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安藤香織 春日宮曼荼羅の一遺例

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安藤香織 春日宮曼荼羅の一遺例 図2 徳川乙本     文殊菩薩部分 図3 徳川乙本 右から釈迦如来・薬師如来・地蔵菩薩・十一面観音部分 図4 徳川乙本 板倉部分 図5 徳川乙本 御供所等建築部分 図6 徳川乙本 榎本滝(Ⅰ)部分

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吉冨真知子 徳川美術館蔵青磁尊形瓶に関する一考察─尾張徳川家の蔵帳にみる名称─

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吉冨真知子 徳川美術館蔵青磁尊形瓶に関する一考察─尾張徳川家の蔵帳にみる名称─ 図2 青磁竹節文中蕪形花生 徳川美術館蔵

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加藤祥平 新出の与謝蕪村筆「奥の細道図巻」模本について

図1 佐藤庄司が旧跡 徳川本

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加藤祥平 新出の与謝蕪村筆「奥の細道図巻」模本について 図3 等栽 徳川本

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四辻秀紀 葉月物語絵巻の修理による新知見

図1 葉月物語絵巻 第三段 絵 修理前

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四辻秀紀 葉月物語絵巻の修理による新知見 図3 葉月物語絵巻 第三段 詞書 修理前

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薄田大輔 狩野山雪筆「雲龍・雪梅・風竹図」

図1 狩野山雪筆「雲龍・雪梅・風竹図」修理後

図1-3 「雪梅図」落款部分

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薄田大輔 狩野山雪筆「雲龍・雪梅・風竹図」 図2 狩野山雪筆「雲龍・雪梅・風竹図」修理前

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春日宮曼荼羅の一遺例 一

春日宮曼荼羅の一遺例

 

 

 

  は じ め に 一   品質・形状 二   図様と描法   ①建築物   ②風景   ③本地仏 三   伝来   ①「仏画類御談示 ニ 付御届」および「万松寺御預   仏像類目録」   ②「江戸御小納戸日記」   む   す   び           春 日 曼 荼 羅 は 春 日 信 仰 に 基 づ く 礼 拝 画 の 一 種 で あ る。 文 献 史 料 に よ る と、その成立は十二世紀に遡り、春日神を氏神とする藤原氏や興福寺僧を 中心に発願・礼拝がされていたと知られる。その後、春日信仰の拡大に伴 い、鎌倉・室町時代には貴族・寺僧・神人のみならず南都の庶民層にまで 広く流布したため、多数の遺例が確認されている。 春日曼荼羅の図様は多岐にわたる。代表的な図様として、春日神の鎮ま る奈良の御蓋山・春日山とともに春日社の社域を広く描いた春日宮曼荼羅 があり、他に、藤原氏の氏寺である興福寺を春日社と併せ描いた春日社寺 曼荼羅、春日の神鹿を中心に描いた春日鹿曼荼羅、春日社の本地仏および 垂迹神を描いた春日本迹曼荼羅などが挙げられる 。 徳川美術館には二幅の春日宮曼荼羅が所蔵されている。一幅は、画面上 方に御蓋山・春日山から春日社の社頭、さらに一の鳥居に至る春日社域を 描き、画面下方に興福寺南円堂の本尊である不空羂索観音を配する図様で ある。もう一幅は、画面上方の春日山から春日社頭を経て画面下方の一の 鳥居まで、長い参道を縦軸にして描く定型的な春日宮曼荼羅で、御蓋山を 背 景 に 影 向 し た 春 日 四 宮 と 若 宮 の 本 地 仏 が 表 さ れ て い る ( 図 1) 。 前 者 は 渡 辺里志氏により「甲本」と呼称されて詳細が論じられ、山水表現や尊像の ( 1)

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春日宮曼荼羅の一遺例 二 精緻な表現から鎌倉時代後半、十三世紀末から十四世紀に入って間もない 頃の成立と結論付けられた (以下、 本稿でもこれに倣い 「徳川甲本」 と称する ) 。 渡辺氏は論中で「乙本」として後者にも触れているが、その記述は簡単な 図 様 の 紹 介 に 留 ま り、 表 現 の 類 型 化・ 形 式 化 を 指 摘 し た 上 で、 室 町 時 代、 十五世紀に入ってから南都絵所により量産された同作例の一本と評してい る(以下、 「徳川乙本」と称する) 。 春日宮曼荼羅を含む春日曼荼羅研究は、主として古様とみられる作例や 特徴ある作例を中核に、春日信仰に関わる文献史料と併せて、図様の展開 や思想的背景などが論じられてきた 。春日曼荼羅の成立初期から発展期に あたる、平安時代後期から鎌倉時代にかけてが研究の焦点となる中で、室 町時代以降に多数製作されたと見られる定型図様の春日宮曼荼羅が、個々 の作品として論じられることはあまりない。しかし、定型化は図像の流布 や神仏画製作の効率化が進むに従って起こる現象であり、そこには古様な 作例の研究とは異なる別の観点があると考える。また大量に製作されたで あろう春日宮曼荼羅のうち、現在まで伝存した作例には作品受容の観点に おいても意味が見出せると思われる。そこで本稿では、先に示した徳川美 術館の所蔵する春日宮曼荼羅のうち、 後者の徳川乙本を取り上げ、 今一度、 図様の詳細や伝来を紹介するとともに、若干の考察を加える 。       品質・形状 ま ず は 改 め て 徳 川 乙 本 の 形 態 か ら 述 べ る。 本 図 は 絹 本 著 色、 絵 絹 は 縦 九二・〇糎、横四〇・六糎であり、春日宮曼荼羅としては平均的な大きさ である。総寸は縦一七八・四糎、横五七・二糎で、風帯・中廻しには萌黄 地 牡 丹 唐 草 文 金 襴、 上 下 廻 し に は 茶 地 二 重 蔓 牡 丹 文 金 襴 が 用 い ら れ て い る。軸首は真鍮製無文寸切で鍍金が施されている。 本図は織目の粗い絹を使用している。背後からの透過光は全体に均一で あるため、伝来途次の修復等による裏彩色の剥離も考えられる。また顔料 の剥落があり、一部に絵絹の破れが確認できる。そのため図様の判別が難 しい箇所もあるが、下描きの様子がわかるという利点もある。以下、図様 と描法について、画面の観察をもとに記述していく。       図様と描法 ①建築物 春日宮曼荼羅には多数の建築物が描かれており、松村和歌子氏によって 名称の特定がなされている 。同氏は現在の社殿はもとより文献史料に依っ て 特 定 を 進 め て お り、 本 稿 で も こ れ に 従 っ て 建 築 物 の 詳 細 を 述 べ る ( 挿 図 1) 。 画面上方を東として描かれた本図において、向かって左上、御蓋山の裾 野 に 大 き く 描 か れ る の が 春 日 社 の 本 社 社 殿 で あ る ( 挿 図 2) 本 社 内 院 に は 四宮の本殿が東西に並び、それを取り囲むように御廊と中門がある。内院 には各所に末社があり、本殿の南東に 手 た ぢ か ら お 力雄 社、本殿背後の区域には東壁 際 に 八 は ち ら い 雷 社 ( 八 龍 神 ) が あ る ほ か 三 つ の 末 社 が 描 か れ て い る。 ま た 本 殿 北 西 には後殿がある。中門を出ると二位橋と稲垣があり、中院の区間に入る。 中院には東側から神宮寺と 青 あお 榊 さかき ・ 辛 から 榊 さかき ・ 穴 あな 栗 ぐり ・ 井 い 栗 ぐり の各末社があり、東西 に長い 幣 へい 殿 でん とそこから北に延びる 直 なお 会 らい 殿 でん 、幣殿・直会殿の接続部分の近く に 岩 本 社 ( 住 吉 明 神 ) が 描 か れ て い る。 直 会 殿 の 北 隣 に は 移 うつしどの 殿 と 内 院 御 廊 に ( 2) ( 3) ( 4) ( 5)

