• 検索結果がありません。

シラーを祭り上げた「民族」のその後 トランシルヴァニアのシラー祭III

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "シラーを祭り上げた「民族」のその後 トランシルヴァニアのシラー祭III"

Copied!
15
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

ヴァニアのシラー祭III

著者

鈴木 道男

雑誌名

国際文化研究科論集

28

ページ

17-30

発行年

2020-12-20

URL

http://hdl.handle.net/10097/00131047

(2)

鈴 木 道 男  シラーの「美的教育」の実践を意図したかのような A. メッシェンデルファーの文化雑誌『カ ルパーテン』の後継誌、H. ツィリッヒの『クリングゾール』はズィーベンビュルゲンへの国家 社会主義導入のために存在するかのような様相を呈していった。そこでは国家社会主義ドイツ労 働者党(NSDAP)の動向と、彼らこそがズィーベンビュルガー・ザクセンの守り手であること が繰り返し説かれ、前稿で見たように、教師と牧師という指導的階級の支持を経て、結局 1905 年の「民族の祭典」シラー祭を共有するという経験を経ていた大衆は、結果的には盲目的にそ れを固く信じて従った。そして 1934 年、シラー生誕 175 年祭という、いかにも中途半端な年の ―しかしドイツ語圏全体を巻き込んだ国家主催の最大規模の―記念祭を、イェーナを中心に 盛大に祝い、「民族」の、そして国家社会主義の先導者としてシラーを祭り上げ、かつ彼とヒトラー とを重ね合わせたのは、NSDAP そのものであった。 前稿において、『クリングゾール』におけるシラー観と国家社会主義化の関係について、本稿 において詳述する予定であるとしたが、この問題は、シラーとその作品ではなく、トランシルヴァ ニアのシラー祭とその意味を扱うこの研究の枠内で扱うには予想外に大きい思想的意味を内包す るものであった。そのため、民族集団としてのズィーベンビュルガー・ザクセンとシラー祭との 関係を主に論じる本研究とは別して改めて論じることとしたい。本稿では、時系列的に大戦末期 から現在に至るまでのトランシルヴァニア1におけるシラー祭を追い、ズィーベンビュルガー・ ザクセンのシラー観の変遷を辿り、彼らが「ドイツ人」としてドイツと一体化してゆく在り方と シラー祭とが深くかかわっていたことを描出する。ここに現れるのは、あれほどの熱狂と共に「民 族」形成の中心にあったシラー祭とは、表面上縁を切ったかのようにすら見える「民族」の様相 である。 序 国家社会主義壊滅直前のシラー―「民族発揚」の象徴としてのシラー観の終焉 「ノイエ・リテラトゥーア」誌上のシラー生誕 200 年祭まで クリスマス革命後のシラー没後 200 年祭

シラーを祭り上げた「民族」のその後

トランシルヴァニアのシラー祭Ⅲ

1 前稿まで、主として狭義のトランシルヴァニア、すなわち中世以来いわゆる「ハンガリー化」までハンガリー 人・ザクセン人・セーケイ人の議会による共同統治がなされたトランシルヴァニアのうち、ドイツ人がズィー ベンビュルゲンと呼ぶ地域を論じてきたが、戦後バナートのシュヴァーベン人、ハプスブルク直轄領ブコヴィー ナのドイツ人なども含め、第一次世界大戦後ルーマニアが獲得し、ルーマニアがトランシルヴァニアとみなし ている地域に関連するドイツ人全体に目を向ける必要が生じる。本研究の表題が「ズィーベンビュルゲン」で はなく、「トランシルヴァニア」を用いるのはそのためである。

(3)

