行政の守備範囲論--行政と市民(私人)との責任分界
をどこに求めるべきか
著者
坂田 期雄
著者別名
T. Sakata
雑誌名
東洋法学
巻
27
号
2
ページ
25-45
発行年
1984-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00003599/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja行政の守備範囲論
行政と市民︵私人︶との責任分界をどこに求めるべきかー!一試案
坂 田
期 雄
目 次 王 行政の責任領域、守備範囲の見直し なぜいま問題とされてきたのか 2 行政の守備範囲の乱れ!その実態 3 行政と市民との責任領域ーその基準、区分をどう考えるか 4 若干の事例について考察 璽 行政の責任領域、守備範囲の見直し なぜいま問題とされてきたのか 近事、行政の責任領域、守備範囲の見直しが大ぎな課題となってきている。本稿では、その責任分界をどういう考 え方で線を引いたらよいのかを中心に述べたいと思うが、まず最初に、なぜいまこれが間題とされてぎたのか、その 背景からみてみよう。東洋法学 二五
行政の守備範囲論 二六 qD 経済の基調の変化 まず第一は、石油ショックを契機に経済の基調が変り、財政事情が大きく変ってきたということであろう。 三十年代から四十年代にかけては、高度経済成長、ゆたかな自然増収を背景に、わが国行政の守備範囲は急速に拡 大した。戦後、どん底まで落ち込んだわが国が、﹁欧米に追いつき追い越せ﹂を目標に、経済力を高め、産業基盤、 生活環境基盤の整備などに行政が主役になって積極的に推進をはかることを、政府も国民もそれを望んだといえる。 さらに、四十年代後半からは福祉・教育の領域についても一層の拡大がはかられ、とくに社会保障制度や教育制度を 中心に、財政支出の原因となるような制度改正がこの頃多く行われた。たとえば、今日問題になっている老人医療の 無料化︵公費による負担︶とか、児童手当制度の創設とか、あるいは各種の年金の引き上げ、その他福祉関係でいろ いろな改善、改革が行われた。また、教育制度についても、学級編制基準の引ぎ上げ、教員の人材確保法の実施など、 制度面で非常な充実がはかられた。これと並行して各自治体においても、ゆたかな財源を背景にさまざまな福祉サー ビスの拡大や国の制度への上乗せが競って行われた。 そして、この当時には、こういった行政の守備範囲の拡大を可能にした経済的、財政的な背景が、少くとも四十年 代まではあったのである。 しかし、オイルショック以降、わが国経済の基調が高度成長から低成長へと変るとともに、その影響で税収は大ぎ くダウン。国も地方もその財政は極度に窮迫、﹁ゆたかな財源﹂から﹁限られた財源﹂へと様変りする中で、それま で拡大してきた高い行政水準を維持して行くことが困難となってきた。これを維持して行くには、
①歳出︵行政水準︶にあわせて歳入︵税収︶を引き上げるかーつまり増税を行うか、あるいは、 ②歳入︵税収︶にあわせて歳出を縮小する、すなわち行政の守備範囲の縮小をはかるか いずれかの選択が迫られるに至ったのである。 そして、①の増税を国民に求めることが、今日の情勢からして困難だとすれば、当然②の守備範囲の見直しを行わ なけれぽならない。経済の実態が変ったのだから、それに対応して、それまで拡大させてぎた福祉、教育をはじめと する諸制度の見直しが必要であったのだが、それが直ちに対応できず、著しく遅れたことが、今蔭の財政危機の基本 にあったといえる。 ㈹ 甘え、たか︾の構造のひろがり 第二は、住民の側から行政への甘え、依存、公へのタカリともいった傾向が、この十年間程で非常に広がり、﹁行 政からとれるだけとらなければ﹂といったものとなり、過剰要求の姿勢が蔓延、﹁自分達のことは自分達で﹂という 国民にとって最も大事な“自立”“セルフヘルプ”を失わせることにもなってきたことである。 たしかに、昭和四十年代“市民参加”の行政が全国的に広がり、各自治体は、それまで国の方へ向けていた眼を住 民の方へ向けかえ、住民の要望、二ーズをできるだけ吸い上げて行政を進めようと大変な努力を傾注した。しかし、 それは多分に無原則的に“住民サービス”を拡大したため、住民の権利意識の高まりとも相侯って、その結果は、行 政に“甘える住民”を生むこととなった。さらに当時は財源に余裕のある高度成長期であったため、一部の自治体で は福祉ならなんでも進歩とばかりに、一部市民の度の過ぎた要求に対しても、将来への見通しやその結果の如何を考
