フランス・ルネサンス期の庭園
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(2) 48. 岩切. Ⅴ @. た. お. 1560-74. (母 カトリーヌ・. ド. ・メディシス. ). ・メディシス 摂政 ). 1562-98. アンリ 3 世. 1574-89. アンリ 4 世. 1594-1610. ナントの勅令. ド. ( 同上 ). 聖 バーソロミュ 一の虐殺. 1572. ( 暗殺されヴァロワ ( プルポン 朝 。. 朝 断絶 ). 王妃マリー. ド・メディシス. ). 1598. 1610円 3. 世. き. ( 王妃カトリーヌ・. 1559-50. ユグノ 一戦争. 13. て王. フランソワ 2 世. ルイ. 覧. 1547-59. シャルル 9 世. を. (1494年、 イタリア侵攻 ). 1515-47. フランソワⅠ 世 アンリ 2 世. 王 の. 1498-1515. の. ルイ 1 2 世. 代 歴. 1483 り 8. 期. 七寸 ヨ. ノⅠ. の. ブし. め た. の. 宜 便. シャルル 8 世. 正介. (母 マリー・. ド. ・メディシス. 摂政。. 宰相リシュリュー 1624円 2). ( 参考 ). ルイ 1 4 世. 1643 一 1715. (親政 1661 年から。. マザラン執政 1642 一 1661). 1648 円 3. フロンドの乱. このうち、 とくに造園に 熱心だったのは、 シャルル 8 世、 フランソワ. 1. 世、 そして、. アンリ 4. 世. であ る。. 2. イタリアに 学ぷ一 シャルル 8 世 シャルル. 8. 世は、 1494年、 イタリアに侵攻し、 1495年にナポリ王国を 征服する。 シャルル 8. 付き従った騎士達は、 点. 初期イタリア・ルネサンスの 芸術と技術に 感嘆する。 その驚きはナポリで 頂. に達し、 ナポリはこの 世の天国か 、. と思. う. いところ全てを 案内させ、 庭園の美しさにも. と. 世と. ほどであ ったという。 シャルル 8 世は、 ナポリの美し. 目を奪われた。 自ら、. 故国に「ナポリにあ る庭園の素. 晴らしさは想像できないでしょう。 アダムとイヴがいれば、 まさに地上の 天国になります。 それほ ど ナポリの庭には. 優れた、 珍しいものがすべてあ ります」と書き 送っている。 ポッジョ・レア 一. ノ. 0刀 才. 量る 大せ. っ花. た開. る. 川 L札十一下. 帰を. 連語. ノ ン. ここ スス. ララ フフ. や. 技や 家が 術れ. 芸こ の. ァた リつ. の持. 人も. な. % ど. で石. 8 物. ル善. ャ 毯に. ル、な. 叫んだと ぃ ,ワ. こ彫. 世. 宮に泊まったとき、 お付きのひとりは、 「ここの素晴らしさを 伝えるには、 詩と 絵の名人が必要だ」. アンボ ヮ一ズ城. 世は、 にいっそう勤しむ。 2 年後、 帰国したシャルル 8. 出征双から取り 組んでいたロワール 河畔の居城アンボワーズ 城の改築. シャルル 2. 世は急死し、 改修は完了していなかったが、. 事な姿を見せていたという。 庭の改修は、 ナポリから連れ 帰った庭師に 行わせた。. すでに城は見. 中世の小庭が 拡.
(3) フランス・ルネサンス 期の庭園. 張 され、 そこにイタリア 風のコンパートメント. 49. ( 正方形の区画花壇 ). の並ぶ 、 小さいが 酒落た 庭に. 変った。 薬草、 香草、 そして花が、 コンパートメントごとに 異なるさまざまな 幾何学模様を 描いた。 コンパートメントの 眼目は、 ひとつひとつが 見る者を楽しませることであ った。 果樹が庭の周囲、 そして隣に植えられた。 美 と実用は共存し、 果樹を庭に植えるのは、 イタリアでも 普通であ った。 この細長い庭は 緑 廊 (格子作りのトンネル ) で囲われ、 ひとが 憩、 格子組みの 園 亭も設けられた。 ぅ. この 緑 廓や 園 亭から庭の全体を 見るのも、 庭の楽しみ方のひとつであ った。 アンボ ヮ一ズ 城はロワール 川に臨む狭い 岡の上にあ って、 もともと庭のスペースには 限度があ っ たが、 シャルル 8 世は、 オレンジの庭を 設け、 イタリアから 取り寄せたオレンジを 植えた。 て. こ うし. フランスではじめてのオレンジの 庭が生まれた。 オレンジの実はまだ 苦かったが、 庭師は毎年正. に 、 オレンジの小枝を 献上した。 オレンジはイタリアの 庭でも目玉のひとつで、 フランスの庭でも. 不可欠なものになっていく。 アンボローズ 城の庭を担当したイタリアの 庭師は僧で、 名を. Pasello(Pacello) da. パ セロ. Mercogliano といった。 アンボ ヮ一ズ 城の改築は次のルイ 12世が継承、 庭の緑 廊は 、 屋根付きの 立 派な 歩廊に変わったⅢ。 アンボ ヮ一ズ 城は、 中庭を囲んで 城の建物が連なり、 隅 ごとに塔を持っ、. という中世の 城砦の様. 弍 をとっており、 庭は城の建物に 外接する敷地に 造られた。 フランス・ルネサンスの 初めに位置するアンボ ヮ一ズ 城の庭は 、 小さいが、 これからしばらく 続 く. フランスの庭の 特徴を備えていた。 ひとっに、 幾何学模様のコンパートメントが 碁盤の目に並ぶ. こと、 その庭を一段高いところ ( テラス ) に設けられた 緑廊 (格子のトンネル ) あ るいは屋根付き の 歩廊が囲み、 そこから健全体の 模様を眺めるよ になっていたこと、 城 との位置関係はとくに 意 う. 試 されず、 庭は城に対して 適当に外接していたこと、 つまり、 城が一つの空間、 庭がもう一つの 別 の 空間として、 それぞれが独立で、 二つは適宜、 通路によって 繋がっていること、 であ る。 プ ロワ. 城. ルイ 12世は、 アンボ ヮ一ズの城と 庭の改修を引継ぎ、 工事を完成させたが、 自分が生まれた プ ロ ヮ 城を好み、. これを大きく 拡張整備して、 移り住み、 そこを居城とした。 その工事は、 1500年から. 1515年にかけて行われた。 城はやはり、 中世の城の基礎の 上に拡張され、 中庭を囲む形をとった。 庭の拡張は著しく、 中世の小庭ひとつから、 3 面の庭に増えた。 中心になった 装飾庭園は、 10のコ ンハー. トメントを 5 つずつ二列に 並べて全体が 長方形、 およそ 100 メートル X75 メートルの規模で、. 四周は木造の 精妙で優美な 歩廊で囲われた。 ¥Qのコンパートメント (Parque ビと 呼ばれていた ). は. ひとっひとっが 晒落た緑廊 で囲われ、 コンパートメントではそれぞれ 異なる幾何学模様に 工夫が 凝 らされていた。 装飾庭園の中心に 園亭が 置かれ、 イタリア人の 作った美しく 細かな浮き彫りや 彫像 を豊富にあ しらった大理石の 噴水が、 その中に置かれた。 この庭は「王妃の 庭」と呼ばれ、 そこに は 王妃アンヌ・. ド. ・ブルターニュが 祈りを捧げる 見事な造りの 小 礼拝堂もあ った。. 一段上に設けられた. 広い、. 「王の庭」と. 呼ばれた庭は、 果樹園で、. 王家の食卓に 果物を供給するた. めに設けられた 庭であ った。 この庭もやはり、 正方形のコンパートメントを 碁盤 目 に並べ、 整然と した構成になっていた。 豊富な果物がここで 取れるようになるのは、. アンリ 2. 世の時代になってか. らだといわれる。 中心部に十字形のパーゴラが 設けられるのも、 その時であ る。 装飾庭園の一段下にあ ったのが、 中世の小庭をいくらか 大きく整備した 庭で、 ここもコンパート.