大戦後、彼らのうち兵役に就いて生き残った人々は、形式上ルーマニア国籍を保持していたた めに、結局「ドイツ人」としては例外的に自宅に戻ることが許された。一方ソ連は戦後の 1945 年からルーマニア在住の大量の「ドイツ人」男女(ザクセン人を中心に、バナートのシュヴァー ベン人など)をヒトラーの協力者としてソ連国内に強制連行して過酷な労働に服させ、大半をポー ランド国境の東ドイツの都市フランクフルト・アン・デア・オーダー等で解放するという暴挙2 をなしたが、結局帰還は許された。しかしルーマニア、特にチャウシェスク体制成立前、「ドイツ人」 に対する、ソ連の指導の下にあったルーマニア労働者党の厳しい措置は強硬を極めた。独自路線 を標榜して登場したチャウシェスク時代は「民族上の少数集団は「共住他民族」というシンタグ マで呼ばれた。これは異民族の平等を表すものであるから、初めは一見すると以前よりは民主主 義的なものに見えたが、実際には、少数民族側からは強く非難された」(Mungiu 1995 S.175)。独 裁体制が強まるに従って、国内の他の民族同様3ザクセン4人たちは過酷な生活を強いられるこ とになったのである。彼らが、すでにヒトラーの下で「ドイツ民族」と合流してしまったドイツ 人の一部をなすひとつの塊であるズィーベンビュルガー・ザクセンとしてよりも、在ルーマニア 少数民族としての「ドイツ人」5として生きるという事態の下で、彼らのシラー祭の在り方、シ ラー観との関係を見てゆくことにならざるを得ない。人口比でザクセン人以外に重要なのは、ハ プスブルクが開発と防備のためにドイツから移植したバナートのシュヴァーベン人と、多数のユ ダヤ系ドイツ人を含む、やはりハプスブルクの軍事拠点であったブコヴィーナのドイツ系住民で ある。本研究の第一部(鈴木 2018)では、『ズィーベンビュルゲン=ドイツ日刊新聞』6を中心に、 新聞を中心としたメディアがシラー祭(1859 年の生誕百年祭と 1905 年の没後 100 年祭を組織し て世論をリードし、ドイツとの一体化を図ろうとしていたことを論じた。その陰には三月革命の 失敗で本国を追われた進歩的な教養市民層(大学を引退した教授やギュムナージウムの教授など の身分でこの地に暮らしていた)がいたのである。 しかし、国家社会主義化が達成されるという形でザクセン人がドイツのフォルク(Volk)となっ た後は、ハーケンクロイツを掲げる各新聞がシラーに触れることはほとんどなくなる。戦後の 事態として当然予想されるよりも早く、当地の NSDAP 側からの発信の中ではシラーは瞬く間に ―用済みにされたとは言わないまでも―生誕 175 年祭においてシラーに重ね合わされたヒト 2 ケーニヒ(König 1994)によれば、17 歳から 45 歳までの男性と妊娠中及び幼い子がある人を除いた 18 歳か ら 35 歳までの女性 7 万 5 千人がスターリンによってドニプロペトロフスク等に連行されて強制労働に服し、15 ∼ 20 パーセントが飢えと寒さの犠牲になった由(S.265)。この措置は 1949 年 10 月まで国際的な批判をよそに 継続された。まだ「壁」がない東ドイツ地域の、主にフランクフルト・アン・デア・オーダーで徐々に解放さ れた後、西ドイツに逃れる人もいた。ズィーベンビュルゲンには約 3 分の 1 が帰還できたという。当地の人口 構成比にも大きな影響が出た。ヘルタ・ミュラーの作品『息のブランコ』(Atemschaukel, 2009)は、これに取材 したザクセン人へのオマージュと言われる小説である。 3 筆者が直接トランシルヴァニアの複数のドイツ系市民から聞かされたところでは、実はこの過酷さはルーマ ニア人に対するものと変わりがなかったという意味で、皮肉にも平等であったのだとのこと。 4 以下本稿でも、誤解の余地がない限りズィーベンビュルガー・ザクセンを極力ザクセン人と記す。 5 彼らは数の上でこの少数民族の有力な一員であった。ケーニヒ(König 1994)によると、ルーマニアのドイ ツ語新聞 Neuer Weg 紙に公開された、チャウシェスク時代の最後の 1977 年 6 月 15 日現在の人口統計では 、全 人口 21,559,416 人の内、ドイツ人は 348,444 人で、その他にザクセン人 5,930 人、ハプスブルクが移住させたバ ナーター・シュヴァーベン人 4,358 人、合計 358,732 ということになってしまうが、同じ年の Milliz らの使用言 語による分類(Die deutsche Nationalität in Rumänien S. 45-48)では約 36 万人のドイツ人を上位概念として、その 内 17 万人がズィーベンビュルゲンに住み、バナートに住むのは 16 万人、その他の地域に住む人が 3 万人とさ れているとし、これを採用している(S. 264)。

(4)

