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「能楽と三島由紀夫」研究

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Academic year: 2022

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【博士論文概要書】

「能楽と三島由紀夫」研究

――『近代能楽集』の成立と展開

田村景子

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【全体 の 概要】

近代にとって能楽は、近代日本の文化的アイデンティティを構築するカノン(古典または正典)である。しかし同時に、近代にとっての能楽は、日常生活のなかに残る前近代の懐かしい遺物であり、また、古いがゆえに現今の常識的な新しさを転覆する可能性をひめた異物でもあった。能楽へのつよい関心を、生涯にわたり持ち続け、自らの作品に能楽表象をちりばめた三島由紀夫(一九二五年~一九七〇年)は、遺物と異物という二重にあらわれる近代の能楽を、もろともに継承しえた稀有な戦後作家である。能楽師が登場する小説「中世」(一九四五年)、謡曲を原曲とした戯曲群『近代能楽集』(一九五〇年~一九六二年)、謡曲の詞章や狂言のタイトルを借用する小説「金閣寺」(一九五六年)、形式的に能楽を継承したとされる小説「英霊の声」(一九六六年)、そして遺作となった『豊饒の海』四部作などよく知られた作品にとどまらず、他の小説や戯曲、評論やエッセイ、対談など多くの三島由紀夫テクストに、能楽は見え隠れする。「能楽はたえず私の文学に底流してきた」(「日本の古典と私」一九六八年)と自らいう三島由紀夫と能楽との関わりは、じつに広く深い。三島由紀夫の能楽への関心はまず、不明瞭な発音で謡われる詞章、縁語や掛詞に彩られた「言葉の優雅」(同右)からはじまった。謡曲の装飾性への少年時代の魅惑はやがて言葉の裏に潜む「人の世の心情や、うらさびた哀歓の絵巻」(「掛詞」一九四三年)へ、さらに「絶望感の裏打ちを必要と」する「裡に末世の意識をひそめた、ぎりぎりの言語による美的抵抗」(「私の遍歴時代」一九五五年)へと移る。そして、『近代能楽集』の試みの始まる前夜の「美について」(一九四九年)では、「宗教的末世思想と美の優位との並行関係。トオマス・マンの暗示が思ひ出されるやうに、そこには明らかに美と死との相関がある。この相関は謡曲において完全な一致に到達する。日本に於て美は、人間主義の復活を意味せず、『生の否定』といふ宗教性を帯びるにいたる」と書く。「宗教性」において人に現世での「生の否定」を納得させ、「死」の側に救済を先送りする末世にあって、謡曲は「宗教性」と「死」とを、「美」によって結びつける。だが「死」、「宗教性」、「美」の三位一体としての謡曲は、彼岸の志向を持たない近代において確実に一角を失っていた。その近代においてあえて能楽を掲げる三島由紀夫にとって、仏教的救済にいたる「宗教性」の欠如はむしろ積極的な意味をもっていた。たとえば、小説「恋重荷」(一九四九年)は、悲恋を仏教規範へと無理やりに回収する謡曲「恋重荷」から仏教的救済を捨象し、礼子をめぐる葛藤に引き込まれた男二人には、ついに結論を与えない。それは明らかに破綻を予測させる三角関係の続行であり、よりいっそう悲恋を際立たせ「悲劇」的様相をつよめる。この試みの延長線上に、能楽を「近代」を強く意識して読み替えた戯曲――すなわち謡曲に盛られた「生の否定」という主題を近代においてよりいっそう強調するためにこそ、謡曲において約束された仏教的救済を断ち切り、能楽の創造的な破壊を敢行する戯曲群があらわれた。「邯鄲」にはじまる『近代能楽集』シリーズである。舞台を「近代」(戦後)にとる『近代能楽集』各曲において、登場人物たちはつねに、「こ

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んな悪い時代に生きていて、自分をごまかすためにどれだけの苦しみを重ねているか(「綾

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らえている。自らが置かれた時空へのこうした不適応は、三島由紀夫自身が戦後を表象するときに繰り返す嫌悪や、その究極としての「決して自殺が出来ない不死身者の不幸」(「毒薬の社会的効用について」一九四九年)に重なる。能楽において、つきつめればつきつめるほど逆説的に救済に接近する「生の否定」は、『近代能楽集』ではつきつめられるとともに、救済なき時代のただなかに投げ出される。『近代能楽集』の試みを終えた三島由紀夫は、「季節はずれの猟人堂本正樹氏のこと」(一九六二年)で、能楽をこう語る。「たまたま『プロゼルピーナ』は堕地獄の物語である。わが中世の能にもしばしば用ひられたこの主題、堕地獄の苦患と孤独の主題は、一面、いかに今日的であらうか!われわれは一人のこらず、何らかの地獄に落ちてゐると云つても、過言ではないのが現代といふ時代である」。戦後という時代が、ここでは「一人のこらず、何らかの地獄に落ちてゐ」ながら「堕地獄」を救う機構のない「今日」とみなされる。戦争中の死に人生の清算を期待していた三島由紀夫が、生きのびてしまった戦後から眺めたとき、「生の否定」や「悲劇」を、仏教的救済へ回収しないアイロニカルな能楽が発見された、といってよい。いいかえれば、時代の異物でありながら、「今日」に引き付けられて「悲劇」と呼ばれた能楽は、謡曲の仏教的救済を完全に退け、「生の否定」を生きる者たちがうみだす「悲劇」の凝縮として翻案された。祭祀芸能「能楽」の破壊的再提示である『近代能楽集』シリーズは、この点からからみれば、「近代」の「堕地獄」の表象ということになろう。『近代能楽集』にあらわれるのは、戯曲「邯鄲」から戯曲「弱法師」まで、いずれも救済にいたる「死」後の世界への望みを断ち切り、謡曲の「生の否定」を、近代における「堕地獄の苦患と孤独の主題」として、まるごと引き受けて生きる人物たちだった。十一年半を費やして書き継がれた作家三島由紀夫にとって最長のシリーズ『近代能楽集』は、その一曲一曲で戦後という「堕地獄」を「堕地獄」として生き切るドラマを提示し、最終的にそんなドラマを描く作家供養のドラマで終わった。「能楽はたえず私の文学に底流してきた」と述べる稀有な戦後作家、三島由紀夫の能楽表象は、時局によって変化するカノン(古典)としての能楽の硬直にも、能楽を無批判に近代あるいは現代の文学や演劇の足掛かりとする試みにもあらがう。戦後という時代の奥底に豊かに底流する能楽は、救いなき「生の否定」を生きるものたちのドラマとして、あるいは「実際の行動に近い一回性」(「行動学入門)の極致として、戦後の作家三島由紀夫を支え三島由紀夫の思想へと高められていったのである。現在、世田谷パブリックシアターの芸術監督に就任した野村萬斎発案の『現代能楽集』は、「三島由紀夫の『近代能楽集』を乗り越えようとする『現代能楽集』で、川村毅、鐘下辰男らの現代作家に能の古典の読み直しを委嘱する」(二〇〇二年九月一日朝刊「人語る世田谷から世界発信」)と定義されて始まった。第一弾「AOIKOMACHI」(二〇〇三年)と第五弾「春独丸俊寛さん愛の鼓動」(二〇一〇年)の川村毅、第二弾「求塚」(二〇〇四年)の鐘下辰男、第三弾「鵺NUE」(二〇〇六年)の宮沢章夫、第四弾「THEDIVER」(二〇〇九年)の野田秀樹。現代演劇を代表する劇作家たちが、『近代能楽集』の乗り越えのために集った。

