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スカルノとイスラム(1934年〜1942年) [Sukarno’s View on Islam(1934〜1942)]

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東 南 ア ジア研 究 9巻4FJ'・ 1972年3月

ス カ ル ノ と イ ス ラ ム

(

1

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4年∼1

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2年)

治 *

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TsucHIYA は じ め に

1

9

3

3

8

月反政庁活動 を理 由にバ タグ ィア (ジ ャカル タ)で二度 臼の 逮捕 を され た ス カル ノ は, それ以降

8

年以上 の歳 月を流刑地 で送 った

。1

93

0

年代 のイ ン ドネシア民族運動 は, オ ラ ン ダ植 民地政庁 に対 して非 協力政策 を唱え民族 の独立 を叫ぶ指導者 とそ の組織 とを 政 庁 の武断政 策に よって次 々と失 ってい った。 ス カル ノの率 い るイ ン ドネ シ ア党, - ツタ, シ ャフ リルの率 い るイ ン ドネシ ア国民教育協 会, イ ス ラム同盟 の後 身で この時期にパ ンダ ロらが率 いた イ ン ド ネシ アイ ス ラム同盟党 お よび 酉スマ トラに活動 の拠 点をおいていた プル ミ (イ ン ドネシ アモス レム統一協会) らは いずれ もその指導者 を逮捕 され , 組 織 の壊 滅 (教育 協会 お よび プル り ま たは協力政策へ の方針転換 (イ ン ドネシ ア党 お よびイ ン ドネ シ アイ ス ラム同盟党 ) を余儀 な く され てい った。1) ス カル ノにつ いてみ ると

,1

9

3

3

8

1

日に逮捕 され獄 中 よ りイ ン ドネシ ア党か らの離党 を 表 明 し,翌

3

4

2

1

7

日ス ラバ ヤか ら流刑地 のエ ンデ (フ ロー レス島)に送 られ てい る。

2

)1

9

3

8

年2月エ ンデで マ ラ リアにかか った スカル ノは, タム リンらの奔走 の末, 流刑地 を スマ トラの ベ ンクル - (ベ ンク- レン)- と移 され ることにな り, 夜行列車 で ス ラバ ヤか らメ ラ ックを経 て

3

8

2

1

4

日ペ ソクル ーに到着 した。3) 以後約

4

年近 くを スマ トラで 過 ご した スカル ノが

1

0

*東京大学大学院社会学研究科 1) この間の事情については,増田 与 『インドネシア現代史』中央公論社,1971,pp.94-112;St.Ra主s Alamsjah,10 0rang Indonesia Terbesar Sekardng(今 日もっとも偉大な10人のインドネシア人), Djakarta,1952,pp.19-20.

2)DahmBUSuK.iR NO and TheStruggleforIndonesian Independence,CornellUniv.Press,1969.

p.178.

3)St.RaisAlamsjah,oP.cit.,p.23;CindyAdams(ed.),Sukarno,an Autobiography,Hong Kong,

(2)

東 南 ア ジア研 究 9巻4号 年ぶ りに イ ン ドネ シア民衆 の前 にあ らわjtるのは 第二 次世 界 大戦u)勃 発 と

本軍 の蘭印進攻 を 契機 としていた。 大戦勃発前 の,そ してオ ラ ンダに よるイ ン ドネシア支配 のその 最後 の

4

年近 くを スマ トラの 流刑地 で過 ご していた スカル ノに と-,て,その 4

間は政 治

動 を禁 じられ ていた時 期であ っ たに もかか わ らず, イ ン ドネシアの独立 とい う彼 の

唯一

最大 の願いが彼 の記 した宗教論 ない し 時事評論 の中で比

愉的

にせ よ暗喰的にせ よ執鋤 に強 力に主張 され

展聞

発展 され てい く時 期であ った。 ベ ンクル ー時代 に ス カル ノが 記 した諸論文は, 彼 U)イ スラム論 と第二 次 世界人戦諭に人別 さ れ,る。 イ ス ラム諭が エ ンデ時代 以来 の彼 のイ ス ラム観 の延長線上に継 続 され 発展 され てい るの に対 し,第二 次 世界大 戦諭は

1

9

4

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二現

われ,

4

1

年には イ ス ラム諭 よ りもその比重はず -)と 重 くな ってい る。4)本稿 で扱 お うとす るのは, この時期 の彼 のイ ス ラム諭であ るが, イ ス ラム 諭 と第二 次大 戦諭 とは別 々に考 え られ るべ きものではな く, いずれ も艮族主義 (

艮他民 族主 義) の立場 か ら, ス カル ノにおい ては一 一一つ に結 びつけ られ てい るものであ ろ う. 従 って こU)時 期 の スカル ノの全体像 を捉 え るた め の 一段階 と して,

当面

稿 では彼 の イス ラム諭 に限 -)て整 理 したい。 ス カル ノが イ ス ラムについて発言す る際にこ っ の主題が問題 とされ てい る。 一つは近代化 の 問題であ り, も う一 つ は 政 教分離 の 問題で あ る。 それ は ともに来 た るべ き 独立 国家 イ ン ドネ シアのそ の基礎 を作 るための スカル ノの 作業 であ った と 言 え よ う。 本稿の 第

1

節 では スカル ノのイ ス ラム論 を 整理 し, 第 ¶節 ではそのイ ス ラム論 の 背景について 若干 の 考察 を してみた い。 l スカル ノのイスラム論 (1) イ ス ラムの近代化 ペ ソクル -滞在に先 立つ エ ンデ時代 に ス カル ノは, バ ン ドンのイス ラム統一協 会 (後 述) の -サ ンに宛 てで書簡 を書 き綴 った が, そ の書簡 で繰 り返 し説 かれた のはイ ン ドネシアの イス ラ ム社 会 の時代 お くれ の現実 に対す る批 判であ り, イ ス ラムは時代 とともに進歩 しなけ/抽 出 〔ら ない とい う主張 であ った。 時 代お くれ とい う呼, スカル ノは r千 年のお くれ」 について語 り, 4)スカルノのペソクルー時代の論文で,彼の論文集に収められている論文 (全部で24)の内容は次のよう に分け られ る。 イスラムに関するもの10, (1939-2,1940-5,1941-3) 第二次世界大戦に関するもの13, (1939-0,1940-4,194ト9) そ の他1

,

(194ト1) 578

(3)

土屋 :スカ/レノとイスラム(1934年-1942年) 時 代 と と もに 進 歩 す べ Lとい う時 , 時 代 とは 現 在 と未 来 の こ とを さ して い た 。5) エ ンデ 時 代 か ら さ らに

1

0

i用 布, ス カル ノが は じめ て民 族 運 動 の政 治 舞 台 に 登 場 した 当 時 , 彼 は イ ス ラ ムに つ い て 民 族 主 義 と社 会 主 義 の 時 代 の イ ス ラ ムの あ り方 に 触 れ , 今 日の イ ス ラ ムは 民 族 主義 と も社 会 主 義 と も協 同Lて民 族 独 立 の 闘 争 に 立 ち 上 が るべ きで あ る こ とを 主 張Lて い た 。 現 在 が 植 民 地 下 の 諸 民 族 の 民 族 主 義 の 時 代 で あ り, この 民 族 主義 の 時 代 に あ )て 社 会主 義 とイ ス ラ ム とは いか な る態 度 を と るべ きか とい うのが ス カル ノの 主 張 叫 tl発点 で あ I,た。 l(i)28牛 ア ブス ・サ リ ムが , 汎 イ ス ラ ム主 義 o)立 場 か らス カル ノに よ る艮 族 主 義 U)強 調 は 「

国 を

格化

L

, シ ョ-ど こ ズ ムへ u)危 険 を は らむ もu)」 と して ス カル ノを 批 判 した 際 に , ス カル ノは,

r

わ れ u)

