商学 61‐4・5/3.木村

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初期フランス植民地の通貨状況

── 1598 年から 1815 年まで──

蠢 はじめに 蠡 フランス植民地の成立 蠱 「第一次植民地拡張期」の通貨状況 蠶 おわりに

は じ め に

フランス植民地のほとんどが独立してから半世紀近くが経過した 1 が,その影響は現代 の国際政治や経済に多く見ることができる。たとえば旧フランス領アフリカ諸国は,フ ランス語圏アフリカ(Afrique Francophone)として一定のまとまりのある地域として認 識されているし,CFA フラン(Franc 2 CFA)や CFP フラン(Franc 3 CFP)など通貨制度 などへの影響も多く見ることができる。 本論ではかつてのフランス植民地の,通貨制度面での現代への影響を理解るため,フ ランス植民地が成立以降どのような幣制を構築してきたかを検証する。ただフランス植 民地の時代は 17 世紀から 20 世紀にかけてまで約 400 年にわたるものである。その期間 すべてを一度に網羅することは困難である。そこで,フランスの植民地の歴史を大まか に 2 つに分け,その前半部分を本論では取り扱うこととする。 2つの時代に区分するといっても,何時の時点を区切りとするかは人によって意見の 分かれるところであろうが,概ねカナダとルイジアナの放棄を決めたパリ条 4 約の 1763 年か,アンティル諸島の喪失などが確定的となったウィーン会 5 議の 1815 年とするのが ──────────── 1 フランスは 1960 年にフランス領アフリカ植民地の独立を承認している。 2 旧フランス領アフリカ諸国で通用している 2 つの通貨の名称。西アフリカにおける CFA フランは,

「アフリカ財政共同体フラン」(Franc de la Communauté Financière Africaine/ Franc CFA),中部アフリカ における CFA フランは「アフリカ財政協力フラン」(Franc de la Coopération Financière Africaine/ Franc

CFA)。両通貨は略称が同一で等価交換を保障されているが,異なる通貨であり相互に強制通用力を持

たない。

3 太平洋経済共同体フラン(Franc de la Communauté Financière du Pacifique)。

4 七年戦争(1756 年∼1763 年)の講和条約。この条約の結果フランスは北アメリカとインドの植民地の

ほとんどから撤退した。

5 1814年∼1815 年。ナポレオン戦争の戦後処理を決めた会議。フランスはアンティル諸島のサン=ドマン

グ島やモーリシャスなどを喪失した。

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妥当であると考えられる。というのも,この時期以前と以降では,フランス植民地の様 相はかなり異なっているからである。詳しくは後述するが,18 世紀までのフランス植 民地は,カナダおよびミシシッピ河流域の北アメリカ地域,サン=ドマング島(Saint-6 Domingue)やグアドループ島(Guadeloupe)とマルティニック島( 7 Martinique)等のア ンティル諸 8 島,フランス領ギアナ( 9

Guyane),セネガル(Sénégal),ブルボン島(Île de

10 Bourbon),フランス島(Île de 11 France)などのインド洋地域,そしてフランス領インド であった。しかしそのほとんどを 1815 年の段階で喪失しており,それ以降のフランス 植民地の代表格ともいえるベトナムやアルジェリア,先述のフランス語圏アフリカを植 民地とするのは 19 世紀以降のことである。 本論では,1815 年を時代の区分とし,前半部分,すなわち 1598 年から 1815 年まで 約 2 世紀を「第一次植民地拡張期」と呼ぶこととする。この「第一次植民地拡張期」に おけるフランス植民地の通貨についての概観することが本論の目的である。この時代の フランス植民地は世界各地に点在しており,それぞれの地域でかなり独自性を有してい た。そのため,それぞれの地域ごとに概観を行うこととする。

フランス植民地の成立

かつての植民地帝国としてのフランスのイメージを考えるに,イギリスに次ぐ領域を 保有した第 2 の存在というものが一般的といえるかもしれない。確かに,このイメージ は正しいものだといえる。第二次世界大戦後の 1960 年ごろまでのフランス植民地は, アフリカやアジア地域,アンティル諸島(Antilles)に太平洋地域にいたるまで,数多 くの植民地を保有していた。まさにイギリスに次ぐ日の沈まぬ帝国とした威容を誇って いたと言えるかもしれない。 しかし,フランスが世界中に植民地を保有していたという事実が,その内情や発展形 態がイギリスと同様であるということを意味しない。実際のフランス植民地の歩んだ過 程はイギリスのそれとはかなり異なるものであった。 蠡. 1 後発国フランス フランス植民地の歴史を概観するのであれば 1598 年に起点を置かねばなるまい。ユ ──────────── ∼ 6 現イパニオラ島(Espanola)。サン=ドマングはフランス植民地があったイスパニオラ島の西半分(現ハ イチ共和国)のみを示すこともあるが,本論ではイスパニオラ島全体の呼称として使用する。 7 両島とも現在はフランス海外県(DOM/Départements d’Outre-Mer)。 8 西インド諸島とも呼ばれる。本論ではアンティル諸島で統一する。 9 グアドループ等と同様現在はフランス海外県。 10 現在のレユニオン(Réunion)。レユニオンは現在のフランス領海外県。 11 現在のモーリシャス(Mauritius/Maurice)。 同志社商学 第61巻 第4・5号(2010年1月) 44( 252 )