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また、毎年のように『近代能楽集卒塔婆小町・弱法師』を上演・再演を重ねる蜷川幸雄の試みや、大きく脚色しなおす形で『近代能楽集』を二〇一〇年から上演し始めた流山児祥の試みもある。ドラマチックな演出で古典劇の再提示を目指す蜷川幸雄は、一九七六年から『近代能楽集』の公演を続けており、海外公演でとくに好まれる。上演回数の多さに加え、二〇〇〇年代に入ってからは、藤原竜也の好演(俊徳)がよく知られている。永らく小劇場運動の雄であり、古典とも三島由紀夫ともまったく無関係のはずの流山児祥は、同時にリメイクを手掛ける寺山修司戯曲と比肩するほどに幻想的で猥雑な、流山児流『近代能楽集』創造の最中である。こうしてみれば、現代演劇の最先端を走る劇作家や劇団が、三島由紀夫の『近代能楽集』を、未だ乗り越え不可能な作品として、それゆえ今なお多大な影響力をもつ作品として、格闘し続けているのである。現代演劇を代表する劇作家たちが今なお、というより、今まさに格闘する『近代能楽集』とは、はたして何だったのか。そして今、いったい何なのか。『近代能楽集』のドラマの現在的な解釈の可能性を考察することは、現在の劇作家をも惹きつける『近代能楽集』の成立と特殊性を解き明かすとともに、作家三島由紀夫の思想に新たな意義を見出し、これからの「能楽」の豊饒な可能性を探る試みにもなるだろう。

本博士論文は、第一部一章で三島由紀夫に受け渡される以前の能楽を概観し、第二章で三島由紀夫にとっての能楽の意義と表象の変遷を捉える。第二部では、三島由紀夫がもっとも深く能楽と関わった『近代能楽集』について、能楽への現在的アプローチという意味で特に際立った戯曲を、発表の順にたどる。第三章は、『近代能楽集』を先導したといってよい郡虎彦の戯曲を紹介し、三島由紀夫の最初期の小説中でもとりわけ能楽との関りの深い「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」と、遺作『豊饒の海』四部作とを、能楽から読み直す。

【 各章の 概 要】

第一部 近 代 におけ る 「能楽」の発見から三島 由 紀夫の能楽受容まで

第一章 近代にお ける能楽表象

――国民国家、大東亜、文化国家日本における「古典(カノン)」として近代における「古典(カノン)」としての能楽の意義の変化を、主に各種新聞、能楽専門誌や関連書籍、公文書を通して概観した。まず明治初めまでの能楽のあり方を確認し、日清戦争前後においてみいだされる「古典」としての能楽を明らかにし、アジア・太平洋戦争のもとで「大東亜の総合芸術」となって海を越える能楽を検討し、ついで、戦後すぐに「民主主義」国家日本、「文化国家」日本の「古典」という位置を確保した能楽をとらえる。

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前近代の遺物としての能楽を記録した正岡子規や夏目漱石らもいれば、近代にとっての異物だからこそ能楽を近代文学や演劇へと取り込んだ北村透谷や泉鏡花、郡虎彦に野上弥生子、そして三島由紀夫がいる。戦後は、能楽という枠を越えて演劇や文化と結びつく能楽師や狂言師の動きも盛んになり、新作能は能楽というよりむしろ、現代演劇と交わる新ジャンルになりつつある。近年、謡曲のドラマや能楽師のイメージは、時代を越えた宇宙規模のSFとしてマンガやアニメーションへも受け継がれ、「失われた二十年」あるいは「第一次世界内戦」とも称される現在をこそ、映し出す。国民国家日本に「古典」として発見され、三度の転換を経てなお「古典」でありつづける能楽。近代において、こうした能楽のあり方からまったく自由な能楽表象はない。しかしだからこそ、そこには、「古典」であることを言祝ぐ圧倒的多数の表象にまじって、「古典」でありつづけることを逆手に取った波乱の試みや、「古典」であることを投げ捨てる謀叛の表象がみてとれる。

