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スィック教創始者グルー・ナーナクの肖像画の成立と展開

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研究ノート

スィック教創始者 グルー・ナーナクの 肖像画の成立と展開

―植民地期における変容とその社会的役割―

池田篤史

1 はじめに

1-1 本稿の目的

今日、スィック教1創始者グルー・ナーナク(Guru Nanak)(1469!

1539)2の肖像画は非常に人気があり、スィック教徒3たちの家庭や店先 などの壁をはじめ、寺院の壁にも見ることができる4(写真1,2)。し かし、スィック教の歴史上の教主たちは偶像崇拝を行う者たちを批判し ていたため、スィック教では偶像崇拝は禁止されていると言われる。そ れではなぜ現代のスィック教社会においてグルー・ナーナクの肖像画は 壁に掛けられているのであろうか5。その理由を解明するため、本稿は そういった肖像画を壁に掛ける習慣の起源を英領植民地期に求めるとと もに、これら壁に掛ける肖像画がスィック教徒たちのアイデンティティ の独自性と多様性を表現しており、様々な派閥に属していたスィック教 徒たちを社会的に包摂する役割を担っていたことを明らかにするもので ある。

執筆者紹介

いけだ あつし ●株式会社メンバーズ ソーシャルアート部門 専攻分野:南アジア美術史

・池田篤史、2012、「北インド丘陵地域における絵画工房の新展開 一七三〇年制作

『ギータ・ゴーヴィンダ』組絵を中心に」、『美術史』、172、208!223頁

・キーワード:スィック教、肖像画、植民地主義、パンジャーブ、物質的宗教

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1-2 研究の背景

初めに、スィック教美術の舞台となるパンジャーブ(Punjab)6地方 の美術の動向について概観しておこう。19世紀以前のパンジャーブ地方 では、丘陵地帯のラージプート諸国でパハーリー(Pahari)派と呼ばれ 写真1:グルー・ナーナク・ダールバール(Guru Nanak Darbar)寺院、ラージ

プラー(Rajpura)、インド・パンジャーブ州、2010年に筆者撮影

写真2:あるホテルの受付、インド・パンジャーブ州、2010年に筆者撮影

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る細密画が描かれた。パハーリー派の画家たちの中には、丘陵地帯に勢 力を拡大していたスィック教徒の領主たちのために、スィック教や スィック教徒を主題とする絵画を制作する者たちもいた[Goswamy

1999]。19世紀前半のスィック王国には、これらの丘陵地帯出身の画家

たちに加えて、多くの地元の画家たちが活躍していた。例えば、イマー ム・バークシュ(Imam Bakhsh)に代表される工房の画家たちは、マ ハ ー ラ ー ジ ャ ー・ラ ン ジ ッ ト・ス ィ ン グ(Maharaja Ranjit Singh)

(1780!1839)の宮廷に仕えた、イギリス人やフランス人の将校を描いた ことで知られる7。一方、19世紀を通じて、ヨーロッパから多くの職業 画家とアマチュア画家がパンジャーブ地方を訪れ、地元の人々の生活を 民族誌的な目的で記録した[Aijazuddin 1979, 1999]。彼らの作品はオリエ ンタリズム的な視点から制作されたものもあるが、ポストカードなどの 媒体を通じてインドのありのままの姿を本国の家族や友人たちに伝える ものもあった[Stevenson 2013]。

19世紀後半になると、1875年のメイヨー美術学校(Mayo School of Arts)の設立に代表されるように、パンジャーブ地方の美術における ヨーロッパの影響はより直接的で顕著なものとなる。メイヨー美術学校 は、1839年のカルカッタ(Calcutta)、1850年のマドラス(Madras)、1851 年のボンベイ(Bombay)に続いて亜大陸で四番目に建設された西洋式 の美術学校であった[Guha Thakurta 1992 : 60, Mitter 1994 : 29!62]。同校は 当時の劣悪な芸術環境への不満を訴えるベイドゥン・パウエル(Baden Powell)(1857

!

1941)卿の報告書に基づいて設置されたもので、その方 針としてサウスケンジントン(South Kensington)方式の美術教育を用 いた産業美術の振興が謳われていた。しかしながら、伝統的な美術制作 を担っていた在地の職人カーストは保守的であったために入学を拒否さ れた一方、教師たちは低カースト層の未熟な英語力に苦慮した。イギリ ス人教師たちは、土着の芸術に対しては美術作品としての価値を認めず、

工芸品でしかないと見做したため、同校の学生たちは主に素描の訓練を 受けるといった教育内容の特徴が見られた8[Tarar 2003 : 23!24, 2011]。

1-3 問題の所在

従来の南アジア美術の研究では、多様な文化が混在するパンジャーブ 地方の地域的重要性にも拘わらず9、パーキスターンの国民的画家アブ

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ド ゥ ル・ラ ハ マ ー ン・チ ュ グ タ ー イ ー(Abdul Rahman Chughtai)

(1894!1975)に関する研究を除いて[Guha Thakurta 1992, Dadi 2010]、パ ンジャーブの植民地美術に関する研究が十分にはなされてこなかった。

これには二つの理由が考えられる。第一に、パンジャーブ地方は1849年 に東インド会社の統治下に入ったが、これはインド全土の中では最も遅 くに併合された地域でもある。したがって、イギリス人パトロンのため に制作された作品の数が他の地域に比して非常に少ないことが指摘でき る。第二に、研究者の関心が王侯貴族の庇護下で発展した芸術活動に 偏っていたことが挙げられる。イギリスの統治下にあった地域全てに当 てはまることだが、植民地期以前に芸術庇護の主な担い手であった土着 の王侯貴族の多くが植民地期に没落した。そのため、以後に行われた土 着の造形活動に注意が払われてこなかった。

以上の状況を踏まえ、本稿では植民地期パンジャーブで新たに形成さ れた都市中間層による芸術庇護に着目する。植民地期パンジャーブにお ける在地のパトロンの存在は長い間ヴェールに包まれてきた。イギリス による植民統治は、パンジャーブ地方の様々な宗教や民族を横断して中 間層を形成した[Oberoi 1994 : 260!262, Sohal 2008]。彼らは主に資本主義 経済の導入によって新たに生まれた職業に就き10、土着の画家を雇用し て伝統的な主題での作品制作を依頼したのである。このような社会状況 の下で制作されたパンジャーブ地方における植民地美術の中でも、本研 究が注目するのは、スィック教徒たちの美術である。というのも、この 頃にスィック教創始者グルー・ナーナクの肖像画は壁に掛けられるよう になり、社会を構成するアクターの一つとして、新たに社会的役割を担 うようになったと考えられるからである11。新興の都市中間層は西洋文 化の受容に積極的であった。そして、絵を壁に掛けるという習慣も、い わば西洋文化の一部として取り入れられたと推測しうるのである12

1-4 本稿の構成

本稿の構成は以下の通りである。初めに「2.スィック教の聖典にみ る偶像崇拝に関する記述」では、スィック教の聖典『グルー・グラン ト・サーヒブ』における偶像崇拝に関する言説を抜粋し、スィック教に おいて偶像崇拝がどのように批判されてきたかを明らかにする。なぜな ら偶像崇拝として禁止された対象が石の像とみなされたことが、逆に、

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スィック教創始者を紙などの平面に描くことを許容する土壌になったと 考えられるためである。続いて、実際にグルー・ナーナクがどのように 描かれたのかを、「3.説話画におけるグルー・ナーナクの図像」と