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グノー戦 12 争が終結したこの年,国王アンリ 4 世(Henri 13 IV)は北アメリカの北緯 40 度 以北の領有を宣言した。これによりフランスは植民地レースに本格的に参入したといえ る。16 世紀のフランスは,対外的にはイタリア戦争を経験 14 し,国内においてはカトリ ックとプロテスタントの対立に王位継承問題が関係することによって,大規模な内戦に まで発展するという事態に陥っていた。結果的にこの大混乱を収拾することによって国 王に権力が集中し,絶対王政が確立した結果,対外植民活動を活発化することができた のではある 15 が,スペインやポルトガルなど先発組に比べ,不利な立場にあることは隠せ なかった。さらに先の二カ国に比べると後発組に属するイギリスは 1580 年代に,ウォ ルター=ローリー(Walter 16 Raleigh)によってヴァージニア領有が宣言されており,当初 から競争者の多い中での植民活動の開始であった。 フランスの植民活動について 1598 年を起点とすることに疑問がないわけでもない。 それ以前の著名なものとしては,ジャック=カルティエ(Jacques 17 Cartier)が,フランソ ワ 1 世(François 18 Ier)の命により 1534 年から 3 回にわたってニューファンドランド周 辺及び,カナダの探索を実施してい 19 る。しかし,これらの活動は,16 世紀の時点で は,植民地活動として積極的な活動につながるようなものとはならなかった。活動の中 心は,ニュー=ファンドランド島周辺での漁業活動といった状況であっ 20 た。 16世紀当時のフランスにおけるヨーロッパ外との貿易活動は,私貿易としてスペイ ンやポルトガル植民地とフランス本国間で行われることが中心となってい 21 た。このよう な貿易活動が可能となっていた背景には,当時のスペインとポルトガルの貿易政策があ る。16 世紀の段階では,スペインとポルトガルは植民地の領有を次々と宣言してはい ったが,貿易活動に関して外国人に対し特に制限を設けなかった。そのため,たとえフ ランス人の所有する貿易船であってもスペイン領などに赴いて,植民地の産品を購入し フランス本国に持ち帰ったとしても何の問題もなかったのである。 しかし,1598 年に貿易をめぐる状況が一変する。当時のスペイン王であり 1580 年以 降はポルトガル国王ともなっていたフェリペ 2 世(Felipe 22 II)が通商禁止政 23 策を行なっ ──────────── 12 1562 年∼1598 年。 13 生没 1553 年∼1610 年,在位 1589 年∼1610 年。 14 1494 年∼1544 年。 15 カルル=ヘーネル,岡崎清記訳,『仏蘭西植民地』,岡倉書房,1942 年,17 ページ。 16 生没 1552 年∼1618 年。 17 生没 1491 年∼1557 年。 18 生没 1494∼1547 年,在位 1515 年∼1547 年。

9 MEYER Jean, TARRADE Jean, REY-GOLDZEI GUER Annie(1991)Histoire de la France coloniale, I-La

conquête, des origines à 1870, Paris, Armand Colin, p. 72.

0 Ibid, pp. 24−26.1 Ibid, pp. 26−27.

22 生没 1527 年∼1598 年,スペイン王在位 1556 年∼1598 年,ポルトガル王在位 1580 年∼1598 年。

3 MEYER Jean, TARRADE Jean, REY-GOLDZEI GUER Annie, op. cit., p. 78.

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たことで,フランス船などは植民地貿易から排除されることとなった。そのため,今ま では何の問題もなく行われていたフランス船の活動は密貿易と私掠船活動へと転向する こととなった。 このフェリペ 2 世による植民地からの外国船排斥は,おもにカリブ海で活動したコル セール(Corsaire)やバッカニア(Buccaneer)と呼ばれる私掠船の活発化と同時に,フ ランス自信の植民地獲得競争参入への直接的な動機となった。つまり,フランス船がス ペイン植民地等から得ていた利益を,今後は独自の植民地から得るという方向に修正さ れることになったのである。 つまりフランスが植民地獲得レースに本格的に乗り出した契機は,国内的安定の回復 により大規模な植民地活動が可能になったことと,同時に安定した植民地貿易を確立さ せる必要性が発生したことである。 蠡. 2 植民地拡大から破滅まで フランスの植民地活動は 17 世紀から本格化したといえるが,この「第一次植民地拡 張期」,まさにアンリ 4 世から始まるブルボン朝(Bourbon)の時代の植民地政策であっ たと言える。しかしこの期間のフランス植民地活動は継続性や一貫性が強く感じられる ものではなかった。スペインやポルトガルに遅れてほぼ同時期に植民地獲得競争に参入 したオランダやイギリスの継続的な植民地活動と比較すると非常に対照的である。 こうした継続性や一貫性の無さには,いくつかの原因が考えられる。一つはフランス の国内経済の大きさに求められる。フランスの国内人口は 16 世紀の段階で推定 2000 万 人とされてお 24 り,これはイギリスやオランダに比べ数倍の規模に及んだ。この比較的大 きな国内経済の存在は,フランス人に対し多くの安全な投資先を提供していることにな り,多くの危険を伴う対植民地活動に対し積極性を失わせることになった。この植民地 活動に対する民間部門の無関心は,オランダやイギリスでは見られない現象であった。 民間部門の無関心を補う形で,フランスの植民地活動は政府の役割が相対的に大きい ものとなったといえる。民間部門が経済的動機により植民地活動を行う場合に比べ,政 府の関与が大きくなると,より直接的に政治的状況に影響を受けることになったといえ る。その結果,その時々の政策決定者の意向によって植民地活動の方針が大きく振れて しまう。このことがオランダやイギリスと比較して植民地活動の一環性をよりそこなう 状況を生み出すことになった。 フランスの「第一次植民地拡張期」において,積極的な植民地活動が行われたのは, 概ね 3 つの期間である。第 1 期は 1624 年から 1642 年までの期間 で,リ シ ュ リ ュ ー ──────────── 24 服部晴彦,谷川稔編著,『フランス近代史,ブルボン王朝から第五共和制まで』,ミネルヴァ書房,1993 年,17 ページ。 同志社商学 第61巻 第4・5号(2010年1月) 46( 254 )

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25 Richelieu)がフランス宰相を務めた時代である。第 2 期は,1664 年から 1683 年まで の期間で,コルベール( 26 Colbert)が財務総監を務めた時代である。第 3 期は 1715 年以 降で,オルレアン公フィリップ(Philippe d’ 27 Orléans)がルイ 15 世(Luis 28 XV)の摂政を 勤めた時期より後の時代である。以下で,それぞれの時期の状況を見ていくことにす る。 蠡. 2. 1 リシュリュー時代の植民地活動(1624 年∼1642 年) 第 1 期であるリシュリューの時代におけるフランスの植民地活動は,海外拠点の確保 を主たる目的としていたことが特徴づけられ,主として北アメリカ及びアンティル諸島 に拠点が建設されていった。17 世紀前半の段階では,フランス植民地での現地産業は 依然として初期的段階にとどまっていた。1620 年代にはアンティル諸島においてプラ ンテーション農業の萌芽がみられるが,それ以外は漁業や狩猟及び私掠が中心であっ た。 一方,フランスの海運業はオランダやイギリス,そしてスペインやポルトガルと比較 して脆弱な状態にあった。一つには,16 世紀にフランス国内で繰り広げられたユグノ ー戦争によって国内が疲弊していたことも大きな原因となっている。16 世紀のフラン ス海軍提督で植民地拡大推進派であったコリニー(Gaspard de 29 Coligny)が,プロテス タントの中心人物であったことから,サン=バルテルミ虐 30 殺(Massacre de la Saint-Barthélemy)によって殺されるという事件はその後のフランスの海外進出に大きな影響 を与えたといえ 31 る。当時の海運力は海軍力とほぼ同義とも言ってもいいほど両者は結び 付いており,海軍の中心人物でしかも植民地拡大推進派の殺害は,フランスの海運力整 備に大きな影を落とすこととなった。また,大西洋岸の良港で知られるラ=ロシェル (La Rochelle)はプロテスタントの最大の拠点として 16 世紀に大きな損害を受け,さら に 1628 年にはリシュリューによる攻撃を受けて徹底的な破壊を被っている。他の重要 港であるボルドー( 32 Bordeaux)やサン=マロ(Saint-33 Malo)も,政府に対して反抗的であ り,アムステルダムなどに比べてもかなり見劣りする状況にあった。 蠡. 2. 2 コルベール時代の植民地活動(1664 年∼1683 年) 第 2 期であるコルベールの時代に入ると第 1 期とは様相が一変する。一つの大きな変 ────────────