第二 章 三島由紀夫の能楽受容

――「言 葉の優雅」から「 実際の行 動」まで

三島由紀夫の能楽受容といった場合想起されるのは、一九五〇年発表の戯曲「邯鄲」に始まり、一九六二年の戯曲「源氏供養」に至るシリーズ『近代能楽集』であろう。だが、三島由紀夫自身が「戦時中の作品『中世』がそれであるし、戦後の『近代能楽集』や、小説『金閣寺』から、『英霊の声』にいたるまで、能楽はたえず私の文学に底流してきた」(エッセイ「日本の古典と私」)と書くように、『近代能楽集』が、三島の能楽表象の全てではない。むしろ、「能楽はたえず私の文学に底流してきた」と言い得る稀有な戦後作家であった三島由紀夫の能楽理解は、能をめぐる多くのエッセイや小説を通し、より明らかになる。『近代能楽集』を論ずる前提としての本稿は、エッセイや小説、戯曲などにおいて、三島由紀夫の能楽観がどのように変化し、戦後にあって能楽を表象する意義と方法がいかに変遷したかを追う。少年三島由紀夫は中学一年生で初めて観た能の舞台から、不明瞭な発音で謡われる詞章、すなわち縁語や掛詞に彩られた「言葉の優雅」を捉え、次に、謡曲の美しい死者たちの「悲劇」に魅せられた。戦中の三島由紀夫による能楽の表象は、サブタイトルに謡曲の名を冠し、詞章をふんだんに引用し、能楽の持つ「悲劇の本質」(エッセイ「夢野乃鹿」)をそのまま小説にしたかのような「夜の車/みつ汐の夜の車に月を載せて(松風)」(後の「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」)に、もっともはっきりとあらわれた。敗戦によって、日本の古典を無批判に賛美し古典趣味を全面的に押し出す創作が不可能になったとき、三島由紀夫の能楽表象は大きな転機を迎える。戦後の異物としての能楽を再提示する試みは、死者ではなく生きて苦しみ続ける生者のドラマへと向かい、シリーズ『近代能楽集』を頂点に、小説「金閣寺」「美しい星」に「底流」し、『豊饒の海』四部作の永遠の悲恋へと至った。しかし、「悲劇」

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「堕地獄の苦患と孤独の主題」と呼ばれ、三島由紀夫

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が戦後を相対化するための手段であったはず能楽は、小説「英霊の声」で修羅能の形式が選ばれ、徹底的に悲惨で終わりのない兵士たちの呪詛を幾重にも積み重ねて以降、変化する。能楽は急激に、三島由紀夫の思想に重ねられ、「実際の行動に近い一回性」(『行動学入門』)として、行動の真の指針となっていくのである。一九七〇年一一月二五日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内の東部方面総監部総監室。それは、「悲劇」としての能楽が、三島由紀夫の「本質と融合し」(エッセイ「日本の古典と私」)た結果、三島由紀夫自身の「悲劇」の表象となった瞬間であったのかもしれない。

第二部 『近 代能 楽集 』作 品論

第一章 能楽にお ける「生 の否定」の発見

――近代 能楽集ノ内「邯鄲」

少年次郎が十年ぶりに乳母菊を訪ね、無常を悟らせる邯鄲の枕での夢見を経て、彼女と暮らすと約束し、花に包まれる――『近代能楽集』の第一作、「邯鄲」(『人間』一九五〇年十月)である。戯曲「邯鄲」は従来、「世の無常を悟るという設定が反転し現実との和解が用意されている」(『三島由紀夫事典』二〇〇〇年)と説明され、「無常」から「現実との和解」への転換、すなわち、謡曲との差異でのみ語られてきた。だが、三島由紀夫は戯曲を謡曲「邯鄲」の「忠実な翻案」(エッセイ「作者の言葉―邯鄲覚書」)と述べる。死すら許されない生を悟りつつ過去を体現する菊へと自らを閉じ込める次郎のドラマた、儚いと悟った現世を生きて「能楽の形而上学的主題」を体現する謡曲の盧生を、確かに継いでいる。本稿は、第一に、謡曲「邯鄲」との比較により、三島由紀夫が「生の否定」として発見し、同時代への強烈な嫌悪と重ねた「能楽の形而上学的主題」を確認する。第二に、戯曲と前後して発表された三島由紀夫のエッセイ「重症者の兇器」と、小説「毒薬の社会的効用について」および「死の島」とを通して、戯曲「邯鄲」を読み直す。明らかになるのは、『近代能楽集』の第一作目の戯曲「邯鄲」が、詞章の引用、地謡の合唱をどう引き継ぐか、ドラマの構造、謡曲の背景をなす仏教的規範をどう処理するかなど、さまざまな面で、『近代能楽集』の手法を定める実験の場であったということである。戯曲「邯鄲」は、此岸を否定し彼岸を求める能楽から、仏教的規範を完全に切り取るこ

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集』の翻案の方法と理念は、戯曲「邯鄲」でまず実験され、二曲目以降へと繋がっていく。戯曲「邯鄲」が示すのは、仏教的な救済の枠組みを喪失した近代、しかも、「決して自殺が出来ない不死身者の不幸」(エッセイ「重症者の兇器」)と三島由紀夫が呼ぶ生きづらい戦後における、謡曲の「忠実な翻案」に違いない。それは同時に、十一年にもおよぶシリーズ『近代能楽集』で成し遂げられる、能楽の破壊的再生の宣言でもあった。