「4.植民地期以前のグルー・ナーナクの肖像画」で論じる。グルー・

ナーナクの聖人伝である『ジャナム・サーキー(Janam-sakhi)』の説話 画と、18世紀から19世紀前半にかけて、パンジャーブ地方や亜大陸内の 他の地域で制作されたグルー・ナーナクの肖像画を取り上げ、その図像 的・形式的な特徴について明らかにする13。続いて「5.植民統治に対 する土着のコミュニティの反応」では、19世紀後半から20世紀前半にか けてのイギリスによる植民統治と、それが在来のコミュニティに及ぼし た影響を概観し、それと関連づけながら、壁に掛けるグルー・ナーナク の肖像画が成立した背景を論じる。次に「6.植民地期におけるグ ルー・ナーナクの肖像画」において、19世紀後半から20世紀前半にかけ て制作された肖像画を取り上げ、その図像の形式的特徴を分析するとと もに、それらの肖像画の鑑賞方法やパトロンについても考察する。最後 に「7.グルー・ナーナクの肖像画の社会的役割」では、植民地期にグ ルー・ナーナクの肖像画が壁に掛けられるようになった意義について考 察しつつ、それらの肖像画で正面観と四分の三面観が共に用いられたこ とに着目し、グルー・ナーナクの肖像画が様々な派閥に属していた スィック教徒たちを社会的に包摂する役割を担っていたことを明らかに する。

2 スィック教の聖典にみる偶像崇拝に関する記述

本稿は植民地期にグルー・ナーナクの肖像画が壁に掛けられるように なったことを明らかにしようとしているが、この事象は偶像崇拝を禁止 していると言われるスィック教の教義とどのように関連するのであろう か。スィック教の聖典『グルー・グラント・サーヒブ』は第五代教主ア ルジャン(Arjan)が編纂した『アーディ・グラント(Adi Granth)』

の第二版として知られる[Kapoor 2003 : 139]。『グルー・グラント・サー ヒ ブ』は 第 十 代 教 主 ゴ ー ビ ン ド・ス ィ ン グ(Gobind Singh)(1666!

1708)が『アーディ・グラント』に対して自らの詩、および父である第 九代教主テグ・バハードゥル(Tegh Bahadur)(1621

!

1675)の詩を付 け加えて完成したとされる。この聖典の大きな特徴はスィック教の歴代

(6)

教主たちの 詩 だ け で は な く、カ ビ ー ル(Kabir)を 始 め と す る ヒ ン ドゥー教の苦行者やムスリムの聖者の詩も収録している点である。グ ルー・ゴービンド・スィングは1708年に死去する際、抗争状態にあった ムガル朝の標的となりやすい人間の教主を廃止した。その結果、現在で もスィック教の総本山であるダルバール・サーヒブ(Darbar Sahib)に は、十人いた人間の教主たちに代える形で『グルー・グラント・サーヒ ブ』が安置されている。この聖典の中には、偶像崇拝に言及した部分が 20箇所程度あるが、ここではそのうちの四つを取り上げる。以下は、

カールサーによる原典英訳を筆者が日本語に訳したものである。なお、

翻訳中の頁数は原典の頁数とも対応している。

「ヒンドゥー教徒は原始の主を忘れてしまっている。つまり、彼 らは誤った道を歩んでいる。ナーラダ(Naarad)が指示したよ うに、彼らは偶像を崇拝している。彼らは盲目で口が利けない、

盲目中の盲目である。無知な愚か者たちは石を拾い、それらを崇 拝する。しかし、その石自体が沈むとき、誰があなたを向こう岸 に連れて行くだろうか。」[Khalsa 2018 : 556]

「彼自身の家の中で、彼は彼の主にして師に会いに来さえもしな い。しかし、彼の首の周りには、石の神が掛けられている。信心 のない皮肉屋は彷徨い歩き、疑いによって欺かれる。彼は水を撹 拌し、彼の生命を浪費して死ぬ。彼が彼の神と呼んだその石は、

彼を沈ませ溺れさせる。おお、沈みゆく人よ、あなたは自分自身 に対して不誠実である。石の船はあなたを対岸まで運びはしない だろう。グルー、おお、ナーナクに会い、私は自分の主にして師 を知っている。運命の完全な建築家は水、大地、空にみなぎり、

しみ渡る。」[Khalsa 2018 : 739]

「彼らの奉仕は無益である。石の神の足元で跪く人々、彼らの労 働は無駄に帰した。私の主にして師は永遠に話し続ける。神は彼 の贈り物を全ての生き物に与える。神の主は自己の中にあるが、

精神的に盲目な者はこれを知らない。疑いによって欺かれ、彼は 絞首刑に捕らわれる。石は話さない。それは何も誰にも与えない。

(7)

このような宗教儀礼は役に立たない。このような奉仕は意味がな い。」[Khalsa 2018 : 1160]

「主にして神はあらゆる他の神々と同様にあなたの家にいる。あ なたは石の神々を洗い、それらを崇拝する。あなたはサフランや ビャクダン、花々を捧げる。彼らの足元に跪き、あなたはとても 熱心に彼らを満足させる。他の人々から何度もお辞儀をされ、あ なたは着るものや食べるものを得る。あなたの盲目の行いによっ て、あなたは気づかないうちに罰を受けるであろう。」[Khalsa 2018 : 1240]

以上の記述はヒンドゥー教徒による偶像崇拝の無益さを説く内容と なっており、結果的にスィック教では偶像崇拝を良しとしないことを示 している。特に注目されるのが、『グルー・グラント・サーヒブ』の記 述にみられる偶像崇拝とは、基本的に石で作られた神像を意図している 点である14。このことは、後の章で議論されているように、偶像崇拝の 忌避という教義に抵触しないものとして、植民地期以前にグルー・ナー ナクの聖人伝である『ジャナム・サーキー』の説話画が盛んに描かれ、

また植民地期にグルー・ナーナクの肖像画がスィック教徒たちの間で普 及した要因の一つであろう。

3 説話画におけるグルー・ナーナクの図像

絵画においてグルー・ナーナクを表象することがスィック教の教義に 反しないことが前章で明らかになったが、それでは実際の作例において グルー・ナーナクはどのように描かれてきたのであろうか。グルー・

ナーナクの肖像画について議論する前に、説話画においてグルー・ナー ナクがどのように描写されていたかを知る必要がある。なぜならば、グ ルー・ナーナクを描いた初期の作例のほとんどは肖像画ではなく、

『ジャナム・サーキー』と呼ばれるグルー・ナーナクの聖人伝を題材と した写本画または組絵だったからである。これら『ジャナム・サー キー』絵画の研究はグルー・ナーナクの肖像画の研究よりも進んでおり、

先行研究によると17世紀末から18世紀にかけて主なシリーズの制作が行 われた。本章では、現存作例が比較的豊富であるためこれまで重要視さ

(8)

れてきたシリーズとして、B

!