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行政の守備範囲論 二八 えず、人気取り的に進められ、それがマスコミを通じて全国に波及し、一種の流行ともなった。しかし、その結果は、 本来、住民自身が行わなければならないものまで住民福祉の名の下に行政が受け持つこととなり、行政の守備範囲が 非常に乱れてしまった。行政は何でも﹁やる立場﹂、住民は﹁やって貰う立場﹂といった意識になり、いわば住民は 行政にぶら下って﹁貰う側だけ﹂になってしまった。 こういった状況が全国各地で広がってきたため、おおむね、昭和五十年頃から、これに対する反省が出てきた。﹁住 民のいうことは何でも聞くのがいい行政だ﹂と思ってやってきたが﹁それは問違いではないか﹂。﹁行政はどこまでな すべきか、どこから先はなすべきでないか﹂という行政の責任領域の見直し論が大きく出てぎたのである。 これとともに、五十年前後から、福祉先進国家といわれた北欧諸国において、イギリス病、スウェーデソ病などと いわれるいわゆる“先進国病”がわが国にも伝えられてぎた。福祉が行き渡り過ぎた結果、国民が﹁自分のことは自 分で﹂という自立心を弱め、何でも行政へ、福祉へ依存する傾向が強まってきた。国民が働かなくなったという重大 な現象である。幸いわが国は、戦後四等国にまで落ち込み、国民は生きるために、食うために自分自らで働かなけれ ばと懸命に働いてきたため、これまではそのような不安、心配は全く持たれなかったが、昨今のように国民が行政に 依存する風潮が広がってくると、わが国も第二のイギリス病に陥る危険性が多分に懸念される。こういった状況を背 景に、国民はまず自分ででぎることは自分でという“自立”“セルフヘルプ”をきちっと確立することが、今日わが ︵三×2︶ 国において緊急の課題となってきたのだともいえよう。 ③ 高齢化社会に向けてー福祉の対象、領域、二ードの変化
第三は、わが国はいま高齢化社会への道程をかなり早いテンポでかけ上っているが、これに伴い、福祉サービスの 拡大が求められるとともに、福祉二ードの中身も大ぎく変ってぎた。すなわち、これまでの福祉は、もっぽら貧困者、 低所得層のみを対象とするものであったが、これからの高齢化社会の中では、ねたぎり老人百万人、それにボケ老人 がそれに近い人数位生じてくる。これらをすべて施設や病院で受け入れることは財政的にも到底できない。どうして も家庭や地域の中でできるだけ支えて貰わなければならないが、そのためには、行政のサービス提供は貧困者や低所 得層に限定したものでなく、それ以外の層ーいわゆる中間層の人達に対しても、サービスの供給をすることが求め られてくる。さらに福祉の二ードが、選別主義的なものから、生活便益とか、快適というものが求められてきている。 このように、これからの福祉は、その枠を一層拡大し、その内容も新しいものが求められてぎているが、こうなっ てくると、今までのように、﹁何でも行政が﹂しかも﹁タダ、無料で﹂という形では到底維持することは困難である。 そこで、サービスの提供主体としては、行政だけでなく行政と並んで住民、地域団体、ボランティアなど多様な供給 主体がつくられることが要請されてくる。また、そのサービスを受ける者はタダでなく、その能力に応じて負担する、 有料福祉という形をとることが求められてくる。無料というのは低所得層だけに限定し、それ以上の層の者は、﹁福 祉を買う﹂という方向、システムをつくって行くことが必要となってくる。 ︵1︶ 前秋田県知事であった小畑勇二郎氏が、知事退任後大変示唆に富んだ話をしておられる。 それは、﹁私は、三〇年聞知事と市助役をやってきたが、今振り返ってみると、日本には“地方行政μはあったが“自治”はな かったのではないかーそんな気がしみじみとする﹂と。つまり、県庁や市役所では熱心に行政をやってぎたが、肝心の住民が