25 Armand Jean du Plessis, cardinal duc de Richelieu et duc de Fronsac(枢機鑄にしてリシュリュー公爵及び

フロンサック公爵アルマン=ジャン=デュ=プレシー),生没 1585 年∼1642 年。

26 Jean Baptiste Colbert ジャン=バプティスト=コルベール,生没 1619 年∼1683 年。 27 Phillippe II duc d’ Orléans,生没 1674 年∼1723 年。

28 生没 1710 年∼1774 年。在位 1715 年∼1774 年。 29 Gaspard de Coligny(ガスパール=ド=コリニー),生没 1519 年∼1572 年。 30 1972 年にパリで起こった,カトリックによるプロテスタント襲撃事件。 31 海原峻著,『ヨーロッパが見た日本・アジア・アフリカ』,梨の木舎,1998 年,28 ページ。 32 百年戦争(1337 年∼1453 年)以来,政府の影響力が及びにくかった。 33 17 世紀初頭は私掠船の根拠地となっており政府も干渉が困難であった。 初期フランス植民地の通貨状況(木村) ( 255 )4

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化は,フランスをめぐる国際情勢である。三十年戦 34 争及びピレネー条 35 約の結果,スペイ ンの国際的地位の後退は決定的なものとなった。この結果フランスのヨーロッパにおけ る国際的な地位は強固なものになったが,ルイ 14 世(Luis XI 36 V)の覇権主義により, 他国との政治的緊張はむしろ高まることとなった。また,植民地においてはスペインと いういわば共通の敵を失ったことにより,フランスとオランダ,そしてイギリスは今ま でのような蜜月時代を享受することができなくなったと言える。1652 年の第一次英蘭 戦 37 争において,まずオランダとイギリスが干戈を交え,その後ネーデルランド継承戦 38 争 など,3 国は対立の時代に突入した。 このような国際情勢緊張化と並行する形で,17 世紀には植民地地域では産業構造の 変化が見られるようになった。ヨーロッパでの喫茶習慣の広まりとともに,砂糖の需要 が拡大した。当時はまだ甜菜からの製糖技 39 術は開発されておらず,ヨーロッパ域内での 砂糖の生産は不可能であった。そのため,サトウキビの生産が可能な熱帯地域に属する アンティル諸島でのプランテーションが建設されるようになった。さらに,当時のアン ティル諸島,というよりも新大陸全体で現地先住民は過酷な強制労働や病気の蔓延によ り激減しており,新たに奴隷をアフリカ地域から輸入するという構造も出来上がりつつ あった。 こうした国際情勢と植民地情勢の変化は,いくつかの重要な変化をもたらすことにな る。国際情勢の緊張は,フランスが他国の協力を得ずに植民地活動を実施していくこと を促し,植民地情勢の変化は,植民地活動により経済的重要性を高めることとなった。 さらに,植民地の奴隷輸入と砂糖などの産品の本国への輸出という,いわゆる三角貿易 構造を発生させた。 フランスの植民地向けの海運業は,この時期著しい発展を見せる。例えばナントで は,100 トン以上の船舶艤装が 1664 年の段階で 12 隻であったのが,1686 年には 84 隻 に増加してい 40 る。 こうした経済的価値が高まるにつれ,植民地には別の意味合いを孵化されるようにな る。ルイ 14 世が繰り返した対外戦争によって,フランスの財政赤字が深刻化していた が,その状況下で植民地は重要な正貨獲得手段と位置づけられる。コルベールは植民地 に対し産品の本国への優先的輸出を義務づけ,同時に植民地向けの正貨輸出を禁止し ──────────── 34 1618 年∼1648 年。

35 Traité des Pyrénées, 1659 年。

36 生没 1638 年∼1715 年,在位 1643 年∼1715 年。 37 1652 年∼1654 年。 38 1667 年∼1668 年,及び 1672∼1678 年。 39 甜菜からの製糖が 18 世紀に開発され,広く普及したのは 19 世紀以降のことである。 40 ポール=ビュデル著,深沢克己・藤井真理訳,『近代世界商業とフランス経済』,同文舘,1997 年,75 ペ ージ。 同志社商学 第61巻 第4・5号(2010年1月) 48( 256 )

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た。この保護主義はフランス産品の輸出市場確保にも繋がり,彼の政策のもう一つの柱 である殖産興業に有効であったといえる。すなわちコルベールの代名詞ともいえる重商 主義の発展である。しかしコルベールの死後,こうした重商主義的政策は形骸化してい き,フランスの財政赤字はより一層深刻化していく。 蠡. 2. 3 オルレアン公フィリップ時代の植民地政策(1715 年∼) 第 3 期であるオルレアン公フィリップの時代は,ルイ 14 世親政が残した累積債務問 題とともに始まった。1715 年のルイ 14 世が死去した時点で,財政は破たん状態にあっ た。この年のフランス国庫の資金残高は 500 万 libre であったのに対し累積債務は 29 億 3600万 libre から 34 億 6000 万 libre と推定され 41 る。こうした債務の多くは証券化され 市場で売買され,又事実上の通貨として流通していた。しかしその多くが額面の 20% から 50% で売買され乱高下も激しく,18 世紀初頭には金融恐慌が乱発するようになっ ていた。 こうした危機的状況に落ちいったフランス経済再生のためには,政府債務の整理と財 政の健全化が必要であり,その期待の担ったのがオルレアン公の経済政策の顧問となっ たジョン=ロー(John 42

