• 検索結果がありません。

トーマス・リードの常識の立場 : モラル・センスの立場との関連において

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "トーマス・リードの常識の立場 : モラル・センスの立場との関連において"

Copied!
20
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

ト ー マ ス 。 リ ー ド の

識 の 立 場

―一 モ ラル・ セ ンスの立場 との関連において 一一

トーマス ●リー ド

(ThOmas Reid)と

その 「 常識哲学」

(The Phi10sophy of Common

Sense)は

,一

時かな りの影響力を もったよ うで あ るが

,特

に J,S,ミ ルの功利主義以降急速 に衰 退 に向い

,

今 日で は

,

ご くわずかの人 たちの注 目を別 とすれ ば

,

ほとん ど忘れ去 ら れ た感が あ る。(1) しか し

,果

してそれで よいもので あろ うか。 ヒュームの「 ある」 と「 べ き」 (iS‐

Ought)の

問題 が大 き く取 り上 げ られ

,ハ

チス ンな どの立場 と現代価値論 との関係が見直 され よ うとも してい ると き

,倫

理思想 の面で もかな り特色 ある考 え方 を示 した リー ドを忘れてよいもので あろ うか。 この人 たちは共 に

,わ

れわれ の素朴 な道徳意識 の事実 に立脚 した人たちであるが

,中

で も リー ド は

,あ

くまで もわれわれ の 日常的 な常識

(COmmOn sense)の

立場 に踏み と ゞま り

,

しか もそ こ に理性的 な道徳 の根拠 を求めた人で あ る。勿論

,そ

れ だけに問題 も多 く

,体

系 と して も不 十分 にな ったで あろ う。 しか し

,今

日の価値 の状況 と考 え合 せて見 た場合

,そ

のよ うな リー ドの立場 に

,か

え って見直す に価 いす るものがあるのではなか ろ うか。 小 論 は

,

ヒュームを も合めた

,い

わゅ るモ ラル・ セ ンスの立場 との関連 において リー ドの常識 の 倫 理 を見直 し

,そ

の立場 の根底 にあるものを探 って

,出

来得 れ ば

,現

代 の課題 とも関連 づ けて見 よ うと試 み た もので あ る。

(1)

まず

,

リー ドの基本的立場 と

,そ

れ に基づ くモ ラル・ セ ンスの立場 の批判を

,な

るべ くリー ドに そ って確認 してい く。 改 めて述 べ るまで もないが

,

リー ドの常識へ の信頼 は実 に絶大 で ある。 リー ドによれ ば

,あ

らゆ る知識 のよって立つ究極原理

,す

なわ ち第一原理

(the arst principles)は

,す

べ て この常識 に よ らな くてはな らない。例えばあの複雑 な天文学で も結局 はわれわれの単純な視覚 の上 に成 り立 つ よ うに

,究

極原理 はすべ て

,だ

れ に も共通

(COmmOn)で

,

自明 (Self‐

evident)な

もので な くて

作 兼

(1, Ct:S・

(2)

山 はな らない とい うので ある。 ことが人間の行為 に関す る場合 は

,常

識 のか ゝわ る領域 は更 に広 く, そ こで は哲学者 で あろ うと普通 の人 であろ うと全 く等 しく

,

ことの善悪 を判 断出来 るので あって, そ こに学問 の介入す る余地 はない。勿論

,学

問が一 切不要 だ とい うのではないが

,平

明な道徳 の事 実 とはほ ど遠 い

,い

わ ゅる道徳 の理論

(Theory of Morals)な

ど何一 つ知 らな くとも

,人

は十分 に正 しく道徳 的判 断が出来 るとい うのである。 リー ドによれ ば

,

このよ うな判 断 においては人 々の 意見

(popular OpiniOn)の

方 に権威 があるのだか ら

,道

徳 の実 際的規則 と理論 との間 に対立 があ る ときは

,「

実 際的規則を基準 と して

,理

論 の方 が訂正 され るべ きで あ る。」

(1)し

か も そ こに

,十

,普

遍性 が見 られ るとい うので ある。「 人知 の中で

,古

今 を問わず

,学

の有無 を問わず, 道徳 の実際的規則 ほ ど

,全

き一致を見 てい るものはない。」(2)「義務 の道 は実 に平明で

,心

の正直 な人 な ら

,め

ったに誤 ることのない もので ある。」(3) ところで

,

このよ うに リー ドの絶大 な信頼 を受 けてい る常識 の立場 の道徳 とは

,わ

れわれの良心

(COnScience),道

徳 的能 力

(mOral faculty)な

どと呼 ばれ ているものを 素直 に認め

,そ

れ を 究極 の根拠 とす ることに外 な らないが

,

リー ドによれ ば

,

この能力は

,い

うまで もな く如何 な る人 に も存す るもので あ り

,ど

のよ うな悪漢 といえ ども決 して例外で はない。 それ はすべての人 に生来 的 に存す る

,否

定す べか らざる事実で あるとい うので ある。 リー ドの道徳論 は

,す

べて この絶対 的 な確信 の上 に成 り立 ってい るもので ある。 もっとも

,わ

れ われ の道徳 的能力 が万人 に生来 的 に存す るとはい って も

,そ

れ は一切 の教育,司∬ 棟 を退 け るもので は決 してな く

,む

しろそれな しには この能力は決 して十全 に発達 し得 ない ことは リー ドの しば しば強調す るところで ある。 リー ドがわれわれ の常識

,道

徳 的判 断の普遍性をい ゝ, 学 の有無 を問わない とい って も

,そ

れは既 に「 十分 にもののわか る年齢 に達 した

,一

人前 の大人「

(COme tO year of understanding, ripenss of understanding,duly enlightened,ィnature

adult)の

こ とで あ って

,

幼児 や全 くの野蛮人 の ことでない とは至 るところで語 られていることで あ る。 この意味で は

,教

,訓

練 はむ しろ不可欠 の条件 といえ る。 た ゞ

,教

,訓

練 な どの影響 が 如何 に大 きい とはい って も

,そ

れ は しょせん

,条

件 にす ぎず

,そ

れか らすべてが来 るので も

,そ

れ によ って全 く新 しい ものが生み出され るので もない とい うので ある。「道徳的区別のいわば種子 (

seeds)は

,ゎ

れ われをつ くり給 うた ものによ って心 に植 えつけ られてあるもの」 なので ある。(4) リー ドの道徳論 において大 きな比重 を 占め

,最

も激 しい もの とな った ヒューム正義論 の批判 も, す べて この道徳 の生来性 の確信 に基づいてい るので ある。 リー ドによれ ば

,

ヒュームは正義 の徳 を 人 々の功用 (utility)1こ 基づ く人為 的な (artifiCial)も の とす るが

,そ

の考 えの誤 りで あること

EssayS on the Act e Powers of Human Mind.p.387(The M・ I・T,Press) (以司F Act e

Powers。 と略) ibo P。 386 ib. P。 370 ib. p. 247 作 兼 横 側   ⑭ 倒 側

(3)

,正

直 な人 な らだれで も

,

自分 の胸 に きいて見 るだけで十分で あるとい う。否

,そ

の ことは

,

ヒ ューム 自身 の叙述 の中に さえのぞかれ るともいわれている。

(5)リ

ー ドによれ ば

,わ

れ われ の工義 の徳是認の念 は

,決

して単 に功用 にのみ よるのではない。勿論

,功

用 や快 の面 もあるが

,正

義 の是

,正

義へ の義務感がそれ と全 く異 る原理か ら来 ていることは

,す

ぐ気付 かれ ることで ある。 そも そ も リー ドによれ ば

,真

の道徳的行為 はわれわれの道徳意識

,義

務 感 に発す るものでな くてはな ら な い。従 って正義 の徳 が存す るとき

,実

は既 に

,そ

こに正義 の念 が先立 ってあるはずで ある。 ヒュ ームは逆 にその ことを循環論 と し

,義

務感 に先立 ってその行為へ の動機 がな くてはな らない として い るが

,そ

れ に従 うな ら

,「

なすべ きで ある」 とい う理 由か ら義務 を行 って も何 ら道徳性 は存 しな い ことにな り

,「

如何 な る形 而上学的か らくりを もって して も正 当化 出来 ない

,ま

ことに驚 ろ くべ き不合理 さ」(。

)と

い わな くてはな らない。 そ こで

,正

義 の徳探究 の前提 とな ってい る自然状態 (

state of nature)を

,

あ くまで も一切 の文化や社会 の影響 を とり除 いた状 態のことであ ると限定 して見 て も

,正

義 は決 して人為 的 につ くられたものとはな らないと リー ドはい うのであ る。契約に よ って社会 が出来

,そ

こか ら正義 がつ くられ ることはあ り得 ない ことだか らである。 リー ドによれ

,社

会 は信頼 の関係で あ る。従 って社会 があることは既 に信頼 が存す ることを意味 しているので あ り

,つ

ま り正義 は社会 と共 に

,あ

るいはその以前 に

,

自然 的 にあ ったはずで ある。「 誠 と信頼 な しには どのよ うな人 間 の社会 もあ り得 ない。人 々の間に多 くの正直 さと誠実 さがな くば

,如

何 な る 社会 も

,∼

野蛮人 の

,否,泥

棒 や海賊 の社会 で さえ も存 し得 ない。 それな しには人間 は神 のつ くり 給 うた ものの中で最 も非社会的動物 で ある。彼 の有様 は

,実

際 に

,万

人 の万人 に対す る戦 い

,決

し て平和 に至 ることのない戦 いの状 態 と してホ ッブスが考えたあの 自然 の状 態 となるであろう」(7) ともいわれてい る。 リー ドの ヒューム批判 が必ず しも十分な ものでないことはい うまで もない。 ヒ ュームの取 り扱 いにも

