• 検索結果がありません。

日本産業革命に対する再考

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "日本産業革命に対する再考"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

新潟経営大学紀要  第14号  抜 刷  2008.3

日本産業革命に対する再考

Reconsideration of the Japanese Industrial Revolution.t

吉 田 一 郎

(2)

吉 田 一 郎

産業革命に対する研究は、最近鈴木淳氏1によって研究史の整理がおこなわれているが、氏による と「産業革命」は、「マルクス主義経済学・歴史学」2による議論であると述べている。また、日本 産業革命「は言葉としては一般的でありながら、時期については学問的規定がマルクス主義の枠組 みの中でだけ論じられた」3とされている。つまり、世界史の発展法則を認め封建制から資本制へと 移行すると考えた場合、「産業革命」は重要な概念となるのである。 マルクス主義的な理解によれば、「産業革命とは、機械の発明と利用を基礎として資本制生産様式 が全社会的に確立する過程である」4とされ、「しばしば誤解されるように、技術革新一般」ではな いのである。技術革新=工業化よりも資本主義の確立、つまり資本家と労働者に分離された社会を 成立させるのが「産業革命」なのである5。つまり、マルクスが説く原始的蓄積の最終局面なのであ る。

かつて大塚久雄氏は、「イギリス産業革命は、まさしくそれ自身《the Industrial revolution》だ ということがでいきる」6と述べている。イギリス産業革命こそが産業革命のモデルであり、他の資 本主義国はその影響の下で産業革命を展開したと見做している。日本産業革命は理論的にはこのモ デルとなるイギリス産業革命を基にしているのである7 しかし、今日イギリスでは、産業革命の存在そのものを疑問視する見解8が出ている。技術革新が おこなわれたのは産業革命だけではない。数量的にも産業革命よりもはるかに経済成長があった時 代も存在する。産業革命とされる時期はそれ以前とは断絶しておらず余り変化がみられない。むし ろ継続的であり「革命的」であるとは考えることができないなどの指摘9がある。 「日本産業革命」のオリジナルとなるイギリス産業革命はイギリスですら疑問視されているのに それを日本史に当てはめるのは不可解なことと言えよう。

(1)川勝平太氏の「東アジア木綿文化圏」

日本産業革命は果たしてイギリス産業革命に匹敵するものとして捉えていいのであろうか。川勝 平太氏は「東アジア木綿文化圏」を提唱している。これは、日本産業革命がイギリス産業革命と異 なることを実証したものである。以下氏の研究10を簡単にみていくことにしよう。 18世紀前半、イギリスでは、キャラコと総称されるインド木綿がイギリスに大量に流入していた。 しかし、1760年代より紡績部門で様々な発明がおこなわれた。アークライトの水力紡績機、ハーグ

(3)

