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原胤昭の生涯とその事業

―― 東京出獄人保護所の財政状況と大正期の保護成績を中心として ――

**

はじめに

原胤昭(1853―1942)は我が国における監獄改 良・出獄人保護事業(現在の更生保護事業)の先 駆者である。原は1853(嘉永6)年江戸町奉行所 与力の家に生まれ、明治維新後東京府職員となる が、69(明治2)年に辞職する。74年に東京第一 長老教会で受洗し、日本初のキリスト教書出版社 十字屋を開業した。84年7月から兵庫仮留監、88 年4月より釧路集治監及び92年12月から樺戸集治 監において、我が国初のキリスト教常勤教誨師と して活躍し、その後97年に東京出獄人保護所原寄 宿舎を開設した。1908年に中央慈善協会幹事に就 任し、雑誌『慈善』の編集にも携わった。09年に は児童虐待防止活動に着手し、14年に労働者層の ための小住宅経営をするなど、生涯にわたって幅 広い活動を行った。 このように多彩な活動を行った原であったが、 彼の畢生の事業は出獄人保護事業であり、その生 涯において一万人を超える刑余者の更生を支援し た。そのため原の出獄人保護事業に関しては次の ような先行研究がある。小倉(1969)「原胤昭― 監獄改良―出獄人保護の先覚―」は監獄改良・出 獄人保護事業の先覚としての原の思想を明らかに した。安形(1995)「原胤昭免囚の父」は原の著 作に基づく実証的研究である。山崎(1999)「原 胤昭」は原の出獄人保護事業の実績や原の主著 『出獄人保護』の意義を簡潔にまとめている。片 岡(2006)「原胤昭―更生保護事業の父」は原の 生涯と事業実践を簡略に著した。その他伝記小説 に茂木(1943)『父なる愛』があり、伝記として は若木(1951)『更生保護の父原胤昭』がある。 しかしながら上記の先行研究はいずれも限られ た紙幅の中で原の生涯全体を捉え、且つ「更生保 護事業の父」としての原の事業を明らかにしてい るため、釈放者の更生を支援するための援助方法 や出獄人保護事業の保護成績や財政状況等につい て充分に究明できていない。それゆえ筆者は片岡 (2007a)において東京出獄人保護所の創設と原の 援助方法及び明治期の保護成績を明らかにした。 それを受けて本稿は東京出獄人保護所の財政状況 と大正期以降の保護成績を中心に解明していくこ とを目的とし、具体的には!)東京出獄人保護所 の財政状況、")大正期の保護実績、#)関東大 震災後の保護所の状況、$)原と司法省との関 係、%)東京出獄人保護所の財団法人化、&)原 の保護事業観と社会事業観について明らかにして いくことを課題とする。 これらの課題を明らかにしていくために、原の 著書や論文、とりわけ東京出獄人保護所の創設以 来定期的に発行されてきた保護成績の報告書や、 その他客観的事実を把握するために当時の新聞及 び雑誌記事を活用していくこととする。 なお本稿を作成する際に活用した史料には今日 の価値観で判断すると不適切な表現が散見される が、引用に当たっては原文通りの表記とし、加え て保護所の財政状況の把握を容易にするために実 際の収支金額に関し漢数字で表記されている部分 を算用数字に置き換えて引用する。

1.東京出獄人保護所の財政及び運営状況

(1)大正期の組織内容と運営実態 ここでは東京出獄人保護所の財政状況を論じて いく前に同保護所の組織内容や運営の実態につい * キーワード:東京出獄人保護所、財政状況、保護成績 ** 関西学院大学大学院社会学研究科博士課程後期課程 March 2008 ―165―

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て概観する。まず、原は東京出獄人保護所の組織 に関し、「団体的、個人的、何れなるも可なるべ し。当所は後者に属し、余の単独に経営する所に して、同情者中より協議員を定め事業の方針及び 会計に関し協議を乞ふ事とせり」(原1913b:269) と述べている。また原は自身を「主管者」と呼 び、さらに「主管者は保護所に居住し、家族をし て 事 業 に 補 佐 せ し む」と し て い る(原1913b: 270)。すなわち原や彼の家族によって行われた個 人事業であったが、運営や会計に関しては協議員 による協議の下に行っていたのであった。ちなみ に1913年当時東京出獄人保護所の協議員は、土方 久元1)、清浦奎吾、岡部長職、渋沢栄一、島田三 郎、小河滋次郎であった。 原(1913b:270)は主管者に必要な条件として 「余は主管者に特種の経験学識及び智能を要する ものとは思量せず」、「唯だ此の憐む可き同胞に対 し衷心の同情を以て之れを改善し、正道に導かん とするの念ある人なれば足れりとするものなり」 と述べている。さらに当時は入獄した経験を持つ 者のほうが刑余者の立場を理解できるのではない かという考え方から、改心した出獄人を主管者に 据えるべきではないかとの意見があったが、それ に対し原は「余は絶対に此の説を否定するものな り」と述べ、「主管者に備ふべき資格は、正大な る人格なり威厳なり、尊敬すべき温情なり」と し、経験ではなく、あくまでも人格高潔であるこ とを要求している(原1913b:271)。 また原(1913b:272―273)は事業運営上の規則 として「東京出獄人保護事業維持法」を設けてお り、その内容は次のとおりであった。 一 原 胤 昭 は 東 京 出 獄 人 保 護 事 業 を 主 管 す 一 原胤昭は本事業の賛成者六名を定員 として協議員を嘱託す 一 原胤昭は本事業 の方針及会計に付ては協議員の協賛を経て施 行す 一 小河滋次郎子爵岡部長職子爵清浦 奎吾島田三郎男爵渋沢栄一伯爵土方久元は原 胤昭の嘱託により協議員たることを承諾せ り 一 協議員は本事業の方針及会計に関す る協議に与かり会計を監査す 一 協議員は 原胤昭の本事業を主管すること能はざる場合 又は其他の事故ある時は寄附出金者の意見を 聴き相当の処置を為すことあるべし 一 協 議員に欠員を生じたる時は原胤昭は協議員の 同意を得て補欠をなすものとす 一 原胤昭 は協議員の検閲を経て毎年一回事業成績及会 計決算の報告を為すものとす ここで原が述べているように、彼の独自の判断 で事業を行ったのではなく、事業に賛同し助成す る協議員らの協議の下に事業の方針を定め、予算 の執行を行い、会計上の監査も受けていたのであ る。 (2)財政状況一覧 東京出獄人保護所の財政状況を一覧表にして把 握していくことにする。そのために1897年7月に 発表された「東京出獄人保護所創立半年報(以 下、すべての年報を「半年報」のように略記す る)」から関東大震災当日までの保護実績を報告 した「27年報」2)までのデータや原の主著『出獄 人 保 護』(原1913b)及 び 小 冊 子『出 獄 人 保 護』 (原1925a)の財政状況に関する記載に基づき、以 下に東京出獄人保護所の財政状況一覧(表1)を 作成する。 1)土方久元(1833―1918)とは、明治維新当時の土方大一郎で市政裁判所の判事であり、江戸南町奉行所が明治新 政府に引き渡される際の主任であった。土方はそれまで「国事に奔走し政事に関しては何等経験なく江戸市政は 大任である璽今尽力補助に依らざれば此大任を全ふすること能はざれば」(佐久間1920:5)、江戸市政を市政裁 判所へ引き渡す業務を遂行するにあたって、与力たちの協力が不可欠であると考えた。そのため、土方は南町奉 行所の筆頭与力であった佐久間弥太吉長敬(原胤昭の実兄)を信頼していたため、江戸市政と町奉行所の事務の 引継業務を佐久間に一任し、無事完了することができた。そのため、佐久間のみならず、兄を補佐した弟の原弥 三郎(胤昭)も厚遇されることになった。以後、土方は原の強力な後援者となる。また、土方は、1868年に東京 府判事、鎮守府弁事に任命され、その後内務大輔、太政官内閣書記官長、宮中顧問官、元老院議官、農商務大 臣、宮内大臣等を歴任した。 2)表1を 作 成 す る に あ た っ て、原(1897)、原(1898)、原(1899)、原(1900)、原(1901)、原(1902a)、原 (1903)、原(1904)、原(1905)、原(1906)、原(1907a)、原(1908)、原(1909)、原(1910)、原(1911)、原 (1912)、原(1913a)、原(1914)、原(1915)、原(1916)、原(1917)、原(1918)、原(1919)、原(1920)、原 (1921)、原(1922)、原(1923a)、原(1924a)、原(1930a)及び原(1933a)を活用した。