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行政の守備範囲論 三〇 ﹁自ら治める﹂ー自分達のことは自分で、自分達の地域のことは自分でという一番大事なことが育ってなかったのではないか、 という指摘である。 そして小畑知事は﹁私はもう知事をやめたが、今後は一市民としてこの住民の自立、自治という大事な問題に、コ、・・ユニティ、 ボラソティア、新生活協議会等を通じて、ずっと力を入れて行きたい﹂と、”自治μの大事さを強調しておられた。 ︵2︶ このような問題意識は、都市経営総合研究所が行った全国市長からのアンケ⋮ト回答にも、やや似たようなニュアンスとし て現れている。すなわち、﹁市長は、今の市民をどう見るか﹂の質問に対し、殆んどの市長が、﹁住民エゴ﹂﹁無関心﹂﹁行政依存﹂ の三点を大きく指摘、﹁今後市民の自立、セルフヘルプということが地方自治にとって極めて大ぎな課題だ﹂としている。﹁考え る市民﹂﹁参加する市民﹂にどのようにしてなって貰えるか。﹁住民エゴ﹂﹁無関心﹂﹁行政依存﹂からどうやって脱却して貰える かーこれが今多くの自治体で非常に頭を悩ましている大きな問題である。
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行政の守備範囲の乱れ!その実態 次に、行政の守備範囲を越えているものの実際をみてみよう。 qD 本来、個人・家庭・地域で行うべきものを行政に まず第一は、本来、個人・家庭・地域で行うべきものが行政に持ち込まれているという例である。 家の前の下水や側溝がつまったので市役所で掃除してほしい。東北や北陸など雪の多い地域では除雪について公道 だけでなく、私道・私有敷地・住宅前通用道等も市の負担でしてほしい︵市で行なっているところもある︶。犬・猫 などの死体をすぐ片付けてくれ、鶏が迷って家の回りをうろついているので捕獲してほしい。市営住宅入居者からは ﹁部屋の改造、屋根瓦の雨もり、住宅周辺の清掃︵草取りなど︶、排水路の掃除など﹂の注文、苦情が、母子家庭からは﹁手が足りないから引越の手伝いに来て欲しい﹂等々。 納税課の窓βには、市役所から本人あてに送った申告用紙の入った封筒を、封も切らずにそのまま持ってぎて申告 をする。そのため、市役所職員が聞ぎ取りにより申告を受けることとなり、これを改めることが困難だという市もあ る。このような傾向を是正改善しようという方向にここ二∼三年来、どこの市町村でも向いてきているが、たとえば ﹁すぐやる課﹂のような組織も住民の甘え、依存を助長させるマイナス面が大きいとここ数年来、全国的に廃止され てきている。ただ、昭和四十四年、全国に先がけて﹁すぐやる課﹂を設置した松戸市だけは現在も続けているが、た だ、最近では、住民の要望を何でも聞くのでなく、住民でやれることは住民で解決するよう啓蒙、指導するとともに、 土地に不案内な新住民に対しては、その手段、方法、相談すべき場所を紹介するという方向に転換してぎている。 また、救急車の安易な利用についても行政の守備範囲の面から問題が指摘されてきている。現在は、重病人でなく ほんのちょっとした軽病人にも救急車がかなり利用されている。タクシー代わりに安易に使われている。ある県の担 当者の話では、救急利用のうち、七割は軽病人だという。もっとも消防署では医師ではないから重病か軽病かを素人 判断するわけにもいかない。要請があれば出動するということになる。それに最近では、日曜とか夜問は、個人でタ クゾーで病院にかけつけたのでは診てくれない。救急車で乗りつければ応じてくれるiーそういう効能があるため救 急車が利用されるというところもあるようである。 軽病の場合、消防法二条九項の災害による事故等には該当しないとすれば、市の救急車出動は目的外使用となる ︵消防組織法8︶。それは一部の人の利益のためだから、当然手数料をとるべぎだ、という声もある。
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三一行政の守備範囲論 三二 それに、最近の母親は育児の知識がほとんどない。それというのも、戦後の核家族化の影響で、家庭内に年寄りが 居なくなったため育児のことを聞く人がいない。教えてくれる人がいない。だから子供が﹁泣く﹂﹁痛い﹂といえぽ、 とたんに不安になって、とに角病院へーとなる。救急車の利用率は、年輩者より子供を連れた母親が圧倒的に多い という。 ㈲ 過った福祉、甘えの福祉、過剰福祉の広がり 行政の守備範囲を超えるものとしての第二は、いわゆる誤った福祉、甘えの福祉、過剰福祉といった弊害がひろが ってきていることである。次にその主なものをみてみよう。 