40本、グレール本、未装丁本の三つを取 り上げる。そして、これらの『ジャナム・サーキー』絵画におけるグ ルー・ナーナクの図像が示す形式的特徴を抽出したいと思う

図1:《羊飼いを伴うグルー・ナーナクとマルダーナ》、『ジャナム・サーキー』B 40本、アーラム・チャンド作、パンジャーブ、1733年、紙に不透明水彩、

大英図書館(India Office Library)、請求記号 B 40

初めに述べておきたいのは、南アジアの近世絵画においては、ペル シャ絵画の影響を色濃く残す初期のムガル絵画を除けば、人物は基本的 に側面観(すなわち、横顔)で描かれていることである15。それに対し て、ヒンドゥー教の神格などは古代からの伝統に則って正面観で描かれ た。さらに、ヒンドゥー教の女神などの二次的な神格や苦行者、イス ラームの聖者などの世俗を超越している人物は、側面観と正面観の中間 に相当する四分の三面観で描かれることが多かった。このように、皇帝 や貴族などの世俗の人物たちは側面観、一方の宗教的に特別の力を持つ と考えられる神格は正面観、両方の属性を持つ対象は四分の三面観で描 くという行為が、個々の作例を見れば例外が散見されるものの、南アジ アの近世絵画においては慣例的に行われていたと言ってよい。このこと はスィック教の創始者であるグルー・ナーナクの図像にも少なからず影

(9)

響を与えたと考えられるのである。

それでは、先に挙げた三つのシリーズの中で、最も早い1733年に制作 された B!40本を見てみよう。B!40本は全57図から成っている。大英図 書館という近代的な施設に所蔵されていることから、保存状態も極めて よく、従来の『ジャナム・サーキー』絵画の研究で非常に重要視されて きた。さらに、B!40本は銘文が完全な形で残されており、画家アーラ ム・チャンド(Alam Chand)がバーイー・サングー(Bhai Sangu)と いうパトロンのために制作したと記されている[McLeod 1980 : 90!91]。 このシリーズの第40図を見てみよう(図1)。この図には三人の人物が 描かれており、左から羊飼い、グルー・ナーナク、著名なムスリムの従 者であるバーイー・マルダーナ(Bhai Mardana)となっている。『ジャ ナム・サーキー』においては、マルダーナは弦楽器を常に持っており、

グルー・ナーナクと共に諸国を遍歴したという設定になっている。この 図のグルー・ナーナクは四分の三面観で描かれ、緑色の帽子に赤い被り 物を頭部に戴き、黄色の胴着を身に着けている。左手は地面に下ろし、

右手には数珠を握っている。右膝を立てて座っていて、右手はその上に 乗せられている。右肩から斜めにひも状のものを垂らしている。右後ろ には樹木が天蓋のようにグルー・ナーナクを覆っており、枝には多くの 鳥達がとまっている様子が描かれている。マクラウドは、B

!

40本にお けるグルー・ナーナクの図像的特徴がムスリムのスーフィー聖者のそれ と同じであることから、スィック教美術の独自性は様式や表現ではなく 主題や内容にあると述べている[McLeod 1991 : 6!7]。

続いて、18世紀後半の作と目されるグレール本について考察しよう。

グレール本はインドのチャンディーガル博物館(The Government Mu- seum and Art Gallery, Chandigarh)に所蔵されており、筆者の調査に よると10図の彩色された絵画と67図の未彩色の素描で構成されている。

ただし、幾つかの絵画と素描は同様の構図に基づいていることから、素 描は下絵であった可能性がある。パハーリー派絵画研究で著名なゴース ワーミー(Goswamy)は、グレール本をセーウ=ナインスク(Seu-Nain- sukh)工房の画家たちが制作したものと主張している。《グルー・ナー ナクに敬意を払う王》(図2)では、ラージャー・マドゥルバイン(Raja Madhurbain)とグルー・ナーナクの会合の場面が描かれており、従者 マルダーナに加えて、もう一人の著名な従者であるバーラー(Bala)も

(10)

登場している。この図のグルー・ナーナクは四分の三面観で描かれ、頭 部には赤い被り物を着けている。ピンク色の胴衣を纏い、左手には写本 のようなものを持っている。そして背後に樹木が描かれるなど、B

!

40 本のグルー・ナーナクの図像的特徴を継承しているのがわかる。

次に18世紀末に制作されたとみられる未装丁本について考察しよう。

未装丁本は写本の形式で綴じられていない独立した絵画から成る組絵で あり、41図の彩色された絵が現存している。現在はサンフランシスコ・

アジア美術館に所蔵されているが、元々は国際スィック教財団(Sikh Foundation International)の創設者であるカパニー(Kapany)夫妻の 個人コレクションであった。このシリーズは縁が赤い作品群と縁が黒い 作品群が混在しており、ゴースワーミー氏は赤い縁の作品群がオリジナ ルで、もう一方の黒い縁の作品群が後に追加された補作であると主張し ている。後者に属する《ヨーギーの弟子たちとグルー・ナーナクの会 合》(図3)では、グルー・ナーナクは四分の三面観で描かれており、

頭部には赤い被り物を着け、特徴的な光輪を戴いている。薄紫色の胴着 の上に薄緑色の肩掛けを羽織っており、首には黒い数珠をかけている。

図2:《グルー・ナーナクに敬意を払う王》、『ジャナム・サーキー』グレール本、

セーウ=ナインスク工房に帰属、パハーリー、18世紀末、22.6×16.5 cm、

紙に不透明水彩、チャンディーガル博物館、請求記号4072(3)

(11)

右手は前に差し出すように描かれ、グルー・ナーナクが話をしている様 子が表現されている。この図には樹木は描かれていないが、背後の山が 覆いかぶさるように描かれているのは、樹木の代わりであるのかもしれ ない。

以上、『ジャナム・サーキー』絵画の代表的なシリーズを概観したが、

三作に共通しているのはグルー・ナーナクが四分の三面観で描かれてい る点である。これは構図の中に描かれている人物たちの中でグルー・

ナーナクを識別するのに役立っており、グルー・ナーナクの顔貌を拝し たいという鑑賞者の欲求を反映している可能性がある。18世紀から19世 紀にかけて、『ジャナム・サーキー』絵画の伝統に則った作例は数多く みられる。例えば、《バーラーとマルダーナを伴うグルー・ナーナク》

(図4)では、中央のグルー・ナーナクは四分の三面観で描かれ、光輪 を持ち、黄色の被り物と胴着を身に着け、その上から茶色の外套を羽 織っている。両脇にはバーラーとマルダーナが描かれ、背後には天蓋の 役割を果たす樹木が置かれるなど、伝統的な図像と構図を継承している。

つまり、グルー・ナーナクを四分の三面観で描くという伝統は、説話画 の中で確立したことがわかる。

図3:《ヨーギーの弟子たちとグルー・ナーナクの会合》、『ジャナム・サーキー』

未装丁本、作者不詳、18世紀末、サンフランシスコ・アジア美術館、請求 記号1998.58.2

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4 植民地期以前のグルー・ナーナクの肖像画

説話画の中でグルー・ナーナクは四分の三面観で描かれたことが明ら かとなったが、本稿の研究対象である肖像画においては必ずしも四分の 三面観で描かれたわけではなかった。この点に着目しつつ、本章では植 民地期以前に制作されたグルー・ナーナクの肖像画を見ていこう。一般 的には《バーラーとマルダーナを伴うグルー・ナーナク》(図4)など も肖像画に含むことが可能であるが、本稿ではグルー・ナーナクが単独 で描かれているか、もしくは限りなくそれに近い作例のみを肖像画とし て扱う。『ジャナム・サーキー』絵画においてグルー・ナーナクがムス リムとして描かれたのとは異なり、肖像画においてはグルー・ナーナク がムスリムの聖者としてだけではなく、ヒンドゥー教徒の苦行者として 描かれることもあった。図5では、平野を思わせる緑色の背景のもと、

グルー・ナーナクはピンク色の敷布の上に脚を組んで座っている。頭部 には敷物と同じピンク色の帽子を被り、薄絹の肩掛けの下には何も身に 着けていないようである。下半身には橙色のズボンを穿き、右手には写 本のようなものを持っている。白い顎鬚からはかなりの高齢であること 図4:《バーラーとマルダーナを伴うグルー・ナーナク》、作者不詳、パンジャーブ、