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以上のように、主に明治期の保護所運営上の会 計報告の公表は、1906年末に累計の収支状況が報 告されているものの、1898年から1910年末までの 各年の収支を把握することができない。しかしな がら創業から明治期までは「原寄宿舎維持規則」 の「一 賛助員中より若干名を依頼し協議員を定 め舎主の協議に与り事業を輔翼し会計査閲の任に 当るものとす 一 舎主及協議員毎年一回事業及 会計の報告をなすものとす」(原1897:47)が厳 守されてきたはずであり、協議員による事業内容 の協議や会計監査を受けるとともに、その報告が なされていたものと推察される。 では収支に関する報告を年報に掲載しなかった のはどのような理由からであろうか。それは原の 事業の資金は義捐金や寄附金であり、その他財団 や官公庁からの補助金は一切受け取っていないた め、原は資金を拠出した者すなわち寄附者、賛助 員及び協議員に対し報告の義務を負っていただけ で、必ずしも収支状況を新聞等で報告する必要は なかったのである。 しかしながら、その一方で1911年度分からは年 報上で寄附金のみの報告がなされている。その理 表1 創業期から大正12年末までの東京出獄人保護所の財政状況一覧(金額は円、小数点以下は銭と厘で表示) 期 間 単年支出 累計支出 単年収入 累計収入 寄附金・備考 1897年1月31日∼ 同年6月30日 517.63 881.588 1897年1月31日∼ 同年12月31日 934.287 991.636 1898年1月∼ 1905年12月末 記載なし 記載なし 宮内大臣田中光顕200円、土方久元100円、米 国マキム監督25円(以上1899年中) 1897年1月31日∼ 1906年12月31日 24,268.705 24,268.705 1905年天皇皇后より下賜金 1907年1月∼ 1910年12月 記載なし 記載なし 1907年度の臨時寄附金例年の半額に届かず 1911年中 1,799 1912年1月1日∼ 同年12月31日 2,446 日本の皇族及び英国皇族コンノートからの下 賜金は基金に編入 1913年中 1,708.65 1914年中 2,537.50 1915年中 2,542 1916年中 2,117 東京府からの大礼賑恤恩賜記念奨励金は帰国 無資力者の旅費に恵与 1917年中 1,860 東京府より従事者慰藉費用 1918年中 2,772 東京府より参考事業視察旅費 1919年中 1,818 1920年中 2,143 1917年1月1日∼ 1921年12月31日 10,709 1922年中 2,093 1922年10月14日事業を経営する事多年成績顕 著により天皇皇后より金3000円 1897年1月31日∼ 1923年12月31日 71,079.95 71,701.25 March 2008 ―167―

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由についても不明であるが、「東京出獄人保護事 業維持法」の「原胤昭は協議員の検閲を経て毎年 一回事業成績及会計決算の報告を為すものとす」 (原1913b:273)に基づくものであると思われる。 (3)財政状況に関する報告記事について 東京出獄人保護所の財政状況を詳細に把握する ために、「半年報」以降1923年末までの収支状況 に関する記事の中から特筆すべきものを取り上げ て収入と支出の推移を見ていくことにする。 ま ず 原(1897:46―47)は「半 年 報」で 費 用 の 「説明」として「出獄人を保護するは心思行為の 力によるべく金銭の力に頼むべからずと故に重病 者又は老衰廃疾等の全然資力無きものゝ外は一銭 の金、一掬の食だも与へざりしなり。二月中は大 赦当時のこととして同時に数十人を保護致したる ことなれば寄宿当初の三日間及数日間の寄宿にし て帰国したる者などよりは其費を償はしめず」と 述べている。 次に原(1898:45)は「1年報」において会計 全般に関し次のように述べている。 本事業は金銭の力を以て出獄人を保護救拯す るを目的とするものにあらす単に其途を得て 自治自活の良民とならしむるにあるを以て被 保護者の衣食住に係る費用は悉皆彼等自身を して負担せしむ本事業費に至りては大方有志 者の義捐金を以て支弁したるものにして之を 通算するに左の如し 義捐金総額991円63銭 3厘 内支出経常費金266円60銭6厘 創設 費金667円68銭1厘 差引残金57円34銭6厘 ここでいう経常費とは「被保護者自宅訪問工場 巡視車代及通信費、事務雇員俸給及手当、筆紙墨 消耗費及交際贈品雑費」であった。その他に「創 設臨時費」として「備品家具什器購入費、事業維 持方法設計ニ係ル車代通信郵便税、家屋造作向修 繕費、別途費」を要した。 「5年報」(原1902a)には出納に関する記載が ないが、同年に発行された「原保護場被保護人の 食量」(原1902b:50―53)において、被保護者 食 用米量平均一日表、被保護者食費一日表を示して いる。しかし支出総計等の記載はない。 また「10年報」(原1907a)には1897年1月31日 から1906年12月31日までの10年間の収支状況が記 されており、同期間の累計収入、累計支出ともに 24,268.705円となっている。その内訳について原 (1907a:59―60)は次のように述べている。 十年間之を経営したれども、幸に保護下の出 獄人等能く勤勉し、自働自活の道を取りしに より、費金は左の如くにて足るを得たり 寄 附 金20165.745円、雑 収 入4102.960円、現 金 45.772円、基金(指定寄附)1440円、事業費 22782.933円 如上事業費の内建物機械等現 在約1万円の財産あり、由て消耗したる事業 費は、平均一ヶ年約千二百円なり、勿論業務 は妻児の補佐を得て、胤昭之に当りしのみ、 一事務員を置かず、(中略)幸にも一日も病 臥せず一回の診察を受けず、十年を一日の如 く働きたり、 このように原は収支ともに同額としているが、 実際は基金を設けて繰り入れを行い、事業費のう ちの約1万円は建物機械等の財産として評価して いるため、実質的にはこの10年間に事業費として 約12000円を費消したのである。それゆえ1年平 均で見ると、寄附金収入が約2000円あり、事業費 として約1200円を支出したということになる。 「11年報」(原1908)には出納の報告が無い。し かし原(1908:38)は次のように述べている。 四十年に於ける当事業の経済寄附金収入は極 て窮境に立ちしなり是れ免囚保護奨励費予算 成立したること其重なる原因なりと思量せり (中略)免囚保護奨励費の成立するや社会は 直に見て以て当事業も該費額によるべきが故 に最早寄附金を要せざるものと速了せられた るか臨時寄附金は例年の其半はにも達せざり し、本事業の寄附に予約臨時の二種あり当経 費の半は予約他の一半は臨時寄附金によるも のなり就之大方の注意を乞はんとするは、当 事業は官金の給与を受る者に非ることなり、 此の官金は保護所々在地方典獄の指揮を受く る事業に限りて配賦せらるゝ旨訓令あり、本 事業は大方の賛助を得て茲に十余年経営せる 私立事業にして成績上多少とも効果ありたり とせば少くとも此の私立事業即ち官立的御役 所風ならざりしことは要素の一と確認するも のなれば今後ともに本事業は純然たる私立事 業なることを銘記せられ厚き賛助を与へられ ―168― 社 会 学 部 紀 要 第 104 号