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第二 章 認識者と 実践 者、 その 葛藤の帰 趨

――近代 能楽集ノ内「卒塔 婆小町」

「オペレッタ風の極めて俗悪且つ常套的な舞台」に設えられた夜の公園の一角。「ちゆうちゆうたこかいな」と吸い殻を数える言葉を呪文のごとく反復する老婆に、後をつけてきた若い詩人が、どうして毎晩アベックをベンチから追い出すのかと問いかけ、二人の間に激しい問答が開始される。老婆優位に問答はすすみ、「おばあさん、あなたは一体誰なんです」と詩人が問えば、「むかし小町といわれた女さ」と老婆は答え、「私を美しいと云ふ男は、みんなきつと死ぬ」と云う。八十年前の昔話が始まり、ワルツの音とともに鹿鳴館が浮かび上がる。詩人は深草少将の役で老婆と踊る。百日目の約束を果たすように求める詩人は、ついに「君は美しい」と云って死ぬ。運ばれていく詩人の屍に、老婆の「ちゆうちゆうたこかいな」の声がかぶさるのだった――三島由紀夫『近代能楽集』第三作目の「卒塔婆小町」である。「『近代能楽集』の中の傑作であるのみならず、日本の新劇の最高峰の一つ」(ドナルド・キーン)や、「よくまとまっていて、佳作の一であろう」(吉田精一)、近年では「この作品には、三島という天才的作家の秘密が、凝縮されている」(松本徹)など、『近代能楽集』の中でもっとも評価の高い作品である。本作品には三島由紀夫自ら繰り返し詳細な解説を書いている。従来の評論および研究は、これらの解説を機軸においてなされてきた。三島由紀夫のこの時代の「詩」をめぐる転換が論じられ、永遠に変わらぬ覚醒者、認識者としての老婆のありかたが、一瞬の美的陶酔に賭ける実践者である詩人に優越するとの見方が多く提出される一方で、三島由紀夫の自死を想わせる詩人の「悲劇への意志」とその選択も無視できぬとの見方もある。本論は、まず原曲である謡曲「卒都婆小町」と戯曲「卒塔婆小町」を比較し、戯曲が謡曲の仏教的世界観を切捨てたに見えて、じつは「生の否定」なる「形而上学的主題」のより深い実現であるのを確認したうえで、「序破急」とも解説される戯曲の展開を具体的に辿る。酩酊する詩人と自信いっぱいでユーモラスでさえある老婆の関係が対立的対立から、鹿鳴館が浮かび上がる幻影場面を経て、詩人の美と死の選択に向けた老婆と詩人のいわば協同的対立に変化することを論じ、幕開けと幕切れに置かれた「ちゆうちゆうたこかいな」という言葉、特に幕切れの一連の言葉を検討し、認識者と実践者の葛藤の帰趨を見定める。

第三章 救い な き 死の受容

――近代 能楽集ノ内「葵上」

深夜、静かに眠る若林葵の病室に、夫である若林光が看護婦の案内であらわれ、ついで「真夜中の見舞い客」として夜毎に葵を苦しめる六条康子の生霊が出現、光と問答をくりひろげたのち消えるが……消えたかに見えた生霊の声が、電話から聞こえる六条康子の声と交叉し、それに促されるように葵が死ぬ――戯曲「葵上」(『新潮』一九五四年一月)である。

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六条御息所をシテとする謡曲「葵上」の翻案であることから、従来この戯曲は、葵に嫉妬する六条康子の生霊のドラマと読まれてきた。謡曲には登場しない光源氏の後継者(若林光)、謡曲のツレ照日巫女から変異した看護婦、六条御息所になりきれなかった生霊は看過され、なによりも、最初から最後まで舞台片隅のベッドに横たわって舞台上の出来事のすべてにたちあい、その死が舞台に暗黒をもたらす若林葵の存在は甚だしく軽視されてきたといえよう。本稿は、戯曲「葵上」を、謡曲「葵上」および『源氏物語』葵巻との関わりで捉え直し、若林葵を中心においた新たな読解の可能性を示す。すなわち、仏教的規範に守られてシテ六条御息所を退けた謡曲の葵上とおなじく、夫若林光のつよく意識する一夫一婦制という社会的規範に助けられはするものの、そのなかにこそ夫婦関係の虚妄をみいだし、ついには救いなき死にいたる若林葵のドラマとしての戯曲である。ここに、最終的には六条御息所にも救いを与えた救済の物語としての謡曲とはことなり、いっさいの救済を切り捨てむごたらしい結末へといきつく戯曲「葵上」がたちあらわれる。戯曲「葵上」について、三島由紀夫は「私の近代能楽集の製作の油が乗つてゐるときに書かれたもので、八篇の近代能楽集のうち、台詞の出来具合から云つても、舞台効果から云つても、一等気に入つてゐる」(エッセイ「『葵上』と『只ほど高いものはない』」)と述べた。夢幻能の過去回想を取り込み、ヨットの舞台装置を出したこれは、たしかにそうした意味においても特筆すべき一曲ではあった。だがそれ以上に重要なのは、戯曲「葵上」が、謡曲「葵上」の仏教的規範と同じく救済としてはたらくかにみえる一夫一婦制の規範をたちあげながら、その規範のなかに関係の虚妄をこそ見出し、若林葵に救いなき死を受容させた点である。こうして戯曲「葵上」は、『近代能楽集』他曲にも例のない真っ向からの仏教的規範との切り結びと切り捨てとなった。仏教的規範による救済がつきものの謡曲を、どのようにも救済が不可能な「近代」を際立たせるために活用し、救済なき「近代」をより深き受容をもとめた『近代能楽集』の思想は、この戯曲にもっとも鮮明にあらわれているにちがいない。それは、三島由紀夫にとって「能楽」の「一等」純粋な昇華でもあった。

第三章補論 近代 能楽集ノ内「葵上」における死の表 象

日本近代文学そして現代文学の作家のなかで、三島由紀夫はもっとも死と親和的に語られてきた作家である。それがあのセンセーショナルな死の選択にかかわるのはいうまでもないが、なによりもその小説、戯曲、エッセイにおいて三島由紀夫は死と親和的であった。「死」は、「三島文学において『行為』とともに最も多く用いられている語彙の一つである。三島は生涯、死と対面し、死と戯れ、遂に死から魅惑を絶ちきれなかった作家である。三島はあらゆる作品をとおし、死の意義・機能・様式等について論じている」(長谷川泉他編『三島由紀夫事典』(一九七六年)の「死」の項)と、森安理文は指摘する。その上で、『仮面の告白』から『豊饒の海』までの死の表象を丹念にひろいあげながら、三島の「死」が「官能」からはじまり、やがて「行為」に媒介されることで、「死の思想」にたかめられていく経緯を簡潔にまとめている。しかしそうだとすれば、戯曲「葵上」のラストシーンにおける眠れる葵の死、眠りつづ