ラー本人の陰に隠れた感がある。シラーゆかりの年(生誕祭、没後念祭にあたるシラー年)では ないはずの年に、NSDAP が特にシラー関連の行事を大々的に宣伝するということは、もはやな かった。必要がなかったのである。そもそもこのシラー祭においてズィーベンビュルゲンではす でに、「新聞」が掲げた大きな記事は 3 本のみであった7。例外的に、1940 年に『ドクトル・マブゼ』 で知られるルクセンブルクの作家ノルベルト・ジャックの小説『激情』が『フリードリヒ・シラー ―ある天才の勝利』8のタイトルで映画化された作品が封切られた際に、各紙の文化欄を賑わ せたことがあった。シラーが表舞台に現れず陰に隠れるという状況は、社会主義を標榜する独裁 政権下でも、特に表面上ドイツ人も含む少数民族を敵視しなかったチャウシェスク時代の秘密組 織・国家保安部セクリタテア9 (securitatea または定冠詞を除いたセクリタテ securitate とも呼ば れる。ドイツ語ではゼクリターテ Sekuritate) の監視下で実は厳しい検閲を受けていたドイツ語諸 新聞でも同様であった。諸新聞が、ドイツ人の民族主義を高揚させることに使われてきたシラー を祭る「シラー祭」を、その意味で讃えることなどもはや不可能である。また、ドイツ系住民の 町中がこぞって参加するシラー祭のような行事自体、侵略者と位置付けられたドイツ人の一体化 を推進してきた極めて政治的なものである以上、一少数民族である「ドイツ人」に許されること もあり得ない。実際に諸新聞に Schiller という文字を探すことは極めて困難になるのである。そ のためこの時期、すなわちチャウシェスクが倒されたクリスマス革命の前までのシラーとザクセ ン人との関係を探るには、彼らが(戦後はルーマニアの少数民族としての「ドイツ人」の枠組み の中で)細々と刊行してきた文化雑誌と文芸雑誌に当たるしかなくなる。 国家社会主義壊滅直前のシラー ―「民族発揚」の象徴としてのシラー観の終焉 1859 年に、ドイツ語圏のみならずヨーロッパ各地と欧米で広く熱狂的に展開して、ドイツ「民 族」の形成に極めて大きな影響を及ぼしたシラー生誕 100 年祭は、ロッゲ(Logge 2014)が指摘 したように、この時点では決して(分裂的な各領邦小国家の)国家行事ではなかった。ヒトラー が行った「生誕 175 年祭」までは、その後も同様であった。新聞その他のメディアをリードし た、民族国家ドイツの形成を目指す教養市民層(具体的には上級学校の教師と牧師)がその背後 で世論を誘導していたのである。実質上の国家行事に相当する、全階層が参加する形で展開した のは、管見では本研究ですでに論じた 1859 年と 1905 年のズィーベンビュルゲンのシラー祭と、 NSDAP が主導した 1934 年のシラー生誕 175 年祭ぐらいのものである(鈴木 2018,2019 参照)。 NSDAP による官製のシラー祭のようなものは、その後決して行われなくなったのは当然であろ う。シラーの扱い、及びシラー祭が目指した状況がどのように展開するのか、まずズィーベンビュ ルゲンを例に観察する。 壊滅直前のズィーベンビュルゲンにおける文化雑誌の筆頭には、ルーマニアの全ドイツ人の 7 11 月 4 日 6 面の「州ドイツ語劇場のシラー祭 11 月 10 日の詩人生誕 175 年を記念して」と、ヒトラーのシラー 祭を伝えた 11 月 13 日 1 面の「ヴァイマールの大シラー祭」と、4 日に予告した記念講演の報告を主とした 6 面 の「ヘルマンシュタットのシラー祭」がそれである。

8 Friedrich Schiller − Der Triumph eines Genies. 監督はヘルベルト・マイシュ。『群盗』執筆のためヴュルテンベ ルクの領主カール・オイゲン公の弾圧を受けるシラーを描いた。当時はもちろん、シラーとヒトラーを重ねる 視点から観られていた。

9 1948 年にソ連に倣って創設されたこの組織は、チャウシェスクの独裁時代に最も猛威を振るった。バナー トのノーベル賞作家ヘルタ・ミュラーは、自身の例をもとに現在も活動が継続していることを告発した(藤田 2016 参照)。

(5)