,そ

の議論 にも

,多

くの問題 はあるが

,た

,

こ ゝで

,正

義 の念

,そ

の是認 の能力 は

,決

して人為的なつ くりごとではな く

,あ

くまで も人間 に生来 的な

,

自然 的 な ものである とす るゆるぎない確信 は

,注

目に価 いす るものがある。 そ して必ず しも経験主義の立場でない リー ドにおいては

,そ

れ で十分 と考え られたで あろ う。 それは

,証

明を要 しない

,常

識 の事実 で あるか ら。 と ころで

,万

人 に事実 と して存す るこの生来的道徳能力は

,

リー ドによれ ば

,あ

くまで も理性的 な力である。 それは

,

リー ドにおいて

,道

徳 的 区別 は道徳的真偽 (true Or false)の 区別 であ り,

真偽に関する心の決定は一般に判断と呼ばれ

,判

断はすなわち理性の作用であると考えられたこと

によるものであるが

,そ

こか ら

,い

わゆるモラル・ センスの立場一般が批判されることになったの

,当

然のことであった。 この立場は

,

リー ドによれば

,「

道徳的是認

,否

認は

,真

,偽

の判断で

407 447-8 443 P P p ib ib ib G 俗 解

(4)

兼 山 横 割 はな く

,単

に快

,不

快 の感 じ

(feeling)あ

るいは感覚

(SensatiOn)で

ある」

(8)と

す る立場 だか らで ある。 このモ ラル・ セ ンスの立場一般 の批判 において も

,主

と して攻撃 されたのは ヒュームで あ り

,

ヒュームの感情 の立場で あった ことは注 目に価 い しよ う。 それは

,「

ヒュームが この立場 の 最 後 を飾 り

,感

覚 または感 じをす べて (all)と した」(。

)か

らで あろ うが

,

とにか くリー ドは

,少

な くともその感 じの立場 に激 しい批判 を浴 びせ

,次

のよ うにもい ってい るので ある。「 感 じまたは 感覚 は

,わ

れ われ の考 え得 る行動原理 の中で最 も低級な もの と思 う。 われわれは

,快

苦 を感ず るす べ ての存在 に

,動

物 の名 を与 え るもので ある」(10)と 。実 は これ は

,

リー ドの人 間論

,行

為論 の全 体 か ら来 ることで もあった。 リー ドはわれわれ の行為 の原 理 (prinCiples of action)を三 つの階 層 に分 け

,最

下層 にわれわれ の意志 にか \わ らな い全 く機械 的 な原理

(mechanical principles

of action)と

して本能や習慣 を置 き

,

その上 に

,勃

物 的原理 (a mal principles of action)

と して種 々の欲求 や感情を位置 させ

,

それ らの最上位 に理性的原理

(ratiOnal principles of

action)と

して

,わ

れわれの全体的な善

(Our g00d On the whole)を

図 る もの

,

と`わば 自愛 あ

るいは思慮

(prudence)と

,義

務 感

(Sense Of duty)と

を位 いさせて

,は

なはだバ トラー に近 い階層的人間観 を とっていたわけである。後 にも見 るように

,感

情 をす べて悪 と して退 けたわ けで は決 してないが

,感

情 は何 よ りも動物 と共 通 して い るもの と して あ くまで も理性 よ り低次 の もの, 従 って常 に理性 によって統御せ られ るべ きもの と し

,理

性 的で あることが人 間的な ことで あ ると一 貫 して主張 して い るので あ る。 そ こか ら

,感

情 の立場 に対す る批判 も4J性 主 義一般 の もの とな って い るわけで ある。 リー ドによれ ば

,

理性 の統御を欠 いた感情 は

,

波 間 に漂 う小舟 の よ うに定 めな く

,そ

の道徳的区別 は結局

,相

対主 義

,懐

疑主義 に至 る しか ない。 それ につ いて次 の よ うに もいわ れ てい るので あ る。「 も しもいわゆ る道徳 的判 断が真実 の判断ではな く

,単

な る感 じにす ぎな い も のな らば

,道

徳 の原理 は

,一

一 われ われ は

,そ

れ はあ らゆ る知 的存在者 に対 して永遠不変 の もので あ ると考 え るよ う教わ って来 てい るのだが一―

,人

間 の心 の構 造 の中に確固 と した土台 を も た な モヽ

,ど

うにで もな る (arbitrary)も ので しかな くな るで あろ う。そ こか ら

,一

たびわれわれ の構 成 が変 ると

,不

道徳 が道徳 とな り

,

有徳 が悪徳 に変 じ

,

悪徳 また変 じて有 徳 にな ることで あ ろ う 」 (11)と 。後 に見 るよ うに

,

リー ドはわれ われの道徳的能力をモ ラル・ セ ンス と呼ぶ こと自体 には 何 ら反対 したので はないが

,そ

のモ ラル・ セ ンスを単 に感 じと して と らえ ることには強 い抵抗を示 したわけで ある。 リー ドによれば

,感

じの前 に実 は判 断が あるはずで あ り

,感

じは

,多

くの場合, その理性的判断の結果 として生 じるものにす ぎない。感 じと判 断は全 く別 ものであるが

,実

際 は両 者 合体 して あるところか ら

,混

同 され るのだ とい うので あ る。 そ もそ も リー ドに よれ ば

,セ

ンスは 決 して単 な る感 じではな く

,既

に内に判 断を合み

,真

偽 を見分 け る力を もった ものな ので あ る。哲 ib. P。 458 ib. 4 4 p p 口 ⑪ 硼 団ib. ib.

(5)

学者 はその ことを余 りいわないけれ ども

,「

普 通 の言葉 では

,セ

ンスは常 に判 断を慧味す るのであ り

,

セ ンスのある人 は判 断の人

,

よ きセ ンスは よき判 断であ る。」。夕

)五

官 も 何 ら 例 外 ではな ぃ。

Q3)と

ぃ ぅので ある。 セ ンス と判 断の問題 は後 に改めて考察す ることになるが

,

以上

,

リー ドにそって見 た ところで は

,道

徳 的 区別 は万人 に生来的に存す る理性的判 断 によるものであ り

,道

徳 はいわ ば理性 の事実 と い うことにな る。 リー ドの常識の立場は

,基

本 的 には理性 の立場 とい うことにな り

,そ

の限 り

,単

な る感情 の立場 との対立 は決定的 といわな くてはな らない。

(2)