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んことを切望す ここで原が述べているように、司法省の明治40 年度予算に免囚保護奨励費3)の科目が新設された ことに伴って、寄附者の中には原がそれを受領す ると見越したために寄附を取りやめてしまう者が 少なくなかった。それゆえ原の事業に対する寄附 金は例年の半分の額にも届かず、まさに財政的窮 境に立ち至ったのである。しかし原は自己の信念 に基づき免囚保護奨励費を受け取らなかった。そ の理由は第一にその奨励費が保護所所在の地方典 獄の指揮を受ける事業のみに与えられたからであ り、第二に原が司法省の「懲罰主義4)には絶対反 対意見を固持して」(紀本1939:96)いたからで ある。 原の目指す保護事業とは、保護所に対する「同 情者」からの寄附金のみで運営し、「殊更出獄人 に区別を立て保護の仕甲斐のある者はこれを保護 し、保 護 す る の 甲 斐 が な い 者 は、保 護 し な い」 (宮城1942:35)、つまり真に保護の必要な者だけ を保護するものであった。そして「被保護人と主 管者との間を密着ならしめて、一人を収容保護い たしますれば、終りまで彼を見て行く、彼が妻を 迎へた、子供が生れた、病気である、店受人も身 元保証も」(原1907b:46)すべて原が引き受けて いく、つまり一旦保護を引き受けた以上はその人 の生涯を通して支えていくという保護方法を実施 したのである。 その一方で、地方典獄の指揮の下に保護を実施 するということは「出獄人でありさへすれば、誰 彼 の 区 別 な く 保 護」(宮 城1942:35)を 引 き 受 け、場当たり的な「簡易の保護方法」(原1907b: 47)、すなわち「出獄人が放免されて来れば、兎 に角仕事場に案内をする、職業を紹介する、又差 当り仕事着物の無い者に着物を与ふる、又は帰国 旅 費 を 与 へ る 等」(原1907b:47)を 行 う こ と で あった。それゆえ原は免囚保護奨励費の支給を受 けることを拒絶し、独自の保護方針を貫いたので ある。 さらに「18年報」(原1915:13)、「19年報」(原 1916:6)、「20年報」(原1917:11)、「21年報」(原 1918:15)、「22年 報」(原1919:8)に は、い ず れ も当年中の寄附金額と「当所には官公庁其他三井 家の提供に係る免囚保護財団5)等の奨励助成金等 無く本金は援助諸家寄贈の浄財にのみよれるもの 3)免囚保護奨励費とは、司法省から出獄人保護団体に支払われた交付金であり、1908年には33の団体に対して総額 1万円が支払われた。免囚保護奨励費の創設の経緯については次のとおりである。五期にわたって衆議院議員を 勤めた井上彦左衛門が、1906年に静岡県出獄人保護会社の専務理事に就任した。井上は翌07年に貴衆両院に対 し、免囚保護事業の国費建設を建議した。同年3月に貴族院で採択され、司法省の07年度予算に「免囚保護事業 奨励費」の科目が新設され、1万円が計上されたのである(更生保護50周年史編 集 委 員 会2000:146―147、 154)。しかし、原は自らの信念に基づき、これを受領せず、独自の保護事業を実践したのである。 4)原(1896:51―52)は兵庫仮留監在任中の1886年に「神戸諏訪山の茅屋に筆を禿し当時念々黙する能はざりし所 感を述べ監獄の改良せられん事を望」んで『人口八萬金子三百萬』を著し、「知を辱ふしたる其筋の方々へ呈し 高見を煩はした」が、「之を草するに至りし動力は懲戒主義なる小冊子当局者の間に現出し行刑の方法は一に懲 戒によらざる可らずと説く者」があり、その影響のためか、当時の「行刑の方針、それこそは懲戒に偏倚し」て いたと述べている。すなわち原はその当時から内務省監獄局が懲戒主義という方針の下に犯罪者を罰することに 重きを置いていたことに対して極めて批判的であった。それは懲戒主義のみを推進しても「年毎に囚員を増加す その原因多方あるは云ふ迄もなけれども何はとも再犯者の減少せざるは監獄改良の真相を得たるものと云ふを得 ず」(原1896:53)、すなわち受刑者に罰を与えるだけでは矯正の効果は乏しく、その結果再犯者を増加させて収 監者数が年々増加する一方であったからである。監獄局が司法省に移管された後も、懲戒主義が踏襲されたた め、原は同省と距離を置くことになったのである。 5)三井家の提供に係る免囚保護財団とは財団法人輔成会のことである。財団法人輔成会は1914年8月に三井八郎次 郎が私財75万円を寄附して設立され、中央保護会の事業を継承し、全国の免囚保護事業の指導、連絡、統制にあ たった。その事務所は創立後暫時監獄協会内におかれ、会長には当時の司法次官鈴木喜三郎が就任した(更生保 護50周年史編集委員会2000:148)。その私財75万円とは、三井物産がヴィッカース会社代理店として軍艦金剛の 建造を請け負った際に、同社より手数料として115万円を受領し、そのうちの40万円を海軍の松本中将へ贈賄し た残りの金であった。そのため、三井はその75万円の処置に苦心し、免囚保護事業に寄附することを決め、監獄 協会へ供託し、財団法人輔成会として登記した。それゆえ、当時の『救済研究』には「該七十五万円が不浄財な りと云はるゝ丈けに、斯る事業に寄附するの可否に就き世論頗る喧!を極むるものあり」(救済研究発行事務所 1914:64)と記されている。また中央保護会とは1913年に監獄協会によって設立された。その設立にあたって同 協会は「保護思想普及を図り、社会をして斯業の価値を認識せしめ、出獄人に対する一般の同情を喚起し、而して March 2008 ―169―