族 主 義 は 東 洋 の 民 族 主 義 で あ り, そ れ は 受 身 の 民 族 主 義 で あ って

西

洋 の 民 族 主 義 の よ うな侵 略 的 性 向 を もち え な い もの で あ る

J

と述 べ て サ リムに 反 論 Lて い るが , そ の 反論 の t巨 亡もス カ ル ノは , サ リム と彼 の 見 解

制 二は 基 本 的 な 相違 点 は 何 もな い こ と,

者 が と もに 闘 う基 盤 は 5)エ ンデ書簡の第 7倍でスカル ノは次の よ うに述べてい るo 「わた くしたちが イスラムの歴史をひ もといてみ ると,そ こに 見出 され る(J)u 盲信U)結果起 きてい る イスラムの絶 えざる後退の軌跡です.一般的に言 ってわた くしたちの教師,学者はい ささかの歴史感J辻 も持ち 合わせ てお りません.多 くは歴 史の知識を少 しも持 っていない と言って さしつかえあ ります まい. 彼 らが心を傾けてい るのはただ宗教それ のみであ って, この宗教の内,特に戒律だけです。あ る民族の 興亡を もた らす社会の活力を研究す るところの よ り深い分野であ る歴史,彼 らはそれにほ とん ど関心を 示そ うとしてお りません。 これが, これ こそが最 も重要な研究分野 なのです。後退の原因は何か。現在 の この在 り様 の原因は何か。わた くしたちが歴史の興亡を研究す るとき, これ こそが絶えずわれわれ の 思いをかけめ ぐらす最 も大 切な質問なのです。 ところがわ た くしたちの教師や学 者は ど うで しょうかO コーランを正 しく唱え ることはできて も歴 史 についての知識は皆無です。せいぜい彼 らの知 ってい るのほ 「ィス ラム年代記」であ り, これ とて も古 いイスラム伝承記か ら編 まれた ものであ って近代科学 の検証,つ ま り近代の知識,学問の検証 には耐 え えない ものです。彼 らが軽視 し,蔑視 してい る歴史の諸事実 こそ,明確にかつ容赦な くイスラム世界に 盲信が生 まれ て以来,イス ラム教世界は後退 し続けて きた ことを証拠だててい るのです.イ ジテ ィ--トの門は災いの地- と通ず るとい う考えが現われて以来,イス ラム世界は生け る巨人の屍 とな ってい る こと, また 「4人の信仰の指導者」を凌 ぎ うるコ-ラン学者 の出現はあ りえないか ら, これ ら四つの宗 派 のいずれかの教師,学者にただただ盲従 しなければ な らない とい う考えが現われて以来,イス ラム世 界の知恵の光は消え果てて しまってい ること,そ の ことを歴史はは っき りと語 っています。わた くした ちの宗教指導者たちがその盲信が現われ て以来のイス ラム史の凋 落を理解 し,彼 らがただ教典 の定め, 宗教上の錠に よってのみ生 き死に し,立居振舞す ることをやめれば どれほ ど

い ことか しれ ません。」

〔Sukarno,Diba!t・ah Bendera Revolusi(隼命の旗のTに), Vol.I,Djakarta,1959,(4th edition), pp.332-333.〕 また,第8倍では次のよ うに述べてい る。 「政治 犯として流刑地にい るわた くLに向か って青年は こ う尋ね ます。かつてのイス ラムの栄光の時代が よみがえ るための方策は何で しょうか。私 の答は簡単で すoイスラムは時代に追いつ く勇気を持たなければな りません, と。100年ではな く1,000年 もイス ラム は時代に と り残 され てきま した。 もしイス ラムが この1,000年に追いつけないな らば,イスラムは まち がいな く蔑す まれ,狼雑な ままでお りましょう。かつてのイスラムの栄光へ回帰す ることではな く, ま た "カ リフの時代"に戻 ることではな く,前進 し時代に追いつ くこと, これだけが栄光再現 のための唯 一 の方法なのです。あた くしたちはなぜかつての "カ リフの時代日を複写せ よと教 えねば な らないので しょうか。現在は1936年であ って 700年 で も 800年で も900年で もあ りません。社会 とはわれわれ の意 のままに後戻 しので きるよ うな牛車ではあ ります まい。社 会とは捕-前- と進む もの,次の段階-歩む ものであ って,戻れ と命ぜ られ て も戻 るものではあ りません

.

」〔ibid.,p.334.〕 なお,『ェ ンデ書簡』については拙稿を参照 されたい。土屋健治 「スカル ノと 『エ ンデ書簡

『季刊 東 亜』第11号,1970,pp.24-52.

(4)

東 南 7 ジア研 究 9巻4号

全 に 存 在 して い る こ とを繰 り返 し述 べ , サ リム との対 立 を避 け よ うとす る慎 重 な考 慮 が払 わ れ て い た .6) と ころで

,1

93

4

年 以 降流 刑 地 エ ンデ の 「閉 ざ され た世 界」 に あ って, ス カル ノが イ ス ラ ムに 傾 倒 して い くのは表 面 的 に は政 庁 に よ って政 治 活 動 を禁 じ られ 政 治 組 織 との 接 触 が不 可 能 と さ れ た こと と, 孤 島 の生 活 で の寂 家 感 を イ ス ラ ムの宗 教 団体 との交流 を 通 して 慰 め ん と した こ と の結 果 で あ った 。 しか しそ の 交流 の 相手 が バ ソ ドゥンに あ -'た イ ス ラム 統 一 協 会 (Persatuan

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で あ った こ とは ,

1

93

0

年 前 後 の 活 動 の 中 心 地 を /ミン ドゥソに 置 い て い た ス カル ノに対 Lて, つ い 数 年前 まで の彼 の活 動 の記憶 を -サ ンとの書 簡 の往 復 を 通 して生 き生 き と挺 らせ る もので あ った。

1

93

0

年 代 初頭 の イ ス ラム統 一 協 会 の状 況 お よび統 一 協会 とス カル ノとの 関 係 は ほ ほ 以 下 の よ うで あ った 。 イ ス ラ ム統 一 協 会 は

1

92

3

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1

7

円パ レンバ ン出身 の

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・ザ ムザ ム

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に よ って バ ソ ドゥソに設 立 され た 。7

) 1

93

0

年 代 初 頭 の統 一 協会 の責 任 者 は 改 革 派 イ ス ラ ムのす ぐれ た 理 論 的 指 導 者

A.

- サ ンで あ り,

3

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年 代 後 半 か らは ナ シ ール

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とイサ ・ア ンス- リ

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が そ の中 心 的 活 動 家 とな った 。 統 一 協 会 はす で に

1

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2

年 に ジ ョク ジ ャカル タで 設立 され て い た モ- マ デ ィヤ協 会 と同 じ く, イ ス ラムの改 革 を掲 げ て正 統 派 イ ス ラムを も って任 ず るキ ヤイや ウラマ等 イ ン ドネ シ ア村 落 に おけ る 伝 統 的 イ ス ラム指 導 者 と対 立 した 。 そ の主 張 は, 現 存 の イ ス ラ ム教 義 の中か ら様 々な爽 雑 物 を取 り除 き, た だ コー ラ ンとス ソナ (マ ホ メ ッ トの言 行 ) の上 に の み イ ス ラ ム教 義 は 築 か れ るべ き もので あ る とい うもので あ った。 そ の清 動 は 改 革 派 イ ス ラムの宣 伝 布 教 , 宗 教 書 の翻 訳 や 解 説 の 出版 を 主 と してお り,

1

93

5

年 当時

3

,

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0

名 の会 員 を擁 し

2

0

の支 部 (内

,

酉 ジ ャワ

1

5

, セ レべ ス

2

, ス マ トラ

2

, ス ラ ノミャ 1) を 持 って いた 。8)当 時 の バ ン ドTyンに おけ るス カル ノの清 動 は, 統 一 協会 に 集 ま る人 時 の両 名 の交流 が 後 に エ ンデか らス カル ノが - サ ンに 宛 て て書 簡 を綴 るゆ え ん とな った とい う。 また 先 に あ げ た ナ シ ール は, 周 知 の よ うに 後 に マ シ ュ ミ党 の指 導 者 と して 反 ス カル ノの立 場 に 立 つ が , そ の ナ シール が西 ス マ トラの故地 を 立 って

1

9

3

0

年 に バ ン ドゥソ- 来 た と き最 初 に触 れ た 民 族運 動 は ス カル ノに指 導 され た もの で あ ー)て, ス カル ノの主 張 に 強 い 感 銘 を受 け て いた 。 イ サ ・ア ンス- リは , 同 じ く西ス マ トラか らバ ン ドゥン- イ ス ラムを学 ぶ た め に きて いた が, 彼 は ス カル ノの演 説 に 感 激 して

1

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3

2

年 当時 に は ス カル ノの 率 い るイ ン ドネ シ ア党 - 入党 して い る。 イ サ が統- 一協会 - 加 入 す るのは

1

9

3

7

年 に な -)てか らで あ る。9)

6)Sukarno,DibawahBenderaRevolusi,pp.109-114.

7)G・H・ブスケ,太平洋協会訳 『蘭領印度に於 る回教政策 と植民政策』昭和16年,中央公論社,p.27. 8)同上書,p.28.

9)当時のバ ン ドゥン統一協会 とスカル ノをめ ぐる状況については,St,RaisAlamsjah

,o

p

.

cit.,pp.72-83; H・Aboebakar(ed・),SedjarahHidupK.H.A,Wahid Hisjim dan karangan iersiar, (ワヒ

ド・-シムの生涯 とその著作),Djakarta,1957.pp.216-221. 580

(5)

土屋 :スカノレノとイステム(1934年∼1942年) この よ うな背 景 の 中 で ス カル ノと- サ ンとの エ ンデに おけ る 往 復 書 簡 が 始 ま るので あ るが, そ の 書 簡 の 中 で 後 の ペ ソクル ー時 代 の ス カル ノを 見 て い く際 に 注 目され るの は, ス カル ノが コ ー ラ ン, ス ソナ, - デ ィー ス- の 回帰 を 通 して イ ス ラ ム社 会 (ス カル ノに と ってほ イ ン ドネ シ ア社 会 ) の近 代 化 を主 張 す るだけ で な く, ジ ャーイ ズや ムバ - フユo-を 根 拠 と して, イ ス ラムが 時 代 と と も進 歩 しうる もの で あ る こ とを 主 張 して い る点 で あ ろ う.ll) ジ ャイ ズ な い しムバ -フに ス カル ノが 託 して い るの は 彼 のく 進 歩観\-で あ り, 彼 ,))い う・ 時 代 の流 れ 二′で あ る。 彼 は 10)イスラム法では,人間の行為をアッラーが定めた と考える価値に従 って次の五つに分類 している。 (1)あ る行為は義務的であ る。 これは ファル ド (または ワージブ) と称す る。