フューラー(NSDAP の指導者)であったアンドレアス・シュミットの『フォルク・イム・オステン』 (鈴木 2014 参照)を挙げなければならない。この雑誌は総合文化誌を標榜していたが、その文芸 欄には「血と土」を讃えるトリビアルな詩や小品が掲載されるのが常であり、シラーの名が登場 することは、やはり極めてまれであった。そしてこの雑誌に 2 編だけ作品を掲載した、かつて『カ ルパーテン』を発行したシラー崇拝者メッシェンデルファーにここで触れないわけにはいかない。 前稿でシラーの美的教育を生かそうとした『カルパーテン』(1914 年廃刊)と、その後継誌な がら、ズィーベンビュルゲンへのナチズム導入の旗振り役となった『クリングゾール』の相違を 論じたが、その際、『カルパーテン』を廃刊してからのメッシェンデルファー(1877-1963)につ いては触れなかったため、ズィーベンビュルゲンの国家社会主義化の立役者ツィリッヒとは異 なる政治信条を持っていたかのような印象を持たれたかもしれない。しかし 1910 年に散文作家 としての H. v. クライストに関する論文で博士号を得てからすぐに教職につき、ズィーベンビュ ルゲン第二の都市、クローンシュタット(ブラショフ)の名門ギュムナージウムであるホンテ ルス校の校長を 1926 年から 40 年まで務め、生涯をこの学校にささげた彼は(Myß, Hrsg. 1993 S. 333)、以下に見るように決して(民族の指導原理となった)国家社会主義に背を向けてはいなかっ た。『フォルク・イム・オステン』への寄稿10は、いずれも校長引退後のものである(ただし彼 はホンテルス校に絶大な影響を及ぼし続けていた)。 独ソ戦の戦況が停滞し始める 1942 年の第 1 号に寄稿されたのは、9 年前にかかれた文章の抜 粋であるとされており、2 ページ足らずのものである。『1933 年 1 月 30 日』と題されたこの一 文(Meschendörfer 1933 S. 40f.)は、大統領ヒンデンブルクによるヒトラーの首相指名の日に書 かれた、ザクセン人が挙ってその将来を託したこの人物に対する感激を率直に記したものである。 1942 年の雑誌に筆を執るのではなく、9 年前のものを掲載した/された経緯と、当時のものがそ のまま掲載されたか否かの 2 点は不明であるが、この中には国家社会主義と対立する要素はもち ろん見いだせない。そしてここには、明示はされていないのだが、シラーの言葉がみえる。「聞け、 君たち西洋(Abendland)の諸民族の諸君、世界時計が時を告げた!」(ibid. S. 40)がそれである。 この、グリムの辞典にすら掲載されていない世界時計(Weltenuhr)という言葉は、シラーの『歓 喜に寄す』(An die Freude, 1785)11に見える、世界を駆動する壮大な時計である。その時計が大

変革の時を告げたというである。シラーの、極めて政治性の高いこの詩が暗示されることにはな 10 『カルパーテン』の後継誌『クリングゾール』の編集者ツィリッヒは、来るべき『フォルク・イム・オステン』

にその立場を譲ろうとするかのように、ドイツに渡って将校となった。

11 この言葉がみえる 1785 年版の一連を、拙訳を付して示す。連ごとに付された Chor の部分を連に含めると、 第 4 番目の連の内、Chor を除いた部分である。

Freude heißt die starke Feder 歓喜とは永遠の自然のなかの In der ewigen Natur. 力強いバネのこと。

Freude, Freude treibt die Räder 歓喜、歓喜こそが大きな世界時計の中で In der großen Weltenuhr. 歯車を駆動する。

Blumen lockt sie aus den Keimen, それは蕾から花を外へと誘惑し、 Sonnen aus dem Firmament, 蒼穹から星々を誘い出し、

Sphären rollt sie in den Räumen, 預言者の望遠鏡も知らない諸領域の中で Die des Sehers Rohr nicht kennt. 天球を回す。

世界時計 Weltenuhr という言葉は、このように大きな世界を長い時間の中で動かすものを示すようである。テ クストは以下のプロジェクト・グーテンベルク版を用いた。(2020 年 9 月 15 日閲覧)

(6)