19世紀、C.S, Chan のコレクション、ロンドン、[Srivastava 1983 : pl. XII]

を参照

(13)

図5:《脚を組むグルー・ナーナク》マンコット、18世紀中葉、紙に不透明水彩、

18×11.2 cm、チャンディーガル博物館、請求記号248

図6:《瞑想して座るグルー・ナーナク》マンコット、18世紀第二四半期、[Dia- mond 2013]を参照

(14)

が窺われる。図6では、グルー・ナーナクは同じ姿勢で緑色の庵の中に 描かれている。背景は空の色を思わせる青色で塗られており、画面の下 部には川のような黒い流れが見える。半透明の薄絹を肩掛けに使用して いる点は同じであるが、ズボンの色が白色になっている。形式的・様式 的分析から、グルー・ナーナクをヒンドゥー教の苦行者として描いたの は、パハーリー丘陵のマンコット王国で活動したヒンドゥー教徒の画家 だけであったことが推知される。

図7:《書物を持つグルー・ナーナク》ラーホールまたはデリー、18世紀後半、紙 に不透明水彩、16.7×15.5 cm、カパニー・コレクション

一方、マンコット王国以外のヒンドゥー教徒やムスリムの画家たちは 皆、グルー・ナーナクをムスリムの聖者として描いた。図7は典型的な 後期ムガル様式で描かれており、テラスに腰かけるグルー・ナーナクの 背後には湖が広がっている。グルー・ナーナクはムスリムに特徴的なス カルキャップを被っており、左手には赤い書物を持っている。肩掛けと 衣服は同じ生地で作られているようで、それらを身に着けたグルー・

ナーナクはピンク色のクッションにもたれかかっている。図7はパン

(15)

ジャーブ地方のラーホール辺りで制作されたと考えられているが、図8 は18世紀中葉に南インドのデカン(Deccan)高原で制作された。この 地域には西アジアに由来するイスラーム勢力がムガル朝とは異なる国家 を築き、デカニー絵画と呼ばれる独自の様式の絵画が制作された。この 図のグルー・ナーナクは従者よりもかなり大きく描写されており、頭部 には金色で縁取られた薄緑色の光輪が描かれている。三色で彩られたス カルキャップを被っているほか、上下ともにピンク色の衣服を身に着け て赤色のクッションに腰掛けている。ここで注目されるのは、グルー・

ナーナクがムスリムの聖者として描かれるときには四分の三面観が採用 されている点であり、それに対してヒンドゥー教徒の苦行者として描か れるときには正面観が採用されている点である。ただし、同時代の他の 作例を確認すると、ヒンドゥー教徒の苦行者であっても四分の三面観で 描かれることがこの時代には普通であった。そのため、グルー・ナーナ クを神格のように正面観で描くスタイルは、マンコットの画家によって 創始されたものと考えられる。

図8:《グ ル ー・ナ ー ナ ク》ハ イ デ ラ バ ー ド、1730−40年 頃、35.5×24.5 cm、

ニューデリー国立博物館、請求記号59.314

(16)

図9:《グルー・ナーナク》ジョッド・スイング作、1848年、カンヴァスに不透明 水彩、ソニア・ダーミ・コレクション

図10:《ガネーシャを伴うグルー・ナーナク》1840年頃、紙に鉛筆、ファキール・

ハーナ(Fakir Khana)博物館、2010年に筆者が撮影

(17)

これまでの作例がグルー・ナーナクを他宗教の苦行者や聖者として描 いたのに対して、図9はグルー・ナーナクをスィック教の教主として描 く点に特徴をもつ。それを最もよく示しているのは身に着けているター バンの形状であり、同時代の他の作例にはこのような描写はない。この 絵のグルー・ナーナクは金色の光輪を頭部に具えており、ターバンと同 じ黄色の衣服の上に紺色の肩掛けを羽織っている。右端には樹木の幹が 描かれており、枝葉が天蓋のようにグルー・ナーナクの頭上を覆ってい るのがわかる。背景には湖が描かれ、その奥には山々が連なっている。

この絵の図像は同時代の他の作例と比べて特殊であり、グルー・ナーナ クはヒンドゥー教の苦行者としても、あるいはイスラームの聖者として も描かれていない。ただし、正面観を採用している点では、ヒンドゥー 教徒の苦行者の描写に共通している。最後に筆者が2010年の調査で発見 した《ガネーシャを伴うグルー・ナーナク》(図10)を取り上げよう。

この素描では中央の楕円形の枠内に、ガネーシャと共に四分の三面観の グルー・ナーナクが描かれている。その周囲には、植物をモチーフにし た装飾の中に六人の従者が描かれている。グルー・ナーナクが描かれる 楕円形の枠は、その下部に動物をモチーフとした台座を伴っている。こ の図は、本稿の定義では肖像画とは言えないものの、説話画のグルー・

ナーナク像が独立して描かれ始める過程を示すものとして重要である。

そしてこのような構図は伝統的な細密画には見られないことから、西洋 画の影響を強く反映していると考えられる。おそらくはスィック王国時 代に、ヨーロッパ人のパトロンのために絵を制作したイマーム・バーク シュ工房などで描かれたと推測される。

以上の分析・考察から想定されるのは、植民地期以前に制作された肖 像画では、グルー・ナーナクの描写をめぐる画家たちの試行錯誤が見て 取れることである。それはスィック教が15世紀末に誕生したばかりの若 い宗教であったため、ヒンドゥー教やイスラームのように独自の絵画的 伝統というものを持っていなかったことが指摘される。グルー・ナーナ クは中世の 北 イ ン ド に 存 在 し た「サ ン ト(Sant)」と 呼 ば れ る ヒ ン ドゥー教の聖者たちの一人であったと考えられている[McLeod 1968]。 ところが図像の形式的特徴という点では、ほとんどの場合イスラームの 聖者のそれに則していることは興味深い。

(18)

5 植民統治に対する土着のコミュニティの反応

これまではグルー・ナーナクの図像が植民地期以前において、どのよ うに描かれてきたかに稿を割いてきたが、ここからは筆者が最も重要視 している英領植民地期の状況を検討していきたい。植民地期におけるグ ルー・ナーナクの肖像画がどのような図像で描かれてきたかを明らかに する前に、まずはパンジャーブ地方における植民地主義の影響について 概観しておこう。パンジャーブ地方は1849年にイギリス東インド会社に よって併合された。しかしながら、これに先行して、キリスト教宣教師 たちの布教活動により、すでに西洋の思想が持ち込まれていた。パン ジャーブ地方におけるキリスト教の広がりは、1862年に開催されたパン ジャーブ宣教師会議や、1865年に設立されたパンジャーブ会議(Anju- man-i-Punjab)に見ることができる[Oberoi 1994 : 219, 231]。後者は英語 名を the Society for the Diffusion of Useful Knowledge と言い、ラー ホール官立大学(Government College Lahore)の学長であったゴット リープ・ヴィルヘルム・ライトナー(Gottlieb Wilhelm Leitner)(1840

!