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春日宮曼荼羅の一遺例

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春日宮曼荼羅の一遺例

挿図2 徳川乙本 本社社殿部分

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春日宮曼荼羅の一遺例 五 接続する 捻 ねじ 廊 ろう があり、その脇には朱塗で高床式校倉の宝庫と、 風 かぜのみや 宮 ・ 椿 つ ば き 本 もと ( 角 つの 振 ふり 明 神 ) ・ 多 た 賀 が の 各 末 社 が 描 か れ て い る。 中 院 の 周 囲 を 巡 る 廻 廊 に は 南 門のほか、西側にも南より慶賀門・清浄門・内侍門が設けられている。 若宮社は画面右側に配されており、瑞垣に囲まれた内院に若宮社と 通 つ 合 ごう 社・手力雄社が描かれている (挿図 3) 次に、本社及び若宮社の内院・中院より外部、外院と呼ばれる社域の建 築 物 を 見 て い く こ と に す る。 ま ず 若 宮 の 周 辺 で は、 若 宮 内 院 に 接 し て 拝 舎・ 拝 殿 が あ り、 そ の 北 側 に 三 輪 ( 一 いち 童 どう 社 ) ・ 兵 ひ ょ う ず 主 ・ 南 宮、 南 側 に 広 瀬( 鬼 子母神) ・葛城 ( 懸 かけ 橋 はし 明神) の各末社が描かれている。さらに南側には、手水 舎を挟んで瑞垣に囲われた三十八所社とその拝殿が表され、画面端に 佐 さ 良 ら 気 け 社、東の山側には紀伊社とその拝殿が描かれている。 再 び 本 社 付 近 に 視 点 を 戻 す と 、 本 社 の 北 側 に は 朱 塗 ・ 高 床 式 の 板 倉 が 二 棟 あ る ( 挿 図 2) ま た 南 門 か ら 参 道 を 少 し 下 っ た と こ ろ に 着 到 殿 、 そ の 北 側 に は 築 地 塀 と 一 体 と な っ た 藤 鳥 居 が あ り 、 そ の 奥 に 官 行 事 屋 と 竃 へっついどの 殿 ・ 大 だ い 膳 ぜ ん 職 し き 屋 ・ 神 祇 官 屋 が 描 か れ て い る 。 さ ら に 北 側 に は 、 検 け 非 び 違 い 使 し 屋 ・ 酒 さ か 殿 ど の ・ 御 ご 供 く 所 し ょ 等 、 社 務 関 係 の 建 築 物 が 描 か れ て い る 。 着 到 殿 か ら 参 道 を 西 へ 向 か う と 二 の 鳥 居 が あ り 、 そ の 北 側 に は 祓 は ら え ど 戸 社 、 さ ら に 北 側 の 画 面 端 に は 水 谷 社 と 拝 殿 、 そ の 東 脇 に 船 ふ な 戸 ど 社 が 表 さ れ て い る 。 二 の 鳥 居 の 西 側 に は 車 舎 が あ り 、 そ こ か ら 参 道 を 下 る と 画 面 下 端 に 一 の 鳥 居 が あ る ( 挿 図 4) そ の 北 側 に 描 か れ て い る の は 東 御 塔 ・ 西 御 塔 で あ る 。 西 御 塔 は 楼 門 の あ る 廻 廊 に 囲 ま れ 、 基 壇 と 五 重 塔 の 全 容 が 描 か れ る が 、 東 御 塔 は 二 層 の 屋 根 よ り 下 は 霞 に 隠 れ て い る 。 ま た 、 参 道 に は 橋 が 掛 け ら れ て お り 、 東 西 御 塔 の 前 の 馬 出 橋 、 一 の 鳥 居 と 二 の 鳥 居 の 中 間 に あ る 馬 止 橋 、 二 の 鳥 居 手 前 に あ る 五 位 橋 、 着 到 殿 の 奥 に あ る 瀧 本 橋 、 本 社 か ら 若 宮 へ 挿図4 徳川乙本 一の鳥居・東西御塔部分 向 か う 参 道の分岐にある布生橋の五つが描かれている。 以上の建築物の彩色法を見てみると、基本的に、白壁に柱や扉を朱、連 子窓を緑青で描いている。檜皮葺の屋根は赤褐色とし、輪郭線の肥痩で檜 皮の厚みを表現したうえで、棟の瓦を群青で着色している。瓦葺の東西御 塔とその回廊は屋根を群青で彩り、御供所にも一部瓦葺を示すと見られる

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春日宮曼荼羅の一遺例 六 挿図5 春日宮曼荼羅 全図 湯木美術館蔵 挿図6 春日宮曼荼羅 板倉および御供所等建築 挿図6 部分 根津美術館蔵 重要美術品 挿図7 春日宮曼荼羅 板倉および御供所等建築 挿図7 部分 石山寺蔵 挿図8 春日宮曼荼羅 板倉および御供所等建築部分 挿図8 MOA美術館蔵

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春日宮曼荼羅の一遺例 七 灰色の賦彩が確認できる。本社本殿・若宮社の千木や、本社・摂末社社殿 の垂木の先端、東西御塔の水煙など、実際に金属製の装飾が付属している ことが多い部分には、金彩が施されている。加えて参道などの一部にも金 泥 に よ る 賦 彩 が な さ れ て い る。 現 状 で は、 参 道 か ら 藤 鳥 居 ま で の 石 段 付 近、本社廻廊西側の三つの門の付近、本社中院の椿本社付近において、淡 い着彩の下に金泥の粒子が確認でき、この他の部分は剥落したと考えられ る。 以上、徳川乙本に描かれた建築物を確認してきたが、これを春日宮曼荼 羅 の 唯 一 の 基 準 作 で 正 安 二 年 ( 一 三 〇 〇 ) の 銘 記 が あ る 湯 木 美 術 館 本 と 比 較 し て み た い ( 挿 図 5) 両 者 は、 本 社 及 び 若 宮 社 の 内 院・ 中 院 を は じ め、 ほ とんどの建築物で図様が一致する 。 また、 基本的な彩色法も似通っている。 湯木美術館本は定型の春日宮曼荼羅を代表する作例であり、まずは本図も その一例であることが確認される。一方、本図においては次のような変化 がみられる。 1、外院・本社社殿北側には板倉一棟が所在したが、本図ではその東側 にT字型の平面を持つ朱塗の板倉が一棟加わっている (図 4) 2、 外 院・ 御 供 所 を 含 む 塀 に 囲 ま れ た 建 築 物 の 一 群 が 描 か れ て い る が、 本 図 で は 塀 の 形 状 が 変 化 す る と と も に、 内 部 の 建 築 物 も 構 造 が 変 わっている (図 5) こ の 二 点 は、 湯 木 美 術 館 本 だ け で な く、 古 様 な 景 観 を 示 す と さ れ る 法 隆 寺 本 や、 描 写 が 正 確・ 緻 密 で あ る と 評 さ れ る 奈 良 南 市 町 自 治 会 本 な ど、 十三世紀中に成立した作例には見られない特徴である。一方、十四~十五 世 紀 に 描 か れ た と さ れ る 春 日 宮 曼 荼 羅 諸 本 に お い て は、 1 は 比 較 的 多 く の 作 品 に 確 認 で き、 2は 例 え ば 根 津 美 術 館 本 ( 鎌 倉 時 代 十 四 世 紀、 重 要 美 術 品) ・石山寺本 (鎌倉時代 十四世紀) ・MOA美術館本 (南北朝時代 十四世紀) な ど に 描 か れ て い る ( 挿 図 6~ 8) こ れ ら の 変 化 を ど の よ う に 捉 え た ら 適 切 だろうか。一つには写し崩れの可能性が疑われるだろうが、春日宮曼荼羅 の主要な図様は紙形によって描き継がれていたと見られており 、それを前 提 と す る な ら ば 両 者 と も 写 し 崩 れ と 言 う に は 変 化 が 大 き い よ う に 思 わ れ る。 ま た 同 様 の 作 例 が 群 と し て 確 認 で き る こ と は、 写 し 崩 れ よ り む し ろ、 紙形そのものの変容を示していると考えられる。 ここで想起されるのは、春日宮曼荼羅の境内描写は史料から知りうる境 内景観の変化にかなりの程度合致しているという、松村氏の指摘である 。 松村氏は主に定型化以前の作例について述べており、本図はこの見解の内 に含まれないが、十四~十五世紀に至って新たに変化した上述の建築物に ついても、ある時点における実際の増改築を反映していると考えれば、違 和感なく首肯できる。増改築の時期の解明は今後の課題であるが、一定の 年代観の指標となりうるモチーフとして記憶しておきたい。 最後に、紙形の変化の意味をもう少し考えたい。本社・若宮社社殿や塔 など主要建築物は、現実の建築物が失われた場合にも、時代を超えて諸本 に描かれており、その類型的な描写からしても紙形の使用による図様の規 制が看取される 。他方、先に指摘した建築モチーフの変化と特定の時代に おける共通性は、時代による紙形の変化を示している。これらのモチーフ に変化が許容されたのは、前者に比して春日社を指し示すモチーフとして の重要性が低いためであろう。しかし逆に言えば、許容される範囲内でモ チーフを変化させることによって、現実の春日社の景観に近づけようとし て い る と も 捉 え ら れ る。 受 け 継 が れ た 紙 形 を 用 い て 春 日 社 の「 あ る べ き 姿」を描きながら、時代に則した変化を加えて現実味を持たせようとする ( 6) ( 7) ( 8) ( 9)

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春日宮曼荼羅の一遺例 八 意識が看取できる 。 ②風景 次 に、 建 築 物 以 外 の 風 景 表 現 を 見 て い こ う。 本 図 の 画 面 上 方 に は 御 蓋 山 を 中 心 に、 背 後 に 春 日 山、 画 面 左 端 に 若 草 山 の 裾 野 が 描 か れ て い る ( 図 1) 御 蓋 山 は、 半 円 状 に 重 ね た 白・ 白 緑・ 赤 褐 色 の 地 に 墨 で 幹 枝 を 描 き、 群 青・ 緑 青・ 白・ 赤 褐 色 の 点 描 を 有 機 的 に 重 ね る こ と に よ っ て、 多 種 の 木 々 が 生 い 茂 る 様 を 表 し て い る ( 挿 図 9) 春 日 山 は 左 右 対 称 の 山 形 で、 山 の端には金泥で円相が、左右の裾野には涌雲が描かれている。山の稜線は 暗青色の地に淡い緑青の円弧で表され、その内側を緑青の円弧の連なりで ( 10) 挿図9 徳川乙本 御蓋山・春日山部分 埋めてウロコ状に樹林を描いた上で、稜線に群青・緑青・赤褐色の樹影が 添 え ら れ て い る。 こ の よ う に、 御 蓋 山 を 半 円 形 を 重 ね た 木 々 で 明 る く 色 と り ど り に 表 し、 春 日 山 を ウ ロ コ 状 に 暗 め の 色 味 で 描 く 表 現 は、 十 四 ~ 十五世紀の春日曼荼羅に散見される描法であり、その初期の例が文永十年 挿図10 春日若宮影向図 御蓋山・春日山部分 大東急記念文庫蔵 ( 一 二 七 三 ) の 銘 記 が あ る「 春 日 若 宮 影 向 図 」 ( 金 剛 般 若 波 羅 蜜 経 見 返 絵、 大 東 急 記 念 文 庫 蔵 ) に 見 出 される (挿図 10)。「春日若宮影向 図」の描写と比較すると、本図 の 描 写 は よ り 整 理 さ れ て お り、 単 純 化 さ れ た 表 現 に な っ て い る。また「春日若宮影向図」も 含 め、 春 日 曼 荼 羅 の 多 く で は、 春日山は向かって右端の稜線に 特徴のある形態で描かれ、春日 宮曼荼羅の定型図様にも共通す るが、本図では左右対称の山形 に描かれる (図1 ・ 挿図 5・ 10) これは本来あるべき図様が単純 化された表現と考えられ、先の 山景の描法とも合わせて、時代 の降下が窺われる。 御 蓋 山 の 裾 野 に は 霞 が か か り 、 そ こ か ら 画 面 下 部 に か け て ( 11)