る。しかしこれをシラーとヒトラーの重ね合わせの新しい一例とまで言うことには無理があるだ ろう。 そしてもう一つ、なぜかシラーの姓を伏せた表現がある。  長い間ドイツ人はかび臭い墓穴の中でローマの軛に雁字搦めにされていた。今やゆらめ く光の中に再びヴァイキングやシュタウフェン家の人々の千年を経た古の顔がたち現れる。 ―ヴィドゥキント、エックハルト、ルター、そしてバッハ、フィヒテ、カント、フリードリ ヒとゲーテ、ベートーヴェン、ワーグナー、ビスマルクとニーチェ、今日の帝国の人士はみ な汝らの継承者である。(ibid.) がそれである。メッシェンデルファーはシラーへの愛着のあまり、ゲーテと並び立つべきシラー のみを、姓ではなくて名で呼んだのかもしれない。しかしこれは、一般の読者に向かって書かれ たものとしてはいかにも奇異である。実際はその名を明示することを控えたとも考えられる。し かし 9 年を経て発表された作品が書かれた当時のままなのか否かもすなわち初稿でははっきりシ ラーと記されていたか否かも実は確認はできない。 『カルパーテン』に拠ってシラーの教育的理念の実現に努めた人物が、前稿で見たようにファ ブリーチウスが『ヒトラーの戦友シラー』(Fabricius1932)において「国家社会主義者」と規定 し、強引にヒトラーと重ねて見せた極めて一面的なシラー像(鈴木 2019 S. 3 f. 参照)に―仮 に彼がヒトラーに心酔していたとしても、そして確かに新時代が到来した 1933 年に感動をザク セン人として共有したとしても―従うことができたのだろうか。1934 年の NSDAP の大々的な 祭典を、シラーをあまりにも曲解しすぎたものとして忌避したくはならなかったのだろうか。す でに校長を退任したとはいえ、ズィーベンビュルゲンの指導層を輩出する名門校―その若い卒 業生たちが続々とドイツの大学でナチズムを身につけて帰り、当地を代表する二つの指導的地位 である牧師とギュムナージウムの教師(すなわちメッシェンデルファーの若い同僚)となってい た―に生涯を捧げた身としては、シラーについて思うところがあってもそれだけは沈黙し、そ れ以外は至極自然に思うところを述べた結果このような形に納まっただけなのかも知れない。『ク リングゾール』におけるシラーと国家社会主義導入の関係の問題は大きいと上述したが、それは ここでみたメッシェンデルファーの書いたものと彼の内面の葛藤を探るような作業を、雑誌の記 事の書き手と、彼らによって書かれたものの置かれたタイミングを考慮しつつ繰り返すことに等 しいからである。少なくともここでは、メッシェンデルファーの作品掲載と彼の言葉の中にシラー の名が消えていることは、前稿で見た NSDAP の公式見解から外れたシラー観を表明することに なるのを恐れて、おそらくは意識した上での、政治的妥協の産物であろうと考えておきたい。あ らゆるザクセン人が NSDAP の歯車として生きざるを得なかった時代と地域のことである。もち ろんその崩壊と共に妥協の必要は霧消するのだが。 ここで敢えてこのように述べるのは、ここに、今も読み継がれる重要な古典シラーそのものの 価値と、「民族の祭典」となった―その極致を 1934 年の NSDAP による国家行事に見ることが できる―シラー祭の興奮を導いた一面的なシラー観との峻別を最も意識できるのは古典主義と その背景にあるカント哲学を踏まえて作品の一語一語を吟味する文学研究者のみであろうと考え ざるを得ないからである。序に述べた『クリングゾール』の分析も、まさにこうした作業の集積 とならざるを得ない。

(7)

メッシェンデルファーのもう一つの寄稿は、すでに戦況の傾きが明瞭になった 1943 年の 5/6 合巻号に寄せた短編、「ドイツに忠実な(gutdeutsch)」心根の持ち主、銀行の使用人、歴史好き のジーモン・グレゴールが、中世のザクセン人たちがトルコの襲撃に備えるために建設したロー ゼナウ(ルーマニア名ラシュノフ)の古い山城に、クローンシュタットから友人家族と共に遠足 しながらザクセンの歴史を思う『ローゼナウへの遠足』(Meschendörfer 1943)である。ナチズム の導入によってザクセン人の「ドイツ民族」化が成ったばかりのこの時代にあっても、ザクセン 人としての矜持を忘れるなと言わんばかりの作品であった。庶民の口を借りてこれを語っている ことが面白い。血と土を重視する国家社会主義にあっては、郷土意識は決して結束の妨げとはみ なされていなかった。メッシェンデルファーは全てを心得て、語るべきでないものを秘して時勢 に、彼の思うシラーではないシラー像を語り始めた NSDAP にも迎合していた。しかしこの雑誌 もろとも、国家社会主義は間もなく崩壊する。それと共に、「民族」の祭典、あるいは全階層的 行事としてのシラー祭は、ズィーベンビュルゲンのみならず、どこでも決して行われなくなる。 「ノイエ・リテラトゥーア」誌上のシラー生誕 200 年祭まで 戦後から現代にいたるザクセン人を語るときに無視できないのは、彼らの人口の著しい減少傾 向である。戦時中すでに、NSDAP は戦略的に北ズィーベンビュルゲンをハンガリーに割譲した のみならず、戦力確保のためにドイツ本国への「帰郷運動」を展開し、これに多くの男女が応 じていた。また、上述のように戦後すぐソ連が多くの労働力となる世代の男女を国内に連行し、 1945 年にすでに暫定的にポーランドとドイツの国境となっていたオーデル・ナイセ線間際のド イツ側、フランクフルト・アン・デア・オーダーなどの町で解放した。まだ東西ドイツ間に通行 不能な壁はなかったので、その多くがドイツの西側、のちに西ベルリンと西ドイツとして隔絶さ れる米英仏占領地域に逃れた。その結果、注 5 に述べたように、共産主義時代には、バナートの シュヴァーベン人とほぼ同じ人口にまで落ち込んだ。さらに、1989 年のクリスマス革命以降は、 ザクセン人を含むドイツ系住民が雪崩を打ってドイツに逃れた。ドイツは国籍の血統主義をとっ ているために、彼らを受け入れた。 ドイツに逃れた人々の中には、年金生活に入ってからズィーベンビュルゲンに戻る人々が現れ たので、ドイツ政府は海外を主たる居住地とする人に年金の支給を中断するなどの措置をとった。 そのため、気候のいい夏だけズィーベンビュルゲンに戻ってバカンスを過ごす人々が現れ、本研 究の冒頭に述べたレーナー牧師(鈴木 2018 S. 29)によれば、それを夏のザクセン人(ゾンマー ザクセン Sommersachsen)と呼ぶ由。 事態をザクセン人に限定すれば、16 世紀以来ザクセン人のアイデンティティを規定してきた ルターと、一人の文学者シラーに捧げる祭を、あらゆる階層が総出で熱狂的に記念祭を祝うこと によってドイツとの一体化意識を強める働きを強めてきたシラーが、敗戦によって一気に破棄さ れるということはあり得なかった。しかしルターとシラーを今日の段階で並べてみれば、表面的 には、あらゆる局面で行動の規範となっているルターの新教に比して、シラー個人への熱狂的崇 拝は早く冷めていったように見える。戦後の在ルーマニアドイツ人の少数民族としてのアイデン ティを論じたアンネマリー・ヴェーバーの大著『ルーマニアドイツ人?』(Weber 2010)に、シ ラーが言及されるのはわずか 4 か所である。その最初の個所が深くザクセン人に関係する。1946 年当時、ルーマニアのドイツ人の側から第二次大戦に対していかなる正当化ないしは弁明が行わ れていたかを論じた最初の章の中で彼女が触れた、ハラルト・クラッサー(Harald Krasser,