1899)によって設立された。パンジャーブ会議は1877年までに300人の 構成員を獲得したが、そこには後にスィック教徒の指導者となる人々も 多く含まれていた[Perrill 1976 : 519!23 in Oberoi 1994 : 231]。

パンジャーブ地方は1857年のインド大反乱の翌年には、公式に英領イ ンド帝国の一部となった。これによって、国勢調査や都市計画がイギリ ス人によって実施され、西洋式教育や科学技術などがパンジャーブ地方 に導入された。それらと並行して、民主主義や個人主義、資本主義と いった価値観がもたらされた[マン 2007 : 84]。また、イギリスによる植 民統治はそれまで存在しなかった新興の都市中間層を生み出し、彼らは 公務員、医師、弁護士、ジャーナリスト、技術者などの職業に就いた

[Sohal 2008 : 255!262]。1891年の国勢調査では、パンジャーブ州の人口 2,300万人中の7%が英語話者として登録されており、ほぼ同数が新興 の都市中間層であったと推測される[Oberoi 1994 : 262]。都市中間層の増 加は高等教育機関の普及と並行しており、授業料が高額であったために 高等教育は中間層によって独占されていた。これらの大学等では英語で キリスト教や西洋の学問が教授されるだけでなく、現地語で伝統的な思 想や歴史などを教える科目もカリキュラムに組み込まれた[Oberoi 1994 :

(19)

281!284]。これによって、民族と宗教を横断して、伝統思想の再定義や ナショナリズムの担い手となる地元の知識人層が生まれた。

このような状況下での近代化に対するスィック教徒たちの反応を、こ こで紹介しておこう。まず近代化を支持した人物として挙げられるのが、

キリスト教の伝道学校で学んだダイアル・スィング・マジティア(Dyal Singh Majithia)(1848!1898)である。彼は、土着の思想は西洋の思想 に取って代わられるべきであると主張した。それに対して、ナームダー リ ー(Namdhari)派16の バ ー バ ー・ラ ー ム・ス ィ ン グ(Ram Singh)

(1816!1885)は西洋的生活を拒絶したことで知られる[Mann 2004 : 58!

59]。

そして19世紀後半になると、「スィング・サバー(Singh Sabha)運 動」と呼ばれる宗教と社会の改革を求める運動が、スィック教徒の知識 人たちによって行われた。パンジャーブの各地で登録されたスィング・

サバーは、急速に信者を獲得していたキリスト教や、土着のヒンドゥー 教とイスラームに対抗して、スィック教の伝統の再定義を目指すもの だった[Oberoi 1994 : 236]。最初のスィング・サバーは1873年にアムリッ トサルで設立され、続いて1879年にはラーホールで設立された。最盛期 にはマレーシアや香港でもスィング・サバーが結成され、その総数は 115に及んだ[Ballantyne 2006 : 71!73, Oberoi 1994 : 295]。スィング・サバー での主な議題は、スィック教の権威は聖典にあるのか、それとも有力な 個人にあるのかという問題や、スィック教はヒンドゥー教の一派である のか否かという問題であった[Grewal 1990 : 144-150, Singh 2005 : 136!147, So- hal 2008 : 159!171]。

スィング・サバー運動に続いて、1920年代前半にはスィック教寺院の 管理をめぐってアカーリー運動が展開された。これはイギリスによる植 民統治で導入された私的所有権をスィック教寺院にも適用しようとした ことに端を発した。ウダーシー(Udashi)と呼ばれる異端の信者たち がスィック教寺院の管理権を主張したのである[Mann 2004 : 64]。ア カーリー運動は4000人の死者と2000人の負傷者、三万人の逮捕者を出し た。最終的には、1925年のグルドワーラー法によって、新たに結成され たスィック教の最高委員会 SGPC(Shiromani Gurdwara Parbandhak Committee)がコミュニティの代表として寺院を管理することになった

[Mann 2004 : 64, Singh 2005 : 193!215]。これらスィング・サバー運動とア

(20)

カーリー運動にみられるように、1870年代から1920年代にかけての半世 紀は、スィック教が宗教的にも社会的にも大きな変化を経験した時期で あった。

ここで本章の締めくくりとして、グルー・ナーナクの肖像画が壁に掛 けられるようになった背景について、植民地期パンジャーブの社会情勢 から二つの可能性を指摘したい。第一に、キリスト教の聖像画が19世紀 後半にはパンジャーブ地方にもたらされていた可能性がある。当時のキ リスト教の宣教師たちはイギリスの植民地官僚の支援を受けて布教活動 を行っており、パンジャーブの人々の間で聖書が普及したことがわかっ ている[Grewal 1990 : 140!144, Singh 2005 : 121!135]。このとき、聖書とと もに聖像画もまた布教のために用いられたと考えられる。スィック教徒 たちはキリストの聖像画を信徒が礼拝する様子を模倣して、自分たちが 崇敬するグルー・ナーナクの肖像画を壁に掛けるようになったのかもし れない。ただしそれは単なる模倣ではなく、グルー・ナーナクの肖像を 壁に掛けることで、キリスト教に対抗する意図があった可能性もある。

第二に、スィック教の偶像崇拝に関する論争の影響を受けた可能性が ある。先述したラーホール・スィング・サバーと並び、スィング・サ バー運動で重要な役割を果たしたアムリットサル・スィング・サバーは、

十人の教主たちの図像や偶像はスィック教に内在する信仰実践の現れで あり、礼拝のための手段であると主張していた[Fenech and McLeod 2014 : 151, 273]。彼らにとって、ヒンドゥー教の聖典や偶像崇拝の実践は 精神的に共感できるものであったとの指摘もある[Ballantyne 2006 : 15!16, 36]。このように、本来はスィック教の教義に抵触するはずの偶像崇拝 を許容する雰囲気が、スィック教徒たちの間に存在していた。このこと は、グルー・ナーナクの肖像画を壁に掛ける行為をスィック教徒たちが 是認することにつながったと考えられる。しかし、ここでヒンドゥー教 徒が行う偶像崇拝との違いに注意しなければならない。ヒンドゥー教で は、信者が神像との視線の交換によって神の力を取り込むダルシャン

(darshan)と呼ばれる行為を重視する。ところが、グルー・ナーナク 肖像画とスィック教徒の間には、そうした行為が存在しないと思われる。

それは、スィック教においてグルー・ナーナクは神格ではなく、あくま で神と信者を媒介する預言者のような存在だからであり、そのことから ヒンドゥー教の偶像とスィック教の教主肖像画の間に根本的な差異が生

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じている。

6 植民地期におけるグルー・ナーナクの肖像画

図11:《グルー・ナーナク》作者不詳、ラーホール、1850〜70年頃、象牙に水彩、

直径5.1 cm、ヴィクトリア・アルバート博物館、請求記号 IS. 150‑1954

これまでの議論でスィック教の教義では絵画でグルー・ナーナクを表 象することは禁止されておらず、植民地期以前においては説話画と肖像 画で異なる形式的特徴を示していることが明らかとなった。では、その ような植民地期以前の伝統は、イギリスによる植民統治を経験したこと によってどのように変化したのだろうか。またその変化に新たな意義が 見出せるのだろうか。

こうした問題意識をもちつつ、本章では植民地期のパンジャーブで描 か れ た グ ル ー・ナ ー ナ ク の 肖 像 画 を 見 て い く。こ の 半 身 の 肖 像 画

(図11)において、グルー・ナーナクは世俗の人物、おそらくはムスリ ムの王のように扱われている。それは王冠や極彩色の肩掛けなどの豪華 な装身具から明らかである17[Goswamy 2000 : 36]。おそらく、本作品が スィック教徒の著名人を描いた肖像画の連作の一つであることとも関連 しているだろう。この肖像画のもう一つの重要な点は、グルー・ナーナ クの単独肖像画というジャンルが確立したことを示していることである。