(4) 50. 岩切. メント. 6. 正介. つからなっており、 この庭を見下ろす、 高くて細長い 建物のような 歩廊が、 一辺に置かれ. ていた。 ここは菜園で、 薬草や香草も 育てられていたが、 やはりそれぞれが 美しい幾何学模様をな すよ. う. に植えられ、 歩廊からその 模様と色彩の 美しさを眺めた。 菜園を幾何学模様に 植えるのは、. ひろくヨーロッパの 中世の修道院で 見られた伝統であ った。 薬草は、 医療の中心として 城の生活に は欠かせないものであ ったし、 香草は、 料理、 また女性達の 化粧に欠かせなかった。 プ ロ ヮ 城は壕で囲われた 3. 城で、. ルイ. 12世の頃 には空堀となり、 果樹が植えられていたが、 新しい. 面の庭はこの 壕の外側に造られ、 城の領域と庭の 領域はそれぞれ 別の閉じた領域になっていた。. このふたつの 空間は 、 壕に架けられた 一本の歩廊. (屋根付きの渡り. 廊下 ) で繋がれていた。 上下 3. 段に設けられた 庭もそれぞれが 独立した空間で、 たとえば、 直接、 石段で繋がっているのではなか った 。 ブロ. ヮ 城の造園で、. ルイ 12世が起用したのも、 庭師 パ セロであ った。. 当時の記録によれば、 ブロワ城では、 種々の野菜と 果物が育てられ、 樽 植えのレモンやオレンジ もあ って 、 冬には、 小屋に入れられたという㈲。. ガイコン 城 ルイ く. 12世の大臣を務めたアンボ ヮ一ズ 枢機卿は、 ルイ 12世と競. は ガイコン城を 新築し. う. よ. う. に、 居館のあ るルーアン 近. 、 庭を造った。 それまであ った中世の城はイギリス 人の侵攻によって 破壊. されていたので、 城は新築であ ったが、 基本構造は中世の 城を踏襲し、 四角い中庭を 囲んで城の建 物 が連なり、 四つ隅にそれぞれ 塔があ り、 城の敷地は壕に 囲まれていた。 塔は門も左右にも 設けら れた。 ただ、 城 全体は 、 新しく建てただけに 旧城 の 増 改修とは異なって、 比較的整然とした 姿に仕 上げられた。 中庭の真ん中には、 ヴェ ネ .チア共和国から 送られた、 きわめて美麗な 噴水が据えられ、 その 基台 には、 枢機卿と王の 紋章が彫り込まれていた。 この噴水は、 当時、 スペインやフランスの 注文にも応じていた 有名なジェノ バ の工房で作られたもので、 三段の泉水盤を 重ね、獅子面や人面、. 数多くの彫像で 飾られており、 海路ここへ運ばれた。 庭 はここでも城の 外側に 、 壕を隔てて、 構成上は城との 関係はとくに 考慮されずに 設けられた。 また、. 3. 面の庭相互の 間に、 構成上の繋がりも 通路や階段による 連絡もなく、 それぞれ別個であ っ. た. 城から装飾庭園へ 行くには、 城の横門を出て 、 壕にかかる橋を 渡り、 広い広場のような 中庭を横 切って行った。 樹林 園 に行くには、 別の道を取った。 下段の果樹・ 菜園にいく時は 、 広い広場のよ う. な中庭から地下道を 通った。 中心の庭は、 コンパートメントを 碁盤の目に並べた 装飾庭園で、 中央には国事 が 置かれて、 憩い. の場所となっていた。 中には噴水があ り、 屋根の上には、 聖 ヨハネの像がのっていた。 中央の通路 の突き当りにも 園亭 がおかれ、 ここは人が住めるよ で 囲われ、 雨や太陽を避けて、 庭の模様や色彩を. う. になっていた。 庭は二方から、 L 字をなす歩廊. 眺めて楽しむのに 便利であ った。 ひとつの歩廊は、. 下段の果樹・ 菜園と平行していたので、 果樹・菜園を 眺めることができ、 向こうの谷の 景色も見る ことができた。 歩廊はそれぞれ 細長い建物のような 立派な造りで、 複数の塔をもっており、 下段の. 庭と平行に走る 歩廊の中には 宴の広間が置かれていた。 人々は広間で 集い楽しみ、 外には装飾庭園 と 果樹,菜園、 その向こうに. 広がる谷の景色をみた。. 装飾庭園のコンパートメントには、 花と色砂で様々な 紋章が描かれ、周りをブナの 生垣が囲んだ。. 四隅には低木が 植えられた。 当初、 コンパートメントを 囲んでいたのは、 ブナでなく木柵で、 それ.
(5) 51. フランス・ルネサンス 期の庭園. には戸がついていたという。 後代に比べ、 一つ一つのコンパートメントの 独立性が強かったことが. 窺える。 コンパートメントの 中には、 らにここには、 迷路がふたつ 作られ、 あ った。. 様々な動物の 木彫が飾られ、 その模様を眺める. 楽しみ、. 眺めをにぎやかにしていた。. さ. また実際にたどってみる 楽しみが. 迷路は背丈の 低い植物で作られていたから、 ひとの姿が隠れたのではない。. 装飾庭園の上段にあ ったのが緑の 濃い樹林 園 で、 装飾庭園の下段にあ ったのが広い 果樹・菜園で あ った。 然と. そこには、 桃 、 桑 、 そしてブドウが 植えられ、 また野菜と薬草が、 幾何学模様のなかで 整. 育てられた。. この枢機卿の 庭を造ったのも、 イタリア人の 庭師 パ セロで、 かれが故郷から 呼び寄せた仲間が. カ. PierodaMercogliano はガイコン城の 庭師となって、 その後、 庭 の管理にあ たった。 ガイコン城の 庭は、 ルイ 12世時代のもっとも 優れた庭であ ったが、 ルイ世は臣 を 貸した。. そのひとり、. ピエロ. 下の庭に嫉妬することもなく、 かえって自分の 庭師を融通したという㈹。 ガイコン城は 新築であ るにもかかわらず、 壕が設けられたが、 これはすでに 防衛のためよりも 装 飾が 目的であ った。 フランスの城は、 この壕をかなり 後まで長く保持した 点が一つの特徴で、 次代 の幾何学 式 庭園の典型. ヴ オー・. ル ・ヴィコント 城でも、 まだこの装飾的な 壕が使われている。 ルネ、. サンス期におけるこの 壕は 、 庭の作りにも 影響を与え、 やがて、 ルネサンス期のフランスの 庭のな かに運河という 細長い水面を 織り込むひとつの 要因になる。. 3. フランスの庭の 確立一フランソワ. 1. 世. フオンテーヌブロー 城 次の 16世紀の前半は、 フランソワ た。. 1. 世の時代で、 まず、 フオンテーヌ. プ. ロ一の 城と 庭が整備され. それまで広い 茶のなかにあ ったのは狩猟用の 古い小城で、 これが増改修され、 今に残るフォン. テーヌ. プ. ロ一の 城と 庭の原型が作られた。 城はかなり変則で、 中庭を複数もつ 建物の不思議な 連続. する姿をとり、 中心部は水路で 囲まれている。 これを有名な 女流庭園史家ゴ ー タインのように 運河 だとするのか、. あ. るいは 壕 というべきか、 かならずしもはっきりしないが、 すくなくとも、 この水. 路は、 壕の典型がそうであ るよ に、 防御的に切り 立つ石壁を持ち 幅広く掘り下げられている、 と いうものではなく、 たんに折れ曲がる 水路といった 簡単な作りになっている。 おそらく、 壕 転じて う. 運河となる、 であ ったのだと思われる。 フランソワ. 1. 世は、 また、 城 近くの沼地を 掘って広い池を 作り、 そこに鯉を飼った。 この広い 池. の一辺は、 城の南で敷地に 接していた。 この池に沿って 土手道、 つまり並木道が 設けられ、 南にあ. った。 池の反対側 (東 ) には、 果樹と芝生があ 形に区切られた 区画に収まっていた。 全体ではかなり 広く、 散歩道でもあ. る門に通じていた。 このアプローチは り、 それぞれ不揃いではあ るが、 長方 当時の図版では 芝生の上で遊戯を 楽し. れ 多くの人物が 描きこまれている。 果樹と芝生の 各区画はそれぞれ 樹に囲まれていた。 何よりの特 徴は、 この広い庭の 中央を運河が 横切っていることであ る。 各区画 (,p eau, と 記されている ) 「. れぞれ細い運河に. 囲まれていた。. もそ. これは湿地に 作る庭の排水と 装飾を兼ねる 処理から生まれたもの、. と推測される。 なおいえば、 ここで掘られた 大池は 、 後のヴェルサイユ 宮殿の庭のスイス 人の他を 連想は せる。. 並木道から、 大池の向こう 岸 (西 ) を眺めると、 「松の庭」があ った。 それは冬の眺めの 楽しみが 絶えないように、 と針葉樹を植えた 庭であ った。 ここには、 針葉樹の列に 挟まれて、 薬草と野菜の.