生活保護の乱れ、甘え かつて生活保護といえぽ、失業つまり働こうにも働く職場がない者が主であったが、それが四十年代頃から身障、 精薄、高齢病弱者などへと変ってぎた。ところが、最近の様子をみると、困窮に至る原因としてアル中、離婚、サラ 金などによる者が多く、しかも自立心を失い、依存心が強い。毎月、国から月給を貰うような意識で権利意識のみ強 く、働く、更生しようという自活の努力、意欲を失っている。中には昼間から酒を飲み、タクシ︸を使用し、用事や 通院しているなどの者もいる。保護費は四人家族だと月二十万円以上も出ている場合がある。しかも、その保護基準 が毎年物価上昇よりはるかに高い率で引き上げられている。そして学校も医療費もすべて無料であり、勤労者と比べ てもむしろ良過ぎる位。この状態は甘えと過剰福祉となり、世帯更正はでぎず、対象世帯は一層広がって行く懸念が ある。二、三の事例を見てみると、
▽ 最近は、離婚によって母子世帯になると安易にそのま窟生活保護の適用を受ける者が増えているが、大阪周辺の 都市では、離婚女性が生活保護を受けながら働こうとせず、スナックに飲みに行くような生活を続けている。他方、 細々とパτト収入で頑張っている女性もいるが、そういう人に対して﹁あなたもパートなどやめて生活保護を貰っ た方がずっと楽ですよ﹂﹁そして時々は一緒に飲みに行きましょう﹂と誘っている。 大阪仙北ニュータウンでは、新しいマイホームに移り住んだ夫婦が、書類の上だけ一応離婚する。そして婦人の 方が生活保護を申請し、毎月保護費を貰い、それを住宅鷺ーン返済の資金にあてている。もちろん実際上は、主人 は毎日家に帰ってくるという普通の家庭生活を続けている。 ▽ 現在、精神病院や老人病院においては、長期入院患者の大多数が生活保護患者となっている。医療費の無料・公 費負担により家族も病院も安心してし窪い、家族は引き取りを拒否し、病院は患者を離さない傾向にある。このた め、社会復帰への対策は少しも前進しない状況にある。このほか、都市経営総合研究所の行ったアンケート回答で は、次のような指摘もある。 ・ 生活保護の意識⋮⋮﹁どちらへ?﹂﹁今βは給料日︵保護費支給臼︶だから役場へ取りに行く。﹂生活保護を当然 とし、一種の職業?とした生保適用者のこの会話をどう受けとめるか。 ・ 生活保護を貰って内緒でバー勤めをしている等の例がかなりあると聞く・ ・ 仕事をすれば保護費が減ってしまうので、働かない人が多い。被保護者の自立心の欠如につながる。 ・ 保護適用者の中に、怠惰による者が多く見受けられる現状を打開したい。
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行政の守備範囲論 三四 なお、生活保護世帯に対しては、国の保護費のほかに、各自治体で単独事業として助成が行われている例が多い。 たとえば、生活保護世帯に対し、福祉給付金として盆、年末等に収入限度額の四千円を超える分を現物で又は社会福 祉協議会に原資を交付して給付するなどの方法がとられている。議会対策、全生連の要求とはいえ明確にすべきでは ないかという指摘がある。また、歳末助け合い募金の配分対象に生活保護世帯を対象としていることも疑問だという 声もある。 このような状況にかんがみ、最近、いくつかの自治体で見直しがはじまっている。たとえば、岡山市では暴力団関 係者への支給見直しを進めている。昭和五十七年五月から福祉事務所の職員二名一組で面接による生活実態調査を行 い、保護廃止、就労指導・療養指導を強力に行っている。不正受給者に対しては行政処分︵法七八条を適用︶を行い、 さらに七八条に応じない場合は民事訴訟を行うこととしている。これと併行して、保護者の収入、資産等の調査を進 め、本人の源泉徴収票を洗い直す等の職権調査も行い、その結果に基づぎ保護の廃止、変更も行っている。 このほか、岐阜市では、生活保護の法定外扶助として実施してきた小学校新四年生トレーニングウェア支給事業、 中学校三年生用学生服支給事業を廃止、青森市でも、被保護世帯に対するバス代助成︵市単独費︶制度を廃止してい る。また群馬県では、昭和五十五年度から、救護施設入所者又は精神病患者のうち、手持金の累積額が施設収容基準 額︵生活費︶の六ヵ月分相当額を超えた場合は、入院患者日用品費及び障害者加算の支給を一時停止することとして いる。 教育準援護︵修学奨励金︶