(

2

)

ある行為は怠 っても罰せ られないが,推賞 され る行為であ って行なえば報償を受け る。 これはス ソ ナと称せ られ る。 (3)あ る行為は許容 され るO して もしな くても賞罰とは関係ない。 ムパ-フとか ジャーイズとか称せ ら れ るものが これであ る。 (4) ある行為は忌避 され,行なっても罰 こそ受けないが,避けて行なわなければ賞を受け る。 マクルー プと呼ばれ る。 (5) ある行為は禁 Il二され,行なえば罰を受け る。 これは-ラームと称せ られ るo ll)第8倍でスカル ノは次の ように述べてい る。 「何故,あた くしたちはかつての …偉大なイスラム"の時 代に戻 らなければな らないので しょうかOイスラムの淀が,- ラーム,マクル-7,ス ンナお よび フア ル ドだけに とどまらない ことをわた くしたちは忘れて しまったので しょうか.=ムパーフ日や,"ジャ-イズ"があることを忘れたので しょうか。 このムノミ-フや ジャーイズを思い.LIJ.す ことは,イス ラム信徒 に とってどれほ ど

い ことか知れ ません。イスラム信徒が世俗的な規範 と統治形態において正統を拒否 し,古い方法を投げすて,新 しい方法を取 りあげ, ラジオを持ち,飛行機を持ち,電気を持ち,近代化 され,近代を乗 り越えてい くこと, この ことがア ッラ-とそ塑使徒に よって禁 じられ るべ きものでない 以上,それは許 されているのであること なにか良い ことで しょう。信徒に と って最 も有益な闘争は守旧主義 との闘争です。 これ との聞知 こ打ち勝 っては じめてイスラムは この千年 の間隔を埋め,時代に追いつ くため全速力で走 り出す ことがで きるのです。後方 の正統主義を叩 きつけ 前方の時代を追いかけ る闘争, これ こそ ケマル ・アタチ ュル クが彼の次の言葉の中で意図 した ものだ っ たのです。つ ま り,"イス ラムは,一 日中回教寺院に 脆坐 して 数珠を もてあそびつつ 阪想す ることを命 ず るものではない。イスラムは闘争その ものです。=まさにイスラムは進歩です。 イスラムは前進です。」

(傍線引用老)(Sukarno,DibawahBenderaRevolusi,p.334.)

また,第11信では次の ように述べている。 「先便でわた くLは,イスラムは進歩的であ り,先進的で あると, こう記 しました。イスラムは, ファル ドがあ りス ソナがあ ることに よって先進的なのですが, しか しまた時代の制約を克服 してい くような ジャ-イズや ム,i-7とい った規範に よって絶えず拡大 さ れてい くことに よって, また先進的なのであ ります。イスラムは進歩です。進歩 とは新 しい物,過去の ものより完全で より高度な新 しい事物の ことです。進歩 とは新 しい ものを創造す る行為であ って,過去 の繰 り返 し過去の事物を複写す ることではあ りません。イスラムの政治においてほ,過去の事物を複写 す ること,偉大 なカ リフの時代を繰 り返す ことは良い ことではあ りません。 しか るに, ここでイスラム の政治指導者たちはなぜ偉大な カ リフの時代のような 政治制度を教え続けているので しょうか。 1,000 年以上に も及ぶ時代の歩みの中で人間性は過去 よりもより完全な, より賢明な, より高度な新 しい諸制 度を手に入れ てきたのではないで しょうか。偉大なカ リフの時代の炎 とは何で しょうか。その炎は彼 ら が見つけた り,作文 した り,作曲 した りした ものではない ことをわた くしたちは忘れたので しょうか。 彼 らはただその炎をわた くしたちが現在 も保持 してい るア ッラーの御言葉 と使徒のス ソナとか らつかみ 出 しただけの ことであ るのを忘れたので しょうか。 L_PTi_LM,ーMわなit をうー自身が,ア ッラーの御言葉 と らつか人出 した ものは何で し羊う か._そ担 羊水空炎里勢 時ですまなーもー虜 や挨空重雛 あ旦 空耳 .アイ ・シャ ドウをほ どこし, ターバ ンを 巻 きつけ,香料や, らくだに乗 ることを愛好 し,崇拝の心を欠いた ままイスラムの講話や礼拝を行ない コ-ランの章句や聖歌の読み方だけを知 ってい るとい う灰であ って,時代一撃すづ字 を買上て準え上を33 てい る炎ではないのです

」(傍線引用者)(Sukarno,DibawahBenderaRevolusi,pp.340-341.)

(6)

東南 ア ジア研 究 9巷4I,;・ そ の こ と を 上 磯 的 知 識」 l麿 史 u)検誇上

目利学

的 精

」 等 の 言 葉 で お きか え て い る.13) 後 述 す る よ うに ス カル ノは 改 革 派 イ ス ラ ム と同様 に コ- ラ ン, ス ソナ, - デ ィー ス等 の イ ス ラ ムの聖 典 を重 要視 しな が ら もそ の重 視 の 仕 方 は は な は だ 異な -)て い る。 エ ソデ 書 簡 に端 的 に み られ る よ うに , ス カル ノが コー ラ ンや ス ソナ の 内 に 見 侶 して い るの は , 何 よ りも まず そ の時 代 に 燃 え さか 一了〔い る r火 や 炎 や 鮒

廿

」で あ り, そ u)炎 だ け が 「イ ス ラ ム栄 光 時化」を 成 立 させ え た と 考 え ,:J什 〔あ ,4'Jo そ して コ・-ラ ンや ス ソナ の 内 に は 本矧 伸 二 ロ時代 の す べ て を貫 い て燃 え上 が く,炎

_

日 /}あ る こ とが ス カル ノに と -,て は 何 よ り も

t

T.:腰 な こ とな ())で あ るo (脚注

1

1

を参 照 )あ らゆ る主 張 が こ と ご と く コー ラ ンの いず れ か の 章句 に よ

-

,

裏打 ち され る 1うな 改革 派 イ スラ ムの 思 考

法は ス カル ノに お い て は ほ とん どL方、らtLLない 。 しか もな お , エ ンデ に お い て ス カル ♂)で あ る。13)

流刑

地 fiJ移 封 して ス マ トラ- 班-,た ス カ ル ノ′//,, そ ,))地で改 桐 たイ ス ラ ムの モ ノ、--1デ ィヤ 協 12)第 9信でスカル ノは次の ように述べてい るO 「もしあなたの伝道者が,例えばナ シ-ル氏の ように磨 き あげ られ るな ら何 と良い ことで しょうO もしイスラム信徒が古い生活態度 しか持たず,西欧 と近代 とを 否定す るな らば,イス ラムは ここで,いや世界中で再び光を放つ ことはないだろ うとわた くLは深 く確 信 してお りま

O コーランと/、デ ィ-スほ最高の法ですが, この コーランと-デ ィースは,わた くした ちがそれを一般的知識の理解の上に読んで こそ 初めて前進を もた らし,火 と生命 とを もた らす ものとな るで しょう。 コ-ランと-デ ィ-スその ものが まさにわた くしたちにすべての科学 と進 歩の分野の,す べての知識 と発展 の分野 の祭司者 とな るべ く要目LrHノてい るのです。イス ラムの古 さ,頑 迷 さ

,

怠慢 さ, 混雑 さこそ

,

帯の- ジャ-ズの ウラマたちを して,イブン ・サ ウ ドに メデ ィナの ラジオのア ンテナを破 壊せ しめた

由であ り, これ こそ また多 くの人 々が ケてル ・アタチ コJレク, リザ ・カー ンパ フライまた ヨセフ ・ス ター リンに よって作 られたい くつかの新 しい秩序 の意義を理解 もせず,理解 もで きないそ の 理 由とな ってい るのですO守 旧的で,狼少なそ の方法 こそ,解釈学 の分野において もまた,全

西

洋が イ スラムを反進歩的宗教

,

道に 迷 った 宗 教 と見 な してい るその理 由 とな ってい るのです

」 (Sukarno, Dibau,・ahBenderaRevolusi,pp.336-337.)

13)スカル ノは第 7倍で次の ように述べてい るO 「エ ンデの守旧の徒- -ノ、ドラマウ ト出身者の影響下にあ るのですが-- は,わた くLが亡 くな った義母のために =

仰告白の儀式''を していない ことを心安か らず思い,わた くLが義棚 こ対 して心 くぼ りと愛情を持 っていない と言 ってお ります。ほ うってお きま しょう。彼 らはわた くLと家内が最低1日5回,義 母のために神 こ赦 しを乞 うてい ることを知 りもしな いのです。焼如っくぼ義母がその罪 を赦 され イス ラムの信仰を受け入れ られ ます ようO また,願わ くば ア ッラ-が,あの ような老齢であ ったに もかかわ らず,わた くLに従 って流刑地 の孤葱に甘ん じた義母に 慈悲 と恵み と祝福を与えて下 さい ます ように

(Sukarno,Dibalt・ahBenderaRevoltlsi,p.333.)