(6) 52. 岩切. 正介. 庭が 、 正方形のコンパートメントで 2 列 7 面、 それぞれ幾何学模様を 凝らして、 並べられていた。. 模様を描くために、 ここでは ツゲ が使われていたと 推察されている。 庭の整備はこれで 終わらなかった。 「ユリシーズの 歩廊」と名づけられた 城の正面 (池の北岸 ) に 沿って 、 広い運河が設けられ、 その終端には、 田舎風の荒石のアーチを 持つグロットが 作られ、 庭 の 見ものになっていた。 アーチの左右には. 巨人傑が立ち、 アーチをくぐると、 まずニンフェウム. の精の祠 ) があ って、 左右の壁に小さな 美しい泉があ り、 ット. あ たりは緑の植物で. 覆われていた。. (水. グロ. に入ると噴水があ り、 水鳥と海の動物で 装飾がほどこされていた。 グロットの上には 園亭 があ. 、 園 亭は城の建物の 末端になっていた。. り. もっとも装飾を 凝らした庭は、 小庭ながら、 水路 に 作られた。. 長方形の花壇を. 4 つ 合わせて、. に囲われた敷地内で 城のすぐそば. (北 ). 中心にディアナの 像が配された。 花壇の幾何学模様は. 、ソゲ で描かれ、 その間を花と 色砂が埋めていた。 の 庭にやって来る. (運河 ). 4. 面の花壇はそれぞれ 木の柱で囲まれていた。. こ. 者は、 中央のデイアナの 像にも近寄れるし、 花壇の一枚一枚を 巡って見ることも. できた。 フランソワ. 1. 世は、 ラオコーン、 ベルヴェデ ーレの アポロ、 眠れるアリアドネなど、 古代. の 彫刻の名品の 青銅のコピーをイタリアから. 取り寄せ、 この装飾庭園に 飾ったともいわれる。 なお、. この小さな装飾庭園を 見るためのパーゴラは、 花壇からいくらか 離れたところに、. あ たかも独立の. 建造物のように 設けられていた㈲。 シヤンティーイ 城 ほぼ同じ頃 に作られた水の 城. (あ. るいは水の庭 ) がシャンティー イ であ る。 ここは中世以来の 要. 衝の地で、 広い湿地の中の 大きな池に浮かぶ 小さな 君 島の上に城塞が 築かれていた。 周囲は広い 谷 間の森であ った。 君 島の浮かぶ池は、 たとえていえば、 川の蛇行の一部が 残されたような 三日月の 形で、 しかも全体がほぼ 同じ太さ、 であ った。 1495 午にこの地を 得た元帥. ド. ・モンモランシー. Anne. de Montmorency は、 三角形の中庭を 囲む城砦の基礎をそのまま 利用して、 新しい 城と 庭を造った。 城の庭はきわめて 小さかった。 元帥は 、 次に 、 池に浮かぶもう 一つの小島の 上に小規模な 庭と園亭 を 作り、. 城の建つ 君 島 と 橋で結んだ。 その次に 、 池の岸. (東 ). に大小ふたつの 装飾庭園を造り、 大. きな装飾庭園には 球技場やグロットを 置き、 一辺にはテラスと 歩廊を設けた。 さらに、 装飾庭園や 池の南側に 、. い. くつか芝生と 樹林の庭を横一列に 並べた。 一列に並ぶ芝生と 樹林の庭の大小は 揃わ. ずまちまちであ ったが、 どれもほぼ四角い 形をしていた。 何よりの特徴は、 これらの芝生と 樹林 の. ). 区画一つ一つが 運河に囲まれていたことであ った。 この区画の一部には 麦畑も置かれていたとい. ,フ (. ビュリ城 フオンテーヌ プ ロ一でもシヤンティー. しむかのように、 無頓着だが、 ビュ. リ. イ. でも、 城と 庭の関係は、. 城は違った。. ビュリ. あ たかも不規則であ. 城は、 フランソワ. 1. ることを 楽. 世のもとで外交に 卓. 越した腕を振るった ロべ一 ルト Flonimont Rorertet によって、 ヴェネチア共和国との 間に有利な 条約を結んだ 褒賞金で建てられた。. ビュリ. 城では、 フランスではじめて、 庭と城が統一的に 構成さ. れた点が新しかった。 ただ、 この源泉もイタリアにあ って、 ロベールトがイタリアで 受けた刺激と 連れ帰った建築家の 活躍によって 生まれた。 ビュリ は プ ロ ワ に近い地にあ る。. 全体はほぼ正方形の 敷地で、 壕に囲まれ、 城壁がめぐり、 四隅には塔が 建ち、 門の左右にも 塔が.
(7) フランス・ルネサンス 期の庭園. あ. 53. り、 壕にかかる吊り 上げ橋を見下ろしていたから、 外観は中世の 城に似ていた。 ビュリ. では、城と 健全体の敷地がほぼ 四つ割りに配分されていた。 手前のひとっが 芝生の前庭. 面 広場 ) 、. 芝生の前庭の 突き当たりに 小城の入り. ロ があ. (正. り、 城の建物の向こうに 装飾庭園があ った。. 手前のもう一つの 区画が、 農 ・工作などの 作業をする中庭で、 その奥に野菜・ 樹木園が配 t れてい た。 細かにみると、 芝生の前庭の 中央には、 フィレンツェ 共和国から贈られたミケランジェロ 作の. 彫像が飾られ、 城の格調を高めており、. この前庭 (正面広場 ) は三方から城の 建物で囲まれていた。. 装飾庭園と野菜・ 樹木園の間は、 緑 廊下仕切られていた。 城から装飾庭園に. 出るには、. イタリアの庭園でよく. りた。 装飾庭園には、 正方形の花壇. 見られたように、 左右に振り分けた 石段を降. ( コンパートメント. つ、 横二列に 4 つ づつ 並び、 それぞ. ) が 8. れの花壇には 異なる幾何学模様が 描かれていた。 庭の中央には 噴水があ り、 奥の四壁の中央には 礼 拝堂が置かれていた。 野菜・樹木園は、 テラスに囲まれ、 テラスに沿って 風通しのよいパーゴラが 設けられていた。. こ. の 野菜・樹木園の 作りも、 装飾庭園と同じで、 8 つのコンパートメントを 4 つ づつ 、 横二列に並べ、. それぞれに幾何学模様を 施してあ った㈲。 ビュリ. 城の庭では、 城の建物と装飾庭園が 正面から対面するように 作られている。 ちなみに、. こ. のように建物と 庭がぴったりと 正対するような 統一的構成は、 16世紀の初め、 イタリアのローマで 始まり、 ヴァチカン宮殿のべルヴェデ ーレ の中庭 (1503年より造られ 1560年まで保たれた。 ブラマ ンテ設計で、 施主は コ. リウス 2. 世 ) などが晴夫とされる。 これは、 ルネサンスの 初期、. ブ. イレンツ. ェを 中心に作られたイタリア・ルネサンスの 第一期の不規則な 構成の庭とは 違う、 いわば第二期の. 庭 で、 フランスがやや 遅れてその傾向を 追うことになったのだといえる。 フランスのルネサンスの 庭は、 こうしてフランソワ. 1. 世の頃 から、 城と 庭の正対、 そして 壕 、 運. 河 、 池といった水面の 多用という特色をもっで、 展開していく。. ダンピエール 城 ド. ・ロレーヌ枢機卿がセーヌ. 河畔の. ボ. ワシ. (現 イヴリーヌ ). に作ったダンピエール 城はその二つ. の 特色を備えた. 最初の典型とされる。 ここでは、 小城と装飾庭園にれも 小さい. とまりをなし、. これが幅広い 運河に囲まれ、. ). が正対して一ま. 中核を形成している。 奇妙なことに、 運河には、. 城に. 通じる橋が架けられていない。 遊びか酔狂 か、 舟で出入りして 楽しんだのだろうか。. この中核を囲んで、 あ. 一方に大きな 装飾庭園、 他方に四角の 大池、 前方に農作業などの 中庭が 3 面. り、 後方には広い、 これも四角の 樹林 園 が置かれていた。 大きな装飾庭園は 細い運河に囲まれ、. 樹林園の中には 二本の運河が 走っていた。 この樹林 園 には、 複数の並木道が. 縦と横に走っていた。. 大池は 、 魚を飼い、 また推定だが、 模擬海戦を楽しむところであ った。 ダンピエール 城に、 大池が あ. り、. 合わせて 4. つの運河が作られたのは、. フォンテーヌブローと. 同じように、. 谷間の森の中にあ. ったから、 と推測 t れる (7) 。. ヴァル り城. 正対はしていないが、 庭には 池と 運河があ る。 敷地は必ず しも湿地ではないが、 水面は多い。 城の前方に池、 装飾庭園、 果樹園、 菜園 (?) が積一列に連な り、 装飾庭園には、 中央に運河、 果樹園には、 中央と左右辺に 運河、 菜園 (?) には周囲に運河が ヴァル. り. 城では 城と 庭は離れており、.