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なり」(原1915:13)と同様の趣旨のことが述べ られている。 また原(1925:19)は創業から1923年末までの 会計状況を総括して次のように述べている。 会計収支 自明治三十年至大正十二年末二十 七年間総括 収入金総額71701円25銭 内訳 寄附金64814円32銭 予約寄附6)8円 念寄附9846円 随時寄附27160円32銭 雑 収 入5676円93銭 預金利子1412円77銭 工賃其 他218円91銭 市 区 改 正 神 保 町 家 屋 移 転 料 4045円25銭 負債1210円主管者手当未払の分 支出金総額71079円95銭 内訳 業務費保護 費 寄 宿 食 費 事 務 費 等43426円56銭 主 管 費 13400円 主管者手当は当初明治三十年より 三十五年迄実費支出 同三十六年より年額 600円、大 正 九 年 よ り 年 額800円。家 屋 費 10200円 借入利子2000円39銭 震災救護臨 時 費(在 京 旧 被 保 護 者)2051円 年 末 残 金 621円30銭 このように負債が主管者手当(原の賃金)未払 分だけというのがいかにも原らしい収支状況であ る。実際に原は一着の黒服を色が褪せれば裏返 し、また褪せれば色揚げをするというような質素 な生活をしていたのである(相田1942:78)。し かし原(1933b:19)は「萬事を質素にしたから、 妻子には随分と不自由をさせた、(中略)唯だ一 つ悲哀を感ずるのは共に苦労した妻が長の年月リ ヨマチスに罹って病臥し、此の数多くなった保護 カードをも見ず、我が家族の繁盛も見ずに昭和四 年永眠した事である」と述べている。当時80歳を 迎えた原は長年に亘って共に保護事業に携わり、 家庭を支えた妻に対し感謝と謝罪の思いをこのよ うに語ったのである。 (4)原の財政運営観 では原の財政運営観とはどのようなものであっ たのだろうか。原(1930a:12―13)はそれに関し 次のように述べている。 わたしが社会事業に使った金は些少のもので あった。勿論官公金は使はなかった。今では 官公衙に社会事業に使用させる金も有って、 各事業へは夫々交付されてゐるが、わたしは 初めから一文も貰はうとしなかった。わたし は思ふに、個人の志に出た斯かる人道愛の同 情には、分量は無い、自分のやれるだけやれ ば宜いのだ、何も他の助成をうけてやるには 及ばないから、助成して貰ふ必要はないと 思ってゐたのである。又奨励のためと云ふ が、わたしはまだ世間で気もつかない時代か らやってゐたのだ。今更奨励でもあるまいと 思ってゐる。但し皇室の御下賜だけは別段で 謹 拝 し て 居 る。(中 略)二 十 七 ヶ 年 の 経 費 を、収容人頭に割当すれば被保護人一人当 り、金七円七十五銭之を大正十二年の監獄費 額に照すと囚徒一人当り(一ヶ年)金五百五 十円 是は極めて大雑ぱな比例であるが、兎 にも角にも囚徒にして一ヶ年に五百五十円の 監獄費をついやして同胞一人を苦しめ、其揚 げ句の端に、前科者で又も犯罪されて社会が 苦しむよりは、七円七十銭で、保護して自立 自営させ、悦ばせてやった方が遥かましだと 私は信じてゐる。 ここで述べているように、原は高いコスト意識 を持っていたため無駄に公金を使用すべきではな いと考えていた。さらに原(1930a:15)は企業 からの寄附金を受けとらなかった理由として「社 会事業は社会共存の必要、弱者保護のため生じ 来ったものであれば、経費の如きは社会自ら供給 すべきものであって。営業をして獲た利得の残 余、云はば営利の粕糞を分けて貰って、黄金に頭 を下げ乍ら私の事業をすることは出来ません」と 述べている。原はあくまでも事業に賛同する個人 の人道的な愛に基づく寄附金のみによって運営し たいと考えていたのである。 他の一方に於ては各保護機関を援護して其基礎を鞏固にし併せて当局者の指導と養成に努め以て執務の改善を促 すと共に内外連絡の便を図り有無相通し、緩急相援ふの途を開く」(監獄協会1913:2)とその目的を述べている。 6)原(1925a:19―20)は「保護所の経費は、一般の寄附金に因る」とし、加えて「予約寄附者」とは「近衛、二 條、毛利の諸公 鍋島、前田、細川、徳川、蜂須賀、大隈の諸侯 柳澤、徳川、松平、小笠原、阿部、島津、廣 澤、土方、田中の諸伯 清浦、岡部、澁澤。小笠原、波多野、三島、青山、大村、山内の諸子 毛利、小早川、 森村、藤田、三井、長松、坂谷の諸男、其他岩崎、村井、福島、下田、澁澤、菊池、三井の緒家」であると述べ ている。 ―170― 社 会 学 部 紀 要 第 104 号

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2.大正期以降の保護実績

(1)大正期の保護実績一覧 原は創立以来東京出獄人保護所の保護実績を定 期的に公表していた。保護実績の公表は自らの保 護実践の状況を明らかにすることによって社会一 般や事業への寄附者及び支援者への説明責任を果 たしたものである。この他にも警察等の求めに応 じて随時保護の実態を答申していた。ここでは原 が運営した東京出獄人保護所の大正期以降の保護 実績を見ていくことにする。なお創立時から明治 期の保護実績に関しては片岡(2007a)を参照い ただきたい。 原が公表した保護実績に関するデータの中か ら、1912年の保護実績を公表した「16年報」より 関東大震災当日(1923年12年9月1日)までの保 護実績を報告した「27年報」までのデータ7)及び 「収容被保護人の累年員数」(原1923c)に基づい て一覧表(表2)を作成し、大正期以降の保護実 績を確認していくことにする。 まず上記リストの各項目につき原(1915)に基 づいて説明する。「年月」とは発表年月をいい、 例えば1913年を13年と略記する。「年報名」は発 表年報の題目を表す。「総数」は1897年1月以降 の累計の保護者数である。なお、東京出獄人保護 所設立以前、すなわち83年より96年末日までに原 の自宅で保護した305名は、24年発表の「27年報」 の総計までには含まれていないが、30年と31年末 分に含まれている。「在保」は「保護所に寄宿す るもの」である。「在京」は「在京就職奉公又は 商工業自活者」の数である。「地方」は「郷里に 帰 り 就 業 自 活 す る 者」の 数 で あ る。「死 亡」は 「死亡者」の人数である。「不明」は「現在不明」 すなわち基準日時点で所在不明者の数である。 「逃亡」は保護所から逃亡した者の数である。「再 犯」は保護終了後に「再犯して入監したる者」の 数である。「機関」とは「警察其他の機関へ転移 7)表2を 作 成 す る に あ た っ て は、原(1913a)、原(1914)、原(1915)、原(1916)、原(1917)、原(1918)、原 (1919)、原(1920)、原(1921)、原(1922)、原(1923a)、原(1924a)、原(1930a)及 び 原(1933a)を 活 用 し

た。 表2 大正期以降の東京出獄人保護所の保護成績一覧 年月・年報名 総数 在保 在京 地方 死亡 不明 逃亡 再犯 機関 軍隊 単年 成績 13年01月16年報 1504 23 290 555 145 213 76 126 338 72 14年01月17年報 2005 10 142 260 1 36 8 12 32 501 77 15年01月18年報 2776 17 312 243 1 115 33 26 19 5 771 77 16年01月19年報 3514 12 276 267 5 118 22 22 16 738 77 17年01月20年報 4197 8 318 157 1 136 31 21 11 683 76 18年01月21年報 4954 10 238 256 2 174 20 32 20 5 757 75 19年01月22年報 5785 9 329 243 2 159 16 49 18 6 831 75 20年01月23年報 6308 9 215 136 0 113 17 11 20 2 523 75 21年01月24年報 6530 7 57 77 0 43 18 20 222 74 22年10月25年報 6780 9 95 65 0 40 16 22 3 250 74 23年02月26年報 7051 17 117 51 2 42 19 12 8 3 271 74 24年02月27年報 7179 7 48 29 0 18 8 7 11 128 74 30年03月 9923 31年末まで 9991 March 2008 ―171―