では

,

リー ドの立場 は

,

カ ッドヮース らのいわゆ るケ ンブ リッジ・ プ ラ トニス トたちや

,S.ク

ラー ク

,ゥ

ォ ラス トンな どの

,十

八世紀初頭 の理性主義 と同 じものであろうか。既 にこの理性主義 には

,モ

ラル・ セ ンスの立場

,特

に ヒュームか ら鋭 い批判が加 え られているが

,

リー ドはそれ に如 何 に対処 す るであろうか。 結論的 にいえば

,

リー ドの理性 の立場 は

,そ

の十八世紀桝頭 の理性主義 とははなはだ異 った もの で あ り

,む

しろ

,

ヒュームな どの理性主義批判を大 き く取 り入れたもの とい うことにな る。 リー ドは

,悪

徳 は理性 に反す るものであると しば しば表 明 しなが らも

,そ

れを悪徳すべてに通 じ る定義 とす ることには反対 し

,次

のよ うにも加 えている。「 また

,こ

のよ うないい 回 し も 見 られ

る。それは

,

もああ歯粽た皮し老各為チをとと

鱈θ

ο

η

ttν

わ滋″′

'サ

ο

∫げ筋力

g∫),

もああ遣

色た

(ヵ

ル″

が。

″げ湯″

),も

ああ亀巷甚

1と (ヵ

ル″サ

″∬げ加独∫

),も

ああ貴担た

(チ

οサ

″クJ/2げ 蒻

2gd),絶

対 的適合性 に (ね ιル ,んοカルカカ奮∫

)反

して行為す ることな どで あるが

,私

しては

,

これ らは何 ら適切 な もの とは思 わない。 このようない ゝ回 しは

,≪

普段

,人

々がつか って い る

>と

い う権威 を もっていない。 それ は

,言

葉 の問題 と して極 めて重要な ことである。 これ ら

,悪

徳 の本性 を説 明 しよ うと して幾人かの人 たちによって発 明されたのか も知れないが

,

目的 に か な った もの とは考 え られない。 も し悪徳 の定義 として意図 されたものだとした ら

,そ

れ らは不適 当 とい うことになる。何故か といえば

,仮

りに最 もよい意味 にとった と して も

,そ

れ らは悪徳 の行 為 ばか りか

,す

べ ての愚かで不合理なことまでおお って しまうか ら」

(1)と

。単 な る愚 か さ と悪徳 とを しゅん別 して来 ている リー ドにおいて

,

これ は簡潔なが ら

,理

性主 義 に対す る決定的 な批判 と な ったわけである。

l121 Essays on the htellecmal POwers of Man,p.557(The M・ 1,T,Press)(以 Intellectual

Powers.と )

10 ib.Active POwers,p.232 (1)Active Powers,P,472

(6)

56

横 山 兼 実 は

,

これは

,理

性主 義 に対 す るヒュームの批判 で もあ ったので あ る。 ヒュームは

,単

な るもの の 関係 の違背 に悪徳 が存す るのではない と して

,例

えば次 のよ うにい っている。 も し悪徳 がそ こに 存 す るのな ら

,か

しの幼木 が親木 よ り成長 しても悪徳 とな るはず であ り

,不

倫 の関係 を も って も人 に見 られないよ うに行 えば

,悪

徳 ではな くな るはず で ある と。(つ ヒュームの批判 が全 く正 しいわ けで もないで あろ うが

,理

性主義 の立場 には このよ うに批判 されて もやむを得 ない面 がた しかにあ ったわけである。 ヒューム によれ ば

,

総 じて悪徳 は

,「

事実」

(matter Of fact)に

あ るのでは な い。例えば

,

殺人 の大 罪を い くら調 べて も

,

そ こに見 られ るのはせ いぜ いその行為 の情緒

,

動 機

,

意欲 ぐらいであ り

,

対象 の側 を見 つ めてい る限 り

,

この罪は見つか るはず がない。 忘恩 (

ingratitude)に

つ いて も同 じで ある。外 の どこにその忘恩 の罪 が存在 す るか, と ヒュームはい う ので ある。 リー ドもこの忘恩 に関 して ヒュームに一応 同調 し

,次

の よ うに述 べてい る。「忘恩 に関 す る ヒュームの反対者 た ちの説 明す べて にわた って ヒュームの後 を追 ってい く必要 はな い。何故 な ら私 は

,ヒ

ューム 自身 の行 ったあの説 明

,す

なわち≪ この罪は

,複

合 した事情 か ら生ず るのだ。 つ ま り

,そ

れが一 たび観察者 に示 され ると

,彼

の心 の特殊 な構造 によって非難 の気持 がか き立て られ るので ある≫ とい う説 明は

,

も っともだ と思 うか らであ る。 彼 は これ を忘 恩 が罪で あ ることの真 の

,そ

して最 も理知的 な説 明 と考えてい るが

,私

もまたそ う考 え る」

(3)と

eこ

ゝで明 らかな こと は

,

ヒュームは勿論

,

リー ドにおいて も

,道

徳 は単純 に外的 な事実 の問題 ではな い とい うことで あ る。 もっとも

,

リー ドは

,理

性のはた らきは「 関係」の認識であ る こ と を否定 したのでは決 してな い。「 もしもわれわれが道徳的義務の範 ちゅうを探すな ら

,

それは関係 という範 ちゅうに入 る。」(4) 「 これ らの関係の決定が道徳の対象なのであり

,関

係を決定す ることは判断の領域に属す ことであ る。」

(S)た

,

この道徳的判断の対象 とされる関係は

,決

して事実の関係ではな く

,「

如何なる 対象の間にも存在 し得ない」「全 くそれ 自身の

,独

自の」関係

,「

道徳的関係」(mOral relation) だ とい うのである。 それは

,

リー ドによれば

,あ

る行為 と行為者 との間の

,義

務をあらわす

,「

べ き」

(Ought)の

関係なのである。「道徳の第一原理は

,道

徳的能力の直接的命令の中にある。そ れはわれわれに

,人

が実際如何にあるかをではな く

,如

何にあるべきかを示すのである。」

(3)こ

卜に実は

,最

初に述べた ヒュームの「 ある」 と「べき」の区別が全面的に取 り入れ られているとい ってよいであろう。 リー ド自身

,

ヒュームのその問題の箇所

,す

なわち

,

これまでの倫理学はすべ て

,は

じめ「 ある」について述べて来なが らいつの間にかそれが「べ き」に変 っていて

,不

可解で ある。「べき 。べきでない」

(Ought Or ought not)は

,「

ある 。ない」

(iS and is not)と

D.Humei Treatise of Hunan Natureo P,467.461(f.n)(OXfOrd) Active Powerst p.472-3 ib. p. 229 ib.P,447 ib, p. 236 作 ② O 個 9 倒

(7)

は全 く異 った

,独

自な関係 ない し断言 をあ らわす のだ とい う箇所 の全文 を引用 し

,そ

の区別 の趣 旨 はそのま \認めているので ある。 ところで

,

ヒュームにおいて真理 とは

,観

念 間の一致 または観念 と事実 との合致 に外 な らなか っ た。 そ こか ら

,そ

のよ うな事実 の問題 ではない道徳 には真偽 はいえない ことにな り

,理

性 の非 能勃 性 と相 ま って結局

,道

徳 的区別 は理性 によ らない と結論せ られたわけで あ るが

,

リー ドも

,道

徳 は 事 実の問題 ではない ことを認め る限 りでは

,

ヒューム と同 じ見方を してい るわけであ る。行為 の究 極 目的 は理性 では説 明 出来 ない とす る見方 にまで

,

リー ドは同意 してい るので ある。

(9)し

か し, そ こまで見方を同 じくしなが らも

,

リー ドは決 して感情 の立場 は と らない。先 の意見 の一致を見 た 忘恩 の箇所 の後 で リー ドは

,「

私 は

,

ヒュームの反対す る仮説 が

,個

々の事 例 に適用 され るとき, 不 可解 な ものではない と思 う」(10)と

,全

く反対 の結論 を引 き出 してい るので あ る。 では

,

リー ド におけるそのよ うな

,事

実 認識 と全 く異 った

,い

わ ば価値認識 の理性 とは如何 な るものであるか。 それが リー ドにおいて しば しばいわれてい る直覚 (intuitiOn)あるい は直接的 に

(immediatly,

directly)知

覚す るはた らきであ り, これが ヒューム との分岐点をな してい るわけである。 リー ド は

,先

の「 ある」 と「 べ き」 の箇所 で ヒュームのその区別 に賛意を表 しなが らも

,

ヒューム とは逆 に

,そ

の変化は理解 出来 ることであると し

,で

,そ

の独 自な「 べ き」 の関係 は如何 に して導 出 さ れ るのか

,と

して

,「

これは

,不

可能 な要求 であ る。道徳 の第一原理 は

,そ

もそ も導 出され るもの で はないのだ。 それ らは 自切なのであ り

,他

の公理 (a

om)と

等 しく

,推

(reattning)ゃ

導 出な しに知覚 され るものなのだ」。

1)と

,加

えてい るのであ る。 リー ドは別 に「 道徳 は論証 し得 る や否 や」 とい う一章 において

,道

徳 の第一原理 は「 直接的に」見分 け られ るもので決 して論証 によ るものでない ことを, るる説 いてい るのである。(12)

(3)