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けることで舞台上の全ての出来事をひたすら受容し、仏教的な救済はもとより社会的規範による救済や、他者による救いの手もとどかない場所での、いかなる官能からも行為からも遠ざけられた、葵の死とはなにか。この問いかけは、仏教的規範による救済がつきものの謡曲から救済を切り捨て、彼岸の救済ゆえに濃縮され得た「生の否定」を大胆にとりだす『近代能楽集』の試み――どのようにも救済が不可能な「近代」を際立たせるために能楽を活用し、救済を喪失した「近代」のより深い受容を求めた『近代能楽集』の試みをうかびあがらせる。とともに、「官能」と「行為」に特徴づけられる三島由紀夫の死の表象に、もうひとつの死の表象をつけくわえねばならぬことを求めるにちがいない。すなわち、『近代能楽集』シリーズ中、戯曲「葵上」のみならず「邯鄲」や「弱法師」、さらには、あまりに『近代能楽集』の思想を露出させてしまったが故に廃曲された「源氏供養」にも顕著な、「生の否定」がもたらす救いなき死の表象である。

第四 章 不幸と狂 気の美的結晶体

――近代 能楽集ノ内「班女」論

画家の実子は、帰らぬ吉雄への強い、強すぎる執着から狂気にとらわれた花子を、世間から隠すように同居させていた。ある日、新聞に、井ノ頭線何がし駅で毎日男を待つ狂女すなわち花子の記事が掲載された。驚いた実子は、虚栄心から吉雄が花子を奪いに来るのではないかと危惧、旅に出ることを決め、もしもの場合には死ねばいいと思う。旅に出ようという実子の促しを、花子はここで待ち続けると一蹴。実子の危惧通りその日のうちに吉雄は訪ねて来た。しかし、花子は待つ男とは違うと吉雄をあっけなく拒んだ。「待つ」花子と「待たない」実子との間で今まで続いてきて、これからも続くであろう「すばらしい人生!」は、かくして最大の危機を乗り越えるだけでなく、その意味をいっそう鮮明にする――三島由紀夫『近代能楽集』第五作の「班女」(『新潮』一九五五年一月)である。三島由紀夫の「あまりに強度の愛が、実在の恋人を超えてしまふ」(「班女について」『俳優座スタジオ劇団同人会パンフレット』一九五七年六月)や、「ヒロインは、他の登場人物の住んでゐる世間から、狂気によって高く飛翔した。あるひは深く沈潜した、一種の神なのであつた」(「班女について」『産経観世能プログラム』一九五六年二月)との自作解説がある。これらから従来「現実を超越するに至る結晶化された情念の提示が、主な動機」(『三島由紀夫事典』)とされてきた。こうした「動機」は三島の言葉から肯えるとしても、はたして「結晶化された情念」とは何で、「一種の神」あるいは「神に近づく」とはいかなることか。また、『近代能楽集』という試みの中でどう位置づけられるのか。従来の論では、それらについて戯曲の展開に即して十分に検討されてはこなかった。本稿では、この戯曲がいわば「近代能楽集・前期」(五作品)のラストを飾る作品であり、「近代能楽集・前期」において主たるテーマとしてきた「生の否定」を最も鮮やかに、しかも肯定的に定着させた作品であること、すなわち「生の否定」の具体的なあらわれとしての不幸および狂気を美に結晶化させた作品であることを、翻案対象である謡曲「班女」との決定的な異同を押さえつつ、作品の中で生起する出来事を通して明らかにする。

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待っても待っても想う者についに再会できぬ花子の不幸が、待つ者も待つこともない実子の不幸と合体し、実在の吉雄をはっきりと退けた。その瞬間、花子に不幸と狂気の美的な結晶体を見出していた実子もまた、強い確信のもとに不幸と狂気のもう一つの美的結晶体になった。「(目をかがやかして)すばらしい人生!」と言う実子の輝きは、吉雄の出現という危機を潜り抜けて初めて獲得された、まがまがしい至福の宣言に他ならない。彼岸での救済に繋げる謡曲から仏教的規範を取り去り、「堕地獄の苦患と孤独」に身をおく者たちの「今日的」な「悲劇」をとらえ続けた『近代能楽集』にとって、戯曲「班女」で鮮やかに提出された、ふたつの不幸と狂気の美的結晶体の輝きは、「近代能楽集・前期」の総括としてなくてはならぬ幕切れの輝きだったのである。

第五章 覚醒した紅い唇の 女

――近代 能楽集ノ内「道成寺」

扉に梵鐘を浮彫された「化物的に巨大な衣裳箪笥(洋風の)」をめぐり、主人と客とが白熱する古道具屋のセリ会場に、貧しくも若く美しい踊り子(清子)が現れ、箪笥の血ぬられた逸話を語る。その逸話ゆえに箪笥は自分のものにならなければならぬと主張し、許されぬならばと、清子は硫酸を手に箪笥へとおどり込む。舞台に彼女の悲鳴が響き渡るが、ようやく開いた箪笥の扉から再登場するのは、「自然と和解した」清子であった。衣裳箪笥を残し彼女は、棒紅を唇に塗り、不気味に晴れやかな足取りで怪しげな春の街へ「風のごとく」消えていく――『近代能楽集』の六作目として発表された戯曲「道成寺」(『新潮』一九五七年一月)である。戯曲「道成寺」は、従来、「戯曲のドラマツルギーの解明や、現実との安易な和解というテーマが三島文学の中でどう位置づけられるのか」(『三島由紀夫事典』二〇〇〇年)という視点で論じられてきた。とくに最後の「自然と和解」なる言葉の解釈に、考察は集中している。たしかに「自然と和解」の解釈はこの戯曲を論じる場合重要だが、それには清子のうちで「自然」が変貌していく点をふまえなければならない。また、この戯曲には、存在感抜群の「化物的に巨大な衣裳箪笥」があり、戯曲が発表された時代と呼応するコミカルな金持ちたちや、三島美学を語るような古道具屋の主人などの魅力的な人物が登場する。貧しい踊り子清子を背後から後押しするかのごとき工場の「生産の音」、「奇異なる」音の響きもある。戯曲「道成寺」は、『近代能楽集』の中でもひときわ同時代の表象が取り込まれた一曲といえよう。こうした同時代の表象の只中でこそ、生々しい「自然」を通した清子の変貌がありえた。まるで蛇の脱皮を思わせる死から生への転換、生きいきと力強く輝くものへの変貌である。「郡虎彦氏に同名の名作があるので、『道成寺』をとりあげるのは永いこと躊躇してゐたが、つひに種が尽きて、『道成寺とは名付けたりや』になつた」(「あとがき」『鹿鳴館』)と三島由紀夫は書く。そこで立ち上がった三島の「道成寺」は、しかし、血みどろの死と狂気を終着点とする郡虎彦の「清姫」「道成寺」を離れ、禍々しくも輝かしい清子の変貌のドラマとなった。戯曲「道成寺」は、精神の自殺の物語でも明るい「生への再出発」の物語でもなく、ひとりの女であることあるいは人間であることを引き受けて「堕地獄」を生