Low)である。彼は,いわゆる「ローのシステム」(Le systéme de law)と呼ばれることになる施策で,国内に大量に出回っている政府債券を回収する具 体的な手立てを行った。この施策そのものは,フランス国内の財政と金融の問題であっ たが,当時の植民地政策と大きくかかわっていることにその特徴がある。 「ローのシステム」の根幹は,フランス領ルイジアナでの植民地活動をになう西方会 社(Campagnie d’Occident)の株式募集にあたり,フランス国内に大量に事実上の通貨 として流通している政府債券での払込を許可することで,同債券の回収をしようとし 43 た。さらに,「王立銀行」(Banque Royale)に強制通用力を持つ銀行券を発行させ,通 貨としての立場にあった政府債券の代替とするものであった。 「ローのシステム」は,近代的な中央銀行制度の先駆けともいえる性格を持ってお り,核心的な部分も多く含んでいた 44 が,結果を焦るあまりジョン=ローは株式投機を煽 ることで債権の回収と償還を進めたた 45 め,チューリップバブ 46 ル,南海泡沫事件(South ──────────── 41 佐村明知著,『近世フランス財政・金融史研究』,ミネルヴァ書房,1995 年,190 ページ。 42 生没 1671 年∼1726 年。 43 佐村明知著,前掲書,214 ページ。 44 同書,237 ページ。 45 ジョン=ローは株価操作の結果,当初低迷していた西方会社の株価引き上げに成功し,空前の株式ブー ムを引き起こした。1719 年になり西方会社はインド会社として再編強化されるが,同年 9 月の増資は 主として政府に対する債券償還金の貸付金の回収が目的であった。この増資の資本金払込にあたりジョ ン=ローは 10 ヶ月の分割支払を認めたためことが株式投機をさらに促進させた。このブームは 1720 年 1月に崩壊するが,ジョン=ローは株の売買を促進させるために銀行券を乱発し,インフレーションを 引き起こしてしまう。 46 1637 年にオランダで起こった,チューリップの球根の価格が異常に高騰したのち,大暴落した事件。 初期フランス植民地の通貨状況(木村) ( 257 )4

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Sea 47 Bubble)と並ぶ,いわゆる「バブル」を生み出すことになった。一時的に高騰した 西方会社の株式も 1720 年には大暴落を起こし,「バブル」の崩壊とともに,ジョン=ロ ーは国外逃亡し,「王立銀行」も閉鎖,「ローのシステム」も崩壊してしまう。「ローの システム」の破綻は銀行業と信用供与に対する社会的不信がフランス国内で発生したこ とは,金銀正貨に対する国内需要が増加を意味したが,同時に植民地への本国からの正 貨供給を阻害する要因ともなる。 オルレアン公フィリップ時代,国内的な経済混乱はあったがフランス植民地活動は衰 退することはなく,むしろ強化されることになる。フランス経済にとって重要な位置を しめるようになったことに加え,イギリスとの植民地抗争が激化し政策の強化が計られ た影響による。18 世紀前半にフランス植民地は最盛期を迎える。しかしヨーロッパで 戦争に連動した植民地での戦争には,イギリスに対し不利な状況に追い込ま 48 れ,1763 年のパリ条 49 約の結果,北アメリカ植民地を喪失する。これが,「第一次植民地拡張期」 の積極的活動の終焉であり,更に革命期の混乱とナポレオン戦争の結果,フランス島と 最大に稼ぎ頭であったアンティル諸島のほとんどを喪失し,フランスの植民地大国への 夢は一旦途絶えることになる。 蠡. 3 第一次植民地化拡張期における各植民地の状況 「第一次植民地拡張期」において,フランスの植民活動は主に 6 つの地域で行われ た。具体的には,北アメリカ地域,アンティル諸島,ギアナ,セネガル,インド洋の 島々,そしてインド本土である。 蠡. 3. 1 北アメリカ地域 北アメリカ地域のフランス植民地は,現在のカナダ及びルイジアナからミシシッピ河 流域で,ヌーベルフランス(Nouvelle France)とも呼称される。北アメリカへの植民地 建設が開始されるのは,1604 年からであり,1608 年にはケベック(Québec)が建設さ れている。もともと同地域への進出の動機は,北大西洋,特にニュー=ファンドランド 島周辺における漁業権益の確保であった。 北アメリカ地域で積極的な領土拡大を行ったのは,オルレアン公フィリップの時代で ある。この時代にはミシシッピ河流域からルイジアナに至る広大な植民地を北アメリカ に建設した。その象徴がルイジアナの首都として 1714 年に建設された,しかもオルレ アン公フィリップの名を冠した,ヌーベルオルレアン(Nouvelle Orléans),すなわち現 在のニューオリンズ(New Orleans)である。 ──────────── 47 イギリスで西方会社の事件と同時期に起こった「バブル」事件。 48 ジョージ王戦争(1744 年∼1748 年),フレンチ=インディアン戦争(1755 年∼1763 年)。 49 七年戦争における講和条約。 同志社商学 第61巻 第4・5号(2010年1月) 50( 258 )

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18世紀前半の最盛期におけるヌーベルフランスの面積は広大なもので,同時期の北 アメリカ地域のイギリス 13 植民 50 地と比較しても地理的規模において圧倒していた。し かし,領土的な拡大の反面植民活動の実績は芳しくなく,植民者は最盛期でも 6 万 5 千 ほどであった。イギリス 13 植民地が 18 世紀後半に 200 万人以上の人口に達していたこ とに比べて,いかにも少ない数であった。この人口の差は両国の植民地の産業規模の差 に直結する。ヌーベルフランスの産業も未発達のままにおかれ,干ダラの加工やビーバ ーの革の獲得に限られた。 18世紀中頃以降イギリスとの植民地争奪戦に次々と敗北し,1763 年のパリ条約によ って北アメリカ地域の拠点をほぼすべて失うことになる。この条約において,カナダ及 びミシシッピ以東のルイジアナはイギリスに,ミシシッピ以西のルイジアナはスペイン に割譲され,フランスはサン=ピエール島及びミクロン島(Saint-Pierre et 51 Miaquelon)が 残され,てニュー=ファンドランド島周辺の漁業権のみが残された。のちにナポレオン 時代の 1800 年にスペインに割譲したルイジアナの領有権を取り戻したが,この広大な 地域を防衛することは不可能であるとの判断から,1803 年にアメリカに売却され,こ こに北アメリカ地域から事実上完全に撤退することになった。 蠡. 3. 2 アンティル諸島 フランスのアンティル諸島への進出は,スペインがメキシコや南米に拠点を移した, いわば空白地帯となったところに入り込んだといえる。当初の進出は北米地域とは異な り,フランス私掠船の活動拠点のとして建設されたものであった。とはいうものの,フ ランスの海賊船がスペインを襲うために勝手に拠点を建設したのをフランス政府が後追 いで植民地として承認していったというのが実情であろう。1635 年に,グアドループ 島とマルティニック島に最初の足がかりを建設した以外にも,1620 年代後半頃には, スペイン領だったサン=ドマング島(Saint-Domingue)に北岸に位置する,トーチュ島 (Îls de la 52 Tortue)にもすでに拠点を建設していた。のちに正式な国家事業としての植民 活動となり,さらに 1697 年にはレイスヴァイク条 53 約によって正式にサン=ドマング島の 西半 54 分をスペインから割譲している。 先述したとおり,17 世紀にヨーロッパで喫茶の習慣が広まると,アンティル諸島は 砂糖を中心としたプランテーションが一気に発展した。特にサン=ドマングは砂糖生産 ──────────── 50 1607 年のヴァージニア植民地建設以降,北アメリカ地域に建設されたイギリス植民地の総称。1673 年 にオランダから割譲されたニューネーデルランドも含まれる。アメリカ独立戦争の後,独立 13 州とな る。