リー ドの立場は

,基

本 的 には理性 の立場であるとはい って も

,そ

れは十八世紀初頭 の理性主義 と は はなはだ異 ること

,そ

れ は特 に ヒュームの理性主義批判を大 き く踏 まえた ものであ ることを上 に 見 たわけで あるが

,た

,そ

の根本 に直覚を置 く限 りでは

,実

,

リー ドと同時代 の リチ ャー ド・ プ ライス

(Richard Price)と

変 らない ことにな る。 プ ライス もまたモ ラル・ セ ンスの立場 を激 し く攻撃 しなが ら

,理

性主義 を も批判 し

,結

,そ

の道徳的能力の根本 を直覚 と してい るのである。 で は

,

リー ドの立場 はプ ライス と同 じものなのであろ うか。 (9) ib・ p.478 1111 ib・ p. 474 1111 ib・ p.471

(8)

58

横 山 決 してそ うで はない。 同 じ く直覚 を根本 とす る立場 ではあ って も

,

リー ドの理性的能力 はプ ライ ス よ りもモ ラル・ セ ンスの立場 の方 によ り近 く

,は

なはだセ ンス に近い能力であるといえ る。 まず何 よ りもそれを示す ものは

,先

に もふれてあるよ うに

,

リー ドにお いて道徳的能力が明 白に モ ラル・ セ ンス ともせ られていることであ る。 これ はプ ライスには全 く見 られない ことであ った。 「 ヒューム氏 が

,道

徳 的区別をモ ラル・ セ ンスか ら導 くとき

,言

葉 の上 では

,彼

と私 とは全 く同 じ で あ る。」(1)「 イ9れわれ は

,行

動 の正・ 邪をモ ラル・ セ ンスあるいは良心 によ って判 断す る」(2) といわれてい るよ うに

,

リー ドにおいて

,わ

れ われの道徳的能力

,良

,義

務 感 は

,

しば しば

,モ

ラル・ セ ンス と しても扱われてい るのであ る。道徳的区別 はた しか に判断であ って決 して感情 では ないが

,そ

の判 断はセ ンス と別にあるものではな く

,セ

ンスその ものに合 まれているのであ る。哲 学者 た ちがそれを認 めよ うと しないだけの ことであ ると リー ドはい うのである。 それ はまた

,一

種 の道徳的美感 とい って もよいものであろ う。「 美 につ いて」 と題す る一章 において

,

リー ドは道徳 的完成 の美 しさ

,そ

の快適な感 じについてふれ

,次

の よ うにも述 べてい るのである。「 壮麗 さが 自 然 に感嘆の念 を呼 び起 こす よ うに

,美

しさは 自然 に愛を生 む。 そ こでわれ われは

,愛

とや さ しい気 持 との 自然 な対象 とな るものを美 と して差 し支 えないであろ う。 この種 の美 は主 に道徳的 な徳 の中 にあるのだが

,そ

れ らは

,一

種独 自の仕方 で

,愛

すべ き性格を成 してい くのである。潔 白 さ

,親

切 心

,思

いや り

,

自然 的愛情

,公

共 心

,そ

して あ りとあ らゆ る穏やかでや さ し い 徳。 これ らの性質 は

,本

来 的 に

,そ

れ らの もつ本質的な価値 の故 に

,愛

らしい

(amiable)の

で ある」

(3)と

。 この リー ドの道徳的 な美の賞賛 は

,何

とモ ラル・ セ ンスの立場 に近 い ことであろう。有徳は「 愛 らしく 」

,「

うるわ しい」

,悪

徳 は「 いまわ しく」

,「

み に くい」 とは

,

ヒュームを も合めて

,

この立場 に共通す る

,徳

の形 容語であ った。 ところが

,プ

ライスは

,こ

れを きっぱ りと退 けるのであ る。 プ ライスは

,行

為 につ いて「 愛 らし い」 とか

,「

とヽまわ しい」 とかい う美醜 の感 があ ることを認 めなが らも

,そ

れ と正邪

(right and

WrOng)の

念 とを しゅん別 してい るのであ る。否

,そ

もそ も

,セ

ンス と理性

(underStanding)

とは「 全 く異 った」 (tOtally different)も のだ とい うのである。 リー ドによれ ば

,そ

れ こそが 哲学者 の誤解 とい うことにな るわけであるが

,

とにか く

,そ

のセ ンス と理性 との しゅん別 か ら

,ハ

チス ンに対す る批判 はかな り激 しい もの とな り

,「

それ らを知覚す る力はまさ しくセ ンスであ って 理性 ではない とい うこと

,そ

れ らの観念 は行為 の真実 について も

,行

為 の本性 について も何 ものを も示 さない とい うことを

,彼

は証 明 もな しに残 してい ったわけである。徳 。悪徳が直接的 に知覚 せ られ る とすれ ば

,あ

る植えつ け られたセ ンス

(implanted sense)に

よ らな くてはな らない と彼 は 見 たわけであ るが

,

これ ほど軽卒な結論 もないであろう」

(4)と

,プ

ロタゴ ラス と並べて

,

この

紺イ

:璃

Υ

al Poweh P.557

Richard Price:A Re ew of the Principal QueStiOns in Morals,p.122(Selby‐ Bigge,ed.

British Moralists.Vol.■ ) 作 兼 側 似 団 側

(9)

立場 は

,あ

らゆ る真理 を否定す るものであるときめつ けてい るのである。(5) 既 に これ らの表現 にも明 らかで あ るが

,

リー ドとプ ライスの違 いは

,総

じて

,そ

の批判 のニ ュア ンスの違 いにも見 られ るであろ う。つ ま り

,

リー ドの理性主義批判 が簡潔 なが らもほとん ど決定的 で あったのに反 し

,プ

ライスのそれ は極めて穏やかで

,あ

えて「 ものの本性 に従 う」 とか

,「

もの の適合

,不

適合」 とか定義 しな くて もそれは直覚的 に 自明であ るとい う程度 にす ぎず

,カ

ッ ドワー スな どは高 く賞賛せ られているのである。逆 に

,プ

ライスのモ ラル・ セ ンス批判 は特 にハ チス ンを 中心 と して極 めて きび しい もので あ ったの に反 し

,

リー ドのそれ は主 に ヒュームであ り

,

しか もそ の感情 の面 に対 して ゞあって

,グ

ラス ゴー大学 の先 任者 ハ チス ンに対 しては極 めて控え 目な批判 に と ゞまってい るのである。 ま して

,

シャフツベ リーやバ トラーに対 しては

,

しば しば賞賛 こそす れ

,ほ

とん ど直接的な批判 は見 られない。 リー ドはた しかに しば しばプ ライスを引き合 いに出 し, 彼 に敬意を表 してい るが

,両

者 の立場のかな りの相違 は否定 出来 ないよ うである。 そ もそ も

,そ

の理性的道徳能力の根本を「直覚」 とす るとき

,そ

の概念 において両者

,果

して全 く同 じものを意味 してい るのだろ うか。 そ うではなぃで あ ろう。 リー ドが「 直覚的に」 とい うと き

,先

に もふれたよ うに

,そ

れ は「直接的に」 と全 く同 じ意味で あ り

,何

よ りも

,道

徳 的区別 は論 証 的推論

(demOnStrat

e reasoning)1こ よ るもので はない とい う意味で あ り

,

またそれ だけの ことで しかなか ったのである。「 も し徳 の規則が論証的推論 または何 らかの推論 によって見 出され るもので あ った と した ら

,ほ

とん どの人 々

,∼

推論 の力を培 う手 だてを もた ないほとん ど の 人 々 は

,何

とあわれな ことか」(。

)と

リー ドがい うとき

,そ

こには

,道

徳 的判 断は推論 によ るもので は ない とい うのみではな く

,そ

れは必ず しも高度 に知的な

,本

質直観 の能 力で はない ことも示 され て い るで あろ う。 けだ し常識 の本性 か ら考 えて も当然で あ るが

,他

の ところで も

,常

識 はた しか に理 性

(reasOn)と

呼 ばれて はいて も

,

何 ら高度 な能 力を意味 して い るもので はな く

,

だれ にで も可 能 な もので あ り

,ま

たその程度の理性 とい う意味 にす ぎない と こ と わ ってい る。

(7)そ

の意味で は

,

リー ドは「 直覚」 についてた しかにルーズなつかい方 を した とも,F難 されよ うが

,(8)と

もか く

,こ

れ はプ ライス とは かな り異 るので は あるまいか。勿論

,プ

ライスの直覚 にも問題 がないわ け で はな く

,(9)そ

れ も「直接的 な知覚」であるけれ ども

,何

よ りもそれは

,「

ものの本質

,本

性 」

(eSSence of things,nature of things)の

どう察 の力 と していわれてい るものであ り

,そ

の理

性 的性格 は

,

リー ドとは対照的なほど明確であ る。 リー ドの理性 的能力が

,必

ず しも高度 に知的な力ではな く

,む

しろ

,セ

ンスの知覚 に近 い ことを 示 す の に

,

リー ドの ヒューム理性論の批判 も参考 にな るのではあ るまいか。周知のよ うに ヒューム ib. p. 132 1ntellectual Powers, p. 726 ib, P, 569

cf.D,D.Raphael:The Moral Senset p.173f cだ。Antonio S,Cua:Reason and Virtuc,p.79f

d 口 m ⑤ 9

(10)