(11)

きる、いかなる破局をも自ら選び取ろうとする壮絶な「生への出発」の、明確な宣言となったのである。

第六章 「こ の世のを は り の焔」は消えず

――近代 能楽集ノ内「弱法 師」

戦災で家族と生き別れになり視力もなくしたものの、養父母から溺愛されて育った俊徳少年が、十五年の後、実の両親とめぐり合う。血のつながったわが子が生きていたことを知った両親が、俊徳を取り戻そうと家庭裁判所に訴えたのである。二組の両親が激論を交わすが、自らの目を焼いた「この世のをはりの焔

」 に強く執着す

る俊徳は興味を示さず、両親を嘲弄するばかりだった。事態を収拾するため俊徳と二人きりの話し合いを試みる調停委員級子の前で、盲目の俊徳は沈む太陽に「この世のをはりの焔」が見えると狂乱する。それはたんなる夕映えだと応じる級子を俊徳は遠ざけ、明るい部屋の中でつぶやく、「僕つ

ね、

……

どう

して

だか

、誰

から

も愛

され

るん

だよ

。 」―

―『

近代

能楽

集』

の八

作目

戯曲

「弱

法師」(『声』一九六〇年七月)である。俊徳の激しい台詞と印象的な幕切れへの注目から従来、少年の終末観に侵された想念が、級子に代表される現実に敗北したと捉えられてきた。しかし本稿は、説経節や歌舞伎、あるいは謡曲などの「しんとく丸」をめぐるさまざまな物語や、『近代能楽集』全体との関係において、一見安定し平和で豊かな現実への内なる抵抗者としての俊徳像、を掲げる。今までもこれからも、少年俊徳は、いかに日常生活的現実に拒絶され隠蔽されようとも、「この世のをはりの焔」を心にいだきつつ、「生の否定」を生きるだろう。そんな内なる抵抗は、級子の提示する日常的現実に敗れ去ったように描かれたことで、いっそう凝縮し意義深いものとなる。少年俊徳は、『太平記』がいう「妖霊星」、すなわち「弱法師」の禍々しさに通じ、三島由紀夫の戯曲「癩王のテラス」へと繋がり、遺作となった『豊饒の海』「天人五衰」の安永透へと至るのかもしれない。謡曲「弱法師」の俊徳丸も多くの「しんとく丸」伝承の最後にあしらわれた平癒と貴種復帰という逆転勝利をもこえ、「『弱法師』執筆当時、高度経済成長期と、大衆文化の隆盛期にあって、現実世界と交わることができず、一人ぽつねんと立ち尽くしている三島の自画像」(先田進「三島由紀夫作『弱法師』における《盲目》の意義」)さえ凌駕する禍々しき波乱の俊徳は、「終つてしまつた世界」があるかぎり「この世のをはりの焔」として連なっていくのである。終ってしまった人生であっても「生きたいんだ」(『邯鄲』)という絶叫の肯定ではじまった『近代能楽集』は、救済なき「堕地獄」の凄惨な、それゆえ近代の「生の否定」(「美について」)を存分に生きることを称揚し続けた。戦火の記憶によって逆に照射される戦後の現実を、「もう終つてしまつた世界」だと訴えて生きる俊徳の孤独で執拗な意志があって

そ、

戯曲

「弱

法師

」は

(廃

曲さ

れた

戯曲

「源

氏供

養」

を除

けば

) 『

近代

能楽

集』

の最

終曲

に相応しい。

(12)

第七章 切り捨 て られた供 養

――近代 能楽集ノ内「源氏供養」

「悲劇」を受け入れ「悲劇」を言祝ぐ作家野添紫と、「悲劇」から目を離すことのできない読者たちの出会いと共謀のドラマ――戯曲「源氏供養」(『文芸』一九六二年三月)である。「戦争中に大事に守つてきた美的教養が、敗戦でオジャンに」(「私の遍歴時代」)なったとき、三島由紀夫は、シリーズ『近代能楽集』を書き始める。「近代(戦後)」という時代の異物(「能楽」)はそこで、作品の成り立ちに不可欠であった仏教的規範を取り去られ、それによって結末部の仏教的救済を大胆に切り捨てられて、「生の否定」の「悲劇」のみが露呈する救い難いドラマとして再提示された。そんなシリーズの最後に位置しながら、三島由紀夫が新潮文庫版

『 近 代

能 楽

集 』 へ

の 入

集 を

許 さ

、 発

表 の

七 年

後 、

そ の

死 の

直 前

に な

っ て

突如「廃曲」を宣言したスキャンダラスな戯曲が、「源氏供養」である。作話と読書による仏教規範侵犯の罪が光源氏供養によって贖われ、作者と読者が仏教的救済に至るという「狂言綺語」の思想にもとづいた謡曲「源氏供養」から、この戯曲は供養を排除し救済を退ける。虚構をめぐる罪に言及しながらも供養を扱う謡曲後場すべてを捨て去った戯曲は、「狂言綺語」思想とは逆に、読者と作者と作品との関係の中で、虚構における「救済」の拒否を積極的に反復する。明らかになるのは、供養の場面を大きく切り捨ててシリーズの翻案方法を徹底し、永遠に反復する「救済」の拒否によってシリーズのテーマを徹底させた戯曲「源氏供養」とは、悲劇を受け入れ悲劇を言祝ぐ作家野添紫の口を借りた『近代能楽集』解説でもあったということ。『近代能楽集』から除かれはしたものの、虚構とそれに関わるものの「救済」の拒否を言祝ぐこの戯曲は、能楽を翻案する三島由紀夫の手つきそのものを語る、いわばメタ『近代能楽集』戯曲であった。三島自身による「廃曲」宣言を忠実になぞるかのように、従来この戯曲にむけられてきた「失敗作」(『三島由紀夫事典』二〇〇〇年)という評価は、「源氏供養」が『近代能楽集』ととりむすぶこうした関係を無視してきた。戯曲「源氏供養」は、シリーズ全体の方法とテーマをあからさまに提示し、シリーズを終えるためにさしだされた「『近代能楽集』供養」とも呼ぶべき一曲だったのである。