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せしめたる者」の数である。「軍隊」は「軍隊に 在る者」の数である。「単年」は前年1年間の新 規被保護者数である。ただし1924年発表の「27年 報」に関しては23年9月1日に関東大震災により 保護所建物が全焼したため、保護実績は23年1月 1日から9月1日午前中までの保護人員を基に算 出 さ れ て い る。「成 績」と は 不 明 者 数、逃 亡 者 数、再犯者数の合計を累計の保護者数で除したも のである。なお、上記の項目のうち、単年の保護 者数と保護成績は筆者が計算してリストに書き加 えた。その保護成績の算出にあたっては、原が主 著『出獄人保護』(原1913b)等で通常用い た 数 式(原1912:76、原1913b:249、原1922:96)、す なわち分子である「現住不明者、保護所逃亡者、 保護所離退後の再犯者」(原1913b:249)を分母 である保護人員で除する方法を使用している。 次いで、表2の項目のうち、年報で示された数 値と異なるものがあるので、それについて説明す る。原は「16年報」(原1913a)において1912年末 の保護総計を1428人とし、12年単年での保護者数 を338人としているが、筆者はあえて総計を1504 人とした。その根拠は二点あり、第一に前年の年 報である「15年報」(原1912)の被保護者の累計 人数に338人を加えると1504人となること、第二 に原が「収容被保護人の累年員数」(原1923c)に お い て1912年 単 年 の 被 保 護 者 数 を338人 と し、 1922年末で総計7051人を保護したと述べているこ とである。そのた め 上 記 表2の「16年 報」の 単 年 の 数 値(前 年 新 規 被 保 護 者 数)338人 は 原 (1923c)の12年単年の収容人員338人と一致して いる。 (2)保護成績の捉え方 上記表2が示すように、原が公表した保護実績 は「16年報」で「(自三十年一月至大正元年末日) 被保護出獄人総員」とその内訳が記され、「17年 報」以降は「当一年間」の「被保護者数」とその 内訳を示している。つまり「16年報」のみは1897 年以降の累計数で捉え、「17年報」以降は単年の 数値で捉えている。 ではなぜ原は「17年報」以降単年の保護実績の みを示すようになったのであろうか。そうした捉 え方の変更理由を原は年報上で明らかにしていな い。しかしそれには原が厳格に行ってきた保護成 績の算出方法が妥当性を欠くようになってきたと いうことが関連していると思われるため、以下に 説明を加えたい。 原(1912:76、1913b:249、1922:96)は 通 常 保護の成績を創業以来の累計数字を基に算出し、 概ね良7:不良3と評価していた。しかしながら 原(1913b:264―265)は12年末までの保護実績の 捉え方について以下のように述べている。 保護期間は如何なる時を以て終了期と為す可 きや、余が従来方針とせる所は無期限にし て、年々の新収容者を総員に累計し、総員の 異動即ち居住の移転(市内或は地方)死亡、 現住不明、逃亡或は再犯等ある毎に、之れを 改算して年末の現在成績と為せり。而して此 の方法を以て調査し来れば、年々の統計上現 住不明、及び再犯の如きは、追次其の数を加 ふるものにして、従って保護の良成績を減ず ること著しきの観あり。(中略)故に右の如 き観察法は、保護終了後、数年を経過し保護 事跡に何等関係なき原因より生じたる犯罪、 及び現在不明をも、混同して良成績を減殺 し、成績の光輝を没却するものなり。 ここで述べているように、原は創業以来の累計 数値で保護成績を捉えてきたが、その方法では年 月を経るに従い、保護の内容と関連のない原因で 不良の成績を生じさせることが多くなり、妥当な 成績の捉え方とは言い難くなってきたのである。 そ れ ゆ え 原 は『出 獄 人 保 護』(原1913b)の 中 で、保護期間を三年間と定め「収容時の第一年間 は職業の選択練習及び社会生活に馴致する時代、 収容の二年目は職業の確定し、営業生計状態に就 き、衣服夜具及び貯金等を準備する時代、収容の 三年目は生計確定し、構家迎妻し、親族間の和解 を為し、或 は 郷 里 に 復 還 す る 時 代」(原1913b: 268)とした。しかし、その保護期間とは、被保 護人が保護所で生活をする期間ではなく、原が 「再犯の虞れ無かる可きを確認したるとき」(原 1913b:245)までの期間、すなわちその被保護者 が無事に社会人として生活していくことが可能で あると原が確認したときをいう。 では保護期間を三年間とした場合にどのような 保護成績となるのであろうか。原が自らの保護成 ―172― 社 会 学 部 紀 要 第 104 号

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績を分析した「千人統計」8)の保護期間三年を経 過した場合の保護成績は次のようになる。「第二 期収容時より三ヶ年目を保護終了と見て調査すれ ば良成績百分の七八、九 不良成績百分の二一、 一(現在就業七八九人 現住不明一一四人 逃亡 三四人 再犯六三人)」(原1913b:267)であり、 すなわち成績良が78.9%、成績不良が21.1%とい うことになり、成績良は80%に近い。 しかしながら、たとえ保護期間を三年間として 保護成績を算出したとしても原の成績の捉え方は あまりにも厳格であったと思われる。なぜなら原 の場合成績不良とは単に再犯者のみではなく、現 住所が確認できない者や保護所から逃亡した者も 含まれたからである。そこには成績良と不良の境 界線をどこに引くのかという問題が存在してお り、原(1902a:51)はそれに関して次のように 述べている。 本事業保護の次第は普通の出獄人保護方法と 異なり一度収容したる者は終身関係を有し交 際を絶ず不幸にも音信不通となりし者は表中 の居所不明者に算せり故に此数員中には無筆 にて音信を欠くものあるべく或は死亡者もあ るべし、又表中再犯者の数に於ても再犯の原 因は全く保護事業に関係無き者もあれば之を 保護成績の不良と認め難きもあり故に此表を 以て直に普通の出獄人保護事業の成績表と対 照すべからず ここで原が述べているように、東京出獄人保護 所の成績は原独自の成績の捉え方に基づいて作成 されているため他の保護団体の成績表と単純に比 較できないのである。 そのため仮に「再犯者」のみを成績不良と捉え たならば保護成績が公表されている1897年1月31 日から1923年9月1日までの総保護人員が7179人 で、同時期の再犯者の累計が360人のため、再犯 率は約5%となる。ゆえに原はその生涯に1万人 を超える釈放者を保護し、そのうちの9割以上の 人々に再犯がなかったということになろう。 さらに上記表2のとおり保護実績の定期的な発 表は「27年報」が最後となっているが、それは後 述するように関東大震災による火災により保護所 建物及び家財一切を焼失してしまったことがその 原因であると思われる。またそれ以降の保護実績 については、原(1930a)に1930年3月時点分の 保護人数、さらに原(1933a)には1931年末まで の保護人数が公表されている。 (3)大正期の保護事業の特色 こ こ で は「16年 報」か ら「27年 報」を 基 に し て、東京出獄人保護所の大正期における保護事業 の特色と各年の保護実績の詳細を見ていくことに する。 東京出獄人保護所の大正期における保護事業の 特色としては、明治期と比較して大幅に新規被保 護者数が増加しているということが挙げられる。 例えば、創業期である1897年単年の296名を除い て、2年目以降は40、58、45、63、50、26、75、 115、97、72、87、47、46、49と「2年報」(原 1899)か ら「15年 報」(原1912)ま で の14年 間9) の平均新規被保護者数は62名であった。しかしな がら、表2においても明らかなように「16年報」 (原1913a)から「23年報」(原1920)までの新規 被 保 護 者 数 は338、501、771、738、683、757、 831、523でその平均は約643名となり、明治期に 比べて10倍以上に増加しているのである。 ではこのような大正期の新規被保護者数の大幅 な増加の原因はどのようなものであったのだろう か。その理由について、原(1914:10)は「17年 報」において「先年に倍加して当一年間に於て五 ママ 百五人の多数を保護したるは主として恩赦出獄者 及び微罪釈放者を検事局より浮浪罪拘留放免の青 少年を警察署より寄托なられたる者を保護したる 8)千人統計の「千人」とは、原が主著『出獄人保護』(1913b)の中で自らの保護実践を分析した際にサンプリン グした人々をいう。それについて原は次のように述べている。「明治三十年一月、東京に当保護所を設置して以 来、大正元年十二月に至る、十七年間に保護したる出獄人は、千四百二十八人にして、内男千二百四人女二百二 十四人を算せり。(中略)余は記録に経歴の詳かなるものにして、且つ余の記憶明確なるものより、研究資料に 適当なる、男子出獄者一千人を抜粋し、統計上より、各部面の研究を試みたり」(原1913b:42―43)。 9)「2年 報」か ら「15年 報」ま で の 新 規 被 保 護 者 数 は、原(1899)、原(1900)、原(1901)、原(1902a)、原 (1903)、原(1904)、原(1905)、原(1906)、原(1907a)、原(1908)、原(1909)、原(1910)、原(1911)、原 (1912)から引用した。 March 2008 ―173―