作 兼 山 横 は

,「

理性 は感情の奴隷 であ る」 と してその非能動性 を指摘 し

,

も って道徳 の根拠 とす ることを拒 ん だわけで あるが

,

リー ドによれ ば

,そ

れ は ヒュームにおける 「理性」 の語 の誤用 によ るのであ る。(1。

)っ

ま り

,普

(COmmOnly)理

性 と呼 ばれてい るものを ヒュームが感情 の系列 に合 めたの が誤 りなので

,ま

さ しく人 がそ う呼んでい るところの ものをおいて理性 はない と リー ドはい うので あ る。実際

,

ヒュームが道徳的区別 の感情 と したものははなはだ穏和な

(calm,SOft,gentle)情

緒 の ことであ って

,理

性 と区別 がつ きがたい ものであるとは

,

ヒューム 自身認 め るところであ った し

,逆

に リー ドの理性的 なはた らきとせ られ るものの中には

,先

に見 たよ うに

,「

われ われの全体 的善 を図 るもの」つ ま り自愛 も合 まれてい るわけで

,

リー ドは それを「 実践 的理性」 (praCtiCal

reason)と

も呼んでい るのであ る。(11)義 務感 もこれ と相並んでい る 点 か らすれば

,

リー ドの義 務 感

,理

性 的能力は

,

ヒュームの穏和 な情緒 と余 り遠 くない もの とい うことになろう。 ちなみ に

,そ

の理性的能力の実践性 についてふれておかな くてはな らない。 リー ドは

,理

性 には われわれの信ム や意見を正す とい うはた らきと

,わ

れわれの意志 を統御す るとい うはた らきの二面 があ ると し

,

しか し

,そ

の 自己の意志 にか 咲わ る面を よ り重視 している。 いわば

,そ

のための道徳 的判 断なのであ る。 ところが

,

このよ うな道徳的能力の実践性 の強調は

,

もともと

,モ

ラル・ セ ン スの立場の ものであ り

,特

に ヒュームの ものであ ったのである。 た ゞ

,そ

れ が

,感

情 を おいて外 に はない とす るわけであるけれ ども

,モ

ラル・ セ ンスの立場 と リー ドとの この点の関連 も軽視 されて はな らないであろ う。 道徳的判 断は単 な る善悪 の知識 では決 してない とい うべ きである。 も っと も

,プ

ライスの場合 にはその面 が全 く見 られない とい うのではない。 プ ライス も

,直

覚 的理性 のは た らきは

,実

践 と不可分 であ り

,理

性 的存在者 はまさに理性的存在者 な るが故 に義務 を遂行す ると もい ってい るが,。

2)た

,

リー ドのよ うなほとん どセ ンスに近 い

,独

立 した行動原理 とはかな り 趣 きを異 に し

,

あ くまで も「 ものの本質

,本

性」 の直観

,

道徳的菩悪の「 知識」

(knOWledge)

の体得 と してあ って

,そ

れが行動 に駆 らせ る力を も換起す るごと くであ るのは

,印

象 と して もかな り異 った ものがあるといえ る。 リー ドの理性 の立場 は

,以

上見たよ うに

,プ

ライス ともかな り異 って

,む

しろ

,モ

ラル・ セ ンス の立場 に近 い ことは

,否

めないで あろう。 その道徳的能力は

,い

わばセ ンス的理性 とで もい う外な い。

(4)

リー ドは基本的には理性の立場であったが

,そ

の理性的能力が実はこのようにはなはだセ ンスに Active POwers. p. 468: ibo p. 203

Richard Price: Review. P. 180f 側

側 ⑫

(11)

近 い もので あ るとす るとき

,そ

の道徳 的判 断の客観性 (ObieCt

ity)は

一体如何 に して保証せ ら れ るのであ ろ うか。モ ラル・ セ ンスに加 え られ る相対性 の指摘は

,如

何 に して克服 せ られ るのであ ろ うか。 リー ドにお いて道徳的判 断

,道

徳 的真理 の客観性 は

,結

,常

識 の「 自明性」(Self‐e

dence)

に求 め られ る外 ないであろう。 明証 (e

denCe)の

問題 に答 え る ことは むつか しいが われ われ と してはた ゞ

,セ

ンスを信ず るのみ

,

ともいわれている。

(1)し

か し

,単

に「 自明」 とい うのみでは 必 ず しも十分 とはいえないであ ろ う。 い うまでもな く

,各

人 に 自明 とせ られ る真理 にも相違があ り 得 るか らであ る。 ところが

,は

なはだ注 目せ られ ることは

,そ

もそ も リー ドにおいて

,そ

の道徳的判 断の力が絶対 的能力

,絶

対無過誤 の能力 とせ られ て お らないばか りか

,モ

ラル・ セ ンス の立場以上 に

,そ

れ の誤 りやす さ

,可

変性 が認 め られ てい る ことで ある。美感 の多様性

(2)は

無 論 の こと

,わ

れわれ の道徳 的信念ぅ意見 に多 くの相違 が見 られ るとは

,

しば しば指摘 されているところである。次 のものはそ の一部 にす ぎない。「 神 が元 のものの代 りに別 の判 断能力を授 けて くれない限 り

,わ

れわれは これ らの能力が無過誤 なものと保証す るわ けにはいかない。 われわれ と してはた ゞ

,そ

れを信 じてい く しかない ので ある。」(3) 「 も とも と

,わ

れわれ の何をな し

,何

をなすべ きでないかを定 め る道徳 的能力は

,義

務 につ いて重大 な誤 りを全 く犯 さない ほ ど確 固 と したものではないのである。」 この よ うな誤 りやす さの故 に

,先

に見 た ごと く

,教

育 が不可欠 の条件 とな るのであろ う。 しか しまた, その教育 の故 に

,か

え ってよ り多様 な信念

,意

見 を結果 す ることもあ り得 るわ けである。何れ に し て も

,生

来 的 にはいわ ば「種子」 と してある道徳 的能力は

,

リー ドにあ って

,か

な り可塑的である ことは否 めない。 これは

,上

に見 たよ うにプ ライスの「 ものの本質

,本

性 」を ど う察 す る

,あ

る意 味 では絶対的 な能力 ともいえ るもの と異 ることは勿論

,皮

肉な ことに

,そ

の相対性 が常 に指摘 され るモ ラル・ セ ンス ともかな り異 るところである。勿論

,モ

ラル・ セ ンスの立場 においてそのよ うな 誤 りやす さや

,可

塑性 が全 くいわれていない とい うのではないが

,

リー ドのよ うに明白には述 べ ら れていない のである。 しか し

,繰

り返す まで もな く

,

リー ドは決 して相対主義

,主

観主義 の立場を とるものではない。 道 徳的善悪 の区別 は

,「

私 の足 は手 よ りも長 い」 とい うことが証 明す るまでもな く明 白であるよ う に

,(3)明

らかな常識 の事実 である。 とすれば

,上

の ことは リー ドの 自己矛盾 なのであろ うか

,必

ず しもそ うではないであろう。何 となれば

,

リー ドは至 るところで

,わ

れわれ の判 断 の誤 りや多様 性 を よ く見 なが ら

,

しか もそ こに普遍的真理 の存在 を確信 してい るか らである。「 人 々に誤 りや無 Active Powers・ p.232 1ntellectual Powerst p.785f Actlve Powerst p. 237 ib.p.248 1ntellectual Powers, p. 553 側 ② 9 側 9

(12)