リブスのジェニー紡績機、クロンプトンのミュール紡績機などである。 紡績部門に続いて織布部門でも発明がおこなわれ、1820年代までには力織機が改良され普及した。 このため機械で生産された綿布が逆にインドに流出した。 この結果インド綿業はどうなったかというと、1834年インド総督はイギリス本国に対して「この 窮乏たるや商業市場類例をみない。インド木綿職工の骨がインドの野を白く覆っている」11と報告 している。これは、インド綿業が壊滅したとの報告である。機械で生産されたイギリス綿業と手工 業段階のインド綿業との生産力の差は雲泥の差があった。インド綿業が壊滅するのも必然的であっ た。 ところで、わが国の方はどうであったかというと、1858(安政5)年の安政の5ヵ国条約によって わが国は翌年59年7月より欧米列強との通商が開始された。そのためイギリスより綿製品が流入し た。ところが周知のようにわが国には関税自主権がなく輸入品の流入を国家として防衛する手立て がなかった。また、わが国綿業はインドと同様、手工業の段階であった。それに、イギリスは1830 年代よりも生産力を上げている。のにもかかわらず、わが国綿業は破壊されるどころか反対に明治 以降飛躍的な進歩をとげ、戦前期には基軸産業にまで発展した。江戸時代末にはわが国綿業は各地 に在来産業が存在していた。もし、インドのように在来産業が破壊されていたら明治以降のわが国 の経済発展はなかったであろう。 川勝平太氏は、わが国綿業がインドのようにならなかった疑問に対して次のように答えている12 氏は、当時イギリスで使用されていた綿布とわが国で使用されていた綿布の品質の差異に注目した。 そして、イギリス綿布は薄地布でわが国綿布は厚地布であることを見つけだした。そして、綿布の 原料となる綿糸を太糸(24番手以下)、中糸(28∼32番手)、細糸(36番手以上)と分類した13 川勝氏は、わが国で使用されていた綿糸は太糸が使用され、イギリスで使用されていた綿糸は細 糸が使用されていたことを実証した。氏はさらに原料となる綿花は、日本では短繊維綿花が生産さ れ、イギリスでは長繊維綿花が輸入され(イギリスはアメリカ南部より綿花を輸入していた。綿花 はイギリスのような寒冷地では生産が不可能である。わが国でも福島県より以北では綿花は生産で きない)、それぞれ綿糸の原料として使用された。なおこの両者は同じ綿花ではあるが生物学的には かなり品種が異なる。19世紀後半のわが国とイギリスとでは明らかに文化の相違があったのである。 つまり、東アジア(日本、中国、朝鮮)では短繊維綿花を原料とした太糸が生産され、それを使っ て厚地布が生産されたのに対して、欧米では、長繊維綿花を原料として細糸が生産され、それを用 いて薄地布を生産されたのである。これらは次のように表わすことができる。 東アジア木綿文化圏  短繊維綿花→太糸→厚地布 欧米木綿文化圏    長繊維綿花→細糸→薄地布 このように異なる文化圏を形成していたのであり、両者は競合することがなかった。19世紀の開 港後イギリスから輸入された薄地布は、和服の裏地に使用されるなど用途が異なっていた14。この ため各産地名がブランドとなるほど高度に発展していたわが国綿業は破壊されることがなかったの である。すなわち、わが国は欧米とは異なる「東アジア木綿文化圏」の中に含まれていたのである。

(4)

(2)杉原薫氏の綿業を基軸とする「アジア間貿易」

また、杉原薫氏は川勝平太氏とは違った視点からこの「東アジア木綿文化圏」の存在を認める研 究をおこなっている。 かつて、S.B.ソウル氏は19世紀末から20世紀初頭のイギリスの貿易を研究し、世界はロンドンを 中心とする多角貿易が存在することを明らかにした15。これを大幅に視点を変えて受け継いだ杉原 薫氏は、イギリス=インド間の貿易に注目した。インドがイギリスに対してこの時代、平均6,000万 ポンドもの送金を可能としたことを重視し研究16をおこなった。氏によればインドはイギリスに触 発されて工業化し、とくに綿製品を基軸として他のアジア諸国に輸出し外貨を得ていたためである。 そしてこの期間、欧米に従属していくラテンアメリカなどとは異なりアジア間貿易は拡大を続けた。 インド=中国貿易(最初は周知のアヘン貿易が中心17であった)が形成され、やがては日本、東南 アジアへと広がって行った。インドを中心とした、綿業を基軸とするアジア間貿易が出現した18 である。 アジア間貿易においては19世紀後半はインドを中枢国家(Indeian Centric)と見做すことができ る。やがて日本の工業化によってインドは日本にその地位を奪われる。つまり、日本がアジアにお ける中枢国家(Jpanese Centric)に成り代わったのである19。これが戦前期日本の工業化である。 国際貿易をもとにアジア間貿易の出現を論じた杉原薫氏の議論は、日本国内の綿業の研究を広げ て東アジア木綿文化圏を提唱した川勝平太氏の研究とは視点が異なるが結論的には一致する。 日本の産業革命、工業化はこのように川勝平太氏、杉原薫氏によって論証されている厚地布を中 心とした東アジア木綿文化圏から考えていくべきであろう。

(3)速水融氏による「江戸時代勤勉革命」

速水融氏20は、日本は江戸時代に「勤勉革命(Industrious Revolution)」を経験することによって 工業化に成功したと主張している。速水氏は江戸時代に全国的に作成されていた宗門改から家族構 成を復元したり、数量経済学を援用したりして江戸時代の経済成長がそれまで考えられていたより も高い水準であることを実証した。そして、速水氏はこのことをイギリス産業革命に対比させた。 そして、産業革命の‘Industrial Revolution’の派生語である「勤勉」を意味する‘Industrious’ という語を用い‘Industrious Revolution’とし「 勤勉革命」と命名した。 経済学でいう生産三要素とは、資本・労働・土地である。イギリスは資本に特化し機械化し産業 革命を起こしたのに対して日本では、労働に特化し勤勉革命が起きたのである21 つまり、以下のように表わすことができる。 イギリス産業革命   Industrial Revolution 資本集約的 日本勤勉革命     Industrious Revolution 労働集約的 江戸時代の日本の勤勉革命は、イギリス産業革命に匹敵すると考えることもできるのである。で は、江戸時代にどのような工業化がおこなわれたのであろうか。