51 現 在 は フ ラ ン ス の 海 外 準 県(COM/Collectivité d’Outre-Mer)。か つ て は 海 外 領 土(TOM/Territoire d’Outre-Mer)ものであるが 2003 年に改名。

52 カリブ海地域の海賊の巣窟というのが実情であった。

53 大同盟戦争(1688 年∼1697 年)の講和条約。

54 現在のハイチ共和国。

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の一大拠点となり,18 世紀当時の世界最大の生産拠点の一つとなっていた。 この生産を支えていたのが,アフリカギニア湾沿岸から連れてこられた黒人奴隷だっ た。砂糖生産が急速に増大するに合わせて,黒人奴隷の輸入も急増し,18 世紀後半に は白人居住者の 10 倍以上の黒人(奴隷,自由黒 55 人も含む)がサン=ドマングに居住して いたとみられてい 56 る。 1784年,西インド諸島全体で重商主義時代から維持されてきた外国船に対する排他 的措置が撤廃された。これによりサン=ドマング島の発展はさらに加速された。フラン ス革命直前の 1788 年にはフランス植民地貿易の多くがサン=ドマング島のものであっ 57 た。 こうして 18 世紀末のサン=ドマングは,フランスにとって経済的に重要なものとなっ ていた。しかし,植民地の発展が独立への動きを加速するという傾向が,自分自身も例 外ではなかったことをフランスは思い知らされることになる。1791 年に自由黒人のト ゥーサン=ルーベルチュール(François-Dominique Toussaint 58 Louverture)などの指導のも とハイチ革命が勃発した。その後 10 年以上にわたる騒乱の後,1804 年にハイチ共和国 の成立を宣言して,西半球でアメリカ合衆国に続いて 2 番目,黒人奴隷の指導のもとで は初めての独立国家となった。1825 年には元フランス人奴隷主への賠償金支払いを条 件として,フランス政府も独立を承認し,以後フランス植民地の至宝であったサン=ド マングがフランスのもとにもどることはなかった。 蠡. 3. 3 ギアナ 南米大陸のギアナでの植民地建設は 1604 年という比較的早い時期に行われている。 当初,この植民地は,アマゾン奥地への探索拠点としての性格が強かった。その後入植 活動も試みられたが,黄熱病やマラリア等の風土病が猛威を振るい,他のフランス植民 地と比べると条件があまりにも厳しすぎた。1763 年に大規模な植民活動が試みられた が,病気の万円で 1765 年までに植民者 1 万 2000 人のうち 918 人しか生き残らなかっ た。1674 年以降フランス王室領となると主として流刑地としての地位が確定した。の ちに金が発見されるが,それは 19 世紀以降のことである。 蠡. 3. 4 セネガル セネガル地域は 17 世紀半ばにフランスの植民地が建設されるようになった。重要な 拠 点 と し て は,1659 年 に 北 部 を 流 れ る セ ネ ガ ル 川 の 河 口 付 近 の 中 洲 に サ ン=ル イ (Saint-Luis)を建設し,さらに 1677 年にオランダの拠点だったゴレ島(Île de 59 Gorée) ──────────── 55 黒人奴隷には所有者から自分自身を購入して自由になることが認められていた。

6 MEYER Jean, TARRADE Jean, REY-GOLDZEI GUER Annie, op. cit., pp. 136−137.7 Ibid. pp. 350

58 生没 1746 年∼1803 年,ギニア湾岸のダオメー(現ベナン)系の黒人奴隷の子孫。

59 現在のセネガルの首都ダカール(Dakar)沖に位置する小島。

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を占領してい 60 る。 これら植民拠点は,ともに周囲を水に囲まれた要塞であり,内陸部への進出拠点とい うよりも,大西洋航路の中継基地及び,アンティル諸島で需要が急増していた奴隷の輸 出基地としての性格が強かった。この奴隷輸出基地としての性格は,19 世紀にフラン ス植民地での奴隷が禁止されるまで続き,「第一次植民地拡張期」の間は,奴隷輸出以 外の産業が目立って発展することはなかった。 蠡. 3. 5 インド洋 インド洋地域への進出は,1642 年のブルボン島(Île de 61 Bourbon)に拠点建設したの が始まりである。さらに,1715 年にフランス島(Île de 62 France)を領有した。両島は地 理的にインド洋の入口に位置し,東インド航路の中継地としては重要な位置を占めてい た。18 世紀前半は奴隷労働力に基づくコーヒーの栽培が産業の中心として発展した が。1770 年にモルッカ諸島より密輸された香辛料栽培が成功し,以後コーヒーと並ぶ 産業の中心となっていく。 フランス革命が勃発しブルボン島の名はレユニオン島に改められる。しかし,ナポレ オン戦争期の 1810 年にイギリス軍によってレユニオン島とフランス島は占領されてし まう。その後 1814 年のパリ講和会議でレユニオン島の返還のみが認められ,フランス 島はモーリシャス島と名を変えイギリス領となった。 なお,マダガスカルに関しては 1643 年にフォー=ドーファン(Fort 63 Dauphin)という 拠点を建設するが 1674 年に撤退している。 蠡. 3. 6 インド本土 インドへの進出は 1673 年にポンディシェリ(Pondichéry)の領有権を獲得して以 降,いくつかの拠点が築かれた。当初のインド進出の目的は,インドキャラコなど獲 得,すなわち貿易が主であった。当時インドへ次々と進出していたイギリスへの対抗措 置といった性格も強く持っていた。 フランス,イギリス両国とも,インドでの植民活動は他地域のように軍事的占領や入 植の開始をもって領有権を主張するという形式ではなく,現地の諸侯(ラジャ)フラン ス両国とも当時インドで乱立していたラジャ(Râja)と呼ばれる諸侯に対し援助と引き 換えに商業権益を得るという,比較的平和な手段を用いていた。しかし,このことは結 果的にラジャ同士の抗争に介入するという,非平和的な結果をもたらすことになる。1757 年,プラッシーの戦いで,ベンガル太守スラジェ=アッダウッラ(Siraj ud 64 Daulah)と連 ──────────── 60 イギリスもゴレ島の領有権を主張し続け,1802 年のアミアン条約で正式にフランス領として認めてい る。 61 現在のレユニオン(Réunion)。 62 現在のモーリシャス。 63 現在のマダガスカル南東部の町トラナロ(Tôlanaro)。 64 生没 1733 年∼1757 年。 初期フランス植民地の通貨状況(木村) ( 261 )5