第七章補論ふたつの「源氏供養」―三島由紀夫の戯曲と橋本治のエッセイをめぐって

『 源

氏 物

語 』

を 取

り 巻

く 伝

承 の

ひ と

つ に

、 「 源

氏 供

養 」

が あ

る 。 『

源 氏

物 語

』 な

る 虚

構 を

書いて地獄へ落ちた紫式部と、『源氏物語』を楽しんでしまった読者の罪をすすぐために、『源氏物語』を供養しようというエピソードである。物語を書くことと読むことの罪と浄罪の背景には、いうまでもなく仏教的な価値観が存在する。というよりもむしろ、狂言綺語をめぐって虚構の意義を問いかける「源氏供養」は、その問いかけを仏教的な価値規範の中にしか向けない説話だといったほうがよい。したがって、この説話の変遷は、それぞれの時代を生きる人々の仏教的救済希求の発露の変遷にかかわる。

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だからこそ、現世において合理的で明るい進歩を目指す近代という時代が、かつての仏教的な規範をほぼ無力化したとき、「源氏供養」説話もその意義をうしなったはずだった。しかし、アジア・太平洋戦争後、近代化がさらに徹底されていく時代において、「源氏供養」説話に注目するふたりの作家があらわれる。ひとりは一九七〇年十一月二十五日、幻想としての天皇と日本文化とに殉じた三島由紀夫。そしてもうひとりは、東大紛争のさなか、第十九回駒場祭(一九六八年十一月開催)のポスターイラストでデビューした橋本治である。三島由紀夫はシリーズ『近代能楽集』の最終曲となる戯曲「源氏供養」(『文芸』一九六二年三月)を発表し、それからほぼ三十年後、橋本治は『源氏物語』の翻案『窯変源氏物語』(中央公論社一九九一~一九九三年)に続きエッセイ『源氏供養』(中央公論社上巻一九九三年十月・下巻一九四四年四月)を書く。橋本治は、『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮社二〇〇〇年一月)で、「三島由紀夫と共に終わった時代の名を『戦後』と言う」と規定する。それに従うなら、戯曲「源氏供養」とエッセイ『源氏供養』とは、「戦後」の終焉を挟んで表象されたふたつの「源氏供養」であった。そんなふたつの「源氏供養」は、仏教的な規範への集約を免れることで、三島由紀夫と橋本治それぞれにとっての虚構の意義だけを露出させた。それは、「戦後」の自立した作者と、自立した作者が疑われ自立した読者の登場をみる「戦後」後との、虚構をめぐる差異を際立たせることにもつながる。

第三部 能楽との関わりで郡虎彦の戯曲と三島由紀夫の小説を読 む

第一章

血の粉を撒いた「珍しい夜明け」へ

――郡虎彦の戯曲「清姫

若く

は道成寺」と戯曲「道成寺」

単行本『近代能楽集』(新潮社一九五六年四月)の「あとがき」に、三島由紀夫は「私の『近代能楽集』は、もと、郡虎彦氏の『鉄輪』『道成寺』『清姫』三篇の能に取材した戯曲から、想を得た」と書く。もともと、郡虎彦への傾倒を繰り返し書いてきた三島由紀夫は、『近代能楽集』もまた郡虎彦に導かれて始めたと言うのである。しかし、戯曲「班女」までを収めた単行本『近代能楽集』の翌年、「郡虎彦氏に同名の名作があるので、『道成寺』をとりあげるのは永いこと躊躇してゐたが、つひに種が尽きて、『道成寺とは名付けたりや』になつた」(『鹿鳴館』「あとがき」東京創元社一九五七年三月)といわれる三島由紀夫の戯曲「道成寺」は、血みどろの死と狂気を終着点とする郡虎彦の「清姫」「道成寺」を離れ、ひとりの女性であることを引き受け、いかなる破局をも自ら選び取ろうとする壮絶な「生への出発」となった。本稿は、三島由紀夫とはまったく異なった手つきで能楽に対した郡虎彦の戯曲「清姫」と「道成寺」を捉え、『近代能楽集』シリーズを導くものとしての郡虎彦を考える。

(14)

郡虎彦は、初期の志賀直哉にどこか似て、後の有島武郎へも通じる白樺派の一面を担った作家、あるいは浪漫主義的な血塗れの想像力によって、白樺派の人道主義や反戦の思想を強力に先取りするだけでなく、一九一〇年代前後を象徴する作家のひとりである。「深いところで現実に強い違和感をいだ」(本多秋五『明治文学全集76 初期白樺派文学集』解題)き、題材の上でも国家という枠組みにおいても「飛行機の飛翔」(同じ右)のごとく「現実」を乗り越えようとし続けた郡虎彦は、しかし、日本の中で変革を期待し準備するのではなく、内側から日本を食い破るように血みどろの物語を書き、日本を脱出し、渡欧後も転地をくり返し客地で死んだ。そんな郡虎彦に、同じくたえず「現実」からの飛翔を試みた三島由紀夫が惹かれるのは、当然だったのかもしれない。三島由紀夫は郡虎彦に、「現実」からの逃避や逸脱というよりむしろ、烈しく「近代」と衝突し、その結果、三戯曲のごとき「古典劇」の「翻案」へと行き着いた先達を見出した。そして、能楽という前近代を足掛かりに終末意識を精錬し、血みどろの炎上という徹底的な破滅へたどり着くことで「近代」の「現実」を拒んだ郡虎彦に対し、「決して自殺が出来ない不死身者の不幸」(「重症者の兇器」『人間』一九四八年三月)を生きるしかない戦後の三島由紀夫は、能楽の「生の否定」をいかなる破局をも自ら選び取ろうとする壮絶な「生への出発」へとつなげて見せた。郡虎彦から三島由紀夫へ。かつての世紀末の終末意識は、能楽の「生の否定」を媒介として、戦後の廃墟を照らし出し、「生の否定」を生きる堕地獄者の楽園となって暗く花開いたのである。