(5)

(4)対馬=朝鮮貿易

ドナルド・トビー氏は江戸時代の「鎖国」はむしろ幕府のとった積極的外交政策であったと評価 している。つまり、鎖国は幕府が中央政権としての正当制を追求した結果であると見做すべきであ る。日本は、独自の華夷秩序を打ち建て、それを外見だけでも受け入れる国とのみ外交関係を持っ た。こうして積極的な外交関係をおこなった結果がいわゆる「鎖国体制」となったのである22 江戸時代当初は、外国に対しても積極的であったことは貿易状況からも理解することができる。 江戸時代の国際交流は、松前、対馬、長崎、薩摩の四経路から貿易や交流をおこなっていた。松 前口は、蝦夷地でアイヌと、対馬口は朝鮮と、長崎はオランダや中国商人と、薩摩は、琉球王国に 中国へ朝貢貿易をおこなわせていた。この内、中国との貿易関係を直接的あるいは間接的におこな っていた長崎口、対馬口、薩摩口である。ここでは、田代和生氏の研究23を参考にして対馬・朝鮮 貿易を簡単にみていくことにしよう。 田代氏は、『宗家記録』等の対馬藩の史料を用い体系的な研究24をおこなっている。対馬藩は江戸 時代においては朝鮮との外交・貿易などを幕府よりまかされていた。本来ならば小藩であるが、10 万石の格式があてられており、幕府より大藩の扱いを受けていたと見做すことができる。これは、 対馬藩が、朝鮮との外交において幕府に代行して外交儀礼を執り行っていたため、それに似合う格 式が与えられていたためである。 朝鮮貿易においては朝鮮の特産物である朝鮮人参と中国産の絹織物、生糸である。わが国はその 支払いとして、銀や銅を中心とした貴金属を充てていた。 1695年(元禄8)年には、幕府による改鋳がおこなわれた。これは周知のように金銀通貨の数量 を増加させ改鋳益金を挙げることで、幕府の財政補填をおこなうためであった。朝鮮輸出用に用い てた慶長銀(品位80%)が不足すると、改鋳による元禄銀(品位64%)に切り換えられる25と朝鮮 商人による元禄銀の受取り拒否にあった。そのため対馬藩は幕府に訴え、慶長銀と同位の良質銀 「特鋳銀」の鋳造の許可を得たほど26である。このころの貿易品の輸出品のほとんどが、銀、銅、錫、 亜鉛といった鉱山物であった。全体の70∼90%を占めていた。そのうちの50%以上は、銀であった。 また、その次ぎに多いのは銅である27 田代氏は、銀の輸出量は18世紀前半は増加していたと推定している28。銀の流出は圧倒的に長崎 を凌駕していた。長崎においては輸出の決算が幕府の統制によって銀から銅に変更されたが、対馬 においては新井白石の意図は全く反映されなかった。幕府は、白石失脚後、享保期に再び貨幣の改 鋳をおこなった。しかし、対馬では、品位を正徳銀と同じ80%のままで使用された。国内で鋳造さ れた享保銀の鋳造高の7∼8%が朝鮮との貿易で対馬より流出したと推計されている29。貴金属の流 出は、通説で考えられているように新井白石の改革で減退したわけではないのである。 正徳新例による貿易の統制は、貴金属の流出を止めることができなかったのである。直後に親政 をおこなった吉宗は、殖産政策をおこない朝鮮人参の国内生産に成功する。また、その後の田沼意 次は、日本の特産物である俵物の輸出奨励をおこなった。

(6)

わが国は、銀を大量に輸出して、中国の生糸を輸入していたのである。わが国は中国の朝貢国で あった朝鮮、琉球を経由して中国へ銀を輸出していた。琉球は、マカオを通して中国と貿易をおこ なったりもした。また、オランダ人は長崎から銀を輸出した。当時の日本と中国の二ヶ国間貿易は、 世界最大の規模であった。