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象牙製の絵画は小型であるため、画家の構図の自由は制限されたとみら れる。このような単独肖像画の数は19世紀後半から始まる植民地期に急 増したと思われる。特筆すべきは、小型の肖像画は所有者が持ち運ぶの を容易にし、ペンダントとして身に着けたり、贈答品として贈られたり することもあったと考えられる点である。また、グルー・ナーナクの写 実的描写や象牙というメディアを考慮すると、この絵は1849年以降にパ ンジャーブを支配していたイギリス人のパトロンのために制作されたよ うである。グルー・ナーナクの顔貌や装身具の図像的特徴が19世紀前半 の伝統を引き継いでいることから、この絵を制作した画家は地元の工房 に所属していたと考えられる。

図12:《詩文の外套を纏うグルー・ナーナク》作者不詳、ラーホール、19世紀後半、

紙に不透明水彩、38×28.6 cm、チャンディーガル博物館、請求記号2401

《詩文の外套を纏うグルー・ナーナク》(図12)はおそらくグルー・

ナーナクの肖像画の中では最も有名なもので、複数の美術書に鑑賞図版 として掲載されている。一目でわかるのは、伝統的な図柄を採用しつつ もヨーロッパ絵画の影響を強く受けている点である。それが顕著に表れ ているのは、テラスの背後に描かれている草木の表現であり、輪郭線を

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用いずに暈しのみで描かれている。頭部の光輪も現実感のある抑制の効 いた彩色が用いられている。グルー・ナーナクは片膝を突いてクッショ ンに腰かけており、右手に持った数珠やカーペットに垂らした左手など は19世紀前半の説話画の図像を踏襲している。色彩豊かな肩掛けは図11 の象牙に描かれた肖像画と共通しているが、グルー・ナーナクが被って いるのは王冠ではなく、冠の形状をした帽子となっている。何より特徴 的なのは、グルー・ナーナクが身に着けている外套にクルアーンの一節 が書き込まれている点である(図13)。このことから、制作に携わった 画家はムスリムであった可能性が高いと思われる。そして画格の高さか ら、彼の属した工房が、19世紀前半にはスィック教徒の王侯貴族に仕え ていた一流画家の集まりであったことが予想される。

《詩文の外套を纏うグルー・ナーナク》(図12)を描いたのがムスリ ムの画家であったならば、絵の制作を依頼したパトロンは誰であったの だろうか。すでに指摘したように、この肖像画は伝統的な様式と西洋美 術の表現を併用した優れた画家による作品である。このような美術品は 高価であったと考えられる。さらには、画面の下部には現地語であるパ ンジャービー語に使用されるグルムキー文字で

“Guru Nanak Patshahi Pehli ... Maharaj ... Sahib”

と記されており、「グルー・ナーナク、最初 の王……マハーラージャー……導師」と訳すことができる(図14)。こ

図13:《詩文の外套を纏うグルー・ナーナク》(部分)

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のような現地語による文字の記載は、この絵がイギリスン人パトロンの ために制作されたものではないことを示している。一方で、19世紀後半 にはスィック教徒の王侯貴族はすでに没落していることから、筆者はこ の絵の制作を依頼したパトロンは新興の都市中間層であった可能性が高 いと考えている。スィック教徒の都市中間層は資本主義経済の恩恵を 被って潤沢な資金を保有しており、西洋的な教育を受けていたことも あって、外国からもたらされる新しいものに対して高い感受性を持って いた。彼らは西洋の影響を受けたこのような絵画を美的な鑑賞のために 購入していたと考えられる。当時の都市中間層は西洋文化を先進的なも のであると認識していたと考えられ、西洋風の肖像画という文化資本を 所有することによって、進歩性や富といった彼らの社会的ステータスを 他者に明示することができたと推察される。また、注目に値するのは、

この絵が伝統的な細密画の二倍の尺度で描かれている点である。伝統的 な細密画は中世に描かれた仏教やジャイナ教の写本画にルーツを持ち、

主に個人で鑑賞するために制作された。一方、《詩文の外套を纏うグ ルー・ナーナク》(図12)のような絵画はおそらくは集団で鑑賞するこ とを目的としており、壁に掛けられていた可能性がある。

20世紀に入っても、グルー・ナーナクの肖像画は継続的に制作された と考えられるが、現存作例の数は限られている18。それらは大きく分け ると、四分の三面観のグループと正面観のグループに分類することがで きる。まずは説話画におけるグルー・ナーナク像の特徴でもあった四分 の三面観のグループから見ていこう。図15は、1889年にパティアーラー

(Patiala)で生まれた有名な画家であるウスタード・ハーリ・シャリー 図14:《詩文の外套を纏うグルー・ナーナク》(部分)

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図15:《グルー・ナーナク》ウスタード・ハーリ・シャリーフィス(Ustad Hari Sharifis)作、パンジャーブ、20世紀初頭、ラーホール博物館、請求記号1469

図16:《グルー・ナーナク》ナートドワーラー(Nathdwara)の画家、パンナラー ル・ゴーピラール(Pannalal Gopilal)作、1930年代、彩色石版画、50.7×

35.8 cm、Robet J.Del Bonta 氏所蔵、請求記号 CP‑9

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フィス(Ustad Hari Sharifis)によって、20世紀の初頭に制作された。

この絵は後期ムガル様式に特徴的な広い奥行きで描かれており、グ ルー・ナーナクの頭部は鮮やかな白色の光輪で囲まれている。19世紀後 半の作例と同じく色彩豊かな肩掛けを身に纏っているが、頭部には スィック教徒に特徴的なターバンを着けている。外套も同様の生地で作 られているようにみえる。ただし、外套にはいかなる文字でも詩句が書 かれていない。片膝を突いて座る様子などからは伝統的な説話画の図像 を 継 承 し て い る こ と が 窺 え る。一 方、図16は、ナ ー ト ド ワ ー ラ ー

(Nathdwara)の画家であるパンナラール・ゴーピ ラ ー ル(Pannalal Gopilal)によって、1930年代に制作された。グルー・ナーナクは大きな 樹の下に座っていて、開けた空間の奥には城のようなものが見える。頭 部は金色の光輪で包まれ、頭に着けている冠は《詩文の外套を纏うグ ルー・ナーナク》(図12)のものと同様の形状をしている。肩掛けはよ りシンプルな薄緑の柄になっているが、僅かに首をかしげる様子などは

《詩文の外套を纏うグルー・ナーナク》(図12)の図像と非常に類似して いる。そして図17は、シャーン・プラタープ・サルヴァーンズ(Shan Pratap Salwans)がパティアーラーで1947年に描いた肖像画である 図17:《グルー・ナーナク》シャーン・プラタープ・サルヴァーンズ作、パティ

アーラー、1947年、[Singh 2004 : 62]を参照

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[Singh 2004 : 62]。この作例は興味深いことに、グルー・ナーナクの衣服 にグルムキー文字で詩文が記されており、アラビア文字でクルアーンの 一節が衣服に書かれている《詩文の外套を纏うグルー・ナーナク》(図 12)との関連を思わせる。グルー・ナーナクの姿態やクッションに横た わっている点なども、伝統的な図柄を継承しているのがわかる19

図18:《脚を組むグルー・ナーナク》作者不詳、パンジャーブ、20世紀初頭、板紙 に水彩、ラーホール博物館、請求記号1545

続いて正面観のグループを見てみよう。このグループでは、グルー・

ナーナクはテラスではなく草地に座っているようである。図18では、グ ルー・ナーナクの頭部が白色の光輪で包まれており、スィック教徒に特 徴的なターバンを着けているのがわかる。肩掛けは濃緑色を基調にした もので、水玉模様があしらわれている。外套はターバンと同じ生地のよ うであるが、ズボンは白色の生地で作られている。足を組む姿勢やクッ ションに腰かけている点などは伝統的な説話画の図柄を継承している。