第12倍では,彼の書簡 の刊行を認め るにあた って次の ように述べてい る. 「あなた宛 のわた くしの畏 怖を出版 したい との御意向ですが, もちろん

結構

です。それについて まった く異存 ございません。それ どころか, この書簡 を他の人が知 って くれ るのは さらに結構な ことです。 これ らの手紙 の中にはわた く しの心,わた くしの

神,わた くしの魂の幾分かが表 明されてい るのですか ら。 これ らの手紙は,わた くしの魂の軌跡の一部分を描いてお ります。い まだ不確かなイス ラムの魂が,イス ラムを確信す る魂 と な り,神の存在を知 ってはいて もそれをい まだ認めていなか った魂が 日々神 と向かい合 う魂 とな り,神 性について多 くを思考 して もい まだそれに身を捧げていなか った魂が 口々神に祈 りを捧げ る魂 とな って い った,そ の軌跡が これ らの手紙には描かれ てい るのです。わた くしはい ま,わた くしの魂を この よ う に高めて くれた唯一絶対神た る7 ッラーと,わた くLを助けてわた くLをか くあ らしめて くれたすべて の人 々,なかんず くあなたに感謝を申 し述べなければな りません。 ア ッラーと人 々-の感謝 の印 として わた くしの書簡を公表す るとい うあなたの願いを承諾 したい と思い ます

.

」(Sukarno,DibaZt・ahBendera Revolusi,pp.341-342.)

(7)

二l二屋 :スカルノとイスラム(1934年∼1942年) 会 の会 員とな るのは, エ ンデ以来 のイ ス ラム近代化 の主張か らすJ和 ぎ, また,依然 と して政庁 官憲 の監 視下 におかれ て政 治活動 を禁 山こされ ていた とい う状況か らす,恒 £当然の成 り行 きであ った。 しか しベ ンクル -にお いて スカル ノは, 現実 に改革派 イ ス ラムU)運 動に参加 (モ- マデ ィヤ学校 の教師)す ることに よって, 改革派 の運 動その ものが彼 の考 えていた近代化か らはほ ど遠 い ものであ る ことに大 きな失望 とい らだ ち とを感ず ることに な るo コ- ラ ン, ス ソナ とと もに ・時代t,をイ ス ラム

u

)

指標

と して掲 げた ス カル ノに とって, 改 ・桐 元です らその.時代 一、か ら立 ち遅れ てい る こと,それ が現実 の

空間

でイス ラムと 交差 した スカル ノが最初 に 削

した こ とであ -)たoそ してエ ソデ以来 のイ スラム近代化 の主張 は, ベ ン クル・-パニおいて よ り具体的 な 問題 を と りあげ る ことに よ-)て引 き継 がれ てい くことにな る. 1939年初めに モ-マデ ィヤの集 会に 出席 しよ うと した スカル ノ犬 掛 よ, そ の会場にかけ られ ていた男女 を分かつ カ-テ ンを 口に して会場か ら立 ち去 った。14) この

「事件」

に関連 して新 聞 記者 とのイ ンタ ビュ-を行 な -)た スカル ノは, その[巨 ごほぼ次の よ うに述べ てい る。 (このイ ンタ ビューは 「-ヵ一一テ ン

隷 従の シ ソボルであ る1・l5)と題 され て F'パ ンジ ・イ スラムLll 誌に掲 載 された。) に1ィス ラムは, 男 と女が互 いに見つめ 合 うことを禁 じてはい るが, ア ッラー もその使徒 もカ ーテ ンを引け とは命 じていない。 男女が見つめ合 うことを防 ぐために カ-テ ンを

くのは,盗 みは禁 じられ てい るか らすべ ての家は鋸 をかけ よ, 虚 言は 禁 じられ てい るか らLIな どは縫 い取 って しまえ, と言 うの と同 じ類 いの ことであ る。 私 (スカル ノ)が モ-マデ ィヤの会員にな っ た時 に,集会では カ-テ ンが

か;虹 こい ることを知 っていたのでは ないか, それ なのに なぜ入 会 したのか と聞 かれ るが, 私浴 モ- マデ ィヤに入会 したのはそ 叫 劫会内のすべ てを

認したか らで はな く,

よ りも私が イ スラムに帰依 してい るか らであ -)た。 モ-マデ ィヤは原則的に イ ス ラムへ帰依 してい るが, そ の内部では まだ私がみ ていかに も守 旧的 だ と思われ る諸要素 があ る。 私の モ- マデ ィヤ入 会の 目的は改

の推 進力 とな る ことであ -)た。 お よそ歴史はて!l-い もの と新 しい もの, 正統 派 と改革派 の

周の争闘であ るo そ して真のイ ス ラムは 女性 の隷属的 な地 位 を引 き上げん とす るのに対 し正統派 イス ラムは女性 の地位改 準LLに対して 強い ブ レーキをかけ よ うとす る.ln16) それに続け て スカル ノは, アグス ・サ リムを引 き合いに して こ う述べ てい るo その まま引用 してみ よ うLl 「私にとってそのカ-テンは隷従のシンボルである。イスラムは隷従を望んではいない。私は-ジ ・ア ブス ・サ リムがかつてある集会でカ-テンを引き裂いたことを党えているo しか り,彼は公然とそれを引 14)この事件は,1939年 1

)

121「1付 目ァデ ィル"紙に報ぜ られたとい う.Stlkarno,DibaulahBenderaRe

v-oLusi,p.349.

15)"Tabiradalahlambangperbudakan,"(SulliarnO,DibawahBenderaRevolusi,pp.349-351.) 16)Sukarno,Dibau:ahBenderaRevolusi,pp.349-350.

(8)

東 南 ア ジア研究 9巻 4号 き裂いたのだ !私の考えでは彼の行為は,例えば煮えたぎる大海やただ一度の罪のゆえにつながれた獄中 か ら英雄を救い出す よりもっと偉大な行為である。何故な らば,そのような行為には大 きな道義的勇気が 要請 され るか らである。私のした ことは何であ ったか。私は大 きな勇気を示そ うとしたわけではな く---道義的 "抵抗日としてその集会か らしおれた犬のよ うに退Ll=ノたのである。」1T) 最 後 に 彼 は こ う述 べ て い る。 「私は (この問題に関 して)怒 っているのではない。怒 ってなんかいや しない。私はいずれかの守旧的 なアダ ッ ト (慣習)に怒 りを向け ることはで きない し,私 とは異なる考え方を している仲間たちに怒 りを 向け ることもで きない。彼 らは無意識に女性を卑しめんとしてい るのだO彼 らは 自由に確信を抱いている のだ し,私 も自由に考える。私はマル クスの歴史学派の学徒であ る。 このカーテ ンの問題を私は歴史的に 考える。純粋に非個人的なこととして考える。みた ところそれは小 さな問題,たかが布切れ一枚 くらいの 問題に思われ る。 しか し本質的にはそれは きわめて大 きくきわめて重大な問題,女性の社会的な地位のい っさいに関わ っている問題なのである。私は繰 り返 して言お う。 カーテンは女性隷従のそのシンボルであ ると !その隷従を除去す ることは歴史的な義務である

!」

1

8

)

エ ンデ 以 来 の ス カル ノのく一二進 歩 二→の主 張 は , こ こに カー テ ンとい う具 体 的 な 問 題 を通 して さ らに 鮮 明に な され る こ とに な る。 この rカ - テ ン問題

J

に つ い て 「改 革 の推 進 力」 た らん とす る ス カル ノは , 「マル クス歴 史学 派 の学 徒 」 の 立 場 か ら,1939年7月 に メ ダ ンで 開催 され た 第

2

8

回 モ- マ デ ィヤ全 国 大 会 に 際 し当時 の モ- マ デ ィヤ協 会 会 長

K.

H.

M.

マ ンス ー ルに 宛 て て, r"カ -テ ゾ '問 題 に 決 定 を下 され た い19)

と題 す る公 開 状 を送 った 。 「多 数 の イ ソ ドネ ッ ア知 識 人 (イ ソテ レクテ ユール) の 要請 と名に お い て

送 られ た この公 開 状 の 中 で ス カル ノは カー テ ン問 題 が 彼 の予 期 した よ うに 多 くの知 識 人 と青年 の注 意 を 惹 き, ス カル ノの所 論 に 対 して ジ ャ- ナ リズ ム界 で賛 否 両 論 が 渦 巻 い て い る と述 べ , モ- マ デ ィヤは この間 題 に つ い て の結 論 を 迫 られ て い る と述 べ て い る。 カ - テ ンは 無 意識 の 内 に 女性 を隷 従 化 させ て い るの で あ り, そ れ は 個 々人 の 行 為 の 当否 を 越 えた 社 会 的 問 題 で あ るが, そ れ ゆ え に こそ 時 代 と と もにす す も うと して い る モ - マ デ ィヤ協 会 に と って は 切実 な 問 題 で あ るは ず だ と して 次 の よ うに 述 べ るので あ る。 「・-ブルジ ョワ法の構成は, ヨ- PッパのTJII生が個人個人意図的に女性を 卑しめ ようとした ことの結果 ではないO意図的な結果ではないOそ うではな くて, ヨーロッパの社会構造 の結果であ りヨ-ロツパ人社 会におけ る歴史的社会的な関係 としての ヨーロッパ社会構造の結果なのであ る。か くしてまた私が カーテ ンは女性 の隷従のシンボルであると言 う場合,私が言わんとす るのはイスラムのタ拍ミ意識 して女性を抑圧 しているとい うことではない。 また,イスラムの男がすべて邪悪な者であるとい うことではない。私の言 わんとす るのほ, カーテ ンがイスラム社会の諸関係,すなわちイスラム社会 の歴史的関係の結果ない し残 存であるとい うことである。--くり返 して言お う。イ ン ドネシア知識人はそのカーテンに共鳴 しえない。何故な らば,彼 らは歴史的社 会的分析方法に よって カーテ ンが社会に隷従を もた らした歴史のプロセスの残存であることを知 っている か らである。彼 らは カ-テ ンをもって彼 らのイデオpギーをいた く傷つけ るものと感 じている.何故な ら 17)ibid"p.350. 18)ibid.,p.351.