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春日宮曼荼羅の一遺例 九 は 本 社・ 若 宮 か ら 一 の 鳥 居 ま で の 社 域 が、 参 道 を 中 心 軸 に し て 描 か れ て い る。霞は参道の長さを強調するように所々に棚引いており、いずれも群青 のグラデーションに白線を添えている。また、群青と白の線描が水平に引 き 重 ね ら れ る 場 合 も あ る。 こ う し た 霞 の 表 現 は、 「 一 遍 上 人 伝 絵 巻 」 ( 正 安 元 年〈 一 二 九 九 〉、 京 都・ 歓 喜 光 寺 ほ か 蔵、 国 宝 ) や「 春 日 権 現 験 記 絵 巻 」 ( 延 慶 二年〈一三〇九〉 、宮内庁三の丸尚蔵館蔵) などの絵巻をはじめ、縁起絵や社寺 曼荼羅など鎌倉時代以降の絵画に広く見られる。 社域に描かれた風景モチーフについては、行徳信一郎氏によって春日宮 曼荼羅各本の共通点が論じられている 。行徳氏は、風景モチーフにも共通 して描かれる素材があり、春日宮曼荼羅の定型図様の底辺にある紙形のイ メージが、仏教絵画の図像ほどではないものの、連綿と継承されていたこ と を 明 ら か に さ れ た。 本 図 に は ど の 程 度 の モ チ ー フ の 継 承 が 見 ら れ る の か、 こ こ で 確 認 し て お き た い。 同 氏 の 論 中 で 抽 出 さ れ て い る 風 景 モ チ ー フ と、 比 較 対 象 と さ れ た 二 十 七 点 の 作 例 の う ち の 該 当 点 数 は 表 1 の 通 り で あ る。 こ の う ち 徳 川 乙 本 に も 描 か れ て い る モ チ ー フ は 築 地 塀 沿 い の 杉 (A) ・影向杉 (C) ・大杉 カ (D) ・榎本滝 (I) ・祓戸社背後の樹木 (M) ・神垣 森 (N) ・馬出・馬止橋間の杉木立 (O) ・影向松 (Q) ・Qの隣の松 (桜) (R) ・ 群生する松 (S) である (図 6・挿図 11~ 16)。いずれのモチーフも行徳氏の論 中で比較対象に挙げられた作例の多くに描かれているモチーフであり、本 図においても主要な図様の踏襲が見て取れる。また本図における各モチー フの描かれ方はそれぞれ簡略であるが、それと認識できる形態は失ってい ない。例えば、本社廻廊の南側から流れ出た水流が形成する小さな人口の 滝、榎本滝 (I) は、群青の線を波打たせることによって水の落ちる様を表 現 し、 そ の 両 脇 に 岩 の 皴 を 描 い て い る ( 図 6) 他 の 作 例 で も 明 確 に 描 か れ ( 12) 挿図11 徳川乙本 築地塀沿いの杉(A)部分 ることが少ないことが指摘されており、写し崩れというよりは、小さなモ チーフを単純化し的確に表現していると捉えたい。一方、画面下方のO~ Sの各モチーフは近景として比較的大きく明確に描かれているが、影向松 ( Q ) に つ い て は 丁 度 剥 落 の 激 し い 位 置 に 当 た る。 そ の た め 残 念 な が ら 全 容 は把握できないものの、樹幹を墨線で描いて褐色に塗り、緑青で葉叢を表 した後、その下端に細枝を墨線で描き起こしていることが確認できる。 以上の規定されたモチーフのほか、本図には緑の野に杉・松・桜をはじ めとする樹木が配されており、剥落のため判別しにくいが小さな鹿も数頭 描かれている。

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春日宮曼荼羅の一遺例 一〇 挿図12 徳川乙本 影向杉(C)・大杉カ(D)部分 挿図13 徳川乙本 祓戸社背後の樹木(M)部分 挿図14 徳川乙本 神垣森(N)部分 挿図15 徳川乙本 馬出・馬止橋間の杉木立(O)部分 C D

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春日宮曼荼羅の一遺例 一一 ③本地仏 本 地 垂 迹 思 想 に 基 づ き 、 春 日 諸 神 に は 次 の 通 り 本 地 仏 が あ て ら れ て い る 。 一宮   武甕槌命     不空羂索観音または釈迦如来 二宮   経津主命     薬師如来 三宮   天児屋根命    地蔵菩薩 四宮   比売神      十一面観音 若宮   天押雲根命    文殊菩薩 本図には御蓋山を背景に、 本地仏が描かれている (図 2・ 3)。画面向かっ て左手には、社殿の並びに則して、右奥から順に本社四宮の本地仏である 釈迦如来・薬師如来・地蔵菩薩・十一面観音が配されており、この四尊と 向かい合うように、画面右手には若宮の本地仏である文殊菩薩が描かれて いる。一宮に釈迦如来をあてることは、解脱上人貞慶 (一一五五~一二一三) の思想の影響と考えられており、現存する春日曼荼羅の多くに共通する。 各尊はそれぞれ薄く白を刷いた雲上に表されている。本社四宮の雲の尾は まとまって本殿の四宮のあたりより、若宮の雲の尾は若宮社の内より、左 右にうねりながら各尊まで達しており、各尊がまさに今、社殿から影向し たことを示している。 本 地 仏 は 春 日 宮 曼 荼 羅 を 含 む 春 日 曼 荼 羅 の 諸 本 で 表 し 方 が 異 な っ て お り、大きくは正面向きの坐像または立像として描かれる一群と、本図のよ うに左右への動きを伴う立像として描かれる一群に分けられる。湯木美術 館本に代表される正面向きの形式は、円相中に表されることが多く、動的 な要素も少ないため、春日本地仏の概念を図式的に示す目的をより強く感 じさせる 。これに対し、動的要素を伴う本図のような立像形式は、同じ概 念を物語的あるいは説話的に示す目的を感じさせる。立像形式は、本図と ほ ぼ 同 様 に 本 地 仏 を 配 す る 奈 良 国 立 博 物 館 蔵「 春 日 社 寺 曼 荼 羅 」 ( 鎌 倉 ~ 室 町時代 十四世紀) が著名であるが、他にも種々の図様があることからして、 先のような目的のもと、発想を豊かにして製作されたと考えられる。 ( 13) 挿図16 徳川乙本 影向松(Q)・Qの隣の松(桜)(R)・群生する松(S)部分 S R Q