一方、図19はヨーロッパの絵画を思わせる非常に写実的な表現が特徴的 であることから、作者のアルジュン・スィング(Arjun Singh)は美術 学校で正規の教育を受けたと推測される。水辺は奥行きがわかるように 手前から奥にうねるように描写されている。水辺の奥には山々が巧みに

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描かれ、右手には樹々が重なりの遠近を用いて表現されている。グ ルー・ナーナクの頭部にある光輪も半透明で現実感のある描写となって おり、頭に着けているターバンもスィック教徒のものになっている。外 套も同じ黄色の生地で作られており、肩掛けは茶色の柄のものが使用さ れている。

以上のように、植民地期においてもグルー・ナーナクの肖像画は継続 して制作されたが、植民地期以前との大きな違いがある。それは肖像画 の制作を依頼するパトロンが変化したことである。スィック王国の王侯 貴族の没落に伴って、植民地期に台頭した都市中間層が新たな芸術の庇 護者となった。また、この時期の作品としては《詩文の外套を纏うグ ルー・ナーナク》(図12)が重要だが、それは本作例が説話画における 四分の三面観のグルー・ナーナク像を肖像画に適用したものだからであ る。植民地期のグルー・ナーナクの肖像画では、こうした説話画におけ る定型表現である四分の三面観の形式に加え、正面観の形式も採用され 図19:《脚を組むグルー・ナーナク》アルジュン・スイング(Arjun Singh)作、

パンジャーブ、1935年、カンヴァスに油彩、バーバー・バゲル・スイング

(Baba Baghel Singh)博物館、バングラー・サーヒブ寺院(Bangla Sahib Gurdwara)、ニューデリー

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ていた。これは植民地期以前の肖像画にみられたヒンドゥー教的な図像 の名残であると同時に、様々な顔貌形式で描かれるヨーロッパの肖像画 から影響を受けたことの現れでもあるとみられる。

7 グルー・ナーナクの肖像画の社会的役割

ここで壁に掛ける肖像画に話を戻そう。壁に掛けるグルー・ナーナク の肖像画は、《詩文の外套を纏うグルー・ナーナク》(図12)にみられる ように、その西洋風の洗練された様式や現地語の詩句の記述から、新興 の都市中間層のために制作された可能性を筆者は前章で指摘した。その 次の段階として、スィック教徒の大衆にグルー・ナーナクの肖像画が普 及していくことが想定される。おそらくこの段階では、19世紀半ばに ヨーロッパからラーホールに導入された印刷技術により、一点物の絵画 ではなく、大量生産される印刷物が使用されたであろう[マン 2007 : 85]。

《グルー・ナーナク》(図16)などは普及型の印刷物として確認できる最 初期の作例であると考えられる。スィック教徒の大衆への具体的な伝播 の経路は不明であるが、グルー・ナーナクの肖像画は当初スィック教寺 院に設置されていたのではないか、というのが筆者の見解である。なぜ ならば、スィック教の寺院に教主の肖像画を掲げてはならないという禁 令が、1930年代に出されたことが明らかになっているからである[Cole and Sambhi 1978 : 45]20。グルー・ナーナクの肖像画は1920年代のアカー リー運動の頃には、寺院を経て一般のスィック教徒の家庭に持ち込まれ たと推測される。

それでは、植民地期に新たに壁に掛けられるようになったグルー・

ナーナクの肖像画が普及したことは、スィック教社会にとってどのよう な意義があったのであろうか。注目されるのは、現代の学界において スィック教徒たちのアイデンティティに関する論争が起きていることで ある。一方の研究者たちはスィック・アイデンティティの変容における 分水嶺として1699年のカールサーの結成を挙げるが、他方の研究者たち は19世紀後半の植民地主義が最も大きな影響を与えたと主張している。

後者のグループにおいて、最も有名な研究はオベローイの研究である21

[Oberoi 1994]。オベローイによると、19世紀後半のパンジャーブにおい て、ヒンドゥー教徒、ムスリム、スィック教徒などの宗教コミュニティ の違いというのは、現代の南アジアよりもずっと曖昧であった。そして

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オベローイはイギリスによる植民統治の結果、19世紀後半のスィング・

サバー運動を通じてスィック教徒はヒンドゥー教徒から分離したのだと 主張した。

しかしながら、上記のオベローイの主張の中でも、スィック教徒の近 代的なアイデンティティ形成の主因を19世紀後半のスィング・サバー同 士の対立に求める見解は近年批判に晒されている。パシャウラ・スィン グはヒンドゥー教的な思想を持つアムリットサル・スィング・サバーと、

自律的なスィック教を目指すラーホール・スィング・サバーの対立とい う、二極化した構図には否定的である22[Singh 2012 : 29 ; 2014 : 29]。事実、

バーサウル(Basaur)に設立されたスィング・サバーはラーホール・

スィング・サバーよりも原理主義的であり、聖典から異教徒の詩を削除 したり、正式な入信儀礼を経ていない信者を追放したりすることを推奨 した[Mann 2004 : 63]。パシャウラ・スィングはラーホール・スィン グ・サバーの思想が20世紀に主流派となったのは、三者の中で中道派の 立場を維持したからだと指摘している[Singh 2012 : 29 ; 2014 : 29]。またマ ンダイルは、ラーホール・スィング・サバーの思想が主流派となった原 因はスィック教社会内部の対立ではなく、むしろ植民地主義という外的 な要因の方が重要であったと述べている[Mandair 2014 : 76]。

以上のように、オベローイの研究には数々の批判があるが、筆者は植 民地期のスィック教徒たちはヒンドゥー教徒とは異なる独自のアイデン ティティを獲得したとする主張には賛同する。なぜならば、1870年代か ら1920年代にかけてのスィック教復興運動の時期に、グルー・ナーナク の肖像画が壁に掛けられるようになったからである。植民地期のヒン ドゥー教では、スィック教でのケースと同様に伝統や思想の再定義が進 んだ。その中で偶像崇拝こそがヒンドゥー教のアイデンティティである との言説が生まれたが[Ramos 2015]、その偶像とはほとんどの場合、

石や金属でできた神像を指していた23。それに対して、スィック教徒は 偶像崇拝を忌避すべきという教義に従いつつ、絵画表象として制作され た壁に掛ける肖像画を崇敬するようになった24。つまり、美術形態との 関係において両者の区別が生まれたのである。一方で、グルー・ナーナ クの肖像画は、偶像崇拝を否定して預言者の顔さえ描写しないイスラー ムの慣習との区別をも生み出した25。こうしてスィック教徒は、壁に掛 けるグルー・ナーナクの肖像画を得たことにより、ヒンドゥー教徒でも

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ムスリムでもなく、二つの信仰の改革を経て生まれた新しい宗教の信徒 という、自分たちの独自の立ち位置を築くことができたと考えられる。