(8)

1905-1981)によるヘルマンシュタットのズィーベンビュルゲン教区「ルター・シラー祭」における講 演「教育者としてのシラー」である。ちなみにルターとシラーは奇しくも誕生日を同じくし、そ の日はザクセン人の教会で毎年祝われている12。その中でクラッサーはシラーの民衆教育者とし ての側面を強調した13。ヴェーバーは …学問的かつ批判的な、未来を志向した距離を置いたうえで、彼はドイツにおいて、とりわ けズィーベンビュルゲンにおいて、シラー、彼の作品、もちろん彼のスタイルによっても人々 がいかに自らをアイデンティファイされてきたかを指摘した。クラッサーが一方で非常にき め細かく(地理的な意味でも)シラー受容を描き出すと、しかし他方で彼は極めて画一的な 「我々の文学史」を説くことになった―この「我々の文学史」を語ることによって、彼はズィー ベンビュルゲンのものではなく(しかし同時にズィーベンビュルゲンのものも)ドイツの古 典文学なのであると語ったのである。(ibid. S.43) と述べた。回りくどい文章だが、教会のルターとシラーを記念する講演会で、地の果てのドイツ と本国との同一性が戦後すぐに改めて再確認され、ドイツ人として戦ったことが正当化されてい るという彼女の文脈を補強するための一文である。クラッサーの公演は、共産主義世界に繰り込 まれた時代になってすぐ、ザクセン人におけるルターとシラーの主導的地の重要性を再確認する ように促しているということもできよう。そして教師と牧師が主導する社会の重要性をも再確認 させようとしたように見える。しかし、この講演の前年から、すでにソ連によるズィーベンビュ ルゲンとバナートの一般ドイツ人の大量強制連行が開始されていた。クラッサーをはじめ、ザク セン人の文化的指導層は、むしろ沈黙するのが賢明だったのではなかろうか14。ズィーベンビュ ルゲンの文化的な指導者たちは、シュトックホルスト(Stockhorst 1967) や ベーム(Böhm 2006) が指弾した人々の中に入っているか否かを問わずとも、基本的には、程度の差を問うことが無意 味なほど、表面的にはほとんど国家社会主義と同質化していた。第二次大戦中の軍国主義日本と 酷似した状況であったと言わざるを得ない。 ルーマニアの少数民族としての新たな枠組みを背負わされたザクセン人の中で、シラーとその 民族主義的側面の他にも、様々な性格、多面性を持った「教育者」というよりは指導者として の位置付けは、毎年 11 月 10 日を機に教会で行われる「ルター・シラー祭」の中で再確認され命 脈を保ち続けているということはできよう。ルターとシラーが共に持っていた反ユダヤ的性格15 12 1946 年のこの祭典も、シラーともルターとも縁のない年に行われていることになるが、これはズィーベンビュ ルゲンに絶大な影響を及ぼした両者の同一の誕生日(ルターは 1483 年、シラーは 1759 年の)、11 月 10 日を記 念して毎年挙行されているものを指す。この講演は教会主催のセミナーの一環として行われた。 13 ヴェーバーが示した出典は以下の通り。

Harald Krasser: Schiller als Erzieher. Grundgedanken einer Schulrede bei der Luther-Schiller-Feier des Landeskirchenseminars. KB vom 20. November 1946, S 219f.