文部省の補助金として、教育準援護として準保護世帯に修学奨励金を支給する制度がある。一人二万五千円だが、 年三百二十万円所得があっても貰える。しかも、文部省の認定基準がはっぎりしていないため、特定の政党や特定の 団体ではこれを拡大解釈し、学校の先生を動かして、生徒を通じて父兄にこの奨励金を貰うように運動が展開されて いるところもある。このため、︸部地域ではこの奨励金の受給者が他の地域に比べて何倍も多いという運用の乱れを 生じてきている。たとえぱ堺市では数年前までこの予算が一億円であったのが、今では十億円になっている。 このような状況にかんがみ、一部の自治体では見直しがはかられているが、たとえば青森市では、文部省の基準が 甘いため、次のいずれかに該当する者を認定の目安として定めている。 ①前年度の市民税所得割が一万一千円以下のもの ②非常災害︵火事、水害︶、倒産、失職、長期入院、母子︵父子︶家庭のため、”就学奨励委員会”が教育的立場か ら宏くに認めたもの これにより、特定の住民団体の運動が盛んな地域とそうでない地域との援助格差、学校差の是正をはかることがで ぎ、また、準要保護児童生徒数は、実施前年︵五十四年︶に比べ、現在は約七十名程度減少している。 3 行政と市民との責任領域ーその基準、区分をどう考えるか そこで、行政と市民との責任領域ーその区分、限界をどういう基準で線を引いたらよいのか。その考え方を﹁提 供主体﹂︵実施主体︶の面からと﹁負担﹂の面からとに分けてみてみよう。
東洋法学
三五行政の守備範囲論 三六 ︻ 実施主体の面から ( まず、実施主体の面についてみると、行政と市民との責任分界は、基本的には、市民が自分達で︵家庭で、地域 で︶できるものは、原則として自分達で︵家庭で、地域で︶受け持つ。どうしても自分達ででぎないものだけを行政 に代って行って貰う。そしてそれに要する経費は、市民からの税金か利用者の負担︵使用料等︶でまかなう。 しかし、この責任分界は、いつの時代においてもこうあるべきだと理論的に不動な線として引けるものではない。 次のような点から可動的である。 まず第一は、この責任分界は、時代の変化に応じて変って行くものだということである。たとえば、かつては、老 人は三世代同居の中で支えられていたため、たとえねたきりになってもその多くは家族によって介護されてきた。ま た、老人だけが一人で生活するというひとり暮らし老人も少なかった。しかし、戦後、核家族化が進むとともに、子 供夫婦とは別世帯の老人世帯が増加し、それとともにひとり暮し老人も大幅に増えてぎた。 さらに最近では、家庭の主婦で外に働きに出る者が多くなり、このため、老人がねたきりになっても家庭の中で介 護して貰うことがあまり期待でぎなくなり、これらの老人に対しては行政が福祉の対象として手を差しのべなければ ならなくなったといえる。かつては個人、家庭の責任領域であったのが、核家族化、女性の就業傾向の増加等によっ て行政が受け持たなければならなくなってきたi行政の責任領域に入ってきたといえる。 第二は、この行政と市民との責任分界は、市民が行政サービスに必要な経費の負担︵税金︶をどの位持つかによっ て違ってくる。いわゆる﹁受益と負担﹂の関係で決まってくるということである。
市民が税金を多く負担してでも行政にや9て貰いたいと望めば、行政が直接実施する領域は拡大するし、逆に市民 が高い税金は負担したくない。行政の行う仕事を少し縮小してその分だけ税金負担を下げて欲しい、それは行政にや って貰わなくても自分達でやると望めば、行政が直接実施する領域はそれだけ小さくする。 そういった意味で、行政の守備範囲、責任領域というのは、一定不動の線として捉えられるものでなく、国民、住 民の税負担の程度如何によって大きく変ってくるものだといえる・ 第三は、ある事業が定着するまでの一定期間、それを誘導あるいは奨励する意味で、行政がこれに手を貸し、ある いは助成する等の場合がある。しかし、これらは、その事業が軌道に乗れば行政の手から離れ、市民とか民間とか地 域団体の責任で行われるべぎである。このように期間の経過に伴って行政の責任領域から私人の責任領域へと移行す る場合がある。各種の奨励的補助金などがこれにあたろう。 以上のように、行政と市民との責任領域、役割分担は、社会、経済の変化に応じ、あるいは国民の税負担の程度に 応じ、あるいは事業の定着度合などに応じて変って行くものであるが、さらに、行政の受け持つこととなった領域に ついても、次の点に留意する必要がある。 その一は、住民へのサービスの提供は、行政主体だけがーすなわち、公務員が直接受け持たなければならないと いうものではなく、それと並んで住民、民間、地域団体、ボラソティアなど、多様な供給主体を整えて行くことが必 要である。とくに今後、高齢化社会に入り、福祉の対象や領域が拡大してくるのに伴い、これを行政主体だけで引ぎ 受けて実施することは不可能である。これからのマイナス予算の中で福祉を縮小させないためには、行政主体以外で