(8) 54. あ. 岩切. る。 装飾庭園の三逆. は、. 正介. テラスと歩廊に 囲まれており、 一辺は歩廊はなくテラスだけで、 隣の池. を見下ろしている。 したがって、 ここでは、. 庭を周辺から. 見下ろし、 また中を巡り、 運河と池の水. 景を楽しむことができた。. って、 背後に広い樹林園を 背負っており、 樹林園は不規則な 扇型 をなし、 その中 には長さも方向もまちまちに 並木道が走っていた。 並木道は木陰の 涼しい散歩道としてひとびとに 城は丘の裾にあ. 楽しまれたであ ろう。 図版を見れば、 ひとは思わずイタリアのランテ 荘のボスコ かもしれない㈹。 フランソワ. 1. (樹林 園 ) を思う. 世が 、 森の中の湿地に 作ったシャンボール 城は、 狩猟用の城だが、 城壁と壕を備え、. 水の城をもくるんだもので、 ロワール川の 支流を引いてくる 計画まであ ったという。 ・広大な狩猟. 園. (5500ha、 1523 年 ) を囲い込んでいたことにも 特色があ ったが、 装飾庭園は貧弱であ った㈲。. け 応け. っl ・ の大 c 、 とはぅ あヮ 室をヌ城に ろ にソ王 健一。 園あ 中ン、 と りる 庭で のうに 城ト れ節 た 川フ後 。力わ 装 い. で たるもっ. あのの・でたるいら. 城つ れかな て、設. り が か. けた主さお. 一造ら時とれ. ソむ. ノ のが 与 こがれ ン ュ土橋にこ 姿まト. シ氷 ら s. て達 こ ℡ チら千と肋佑 。血フ ルはい. 建が. のボンはでいう. 将アのス は テ 山武、 るシ てる. ン城架 えの 残てネ. 城 の 台エ 2 大塊いが 一円 土 イリ 、なス. ン 一尾. ソル. ノヮ. ュ ロ車 るりすィし巡 シ 水ぇな備デ 対を. されている。 装飾庭園のその 向こうには狩猟 園 があ った。 カトリーヌ・. ・メディシスはシェール. ド. 川の対岸にも 大きな庭園を 造ったが、 これは 夫 なわれた (1。)。. ダ. ・ヴィン チ の設計図 フランソワ. したダ. 1. 世に招かれて、 1516午から. 年の最晩年をアンボワーズ 城 近くの小城クル 一で過ご ,. 3. ・ヴィン チ が別荘の庭の 設計図を残していて、. これは興味深い。 別荘. (あ. るいは 城 ) と庭は、. 中心 軸 上に並び、 それぞれが い くらか離れて、 壕 あ るいは運河に 浮かぶ よう に置かれ、 相互に橋で つが がり、 その横手には、 ( テラスをはさんで が 描かれており、. ここは魚を飼. う. ). 四角い大池が 置かれている。 この大池には. 9. 他に、 模擬海戦の場と 想定されていたらしい。 なお、 別荘. 般の舟 (あ る. いは 城 ) は、 中庭を囲む形の 建物で、 四隅には塔が 張り出していた。 この設計図は 未完の状態で、 なお途中で切断されたよ. う. と庭があ たかも折り返すよ. になっているので、 明確ではないが、 別荘の背後にも、 前方にあ る運河 う. に同じ順で設けられるという 構想であ ったよ. う. にも推測される㈱。. の 設計図は、 おそらく当時のフランスの 実際の庭に影響することはなかったかもしれないが、. えばダンピエール 城のような、 フランソワ. 1. こ. たと. 世の時代に始まり 次の時代に一般化するフランスの 庭. の 原型であ るかのように 見えるのが、 おもしろい。. フランスの庭は、 16世紀の前半、 フランソワ せるよ 然. う. 1. 世の時代には、 イタリアとは 異なる独自の 形を見. になったが、 15世紀の末、 シャルル 8 世に始まるイタリアとの 文化・芸術面での 接触は依. として緊密で、 イタリアの彫刻家、 画家、 建築家、. 音楽家などがフランスに 招 聴され、 また逆に.
(9) フランス・ルネサンス 期の庭園. 55. 多くのフランスの 芸術家や建築家がイタリア ヘ 学びに出かけた。 このようにフランスがイタリアか ら学ぶ時期は、 フランソワ. 1. 世の時代の後もしばらく 続き、 その期間はおよそ 80年にわたったいわ. れる'(12) o. アネ 城 アネ 城. (1546-52) は当時その美しさを 称えられたロワール. が 愛人のディアス・. ト. 。. ・. 河畔の城であ. る。 これは、 アンリ. 2 世. ポフチェ のために建てた 城で、 起用されたのは、 フランス人の 建築家ロル. Philibert de l,ormeであ った。 アネ城では、 城と 庭は正対し、 全体が左右対称になる 構成が取. ム. られ、 広い壕がそれを 囲んだ。 ったが、 ふつ. ぅ. い ま、. 城と 庭を一体化した 構成について、 左右対称という 言葉を使. 庭園史の本では、 この言葉はまだ 使われない。. に 見られるのは、. 「規則的」と. 表現する。 しかし、. 明らかに左右対称の 姿であ る。 ただ、 当時の人々、 設計者や施主、. そこ. あ るいは庭を. 眺めた人々が、 この構成をどういう 言葉で表現していたかは、 分からない。 基本白りな考えは、 合いや調和だったかもしれれない。 もし、 釣り合いであ れば、 左右の完全な 釣り合い、 であ. 釣り. ったと. 考えられる。 会見て左右対称なのは、 その結果だ、 ということになる。 このような留保はあ るが、 ここでは敢えて、 左右対称の言葉を 使いたい。 この点、 率直で明快な 研究者もいて、 イギリスの 1550 一 1750の整形庭園について、 その研究者はその 多くが左右対称の 設計であ った、 と述べている。 原. 又 は、 The symmetrical design of many gardens of the l550-1750 periodであ る。 この時期の整 形庭園の設計は、 イギリスとフランスでは 大同小異であ. 壕に 架かる橋を渡ると 門があ り、 左右に小 t. る. (13) 。. い 樹林 庭 があ. る。 門をくぐると、 城の中庭に出る。. 城の左右の翼棟の 背後にそれぞれまた 中庭があ り、 中心には精妙な 噴水が置かれている。 まっす 進んで、 城の正面入り. ロへ 入り、. ぐ. 建物を抜けると、 装飾庭園を見下ろすテラスに 出る。 装飾庭園に. は、美しい幾何学模様をもつコンパートメントが 碁盤の目にならび、ニケ所に噴水が 置かれていた。 三方を田舎造りの 歩廊が囲んでいた。 この歩廊は「庭の 眺めにすばらしい 輝きを与えるもの」と 評. された。 装飾庭園は、 四方から全体の 模様を眺めてもよく、 また、 庭に降りて、 一つずつ、. コンパ. 一 トメントの異なる 模様や色合い、 香りをゆっくり 楽しむのもよかった。 模様は、 デイ アヌ の家系 と. 王室との っぽ がりを表すものであ った。 装飾庭園の奥の 一 辺の中央では、 外に向かって 楕円形の. 小池が張り出し、 小屋が建てられていた。 これは浴場だったといわれる。 城門から中庭、 城の入り 口、. 装飾庭園、 そしてこの小池まで、 先述のように、 左右対称になる 中心線が走っていた。 アネ城. の庭は高低差のない、 いわゆる平庭であ った。 装飾庭園の背後に、 れていたといわれる。. 自然 園. ( パルク ). 自然 園 はふたつあ. があ り、 グロットや鳥屋、 鷹 小屋、 オレンジ舎などが 置か って、 それぞれが塀で 囲われていた。 なかは四角く 区切ら. れた区画の分けられ、 それぞれは、 芝生、 潅 木、 樹林、 果樹、 養魚池などで、. ウサギ小屋もあ った. という。 区画を区切るのは 並木道や運河であ った 14,。. アネ城で特記すべきことは、 のち、 1582年に、 フランスではじめてあ の刺繍花壇 parterre de broderleが作られたことであ る。 城の持ち主はディア ンスの建築家デュ・. ぺ ラック. ス の曾孫オマル 公になっていた. 時代で、. フラ. Etienne du Perac が考案したデザインをオマル 公の庭師クロード・. モレ ClaudeMollet が施工した。 刺繍花壇は、 それまでの正方形の 小 t を数両まとめて、 一面の大きな 花壇. (おおむね長方形 ) とし. な 花壇 ( コンパートメント. ( 一面一庭となる ) 、. メントのような 幾何学模様ではなく、 曲線や渦巻きの 植物模様. ). そこにコンパート. ( アラベスク模様 ). を描くものであ.