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合したフランスは,イギリスに決定的な敗北をこうむり,両国のインドにおける力関係 は急速に開いていくことになる。さらに 1765 年にイギリス東インド会社が北ベンガル 地方の徴税請負権を獲得するに至り,事実上インドにおけるイギリスの支配権が決定的 なものとなった。

1815年の段階でフランスが所持していたインドの拠点はポンディシェリ,シャンデ ィルナゴル(Chandernagor),カリカル(Kârikâl),マエ(Mahé),ヤナオン(Yanaon) のみであり,イギリスとの条約によって軍事拠点化することも禁止された状態となって いた。 蠡. 4 まとめ 以上が,17 世紀から 18 世紀にかけての「第一次植民地拡張期」におけるフランス植 民地の状況である。オランダやイギリスとともに 17 世紀になってから本格的に植民地 獲得競争に参入したフランスではあったが,政府主導の植民活動という大きな特徴があ った。そのことは,フランスの国内政治やヨーロッパにおける国際政治の影響を,他国 に比べより直接的に受けることになった。結果的に指導者の方針に等に左右されてしま い,一貫性や継続性に欠いた植民地政策となったといえよう。 それでも 18 世紀には,フランス本国の財政赤字の影響もあり,また喫茶文化に伴う 砂糖需要の拡大にも助けられ,アンティル諸島における植民地経済は重要さを増してい く。1673 年のパリ条約の結果,北アメリカやインドでのほとんどの権益を失ってしま うが,その時点ではサン=ドマングこそがもっとも重要な植民地となっていた。後訪れ た平和によってサン=ドマングの砂糖産業はさらに盛況を極めることになるが,1789 年 のフランス革命と,それに続くハイチ革命によって,植民地の「至宝」ともいうべきサ ン=ドマングは,フランスの手から離れていってしまう。まさに「第一次植民地拡張期」 の約 200 年間の間にフランスは多くを獲得し,ほぼすべてを失うという歴史を歩むこと になった。

Ⅲ 「第一次植民地拡張期」の通貨状況

「第一次植民地拡張期」のフランス植民地における通貨の状況は,統一的な制度が存 在していたわけではない。国際取引において正 65 貨以外に決済手段は事実上存在しなかっ た 17 世紀,18 世紀においては,正貨をいかに確保するのかが大きな課題となってい た。 ──────────── 65 本論において,「正貨」は金及び銀の両方を指すことにする。 同志社商学 第61巻 第4・5号(2010年1月) 54( 262 )

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蠱. 1 スペインドルの存在 19世紀初頭に至るまで,植民地において金銀正貨の流通させることが可能だったの は,事実上スペインのみであった。特にスペインは 16 世紀以降,スペイン領アメリカ で盛んに鋳造された 8 レアル( 66 Réal)の銀貨を大量に鋳造し,メキシコ銀とも呼ばれる スペインドルが世界的に流通するようになっ 67 た。こうした大量の銀貨の鋳造が可能とな ったのは,スペイン領アメリカにおいて世界有数の銀鉱山が次々と発見,開発されてい ったからである。代表的なものとしては,1528 年にメキシコで発 見 さ れ た タ ス コ ( 68 Taxco),続く 1546 年には,ボリビアのポトシ(Potosí)で発見された,セロ=リコ銀山 (Cerro Rico),さらに 1548 年に同じくメキシコで発見されたサカテカス(Zacatecas)な どがあった。これら数々の大鉱山を抱えるスペイン植民地が供給する銀貨の供給量は, まさに圧倒的であったといえる。このスペインドルは当時の国際的な支払い手段として 広く使われていたものであったが,さらに本国植民地間貿易でも主要な支払通貨として 各国で利用された。 植民地通貨におけるスペインドルを見る上で重要なものに,ピアストル(Piastre)の 存在を忘れてはならない。このピアストルという通貨単位は,インドシナ銀行(Banque I ndochine)が発行し,フランス領インドシナの通貨単位として知られている。しか し,もともとは小さなドル貨,小さなターレル貨という意味でピスターレン(Pis-tareen)を語源とし,のちにピアストルと一般に呼ばれるようになったものである。 このピアストル貨は,スペイン継承戦 69 争の際に鋳造された 2 レアル貨,つまり 8 レア ル貨の 4 分の 1 の軽量貨幣の名称である。ただ,18 世紀初頭にもなると,さすがにス ペインの銀供給能力も全盛期を過ぎており,この時期に新たに鋳造された貨幣は,全体 的に品位の低下していた。したがって,新たに登場したこのピアストル貨は 2 レアルと 打刻されていても,8 レアルのスペインドルの 5 分の 1 程度の価値として取り扱われて いた。そのような状況ではあったが,補助貨幣として使いやすかったこともあり,ピア ストル貨の利用は世界中に広まることになる。1825 年以降はイギリスが自国鋳造の銀 貨を世界中に流通させ,ピアストル貨の排除をおこなった。結果,ピアストル貨の流通 量は急激に減少していく。しかし,このピアストルの名称はフランスのインドシナ銀行 が発行した銀行券の通貨単位として存続することになる。 ──────────── 66 スペイン本国の通貨単位。 67 ドルの名称の起源はターレル(Thaler)である。1517 年,カール 5 世(オーストリアハプスブルグ家出 身でスペイン王位と神聖ローマ帝位を持っていた)時代にボヘミアのヨムキスタールで大量に鋳造され た貨幣をヨムキスターレルと呼称したのが始まりである。17 世紀後半,植民地 8 レアル貨はライヒス ターレルもしくはリックスダラーと呼ばれた神聖ローマ帝国の通貨と同価格として流通していたため, ターレルが転化したドルの呼称が定着した。 68 タスコは 18 世紀にさらに大鉱脈が発見され,銀の町として発展する。 69 1701 年∼1714 年。 初期フランス植民地の通貨状況(木村) ( 263 )5