14 クラッサーはこの後、他のズィーベンビュルゲンの文化的指導者同様、ルーマニア当局によって逮捕、短期 投獄をされている(鈴木 2007 参照)。彼は 1937-39 年に『クリングゾール』の編集にも参加していた。後にクルー ジ・ナポカのバベシュ・ボアイ大学のゲルマニスティークの正教授になる(1955-63)。 15 ルッペルト(Ruppelt 1979 S. 167 f.)は 1943 年のベルリンの国民学校のドイツ語教科書にみえる「ルターか らヒトラーまで」に至るユダヤ人蔑視的言及を資料として引いている。ルターからは「ユダヤ人はドイツ人 (Deutscher)ではなくて詐欺師(Täuscher)である。通じない外国語の話者(Welscher)ではなくて偽造者(Fälscher) である。市民(Bürger)ではなくて殺人者(Würger)である」が、そしてシラーからは「こんなだらしない人 種から独立不羈の男、啓蒙された頭脳、英雄や政治家がどうやって輩出されるというのか」という言葉が引かれ、

(9)

に対する反省など、本研究では立ち入る余裕がないものの、全世界のルター派教会が重荷として 背負った部分も共有し、改革が行われたことは言うまでもない。これらはすべて、セクリタテア の介入やチャウシェスクまでの共産主義政権の干渉によるものでもなければ、ルーマニアがヘル マンシュタットのドイツ人地域に 1990 年になって初めて設置した大学などアカデミズムからの ものではなく、特にクリスマス革命の後「歩ける人は皆ドイツに行ってしまった」といわれるほ どの勢いで人口が失われ続けるズィーベンビュルガー・ザクセンのコミュニティの中心として、 その紐帯である教会の内部で細々と行われてきているのである。 クリスマス革命の後、大挙してドイツに向かった点では同様だが、共産主義時代のルーマニア ドイツ人の中で相対的に重要性を増したのはバナートのシュヴァーベン人たちである。 ルーマニアのドイツ人世界におけるシラーとその価値は、大衆に直接訴えることではなく、比 較的閉じた文学の世界において安住の地を確保していくように見える。『ノイエ・リテラトゥーア』 (Neue Literatur)誌は、戦後のルーマニアで最も重要なドイツ語文学誌である。ティミショアラ 大学の独文科出身者を中心に、当時のルーマニア人民共和国作家連合(RVR)の当地の支部の年 鑑として刊行された『バナート文学界(Banater Schrifttum)』を前身とする。ティミショアラ(ド イツ名テメスヴァール Temesvar)はトランシルヴァニアの南西に位置する、ドナウ川に流域の 農地開発を目的にハプスブルクが(主にシュヴァーベン出身の)ドイツ人の入植を進めた地域16 である。ちなみにシラーは、このシュヴァーベン地方の町マールバッハで生を受けている。1956 年から雑誌はNeue Literaturと改名し、1958 年からは首都ブカレストで刊行され、ルーマニアの ドイツ人の文芸雑誌の中心的存在となった。1956 年は、1953 年に死去したスターリンに対して、 2 月の党大会の「個人崇拝とその結果について」と題した秘密演説でフルシチョフがスターリン 批判を始めた時期であるが、雑誌の改題・全国誌化とは直接の関係はないと思われる。2009 年 にノーベル文学賞を受賞したヘルタ・ミュラー(1953-)もこの雑誌から世に出た。ズィーベンビュ ルゲンの文学者も頻繁に寄稿している。興味深い形でこの時代のシラー祭、すなわち 1955 年の 没後 150 年祭と 1959 年の生誕 200 年祭が観察できるのは、これらの雑誌である。 『バナート文学界』1955 年第 1 号には、共産主義政党に忠誠を誓ったブコヴィーナのユダヤ系 詩人コルンの『シラー祭へのプロローグ』と題した詩が掲載された(Korn 1955 S.10f.)。シラー の未完の作品『デメトリウス』において、17 世紀初頭のロシアの偽皇帝となったデメトリウス を息子と呼ぶことを拒否した、先帝の妃マルファに語らせた詩である。シラーの諸作品を讃えた その末尾でロシアがいまなお―ドン・カルロスやポーザ、モーアの姿となって「階級闘争の轟 音の中に突進し―シラー人類の精神の巨人として自らのものと呼んでいることを讃えている。 読みようによっては、非常に政治的に複雑な意味を読み込みうる詩であったが、もちろん基本的 にはソ連賛歌の意味に読まれることを欲した詩である。これによってルーマニアのドイツ人とこ の雑誌とに嵌められた枠を確認することができる。このようにして始めなければ、文学の世界の 中に閉ざされた祭りになったとはいえ、没後 150 年祭が祝えなかったものと思われる。 これらがヒトラーとヒムラーの過激な言葉と同列に並べられている。ルターとシラーが異教徒に対してこのよ うに述べていたことは否定できない。ルター派諸教会も折に触れてこれを重い軛とし、ルターの発言の研究と 議論を深めようとしている。他方で、ルターやシラーの思想がヒトラーの生みの親だと論証することも不可能 であろう。ルターからヒトラーに一本の線を引き、その上にシラーを置くことは、シラーの政治性に限定しても、 その多面性に即しても困難である。 16 かつてはトルコの占領地域であったが、現在のルーマニアでは、上述のようにブコヴィーナとともにトラン シルヴァニアに含まれると理解されている(鈴木 1998 の付属年表参照)。