このことは偶像崇拝を忌避する伝統的なスィック教の教義からの脱却と も言え、スィック教が近代的な宗教へと変貌を遂げたことを意味してい る26

しかし、それはスィング・サバー運動によってヒンドゥー教的な思想 が淘汰されたことを意味しない。というのも、グルー・ナーナクの肖像 画は植民地期以前から継続して、スィック教の独自性を象徴する四分の 三面観と、ヒンドゥー教的な偶像としての表象とも言える正面観の両方 の顔貌形式で描かれているからである。その背景には、スィング・サ バー運動で自律的なスィック教を目指すタット・カールサーが主流派と なっていく半面、ヒンドゥー教的な思想を持つサナタン・スィックも依 然として存在するという、スィック教社会の複雑な内情があったと考え られる。こうした状況下でグルー・ナーナクが肖像画において様々な図 像で描かれたことは、異なる思想や信条を持っていた当時のスィック教 徒たちが、グルー・ナーナクへの信仰という点において連帯感を維持す ることに寄与したとみられる。言い換えれば、植民地期のスィック教社 会において、グルー・ナーナクは以前にも増して宗教的・社会的に重要 な役割を期待されるようになり、それこそが偶像崇拝の禁止という スィック教の教義を克服して、グルー・ナーナクの肖像画崇敬が現在に 至るまで行われている理由ではないかと筆者には思われるのである。

8 おわりに

本稿は、スィック教の創始者であるグルー・ナーナクの肖像画に焦点 をあて、その植民地期における変容と、結果として新たに担うことと なった社会的役割について考察してきた。その検討結果をまとめると次 のようになる。

まず、スィック教の聖典においては偶像崇拝が愚かで無益な行為とし て批判の対象となっているが、その場合は主に石で作られた神像を指し ており、写本画や肖像画などの絵画表象には言及されていないことが明 らかとなった。そして植民地期以前の重要な事象として、『ジャナム・

サーキー』の説話画の中でグルー・ナーナクが四分の三面観で描かれて いたことが挙げられる。同時代のヒンドゥー教の女神や苦行者、そして

(32)

イスラームの聖者なども四分の三面観で描かれることはあるが、筆者が 確認する限りにおいては、四分の三面観は専らグルー・ナーナクの定型 表現として用いられている。この伝統は植民地期以前に制作された肖像 画ではそれほど厳格に踏襲されておらず、グルー・ナーナクはヒン ドゥー教の神像を思わせる正面観で描かれることも多かった。

一方、1849年にパンジャーブ地方がイギリス東インド会社に併合され ると、西洋式の教育を受けた新興の中間層が生まれた。彼らは勢力を拡 大しつつあったキリスト教に対抗して、1870年代からスィック教の正統 性を議論するスィング・サバー運動を展開した。新興の中間層は植民者 であったイギリス人と並んで、王侯貴族による芸術庇護が衰退したあと の主要な芸術のパトロンとなった。その結果、グルー・ナーナクの単独 肖像画がスィック教徒の都市中間層のために制作され、その中には壁に 掛けられていたものもあったと考えられる。植民地期の肖像画において は、大量印刷される石版画の中でグルー・ナーナクが四分の三面観で描 かれている点が重要であり、その図像の起源は『ジャナム・サーキー』

の説話画であることが明らかである。もっとも、グルー・ナーナクの肖 像画における正面観の伝統も植民地期以前から引き継がれており、また 20世紀前半にはヨーロッパの影響により制作された正面観の作例も見る ことができる。さらに、図18の正面観像が目を見開くヒンドゥー・ダル シャン的な図像であることや、図12の四分の三面観像がクルアーンを付 した図像であることは、信仰上の忌避や否定を通して他宗教との差異化 を図っていたスィング・サバーの指導者たちの思惑とは裏腹に、現実に は多様で交錯的な信仰態度があった可能性を示唆する。グルー・ナーナ クの肖像画はスィック教の独自性を象徴すると同時に、様々な立場の存 在を包摂する文化的装置であり、近現代のスィック教について考察する 上で欠くことのできない重要な論点であると言えよう。

1 本稿では基本的に現地語であるパンジャービー語の発音を採用しており、一般的な日本語

や英語、ヒンディー語の表記とは異なる場合がある。

2 グル(パンジャービー語ではグルー)とは南アジアの諸言語において一般的に宗教的な導

師を指す語であるが、スィック教ではグルー・ナーナクに始まる歴史上の十人の指導者と 聖典『グルー・グラント・サーヒブ(Guru Granth Sahib)』のみをグルーと呼び、ヒン ドゥー教のグルよりも世俗的な性格が強い。したがって、本稿ではスィック教のグルーは

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教主と呼び、歴代の教主たちの名前の前に置かれる場合のみグルーと呼称する。

3 2020年のスィック教徒の世界人口は3,000万人程度であると推計され、そのうち76%がイ ンドのパンジャーブ州に居住している[World Factbook]。インドの総人口に占める割合 は毎年2%前後で推移している[Sikhs in Punjab]。なお、「スィック」とはそもそもパン ジャービー語では「弟子」を意味する。

4 現在最も普及している印刷物の原型は、1969年にスィック教徒の画家ソーバー・スィング

(Sobha Singh)(1901!1986)がスィック教の最高委員会 SGPC からの依頼で制作した

《祝福するグルー・ナーナク(Guru Nanak in Aashirwad Pose)》である。ソーバー・

スィングが最初にグルー・ナーナクの肖像画を描いたのは1924年であるとされており

[Kessar 2003 : 122]、雑誌『庭(Phulwari)』に掲載されていたようである[Kaur 1990 : pl.

3]。写真1とほぼ同じ構図のものが[コール、サンビー 1986 : 64]に掲載されていること から、遅くとも原著が出版された1978年には、グルー・ナーナクの肖像画はスィック教寺 院に掛けてあったことがわかる。

5 現代のスィック教社会にはグルー・ナーナクだけではなく、後代の九人の教主たちの肖像

画も広く普及している。しかし、2016年頃に筆者がフィールドワークを行った際には、グ ルー・ナーナクが最も人気のある肖像画の主題であった。スィック教においてグルー・

ナーナクは啓示を受けた唯一の教主であり、後代の教主たちは自分の詩句を創作する際に はグルー・ナーナクの署名を用いることが常であった。つまり、スィック教におけるグ ルー・ナーナクとは、かつて存在した十人の教主のうちの最初の人物であるというだけで はなく、スィック教の根本思想を形成する存在であると言える。

6 この地方はペルシャ語で「5」を意味する ʻpunjʼ と「川」を意味する ʻabʼ から成る Punjab として知られている。本稿でパンジャーブ地方と言った場合には、パーキスターン側のパ ンジャーブ州に加え、現在のインドのハリヤーナー州やヒマーチャル・プラデーシュ州の 一部を含む広義のパンジャーブ地方であり、英領インドにおけるパンジャーブ州とほぼ同 じ地域を指している。

7 ラフォントはこの時期に現れた新しい様式をラーホール画派と呼んでいる[Lafont 2002, Lafont and Schmitz 2002]。

8 メイヨー美術学校はパーキスターン国立芸術大学(National College of Arts, Pakistan)

という名前で現在でも存続している

9 1891年の国勢調査によると、パンジャーブ州はイスラーム教徒、ヒンドゥー教徒、キリス

ト教徒、スィック教徒という亜大陸の四大宗教の信徒が共存する英領インド唯一の州で あった。

10具体的には、後述するように、新興の都市中間層は公務員、医師、弁護士、ジャーナリス

ト、技術者などの職業に就いた[Sohal 2008 : 255!262]

11グルー・ナーナクの肖像画に関する先行研究はこれまでに二つ存在している。一つは、

ゴースワーミーが編纂した展覧会図録であり、その中の小論には偶像崇拝を忌避するとい うスィック教の教義が原因で、現在確認できるグルー・ナーナクの肖像画は少数であるこ とが述べられている[Goswamy 2000 : 31!41]。もう一つはニルヴィカール・スィングに よる論考であり、その中では作品の編年を中心に議論が展開された[Singh 2017]。その 他、[Randhawa 1971]なども参照のこと。

参照

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