを どんな具合に表現すべきか。
材 料 力 学
(大井光四朗) 材料の疲労の機構
材料にある程度以上の力を繰返して与えると材料はこわれてしま うが,その途中で材料の実質がどんな変化を受けているのか不明 である。こまかい破れ目ができる等では説明しきれないものがあ る。
音 響 学
鳥 飼 安 生 楽器の性能向上
例えばヴァイオリンをとって見ると古来名器といわれているもの を凌駕するものを作り出すことは不可能とさえいわれている。ま して大量生産で,材料も合成材料を用いてこれを製作することは 難中の難であろう。
応 用 物 理
( 富 永 五 郎 ) 真空排気機構
真空装置を取扱うと誰でも気付くことであるが,真空漏りがなく とも真空度は思いの外よくならない。これは容器の壁がガスを出 すためであるとされ,また実際この時の残留ガスを質量分析計で しらべてみると水,炭酸ガス等がかなり多いことがわかる。とこ ろがこの水がはじめどのような形で器壁に附着していたか,或は 吸着していたかがよくわからない。したがってこれを減らす工夫 も現在では加熱する程度しかない状態である。
応 用 物 理
( 小 川 岩 雄 ) 真空蒸着の条件の制御
レンズの反射防止膜のコーティングなどを始め,吸着現象の研 究,電子顕微鏡の試料の作成などに広く用いられる真空蒸着の操 作中,とくに蒸着源の加熱の条件を一定にできればまことに好都 合なのだが,現状は概ねカンと経験によっているだけである。
自 動 制 御 システム工学の確立
応用数学,電子管工学,油圧・空気回路,機構学,計測工学から 近代生産工業設備とその経済的管理までを新しい自動化という見 地から総合し,これまでになかったシステム工学へまとめ上げる こと。
( 高 橋 安 人 ) 自己相関画数の簡単な 計算法又は計算機
「路面凹凸の表現法」の一つは,それを定常ランダム波動とみて スペクトル密度分布で表わすにあるかと思う。同じような要求は 自動制御方面にもたくさんある。このスペクトル密度を手軽に求 める方法があると,実在系の諸問題算定が非常に助かるだろう。
出典:『生産研究』第 巻, 年, 頁。
戦後日本の産学連携(橋本)
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ではあるが休むことなく継続していた」とも記して
( )
いる。
生研と東大紛争
その直後, 年から東京大学で大学紛争が巻き起こる。『東大百年史』は当時の生研での 事情について次のように記している。「生研は別地域にあるため物的な影響は全然受けなかっ た。また 名に近い工学系の大学院学生を擁していたが,大学院生はストライキに参加しな かった。しかし,もちろん生研も東大の有力な部局である。教職員のすべてもその紛争の波を か
( )
ぶった。」
翌 年 月に報告された東京大学の大学改革準備調査会の報告資料では,産学協同という ことが問題として取り上げられ,「学問本来の要請」からの逸脱は避けねばならないこと,特 定の企業の利益だけになることによって学問の自律性が失われたり,「研究者の頽廃」が起こっ たりしてはならないことが記されている。産業界との協力や相互関係を積極的に発展させてき( ) た生研にとって,大学紛争とそれに伴う大学改革は,大きな影響を与えたことと思われる。
『東大百年史』は上述の文章に続けて,「生研と東大紛争」という節を一つ設け,『生産研究』
に掲載された記事を 篇紹介して
( )
いる。そのうちの一編が, 年 月には生研の設立 周年 で開催された「生研の進むべき道」と題される座談会の記録である。そこでは「大学の非常事 態」に集まった 名の所員の真剣な議論の様子が記録されている。
座談会では大学の付置研究所の性格や使命が語られ,自由な学問研究の性格,無目的である べきか,多目的であるべきかなどが議論される。話題が開発を志向する研究に及び,建築技術 が専門で生産技術史も担当していた村松貞二郎が次のように述べている。「開発研究というの は産業界の要請にペッタリくっついているものだろうか。むしろこれからは,……たとえば環 境の改善とか,公害の問題など,むしろ業界が煙たがるものでも,大学なり,こういう研究所 なりで開発段階まで研究すべき,むしろ義務がある。そういう意味での開発があり得ると思う のです。[その意味で]基礎だけでなくても開発まで考えるべきだということは納得できるの じゃないかと思い
( )
ます。」
実際その後 年から数年間にわたって,生研で「都市における災害・公害の防除に関する 研究」という課題で大型プロジェクト研究が始められた。大学の内外の状況を反映したプロジェ クトの課題選定だったように思われる。 年と 年には,その大型プロジェクトの成果を紹
( ) 同書, 頁。