(5)江戸時代の鉱業

日本からの貴金属の輸出は、その輸入国である中国の内情にも密接に関わっていた。中国では、 中央財政が銀によって運用され、中国における銀吸収力をもたらしたのである。 中国における租税は、土地税(田賦)と人頭税(徭役)の二本建てであった。土地税は、米や麦 で納められ、人頭税は労働で納められていた。15世紀になると銀の流通が拡大した。それを、背景 としてまず土地税の銀納化が進み、次いで徭役も銀納化されるようになった。 16世紀後半になると両者を一体化した一条鞭法が普及した。さらに清朝になると地丁銀制が採用 されるなど日本銀などの流入により財政・税制などの運営が銀によってまかわれるようになった。 中国にも日本銀を引き付ける要因があった。 清朝は、日本に銅を求めていたとされ、銅はアジアでは、南部のインドでかなりの産出があった が中国に入らず、中国の銅不足を補うものは、日本銅しかなかった。1645(順治2)年から、1699 (康煕38)年まで北京の鋳造局は、輸入銅(そのほとんどが日本銅である)を毎年、2,246,660斤、 潰していたとされる。1705(康煕44)年に雲南銅山の開発が始まるが、銅質も悪く、輸送も困難で あったため埋蔵量が多いのにもかかわらず、開発が進まなかった。康煕年間の終わりころより、北 京の鋳造局で雲南銅の使用が始まるが、完全に日本銅と入れ替わるのは、1748(乾隆3)年のこと である。日本銅の使用は北京では止んだものの、地方の銭局では、なお盛んに使用された。乾隆年 間には、上海などの長崎への出港地では、日本の寛永通宝までが使用されたとされている30。日本 銅は、なおかつ中国にとって必需品であった。近世末まで日本銅は、輸入されていた31 ところで、一方、日本の国内の鉱業はどのようであったかというと、この分野の研究としては小 葉田惇氏の精力的な研究があるので氏の研究などを参考にして、概観してみよう。 近世の鉱山史をおおまかにみると日本の金銀鉱山は、16世紀中頃より急激に開発され、産出量を 増大させた。17世紀前半期までの約1世紀間が近世で最も産出量の多かった時代であった。金、銀 ともにこの時代に大増産をみた。とくに銀において顕著であった。しかも慶長・元和期(1596-1623年)を中心として前後約50年間が最盛期であった。石見大森、但馬生野、佐渡相川等の重要金 銀山がいずれもこの時期に繁栄した。しかし、ほとんどの金銀山が、正保期(1644-48)以降にな ると衰退に向かった32 銅の生産は、15世紀に入り金銀同様に産出を増したとされ、備中、美作、但馬等が主生産地であ った。16世紀以降銅山の開発があり、17世紀後半には画期的な開発がおこなわれた33 長崎において銀の輸出の禁止は、オランダ人に対しては1660年代であったが、中国人に対しては 1680年代の貿易定額制の施行によってようやく銀の抑制が達せられた。そのため輸出の主流は、銅

(7)

に移った。しかし、先にみたように田代和生氏が明らかにしたように対馬・朝鮮貿易から銀の流出 は1750年代まで、継続し、その数量は、徐々に低下していった34。 長崎貿易においては銅の輸出がおこなわれるようになったため、輸入は一時期増加したほどであ る。18世紀後半には、多くの中国船が長崎から銅を満載して帰国した35ほどである。