(10) 56. 岩切. る。. 正介. ただ、 アネ城で生まれた 刺繍花壇は、 まだ完全な刺繍花壇ではなく、 縦横あ るいは斜線で 分割. された幾何学的な 枠の内部にアラベスク 模様を描く、 という初期のものであ った。 刺繍花壇は、 デュ・ ぺ ラックの独創に 違いなかったけれども、 デュ・ ぺ ラックはイタリア 遊学中 に 、 そのヒントを 得たと推測されている。 デュ・ ぺ ラックがイタリアに 行ったのは、 1559 年、 そこ の庭で特に感銘を 受けたのは、 エ ステ荘であ ったという。 デュ・ ぺ ラックは 1595 年に、 アンリ 4 世 du rmi になっている。. の 建築家、 すなわち「王の 建築家」. ウェルヌー ユと シャルルヴァル 城と 庭が正対し、 全体が左右対称であ って、 そこに壕や運河が 組み込まれている、 というこの 様 式の頂点を示すのが、 ヴェルヌー ヌ川. ユと. シャルルヴァルであ る。 ヴェルヌース 城は、 パリ近郊、 セー. 支流オワーズ ル の美しい谷に 臨む丘の上に、 貴族の. ャルルヴァル 城はノルマンディー 地方にシャルル フランスの建築家デュ・セル 一も先の ロハ ム. 1558 年、. ド. と・同様、. ソ 一で、. 9. ド. ・ボランプイリエが 計画したもので、 シ. 世が建てようとした 城であ る。 ともに設計者は. 雨域ともにまた、 未完成のまま 終わった。 このデュ・セル. ソ. イタリアで学んだ 建築家であ った。. ・ボランヴィリ ェ は、 自分の持つ古城の 傍らに新城の 建設と庭園を 計画した。 図版に. よれば、 丘の上に 城 、 その下に装飾庭園、 その下にもうひとつの 広い 庭 というのが、 基本の案で、 城は壕に囲まれ、 下の広い庭は 運河に囲まれるとともに、 内部を横切る 二本の運河をもっていた。 装飾庭園は、 16のコンパートメントからなる 正方形で、 中央に噴水、 左右にテラスがあ る。 テラ ス では - 列の並木が植えられ、 庭を巡る者に 樹陰を与える 予定であ った。. 下方の広い庭は、 横長で、 まず二つの大きなコンパートメント る). ( それぞれ. ツゲ による迷路とされ. が 左右に並び、 さらにその左右に 樹林のコンパートメントがあ る。 この 4 つの横並びの 下辺に. 沿って運河が 横に走っている。 続いて並木道が 横に走る。 次には広い運河がやはり 横に走り、. さい. ご にまた並木が 平行して走る。 この運河と並木が 交互に平行横断する 部分では、 庭の左右に、 一方. は緑のパーゴラ、 他方には歩廊が 設けられ・ている。 同時に、 中央に縦の通路が 取られ、 運河や並木 を 縦断して、. 塵境いの中央の. 園 事 に通じている。. この通路は、 健全体と、 それから 城 とを貫く中心. 線の一部で、 城も庭もこの 中心線によって 左右対称に二分されている。 ヴェルヌー ュ 城は平庭ではなく、 いわゆるひな 壇式 段から構成されている。 この 3 段の露 段. ( テラス ). ( テラス式 ). で、 城 、 装飾庭園、 広い庭の三. を上り降りするために、 左右振り分けの 石段が. 使われるが、 このいかにもイタリア 風の石段も、 当然のように、 中心線上に置かれている。 細かなことを 補えば、 装飾庭園と城の 間には、 立派な門屋が 建てられ、 その左右にはこれも 見事 な園亭 がついている。 また、 城は中庭を囲む ロ の字型であ る㈹。 この庭を構成する、 どの部分、 どの構成要素をみても、 細長い運河を 別にすれば、 間違いなく. イ. タリア由来、 イタリアの刻印が 見て取れる。 と同時に、 それを用いた 全体の構成には、 フランス 独 白め. 、 見事な釣り合い、 まとまりの端正さが 感じられ、 驚かされる。 そしてまた、 この庭が多様な. 楽しみを与える 工夫がされていたことにも、 驚かされる。 国事 や パーゴラに憩. う. 。 そこからは庭を. 見下ろして楽しむ。 庭を見下ろすには、 またテラスがあ り、 歩廊があ る。 庭に降りて中を 巡れば、 コンパートメントの 模様が楽しめる。 ひとは、 迷路を巡り、 並木を歩き、 運河の水景を 楽しみ、 緑 陰 、 また風の運ぶ 花や薬草の香り、 樹木あ るいは小森の 香り、 水の匂いを楽しみ、 小鳥のさえずり. を聞き、 運河に映る空や 雲を、 またそれが風にかき 乱される様を 眺めて楽しむことができたであ. ろ.
(11) 57. フランス・ルネサンス 期の庭園. ぅ. 。 あ るいは、 中心 軸が 与えてくれる 通景. ( 見通し. 景 ) の楽しさに気付き、 しばらくそこに 目を凝. らしたひとが い たかもしれない。 シャルル 9 世が計画したシャルルヴァル 城は、 ごく一部を着工しただけで、終わってしまったが、. ヴァルヌー ュ に比べると、 規模が大きく、 城を中心とする 区画と庭を中心とする 区画の二つからが るという単純さであ った。 ここでは、 城から一段下の 装飾庭園ひとつを 見下ろすだけであ る。 正確 にい うと、 城のあ る区画では、 城の建つ部分が 城の前にあ る中庭より一段と 高いので、 ヴェルヌー ュ のように、 城から順に下がっていくのではなく、 城が、 前方にあ る中庭と背後にあ る装飾庭園よ. り、 一段高いところに 位置している。 運河の使い方にも 違いがあ り、 ここでは、 二つの区画をそれ. ぞれ運河が囲んでいる。 この二つの区画はともにほぼ 正方形で、 城を中心とする 区画がやや大きい。 二つの区画それぞれの 内部は左右対称に 構成され、 このふたつが 中心線を共通にして 縦に連なっ. ているのであ るから、 全体も整然とした 左右対称の構成になっている㈹。 ニ 、 三 特記すべき点を 挙げれば、 ひとつは、 ロの 字型の城の左右に、 イタリア風の 隠 園 とみてよ い 庭が置かれていることであ ろうか。 隠国 はイタリアの 庭ではかなり 一般的なもので、 庭は宴や催. 事が行われたり、 一般に公開されたことと 関連して、 隠 園は主人一家が 私的に使用するためのもの であ った。 たとえば、 メディチ家がフィレンツェ 郊覚に設けたカステロ 荘では、 薬草を植えた か t な隠国 があ り、 健康の勝れなかった 当主は、 よくここで、 休養や読書に 時間を過ごした。 庭の区画では、 やはり正方形のコンパートメントが 碁盤の目に並んでいるが、 ち よ ど真中を横 う. 断するように、 水の帯が通っている。 一本の運河ではなく、 4 つに分けられ、 コンパートメントの 一 辺の長さに合わせて、 巧みに全体の 意匠 に収められ、 装飾化の進展が 見て取れる。 とはいっても、. イタリアでほぼ 同じ時期に造成の 始まったエステ 荘にも、 同様の処理が 見られるから、 純粋な独創 かどうかは決められない。 城の左右にあ. る 隠 園を構成する. 片側で 8 つずつ、 合わせて. 1. 6 の小振りのコンパートメントは 、. どれをとっても、 模様の同じものはひとつもなく、 それぞれに精妙な 工夫が見て取れ、 同じように、 装飾庭園の大きなコンパートメントの 模様もそれぞれ、 実に多様な幾何学模様に 作られている。. 当. 時のひとびとが、 作る側も楽しむ 側も、 これをいかに 重視していたかが、 窺える。 なお、 当時の庭 造りで、 栄光や権 力や富を表すものとして、 特に重視されたのが、 噴水であ り、 またグロットであ っ たが、 おもしろいことに、 ヴェルヌー ス でもシャルルヴァルでもグロットの 計画はなかったよう. だ。 なお、 フランスでバロットが 作られるのは、 少し前、 フランソワ. 1. 世の 1540 年代からであ る。. 変り桂一モンタル ギ 城など イタリアのルネサンスやバロックの も 作られたが、. 庭でも、. 庭園の主流の 周辺では、 面白い変り種の 庭がいく ち. フランスでも 同様で、 この時期で見ると、 狭い山頂に半円形で 造られたモンタル. 城の庭や三角形の 城 アゼ. ・. ギ. ル ・リド一の 庭 、 また五角形の 城モース城の 庭などは変わっている。. モンタルギ城の 庭は、 ロワールの町にあ り、 ルイ 12世の次女ルネ・. ド ・フランス. (1510-75) が、 1560. 年、 夫フェラーラ 公爵の死後、 イタリアのフェラ ー うを去って居城としたところであ る。 ルネは、 デュ・セルソーを 招脾 じて、 急峻な山の上にあ った中世の砦と 小庭に代えて、 新しい 城と庭と 造ら. せた。 才女の誉れ高く、 庭園や芸術に 関心の深かったルネは、 プロテスタントで、 カルヴァンと. 親. 密な関係にあ り、 その保護者でもあ った。 この城は、 宗教戦争の時代の 難を避けるプロテスタント たちの避難場所、 という意味合いもあ った。 モンタル ギ の庭は、 堅固な城壁を 巡る壕の外に 造られ、.