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春日宮曼荼羅の一遺例 一二 徳川乙本に表された各尊について、詳細を見ていくことにする。一宮の 釈 迦 如 来 は、 ほ ぼ 正 面 向 き の 姿 で、 施 無 畏・ 与 願 印 を 表 し て い る ( 図 3) 頭光は一重で金泥線によって描き、頭髪は群青で彩り、肉髻朱を表し、髪 際を白緑で縁取っている。肉身はやや赤みのある白肉色で彩色してから朱 の鉄線描で輪郭線を描き起こし、眉や目は墨線で描き、唇は朱で彩ってい る。服制は標準的で、裳を着け、衲衣を偏袒右肩にまとい、右肩に掛けら れた衲衣の端の下には偏衫が見られる。衲衣・偏衫ともに腹前や袖口に裏 面の色が見えるが、 ほぼ誤りなく合理的に着彩がなされている。 また衲衣 ・ 裳には金泥で文様が描かれている。蓮華座は、蓮肉部を緑青で彩り、蓮弁 の輪郭を金泥線で表している以外、彩色の詳細は判別できない。 二宮の薬師如来は、画面中央に向かって斜め向きに立ち、右手は胸前で 第三・四指を捻じ、剥落によって判然としないが左手には白青色の薬壺を 載 せ て い る と 見 ら れ る。 基 本 的 な 描 法 や 着 衣 法 は 釈 迦 如 来 と 共 通 し て い る。 三宮の地蔵菩薩は、やはり画面中央に向かって斜め向きに立ち、右手に 錫杖、左手に宝珠を持する姿で描かれる。地蔵菩薩も基本的な描法や着衣 法は上述の二尊と共通するが、剃髪した頭部を白群で彩色し、衣の文様以 外に錫杖および瓔珞・臂釧・腕釧など金属製の持物・装身具も金泥線で描 いている。蓮華座は蓮肉部を緑青とし、蓮弁は先端へ向かって白緑から白 のグラデーションによって表されている。 四宮の十一面観音は、前の二尊と同様に画面中央に向かって斜め向きに 立ち、右手を垂下し、左手には蓮華を持する姿で描かれる。十一面観音は 頭頂に仏菩薩面を十一面戴くのが通常である。本図では非常に細かい部分 であるものの、各面の頭髪を群青、肉身線と唇を朱、眉と目は墨線で適切 に描いているため、おおよその図様の見当がつく。まず金泥線で天冠台を 表 し た 上 で、 中 央 に 阿 弥 陀 の 化 仏 を 示 す と 見 ら れ る 尖 塔 形 の 光 背 を 配 し、 その向かって右側に二面、左側に三面の仏菩薩面を二段重ねて描き、さら にその上部に一面、合計十一面を描いている。精度の高い描写とは言い難 いが、この細かい部分に十一面を描ききっているところに、むしろ本図の 製作者の技量を見ることができよう。 十一面観音も頭髪や肉身の彩色法は釈迦如来と同一である。服制は裳に 腰 布 ( 上 裳 ) を 着 け、 条 帛 を 右 肩 か ら 左 脇 に 垂 ら し、 両 肩 か ら 天 衣 を 垂 ら し て両腕に掛ける、菩薩の典型的な姿で描かれている。天衣は長く後方へ翻 り、天冠台に付属する白い帯も同様に棚引いている。蓮華座の蓮弁部分は 剥落が激しいが、一部に朱の具が観察できるため、朱のグラデーションに よって彩色されていたと推定される。 最後に、若宮の文殊菩薩は五髻の童子形で、右手に剣を持する姿で表さ れ て い る ( 図 2) 若 宮 の 本 地 仏 は、 こ の よ う な 五 髻 文 殊 の 姿 で 描 か れ る こ と が 多 い。 頭 髪 や 肉 身、 持 物・ 装 身 具 な ど の 彩 色 法 は 他 の 尊 像 と 一 致 し て い る。 ま た 服 制 は 十 一 面 観 音 と ほ ぼ 共 通 し て お り、 裳・ 腰 布 ( 上 裳 ) ・ 条 帛・天衣を纏い、白い腰帯が垂下する様子も描かれている。蓮華座の蓮弁 部分は先端に向かって白から紫へのグラデーションが判別できる。 ところで地蔵菩薩および十一面観音は、面部から胸部にかけて顔料の剥 落があり、下描きの状態が観察できる。いずれも描き起こし線に比して太 目の肥痩ある墨線で、細部まで下描きをしている。また、描き起こし線と はややずれが見られることから、仕上げの段階で図様に若干の修正が加え られていることが判明する。

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春日宮曼荼羅の一遺例 一三 以 上、 建 築 物・ 風 景・ 本 地 仏 の 三 点 か ら 本 図 の 図 様 と 描 法 を 述 べ て き た。結果、本図は図様・描法ともに定型図様のうち十四~十五世紀の作例 と 共 通 す る 部 分 が 多 く、 絵 絹 の 目 の 粗 さ、 春 日 山 の 形 態 な ど か ら す る と、 製作年代は渡辺氏の提示した通り、室町時代も十五世紀と考えられる。 春日宮曼荼羅の製作の大部分は南都・興福寺の絵所が担ったとされ、京 都における製作の可能性も指摘されている。本図の場合、御蓋山・春日山 の彩色法には興福寺芝座の絵仏師と見られる観舜が製作した「春日若宮影 向図」 と共通する伝統的な描法が見られた。 また全体的に筆致は淀みなく、 よく訓練されて慣れており、特に本地仏五尊はわずか六センチに満たない 尊像を、緻密かつ軽やかに、闊達な筆で描いていることが注目される。実 際の建築物の変化に合わせた紙形による定型図様であること、平明な色彩 であることからしても、本図はやはり南都絵所の絵仏師による作図と考え られる。       伝来 ①「仏画類御談示 ニ 付御届」および「万松寺御預   仏像類目録」 徳川美術館蔵の仏画の伝来については、山本泰一氏によって論じられて いる 。まずは山本氏の論文に従って、本図に関わる記録を確認し、大まか な流れを捉えたい。 一 つ 目 の 古 記 録 は、 明 治 七 年 ( 一 八 七 四 ) の「 寛 政 三 亥 年 御 預 ケ 相 成 候   仏 画 類 御 談 示 ニ 付 御 届 」 ( 徳 川 林 政 史 研 究 所 蔵 。 以 下 、「 仏 画 類 御 談 示 ニ 付 御 届( a )」 と略称する) である。これは、尾張徳川家の所有していた仏像・仏画類が同 家九代宗睦 (一七三二~九九) の時代、寛政三年 (一七九一) に、尾張藩内の寺 院へ預けられ、 十代斉朝 (一七九三~一八五〇) の時代、 文化十四年 (一八一七) 十一月に再び同家へ引き上げられたことを示す史料である。預け先となっ たのは、尾張徳川家の菩提寺である建中寺、初代義直の生母相応院のため に 建 立 さ れ た 相 応 寺、 二 代 光 友 の 生 母 歓 喜 院 の た め に 建 立 さ れ た 大 森 寺、 徳川家康四男松平忠吉の母宝台院のために建立された性高院、同じく家康 八男仙千代のために建立された高岳院の五ヶ寺で、いずれも藩内で高い寺 格を誇った浄土宗寺院である。本記録では、尾張徳川家からの問い合わせ に対し、五ヶ寺がそれぞれ過去の留記を基に先の経緯を回答し、その当時 預けられていた宝物類についても目録を付している。各寺院の目録は山本 氏の論文にて翻刻されているためここで詳細は省くが、このうち建中寺お よ び 相 応 寺 に 一 幅 ず つ「 春 日 曼 荼 羅 」 の 名 が 見 え る ( 括 弧 内 は 筆 者 に よ る 注、 以下同) 。    (建中寺   二十三件のうち十四件目) 一   春日曼荼羅          同 (箱入   壱幅)       (相応寺   九件のうち三件目) 一   春日曼荼羅          箱入   壱幅 山 本 氏 は こ の 二 件 に つ い て、 建 中 寺 の 画 像 を 本 稿 で 扱 っ て い る 徳 川 乙 本、 相 応 寺 の 画 像 を 徳 川 甲 本 と 特 定 さ れ た。 そ の 根 拠 は 示 さ れ て い な い が、右の通り両者の記録はほぼ同一であり、この情報のみによる断定は難 しいと思われる。 文化十四年の引き上げの後、これらの宝物類は、それまで名古屋城小天 守 御 物 置 に 納 め ら れ て い た 仏 像・ 仏 画 類 と と も に、 万 松 寺 宝 蔵 に 移 さ れ ( 14)

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春日宮曼荼羅の一遺例 一四 た。万松寺は建中寺 ・ 相応寺に次ぐ寺格の曹洞宗寺院であり、 その宝蔵は、 宝 物 類 引 き 上 げ の 翌 年、 文 政 元 年 ( 一 八 一 八 ) に 建 立 さ れ て い る。 こ の 一 連 の流れについて、山本氏は『金城温古録』の一節から、斉朝の病を平癒し た僧豪潮の働きに注目し、文化十四年における豪潮の名古屋招聘を以て仏 像・仏画類の整理が始まったと指摘し、宝蔵の建立も、豪潮が文政二年ま で万松寺に止宿した故に万松寺に建立されたのであり、文政元年から遠か らぬ頃に宝物類が移されたと推定された。さて、万松寺へ納められた際の 状況は、嘉永六年 (一八五三) 改訂の墨書がある「万松寺御預   仏像類目録」 (徳川美術館蔵。以下、 「万松寺目録 (b) 」と称する) から窺える。この目録は木 像之部・菩薩之部・明王之部・天部・掛物之部・法宝之部に分類されてお り、掛物之部には五十六件が記載されている。このうち四十三件目に「春 日図曼荼羅」 、五十三件目に「春日曼荼羅」と記されている。     掛物之部    (中略) 一   春日図曼荼羅       縹装上下茶地紗金住吉ノ初代七百年       来ノ古物不空羂索二月堂ノ本尊    (中略) 一   春日曼荼羅        一軸       大縁茶金襴中縁萌黄金襴軸真鍮 付記の情報により、前者は徳川甲本、後者は徳川乙本と特定できる。こ の こ と か ら、 遡 っ て「 仏 画 類 御 談 示 ニ 付 御 届 ( a ) 」 に 記 載 が あ る「 春 日 曼 荼羅」二幅も、徳川甲本・乙本であったと判明するが、やはり建中寺と相 応寺のいずれに預けられたかは不明である。 この後、万松寺宝蔵に納められていた仏教遺品は明治八年に名古屋大曽 根 の 徳 川 家 邸 内 に 移 さ れ、 昭 和 六 年 ( 一 九 三 一 ) 以 降 は 財 団 法 人 尾 張 徳 川 黎 明会の管理下に置かれた。以上が山本氏の明らかにされた本図に関わる記 録の概要である。 ②「江戸御小納戸日記」 こ こ で、 新 た に 判 明 し た「 江 戸 御 小 納 戸 日 記 」 ( 徳 川 林 政 史 研 究 所 蔵 ) 明 和 五年 (一七六八) 六月二日および寛政三年三月二十六日の各条を提示したい。 こ れ ら の 記 録 か ら、 寛 政 三 年 に 仏 像・ 仏 画 類 が 五 ヶ 寺 に 預 け ら れ た 理 由、 そしてそれより二十年以上遡る明和五年、それらの仏像・仏画類が建中寺 へ一括して預けられたことがわかる。まずはこの一連の経緯がわかる寛政 三年の記事、続いて内容を補足できる明和五年の記事を紹介する 。    三 ( 寛 政 三 年 ) 月廿六日      (中略) 一   竹中彦左衛門方ゟ別紙書付三通被相渡    御内慮伺候様申聞有之候付 尾州同役ゟ    申越候付則奉伺候処申達候趣    思召不被為   在伺之通被   仰出候 与 之御事 ニ 付    其段有便尾州同役 江 申遣候別紙書付    為見合記置候 一   明和五子三月朔日於 ( 15)