作 兼 横 知 が あ るか らとい って

,真

理 とい った ものは何 ら存在 しない とか

,人

には真理を見分 け

,そ

れ と誤 りとを区別す る 自然的能力はないのだ とかい うことほど

,愚

かな ことはないであろ う。」(6) も っとも

,先

に一言 したよ うに

,

リー ドにおいて その根本 の「 直覚」の概念 に多少 のあいまい さ の あることは認 めな くてはな らない。 ラフ アイルはそ こを突 いたわ けであるが

,彼

はそ こか ら

,

リ ー ドは結局

,個

々の行為 の工邪を見 るモ ラル ●セ ンス と

,道

徳 の究極 原理 を認識す るあ くまで も理 性 的 な直覚 とを混同 してい ると指摘す ることにな ったのであ る。

(?)ラ

フ アイルは

,

リー ドにハ チ ス ンのモ ラル・ セ ンス以上 の ものもあ ることを認 めなが らも

,そ

の混 同は リー ドにとって致命 的 な 欠 かんであ ると して

,き

び しく批半Uしたので ある。 われわれ と して も

,

ラフ ァイルの批半」を全 く無 視 す るわ けにはいかない。 リー ドが

,道

徳 の第一原 理 はセ ンス的な直覚 によ るとい うとき

,(8)そ

こに全 く混同がない ことはいえないか らであ る。 だが

,

ラフ ァイルの批判 がすべてであろ うか。 リ ー ドは果 して

,全

く致命 的なほ どに混同 し

,矛

盾 を犯 してい るの で あ ろ うか。 そ うではない と思 う。 問題 はむ しろ

,

リー ドの道徳 的判断

,ひ

いては道徳 的真理 その ものの性格 にあるのではなか ろ う か。 リー ド自身 によ って明白にいわれてい るわけではないけれ ども

,思

うに

,

リー ドは

,道

徳 的真 理 を必ず しも全 く固定 した もの とは考 えず

,

か な り形式 的なもの と見 たのではあるまいか。 例 え ば

,「

教育

,流

,習

慣 な どの多様 さか ら

,

この原理 の

,そ

して この原理 の命 じまたは禁ず る範 囲

(eXtent)に

つ いては人 々の意見は大 き く相違す るであろ う。 しか しその念

(nOtiOn)は

,そ

れ が あ る限 り

,至

るところ同一 である」(。

)と

いわれ るとき

,極

端 に とれ ば

,絶

対 的 に同一 な のは義 務 の観念 そのもののみ とい うことにな る。 つ ま り

,

リー ドにおいて

,人

間 の道徳 的存在性 はた しか に否定 され得 ないが

,

しか し人間 は

,あ

らゆ る義務 の内容 まで固定 され ている存在 ではないのではあるまいか。人間はすべて

,生

来 的 に道 徳 性 を有す る存在 であ ることは最初 くわ しく見 た ところであ った。 あえてつ け加え るな ら

,

道 徳 は

,

リー ドにあ って

,精

神 の法則であ り

,

自由意志 の主体 であ る人間 の構造 そのものに根 ざ してい る ものとい うだけで十分 であろ う。「 好 ま しくない例や

,仲

間 によ って堕落 させ られ ない限 り

,彼

らは真理 と誠実 の道 か らそれないものだ。 この各 自の中にある誠実 さへの性情 と他への信頼 は

,そ

れ が本能 と呼 ばれ よ うと何 と呼 ばれよ うととにか く

,彼

らの構造か ら来 てい るのであ る。」(10)だ が

,

このよ うに道徳的存在

,生

来 的 に道徳 的性情 を有 す る存在 ではあ って も

,そ

の根元 ともい うべ きあの可塑的な道徳 の「種子」 は

,必

ず しもあ らゆ る義務 の内容を先天 的に合んだ ものではな く, 義務 の形式 ない しご く大 まかな方向性 のみを有す る存在 なのではなか ろうか。 リー ドに徳 の体 系 は Active POwers, P. 248

D.D.Raphaeli The Moral Sense.P. 172ff

cf.Intellectual Powerso p. 727 Active POwers.P.225 ib.p.444 ⑥ 口 9 9 側

(13)

な く

,徳

目自体 につ いて も余 り語 られていない。最初 の ヒューム正義論 の批判 にも見 られ るよ うに

,正

義 の徳 も

,誠,正

,信

頼 な どといわ ば同根 を な して い る といえ よ う。 リー ドは実 際

,「

道徳 の第一原理 につ いて」 と題 す る一章(11)に おいて

,万

人 に 自明 と考 え られ るい くつか の究極的原理 を あげてい るが

,そ

れ も実 は

,ほ

とん ど形式的なものとい ってよい ものであ る。つ ま り

,1.行

為 には菩悪 の別 があ ること, 2・

5.自

由意志 に基 づ く行 為であ ること

,4.義

務 を果 すべ きこと, 5・

6.義

務 を果すため に最善 をつ くすべ きこと

,な

どがそれで ある。 この究極 的な「 徳 と悪徳一 般 の原理」か ら

,「

よ り個別 的なもの」 に移 って も

,せ

いぜ い

,1,自

愛 は悪 でない こと

,2,自

然 の意図

(the intention of nature)が

ゎか る限 り

,そ

れ に従 うべ きこと

, 5.全

体 の一員 で あ

ることを 自覚すべ きこと

,4.神

を信ず る者 すべて

,神

を敬 うべ きこと

,な

どで あ って

,ほ

とん ど 形 式に近 いもの といえ る。勿論

,

これを もって

,明

白な形 式主義 とい うわ けにはいかないが

,

リー ドにおいて義務 の内容が必ず しも固定化 されていない ことは否 めないであろ う。 では

,

リー ドにあ って

,個

々の義務 は決定 出来 ないのであろうか。個 々の道徳的判 断の適正 とい うことはあり得 ない ことなので あろうか。必ず しもそ うではないであろう。 た しか に個 々の義務 には幅が出来

,状

況 に 応 じて行為 は多様 とな り得 るであろうが

,

しか し

,道

徳 的性情 を有 し

,義

務 の形 式 ない し大 まかな 方 向性を備え る限 り

,多

様 な状況 に即応す ることによ ってかえ って柔軟 に して適正 な道徳 的判 断を な し得 るともいえ るのではあるまいか。 リー ドはあるところで

,義

務 の最 も一般 的な規則は 自明で あ ると した後 に

,次

のよ うに加 えてい るのである。「 これ らの規則 の個 々の行為へ の適用 も

,

しば しばそれ に劣 らず明 白であ る。 も しそれが明白でな く推論を要す る場合 で も

,そ

れ は論証 的な もの で はめ ったにな く

,が

い然 的な

(probable)も

のにす ぎない。 時 にはそれ は

,

当入 自身の気質や 能力や事情 によ り

,時

には他人 の性格や事情 によ り

,ま

た時 にはその双方 を考慮 してなされ るので あ る。 これ らは論証すべ き筋合 いものではない」(12)と 。 もっとも

,こ

れ は実 は

,先

の ラフ ァイル は勿論

,グ

レー ブによって も リー ドの 自己矛盾 の例 と して取 り上 げ られてい るものである。(13)な るほ ど リー ドは こ ゝで

,わ

れわ れ の「 道徳的判 断」 に「 不確実 さ」

(unCertainty)を

認 めてい る よ うに見 え る。 しか し

,真

,そ

うなのであ ろうか

,た

しか に「 がい然的

Jと

いわれている。 しか し

,「

がい然的」 とは

,

リー ドにあ って

,何

よ りも「 論証 的」 と対 してい るものであ り

,真

正 の意 味 においては

,「

が い然 的明証 」

(probable evidence)は

,そ

の「 確実 さ」 (Certainty)に お いて

,「

論証 的明証 」

(demOnstraive e

dence)に

何 ら劣 るものものではない とは

,る

る説か れ てい るところであ った。愈

4)矛

盾 どころか

,む

しろこ ゝに こそ

,

リー ドの形式的な道徳判断の,

極 めて弾力的な適用 が示 されてい るといえまいか。

tむ Active Powers,Essay V.chapi

l121 1ntellectuaI Powers,P.725

Qo D.D.Raphael:The MoraI Sense,P。 172 S.A.Grave:The ScOttish Phi10sOPhy Of COmmon

Sense. P。 240

(14)