(9)

土屋 :スカ/レノとイス ラム(1934年-1942年) は彼 らは反隷従のイデオロギーで生活 しているか らである.・・・・・・ さて今度は逆にモ-マデ ィヤの徒のイデオロギーに注 目してみ よう t先に も述べた ように, カーテンは イ ン ドネシア知識人のイデオ ロギーに触れているとともに,モ-マデ ィヤの徒のイデオ ロギーに も触れて い るか らであ るO どうしてモ-マデ ィヤの徒のイデオロギーに も触れ ているのか. とい うのは,そのカ-テ ンが,モ-マデ ィヤが彼 らの言 うモ-マデ ィヤ的性格か らどれほ ど遠 いかを計 る試験 とな っているか らであ る。彼 らが, コーランと-デ ィース以外のものを根拠 とほ しようとしない若 いイデオロギーを持 っているとい うのは正 しいのか.彼 らが若いイデオ pギ-を持 っていて, コーランお よびノ、デ ィースと一致 しないアダ ッ トに勇敢に立ち向か っているとい うのほほんと うなのかO彼 らが若い イデオロギーを持 っていて,宗教が明白に よしとしている一切の近代的な ことが らを勇気をもって受け入 れ ているとい うのほほんと うなのかOモ-マデ ィヤのイデオロギーは, この メダン大会において試鉄の場 に立た され る。そ してイン ドネシアの知識人はおそ らくは時代に調和 して,その試練が成果を上げ ること を待望 し希求 している。-

-」

2

'

)

この モ- マデ ィヤ の大 会 で, ス カル ノの公 開状 が どの よ うに 扱 わ れ た のか 知 りえ な い が,ベ ン クル ーにお い て 「ヵ- テ ン事 件

を契 機 に始 め られ た ス カル ノのイ ス ラ ム 近 代 化 の主 張 は, 翌1940年 に入 る とよ り一 般 的 な問 題 に 拡 大 して い くこ とに な る。 こ とに 「ら くだ の社 会 と飛行 機 の社 会

2

り とい う論 文 で は , エ ンデ書 簡 の第11信 (脚注11参 照 ) を再 説 しつ つ , イ ス ラムが く 時 代 > と と もに進 歩 して い くべ き もので あ る ことを, 従 って, そ のた め に は 予 言者 の 言葉 自 身 もよ り制 限 的 に 考 え るべ き こ とを 主 張 す る。 こ こで は 先 に あ げ た コー ラ ン 等 の聖 典 とく 時 代 > の うち聖 典 の 内 に燃 え る炎 を現 に このく 時 代 二T:再こ燃 え た た せ る ことが もっ と もイ ス ラムに 忠 実 な者 の と るべ き態 度 で あ る とい う主 張 がみ られ , そ れ は 次 に述 べ る政 教 分 離 の主張 の主 要 な根 拠 とな って い くの で あ る。 と ころ で この 「ら くだ の社 会 と 飛 行 機 の 社 会

は,1940年4 月 マ ホ メ ッ トの 誕生 日に 寄 せ て 記 され た もので あ るが, 当初 編 集者 か ら 依 頼 され た テ ー マは 「社 会 の建 設 者 , 予 言者 マ ホ メ ッ トlとい うもので あ った.-12) ス カル ノが そ の題 を改 め た 意 図 は, い うまで もな くイ ス ラ ムの1000年 の時 代 の落 差 を, ら くだ と飛行 機 に 要約 して 明示 せ ん と した か らで あ る。 そ れ は 次 の よ うな挿 話 を も って始 め られ る。 「- ある日のこと,私の飼犬が泉の傍で手桶の中の水をなめた。子供のラ トナ ・ジュア ミはそれを見 て こう叫んだ。=お父 さん,お父 さん, クテ ィツタの奴が手桶の水をなめました よ。''そ こで私は こう答え てや った。"その水をおすてな さい。 そ して,石鹸とクレオ リンを使 って, 何回か洗 ってきれいに しなさ い。" - ラ トナは しば らく考えこんでいた。それか ら彼女は こう尋ねた。 "でも, 予言者は こうお っしゃって いたではあ りませんか。その手桶は七度洗われ るべ し,そ してその内の一度は,土で洗われ るべ Lと。= - 私は こう答えたoH予言者の時代には, 石鹸 もクレオ 1)ンもなか ったのだ よO 予言者はその時代に石 鹸や クレオ リンを使えと命ず ることは不可能だ ったのです。= - ラ トナの表情は もとのおだやかな表情に もどった。 - その夜,彼女の寝顔は微笑を しているかのようだ った。大 きな幸せを得た者の表情のようであ った。 20)ibid.,pp.354-355.

21)"Masjarakatontadanmasjarakatkapa1-udara,"(Sukarno,DibawahBenderaRevolusi,pp.483-491.) 22)ibid.,p.483.

(10)

東南 ア ジア研究 9巻4号 - アッラ-ほ称え られてあれ。かの人の命 じ給 うところは偉大な り.」 この挿 話 に続け て ス カル ノは 次 の よ うに言 う。 「い うまでもな く予言者マホメットは偉大なる社会の建設者である。 しか し,誰でもが知 っているよう に, 7世紀の社会 と今 日の20世紀の社会とは同 じものではない。社会を建設 し社会を育ててい くためにマ ホメットが作 った法は, コーランとスンナ(-デ ィース)の内に書 きこまれている。そ してコーランやノ、デ イ-スの文字はただ一度だけ書かれたものとして変化することはない-・.・一万,社会はたえず変化 し改L牛 されている。まことに残念なことは,すべての者が このことを理解 してはいないとい うことである。- 」23) 予 言者 は彼 の生 きた 時代 の人 々に 大 きな慈愛 を注 いだが , それ は実 はそ の後に くるすべ ての 人 々に対Lて も慈愛 の

1

1を向日て い た ことな U)であ る. 14()0年前 の 「なつ めや しの木 蔭に坐 -, ていた ウマル君 やザ イナ ブ

131)と1940隼に榔

生 きてい て, ラ ジれ 電 気 , 飛行機 等 々の近 代 文 明を知 -)てい るわれ われ とが ひ と し ぐ 予言者 に よって 愛 で られ て い る もので あ る以上

.

1

5

)

,

われ われ は 次 の よ うに考 え るべ きだ と して スカル ノは こ う述べ る。 「--それゆえに社会の諸法に関するマホメットの発言は,最小限り諸条件,'_<最小"の錠であ り,=文 字通 りか くせ よ"とい う錠ではない し,絶対的な撞ではない。J26'(下線部スカルノ) したが って

,

「明 白に 禁 じられ て い ない以上., あ らゆ る ことが

てい る2

7

)

J

ことに な る。 この よ うな ス カル ノの論 点はすで に エ ンデ書

中 の随所 に見 出 され/る もので あ る。28) この論 文 に対 しては, 当時 ナ シ-ルが これ に反 論 し, ス カル ノの考 えLHiPl性 を強調す る余 り神をない が しろに して しま うものだ と述 べ てい る。-19) この点につ い ては後 に諭ず るが, エ ンデ書簡 の内 にみ られ るス カル ノの イ ス ラム理解 と改革派 イ ス ラムとの問 の差 異は, イ ス ラム教 を もって国 教 とす Z)か否 か とい う点をめ ぐって さ らに明確 に され てい -)た。 (2) 政 教 分 離 す で にみ た よ うに, イ ス ラムの真髄 は「時代 のすべ てを賞 ぬ い て燃 え上 が る炎」30)で あ り,そ の炎 だけが イ ス ラム社 会の近代 化 をな しとげ させ る とス カル ノは考 え ていた。 そ して, ス カル ノは この炎を現実 のイ ン ドネ シ アのイ ス ラム社 会 には見 出 さなか った。 2O世紀 とい lj-時代 . におい て, ス カル ノが この 炎を見 出 した場所 は, 当時 の中 東 の イ スラム諸地 域 , ことに トル コ で あ った。 この炎は, トル コに お いて トル コ民 族主義 と して燃 えてい ;:J, とス カル ノは主張し た。 スカル ノは トル コ近代 史, と くに オ スマ ン ・ トル コ帝 国か ら トル コ共 和国へ と変1)-)てい く過 程 お よび オ スマ ン ・ トル コ帝 国 の基盤 と/i:-)ていた イ スラム 教が

家権 力 と分離 され てい 23)ibid.,pp.483-484. 24)ibid.,p.483. 25)書bid.,pp.487-488. 26)ibid.,p.488. 27)ibid"p.489. 28)脚注 11)を参照。 29)Dahm B.,op.cit..pp.192-195.