(12) 58. 岩切. 正介. 」段目の半円のテラスが 装飾庭園で、 二段目の半円のテラスが 野菜・果樹 庭 であ った。 その外側に は、 楡の並木が、 放射していた 17)。 なお、 デュ・セルソーもプロテスタントで、 やはりルネがその. 主な庇護者であ った。 オ. ・. ド. ・セーヌにあ るムドン城は. ド. ・ロレーヌ枢機卿. ( ギーズ. 家 ) が、 lbh2 午にサンガン 枢機卿. から買い取って 、 城と 庭を完成させたところで、 丘の上に 城と グロットが 90 度の角度で置かれ、 そ. れぞ ねから 軸 線が発するという 形になっていた。 建築と庭を担当したのは、 ロル ム で、 グロットを 作ったのはプリマテッチオ Primateccio で、 城もグロットもきわめて 豪華で美しいので、 有名であ っ た 。 詩人のロンサールが、 ギーズ 公と アンリ 2 世の王女クロード・. ド ・フランスの 結婚の祝宴を 歌. ったのが、 ここであ る。 祝宴では、 グロットの双で、 劇が演じられた。 当時は、 グロットが野覚劇 場 に使われるのがふつ. ぅ. であ ったから㈹。. テユイ ルリ一宮殿 チュ イ ルリ一の宮殿と 庭は、 1564 年から 1572 午にかけて、 アンリ 2 世の王妃マリー・. ド ・メディ. シスが 、 夫 アンリ 2 世亡き後、 シャルル 9 世の摂政の地位にあ ったときに、 造ったものであ る。 敷. 地は、 煉瓦・タイル 製造所があ ったところで、 以前フランソワ 1 世が宮殿を建てるために 買い取っ ていた。 宮殿の建築は、 フランス人建築家 ロガ ムが担当した。 カトリーヌ・. ド. ・メディシスがそこに 造った庭は、 それまでの庭園の 展開を逆流させるかのよ. う. 宮殿と庭は、 ほぼ同軸上に 置かれていたが、 庭は塀で囲われ、 宮殿とつながって. なものであ った。. いなかった。 しかも、 その間に一本のパリの 街路が走り、 隔たりを決定的にしていた。 この庭には 運河や壕など 水面がなかった。 庭は 、 正方形のコンパートメントを 碁盤の目に並べたもので、 全体に細長く、 宮殿に近いところ では、 ツゲや 花を使ったコンパートメントが 整えられ、 低い緑 廊 で囲われ、 隅には国事 が 置かれて. いた。 宮殿から遠いところでは、 果樹や樹木のコンパートメントが 置かれ、 迷路も作ってあ った。 目玉は 、 大きな日時計と 華麗なグロットで、 グロットは陶芸家で 庭園理論家のパリシーが 作って大 評判になった。 チ コイルリ一の 庭は、 段差のない平庭であ った㎝。. 庭の設計をしたのが 誰かは判然としない。 建築家ロかんであ ったのか。 あ るいは庭師 頓 とした働 いた か ・ノートル. (祖父. )PierreLeN6tre. なのか。植栽の監督は、カルネ セッキ BernardoCarnesecchi. が 行い、 庭に植える 樹や花 、 薬草などを手配して 集め、 運び、 植え込む作業を 仕切った。 なお、 王や貴族、 枢機卿の庭がロワール 川流域からパリ 近郊に移って 来るのは、 アンリ 2 世 妃 カトリーヌ・. 4. ド. ・メディシス. ). (王. の時代からであ る。. ひと飛躍 - アンリ 4 世 アンリ 4. 世はナントの 勅令 (1598)で、 カトリックとプロテスタントの 争いに終止符をうち、 国内. に平和をもたらし、 「自ら植え、 接木をした」とされるほどの 庭 好きの王であ ったので、 フランスの 造園は、 この時代にひと 飛躍を見せる。 サシ ・ジェルマン・アン・. レ. ザン・ジェルマン・アン・ レ はそのアンリ 4 世がセーヌ川に 臨む丘の上に 造った代表的な 城 と 庭 であ る。 ここにはそれまで、 フランソワ 1 世が中世の砦城の 基礎の上に建てた 大きな城があ り、 次.
(13) 59. フランス・ルネサンス 期の庭園. に アンリ 2. 世が小城. (新城 ). を建て、 眺望を楽しむテラスを 作った。 フランソワ. ぶんセーヌの 川岸から引っこみ、. アンリ 2. 1. 世の古城はいく. 世の新城は、 セーヌ川に臨む 急斜面の上に 建てられた。. この新城を担当したのはフランスの 建築家 ロハ ムであ った。 古城、 新城、 いずれの庭もまだ 小さか った 。 アンリ 4. 世の城は、. アンリ 2. 世の小城を増改修し、 4 隅に塔を谷えさせた 城 として完成された。. 城の建築を担当したのは、 フランス人建築家 リ. 4. ドュ ・ヘフ 。一. ックであ った。 城の増改修に 合わせてアン. 世が造った庭は、 格段に立派なものであ った。 庭は城からセーヌの 川岸に向かって 6 段のテラ. スを下りながら 展開するイタリア 風のもので、 これは王妃マリー・. ド. ・メディシスの 助言をいれた. もの、 とされる。 担当したのは、 一説では、 フランチ一二 Thomas Francin Ⅱフランス名ではフラン シース Francine)とされるが、 しかし、 フランチーニはもともと 噴水やグロット 内の自動八二の 専門 家で、 庭の設計や植栽を 担当したのは、 建築家デュ・ヘフ。 一 ックと庭師クロード・モ ノ ではないか、. ともされる。 イタリアの 庭 と思わせるのは、 城の左右に隠 園 とみられる小庭があ り、 上部のテラスを 支える擁 壁 ( アーケードとも 言われた ) にグロットがはめ 込まれ、 そこに、 たとえばフィレンツェ 北方の プ. ラトリーノ荘で 見られたような 実に精巧な自動木工がたくさん 設けられており、 庭の大きな特色の ひとつになっていることであ った。 また、 6 段のテラスは 左右振り分けの 石段でつらなり、 この 石 段 にち、 テラスにも手摺 りが設けられていること、 石段は庭の中心軸の 上に置かれていること、 噴. 水がやはり庭の 装飾の主役のひとつであ ること、 テラスを重ねた 造りが、 たとえばいかにもイタリ アのランテ荘に 似ていること、 などであ る。 サン・ジェルマン・アン・ よ. う. レの 庭も、 ランテ 荘と 同じ. に、 建物も含めて 健全体が、 中心 軸 をはさんで左右、 完全な対称に 造られていた。. グロットの中に 作られた自動木工 は 、 たとえていえば、 日本の江戸時代によく. 楽しまれた自動か. らくりに似ている。 江戸時代のからくり 人形には、 矢を数本、 次々につがえて 的を射る、. あ るいは. お茶を盆に載せて 客のところに 運び、 飲み干した茶碗を 戻してもら ぅと 、 体を回して、 戻ってくる、 あ るいはまた、. 鯉が順に滝登りをする、 などのほかに、 烏天狗の物語を 演ずる、 といった一歩さら. に進んだものまであ った。 一連の動作を 自動的にする、 あ るいは自動的に 物語を演じてみせるのは、 ヨーロッパの 自動木工でも 同じであ る。 日本では、 からくりを動かす 動力として、 鯨のひげで作ら ね たゼンマイが 使われた。 イタリア、 そしてフランスのバロットで 使われた動力は 、 水であ る。 して、 その水で動いたのは、 彫像であ る。 したがって、 自動木工 らくり. (人形 ). は、. そ. 水力と彫像を 使った、 自動か. であ ったと理解される。. サン・ジェルマン・アン・ レの グロットには、 たとえば、 次のような趣向のものがあ った。 ペル セウスが降りてきて、 竜を倒し、 竜は水中に消えるもの。 オルフェウスが 竪琴を弾くと 動物たちや 木々が動くもの。 輪骨 入りのスカートをはいた 女性が水オルガンを 弾くもの。 また、 竜 とさえずる 小鳥たちで構成されたグロットもあ った。 とくに精妙を 極めたのが、 「松明のバロット」に 作られた 自動木工で、 太陽が昇る一風 代の二輪戦車. ( シャッ. が 起こる一風 が 収まる一正の 一家が宮殿の. 前を散策する. 一 皇太子が古. オ ) に乗り、 天使に支えられて 雲のなかから 降りてくる、 という場面が 順 tご. 現れた。 これは当時の 宮廷バレーを 防御とさせるものであ った。 ペルセウスの 竜 退治やオルフェウ スの 物語は、 古代神話を使ってアンリ. 4. 世を称えるものであ ったのであ ろう。 また、水 オルガンは、. ローマ近郊チボリの エ ステ荘を連想、させたかもしれない。. エ ステ荘は、 寓意表現のほかに、 多様な. 噴水と水オルガンの 名園であ った。 水 オルガンは、 水圧でパイプの 空気を圧縮して 音を出すもので、.