(6)養蚕、織物業の展開

①白糸から登せ糸への転換 江戸時代初頭には中国から膨大な生糸(白糸)を輸入した。このように白糸を大量に輸入できた のは、戦国期から江戸時代初期にかけて、銀山や銅山の開発がおこなわれ、そこで得た銀や銅を白 糸の購入代価として輸出することが可能であったからである。 通説では、1685(貞享2)年に白糸の輸入制限がおこなわれた。白糸の輸入が銀3,000貫目までに 制限され、糸にして7万斤あたりと大幅に削減されたため国内の蚕糸業は大いに発展したと考えられ ている。また、和糸は、1715年には20万斤、享保年間には、30万斤と激増している。それゆえ、 このころ白糸は、和糸に代わったとする説が通説とされてきた36 しかし、田代和生氏の研究によって長崎から銀の流入が減退しても、対馬から銀は大量に流出し たのである。また、幕府の政策に対して研究した太田勝也氏によると1715年の正徳新例は長崎貿易 を統括することには成功したが、貿易の制限に関しては現場の長崎奉行などの反対もあり効果のあ るものではなかったことが明らかにされている37 ②養蚕技術の改良 では、どのようにして日本国内で白糸に代わる和糸を生産することが可能であったのであろうか。 簡単にみていくことにしよう。江戸時代においても、養蚕技術の改良がみられた。18世紀初頭以降 の一世紀の間で10日以上も飼育日数の短縮がおこなわれている。繭の出来具合に対してもこの時期 に改良があったと推定される38。 しかし、養蚕は生物である蚕を扱っており、そのため他の産業に比較すると緩慢であった。通常、 生糸の品質にもっとも影響を及ぼすものは、原料繭の品質とされるが、原料蚕種としていわゆる一 代雑種が広く用いられるようになるのは大正期を待たなければならない。それ以前の段階では、何 種類かの原料繭を用いて危険の分散を図り、一定の繭を生糸生産の原料としなければならなかった ため、品質よりも産出量に重点をおかなければならなかった39 ③製糸工程の改良 養蚕に続く製糸工程について述べる40と、製糸とは、繭をほぐして糸を挽き出し、その幾本かを 撚り合せて生糸を作り出す作業である。製出されて生糸は、絹織物の原料として使用される。絹織 物は、非常に種類が多く41、それぞれが独自の風合をもっていた。西陣に代表されるような高級絹

(8)

織物は、必然的に良質な糸を選ばなければならなかった42。そのため、製糸工程の改良も胴取43 改良された手挽という道具が使用される44が、これは作業能率よりも品質の向上を目指した改良で あった45 西陣への登せ糸の量は、しだいに増加し46輸入品である白糸にかわって和糸が生産されるように なった。しかし、いつごろ西陣で生糸が白糸から和糸へと転換したかという詳しい研究は存在しな い。田代和生氏は西陣で使用される原料糸の国産品への切り換えの時期は、1710年代から30年代の 間に緩やかにおこなわれたと推定している47。 田代氏は和糸の実際の増産時期は、輸入糸激減期からかなり後年にずれる48と考えている。そし て、輸入糸から和糸への切り換えには、約70∼80年間の時期を要していたと推定している49 長崎貿易に関して永積洋子氏が訳出された『唐船輸出入数量一覧』50に現われる白糸の量をみる と1742年に65,314斤もまだ大量に白糸の輸入があり、翌43年も24,366斤となっている。白糸の輸 入が激減するのは18世紀後半であるようである。これは、手挽が使用されるなど技術的な改良がお こなわれた時期であり、白糸輸入の減退は日本製糸業の技術的な改良と関係があると思える。 ④西陣の勃興 絹織物産地について簡単にみていくことにしよう。 西陣の地名は応仁の乱に依拠する51とされる。16世紀半ばから17世紀初頭にかけて明から高級絹 織物の織法が伝播した。京都は古くから朝廷や貴族向けの高級絹織物が集中的に生産されており、 技術的な蓄積があったため比較的容易に明の技術を習得・模倣することができた。しかし、原料糸 の供給には、問題があった。国内における蚕糸業の発達はまだ不十分で、高級絹織物に適した原料 生糸は中国の白糸に頼らなければなければならなかった。 白糸の安定供給が、高級絹織物生産にとって不可欠な要件であった。そのため、西陣は幕府より 優先適に白糸の供給が認められ江戸時代初頭には、大いに発展することができた。西陣は、元禄年 間にはすでに160余町に渡る大機業地となり、1730(享保15)年の大火の直前には、実に総機数 7,000余りといわれる隆盛ぶりを示した52 ⑤後進機業地の発展 都市工業に対抗するように農村工業が勃興したことは、よく知られることである。特に丹後、加 賀、近江、美濃、上野の日野、桐生、伊勢崎、武蔵の秩父、甲斐の郡内などが成功な製品を織りだ すようになった。これは、西陣技術の伝播・移植が大きな役割を果たしている53が、西陣は1788年 (天明8)年の大火によりその中心部を焼失した54ため、職工や徒弟の地方への移動の機会となった。 この時期に美濃の曾代では、精工な羽二重、近江長浜では絹縮、桐生では男帯という特産物を産出 するようになった55。そして、これらの機業地は、関東一帯や、奥羽各地に生糸を生産させ発展し ていった。西陣は地方機業の発達を無視しえなくなった56。西陣より特に制限を受けたのは、桐生 ならびに丹後であった。この両機業地の発展を概観することにしよう。