第二 章 言語によ る美的抵 抗

――三島由紀夫の「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」年若い殺人者の日記には、将軍と北の方、乞食百二十六人、能若衆や遊女、肺結核患者の殺害が書かれる日もあり、春の森の散歩、殺人者への讃歌、港で出会った海賊との対話などが記録される日もある。殺人者と被害者、生と死、美と醜、限界と久遠など、ひたすらに対比的な言葉で殺人を語る自称殺人者は、しかし、他者を恐怖し拒絶し、理解されぬとき死ぬという――三島由紀夫の初期短篇、「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」(『夜の支度』鎌倉文庫一九四八年十二月)である。三島由紀夫が解説で「この短い散文詩風の作品にあらわれた殺人哲学、殺人者(芸術家)と航海者(行動家)との対比、などの主題には、後年の私の幾多の長編小説の主題の萌芽が、ことごとく含まれていると云つても過言ではない」(『花ざかりの森・憂国』解説)と述べたため、ニーチェの超人思想や死への美意識のあらわれが、後の三島由紀夫の源泉と捉えられてきた。本稿は、「能楽はたえず私の文学に底流してきた」と三島由紀夫自身が述べる能楽との関わりを提示し、それによって、この「難解」(『三島由紀夫事典』二〇〇〇年)な小説を読み直す。「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」には、一九四四年八月に発表された原型、「夜の車/みつ汐の夜の車に月を載せて(松風)」(『文芸文化』)がある。「夜

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の車」というタイトル自体が、サブタイトルで引用された謡曲「松風」の詞章、すなわち「みつ汐の夜の車に月を載せて」から取られており、改作に際して削除された末尾には謡曲「松風」の詞章引用があった。そんな謡曲「松風」から見えてくるのは、決して報われることのない同じ行為を繰り返す悲劇のドラマとしての「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」であり、それ以上に、つらく苦しい此岸から仏教的な救済の彼岸への跳躍を目指す能楽そのものが、死によって安らかな美を付与する殺人者自身のあり方へと継承されたことである。小説「夜の車」から「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」へと改作されるに当たり、謡曲「松風」の詞章を含むラストシーンが削られたものの、美と死のはざまに佇立する能楽そのものの「悲劇」は、残されたのである。戦争という大量殺人の只中で、入営に脅え死に脅え、身近に迫った外部からの死を内部化しようと足掻く少年三島由紀夫の混乱した精神世界を映す小説「夜の車/みつ汐の夜の車に月を載せて(松風)」と後継「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」は、こうして、最初期における三島由紀夫の濃密な能楽表象となったのである。

第三章 『豊饒の 海』の行 き着い た 「美しい 衰亡」

――能楽表象からの読解の可能性

すばらしき青春の日々を共に過ごし夭折した友人松枝清顕にとらわれ、清顕の面影を追い求めることだけに、残りの人生を費やす本多繁邦の物語――長編小説『豊饒の海』である。本多繁邦は松枝清顕と同じく脇腹に三つの黒子をもつ美しい少年少女たち、すなわち、第二巻「奔馬」の飯沼勲、第三巻「暁の寺」の月光姫、第四巻「天人五衰」の安永透を次々に見出し、清顕の転生者かもしれないと思い悩みながら彼らの青春を見届けた。十八歳から七十六歳にいたるまで、松枝清顕の面影を追い続けた本多繁邦は、最後の最後で、松枝清顕の恋人だった綾倉聡子から、「その松枝清顕さんといふ方は、どういふお人やした?」と問われる。清顕がいなかったのだとしたら、本多の人生はなんだったのだろう。本多が見てきた三人の少年少女も、いなかったことになる。「その上、ひよつとしたら、この私ですらも……」。「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思つた。庭は、夏の日ざかりの日を浴びて、しんとしてゐる……」。本多繁邦の長い恋が破綻したばかりか松枝清顕の存在さえ否定され、生も死も転生もあらゆる記憶を拒絶する「何もないところ」が、静かに物語世界を飲み込んでいく。だが、この「記憶もなければ何もない」徹底的に報われないラストシーンは、第二巻「奔

馬」

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風」の詞章を思いつつ清顕を想起する本多は、すでに、清顕の美の本質が「厳格な一回性」であることに気がついていたのである。青春の日につかの間あらわれすぐに失われたからこそ、唯一無二の美しい存在として本多繁邦の心を縛った清顕は、転生者に希望を繋ぐことでは決して取り戻せない。逆に三人の転生者候補は次第に清顕の面影を破壊して、美しかった本多の中の清顕を、謡曲「羽衣」で語られる天女の死としての「美しい衰亡」へと陥らせたのである。なぜ本多繁邦は、転生者らしき人物に何人出会っても満足できず、清

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顕探しをやめられないのか。なぜ清顕探しの最後を締めくくる巻が、「天人五衰」と題されたのか。本稿は、主に絶対的な悲恋の枠組みとしての謡曲「松風」と「羽衣」を介し、『豊饒の海』を読み直す。不可能へと痛々しく手をのばし続け、決して報われないからこそ生きられた徹底的な悲恋の物語は同時に、「能楽はたえず私の文学に底流してきた」(「日本の古典と私」)と語った三島由紀夫にとっての最終的な能楽観の表明ともなった。『豊饒の海』を書き終えた三島由紀夫は、「悲劇」

「 絶 望 」 「

生 の

否 定

動学入門」)へと自ら重なるようにして、最後の行動へと突き進んでいく。 独の主題」などと捉えてきた能楽の、もうひとつの側面「実際の行動に近い一回性」(「行 」 「堕地獄の苦患と孤

本博士論文は、総字数261,013 文字、400 字詰め原稿用紙換算約860 枚。

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