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行政の守備範囲論 三八 このようなサービスを供給する主体をもっともっと作って行く必要がある。 たとえば、各種公共施設の管理についてはすでにこのような方向で動きはじめている。主なものをみてみよう。 ①老人福祉センター等の福祉施設は、市社会福祉協議会、老人クラブ連合会、高齢者事業団、社会福祉法人等へ ②体育・スポーッ施設は、市体育協会、スポーッ振興事業団体等へ ③観光施設は、市観光協会、社会福祉事業団等へ ④住民利用施設は、地元町内会やコミュニティ委員会など地元住民組織へ など、地域の民間団体、住民組織を活用、これらの協力を仰ぐ方向がかなり広がっている。 このほか、ねたきり老人の家庭へのホームヘルパー派遣、ひとり暮らし老人宅への一声運動、給食サービスなど、 地域福祉の面でも、今後その一層の充実、拡大のために、地域住民や地域団体が積極的にサ璽ビス提供主体となって 参加してくることが大きく期待されている。 行政の住民へのサービスの供給、提供の仕方が、これまでの﹁行政サービスは行政体が﹂という方式から、﹁民間、 住民までを含めた多様な供給形態へ﹂という新しい展開が求められているのである。 その二は、行政が受け持つ領域についても、①地域住民のためにどうしても最低必要なもの︵行わなければならな いもの︶と、②住民二ーズや首長の施策方針等によって行われる政策的なものとがある。後者②については、それら の事業を実施するかしないか、実施するとしても限られた財源の中でいずれの事業から先に実施するかi⋮その選択 あるいは優先順位の決定がなされなければならない。その結果、ある事業を優先して実施すればある事業は実施でき
なくなる︵その期間は行政の責任領域から一応はずれる︶ということにもなろう。 二 負担面から ( このようにして、行政が受け持つこと︵実施主体︶となったものについて、次にその負担を税金でまかなうのか、 あるいは利用者に受益者負担として負担して貰うのかという問題がある。どのような場合に税金で︵一般財源で︶、 どのような場合に税金を使わないで利用者負担︵使用料等︶に求めるのか、という負担面からの問題がある。 これについては、一応、次のような考え方で整理したらどうかと私は考えている。 qD 受益の対象が特定者か、不特定多数者か まず第一は、その受益が、明らかに特定の人達だけのためのものか、あるいは不特定多数を対象にしたものかによ って区別する。後者については税金を用いてもよいが、前者については対象者が特定されているから原則としてその サービスを受ける者に負担をして貰う、いわゆる受益者負担に求めるべぎであろう。 たとえば、一般道路、河川、公園等の事業は一般に税金でまかなわれるが、水道、交通、下水道あるいは有料道路 など利用者が特定の者である場合には、その利用者から利用の程度、度合等に応じ利用料として負担して貰うという ことになる。 働 受益の効果が社会全体に及ぶものか、もっぱら特定個人の利益のためのものか 第二は、前述ωによって受益者が特定している場合でも、その受益の効果がその特定者個人の利益だけにとどまら ないでひろく社会全体に及ぶような場合には、特定個人の受益者負担に全額求めるのでなく、これに税金を用いても
東洋法学