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に因れり」と述べている。その傾向は「23年報」 まで顕著であり、「18年報」(原1915:12)、「19年 報」(原1916:6)、「20年報」(原1917:11)、「21年 報」(原1918:15)、「22年報」(原1919:8)におい ても、被保護者激増の原因として微罪起訴猶予者 浮浪拘留釈放者の保護を大多数委託されたためで あるとする旨が記されている。 これより大正期の年報で特記すべき項目につい て 取 り 上 げ て い く こ と に す る。「17年 報」(原 1914:11)によると、単年の新規被保護者501名 の内訳について「五百一人中の四百二十五人は二 十五歳以下」で、そのうちの「百五十一人は十 六、十七、十八才」であったとし、それらの者た ちは「他の地方より東京に入り込み来りし者」で 「漫りに都会に憧憬し家庭を離れ」た者であった ため、原は彼らの親族と連絡をとり、「其大半を 郷里に送還せしめた」のであった。 「21年報」(原1918:15)は微罪起訴猶予処分を 受けた者や浮浪者の保護について次のように述べ ている。 微罪起訴猶予処分の効果は初行犯者のみなら ず累犯者に於ても著きを認む其筋の調査によ れば十二三萬人に対して再入監者は七分を超 えずと当所に収容する者は引取人無く保護を 要する者のみなれども効果は正に良好を示せ り 警務の精励 浮浪者拘留処分後の保護浮 浪者と云へば罪跡軽微に見ゆれども内容を精 査すれば単純なる家出浮浪者あれども、多く は盗罪未遂者なり、(中略)是れ皆な警網に 罹らざれば盗犯者となる輩なり、 すなわち微罪起訴猶予処分となった者を保護し て更生させることは入監させるよりも効果があっ た。さらに原が保護した浮浪者は単なる家出人だ けでなく、その多くは「盗罪未遂者」であったた め、彼らを適切に保護することは意義深いことで あった。 「22年報」(原1919:8)は「犯罪予 防 の 機 宜 敏 活なる処分により近年更に検事局警察署の当所へ 寄せらるゝ被保護人の数員増殖は保護機関の必要 を認めらるゝの深甚を示すものなるにより」と述 べている。すなわち1918年の新規被保護者数は 831名で原の年報 上 で は 最 多 と な っ た。こ れ は 「検事局警察署」が原の保護の実績とその意義を 認めて原に保護を委託したため、被保護者数が激 増したのである。このように原が「浮浪罪拘留放 免の青少年を警察署より寄托なられたる者を保 護」(原1914:10)するようになった背景には、 1911年に浮浪人研究会に参加したことがその契機 となっていると思われる。当時東京朝日新聞記者 であった鈴木文治が結成した同会に、原の他、小 河滋次郎、山室軍平、後の丸山鶴吉警視総監及び 東京市長堀切善次郎らが参加し、慈善事業家と警 察の連携の下に浮浪者の社会復帰を支援した(片 岡2007b:94)。それゆえ原は同会における警察関 係者との交流の結果、警察からの委託を受けて浮 浪者の保護を行うことになったのである(片岡 2007b:95)。

3.関東大震災後の東京出獄人保護所の

状況

前述のように、1923年9月1日、関東大震災が 発生し、東京出獄人保護所の建物及び家財は火災 により焼失した。その当日の午前中に原は一名の 保護を引き受け、その人物は同年最後の新規被保 護者となった。 「27年報」(原1924a:6)には、被災時の状況の 詳細が次のように記されている。1923年1月1日 か ら9月1日 ま で の「新 収 容 人 員」は「128名」 で、被災状況については「保護所全焼 神田元柳 原町和泉橋南脇所在で昨秋の震火災に最も早く焼 けました常時寄宿被保護人十名、無事避難、事業 上の要書は辛くも幸に搬出し無難にて事業経営に 些の支障もありません」と記されている。すなわ ち「事業唯一の財産であり生命である七千五百有 余の被保護人身分カード緊要書類は、猛火に戦っ て防禦し安全に保持」(原1925a:4)したのであ る。保護所建物は、とりあえず焼けたトタンで小 舎を建て、後にバラック建とした。保護実務に関 しては、新規の保護受け入れよりも、被災した元 被保護人らの世話に明け暮れ、「仮舎或は就職、 或 は 治 療、或 は 郷 里 に 帰 ら す 等 応 急 救 護 を 与 へ」、「人数も多いだけ事故も多く日夜奔走」する 状況であった(原1924a:6)。 また保護所罹災に際し、1923年9月16日、下賜 金千円が東京・田端の原の仮寓に届けられた(慶 ―174― 社 会 学 部 紀 要 第 104 号

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福会1926:10)。さらに24年2月以後毎年宮内省 奨励金、同年7月4日には政府より復興資金一万 円が交付され、翌25年4月には恩賜財団慶福会10) よ り 事 業 助 成 金 が 交 付 さ れ た(慶 福 会1926: 11)。原はこれらを復興資金に充当して保護所を 新築した。そして25年4月に完成した新しい保護 所に「慶福館」と名づけ「過去の小史を綴って之 を公に」(原1925a:1)するために小冊子『出獄 人保護』(原1925a)を発行したのである。

4.原と司法省との関係

原は自己の信念に基づいて官公庁や財団法人輔 成会等からの助成金を一切受け取らず、保護に関 しても「保 護 す べ き 者 を 保 護 す る」(原1907b: 40)という姿勢を堅持したため、あらぬ誤解を受 け、不当な非難を浴びることになった。ここでは 原と司法省との関わりを見ていくことにする。 宮城長五郎(1878―1942)は1922年に保護課長、 39年には司法大臣となった人物であるが、その宮 城(1942:34―35)は原のことを次のように述べ ている。 早くから翁の名前だけは聞いてゐた。しかし 私の聞いてゐたのは令名と云ふものではな かった。原さんは、保護しないでもよいやう な者をよりぬいてそれに手をかけ、それで保 護の成績がよいと、世に吹聴してゐるが、保 護しなければならない者には手をかけない。 (中略)どちらかと云ふと、令名ではなく、 醜名と云ふ部類で、私は原翁の名前を知って ゐたのである。 原もまた自らの保護方針である「保護すべき者 のみを保護する」というやり方がこのような誤解 を受けていることを承知しており、宮城に対して 「司法省では、出獄人が折角門を叩いても、原は 保護しない。たまに保護したかと思ふと、それは 保護しないでも立派に世に立って行けるやうな者 ばかりで、それで成績がよいと云ふて居るとて、 私の事業に不足を言ふておるのであります」(宮 城1942:36―37)と述べたという。しかも司法省 が「出獄人でありさへすれば、誰彼の区別なく保 護しなければならない」(宮城1942:35)という 方針をとっていたためにそれまで原はほとんど同 省に出向いたことがなかった。 しかし原は保護課長に就任したばかりの宮城が 出獄人保護に関しどのような考え方を持っている のかを尋ねたいと思い「久し振りで司法省の門を 潜ることになった」(宮城1942:35)のである。 その宮城もまた思うところがあってかねがね原の 意見を聞きたいと考えていたから原と面談するこ とにしたのである(宮城1942:35)。 宮城は原に保護事業の実務について尋ね、原は 自身の保護方法を説明した(宮城1942:35)。そ の後原は宮城に「保護の見込の立つ者だけ保護さ ママ せ る 考 で あ り ま す か」(宮 城1942:37)と 問 う た。宮城は原に「出獄人だから保護するのではな い。改悛して出獄したから保護するのである。勿 論改悛しない出獄人は保護の限りではない」(宮 城1942:38)と答えた。こうして両者の見解が一 致したため「原翁の顔色は晴々してゐた。その日 社会事業や保護事業の話に花が咲いた。その後も 度々来ては有益な実話を物語り、事業上私を助け て呉れた」(宮城1942:38)という間柄となった のである。それゆえ宮城が当時の出獄人保護事業 を統括する保護課長となり、さらに司法大臣と なったことが、原の出獄人保護事業に対する評価 を正当11)なものとすることに貢献したものと思わ れる。 10)恩賜財団慶福会について、『法律新聞』2578号(1926年8月15日7頁)を参考にして説明する。恩賜財団慶福会 は1922年9月28日の皇太子(後の昭和天皇)御成婚を記念して、社会事業助成のための100万円の下賜金を基に 同年2月に設立され、閑院宮が総裁を務めた。事業としては、社会事業に対する補助金の交付、社会事業の臨時 的施設に対する融資、私設社会事業従事者の表彰及び終身奨励金(恩給の一種)の支給等を行った。基金は恩賜 金の他、1925年度に内務省より震災善後施設設備費として150万円の交付、原田積善会より毎年15万円計300万円 の寄附があった。原は1926年より終身奨励金(60歳以上の者毎年500円以内、70歳以上は年700円以内)の支給を 受けることとなった。同様に、留岡幸助、ハンナリデルら10名も26年よりその支給を受けた。 11)原は1942年2月23日に亡くなり、その訃報は『続司法沿革誌』(法務大臣官房司法法制調査部1963:136)の「昭 和十七年二月二十三日」の項に「司法保護事業の先覚者原胤昭(九十歳)死去 同氏は、かつて言論事犯により 入獄して以来、免囚の生活に同情し、司法保護事業の必要を強調して、独力で同事業を起こし、今日の司法保護 事業の基礎を築いた功労者である。この功績により、二月十六日遺族に対し天皇、皇太后陛下から祭祀料として March 2008 ―175―