30)Sukarno,DibawahBenderaRevolusi,p.341;お よび脚 注 11)を参照. 586

(11)

土屋 :ス カル ノ とイス ラム(1934年-1942年) く過程 に注 目してい る。 そ して, トル コの近代化 が これ らの過 程 と軌 を一 に していた ことを強 調 す るとと もに, そ の ことに よって トル コのイ ス ラムが宗教 と して真 に 再 生 し うる ものだ と述 べ てい る。 この よ うな論 議 は,1940年 中に執筆 され た 「イ ス ラム理 解 を "若返 らせ る"」3D 「トル コが国 家 と宗教 を分離 した理 由は何かJ33)お よび 「私は なお活動 不足 であ るJ33)の3諭 文 中に集約 され て い る。 そ こで は イ ス ラムの近代化 を主張 す る際 にみ られ た

r

歴 史の事実 を理解せ よ

J

r

現実 の状況 を認識せ よ tとい うエ ンデ以来 の主張 が よ りい -,そ う強 くキ 1'・ワー ドと して用 い られ て い る。 まず 「イ ス ラム理解 を

"

返 らせ る

"

にお いて, ス カル ハ エ

,r

イ ス ラムの根本 は不 変 であ って も,それ を ど う理解 す るかほ時代 に よって変 わ り, あ る時 代 の解 釈は た えず 訂 正 され てい くものであ る」34)と述 べ る。 つづけ て, 先 の カーテ ン問題 はお よそ イス ラムに 関わ る諸問題 が イ ン ドネ シア以 外 のイ ス ラム 世界 で 現 実 に どの よ うに 取 り扱 われ てい るか の 考察 を うながす ものであ ると して, スカル パ エイ ス ラム諸国 の状態 を iu観察 し島徹 すfJJ.35) そ こでは エ ジプ ト, トル コ, パ レスチナ, イ ン ドお よび アラ ビアC))諸地域 が取

り上

げ られ てい る。 r観 察J の 中で ス カル ノが もっと も急 進的 だ と して い るのは, トル コであ る。 (イ ラ ンはそれ に したが っ てい るとす る。) 「この地 (トルコ)の宗教は,もっとも近代的でもっとも急進的である。 ここでは宗教は国家か ら分離 されている。1928年にイスラムは国教であるとの憲法中の章句は削除 された。宗教は個人個人の任務とさ れたのである。イスラムが トルコに よって廃絶されたのではな く,イスラムが国家ではな く人間の手に委 ね られたのである。それゆえ トルコは反宗教

,反

国家であるとい うのは誤 りである。 トル コを例えば ロシ アと同一視することは誤 りであるO」36) この よ うな r国家 と宗教 とが分 離 され , 宗教 が個 人

人 o)問 題 とな る」37)のは, 酉欧 諸国で 現 にみ F)れ る ものであ るが, トル コの例 は イ ン ドネ シ ア にお い て も 異様 な ことで は ない とす る。 「-・-われわれにとって トルコの状態はほんとうは異様なものではない。---われわれにとってイスラ ム教はわれわれ 白身の任務であって国家の任務ではない.」ti8) トル コが政教 分離 した の も, カ リフ制 を廃 1上した の も, イ ス ラムを 育て よ うと したか らには か な らない。す なカナち, 一 方で

家は イ ス ラム法 のあれ これ U)条項 に と らわれ.る ことな く近fe

31)HMe-"muda''-lianpengertianIslam,"(Sukarno.Diba比,ahBenderaRevolusi,pp.369-402.)

32)HApasebabTurkimemisahagamadarinegara,"(Sukarno,DibaLL・ahBenderaRevolusi,pp.403-445.) 33)"Sajakurangdin;lmis/I(Sukarno,DibawahBenderaRevolusi,pp.447-455.)

34)ibid.,p.370.

35)ibid.,p.380.

36)ibid.,p.377.

37)ibid.,p.388.

(12)

東南 アジア研究 9巻4早 的民法典 を導入 し, また, アラビア語 とア ラビア文字 を廃 して トル コ語 とラテ ン文字使用に よ って言語 の民族化 と近代化 を図 るとと もに, 他方でイス ラム信徒 も 「宗教問題につ いて国家 と の衝 突を もはや恐れ る ことな しに- なぜ な らば, もちろん国家 ももはや宗教- の干渉を しな いか ら- 宗教 を近代化す るのであ る。」39) そ して トル コがそ の よ うな措 置を とった のは, 西欧 の脅威 を前 に してその西欧 と対 決す るた めに国家機構 を西欧化 しなければ な らなか ったか らであ る。 トル コの民衆 は,実際的(zakelijk) で プラ クテ ィカルであ った40)とスカル ノは述べ てい る。 そ のあ とで スカル ノは, エ ジプ ト, パ レスチナ, アラ ビア,イ ン ドの状況 を通観 し,そ の中で今 なお もっと も伝統 因襲に しぼ られ てい るのはイ ソ ドで あ り, 現在 が汎 イ ス ラム主義 の時代か ら民族 主義 の時代- と移 ってい るのに も かかわ らず ,イ ン ドのイ ス ラムのみ が依 然 と して汎 イ ス ラム主義 を標梼 してい ると してい る.41) イス ラム世界 の近代 化, イ ス ラム世 界 の民族 主義 の台頭 の もっともラデ ィカルな手本 を ケマ ル ・ア タチ ュル クの率 い る トル コに見 出 した スカル ノは, 次 の 「トル コが国家 と宗教 を分離 し た理 由は何か」 におい て, トル コの近代 史を詳 細に述べ てい る。 そ の論文 の中で ス カル ノは 「私は実態 を報告す るだけであ り, 討論 の資料 を提供 す るだけで あ る。 トル コの歩 んで い る道が正 しいか否 かほ歴史 の審判 に委ね られ てい る」42) と保留 してい るが, トル コの例が イ ン ドネシアのイ ス ラム社 会近代化 の際 の手本 と され てい る ことは 明 らか であ る。 スカル ノは トル コ史 関係 の本 を紹介す る形で トル コにつ いて述べ るが, そ の中で ことに注 目 してい るのは ケマル ・ア タチ ュル クに よるオスマ ン帝国の廃 止

(

1

9

2

2

1

1月), カ リフ庁 の廃 也

(

1

9

2

4

3

月), 政 教分離 の確立

(

1

9

2

8

4

月)の一連 の措置であ る。 この中で 「と りわけ 注意 して書 物 を読 んだ のは,政教分離 問題であ った」43)とスカル ノは述べ,rその結果 えた確信 は, トル コは決 して宗教を制限 しよ うと してい るのではない, とい うことであ った」44)として い る。 そ して, む しろ逆 に宗教 を育 てん と したか らにはか な らない とい う先 の論文 の主張 を く りか え してい る。 「-- (政教分離の措置)は,宗教に反対するものではな く,まさに宗教を助けるものであった。宗教 を制限せんとするものではなく,まさに宗教を育てんとするものであった。----トルコは世界の歴史を 眺めてみた。そ して理解 したことは,真の宗教が諸政府やまさに宗教の =擁護者"である権力者によって, いかに侵犯を受けつづけてきたかとい うことであった.-・ ・-・・・-思 うに,もし トルコが宗教 と一戦交えよ うと欲 したなら,その最大の戦場は青年の教育となるだろう。青年と子供たちのところで,学校の教室で, トルコはもっとも積極的に精力的に熱心に活動 して,宗教-の憎 しみの種を播き散らそ うとするにちがい 39)ibid.,p.378. 40)ibid.,p.379. 41)ibid.,pp.385-387. 42)ibid.,p.445. 43)ibid.,p.440. 44)ibid.,p.440. 588

(13)

土屋 :スカル ノとイス ラム (1934年∼1942年) ない。 しか し,そ こではそのような証拠はただのひとつ としてみ られないO今 日官立の学校ではただ一般 知識 しか与えられていないことは確かだ し,そ こでの教育が =独立" したものであることも確かである。 しか し,そ こでは一度 として,反宗教的な教育が行なわれたことはないし,個人的に宗教学校を設立 しよ うとする人々を,政府は決 して妨げてはいない。 ---・もしも,政府が人権のもっとも神聖な領域 (である宗教)に干渉すればきわめて危険な結果が現 われて くるだろ う。それは トルコ人の宗教生活を鎖につな ぐことになるだろう。宗教の独立はアジアの青 年たちの歓迎を受けている。 その青年を代表 して, ある学生はそのよろこびをこう語っている。=いまや われわれは,われわれの宗教が英に望んでいるものは何であるかを自由に自ら決定する責任を負わ されて いる。イスラム教バ ンザイ=」45) 政 教分 離 の問題 は, この1000年 の イ ス ラム史の車で理性 主義 の問題 と並 ぶ最重要 の問題 で あ り, ケマル ・ア タチ ュ/レクの行為 は100パ -セ ン ト世 界史 の知 識に の っと った行為 で あ った。 ケマルほ 世界 史 の流れ を実 に よ く理 解 してお り, そ の流れ に沿 って トル コを改革 す る態 度 は, 「まった くもって現 実 的 の一語 につ きる ものであ った」46) とス カル ノは述べ, この論文 の結 び で は, ケマルは抗 い よ うの ない事実 に 目を据 えてお りそれ ゆ え r予 言者 と4人 の カ リフの時代 には,国家 と宗 教 は一 つに な っていた と言 って白昼夢 の