(14) 60. 岩切. 正介. の. ど. な格. な. 勺 ⅠⅡⅡ. Ⅴ @. し. 本. ら. ス ン. フ. ラ. ン、. ス. より. ス. イ ペ. の. ラ フ @. 丘又 山. ア. ). )、. 一 "一. プし. る あ. ス. の. 水と 油 (泉水 ) 中心の装飾庭園 (6 段目. リ タ イ. 大. な. 横下 方 現 華ぅ. フ @. の. 豪. く. ッ. の コし み. 殿 宮. 世か近. 7 1. る あ. 。. 托 たの 、れト. ロ. コし ルが. 世. ばら えけ. い設グ ほほな. つめよ ざク の. おロ. おッこ. で、 まず、 ツゲ 、 花、 薬草などを用いた 装飾庭園 (4 段目. ついで樹林庭園 (5 段目 ) 、 最後が噴. が置かれていた。 いずれも幾何学的なデザインであ った。. 4 段目の装飾庭園は、 左右にもテラスがあ って、 三方から模様を 眺めおろすことができた。 模様 のなかに、 H. と. M の文字があ しらわれているのは、. おそらく 王 Henni と王妃 Manie の頭文字であ ろう。. 次の樹林庭園には、 園路 が縦横 X 字に走り、 これによって 区分された幾何学図形のなかに 樹林が収 められていた。 もっとも下の 装飾庭園は、 中央に四つ割りの 他と 噴水を配し、 左右に紋章をおしら った コンパートメントがそれぞれ 4 面あ り、 その間に水路. (細長い 池 あ. るいは、 運河 ) が走ってい. た。 庭の外側は並木、 そしてすぐ、 もうセーヌ川であ る。 サン・ジェルマン・アン・ レの 庭は、 とりわけ、 城のあ る最上段からの 眺めがすばらしかった. と. いわれる。 庭 と周辺の景色が 眺望されたのであ る㎝。. フオンテーヌブロー アンリ 4. ( 改修 ). 世は、 フランソワ. な 装飾庭園を拡張し、. 1. 世の作った庭を 美しく整備した。 ひとつに、 城の北側にあ った小さ. 三方をテラスと 歩廊、 一方を鳥 舎 で囲い、 庭の中に、 イタリア庭園のように. 彫像を飾った。 烏合 も イタリア風で、 多くの 樹叢 をいれ、 針金の丸天井を 被せた。 庭の中央のデ. イ. アナの噴水はそのまま 使われた。 この庭は 、 城に接していたので、 城の窓から眺めるにもよく、 気 軽なそぞろ歩きにも 便利であ った。 かつてフランソワ. 1. 世が造った芝生と 果樹の庭は 、. 「. テ イブルのパルテール」に 変えられた。 河神. ティブルの噴水を 中心にして、 4 つの大きな長方形の 花壇を置き、 全体をテラスで 囲んだ。 そのテ ラスには、 刈 り揃えた低木を 2, った. 3 列植えた。 ティブルの噴水では、 豊 鏡の角笛コルヌコピアを 持. 河神ティブルが 横たわり、 ぞの下方に二羽の 白鳥、 二匹の龍が置かれ、 4 つの飾り鉢も 加えら. れ、 きわめて装飾的であ った。 コルヌコピア、 白鳥、 龍 、 飾り鉢から噴水がほとばしった。 この パ. ルテールにはまたバロットも 作られた。 このグロットから、 細長い 池. (あ. るいは運河 ) が東西と南. に延びていた。 なお、 ティブルは、 イタリア語では、 テヴェレで、 ローマを流れる 川であ る。 4 面の細長くて 広い花壇は、 それぞれ、 縦横、 X 字 あ るいは円の園路で 細分されており、 見たと. ころ幾何学模様になっていたが、 当時の図版で 見ると、 その細分された 内部には、 アラベスク模様 があ. しらわれている。 したがって、 これはアネ城下生まれたような 初期の刺繍花壇であ ろう。 4 つ. の花壇では、 幾何学 綜 による基本模様も 細部の アア ネスク模様もみな 異なっているが、. 通して、. 中心に噴水を 持っていた。. この庭の南側には、. 4. つとも 共. 眺望のために 半円形の小さなテラスが 設け. られ、 南の眺望を楽しいものにした。 南には、 草地が広がり、 草地の縁には 楡の並木が並び、 その 向こうにフオンテーヌ. プ. ロ一の森が広がっていた。. 1609年、 この庭に、 大運河が加えられた。 大運河は「ティブルのパルテール」から 東に伸び、 長 さは 1, 145 メートル、 幅は 39 メートルであ った。 これは、 近くのフル ス). り. ・アン・ビエール 城. (ェソシ. に作られた運河をさっそく 真似たものとみられる。 フルリ・アン・ビエール 城の運河は最初の. ものが 800 メートルあ り、 次にも. う. 一本造られた。 最初の運河が 造られた正確な 午は不明だが、 16. 世紀の初めで、 二本目は 1609年であ る。 次の時代の幾何学 式 庭園で不可欠の 構成要素として 使われ.
(15) 61. フランス・ルネサンス 期の庭園. る 本格的な長い. 運河がフランスに 生まれるのは、 この時であ る。. 世は、 大池の北岸、 城に接するところに、. アンリ 4. 庭 で、 形は正方形、 ここに 1595 年、 庭師クロード・モ た。. 絹 産業の育成を 推進していたアンリ 4. 「池の庭」を ノ が、. 造った。 これは池に浮かぶ 島 型の. 刺繍花壇 parterre de brodene を造っ. 世は、 池の南岸に桑の 木のトンネル 作らせ、 その左右に. 運河を走らせた。 池の西南には、 新しい大きな 野菜・果樹園を 設けた。 池の西岸に置かれていたの が、 フランソワ. 1. 世の作った「松の 庭」であ るが、 ここを走る「王の 道」で、. アンリ 4. 世は、 やっ. てくるも い 病の患者たちに 手を触れて治そうとした。 キング ズ ・タッチと呼ばれた 行為であ る. チユイ ルリ一宮殿の 庭 チ. (改修 ). コイルリ一宮殿の 庭は、. アンリ 4. 世のパリ包囲戦の 時、 ほとんど壊された。. 修復するとともに、 テラスを付け 加えた。 テラスは. リヴ. アンリ 4. 世は庭を. オリ通りに沿って 延び、 そこに二列の 桑の. 木が植えられた。 桑の木は庭の 縁にも植えられ、 合わせて. 2. 万本ほどであ った。 蚕を育て、 絹糸を. 作る建物も併設された。 テラスはパルテールを 見下ろし、 向こうの縁には、 木製の緑のトンネルが 600 メートル走っていた。 緑のトンネルの 途中には 8 つの 園亭が 置かれ、 そこからテラスを 横切る 園 路 が出てた。 テラスには、 ジャスミン、 マルメロ、 イチジク、 セイ ョウ ハ チズオウ などの生け垣が. 作られた。 庭師はそれぞれの 庭 域を分担し、 それぞれセーヌ 川沿いの壁の 中に設けられた 家を与えられて 住 んでいた。 アネ城の庭師であ ったクロード・モ ノ、 ル ・ノートルの 父 ジャン・ ル ・メートル、 ジャ. ンの娘 と結婚することになるピエール・. デゴ 一であ る。. リュクサンフール 宮殿 リュクサンブール 宮殿と庭は 、 夫 アンリ 4 世の死後 (1610)、 1612 年から、 マリー・ ス (1573-1642) が住むところとして 造られた。 宮殿の建築には、 造園には当初ドクシャンプ マリー・. ド. (1611L、 ついでブタン Guil aumeBoutin Ⅰ. ド. ド. ・. メ アイ @. "/ ". ・ブロス Salomon de Brosse 、. (1615) が起用された。 庭は 、. ・メディシスが 少女時代を過ごしたフィレンツェの ボ ボリ園に近 い 形に造られた。 これ. は一つぼ敷地の 制約のため、 ふたつに、. ボ ボリ園の再現の 意図があ ったからとされる。. 宮殿と装飾. 庭園が南北に 並び、 東西に長く伸びる 樹林・野菜園がこれに 組み合わされた。 宮殿裏 の装飾庭園は、 正方形に半円を 加えた形で、 一枚のパルテールとして 設計され、 ボヮソ Jacques Boyceau de la Barauderie. (?. 一 1633 項 ) がそこにマリ 一の名を織り 込んだ刺繍花壇を 作. り、 その中心には 噴水が置かれた。 周囲を囲むテラスは、 二段で、 いくらか高めにつくられ、 装飾 庭園をそれだけ 低い位置に眺めた。 正方形に半円を 加えた形にして、 それを深めの 沈床 国 として造 ったのは、. ボ ボリ園の野外劇場に. ィ 宮の裏 手に. 少しでも似せるためであ ったといわれる。. ボ ボリ園では、. ピッ テ. 、 劇の上演や結婚の 祝いなど様々な 祝祭に使われた 大きな野外劇場があ る。 リュクサ. ンブール庭園の 高いテラスの 上には、 イタリア風の 庭園らしく、 彫刻や飾り鉢が 並べられた。 装飾 花壇の先. (南 ). には、 修道院があ り、 庭を広げることができなかったので、 庭は ボ ボリ園のように. 横 に広がった。 東. 1. に対し西 4 ほどの割合で、 西に長く伸びる 形が、 いかにもまた ボ ボリ園に似て. いた。 ここでは、 並木に区切られた 四角の区画に、 樹林・菜園などが 置かれ、 芝生や畑もあ り、 果 樹や薬草もここで 育てられた。 中心軸の終端 ト. ( 円形の池に円形の. (西 ). には、. ボ ボリ園の大きな「小島の 他」. 庭 島 ) を思わせる大きな 養魚油 が 掘られ、 反対の終端. (東 ). イゾ ロッ. には、 立派な. グ.