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5.東京出獄人保護所の財団法人化とそ

の解散

前述のように、1923年9月1日の関東大震災に よる火災で保護所の建物が焼失してしまったが、 皇室をはじめ各方面からの見舞金や救護金の支給 があり、それらの資金をもとにして保護所を新築 した。この時財政的にはいわゆる焼け太りの状態 となったため、財産管理上の公私の区別を明確に し、原が100才になった後の相続及び納税の問題 の他、さらなる事業の発展や社会的貢献のため に、東京出獄人保護所を財団法人化すべきである と養子の原泰一ら周囲の人々に勧められ、1927年 に財団法人東京保護会が発足したのである(原 1933b:6)。 しかしながら原自身は出獄人保護の仕事は原胤 昭という血の通ったひとりの人間が行うべきであ り、血の通っていない法人が携わるべきではない と考えていたため、財団法人化には相当躊躇した のであるが、「老いては子に従え」だと納得して 財団法人化に踏み切ったのであ る(穂 積1942: 56)。東京保護会は、出獄人の保護、児童保護、 福利事業、小住宅供給を行い、理事長に原胤昭、 常務理事に原泰一、理事に穂積重遠、前田多門、 越英之助、末弘厳太郎が、協議員には清浦奎吾が 就任した(原1933b:19)。 その後1932年に80歳となった原は被保護者数が 1万人に達したことを契機として新規保護の引き 受けを廃止することにした(中央社会事業協会 1932:20)。保護所建物である東京保護会の慶福 館は地方在住の社会事業家や方面委員が上京の折 に宿泊するための施設として利用されることにな り、社会事業会館宿泊部となったのである(中央 社会事業協会1932:20)。 以後原は新規の被保護者を引き受けることをや めたが、それまでに保護した人々の消息を尋ね安 否を気遣う仕事を続けた。しかし原は耳が不自由 になり、ついには老齢のために仕事を続けていく ことが困難になっていった。原はたとえ法人化し たとはいっても出獄人保護事業は原胤昭個人の仕 事であり、胤昭一代限りの仕事にしようと堅く決 心していた(相田1939:89)。それゆえ原胤昭の 死とともにその事業も終焉を迎え、東京保護会の 事業が継承されることはなかった。 また米寿を迎えようとする原の長寿を祝い、こ れまでの労をねぎらうために「原翁記念会」を開 催しようと、窪田静太郎、大久保利武、小橋一 太、森村市左衛門、穂積重遠、泉二新 熊、松 井 茂、添田敬一郎、中川望ら有志30名ほどが企画を 練っていた。この「原翁記念会」の計画を耳にし た原はその開催を固辞した(相田1939:90)。し かし発起人たちは原のために何か記念になること を行いたいと考え、原に意向を尋ねたところ、財 団法人東京保護会を解散し、整理してほしいと答 えたのである。それに応えて、穂積や紀本参次郎 らが、財団法人東京保護会の解散に関する事務を 執り行ったが、財団法人東京保護会の寄附行為に 解散の場合の事由の規定がなされていなかったた め、民法68条第1項第2号の法人の目的たる事業 の成功又は成功の不能であるとし、司法省の許可 を得て財団法人東京保護会は1938年10月31日を もって解散となった(紀本1939:94)。さらに原 はその財産の大半を生存している被保護者の自立 資金として分与し、一部を社会事業関係団体に寄 附した。また保護所建物は被虐待児童の保護事業 にも使用されることになった。

6.原の保護事業観と社会事業観

では原は出獄人保護事業や社会事業についてど のように考えていたのだろうか。原は出獄人保護 事 業 に 携 わ る こ と を「道 楽 で、面 白 い」(原 1912:110)ことだと述べている。また「被保護 人の中には東京市内に地所家作を有ち堂々たる店 を有って奉公人も使って居る身分の者もある。 (中略)私もこんな事をみては喜んで居る」(原 1924b:115)と述べ、被保護者の更生していくプ ロセスを楽しんでいたのである。 加えて原(1912:111)は更生した元被保護者 金一封が下賜された」と記された。同書は法律の公布や人事情報などの掲載が主体であり、民間人の訃報が載る ことは極めて異例のことであった。ゆえに原はその死に際し「司法保護事業の基礎を築いた功労者」として司法 省に認知されたのである。 ―176― 社 会 学 部 紀 要 第 104 号