( ) 同書, 頁。
( ) 同書, 頁。
( ) 大学改革準備調査会『大学改革準備調査会第一次報告書』 年 月,東京大学文書館, 頁。
前掲 “Hesitant Relationship Reconsidered,” pp. 246―247に同報告の産学協同に関して論じる箇所を 英訳して引用した。
( ) 同書, ― 頁。
( ) 鈴木弘他「生研の進むべき道」,『生研研究』第 巻第 号( 年), 頁。
技術と文明 巻 号(166)
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介する特集号が『生産研究』で組まれて
( )
いる。この 年間の第一次プロジェクトに続き,
年から同様の「都市機能の防護」という課題で第二次の ヵ年プロジェクトが着手された。そ れまでも環境問題を専門としてきた所員の武藤義一は,第二次プロジェクトの最終年度で,プ ロジェクトの概要を医療との関連での比喩を使いながら,災害・公害を受け難い都市システム の開発(健康管理と体質改善),災害等を受けたときの都市機能の最適制御(予防医学),災害等 を受けた都市の機能回復の最適手段の開発(診断と治療)という三大テーマに分けて総合研究 を所内の各部門の専門家と協力しつつ進めてきたと説明して
( )
いる。
災害・公害対応の大型プロジェクトは 年度に終了したが, 年度からは「省資源のた めの新しい生産技術の開発」という研究プロジェクトが ヵ年の大型プロジェクトとして着手 された。( )
お わ り に
冒頭に述べたように,別稿において戦後日本の産学連携のあり方について,戦後,大学紛争 後, 年代以降という つの時期に分けてその推移を論じたが,その際には東京大学百年史 資料室に保存されている史料を参考にした。本稿においては,生研が編集出版した『生研研究』
に現れた多数の多様な記事を参照し,生研という大学の 部局が経験した産学連携のあり方の 推移を俯瞰してみた。
『生研研究』を通覧することにより,戦後に生研が経験してきた道のりが,当時の所員の率 直な意見とともによく見ることができる。生研は創設時から大学での技術の研究を産業界に還 元することを強く求められてきた大学の研究機関であり,産学連携ということについては,前 稿で論じた推移をより増幅するような形で体験し,体現してきたように思われる。
ちなみにその後の『生研研究』のページを括ると, 年代半ばから産学共同のあり方を見 直し,強化すべきだという論調の記事が掲載されるようになる。 年には米国のマサチュー セッツ工科大学における産学共同のあり方が調査され,同大での産学連携のプログラムやメ ディアラボなどが紹介されて
( )
いる。また 年には生研奨励会の理事を務めていた富士通ファ ナック社長の稲葉清右衛門が産学連携について記事を寄稿し,今後も技術的リードを保ってい くための方途が語られている。効率的でタイムリーな基礎技術の開発,技術が総合されたシス
( )『生産研究』第 巻第 号( 年),同第 巻第 号( 年)。
( ) 武藤義一「大型研究『都市機能の防護』の成果と今後の期待」,『生産研究』第 巻第 号(
年), 頁。終了後に執筆された武藤の記事には,所内でもこのようなテーマの大型プロジェクトの 遂行に賛否両論あったことを述べている。武藤義一「都市機能の防護に関する大型研究の ヵ年を終 えるに際して」,『生産研究』第 巻第 号( 年), 頁。
( ) 石原智男「『省資源』大型共同研究の終了に当たって」,『生産研究』第 巻第 号( 年),
頁。
( ) 生駒俊明「マサッチュセッツ工科大学(MIT)における産学協同体制について―生研における産 学協同の一考察―」,『生研研究』第 巻第 号( 年), ― 頁。
戦後日本の産学連携(橋本)
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テム技術への対応が課題としてあげられ,それに対する方策として企業内教育の充実とともに,
「これまで必ずしも十分ではなかった産学協同の各種の行為が,これからは一層重要なものと して位置付けされてくるものと思われます」と結んで
( )
いる。 年代には国際産学共同研究セ ンターも設立され,産学協力は比較的積極的に進められてきている。
ただその一方で,大学紛争後に進められた災害対応のプロジェクトのように,より広い社会 への還元を志向した環境問題や都市問題などに関わる研究プロジェクトも大きな柱として確立 してきたことを指摘できよう。
( ) 稲葉清右衛門「産学協同とこれからの日本経済」,『生研研究』第 巻第 号( 年), 頁。
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