(9)

桐生は、1680年代に全国市場に登場した。桐生は、西陣より染色法などの技術を導入しながら発 展した。18世紀半ばごろには、縮緬、絽、飛紗綾、絞絽、竜絞などの新しい高級絹織物を織りだし 江戸、京都をはじめ諸国へ販売した。 桐生は、関東の西陣と呼ばれるような隆盛をきわめた。しかし、18世紀末から19世紀になると関 東各地に機業地が勃興し、かつて桐生が西陣を脅かしたように桐生機業地の地位を脅かすようにな った57 桐生を脅かした代表的な機業地が足利である。足利は隣接する桐生から独立するように発展した。 そのため、桐生は自己の製品の有力な販路を失い大打撃を受けた58 丹後は丹後縮緬で有名になるが、ここもまた西陣の影響を受けて発達した。加悦地方で、享保期 (1716-36年)より、西陣から縮緬が移入され、安永期(1772-81年)までには、実に総戸数の三割 が機屋になるほどの発展をみた59。 こうした絹織物業の発展は、製糸業にも波及し幕末には、主要な製糸業地として奥州、上州、信 州が知られるようになった60。また綿業においても尾西のように絹織物に影響され高級綿織物を生 産するなど絹織物業の発達は、綿業にも影響を与えている61 各機業地は、競合しながら発達する、一方、幕末から明治初年にかけて各機業地は、特に高級な ものは西陣が生産したり62地域ごとに絹織物、綿織物、絹綿交織物と関係を深化させ発展していっ た。日本の絹織物業は、このように江戸時代初頭に中国の技術が伝播した西陣において発達し、そ の後西陣からの技術が桐生や丹後などの後進機業地に伝播し、それらの機業地が発達した63。また、 足利のようにさらに桐生の後進機業地として技術を習得して発達した機業地もあった。こうした機 業地の勃興は、製糸業に対しても影響を与えた。 周知のように製糸業は、明治以降日本最大の輸出産業に成長した。戦前期の日本経済を支えた産 業であるといえよう。製糸業の成長を可能としたのは、明らかに江戸時代における農村工業を中心 とした織物業の展開であったといえよう。これを可能としたのは、これまでみてきたように絹織物 機業地が存在していたからである。最初に発展した西陣は、中国から膨大な白糸を輸入して発展し ていったのである。日本はそれと引き替えに銀を中心とした莫大な貴金属を外国に放出したのであ る。また、このように銀と生糸を中心とした貿易が可能であったのは、幕府の外交がうまく機能し ていたことも付け加える必要がある。 『唐船輸出入品数量一覧』をみると、最後に白糸が輸入されたのは1816年である。1820年以降 持続的な経済成長を認める主張64と関連性があるのかも知れない。 ヨーロッパの織物業は、輸出志向型産業として発展した。江戸時代の日本の絹織物業は、明らか に輸入代替化産業である。日本は中間財である白糸を輸入し、その前方にある織物業を発展させ、 さらに後方に戻って養蚕・蚕糸業を発展させたのである。これは、戦国時代から江戸時代初期にか けて開発した膨大な貴金属を代償としておこなわれたのである。

(10)