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春日宮曼荼羅の一遺例 一五    御城吉田主水 于時御庭御足軽頭 御小納戸頭取   林又左衛門 江 申聞候 者    是迄御小納戸向 ニ 有之候御仏具別紙目録    之品向後建中寺 江 御預 ケ 置被遊度    思召 ニ 候 指 (ママ) 支 者 有之間敷哉と相尋候付    差支之儀ハ無之由及答候 左候ハヽ御小納戸    小山藤十郎取扱候間   御留守 江 相成藤十郎 江    引合宜取扱候様致度旨 主水申聞別帳    相渡候付右品相渡り候節 者 品々之巨細    帳面 ニ 委相認建中寺 江 壱帳此方役所    江 も壱帳相渡 り 候様藤十郎 江 宜申談    被置候様致度趣主水 江 申 伸 (ママ) 置候 一   同五月廿六日小山藤十郎ゟ申越候趣如左    当春    御発駕前及掛合申候仏躰并仏具類    建中寺 江 御渡 ニ 相成候儀 其御役所より    建中寺 江 御渡させ被遊候 而 も 又は役所ゟ    直 ニ 建中寺 江 御渡 ニ 相成候 而 も差支候筋    無御座候旨御申聞被成候 仍 而 江戸表 江 相伺    候処 右は其役所ゟ建中寺 江 相渡させ    候之様 ニ与 之御事之旨申来候付 右品々    入記相添下役指添御役所 江 相廻候様    可致候間 宜 ク 取扱建中寺 江 御引合    相済候様致度存候 且又右品々相廻候    日限之儀いつ比相廻させ可申哉 御申越    被下度候 以上      五月廿六日        小山藤十郎      林又左衛門様 一   六月四日藤十郎ゟ添手紙を以入記相添    御小納戸詰川崎伴蔵差添仏躰    御道具類御長持三棹 ニ 入役所 江 為持差越    候付 夫々入記 ニ 品々引合させ請取之則    即日建中寺役者養寿院并塔頭    甲竜院呼出入記目録を以相渡させ候 一   建中寺初願書写     覚 建中寺 江 先年従御役所御預相成申候 別記仏像仏画類之儀 右御寺宝蔵 江 入置年々御役所御立合 ニ而 虫干御座候 然処右宝蔵 江 入置殊更御役所御封印 ニ 御座候 而者 朝暮香華供養等行届 不申 殊 ニ 何れも霊像又 者 古徳之名画 名筆之御懸物類 ニ而 末代希成品共 ニ 御座候得ハ 誠 ニ 仏祖之冥慮も如何 奉恐候 就中宗祖 円光大師直筆数遍名号之儀ハ 瑞竜院様格別御崇敬被為遊 候之由伝承仕 当御宗門 ニ おゐてハ至 而 希有之宝物 ニ 御座候処 猶更朝暮供養も

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春日宮曼荼羅の一遺例 一六 仕度奉存候可成御儀 ニ 御座候ハヽ 右仏像 仏画類御役所ゟ御封印之儀ハ相離 已来御寺方五ヶ寺之内 江 配当御預 ニ 被 仰付被下候様仕度奉存候 左候ハヽ夫々御預 申上置朝暮香華供養等も仕度 且 前願円光大師数遍名号之儀ハ 依 勅命為天下安全祈祷被相認候之趣 御座候得ハ 年々正月十五日其外 ニ も 追々建中寺 江 相寄右名号を本尊 ニ いたし御武運長久五穀豊熟万 民安穏之為百万遍念仏修行仕度 奉存候 旁以右仏像仏画類別紙書分 ケ 候 書面之通何卒夫々御寺方 江 御預り ニ 被仰付被下候様仕度偏奉願候 以上   亥三月          高岳院        大森寺         相応寺         建中寺       寺社御奉行所 一   仏像仏画類目録        建中寺   一   阿弥陀如来          一 御厨子入 躰      但木仏立像   一   釈迦如来           一 御厨子入 躰      但焼物     (後略)      六 ( 明 和 五 年 ) 月二日     (中略) 一   御側御道具之内有之御仏躰并仏    具類建中寺 江 為御渡被遊候との御事 ニ 候    御発駕前寺社奉行林又左衛門方へ    掛合御留守方御小納戸小山藤十郎方へ    有掛合之趣共申継置候處 引渡方之義    答合申来候付奉伺候処 寺社役所へ相廻 シ    有役所ゟ建中寺被為引渡候やう ニ と    の御事 ニ 付 先便藤十郎方へ委細    申遣候 仍 而 寺社奉行又左衛門方へ    左之通相廻候旨令着便藤十郎方ゟ    申来候     仏具御長持入記控      壱番   一   仏          一 御厨子入 躰      但木仏      御厨子蠟色金御紋付かな物金めつき地七子      唐草毛彫   一   仏          一 御厨子入 躰      但焼物      御厨子黒塗内金かな物めつき唐草

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春日宮曼荼羅の一遺例 一七     (後略) 以上の記録によれば、まず明和五年の三月一日、御庭御足軽頭・御小納 戸頭取の吉田主水から寺社奉行の林又左衛門へ、藩主宗睦の意向によりそ れ ま で 御 小 納 戸 向 ( 御 側 御 道 具 ) で あ っ た 仏 像・ 仏 具 類 を 建 中 寺 に 預 け 置 き たい旨が告げられている。この時期は丁度、宗睦が参勤交代で名古屋を発 つ直前である。そのため、この件は名古屋の留守方となる御小納戸小山藤 十郎の取り扱いとなり、又左衛門は主水へ、預ける品々の詳細を帳面に記 し、建中寺と寺社奉行へ提出するべく藤十郎に指示するよう伝えている。 続いて五月二十六日には、藤十郎より又左衛門へ、仏像・仏具類は寺社奉 行から建中寺へ渡すよう江戸表から指示があったため、品々に入記と下役 を添えて寺社奉行へ廻すこと、またその時期についての問い合わせが書状 にて述べられている。次に、六月二日には江戸御小納戸へ藤十郎から「仏 具 御 長 持 入 記 控 」 ( 以 下、 「 入 記 控( c )」 と 称 す ) が 届 け ら れ て お り、 建 中 寺 へ 渡 す 品 々 の 詳 細 が 判 明 す る ( 表 2参 照 ) 。 そ し て 同 月 四 日 に は、 長 持 三 棹 に 入れられた仏像類が、入記と御小納戸詰川崎伴蔵を差し添えて、寺社奉行 へ も た ら さ れ、 仏 像 類 と 入 記 と を 突 き 合 わ せ て 寺 社 奉 行 が 受 け 取 っ た 後、 即日建中寺へ渡したと記されている。 それから二十三年後の寛政三年三月、建中寺は以上の経緯で預けられ宝 蔵 に 保 管 さ れ て い た 品 々 を、 改 め て 五 ヶ 寺 に 配 分 し て ほ し い と し、 「 仏 像 仏 画 類 目 録 」 ( 以 下、 「 建 中 寺 初 願 目 録( d )」 と 称 す ) を 添 え て 寺 社 奉 行 へ 願 い 出ている (表 3参照 ) 。この願いによると、宝蔵に保管された品々は寺社奉 行が封印しており、毎年役所の立ち合いのもと虫干しがあるものの、日々 の供養はできずにいるという。預けられた品々は名品ばかりだが、中でも 浄土宗祖の円光大師法然直筆の名号は尾張徳川家二代光友も崇敬していた 品であり、なおさら供養したいとのことで、浄土宗五ヶ寺へ配分して預け てもらえれば、日々の供養を行うほか、正月十五日には建中寺にて先の名 号を本尊として武運長久・五穀豊熟・万民安穏を祈念し百万遍念仏もした い と 訴 え て い る。 寛 政 三 年 の 記 事 冒 頭 に よ る と、 こ の 願 い は 尾 張 御 小 納 戸 を 経 由 し、 江 戸 御 小 納 戸 か ら 宗 睦 に 伺 い を 立 て 許 可 を 得 た 旨 が、 同 月 二 十 六 日 に 尾 張 御 小 納 戸 へ 知 ら さ れ て い る。 「 仏 画 類 御 談 示 ニ 付 御 届 ( a ) 」 に 収 録 さ れ た 大 森 寺 か ら の 返 答 に「 寛 政 三 亥 年 建 中 寺 ニ お ゐ て 御 預 り 申 上 候 」 と あ り、 ま た 性 高 院 か ら の 返 答 に「 徳 川 家 よ り 寛 政 三 年 亥 四 月 御 預 ケ 相成候」とあることからすると、それから間もなく、建中寺にて五ヶ寺へ 配分があったと察せられる。 それでは、このとき実際に預けられた品々を確認してみたい。表 2には 明 和 五 年 の「 入 記 控 ( c ) 」 に 挙 げ ら れ た 品 々 を ま と め た が、 仏 像 や 仏 画 に ついては主題に触れない場合もあり、残念ながら全ての作品は特定できな い。記載された品は、仏像八件十点・仏画二十二件二十二点・その他経典 仏具類十件の合計四十件である。 一 方、 表 3に は 寛 政 三 年 の「 建 中 寺 初 願 目 録 ( d ) 」 に 挙 げ ら れ た 品 々 を ま と め た が、 こ の 内 容 は「 仏 画 類 御 談 示 ニ 付 御 届 ( a ) 」 と ほ ぼ 同 じ で あ り、 一 部「 建 中 寺 初 願 目 録 ( d ) 」 の み に 記 録 さ れ て い る 品 も あ る。 記 載 さ れた品は、仏像十一件十一点・仏画二十一件二十一点・その他経典仏具類 九 件 の 合 計 四 十 一 件 で あ る。 「 入 記 控 ( c ) 」 と 比 較 す る と、 仏 像 と 仏 画 で 一点ずつの増減があり、あるいは誤記かとも思われる。また、その他経典 仏具類の一件減については、 「入記控 (c) 」に記された「仏之書付」 (表 2・ 整理番号 39)が見られないため、これが原因であるとわかる。従って、寛政 ( 16)