間 をた だ よってい る人 々を憎 んだ」47) と して, イ ス ラム教指導者 の r理想 主義 ,形式 主義」48)を批 判 してい る。 国家 の基礎 に イ ス ラム教 を据 え よ うとす る主張 に対す るス カル ノの批 判 は次 の r私 は なお活 動 不足 で あ る」 にお い て一 段 と具 体化 され てい る。 ス カル ノは 次 の よ うに 言 う。 F'宗教 と国家 は一 つで なければ な らな い と主張 す る者 が い るが, トル コ,イ ン ド,イ ン ドネ シ ア等 では 何百万人 もの人 々が キ リス ト教 信者 あ るいはそれ 以外 の宗教 を信 仰 してお り, 知識人 は一 般 的に イ ス ラム的思考 法 を とっては い ない。 イ ス ラム国家 を創 り, イ ス ラム法体 系 に基 づ いて 国家 を組織 し機 能 させ る ときに, キ リス ト教 や 他 の宗教 の信 奉者 が これ を受け入れ なか っ た ら ど うな るのか。 独裁制 を し くのか。 しか し現代 は もはや背 教者 を皆 殺 しにす る時代 で は な い。政 教 分離 の問題 の根幹 は近代 民主主 義 の問題で あ る。 トル コの スル タ ンの時代 には民主主 義 は トル コで機 能 していなか った。 それ ゆ えに トル コはか くもたやす く ``宗教 と国家 を合体 さ せ えた" のであ る。 と ころで, あ なた 方が国家 を統 治す る とき, あなた方 は疑 い もな く民主主 義 の原理 を採用す るで あ ろ う。 この原 理 に 由来 す る国家 の基礎 は 国民 議 会

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で あ る。49) 「この議会にはその信条のいかんを問わず全民衆の代表が集まるo lOOパーセン トイスラムの感情をも つ者の代表,表面的にのみイスラム化 している者の代表,キ リス ト教徒の代表,無信仰者の代表,知識人 代表,商人代表,農民代表,労働者代表,漁師代表がこれであ り,要するに民族の全構成部分,国民の全 構成部分の代表によってその議会は成立す る。 (トルコのスルタンは このような組織を設けなか った。ま 45)ibid.,pp.441-443.

46)ibid.,p.439.(HIabetuトbetulriil,rill,sekalilagirii

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.

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47)ibid.,p.445.

48)ibid.,p.439. 49)ibid.,pp.450-451.

(14)

東 南 アジア研究 9巻 4号 さにそのゆえに青年 トル コ党の運動が発生 したのであ る。)そ こで私があなた方に提案 したい ことは,憲法 の起草文中に この国家は宗教国家な り, と記 してほな らない とい うことであ る。なぜな らば,- 私を信 じ給え- 国家 とイスラムを一体化 させ るその ような憲法草案はその国民議会で承認 されないであろ うか ら./非イスラム側の代表は これに徹底的に反対す るであろ うし,その他の代表 もた とえ=イス ラム=(その 大部分は まちがいな く"知識人"であ るが)であ って も,すべてが これに従 うことはないであろ う。--」 5。〕 それ で もな お宗 教 国家 の成 立 を実 現 させ よ うとす れ ば , そ れ は 民 主 主 義 の放 棄 に よ る しか な い。 と ころが あ な た 方 は 民 主 主義 者 で あ るか ら, 民 衆 の10()パ ー セ ソ トが 完全 な イ ス ラム教 徒 で あ る場 合 に しか 宗 教 国 家 は 成 立 しえ な い。 そ の場 令 に しか イ ス ラ ム 原 則 と民 主 主 義 原 則 とは 両 立 しな い 。100パ ーセ ン トが イ ス ラムで ない 国 で は選 択 の道 は二 つ しか な い 。 民 主 主 義 な し の国 家 と宗 教 の一 体 化 か , あ るい は政 教 分 離 の 同 で の民 主 主 義 か の二 つ の選択 で あ る.51) これ が現 実 で あ る。 「しか しあなた方は失望す る必要はない。その憲法中に国家 と宗教の分離を うた った国家は,民主主義 を担 うことに よりイスラム法に適 った法律の決定を国民議会に対 して閉ざ してはいないか らであ る。民主 主義である限 りそ うであ る。た とえばあなた方は豚の飼育を禁ず る法律を望むか。はたまた禁酒法の設定 を望むか。国民議会に連なる代表者の大多数が豚や酒に反対 しさえすればその ような法律が設定 され るこ とに どんな困難があろ うか。 もし豚や酒に反対す る代表者の数が まだ不足 していた とすれば どうか。それ は,あなた方の民衆が まだ =イスラム民衆=ではない ことの印である。 もしそ うな ら,民衆の中で熱心な 布教活動を行ない,可能な限 り多数のイスラムの代表を国民議会-送 りこめ。民衆のイスラム精神を振起 させて,掃除人のアブ ドゥルか ら自動車で町を乗 りまわす金持にいた るまで,あ らゆ る者をイスラム教徒 とし,国民議会を してその政策 もイスラム,その心 もイスラム,その血 もイスラム,毛筋の一つ一つ まで イスラムである代表者で溢れせ しめ よ./その氾濫 とともに,イスラム法の欲す るすべての ことは国民議会 の決定 としてただちにおのずか ら実体化す る。あなた方 の欲す ることはすべて国民議会で実現 され ること になる.それゆえ国家はおのずか らイスラム的性格の国家 となる.その憲法中に宗教国家な りとい う条項 がな くてもそ う公言 されていな くても国家はイスラム的性精の国家 となる。 また明 らかなように,その よ うな民衆 こそ巽にイスラムの魂を もった民衆であ り,名前だけイスラム国家でその心はイスラムに冷淡で イスラムを否定 している民衆ではないのである。--・ 全信徒の胸中に燃え上が るイスラムの炎, これ こそが国家をイスラム国家 とす るのであ って,一枚の紙 に書 きつけ られた "国家は宗教をその導 きとす る日 とい う条項ではないのであ る

何のためにわれわれは 国家が =宗教 と分離 され る" とい う,憲政の知恵を恐れ るのか。 =民主主義のある限 り, 宗教か ら分離 さ れ る"囲家は,真実のイスラム国家に完全にな りうる./何ゆえ,その憲政の知恵を恐れ るのか.それを一 つの試練,近代的民主主義か らイスラム-向け られた一つの挑戦 として受け入れ るほ うが よ り男 らしいの ではないのか. - ・-J52' そ の試 練 を 受 け 入 れ , 民 衆 へ の教 化 活 動 を行 な うこ とに よ って は じめ て イ ス ラ ムは生 きた イ ス ラ ム, 生 命力 の あ る イ ス ラム,躍 動 す るイ ス ラ ム とな るの で あ る。 以 上 の こ とは い くら強 調 して も強 調 した りな い とい うこ とは な く, 私 は まだ清 動不 足 な ので あ る.。」153) 以 上 が この論 文 の大 要で あ る。 こ こに述 べ られ て い る因 は一 般 的 な もの と して あ げ られ て い 50)ibid.,p.452. 51)ibid.,p.452. 52)ibid"pp.452-453. 53)ibid.,p.453,p.447.

(15)

土屋 :ス カル ノ と イス ラ ム (1934年-1942年) るが, 実際には きた るべ きイ ン ドネシア 国家 の 基礎 につ いて 述べ てい る ことは 明 らか であ ろ う○ スカル ノは ここで国家 と宗教 を一体化 しない ことを原理的問題 と して主張 してい る。 憲法 中に 「イ ス ラム 国家であ る」 旨を掲 げ る ことは,

1

0

0

パ ーセ ン トの支持が ない限 り不可能であ る と言 う

に彼 の力

点は

おかれ てい る。 この点

つ いては, 多数決 を 云 々 してい るのではな い(〕それ は,個 々の法案 (た とえば彼 が引 き合 いに 出 してい る豚 の飼育を禁ず る法案 や 禁酒法 案 等)について 多数決原

を述べ てい るの と性格 を異に してい る。 こ {)して トル コの政 教分離につ いて語 り-こいた スカル ノは, こ0)論文 では この他 の政教分離 , ■ ● ● この他 0)イス ラムの在 り方 につ いてそ の主張 を展 開 したのであ る。 それ では本節 でみ て きた スカル ノのイ ス ラム諭は, 彼 の1933年 まで の主張 と どの よ うに関連 してい るのか。 そ もそ も流 刑地 で スカル ノはなにゆ えか くもイ ス ラムにつ いて繰 り返 し発言を す るのか。 イ ス ラムにつ いて, あ るいはイ ス ラム諭 を通 して結 局何 を言お うと した のか。 これ らの点につ いて次節 で まとめ てみたい。

n

ス カル ノの イス ラム論の意味 (1) マル-エ ソ主義 の深化 独

以前 の イ ン ドネ シア拭族運 動史

1閉 じられ た世界

J

か ら 日用かれ た世 界」 に 向か って 綴 られ刊行 され た書

集は三 つあ る。 ひ とつは 】簡 くたちお くれ た ジ ャワ」 か ら綴 られ た カル テ ィこの書簡 集,ひ とつ は スカル ノの エ ンデ書簡, もうひ とつ は シ ャフ リルが流刑地 (タナ ・ メ ラとパ ンダネ ィラ)か らオ ラ ンダにい る夫人 にあ てて記 した書簡 集であ る。 カルテ ィこの書簡は, ヨ- Pッパ近代社 会 の価値 観 を志 向す る側 面 と土着社会 の伝統的価値 を蒋 認識 しよ うとす る側面 とが未 分化 o)ままに混在 してい る。 シ ャフ リルの書簡 中で シ ャフ リ ルの 目は何 よ りもまず ヨ- ロ ッパ近代 (])普遍価値 に 向け られ てい るO スカル ノのエ ンデ書簡は ど うであ ろ うか。 彼が この 告筒 の中でそ の対象 と してい るのはただひ とつ