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蠱. 2 フランス植民地の通貨状況 「第一次植民地拡張期」のフランス植民地は,基本的に正貨不足状態にあった。最大 の理由として,フランス本国,植民地ともにスペインのような有力な正貨の供給源がな かったことがあげられる。また,初期のフランス植民地では,産業もほとんど発展して おらす,輸出によって正貨を獲得することが困難な状況にあった。17 世紀のフランス 植民地におけるもっとも有効な正貨獲得手段は,私掠船すなわち海賊行為であったとい ってもおそらく過言ではなかろう。 こうした状況の中で,フランス植民地ではそれぞれの地域の実情に即した形で,通貨 の流通が行われていた。以下で主要なフランス植民地,北アメリカ地域,アンティル諸 島,ギアナ,セネガル,インド洋及びインドの通貨状況を概観する。 蠱. 2. 1 北アメリカ地域 北アメリカ植民地では,17 世紀中頃までは現地の産品が直接交換される状態にあっ た。その中でも比較的交換可能性が高かったものがビーバーの革や穀物であっ 70 た。一方 対外的な支払いにはフランス本国への支払いも含め成果が必要とされており,やはりス ペインドルが主な支払い手段であった。 コルベールの時代に本国との同量目の貨幣鋳造が一応許可されたのだが,重商主義の 影響でフランス本国からの正貨金属の輸入が閉ざされていたため,現地での貨幣鋳造は ほとんど不可能であった。結局総量として 8 万リーブル分の鋳造が行われたに過ぎなか った。 一方で北アメリカ植民地の正貨流出を防ぐため貨幣の交換比率を法でコントロールし ようともしている。もともとフランス本国で鋳造されていた貨幣の単位は 1 リーブル (Libre)=20 ソル( 71 Sol),1 ソル=12 ドゥニエ(Denier)銅貨とされていた。ただ銅相場 は下落傾向にあり 18 世紀初頭には本国では 1 ソル=15 ドゥニエで取引されていた。こ のドゥニエ銅貨は,植民地にも持ち込まれ域内では利用されていたが,対外取引には正 貨への交換が必要であった。そこで,対外支払いのためにドゥニエを正貨に交換する場 合,1 ソル=15 ドゥニエではなく,20 ドゥニエ計算するようにしたのである。その効 果は,貿易を混乱させただけであり,期待したような効果はあがらなかった。このよう な交換制限はコルベールの死後中止されてい 72 る。 17世紀後半からは,植民地総督の命によって不堪紙幣発行が行われている。これに はヨーロッパでフランスの対外政策の国際情勢が影響している。というのもルイ 14 世 が対外戦争を繰り返した結果,フランス本国の財政状況は極端に悪化しており,植民地 ──────────── 70 カルル=ヘーネル,前掲書,17 ページ。 71 もしくはスー(Sou)。 72 岡樂三,『殖民地銀行論』,隆文館,1912 年,443 ページ。 同志社商学 第61巻 第4・5号(2010年1月) 56( 264 )

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への貨幣輸出が困難となっていた。さらにヨーロッパの軍事的緊張の影響で北アメリカ 地域でもイギリスとの緊張関係が続いており,軍人への給与支払いを含む軍事費が植民 地でも増大していた。 しかしウイリアム王戦 73 争やアン女王戦 74 争によって,極端に紙幣を乱発した結果,暴落 を引き起こし北アメリカ植民地の経済は混乱した。そのため,1716 年に,暴落した紙 幣の回収を目的に 15 万マルク( 75 Marc)の銅でドゥニエ貨を鋳造,北アメリカ植民地に 送付した。その後,北アメリカ植民地では貨幣需要は年々上昇していき,それを受け て,1721 年に植民地会社はフランス政府から鋳造許可を得て,さらに 15 万マルク文の ドゥニエ貨を鋳造する。しかし,品位を落としての鋳造であったため授受拒否されてし まう。それを受けて品位を上げて鋳造しなおしたが,結局旧植民地紙幣の駆逐は達成で きなかった。結局 1729 年に 40 万リーブル,1750 年に 100 万リーブルの植民地不堪紙 幣が発行された後,金属通貨は北アメリカ植民地内から姿を消すことになる。ただし, この植民地紙幣は同じリーブルであっても,実際には本国の金属貨幣の 3 分の 1 として 扱われ 76 た。 蠱. 2. 2 アンティル諸島 アンティル諸島植民地域内では,プランテーションの開始当初は砂糖などの産品が通 貨の代わりに流通していた。一方,対外的な支払いは正貨が必要であった。プランテー ショが発展するにつれ,奴隷労働力に対する需要が急速に高まっていくのだが,奴隷を 現地で確保しようにも,17 世紀の時点で疫病や過酷な使役によって原住民の人口が激 減しており,現地調達は不可能な状況にあった。そのためアフリカからの黒人奴隷を輸 入する必要が発生していた。この奴隷輸入の支払い手段として正貨に対する需要も高ま っていた。さらにアンティル諸島における産業の発展は,同地域内での取引自体も活発 化させており,それに利用する正貨も必要とされていた。 このようにアンティル諸島で,日に日に需要が高まっていた正貨であるが,フランス 本国から供給されることはほとんどなかった。もともとフランス本国,植民地ともに重 要な正貨供給源がなく,さらに重商主義による正貨輸出の禁止は,通貨不足をより一層 深刻化なものとしていた。この状況は北アメリカ地域も含めたフランス植民地全体に言 えることであった。 このように本国からの正規の手段での正貨供給が期待できない以上,非正規の手段を 模索する必要がある。アンティル諸島植民地がとった手段は,いわばこの地域で昔から 伝統的に行われている手段,すなわち私掠船活動と密貿易であった。また,重商主義に ──────────── 73 1689 年∼1697 年。 74 1702 年∼1713 年。 75 重量単位。1 マルクは約 244.8 g。 76 岡樂三,前掲書,443 ページ。 初期フランス植民地の通貨状況(木村) ( 265 )5

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よって植民地産品はフランス本国へ輸出することを強要されていたが,ヨーロッパ全域 での砂糖需要増加に支えられ,密輸出が好調に推移した。この密貿易は単にヨーロッパ 諸国に植民地産品を輸出するだけにとどまらず,フランス製産品を他国植民地に対して 再輸出することも行われた。この密輸出は重要な植民地にとって正貨獲得手段となっ た。 1700年,スペイン王にルイ 14 世の直径の孫であるアンジュー公フィリップ(Philippe d’Anjou)がフェリペ 5 世(Felipe 77 V)として即位した。これによってスペイン王室はオ ーストリアの系譜であるハプスブルグ(アブスボルゴ)朝からフランスの系譜であるブ ルボン(ボルボン)朝へと移行した。このことはフランスにとって長年ライバル関係に あったスペインが友好国へと変化したことを意味し,ヨーロッパの政治地図を塗り替え る重要な契機となった。この政治的変化にオーストリアやイギリス,オランダが異議を 唱え,スペイン継承戦争が発生する。戦争の結果としてスペインブルボン朝が正式にみ とめられ,以後スペインはフランス革命までフランスにとって重要な同盟国となる。 スペインが友好国となったことは,アンティル植民地にも大きな影響を与えた。スペ インの植民地が密貿易の重要な相手先となり,正貨供給先となった。スペイン領からの 正貨流入は,アンティル植民地で正貨流通の拡大を即すことになる。 18世紀初頭には外国貨幣を鋳潰して 9 リーブル貨を鋳造していたが,スペインとの 関係改善後,スペイン領で鋳造したピアストル貨が大量に流入し,両貨幣を問う価値と して流通させた。そのほかではサン=ドマング島では補助貨幣として外国貨幣を切断し たエスカラン(Esucalins)貨やモコ(Mocos)貨なども登場してい 78 る。 蠱. 2. 3 インド洋 フランス島やブルボン島では,18 世紀初頭インド会社が中心となって植民地紙幣を 発行した。しかしフランス革命が影響で紙幣が暴落したため,1793 年には産業の中心 であったコーヒーが通貨の代わりとして流通するようになった。1797 年に植民地政庁 がコーヒーに対する課税を高めるとコーヒーの倉庫証券が通貨として流通するようにな った。