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春日宮曼荼羅の一遺例 一八 三年に建中寺において配分された仏像・仏画類は、建中寺の願いにある通 り、明和五年に預けられていた品々がほとんどであると判明する。仏画に 関 し て 言 え ば、 寛 政 三 年 の「 建 中 寺 初 願 目 録 ( d ) 」 に 挙 げ ら れ た 品 二 十 一 点 は、 明 和 五 年 の「 入 記 控 ( c ) 」 に 記 載 さ れ た 品 二 十 二 点 に す べ て 含 ま れ ていると考えられる。 本稿で扱う春日曼荼羅についても記載を確認していきたい。まず「建中 寺 初 願 目 録 ( d ) 」 は「 仏 画 類 御 談 示 ニ 付 御 届 ( a ) 」 と ほ ぼ 同 様 の 内 容 で あ り、徳川甲本・乙本のいずれとは判断できないものの、建中寺および相応 寺に一点ずつ「春日曼荼羅」が挙げられている。先述の通り、このことか ら 「入記控 (c) 」 にも春日曼荼羅二点が含まれていると推定できる。実際、 「入記控 (c) 」には「春日まんたら」 (表 2・整理番号 28)が確認でき、注記に ある表具の説明からして、徳川甲本であると判明する。このほか春日曼荼 羅を明確に指し示す項目はないが、表 2・整理番号 6の仏画には「上下茶 地金入中風帯萌黄地金入軸めつき」と注記があり、徳川乙本と共通するた めこれと比定できる。 現 段 階 で は「 入 記 控 ( c ) 」 を 遡 る 伝 来 は 不 明 で あ る が、 徳 川 乙 本 が 明 和 五年の時点で尾張徳川家に保管されていたことが明らかとなった。春日信 仰に基づく遺品については、渡辺氏により尾張徳川家と姻戚関係にあった 藤原北家の嫡流近衛家から伝来した可能性が指摘されている 。明和五年以 前に近衛家から室や養女に迎えられた女性は何人か確認できるため、どの 人 物 の 関 連 す る 品 で あ る か を 特 定 す る こ と は 困 難 で あ る が、 「 入 記 控 ( c ) 」 に 挙 げ ら れ た 品 の 中 に は 光 背 や 台 座 の み で 伝 わ っ て い る 仏 具 ( 表 2・ 整 理 番 号 35お よ び 36) 含 ま れ て い る こ と か ら し て、 長 年 遺 品 と し て 保 管 さ れ て き た品であったと推察される。 ところで、これらは文政元年から遠からぬ頃に万松寺宝蔵へ移されたわ けであるが、 「万松寺目録 (b) 」には興味深い記載がある。     法宝之部    (中略) 一   無量寿経          上下   二軸        箱入 一   円光大師略伝           三軸       前分春日曼荼羅ト三品一筐入 こ れ は 法 宝 之 部 二 十 三 件 の う ち、 二 十 二 お よ び 二 十 三 件 目 の 記 述 で あ る。両者とも現所在は不明であるが、後の蔵帳によれば、いずれも版本で あ る と い う 。 注 目 す べ き は 二 件 の 下 部 中 央 に 「 箱 入 」 と あ り 、「 春 日 曼 荼 羅 」 と共に納められていると注記されていることである。先の通り、本史料に おいて春日曼荼羅は二種の異なる名称で区別して記録されているため、こ こにある「春日曼荼羅」は本稿で扱っている徳川乙本と判明する 。 で は、 こ の 三 件 は ど の 時 点 で 一 箱 に 納 め ら れ た の で あ ろ う か。 「 無 量 寿 経 」 は 明 和 五 年・ 寛 政 三 年 の い ず れ の 時 点 の 目 録 に も 記 載 が な い が、 「 円 光大師略伝」は明和五年「入記控 (c) 」から名前が挙がっている (表 2・整 理 番 号 31) 寛 政 三 年「 建 中 寺 初 願 目 録 ( d ) 」 の 内 容 は 表 3・ 整 理 番 号 16を 参照いただくこととし、ここでは明治七年に寛政三年の留記を写した「仏 画 類 御 談 示 ニ 付 御 届 ( a ) 」 の 目 録 の 内 容 を 確 認 し て お き た い。 「 仏 画 類 御 談 示 ニ 付 御 届 ( a ) 」 に は 冊 子 下 部 に 付 箋 が 付 さ れ て い る た め、 そ の 内 容 を 併せて記載する。 ( 17) ( 18) ( 19)

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春日宮曼荼羅の一遺例 一九     (建中寺   二十三件のうち十六件目) 一   円光大師略伝        壱軸    (付箋) 箱斗有之            略伝無御座 こ の 付 箋 は、 他 の 付 箋 の 内 容 か ら し て も、 「 仏 画 類 御 談 示 ニ 付 御 届 ( a ) 」 が記された明治七年時点における注記であると考えられる。従って、文化 十 四 年 に「 円 光 大 師 略 伝 」 そ の も の は 寺 社 奉 行 へ 差 し 戻 さ れ、 明 治 七 年 に は 箱 の み が 建 中 寺 に 残 さ れ て い た と わ か る。 こ の こ と か ら し て、 「 円 光 大師略伝」は建中寺が預かっている間に別の箱、すなわち徳川乙本および 「 無 量 寿 経 」 と の 共 箱 に 納 め ら れ た と 推 定 さ れ る。 徳 川 乙 本 は 寛 政 三 年 の 五ヶ寺への配分の際、建中寺へ納められた可能性が高いと言えよう。 春 日 宮 曼 荼 羅 と 無 量 寿 経 お よ び 円 光 大 師 略 伝 に は 思 想 的 な 共 通 性 は な く、 こ れ ら が 建 中 寺 に お い て 同 一 の 箱 に 納 め ら れ た こ と に は 疑 問 が 残 る が、寛政三年の建中寺初願に「朝暮香華供養等も仕度」とある通り日々供 養されていたとすれば、便宜的にそうしたとも考え得る。また「円光大師 略 伝 」 の 員 数 に つ い て、 寛 政 三 年 の「 建 中 寺 初 願 目 録 ( d ) 」 お よ び「 仏 画 類御談示 ニ 付御届 (a) 」 において 「壱軸」 であったのが、 「万松寺目録 (b) 」 では「三軸」に変化していることについても、やはり寺僧が供養するのに 適するよう、装丁を変えた可能性が考えられる。いずれにせよ、今は徳川 乙本が浄土信仰の遺品と共に納められていた時期があったことと、建中寺 へ配分され遺品として日々供養されていた可能性が高いことを指摘するに とどめたい。         これまで述べてきた通り、徳川乙本は室町時代、十五世紀に製作された 春日宮曼荼羅定型図様の一作例であると考えられる。紙形を用いた製作を 裏付けるように、ほとんどの建築物・風景モチーフが春日宮曼荼羅諸本と 一 致 し て い た が、 一 部 の 建 築 物 に は 変 化 も 見 ら れ た。 こ の 変 化 は 十 四 ~ 十五世紀の作例と共通しており、この時代における紙形の特徴と捉えられ ることを指摘した。また、春日山の形態は定型化に伴うモチーフの単純化 を 示 し て い た 一 方 で、 本 社 四 宮 と 若 宮 の 尊 像 に は 緻 密 な 描 写 が 観 察 で き、 定型化し量産される状況であっても尊像表現には特別に注意を払っていた ことがわかった。 本図の伝来については「江戸御小納戸日記」により、寛政三年を遡る明 和五年には尾張徳川家に遺品として保管されており、その年に他の仏像・ 仏 画 類 と と も に 建 中 寺 に 預 け ら れ た こ と が 明 ら か と な っ た。 こ れ ら の 仏 像・仏画類は建中寺の願いにより寛政三年に建中寺を含む浄土宗五ヶ寺に 配分されたが、その際、徳川乙本は建中寺に配されたと推察した。そして 文化十四年に寺社奉行へ引き渡されるまでの間に、浄土信仰の遺品と同箱 に納められた可能性を指摘した。本図が高位の人物の遺品として、藩内浄 土 宗 寺 院 の な か で も 最 も 格 の 高 い 尾 張 徳 川 家 の 菩 提 寺・ 建 中 寺 へ 預 け ら れ、長年供養されていたことがわかり興味深い。 春日宮曼荼羅の研究において、平安・鎌倉時代の作例に比較して室町時 代以降の作例は研究が少ないのが現状である。しかし徳川乙本は、室町時 代に製作されて以降、貴顕の春日信仰を支え、江戸時代には大名家の菩提