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の親が原に感謝の意を表することを「何寄りの報 酬である無比高貴な賜」であると思い、「斯う云 ふことで私は度々心を動かされるのであります、 喜びを受けることが目的ではないけれども、此所 に私の心と云ふものは動きます、実にそれは人間 の情として動かざるを得ない」と述べている。 しかし一万人を超える人々の更生を支援し他に 比類なき実績を挙げていたにもかかわらず、原は 自身の保護事業の実践に満足することはなかっ た。42年 間 に 及 ぶ 自 ら の 実 践 を 振 り 返 っ た 原 (1924b:111)は次のように述べている。 私は早くより、基督教の信念をもって居た結 果、自然その人道的な愛が唯一無二の信条と なったといふことは争はれないことではある が、それにしても、その信念をもって、尚科学 的の根拠をもった方法によったならば、一層 の成績を挙げ得たことだらうと思ふのである。 すなわち原は「基督教的人道愛」のみをもって 釈放者の保護に携わっていたことを反省している が、実際はそうではなかった。原は信条である 「人道的な愛」と長年の保護実績から得た知見や 職業的勘に基づく実践方法のみに甘んじるのでは なく、科学的な根拠に基づく効果的な実践である ことを目指していたのである。それに関して、若 木(1951:111)は「翁の指導原理は、精神的 な 面に加えて、科学的な要素も絶えず取り入れるこ とを忘れてはいなかったことに注意しなければな らない」と指摘し、精神医学者の三宅鑛一、杉田 直樹、寺田精一、法学者の穂積陳重12)重遠親子、 小河滋次郎といった人々から最新の知識を学んで いたと述べている。 また原(1925a:24―25)は「社会事業とは、社 会組織による社会の欠陥を改善する諸種の事業 で、(中略)社会事業無からしむるにあるのだ」 と述べている。長年に亘り支援を必要とする人々 の生活改善を実践してきた原が「社会の欠陥を改 善する」と述べている点が興味深い。 さらに原(1924b:115)は刑余者や彼らを取り 巻く社会、地方自治体、国家を以下のように捉え ている。 実に彼等は社会の犠牲者であって最も不幸な 人である。即ち彼等は社会的欠陥の生んだ犠 牲者であって、彼等の罪業も、決して彼等自 身のみの罪とは断ぜられない。(中略)社会 は彼等を目するに「前科者」の蔑称をもって 彼等を人間扱ひにしないのである。又地方政 府のこれに対する態度を見るに、余りに冷酷 であり、余りに機械的である。国家は彼等を 罰する術を知るのみで、彼等を育む術を知ら ない。 すなわち原は刑余者を「社会の犠牲者であって 最も不幸な人」であると捉えている。当時は貧困 ゆえに犯罪者となった者が少なくなかった。そし て収監され、刑期を終えた彼らが保護を受けて更 生した後に就職や結婚をする際、社会は彼らを前 科者として差別した。また地方自治体は要件が 整っても犯罪人名簿13)から容易に彼らの名前を抹 消せず、監獄も犯罪者を罰するだけで矯正や教育 に力を入れなかったのである。それゆえこのよう な社会の欠陥を是正するために、原は行刑制度の 現状が改善されることを訴え、受刑歴のある者に 対する差別の排除へ向けた取組14)に尽力し、社会 12)原と穂積陳重との関わりは古く、『基督教新聞』828号(1899年6月30日8頁)に「法学博士穂積陳重氏は出獄人 保護事業に同情を有せらるゝこと厚く去る二十三日は令夫人及び三子息を伴ひ神田南神保町なる原胤昭氏の宅を 訪ひその保護事業を詳細に問はれ且金五十円を寄附せられ夫人よりは出獄人一同へ土産にとて金五円を贈られた りと云ふ」と記されている。このように穂積は出獄人保護事業の実際を原に尋ね、原も穂積から法律に関する知 識を学んだのである。 13)犯罪人名簿とは「市区町村役場の犯罪人名簿、本籍地の検察庁の犯歴票、警察の指紋カードの総称である。犯罪 人名簿の制度は、法律上設けられた制度ではなく、行政措置として始まった。明治14(1881)年司法省達丁33号 により、裁判所は、既決犯罪票写を本籍地の軽罪裁判所検事に送致し、検事はこれを整理編集すると同時に、そ の旨を犯罪人本籍の戸長に通知させた。更に大正6(1917)年には、市町村長は、この通知に基づいて犯罪人名 簿を整備するものとした」(土井2000:406)。なお、今日においても一定の刑に処せられると、特定の職業に就 くことを制限され、あるいは公民権(選挙権、被選挙権)を停止させられる。 14)原の刑余者に対する差別撤廃の活動については次のとおりである。1921年大阪市で開催された第六回全国社会事 業大会で「免囚差別待遇に関する法律規則の撤廃を政府及び貴衆両院に建議するの可否」と題する協議案が提議 され、中央社会事業協会に付託された。同協会においては、特別調査委員を選定して、釈放者保護調査委員会を 組織した。会長には内務官僚の松井茂が就任し、委員に原や留岡幸助、山室軍平、小河滋次郎らが選任された。 March 2008 ―177―

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事業を必要としない社会を志向していたのであ る。

おわりに

以上のように、大正期の原の保護事業の特色と は、各年の新規被保護者数が明治期と比較して10 倍以上となったことであり、そのように激増した 理由は「恩赦出獄者及び微罪釈放者を検事局より 浮浪罪拘留放免の青少年を警察署より寄托」(原 1914:10)されたことによるものであった。その 背景には原が1911年に浮浪人研究会に参加し、慈 善事業家と警察との連携の下に浮浪者の社会復帰 を支援していったということが存在している。 そして1922年に宮城長五郎が保護課長となるま で原は司法省との間に一線を画してきた。その理 由としては、第一に兵庫仮留監教誨師であった 1886年頃から内務省監獄局の懲戒主義に原が絶対 反対の立場をとっていたことであり、第二に司法 省に監獄局が置かれ、監獄事務の管轄が内務省か ら司法省に移管された1900年に、原が貧民研究会 に加入したことである。貧民研究会(1903年5月 より庚子会、04年2月より慈善研究会)は中央慈 善協会(全国社会福祉協議会の前身)の前身にあ たり、慈善事業の必要性を訴え、その発達を図ろ うとした内務省参事官の窪田静太郎が中心となっ て結成された(片岡2007b:86)。原は貧民研究会 において貧困層の実状を調査するなどの活動の 後、1908年から17年まで中央慈善協会の常務幹事 として慈善事業の組織化やその発展に尽力し、機 関雑誌『慈善』の編集兼発行人となったのであ る。加えて前述の「原翁記念会」発起者の顔ぶれ からも明らかなように、社会事業家としての原を 支えたのは内務省を中心とする人々であり、原の 活動の基盤は決して司法省に近いものではなかっ たのである。 さらに原が財団法人輔成会(日本更生保護協会 の前身)に加入しない唯一の保護所であることを 誇りとして出獄人保護事業に携わったのは、同会 が三井八郎次郎の私財75万円に基づいて設立さ れ、中央保護会の事業を継承したからであった。 贈収賄事件に絡む金で設立された同会に加入する ことを拒否した原は、あえて孤高を持し、あらぬ 誤解を受け、不当な非難を浴びながらも自己の信 念に基づく事業を貫いたのである。しかしながら 当時は一般的に輔成会に加入してその助成を受け なければ出獄人保護事業を実施することは困難で あったが、原の場合は賛助員や皇族及び華族から の寄附金により事業を継続することが可能であっ た。このような寄附金を受領することができたの は明治維新以来原の事業を後援し続けた土方久元 の存在があったからである。 また明治維新後に東京府職員となった原が1869 年に辞職したのは「錦の御旗(朝臣であることを 示す肩章)」をつけて出勤することを「悉く厭や に感じ」たからであった(原1930b:16)。それゆ え「内務省、司法省、其他東京府、東京市等より の奨励助成の交付金を拝領せず」(原1933b:19) に事業を行うという原の強固な意志を支えたのは 「官」に対する抵抗を生涯貫いた旧幕臣としての 矜恃であったと思われる。 引用・参考文献 相田良雄(1931)「或る人の話」『社会事業』15(8)、 83―88 相田良雄(1939)「原翁に 関 す る 二、三」『社 会 事 業』 22(10)、89―93、18 相田良雄(1942)「原胤昭翁を偲びて」『厚生問題』26 (5)、72―81 安形静男(1995)「更生保護史考5 原胤昭免囚の父」 『犯罪と非行』104、197―231 中央社会事業協会(1932)「社会事業彙報」(昭和七年十 月)『社会事業』16(7)、彙報1―41 土井政和(2000)「犯罪人名簿」伊藤正己・園部逸夫編 委員会の審議を経て「釈放者保護に関する建議書案」が25年6月に全国社会事業大会で決議され、内閣総理大臣 をはじめとする各大臣、貴衆両院議長に提出された建議書には「釈放者問題調査報告」が添付された。松井 (1942:52)は、この建議書の取りまとめにあたって原が中心となって関わったと述べている。さらに原は『改 正衆議院議員選挙法選挙権欠格前科者ニ就テ』(1925b)と題する冊子を自費出版し関係各方面に配布した。当 時、原が保護した者たちが更生し、立派な納税者となっているにもかかわらず、彼らに選挙権も被選挙権もな く、しかも釈放後三十年以上経過しても犯罪人名簿から削除されないというケースが少なくなかった。それゆえ 原はそのような現状の是正を訴えるために同書を作成したのである。 ―178― 社 会 学 部 紀 要 第 104 号

参照

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