(16) 62. 岩切. 正介. ロットが造られた。 グロットの近くには、 星型のボス ケ が作られ、 中心には噴水が 置かれた。 なお、 ボス ケ. とは、 正方形の小森に 園 路を切り、 中に噴水や彫像、 段々滝や舞踏場などを 造って、 装飾的. 娯楽的にした 屋外の緑の広間で、 次のフランス 幾何学 式 庭園でよく発達するものであ. る。 リュクサンブール 宮殿の庭は一般に 公開され、 貴族の男女が 連れ立ち散歩する 姿や、 本を読む学 生や僧の姿、 また、 陽気な市民たちが 踊り歌い、 走り、 ボール遊びをする 姿が見られたという㈲。 リ. ユール. (1616) から宰相 (1624-42) を務め、 権 力と富を手にした 枢機卿リシュリューがリュー ル に 造った庭は、 王家の庭を凌ぐものがあ ったといわれる。 1633年、 パリの徴税請負人 モフセ から 館と 庭を取得し、 リシュリューはその 増 改修に取り組んだ。 館は小さいままに 止めたが、 庭は著しく 拡 顧問官. 張し 美化した。. 館に接して、 装飾庭園、. その外側に広大な 自然 園. ( パルク ). という構成であ. るのは、. 他の庭と変. わらなかった。. り. 装飾庭園には、 見事な噴泉と 彫刻が置かれた。 多くの貝殻で 飾られたグロットが 作られ、 その 人 口に配された 二体の銃 士は、 訪れる者に、 歓迎の水を発射したほか、 グロットの内部にもびっく. り噴水の仕掛けがしてあ って 、 見とれる者に 水の不意打ちを 浴びせたという。 これは並木のはずれ に 置かれた。. その並木道の 反対側に置かれていたのが、 これも自慢の 大きな段々滝であ った。, で 運ばれてきた. 2. キロの水道橋. 水が 、 大きな水音を 立てて、 30数段の幅広い 大理石の石段を 下った。 この石段の途. 中にはいくつか、 噴泉も設けられ、 段々滝の美しさを 複雑にした。. 運河に流れ落ちた. 水は、. きめ ぬ. て 装飾的なまた 別のグロットに 向かった。. 庭には、 また一本の運河で 結ばれたふたつの 大池があ り、 そこにもまたグロットがあ った。 館と. 装飾庭園の配置は、 統一的ではなかった。. 館から発する. 軸と、 段々 滝と. 貝殻装飾で有名なバ. ロットのあ る並木道は、 十字に交差していた。 装飾庭園の外側に 広がる 庭域. ( パルク ). には、 樹林、 ブドウ 畑 、 牧草地、 麦畑などがあ ったが、. それはみな、 縦横に走る長い 並木道によって 区切られた正方形の 中に収められ、 並木道の交点には 噴水が置かれていた。 なかには、 20メートル近くも 水を吹き上げ、 しかもすばやく 回転するので、 油断していると、 見物人は水浸しなるものまであ った。 並木道の木は 驚くほどきれいに 刈 り込まれ ていた。 並木道の一つはレモンの 庭に通じており、 そのレモンの 庭の壁にはコンスタンチ ヌス 帝の 凱旋門. ( ローマ ). この庭は、 オ. ・. が描かれ、 ド. あ まりに見事なのでツバメが. く. ぐ るぅ. としたほどであ ったという。. ・セーヌの地にあ り、 緩い 北 斜面、 西に 丘 という 15.5haの敷地に展開し、 のち、. これを欲しがったルイ 14世は、 ヴェルサイユの 庭を造るとき、 庭師の め ・ノートルに 見に行かせた という (2% 。. なお、 段々滝は、 17世紀の前半に、 やはりイタリアのバロックの 健一たとえば、 ィ 一二在やトルローニア. アルドブランデ. 佳一からフランスにもたらされたもので、 このリュー ル を皮切りに、. リア. ンクールやサン・クル 一で造られる。 リアンクール リアンクールは、 パリ近郊のオワーズに 造られた平庭だが 、 豊かな水を使った 実に優雅な庭であ.
(17) フランス・ルネサンス 期の庭園. 63. たといわれ、 17世紀初め人々に 賞賛された。 多くの運河が 設けられ、 ボス ケ の中には、 噴水と彫 刻があ り、 城の西には段々滝があ った。 段々滝の造りは 凝っていて、 3 段の円形の水盤を 順に落ちて っ. いく段々滝を 、 横に 22並べた構成で、 豪華であ ると同時に優美であ った。 この段々滝の 上下には、 それぞれ美しい 模様のパルテールが 広がっていた。 1654 年、 庭の広さはおよそ 80 ヘクタールあ った。 このリアンクールの 美しい庭は 、 父が改修整備した (1620年まで ) 庭を、 息子の元帥デュ・プレ シ とその夫人が 1630 年代に拡張美化して 生まれた (2。)。 サン・クルー これは、 オ. ・. ド. ・セーヌの 他 、 セーヌ河の高い 年の斜面に造られた 比較的狭い 庭 だが、 噴水、 彫. 刻 、 グロット、 そして段々滝などで 有名であ った。 特に段々滝は 目玉のひとつであ った。. 「. 12 メート. ルの高さに水を 吹き上げるラオコーンの 噴水があ る」と 1644 年、 ここを訪れたイ ー ヴリンはいって いる。 グロットでは 自動 木 工が、楽器を弾いた。これらの水工は 隣人であ ったフランチ ィ 一二 Thomas Francimi. が担当した。. 庭を造ったのは、 を出し、 マリー・ よ. う. ド. イタリア出の 銀行家ゴンディ. 家で、 1577年以来、 二人の司教、. ひとりの大司教. ・メディシスの 許にも出入りしていた 富裕な家であ った。 イタリアによくあ. る. に、 都市の郊覚に 別荘と庭を造ったのであ る. リシュリュー これはロワール 河畔. ( アンドル・. ェ ・ロワール ) に造られた、 きわめて野心的な 庭で、 城. ・. 庭. ・. 町 が一体として 構想された点が 際立っている。 町 ザ ・庭は碁盤の 目の中に置かれ、 ひとつに、 ル ・. ネサンス期のヨーロッパで 構想 t れた理想都市の 一つであ る。. 理想都市には、 実現されたものも、. 計画で終わったものもあ る。 これはリシュリュー 枢機卿が計画したもので、 設計は か メリシ エ JaCqueSLemerCier (1583-1654) で、 1628年から工事が 始まり、 リシュリューが 亡くなった 1642年には、 庭. ・. 城 、 町ともにまだ 未完. 成であ った。 これを完成させたのは、 甥の子息リシュリュー 公爵であ った。 庭は 5Oohaもあ. る広さで、 城は細長い装飾庭園の. 城と城 前のパルテールは 運河. 中央にあ. って、 装飾庭園と同軸上に 置かれていた。. るいは 壕 ) で囲まれ、 この水は長い 運河につながっていた。. この. 長い運河は、 マーブル川を 土木工事で運河に 変えたもので、 これが庭園の 横軸になっていた。. この. (あ. 運河の水は 、 町へ 流れた。. 庭 には、 野外劇場、 建築的なバロット 二つがあ り、 森があ った (狗 。. 5. 熟成一イタリアの 庭からフランスの 庭. イタリアの庭の 展開 フランス・ルネサンス 期の庭は、 15世紀の末から、 17世紀の前半まで、 イタリアの庭に 学びなが ら 展開した。. この間、 模範となったイタリアでは、 庭はおよそ 4 段階で展開し、 それぞれの時期にフランスに 新しい刺激を 与えたように 思われる。 イタリアにも、 庭園史の主な 流れには収まり 切れない庭があ るが、 フランスの庭への 影響はほとんどないので、 ここではそれには 触れない。 それはたとえば、.
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