さらにナポレオン期にはインド総督のシャルル=ディケン(Charles Mathieu I sidore

79 Decaen)が,フランス島のポー=ルイ(Port-80 Luis)においてポルトガル船から略奪した 銀地金でピアストル=ディケン(Decaen)貨を鋳造してい 81 る。 ──────────── 77 生没 1683 年∼1746 年,在位 1700 年∼1724 年 1 月/1724 年 9 月∼1746 年。 78 岡樂三,前掲書,444 ページ。 79 1769 年∼1832 年。 80 現モーリシャスのポートルイス。 81 岡樂三,前掲書,445 ページ。 同志社商学 第61巻 第4・5号(2010年1月) 58( 266 )

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蠱. 2. 4 インド本土 インド植民地は,フランス進出当時すでに現地に貨幣経済が存在していたという点 で,他の植民地とは大きな違いがあった。フランス進出以前の 1542 年,100 ラッティ ( 82 Ratti)の銀貨が鋳造され,ルピー貨と呼ばれていた。このルピー貨を基準にインドで は様々な貨幣が登場している。このように広く貨幣利用が浸透していたため,フランス 植民地での貨幣も現地インドの貨幣に合わせた形にする必要があった。1719 年にフラ ンス植民地会社はインドにおける鋳造権を獲得し,鋳造を開始している。一方イギリス もルピー貨を独自に鋳造しており,イギリスのインドにおける覇権が確立した以降は主 要な貨幣となっていく。しかしフランスルピーの方がイギリスルピーよりも品位が高か ったため一定のシェアを維持し続ける。フランスルピーがインドから完全に姿を消すの は 1870 年のこととなった。 蠱. 2. 5 その他の地域 ギニア及びセネガルでは,「第一次植民地拡張期」において特徴的な通貨は見いだせ ない。18 世紀以前のギニア植民地開発がほとんど進んでおらず,流刑地としての性格 が強かったため,現地で独自の幣制を確立する必要がなかったからだと考えられる。ま たこの時期のセネガルは,ゴレ島とサン=ルイの中洲に活動地域が限定されており,植 民地独自の幣制に関しそれほど必要としていなかったといえる。 蠱. 3 まとめ 「第一次植民地拡張期」におけるフランス植民地の通貨状況は,統一的なものは存在 せず,それぞれの地域の実態に合わせて独自性を持っていたといえる。ただしそれぞれ の植民地において共通であったのは,正貨不足という点であろう。対外的な支払いのた めには正貨が必要であったが,植民地は常に不足した状態におかれていた。正貨の供給 源となる有力な銀鉱山はフランス本土及び植民地には存在せず,またフランス本国の重 商主義の影響で満足な正貨の獲得植民地には困難であったといえる。 植民地内部の通貨に関しては,初期の段階では貨幣経済がすでに存在していたインド を除き,産品や不換紙幣で代替しなければならなかった。対外支払いのための正貨確保 は密貿易や私掠船といったいわば非正規の手段に依存していたのが実情である。ただ 18 世紀以降,砂糖生産が拡大したアンティル諸島では,スペインピアストル貨が大量に流 入し,域内でも正貨が利用される状況が発生した。しかしこのアンティル諸島最大の植 民地であったサン=ドマングは 1804 年に独立を果たし,19 世紀以降のフランス植民地 とは全く継続性がないものとなってしまった。 ──────────── 82 インド古来の重量単位,ルピー貨はもともと 11.34 g の銀貨とされる。 初期フランス植民地の通貨状況(木村) ( 267 )5

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お わ り に

「第一次植民地拡張期」のフランス植民地は世界中各地に広がり,それぞれの地域の 状況に合わせて独自の発展を遂げていたといえる。それぞれの植民地は地理的にも大き な違いがあり,取り巻く政治的,経済的状況も大きな違いがあった。 北アメリカ植民地は広大な面積を有しながら,その領域を運営することが困難で,産 業艇にも目立った発展がなかった。さらに隣接するイギリス領との常に緊張関係にさら されていた関係で,通貨に関しても政治的,軍事的な必要性に迫られて,不換紙幣が発 行されるなどの状況が続いた。 アンティル諸島は,初期の段階は私掠船活動などが中心であったが,砂糖生産の拡大 によって産業的な発展を示した。それに合わせ本国の重商主義という縛りがあるにも関 わらず,正貨の確保はそれほど困難ではなかった。 フランス領ギニアは流刑地としての性格が強く,セネガルは,ゴレ島やサン=ルイ等 一部の奴隷取引の拠点があったに植民地として産業の発展は見られなかった。そのた め,幣制として目立ったものは成立しなかった。 インド洋地域は,コーヒーの生産等が行われ植民地産業の発展がそれなりに見られ た。しかし,幣制が確立されるまでには至らず,コーヒー現品や倉庫証券が通貨として 利用される例が見られたにすぎなかった。 フランス領インドは,現地にすでに貨幣経済が成立していたこともあり,現地との取 引を行う目的でルピーの鋳造がおこなわれるなど,やや特殊な位置づけであった。 このように,「第一次植民地拡張期」のフランス植民地は,現地の状況に応じた通貨 制度が行われていた。しかし 1815 年の段階でフランスは上記の植民地のうち,アンテ ィル諸島のグアドループとマルティニック,フランス領ギニア,セネガル,インド洋地 域のレユニオン島(旧ブルボン島),そしてインド植民地のいくつかの拠点が残された だけであった。経済的に重要なサン=ドマング島はハイチとして独立しており,通貨制 度がある程度成立していた地域はほとんど失ってしまっていた。そのため,19 世紀以 降のフランス植民地の通貨制度は新たに構築する必要に迫られることになる。 同志社商学 第61巻 第4・5号(2010年1月) 60( 268 )

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参照

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