,

「因襲に と らわれ, 無知 蒙昧 で時 代か ら取 り残 された ままのイ ン ドネシ アのイス ラム社 会 上であ る。 1933年 まで の スカル ノの マル-エ ソの主張 において, マル-エ ソは ここ (イ ン ドネシ ア)に あ ってあそ こ (オ ラ ンダ) と徹底l抑 こ対立,対 決す る艮族統一 の力, ラデ ィカルで ダイ ナ ミッ クな力の シ ンボルであ った。 エ ンデ時代以後 の スカル ノか らは こU)マル- エ ソとい う言葉 は消 え る. それ はい っさいの政 治活動 を断 たれたか らであ ろ う。 しか し注 目で きることは,元来-農民 の名に 由来す る

有名詞であ りなが ら, イ ン ドネ シアaj民衆 ない し貧 塩 とい う意味 で一般 名詞化 していた マル-エ ソが,エ ンデ時代以降ふ たたび固有 名詞に哀 -)て

,

「デ ュラ君, アマ ッ ト君,ミナ さん,マル ヤ ム さん」54)あ るいは 「なつめや しの木蔭に坐 る ウマル 君やザ イナ ブ君

5

5

)

54)ibid.,p.341. 55)ibid"p.483. 591

(16)

東 南 ア ジア研究 9巻 4号 r幸せそ うなほほ えみ を浮かべ て眠 るラ トナ

5

6

)

「掃除人 の アブ ドゥ

ル」

5

7)等 と して呼ばれ なお され てい る ことで あ る。 一般的な 対象を 固有 名詞 にお きか え るとい う 後年 の スカル ノの 特徴 (た とえば パ ンチ ャ ・シ ラ演説)が顕著 に示 されは じめ るのはエ ンデ 時代 以降の こ とであ る。 マル-エ ソを率 いて オ ラ ンダに立 ち 向か っていた スカル ノは 流刑地で マル-エ ソそ の ものに 目 を 向け なおす。 そ の ときス カル ノの 目に浮かび あが って くるひ と りひ と りのマル- エ ソは,そ のほ とん どが 自 らイ ス ラム教徒 だ と言いなが ら初期 イ ス ラムの有 していた 「ゴムの よ うな弾力 性J58)を失 い, イ ス ラムの真髄 であ る炎を失 い,訓妄清学 と戒律 のみにかかず らってい るイス ラ ム教 のために1000年 の時代に遅れ て しま った民衆であ る。 そ の ことはつ い数年前 まで イ ン ドネ シア民族 が オ ラ ソダに対 して 自 らの主体 を主張 した とき, そ の民族的活 力の総称 とな っていた マル-エ ソが,彼をは じめ とす る非協力主義者 の一網打尽 の逮捕 に よってた ちまち 消 えて しま った のか, それ はただの概 念にす ぎなか った のか, 民族的抵抗 の主体 は指導者 を失 うとと もに 消えて しま うのか, とい う 「閉 ざ された 世

殊」

にい るスカル ノの慎悩 と重 な り合 ってい る。 し たが って, エ ンデ時代 以降の スカル ノは マル/、エ ソを問題 とす る点においてそれ 以前 の スカル ノと連続線 上にあ り, イ ス ラムとい う異 な る側面が突如 と して流刑地 の スカル ノに現われ て き た のではない。 マル-エ ソの社会 がイ ン ドネ シアのイスラ ム社会 と して と らえ られ るのは, マ ル-エ ソ主義 の社 会的側面が問題 とされ てい るか らであ り, 社 会的規範がなに よ りもイ ス ラム 的規範 と して成立 してい る社会的状況 か ら導 き出 され て きた ことであ ろ う。 1933年 まで のマル -エ ソ主義 の主 内容 をな していた 「社会- 民族 主義」 お よび 「社会- 民主主義」 の内の政 治的 経 済的側面

(

「植民地 主義 ・資本主義 ・帝国主義打 倒」 と して主張 され た もの)では な く, そ の内的 な条件 が問題 とされ てい るので あ る。 そ してそれ が イ ス ラム社会 として と らえ られた の であ る。 (2) 民族的 エ トスの模 索 (1)でみた よ うな具体 的な個 々の人 と してのマル- エ ソは, い うまで もな くそ の大 多数 が農民 であ りイ ス ラム社会 と して と らえ られ た マル- エ ソ社会 は なに よ りも農村社会 であ る。 守 旧的 なイ ス ラムか ら離 脱 して時代 に追 いつ く努力をせ よ, とい う主張が く り返 しな され てい ること はすでに第 1節 でみた通 りであ る。 時代 に追 いつ くとは近代化 をな しとげ る ことで あ るとス カ ル ノは言 う。 しか し,

を もって近代化 とい うのかは っき り述べ られ てはいない。ただ,それ はほぼ西欧化 (ことに酉欧 の技術文 明に追 いつ くこと) と して考 え られ てい る。 そ の場 合西欧 文 明社会 を 目標 とは して も,そ の近代化 の担 い手 は もちろん マル-エ ソであ り, 近代化- と向 かわ しめそれ をな しとげ てL、くェ トスはイ ン ドネシアの内部に 見 出 され なければ な らない もの 56)ibid.,p.483. 57)ibid"p.452. 58)ibid.,p.375.

(17)

土 屋 :ス カル ノ と イ ス ラ ム (1934年∼1942年) であ った。 それではイ ン ドネシア民衆 の社会生活 を現実に規定 してい る最大の価値体系であ るイ ス ラム の内にはその よ うな近代化 を担い うるエ トスがあ るのか。 それ はあ る。 げんにイス ラム栄光時 代 と呼ばれ るイ ス ラムの初期の時代にはイ スラム世 界は世界文 明の先端にあ った, とスカル ノ は考 えた。 しか しスカル ノにおいては, そのエ トスは 文字通 り炎の よ うに 無定形な ものであ り,無定形であ るがゆえに持続性 を維持 しうる もの,つねに再生 してい くもの, 時代のあれ こ れ の世俗的権力に よ-)て規定 しえない もの, 規定 されればその ことに よって活力を失 うもので あ るとされた。 ところがそ のイスラムの 「炎」 は,現実 のイ ン ドネシア社会では 「灰

と化 し てい る。 それ を再 び 「灸 」に変え るのはイスラムの教義ではな く時代 の精神であ り具体的に言 えば民族主義, げんに中東で燃 え さか ってい る民族主義であ る, とスカル ノは言 う。 そ して, 「ア ッラ-とそ の使徒 の教 えを真に理解す ることは - したが って其 のイ ス ラム信徒 とは-その炎を燃 えたたせ ることであ る

5

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)とスカル ノが言 うとき, 流刑地 にあ って 自らイス ラムの 神に祈 りイス ラム教徒 としての 生活を 続け ていた彼は, イス ラムと 民族主義 の間を 跨 いで立 ち,その間 を 自由に往来す ることにな る。 民族主義者 として民族の魂 を説 き続けてきた1933年 まで のスカル ノは, それに よってイ ン ドネシアの農村に細分化 され て維持 され て きたイス ラム (ア ダ ッ ト化 されたイスラム)を 民族 主義に よって ナシ ョナルな レベルで 普遍化 しよ うとす る。 その とき r時代の精神」はイス ラムを内包す る もの とな る。 それゆえ, スカル ノのイスラ ム諭 において もっぱ ら批判の対象 とされ るのほ予言者 マホメ ッ トに始 まる系図 と系譜を重視す る伝統主義 の観念 とこの観 念を体現 している守 旧派にな るのであ る。 そ こでは時代が系譜 と し て しか問題に されず,空間にひろが ることはないか らであ る。 それ な らば イス ラムを含み うる民族主義は どの よ うな言葉で表現 され るのか。 それを見 出 し て民衆に伝 え る任務をスカル ノは さらに担 ってい くことになる。 以上の よ うな スカル ノの見方の根底にあ るのは, おそ らくす でに形成 されたイス ラム的価値 と現 に形成 されつつあ る民族的価値 との対比であ り, その対比においては ト音い ものは新 しい ものに とってかわ られ る」 とい う彼 の進歩法則

(

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年以来 の)であろ う。 (3) スカル ノとプル ミお よび- ッタ, シ ャフ リル ス カル ノのイ ス ラム諭 の中で顕著 なのはすでに 第 Ⅰ節 でみた よ うな トル コの世俗主義 に対す る強烈な関心 とスカル ノ自身が世俗主義 を主張す る際に強調 してい る r現実認識」 ない し 「理 性主義」 とい う言葉であ る。 スカル ノの 「理性主義」 は ナ シ-ルに よってイス ラム信仰の根本 を無視す る もの と批 判 され るが, スカル ノはナシール らの近代改革 派に よる宗教国家の主張 も現実認識に欠けた ものであ り, イ ン ドの汎 イス ラム主義 と同様 の 「理想 の雲間をただ よ うもの」 であ り, 「国家に依存 し 59)ibid.,p.490.

参照

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