三九行政の守備範囲論 四〇 差し支えないという考え方をとってもよかろう。したがってこれとは逆に、受益の効果がその特定個人だけの利益に とどまる場合には、税金でなく当該個人の受益者負担によってまかなわれるべきだということになる。 たとえば、小・中学校のような義務教育は、それを受ける当該個人の利益になるものではあるが、同時にそれが義 務教育とされていることによりわが国の教育水準全体の引き上げにつながりそれが社会、経済全体のレベルアップに つながるという効果を重視すれぽ、これは特定個人のためのものではなく、ひろく社会、国家全体のためのものと意 味づけ、税金で負担するという説明がつけられよう。これに対し、幼稚園とか高等学校、大学は、現在の日本では未 だ義務教育とはされておらず、また、そこで教育を受けることが社会全体のレベルアップにつながるという面もある にはあるが、今日、わが国国民の一般的なコンセンサスとしては、やはりそれらの教育は、その本人の将来のため、 本人のためのものという認識が強いといえよう。したがって、これについてはそのすべてを税金に求めるべきでなく、 むしろ原則としてはその利用者から負担して貰うという考え方がとられるべぎだろう。 また、図書館のようなものを考えた場合、その利用者は特定者だといえないこともないが、今日の疑本では、図書 館サービスは住民に対する基礎的サービスと認識されており、したがって、ごのような基礎的サービスについては、 利用者からの負担でなくもっぱら税金でまかなうという説明がでぎよう。これに対し、多くの自治体で無料で︵税金 で︶行われている社会教育の各種講座や教室についてはどうであろうか。 たしかに最近、家庭主婦の自由時間の増大ということに加えて、文化の時代、生涯学習という国民意識の変化、さ らにコミュニティ施設などの﹁場﹂が相次いで整備されてぎたこととも相倹って、近時、多くの自治体でさまざまな
趣味、教養などを内容とした講座や教室の開催が急増している。そしてこれらの中には講師謝礼や施設使用料などの 原価相当額をとっているところもあるが、ほとんど大部分は、無料とかせいぜい料理教室の材料実費位しかとってい ないようである。しかし、これらについては、右にみた図書館のような基礎的サ璽ビスとはいい難く、それを超える 高次のサ璽ビスあるいはその効果が特定個人の趣味とか実益に結びつくものといえる。したがってこれに税金をあて るのは適当でなく、むしろ受益者である個人負担によるかあるいは民問の領域にまかせるべぎであろう。 またたとえば、伝染病予防のための予防注射はその目的が社会防衛という視点からのものであり、その効果は特定 個人だけにとどまらずひろく社会全般のためといえるから、公費︵税金︶でまかなってもよいが、一般の健康診断は 特定個人のためといえるから、利用者から料金︵負担︶をとるべきだということになろう。 ③ 負担能力のある者か、ない者か 第三は、以上のような結果、税金︵公費︶でなく特定の受益者に負担を求めることとなる場合でも、それを負担す る能力のある者についてはそれで差し支えないが、能力のない者には、税金︵公費︶でまかなうべぎだということに なろう。 逆にいえば、これまでは、行政の責任と住民の役割を考える場合、と角﹁福祉はタダ、無料﹂という考え方が強か ったが、これを改め、﹁能力ある者は能力に応じて負担する﹂という新しいあり方を確立する必要がある。とくに、 これからの高齢化社会では福祉の枠組みを低所得者だけでなく、中間層にも広げて行く必要があるが、その代り、各 人の所得能力に応じ、受益に応じて負担して貰うという﹁受益者負担﹂﹁有料福祉﹂の考え方をしっかりと定着させ
東洋法学 四一
行政と市民との責任分担 行政の守備範囲論 ︹実施主体︺ 行 政 市 民 ︹負 善 受益者が
不特定
受益者が 特 定 手 担︺ 受益の効果が 社会全体に ︵基礎サービス︶ 受益の効果が 個人に ︵高次サ葦ビス︶ 毒 4の峰轟聯辱嚇墨遊零・a犠O艦簿卿参◎鳳薯曜‘3螢雛の‘曜噛鷹贈零08●弓竃●O屑09曜償璽●ゆ,¢蜜‘‘蓼亀喧亀管◎象讐∂鱈‘雪‘獅蓼81ぽβ雛魯響■圏︸
8墜翠‘ー驚9‘の6?耀鷺9c‘羅葺畢o‘弓も 税金︵公費︶で 受益者負担で 市民が自分で 四二 て行く必要がある。 税金でまかなうのは、﹁自立できない弱者﹂︵病気や高齢あるいは身障等のため、働こうにも働けない、したがって 生活の収入もあまりない低所得者︶だけに限られるべきであり、﹁自立できる者﹂は、税金からの援助を受けないでその経費負担を自分で持つという基本をはっぎりさせることが必要であろう。