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春日宮曼荼羅の一遺例 二〇   川 村 知 行「 春 日 曼 荼 羅 の 成 立 と 儀 礼 」(『 美 術 史 』 一 一 〇 号   美 術 史 学 会   昭 和 五十六年三月三十日) 。   行 徳 信 一 郎「 湯 木 美 術 館 蔵「 春 日 宮 曼 荼 羅 図 」」( 九 州 芸 術 学 会 編『 九 州 藝 術 学 会 誌   デ アルテ』第八号   西日本文化協会   平成四年三月三十一日) 。   行 徳 信 一 郎「 影 向 と 自 然 と ─ 陽 明 文 庫 蔵   春 日 鹿 曼 荼 羅 図 ─ 」(『 國 華 』 一 一 七 三 号   國華社   平成五年八月二十日) 。   行 徳 信 一 郎「 春 日 宮 曼 荼 羅 図 の 風 景 表 現 ─ 仏 性 と 神 性 の か た ち ─ 」(『 M U S E U M』第五四一号   東京国立博物館   平成八年四月十五日) 。   松村和歌子 「春日宮曼荼羅   各部名称」 (『春日の風景─麗しき聖地のイメージ─』 根津美術館   平成二十三年十月六日) 。   藤原重雄「垂迹曼荼羅の環境・景観描写ノート」 (津田徹英編『仏教美術史論集 2 図 像 学 Ⅰ ─ イ メ ー ジ の 成 立 と 伝 承( 密 教・ 垂 迹 )─ 』  竹 林 舎   平 成 二 十 四 年 五 月十五日) 。   谷 口 耕 生「 南 市 町 自 治 会 所 蔵 春 日 宮 曼 荼 羅 試 論 」(『 論 集・ 東 洋 日 本 美 術 史 と 現 場 ─見つめる・守る・伝える』   竹林舎   平成二十四年五月十五日) 。   白 原 由 起 子「 法 隆 寺 所 蔵 春 日 宮 曼 荼 羅 考 ─ 春 日 宮 曼 荼 羅 の 図 様 展 開 に 関 す る 試 論」 (『此君』第四号   根津美術館   平成二十五年三月十日) 。   松 村 和 歌 子「 春 日 宮 曼 荼 羅 と 社 頭 景 観 の 史 料 」(『 此 君 』 第 四 号   根 津 美 術 館   平 成二十五年三月十日) 。   白 原 由 起 子「 春 日 宮 曼 荼 羅 研 究 の 現 在 ─ 作 品 研 究 の 成 果 と 試 論 ─ 」(『 哲 学 』 第 一三二集   三田哲学会   平成二十六年三月) 。 ( 4)   以下、春日宮曼荼羅の諸本に限り、混同を避けるため、初出から所蔵者名を 冠して「○○本」と略称し、特記事項があれば続けて (   )内に記載する。 ( 5)   註( 3)松村和歌子「春日宮曼荼羅   各部名称」および同「春日宮曼荼羅と社 頭 景 観 の 史 料 」。 な お「 春 日 宮 曼 荼 羅   各 部 名 称 」 は、 春 日 社 域 の 古 い 景 観 を 示 している根津美術館本 (鎌倉時代 十三世紀、重要文化財) および法隆寺本 (鎌倉時 代 十 三 世 紀 )、 絵 絹 が 比 較 的 大 き く 描 写 の 緻 密 な 奈 良 南 市 町 自 治 会 本( 鎌 倉 時 代 十三世紀、重要文化財) の三点に注釈を付ける形で提示されている。 ( 6)   徳川乙本では本社内院、本殿背後の区域に八雷社のほか三つの摂末社が描か ( 1)   本 稿 で は、 総 称 と し て の「 春 日 曼 荼 羅 」 と 一 分 類 と し て の「 春 日 宮 曼 荼 羅 」 を区別して用いる。ただし、作品の伝来について言及する第三章では、江戸時代 の名称に現在の分類方法を適応できないため、この対象としない。 ( 2)   渡辺里志「不空羂索観音像の描かれた春日曼荼羅図─徳川美術館本春日曼荼 羅図について─」 (『金鯱叢書』第十六輯   徳川黎明会   平成元年十月三十日) 。 ( 3)   主要な先行研究は次の通り。   亀 田 孜「 九 条 兼 実 の 春 日 社 と 南 円 堂 へ の 信 仰 」(『 国 宝 』 六 巻 一 〇 号   国 宝 社   昭 和十八年十月〈同『日本仏教美術史叙説』所収   學藝書林   昭和四十五年四月 三十日〉 )。   永 島 福 太 郎「 春 日 曼 荼 羅 の 発 生 と そ の 流 布 」(『 美 術 研 究 』 第 百 三 十 三 号   美 術 研 究所   昭和十八年十二月二十五日) 。   近 藤 喜 博「 春 日 若 宮 影 向 図 」(『 國 華 』 八 〇 二 号   國 華 社   昭 和 三 十 四 年 一 月 一 日) 。   松村政雄「春日曼荼羅」 (東京国立博物館編『MUSEUM』第九十八号   美術出 版社   昭和三十四年五月一日) 。   松 村 政 雄「 吉 祥 天 厨 子 絵 よ り 見 た 南 都 絵 所 座 の 一 考 察 」(『 仏 教 芸 術 』 四 〇 号   仏 教芸術学会   昭和三十四年九月三十日) 。   景 山 春 樹『 神 道 美 術 の 研 究 』( 神 道 史 研 究 叢 書   第 三 冊 )山 本 湖 舟 写 真 工 芸 部   昭 和三十七年六月十日。 寺に納められて供養され、その後も什物として保管された伝来を持つ作例 であった。現在ではあまり注目されない作品であっても、伝存する作例に はそれぞれに考察すべき観点があり、改めて個別に研究する重要性が確認 できたと考える。今後は、先行する作例の研究成果を踏まえつつ、室町時 代の春日宮曼荼羅についても個別の作品研究がなされ、発展的な成果に繋 げていくことが期待される。本稿がその一助になれば幸いである。

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春日宮曼荼羅の一遺例 二一 れているが、南市町自治会本では栗柄 (隼明神) ・海本・佐軍・杉本の四社が描か れており、これが本来の過不足ない景観であると考えられる。摂末社は小さなモ チーフであるためか、諸本で描かれ方にかなりのばらつきがある。それを考慮す れば、徳川乙本はこの部分を除き、画面全体にわたってほぼ正確に主要な建築物 を描いていると言えよう。 ( 7)   註( 3)行徳信一郎「春日宮曼荼羅の風景表現─仏性と神性のかたち─」など 参照。 ( 8)   註( 3)松村和歌子「春日宮曼荼羅と社頭景観の史料」 。 ( 9)   註( 3)白原由起子「春日宮曼荼羅研究の現在─作品研究の成果と試論─」に よると、例えば十二世紀前半に創建された東西御塔は治承四年 (一一八〇) の南都 焼討で焼失し、東御塔は建保五年 (一二一七) 、西御塔は寛元四年 (一二四六) から そう隔たらない時期に再建された。しかし応永十八年 (一四一一) の雷火で再び焼 失し、その後は再建されていない。 ( 10)   白原氏は、やはり定型化以前の作例について、実際の殿舎の状況との直接的 な関係が看取されるとした上で、描かれた春日社殿群の造営に関わった興福寺僧 や宗徒にとっては春日社への貢献の証であり、それが現実感に繋がることを論じ て い る( 註( 3) 原 由 起 子「 法 隆 寺 所 蔵 春 日 宮 曼 荼 羅 考 ─ 春 日 宮 曼 荼 羅 の 図 様 展 開に関する試論」 )。これを定型化図様の、外院の板倉や社務関係の建築物にも適 応できるか否かについてはさらなる検討を要するが、いずれにせよ、紙形を変化 させる必要性は現実感とは切り離して考えられない。 ( 11)   本図の御蓋山にも用いられる、色とりどりの木々で山容を表す描法について は、 行 徳 氏 の 指 摘 す る 通 り、 「 一 遍 上 人 伝 絵 巻 」 巻 五( 正 安 元 年〈 一 二 九 九 〉 成 立) や 「春日権現験記絵巻」 巻十九 (延慶二年 〈一三〇九〉 成立) などにも見られ、 一三〇〇年を前後する時期にはすでに、山容表現のひとつの型として広く行われ ていたと考えられる (註 ( 3)行徳信一郎「湯木美術館蔵「春日宮曼荼羅図」 」 ) ( 12)   註( 3)行徳信一郎「春日宮曼荼羅の風景表現─仏性と神性のかたち─」 。 ( 13)   他の宮曼荼羅においても正面向きの形式が多く、春日曼荼羅においてもこの 形式が本流であると考えられる。 ( 14)   山本泰一「尾張徳川家における仏教遺品の収蔵について─徳川美術館保管の 仏 画 を 中 心 に ─ 」(『 金 鯱 叢 書 』第 十 一 輯   徳 川 黎 明 会   昭 和 五 十 九 年 六 月 三 十 日 )。 ( 15)   山本氏は註 ( 14)前掲論文において、寛政三年の「尾張御小納戸日記」が欠失 し、 「 源 明 様 御 代 御 記 録 」 の 同 年 条 に も そ れ ら し い 記 事 が な い た め、 経 緯 は た ど れない旨を報告している。 ( 16)   建中寺初願には「五ヶ寺」と明記されているものの、最後に記された差出人 は高岳院・大森寺・相応寺・建中寺の四寺のみであり、性高院が抜けている。写 し間違いと考えられる。 ( 17)   註( 2)前掲論文。 ( 18)   明 治 時 代 に 入 っ て か ら 作 成 さ れ た「 万 松 寺 御 預   仏 像 類 目 録 」 の 写 本 に は、 作品を調査して記入したと見られる詳細情報が加筆されている。これによると無 量 寿 経・ 円 光 大 師 略 伝 は と も に 版 本 で あ り、 無 量 寿 経 に は「 版 本 ニ 付 書 籍 部 ヘ 編 入ス」という付箋が付されている。 ( 19)   現 在 、 徳 川 乙 本 は 大 正 期 に 製 作 さ れ た と 見 ら れ る 箱 に 一 幅 で 納 め ら れ て い る 。 [付記]   本稿執筆にあたり御指導・御教示を賜りました諸先学に、この場を借りて 感謝申し上げます。また図版掲載につきましては、各御所蔵者の御高配を賜りま した。記して深く御礼申し上げます。 (美術館   學藝員)