山 われわれ の道徳的判 断 にこのよ うな形式性 があれ ば こそ

,健

全 な大入 な らだれで も

,学

の有無 を 間 わず十分 に正 しく道徳 的判断が出来 るとせ られ得 るのであ り

,大

衆 の偏見

,誤

解 が しば しば指摘 されなが らも

,そ

の大衆 の用語

,信

念 の中にこそ最 も権威 があるとせ られ得 るのであ り

,だ

れ に も ヨ明 とせ られ る第一原理 につ いて相違があるときに致命 的 ともいわれなが ら

,必

ず しも絶望 的 にも な らず に済 むのである。(15)リ ー ドに

,

ラフ ァイルの指摘 したよ うな混 同が全 くない とはいえない けれ ども

,

しか し

,そ

れで尽 きない

,独

自な ものもあ るのではなか ろ うか。 も しそ うだ とす るな ら

,

これは

,モ

ラル・ セ ンスの立場 のもつ大 きな問題 点をあ る程度解決 した こ とにもな る。 その一つ は

,モ

ラル・ セ ンスが必ず しも神秘的本能でな くともよ くな った とい うことで ある。種 々の面があるにせ よ

,モ

ラル・ セ ンスは

,特

にハ チス ンの場合

,極

めて特殊 な道徳 的能力を意味 し て いたのであ り

,ハ

チス ン自身 によって さえ

,「

不可思議 な性質」 (Occult quality)を も った「 本 能」 と呼 ばれてい るよ うに

,あ

らゆ る道徳 的区別をなす特別 な本 能であ った。 しか し

,そ

の よ う な不思議 な力を もった「本能」 は一体存す るものであろ うか。 ヒュームが

,「

道 徳的区別 はモ ラル ・ セ ンスか ら来 る」 と題 しなが らも

,そ

の特殊 な道徳感情をあえて普通 の感情 の中に求 め

,結

果 的 に はモ ラル・ セ ンスの立場 と しては極 めて異質 なものとなったのも

,実

はそ こにあ ったのであ る。 「 これ らの感情 が

,あ

らゆ る個 々の区別 に際 して

,生

れつ きもって来 た (ο砲 力,′

)も

,最

初 か ら (″協αヮ

)つ

くられてあるものか ら生 じると考 え るのはまことに愚かである。何故 とい うに

,義

の数 はある意味では無数 にあるのであ って

,わ

れわれ の生れつ きも ってい る本 能が これ らのすべて に ゆ きと ゞくことはあ り得 ない ことだか らであ り

,人

の誕生 のその時か ら

,完

全 な倫理学 に合 まれ る数 をの教訓 のすべてを心 に印す ことは不可能な ことであるか ら」(16)と して

,

ヒュームはその「 神 秘 的な本能」を否定 したのである。リー ドもた しか にモ ラル・ セ ンスの立場 に極 めて近 いもので は あ ったが

,

しか し

,

ラフ ァイル もそ こを高 く評価す るよ うに

,必

ず しもハ テス ンの よ うな

,特

別 な

,神

秘 的 な本能を仮定 したのではない。否

,義

務 をか な り形式的な形 で と らえた とすれ ば

,そ

必 要 もな くな ったわけである。 ヒューム と結論 は全 く異 るけれ ども

,

リー ドは ヒュームのモ ラル・ セ ンス批判を よ く見 ていたのではあるまいか。 リー ドの道徳的判 断の独 自性 が もた らした今一つ の点 は

,上

の こととも関連す るが

,神

の権威 に 訴 えて問題 の解決 を図 る必要 が

,余

りな くな った ことである。モ ラル・ セ ンスの立場 の特色 は

,何

よ りも

,人

間 の本性 に道徳 の根拠 を求 めた ことにあるといえよ うが

,

しか し

,果

して

,そ

こに道徳 が基礎づ け られ得 るものか どうか。 はなはだ特徴的な ことは

,

この立場 の人 たちは

,

ヒュームを除 くと

,そ

のモ ラル・ セ ンスに加 え られ る相対性 の指摘 とは対照的なほど

,道

徳 の絶対性

,永

遠不易 の道徳

(eternal,immutable morality)を

確信 して い るのである。従 ってそ こか ら

,

種 々の面 p.603-4

Hume: Treatise of Human Nature. p.473

作 兼 横 ib . D .

(15)

にギ ャ ップをF 3呈 して来 たの も

,む

しろ当然 の ことといわな くてはな らない。 そ してその解決 は, 結局 は

,神

に訴 え る しかなか ったのである。つ ま り

,道

徳 の客観性

,道

徳 の権威 は結局

,神

の権威 によるものであ った。 その ことについては別稿で しば しばふれてあるので

,(17)こ

積 で は 割 愛す る。勿論

,

リー ドは全 く例外だ とい うので はない。「 われわれの 自然的能力のまことの命令 は

,神

の声

(VOice Of God)で

あ り

,神

が天 よ りあ らわ に してい るものなのである。 従 って それ が 当て にな らない とい うことは

,神

が真実 を偽 った とす ることである」(18)と し

,信

仰な しに徳 の完成 は あ り得 ない と した シャフッベ リーを高 く賞賛 す るとき

,(19)道

徳 の根底 は神 であることは疑 う余地 もないが

,た

,

リー ドの場合

,モ

ラル・ セ ンスの立場 ほど

,直

接的 に神 の権威 に訴 え

,そ

こに救 済 を求 め る必 要 はな くな ったのではあ るまいか。義務 がかな り形式的だ とすれ ば

,そ

れ だ け

,ギ

ャ ップ も少 ないで あろ うか ら。実 際

,神

の声

,神

の権威 は余 り表面 には出ず

,代

って

,理

性 の権威, 理性 的人間の権威

,常

識 の「 自明性」が大 き く前面 にあ らわれてい るのを見 る。道徳 は

,

リー ドに あ って

,モ

ラル・ セ ンスの立場 よ りもは るか に独立 してい るとい う印象 は否 めない。 以上

,

リー ドの

,道

徳 的判断の性格 を中心 と して

,道

徳 の客観性 の根底 を少 しく探 って見 たわ け で ある。 い ろい ろ問題 は残 ると して も

,

リー ドは

,道

徳 的判 断

,道

徳 的真理 をかな り柔 軟 な形 で と らえ る ことによ って

,か

え って道徳 の独立を保 つ ことが出来 たよ うである。リー ドにお いて道徳 的 判 断の客4jl性の よ りどころは

,結

,常

識 の「 自明性」で しかない とは

,は

じめに述 べ た ところで あ るが

,

しか し

,そ

の「 自明性」は

,独

自な道徳 の構造 その もの に由来 し

,思

いの外

,堅

固 な土 台 を もっているといえ るのではあるまいか。

(5)

これまでわれわれは

,

リー ドは基本的には理性の立場でありなが ら

,実

は極めてモ ラル・ セ ンス の立場 に近いこと

,

しか しその中で

,何

よ りも道徳の独立を図ったものであることを見て来たわけ である。 た ゞ

,こ

れまでに既 に明 らかであるように

,モ

ラル・ セ ンスの立場 といっても

,実

は この立場そ のものが決 して一様ではないわけである。 シャフッベ リー

,ハ

チス ン

,バ

トラーにおいてもそれぞ れニュアンスを異 に し

,

ヒュームに至 っては

,

この立場 ともいえないほどに

,結

果的には異質 なも の となってぃるのである。 もし「 モ ラル ●セ ンス」という名だけにおいて見るな らば

,

リー ドもま

10

バ トラー

,シ

ャフッベ リー

,ハ

チスンに関 して以下参照されたい。拙稿「バ トラー徳論の一考察」一良心 と自愛の問題の根底にあるもの一」 (一関工業高等専門学校研究紀要第一号) 「 シャフツベ リーにおける自然 と道徳」 (鳥取大学教養部紀要第五巻) 「 ヒュームにおける功利思想 とモ ラル ●セ ンスの問題」 (鳥取大学教養部紀要第四巻) lo Active POwers,p.304 t91 ib.p.257

(16)