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若干の事例について考察 特別養護老人木ームの負担金 現在、特別養護老人ホ1ム入所者には、平均して一人一月当り約二十万円の公費がかかっている。これに対して本 人負担は、所得に応じて異るが極めて少なく、最高でも四万六千円にとどまっている。しかも、入所者には最近では 厚生年金等の年金収入が相当ある者もいる。他方、在宅のねたきり老人には公費は殆んど支出されず、殆んど家族の 介護によっている状況である。 したがって、公費の使われ方について在宅者と入所者との公平という観点からも、また経済能力ある者はその能力 に応じて負担するという考え方からも、施設入所者については年金収入の範囲内で負担をして貰うというのが筋では なかろうか。諸外国の例をみても、たとえばスウェーデソでは年金の八割までは負担金として出して貰っている。現 在のように、施設入所者が一方において年金を貰いながら、他方で生活費すべてを殆んど公費でみて貰っているとい うのは、”福祉の二重取り〃といえる。早急に改善がはかられるべきであろう。 保育所の保育料 保育所については、たとえば東京都区では園児一人一ヵ月当り八万円から九万円もの公費︵税金︶がかけられてい るが、これに対し本人負担︵保育料︶は一割にも満たない八千円前後である。今臼、保育所の実態は、児童福祉法が東洋法学 四三
行政の守備範囲論 四四 できた昭和二十二年当時とすっかり変ってきた。当時は、父親がいないため、子供を抱えて食べるために働く婦人を 対象にしたものだったが、今βではそのような家庭の子は殆んどいない。措置理由の多くは共働ぎということである が、実際には優雅な生活を享受している人が大部分である。マイカー、マイホーム、レジャーと生活水準は皆非常に 高い。かつてのように﹁生活のため﹂でなく﹁よりよい生活をするため﹂に働く、そのために幼児を入所させるとい う形であり、保育に欠ける者の入所は極めて少ない。そして三歳児以上になると子供のしつけ、訓練という幼稚園代 りに使われている。福祉政策として位置づけることが薄れてぎているといえる。 このような実態からみて、保育料がとくに低く押えられ、保育所に大幅な公費︵税金︶が投入されていることは基 本的に問題である。公費が殆んど投入されていない︵経費の大部分を利用者からの保育料でまかなっている︶幼稚園 ︵とくに私立︶と比べても、税金の使い方として著しい不公正だといえる。保育所については、低所得者は別として、 一般の所得のある人︵少なくとも所得税を納める階層の人︶は、その能力に応じて個人の家計で負担するように全面 的見直しが必要であろう。保育所は、社会的不公正の最たるものだといえる・ また、この東京都区では、零歳児は一人一ヵ月二十万円︵三鷹市︶から二十九万円︵千代田区︶もかかっている。 年にすると一人当り二百四十万円から三百五十万円という膨大な額だが、このような多額の税金が極く限られた特定 の個人に集中して使われてよいのか。もっと別の対応の仕方があるのではないか。 老人医療の無料化と一部負担 五十八年二月の老人保健法の施行で、入院は一日三百円︵ニヵ月限度︶の負担という有料化が導入されたが、これ
では月九千円程度でとても食費にも満たない。在宅で老人を介護している人達とのバランス、公平という点からみて も、せめて食事代位は負担さ塗るべきではないか。月九千円程度の額では、自宅で面倒をみるより安易に病院に送り 込もうとする人達の“抑制”にならないのではないか。 学校給食 学校給食は、戦後の食糧難時代、欠食児童が多く、体位向上の見地からとり入れられたものだが、その意味では今 日ではその存在意義は失われたのではなかろうか。とくに公費︵税金︶でこれに助成する制度は廃止すべぎではない か、という声がかなりある。すなわち、学校給食開始時の食糧事情とは今日すっかり変わり、各家庭の食生活も改善 されているので、その使命は終っている。現在、この制度を存続させる理由づけとして﹁良好な食習慣の滴養﹂とい うことが言われるが、これは親の手間を省くだけ、母親の不精を助長するだけであり、児童のためにはなっていない。 むしろ子供の食生活に悪影響を与えている。いまの学校給食は、子供のためでなく、母親、先生のための給食となっ ているのではないか。もっとはっぎりいえば、給食関連の企業、産業のために学校給食が依然として続けられ、やめ られないのではないか。さらに学校給食でなく弁当の方がそれによって母親の愛情が子供に伝わる、親子のふれあい、 スキソシップという面からみても大事なのではないかーこういった指摘がなされている。