注 1 鈴木淳「日本の産業革命はいつか」、『日本歴史』700、2006年。 2 同前 125頁。 3 同前 125頁。 4 石井寛治『日本経済史』(初版)、東京大学出版会、1976年、125頁。 5 同前 125頁。 6 大塚久雄「産業革命と資本主義」、『大塚久雄著作集』第5巻、1969年、424頁。 7 大石嘉一郎「序章 課題と方法」、大石嘉一郎編『日本産業革命の研究』上、東京大学 出版会、1975年、4頁。 8 たとえば、ピーター=マサイアス、小松芳喬監訳「第1章緒言産業革命−その存在証明と起源」、『最初の工業国家』(改訂新版)、 日本評論社、1988年。または、近年議論されている「ジェントルマン資本主義」(P.ケイン・A.ホプキンズ、竹内幸雄・秋田茂訳 『ジェントルマン資本主義と大英帝国』、岩波書店、1994年、P.ケイン・A.ホプキンズ、竹内幸雄・秋田茂訳『ジェントルマン資 本主義の帝国』Ⅰ、名古屋大学出版会、1997年、P.ケイン・A.ホプキンズ、木畑洋一・旦祐介『ジェントルマン資本主義の帝国』 Ⅱ、名古屋大学出版会、1997年。あるいは竹内幸雄『イギリス人の帝国』、ミネルヴァ書房、2000年)を参照。マルクス主義者 が考えてきた資本主義の担い手を産業資本家とする考えとは大幅に異なる。かつてわが国の学界をリードした大塚史学、周知の 「ヨーマンリーの両極分解」とは全く異なる。 9 道重一郎「イギリス産業革命の再検討−経済発展の連続性と断続性をめぐって」、『土地制度史学』141、1993年。 10 川勝平太『日本文明と近代西洋』、日本放送出版会、1991年、川勝平太『経済史入門』、日本経済新聞社、2003年、21-24頁な どを参照。 11 カール・マルクス、長谷部文雄訳『資本論』第1巻、角川文庫、1962年、177頁。 12 川勝平太「明治前期内外綿関係品の品質」、『早稲田政治経済雑誌』251、252合併号、1977年、185-193頁。 13 同前 204頁。なお、「番手」とは糸の太さを表わすのに使う単位である。840ヤードで1ポンドのものを一番手として、長さ が番手の数に比例し、細いほど多くなる。 14 同前 199頁。 15 S.B.ソウル、堀晋作・西村閑訳『世界貿易とイギリス経済』、法政大学出版会、1974年。なお同書は、久保田秀夫訳『イギリス 海外貿易の研究』、文眞堂、1980年の別訳が存在する。 16 杉原薫『アジア間貿易の構成と構造』、ミネルヴァ書房、1996年を参照。杉原氏は、19世紀末から20世紀初頭にかけてアジア 間貿易が形成されることを論じた。この期間アジア間では対ヨーロッパに対するより高い成長率を達成している。このことから 杉原氏はアジアはヨーロッパに従属していないことを主張している(杉原薫「アジア間貿易と日本の工業化」浜下武志、川勝平 太編『アジア交易圏と日本の工業化1500-1900』、245頁。 17 杉原薫「アジア間貿易の形成」、『社会経済史学』47-1、1985年、27頁。 18 杉原薫「第2章19世紀後半のアヘン貿易」、前掲、『アジア間貿易の構成と構造』、58-61頁。 19 なお、杉原氏は前掲、『アジア間貿易の構成と構造』でウェスタン・インパクトによって再編されアジア間貿易が形成されたと 捉えるが、川勝平太氏はよりアジアを重視しして継続と捉えている点で相違はある(杉原薫「アジア間貿易からグローバル・ヒ ストリーへ」、川勝平太編『グローバル・ヒストリーに向けて』、藤原書店、2002年23-24頁)が、綿業を基軸とする厚地布の東 アジア木綿市場を重視する点においては一致している。 20 速水融「序論−社会経済社会の成立とその特質」、社会経済史学会編『新しい江戸時代史像をもとめて』、東洋経済新報社、 1977年、速水融『近世濃尾地方の人口・経済・社会』、創文社、1992年参照。 21 速水前掲「序論−社会経済社会の成立とその特質」13-14頁。 22 ドナルド=トビ、速水・永積・川勝訳『近世日本の国家形成と外交』、創文社、1990年参照。 23 田代和生は、対馬貿易は、ピーク時には長崎貿易を凌駕していたと推定している。(田代和生『近世日朝通交貿易史の研究』、 創文社、1981年、282頁。 24 同前、田代和生『近世日朝通交貿易史の研究』参照。田代氏の研究を参考にした。田代氏は近世の対馬藩の貿易を分析するに あたって当時の貨幣政策について勢力的に研究している田谷博吉氏の研究成果(田谷博吉『近世銀座の研究』、吉川弘文館、 1963年)を援用している。国内の貨幣政策と銀の国外流出について研究している。 25 田代、同前、242頁。 26 同前、306頁。 27 同前 266頁。 28 田代和生「徳川時代における銀輸出高と貨幣在高」、梅村・新保、西川、速水編『日本経済の発展』、日本経済新聞社、1976年。 29 田代、前掲、『近世日朝通交貿易史の研究』、326頁。 30 川勝平太「日本の工業化と貨幣」、『早稲田政治経済雑誌』304-5合併号、1991年を参考にした。 31 山脇悌二郎『長崎の唐人貿易』、吉川弘文館、1964年、176-178頁。 32 小葉田淳『鉱山の歴史』、至文館、1956年、82-84頁。