作 兼 横 46 た

,ま

ぎれ もな く

,モ

ラル ●セ ンスの立場 とい うことにな るで あろう。 こ くか ら

,

リー ドの立場 に対 しては

,全

体 的 に も様 々な批半」が加 え られて い るわ けで あ る。 それ は ク ラークとシャフッベ リーの合体 であるとか

,経

験 主 義 と理性 主義 とのいわ ば機械的合体 で

,そ

こには何 らのオ リジナ リテ ィもない とか

,

リー ドの立場 はバ トラーに極 めて近 いもので

,モ

ラル・ セ ンスの立場を越 え る何 もの もないな どと。

(1)し

か し

,果

してそ うで あろうか。 リー ドには何 ら のオ リジナ リテ ィもないのであろ うか。既 に検討 した ところか らも明 らかな よ うに

,決

してそ うで はない と思 う。 た しか に

,

リー ドにあ るものは

,ほ

とん ど彼以前 に存す るもの

,あ

るいは存す るはずのものであ った とはいえ る。特 に問題 にな るのが

,セ

ンスにおける直覚 的判 断作用 であ るが

,こ

れ とて も

,あ

えて探れ ば

,実

,

シ ャフッベ リー

,ハ

チス ン

,バ

トラーすべてに存す るはずの ものであった とい ぇ ょ ぅ。

(2)例

えば

,有

機 的全体 の秩序 において 自然を見

,そ

の根本原理 ともい うべ き良心を「 反 省 の原理 」

(a pinCiple of reflection)と

してい るバ トラー は勿論

,モ

ラル・ セ ンスを美感 と 類比 的に と らえなが らも

,そ

の有徳 な行為 の準拠すべ き美 的 自然を

,個

々の 自然的感情 とはかな り か け離れた

,完

全 に均斉 的

,調

和 的

,秩

序 的全体 で あるとす るシャフツベ リーにおいて も

,単

な る セ ンスの感 じの前 に既 にあ る種 の理性的判 断ない し直覚 的知覚 が先立 っていな くてはな らないはず で あ った。実際

,そ

うな ってい ると見 る人 もあ るわ けであ る。

(3)ハ

チス ンのモ ラル・ セ ンスの特 殊性 につ いては上 に述 べ た ところで ある。 その神 秘 的本 能性 との関連 は ともか く

,モ

ラル・ セ ンス の感情面を最 も強調 した初期 においてさえ

,「

あ らゆ る

,行

動 の理 由

(exciting reasons)は

本 能 と感情 を前提 し

,正

当化 の理 由

(justifying reasons)は

モ ラル・ セ ンスを前提す る」(1)と い われ

,単

な る 自然的感情 とは全 く異質 の

,道

徳独 自のはた らきが とらえ られてい るのである。人格 的な完成 の美がいわれ るときはい うまで もな く

,単

な る感 じで はあ り得 ないはずであ る。 だが

,彼

らのモ ラル ●セ ンスの名 において実際 に強調 した ものは

,個

々のニ ュア ンスの違 いはあ ると して も

,や

は り感情 であ って必ず しも理性 的判 断で も

,直

覚 的知覚 で もなか った。 それは

,程

度 の差 はあれ

,

当時の理性主義への抵抗があ ったか らであ り

,先

に見 た ヒュームは勿論

,ハ

チス ン によ って も

,道

徳 的区別 は

,理

性 のよ うに「 のろ く」「 疑 わ しい」 はた らきによるはずがない(5) と信ぜ られていたか らであろ うが

,プ

ライスの指摘す るよ うに

,(6)理

性 の概念 が限 られていて, 直覚 的判 断 は取 り出そ うにも取 り出 しようもなか ったわけで ある。

cf. Lo Stephen:History of English Thought in the Eighteenth Century,Vol,II.p.62 11. Moskowitz:Da母 ヽloralische Beurteilungsvermδ gen in der englischen Ethik von Hobbes bis JOhn Stuart ヽこilI. S, 97

拙稿「MOral Senseの一 考 察 」 (日本倫 理 学 会「 倫 理 学 年 報 」 第 十 四集

)参

cf.R.L.Brett:The Third Earl o£ Shattesbury. p.81

F`Hutcheson:11lustrations upon the Ⅲ江oral Sense.弓 (BritiSh Moralists,Vol.I.p.404ぅ Fo Hutcheson:Inquiry concerning ⅢIoral Cood and Evil,p.272(London)

Richard Price:Review。 (BritiSh Moralists,Vol.I.P。 110(f.n)) ω

倒 側 団 ⑥

(17)

それを したのが

,

リー ドであ った といえ る。 リー ドは

,モ

ラル・ セ ンスの立場を全体的に大 き く 容認 しつ ゝ

,そ

の問題点 をよ く見

,モ

ラル・ セ ンスの中か ら一種 の平衡感覚 ともい うべ き

,か

な り 形 式 的な

,

しか し直接的な道徳的判別 の作用を引 き出 したわ けで あ る。リー ドが否定 したのは決 し てモ ラル・ セ ンスその ものではな く

,そ

の感情面であ り

,否 ,感

情 を優位 させ ることによ る道徳 の 権威 の低下 であ った。 そ こか ら

,徹

底 した経験主義の立場 を とる ヒュームが最 も激 しく攻撃 された の は

,む

しろ章然 の ことであ った。 従 って

,

リー ドの立場 は

,彼

以前 のモ ラル・ セ ンスの立場 よ りも

,全

体 的 に

,よ

り整理 され

,一

段 と進ん だ もの とな ってぃ る。 もっとも

,そ

の過程 に

,プ

ライスや ヒュームの眼が加わ った ことは 否定 されないが

,

リー ドは逆 にそれを踏 まえて

,モ

ラル・ セ ンスの問題点 の克服 に向 った と見 るべ きであろ う。リー ドは単 な る機械的合体 で もな く

,ま

,モ

ラル・ セ ンスの立場 の繰 り返 しで もな い。先人 の問題 点を よ く整理 し

,あ

くまで も常識 の中にと ゞま りなが ら

,そ

こに侵すべか らざる道 徳 の権威 を確立すべ く

,大

き く一歩 を進めたもの といえ る。 そ こに リー ドのオ リジナ リテ ィがあ っ た。 モ ラル・ セ ンスの立場 を容認 しつ \

,道

徳 の独立を図 ったその整理 の跡 は

,全

体 的 には

,道

徳 と 自然性 との関係 に最 もよ くあ らわれてい るよ うに思 う。 それ はまず

,「

自然」の概念 が明確 にな っ た ことに見 られ る。周知 のよ うに

,モ

ラル・ セ ンスの立場 は一般 に

,否,先

の理性主義 において さ え

,「

徳 は 自然 に従 うところに存す」 とされ

,「

自然的」で あることが有徳 と置 き換え られて もい たので あ った。リー ドも必ず しも例外ではないが

,た

,

リー ドは

,「

義務 の法則 」 と しての 自然 法 と「 物質 の運動の法則」 と しての 自然法 とを明確 に分離 し

,例

え ば次のよ うにも述 べてい る。「 こ ゝでい っておかな くてはな らない ことは

,ま

さ しく自然法 と呼 ばれ る二種類 の法則があるとい う こと

,そ

して

,

それ らは混同 されてはな らない とい うことであ る。 道徳 の 自然法

(moral laws

of nature)と

,物

質 の 自然法

(physiCal laws of nature)と

で ぁる。前者 は

,神

が理性 的存在

者 に行為 のための処方 と して与 えた規則であ り

,

自発 的

,

自由な行 為 にのみか

kわ

るものであ る。 とい うのは

,他

の行為 は道徳 的規則の支配を受 けないのだか ら………物質 の 自然法 は

,神

が世界 の 自然的統 治の際 に通常基づ くところの規則で

,直

接 的に も間接的 にも

,常

に神 のみが行使 し

,決

し て人間が行使す るものではない……」

(7)と

。 これが

,実

践面 で は先 の「 ある」 と「 べ き」 の区別 につ なが るわけで あろうが

,

自然の法則 を この ようにいわば事実 の法則 と当為 の法則 とに しゅん別 したの は

,モ

ラル・ セ ンスの立場 にとっては

,大

きな整理 とな ったはずである。 ところで

,

この二つ の世界の分離 に伴 って

,そ

こに両者 の対立 が生 じて くるの もまた

,必

然 で あ った。 しか も注 目され ることは

,

リー ドの現実認識が実 に鋭 く

,

リアルで あるとい うことで ある。 それは

,あ

の徳 の解剖家 と して観察 と実験を 旨と した ヒュームを も しの ぐものがあるといえ る。 そ こか ら

,そ

の リー ドの鋭 い眼 に映 じた現実

,特

に人間の感性 的 自然 は

,美

しい どころか

,は

な はだ (7)Active POwers.P,336-7

参照

関連したドキュメント

WSTS設立以前は、SIAの半導体市場統計を基にしている。なお、SIA設立の提唱者は、当時の半導体業界のリー ダーだったWilfred Corrigan(Fairchild

 

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

以上の各テーマ、取組は相互に関連しており独立したものではない。東京 2020 大会の持続可能性に配慮し

それに対して現行民法では︑要素の錯誤が発生した場合には錯誤による無効を承認している︒ここでいう要素の錯

   縮尺は100分の1から3,000分の1とする。この場合において、ダム事業等であって起業地

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場

7.本申立てが受理された場合の有効期間は、追加する権利の存続期間が当初申立ての有効期間と同