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春日宮曼荼羅の一遺例 二二 場所 名称 備考 作品数 徳川乙本 ①内院 A 築地塀沿いの杉 26 ○ ②中院 B 稲垣前の棕櫚 3 C 影向杉 23 ○ D 大杉 カ 現 在 の 大 杉 の 位 置 に あ る 樹 木 を 示 し て お り、 樹 種 は 特 定 さ れ て い な い。 徳川乙本の場合にも、 樹種は不明ながら大木として描かれている。 13 ○ E 幣殿前の藤 2 ③外院 F 南門外東方の梅 17 G Fの隣の桜 6 H 南門外西方の梅 4 I 榎本滝 9 ○ ④若宮社 J 瑞垣内の樹木 3 K 瑞垣外基壇上の樹木 7 L 瑞垣内社殿背後の木立 4 ⑤参道沿い M 祓戸社背後の樹木 祠を背後から覆うような形の樹木。 24 ○ N 神垣森 藤鳥居の両脇の築地塀をはさむ木立。 19 ○ O 馬出・馬止橋間の杉木立 11 ○ ⑥一鳥居付近 P 一鳥居円柱の榊 6 Q 影向松 19 ○ R Qの隣の松 (桜) 15 ○ S 群生する松 同一の根株から群生したように描かれる。 9 ○ T 金泥の土坡 6 表1   春日宮曼荼羅   主要風景モチーフ一覧 凡例   ・本表は、行徳信一郎「春日宮曼荼羅図の風景表現─仏性と神性のかたち─」所収「春日 宮曼荼羅図   主要風景モチーフ一覧表」をもとに作成した (註 3参照) 。 ・作品数欄には、行徳氏が比較対象とされた作例二十七点における該当点数を示した。た   だし写し崩れなどにより判然としない場合 (行徳氏表中の記号「△」 )は除いた。 ・徳川乙本欄には、徳川乙本にモチーフが描かれている場合「○」を付した。

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春日宮曼荼羅の一遺例 二三 表 2   江戸御小納戸日記   明和五年「入記控 (c) 」一覧 凡例   ・本表の表記は史料の表記に従った。 ・名称欄の (   )内には、注記に名称に準じる記載がある場合、その内容を補記した。 ・注記欄には、作品の特定が困難な場合および本稿に関わる品である場合に注記の内容を   記した。ただし厨子・箱に関する記載は略した。 ・ 寛 政 三 年 預 け 先 欄 に は、 江 戸 御 小 納 戸 日 記   政 三 年「 建 中 寺 初 願 目 録( d )」 に よ り 預   け先となった五ヶ寺が判明する場合に、建中寺・相応寺・大森寺・性高院・高岳院の各   頭文字を記した。 整理 番号 名称 注記 厨子・箱 員数 寛政三年 預 け 先 壱番 1 仏 但木仏 (以下略) 御厨子入 一躰 2 仏 但焼物 (以下略) 御厨子入 一躰 建 3 仏(三尊弥陀) (略) 御厨子入 一躰 高 4 仏(三尊) (略) 御厨子入 一躰 5 仏(鋳物阿弥陀) (略) 黒塗御紋付箱入 一躰 性 6 観音 (略) 一躰 性 弐番 7 仏 但木像 (以下略) 御厨子入 一躰 三番 8 仏画御掛物 上下紫綾中茶地牡丹唐草模様風帯茶地金入軸水晶 一幅 9 同 上下茶地金入中風帯萌黄地金入軸めつき 一幅 10 同 上下白綾中風帯萌黄地錦軸めつき唐草毛彫 一幅 11 同(善光寺如来) (略) 一幅 相 12 同(釈迦仏三尊) (略) 一幅 建 13 同 上下浅黄緞子中風帯茶地銀入軸めつき蓮模様 一幅 14 同 上下藤色金入中風帯茶地金入軸めつき蓮模やう 一幅 15 同 軸めつき蓮もやう 一幅 16 同(不動) (略) はこ入 一幅 高

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春日宮曼荼羅の一遺例 二四 17 同(薬師如来) (略) 箱入 一幅 大 18 同(弥陀来迎) 上下紺綾中風帯萌黄地金入軸めつき唐草毛彫 はこ入 一幅 19 同(梵字文殊) (略) 箱入 一幅 相 20 同(元祖上人古文字内数編名号) (略) 一幅 建 21 同(夢想弥陀如来) (略) 箱入 一幅 建 22 同(阿弥陀) 上 下 紫 金 入 中 茶 地 金 入 一 文 字 風 帯 萌 黄 地 金 入 軸 め つき蓮もやう 箱入 一幅 23 同(将軍地蔵) (略) 箱入 一幅 相 24 同(虚空蔵大菩薩) (略) 箱入 一幅 建 25 同(釈迦) 上下茶地金入中風帯茶地金入軸めつき蓮もやう 箱入 一幅 26 同(南無阿弥陀仏) (略) 箱入 一幅 建 27 同(掛物南無阿弥陀仏) (略) 箱入 一幅 建 28 同(春日まんたら) 上下白地金入中風帯萌黄地金入軸めつき 箱入 一幅 29 同(正観音) (略) 一幅 相 30 法華経 (略) 二軸 建 31 円光大師略伝 紙表紙木軸 一軸 建 32 心経 (略) 箱入 一軸 建 33 天満天神真翰 (注記無) 箱入 一軸 建 34 弁財天像 (略) 三躰 相・大・高 35 後光台座共 (略) 壱 建 36 後光 (略) 大小二ツ 建 37 観音経 (注記無) 二巻 建 38 金光明最勝王経 (注記無) 十巻 建 39 仏之書付 (注記無) はこ入 二遍 40 百万御扁珠数 (注記無) 一連 建

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春日宮曼荼羅の一遺例 二五 整理 番号 名称 注記 厨子・箱 員数 仏 画 類 御 談 示 ニ 付御届 (a)    建中寺 1 阿弥陀如来 但木仏立像 御厨子入 一躰 2 釈迦如来 但焼物 御厨子入 一躰 3 中尊観世音 脇立二尊 箱入 同 一躰 4 釈迦仏三尊 同 一躰 5 中尊釈迦仏 脇立菩薩八躰 同 同 一幅 6 三尊釈迦如来 同 一幅 7 観経曼荼羅 同 一幅 8 三尊阿弥陀如来 同 一幅 9 元祖上人古文字内数遍名号 一幅 10 阿弥陀如来 瑞竜院様御夢中御感得 箱入 一幅 11 虚空蔵大菩薩 同 一幅 12 南無阿弥陀仏 同 一幅 13 同 同 一幅 14 春日曼荼羅 同 一幅 15 法華経 同 二軸 16 円光大師略伝 同 一軸 17 心経 同 一軸 18 天満天神御真翰心経 同 一軸 19 後光台座とも (略) 一遍 表 3   江戸御小納戸日記   寛政三年「建中寺初願目録 (d) 」一覧 凡例   ・本表の表記は史料の表記に従った。 ・注記欄には、注記がある場合にその内容を記した。 ・ 仏 画 類 御 談 示 ニ 付 御 届( a )欄 に は、 「 建 中 寺 初 願 目 録( d )」 と 比 較 し「 仏 画 御 談 示 ニ 付   御届 (a) 」に該当する品の記載がない場合、 「記載無」と示した。

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春日宮曼荼羅の一遺例 二六 20 真鍮後光 (略) 大小二遍 21 観音経 箱入 二巻 22 金光明最王経 (ママ) 同 二巻 23 百万遍誕生椋珠数 一連 相応寺 24 阿弥陀如来 但木仏 御厨子入 一躰 25 文殊菩薩聖徳太子 箱入 一幅 26 春日曼荼羅 箱入 一幅 27 真言曼荼羅 同 一幅 28 善光寺如来写 同 一幅 29 梵字之文殊 同 一幅 30 将軍地蔵 同 一幅 31 正観音 同 一幅 32 弁財天之像 一躰 大森寺 33 三尊阿弥陀如来 箱入 一幅 34 薬師如来 同 一幅 記載無 35 弁財天之像 一躰 性高院 36 阿弥陀如来 黒塗御紋付箱入 一躰 記載無 37 観音 但焼物 箱入 一躰 記載無 38 釈迦如来 箱入 一幅 記載無 高岳院 39 三尊阿弥陀如来 御厨子入 一躰 40 不動明王 箱入 一幅 41 弁財天之像 一躰

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