(11)

33 小葉田淳『日本鉱山史の研究』、岩波書店、1968年、30頁。 34 田代和生「徳川時代の貿易」、速水・斎藤編『経済社会の成立』(日本経済史1)、岩波書店、1988年、146-184頁。 35 山脇悌二郎、前掲、『長崎の唐人貿易』170-175頁。 36 矢木明夫「製糸業」、地方史研究協議会編『日本産業史体系』、東京大学出版会、1961年、223-224頁。 37 太田勝也『鎖国時代の長崎貿易史の研究』、思文閣、1992年、601頁。 38 工藤恭吉、根岸秀行、木村晴寿「近世の養蚕と製糸業」、永原・山口編『講座・日本技術の社会史3 紡織』、日本評論社、1983 年、111-112頁。 39 根岸秀行「幕末開港期における生糸繰糸技術転換の意義について」、『社会経済史学』53-1、1987年、3頁。 40 工藤、根岸、木村、前掲、「近世の養蚕と製糸業」、124-134頁。 41 同前、107頁。 42 工藤恭吉、川村晃正「近世絹織物業の展開」、前掲、永原・山口編『講座・日本技術の社会史3 紡織』140頁。 43 工藤、根岸、木村、前掲、128頁。 44 同前、129頁。 45 同前、133-134頁。 46 矢木、前掲、「製糸業」、223-224頁。 47 田代和生「17、18世紀東・東南アジア域内交易における日本銀」、前掲『アジア交易圏と日本工業化』、137頁。 48 同前、139頁。 49 同前、138-139頁。田代氏は近世日本のように直接「人」を介在しない中国からの技術移転は、それが普及するまで相当な時 期を必要とするのではないかと想定している。 50 永積洋子編『唐船輸出入品数量一覧1637-1833』、創文社、1987年。 51 本庄栄治郎『増訂改版 西陣の研究』、改造社、1930年、3頁。 52 矢木明夫「農村工業の発展と日本のマニュファクチャア」、『岩波講座 日本歴史13近世5』、1964年、6頁。 53 同前、6頁。 54 同前、6頁。 55 同前、6頁。 56 同前、6-7頁。 57 同前、8-10頁。 58 同前、10-11頁、早稲田大学経済史学会編『足利織物史』上、1960年、301-352頁。 59 矢木、前掲、11頁。 60 同前、11頁。 61 塩沢君夫、近藤哲生編『織物業の発展と寄生地主制』、御茶ノ水書房、1985年、16-17頁。 62 工藤恭吉氏、川村晃正氏は、『明治7年の府県物産表』から西陣のある京都と当時、桐生・足利を県域にもっていた栃木県の織 物品名を比較している。それをもとに、京都の方が高級絹織物を生産しているとしている(工藤、川村、前掲、「近世絹織物の展 開」150-152頁)。 63 木村晴寿「明治前期輸入綿糸の流通構造」、『土地制度史学』129、1989年、54-55頁。ここで、木村氏は、明治前期の両毛織 物地帯で地域別に需要する綿糸が異なるとしている。 64 斎藤修「大開墾・人口・小農経済」、前掲、速水・斎藤『経済社会の成立』

参照

関連したドキュメント

ロボットは「心」を持つことができるのか 、 という問いに対する柴 しば 田 た 先生の考え方を

90年代に入ってから,クラブをめぐって新たな動きがみられるようになっている。それは,従来の

事業所や事業者の氏名・所在地等に変更があった場合、変更があった日から 30 日以内に書面での

しかしながら、世の中には相当情報がはんらんしておりまして、中には怪しいような情 報もあります。先ほど芳住先生からお話があったのは

は,医師による生命に対する犯罪が問題である。医師の職責から派生する このような関係は,それ自体としては

明治 20 年代後半頃から日本商人と諸外国との直貿易が増え始め、大正期に入ると、そ れが商館貿易を上回るようになった (注

 講義後の時点において、性感染症に対する知識をもっと早く習得しておきたかったと思うか、その場

図および図は本学で運用中の LMS「LUNA」に iPad 版からアクセスしたものである。こ こで示した図からわかるように iPad 版から LUNA にアクセスした画面の「見た目」や使い勝手