(10)

生誕 200 年祭の年 1959 年にも、ルーマニアのドイツ人社会に耳目を引くようなシラー関連の 大きな動きはなかった。しかし文学界では事情は異なる。ルーマニアのドイツ人の主要な文学・ 文芸誌は 1956 年に「ノイエ・リテラトゥーア」に移る。これはチャウシェスクが共産党書記長 に就任して少数民族の権利をある程度認め始める 1965 年に先駆けた動きである。それからほど なくして大きなシラー祭の年が訪れる。 「ノイエ・リテラトゥーア」誌の 1959 年第 2 号は、93 頁から 114 頁という比較的大きな誌面 を割いて特集を組み、1959 年のシラー生誕 200 年祭を記念している。その冒頭に置かれたのは シラーの諸作品からの引用を集めた箴言集である。編者の名はない。その初めにゲーテの「シ ラーの『鐘』17へのエピローグ」の「彼は彗星が我々の前を飛び去っていくようにして、我々の 先頭で輝き照らしている/無限の光を自らの光とむすびながら」を置いて、過去のドイツ社会に おけるシラー祭では見られたことのない、多面的なシラーの言葉を集めたものとなっている。も ちろん共産主義と抵触するものは一つとてない。その最初の一文は、シラーが編集し、コッタ書 店から月刊誌として発行した雑誌「ホーレン」(1795-1797)の発行予告の「一つの民族のために 書くことなど、哀れな小さい理想である。哲学的精神にとっては、そんな境界線は我慢がならな いものである」であった。これらは民族性を排除した箴言集なのである。最後の 1 頁を使って J. H. ダンネカー作のシラーの胸像の写真が掲載される。この時期の経済事情を考えると破格のも のである。次に東ドイツのブレーマーとヴェルトハイムの共著論文「シラーのヴァレンシュタイ ン」(Braemer, E. / Wertheim 1959)と、RVR のアカデミー会員 T. ヴィアヌの「若きシラーの交友圏」 (Vianu 1959)が続く。いずれもシラー論として、今日では乗り越えられているものだが、奇異 な偏向を感じるものでもない。この後独裁を強めていくチャウシェスクの時代、セクリタテアは 「協力者」をアカデミズムの中にも、文学界からも選び出し、網の目のように監視の網を張り巡 らせていた(藤田 2016 107 頁参照)。かかる中、シラーの「民族」革命的側面を論じるのは不可 能なのは言うまでもない。 クリスマス革命後のシラー没後 200 年祭 シラー没後 200 年祭が訪れるのは、1989 年 12 月 25 日にチャウシェスクが殺害され、独裁政 権が崩壊した、所謂クリスマス革命から 15 年余りを経て、2007 年 1 月 1 日のルーマニア EU 加 盟を目前に控えた 2005 年 5 月 9 日のことである。革命後、表面的には完璧な脱独裁化が図られ、 セクリタテアも 1990 年に解体され、そのメンバーは公職から追放されていた。少なくとも、少 数民族としてのドイツ人のメディアがシラーを語るとき、何に憚る必要もなくなった。しかし、 ヘルタ・ミュラーが指摘するように、実はこの組織が壊滅していないことは明らかである(注 9 参照)。ルーマニアの少数民族としてのドイツ人が、2005 年をどのようにとらえていたか、ブコ ヴィーナとバナートを例に概観したい。 現在ウクライナとルーマニアにまたがるブコヴィーナは、18 世紀にハプスブルク帝国が軍事 的な要衝地域として開発し、ユダヤ人をドイツ人と平等に扱ってその財力を利用したため、後年 「ユダヤ人の桃源郷」とも呼ばれた。主要都市チェルノヴィッツを中心とするブコヴィーナの北 半分が、1940 年のソ連占領以来ウクライナ領である。パウル・ツェラーンを始め重要なユダヤ 人ドイツ語詩人を輩出した地域でもある。当地でも 1859 年以来のシラー祭は他のあらゆるドイ 17 シラーの長詩『鐘の歌』(Das Lied von der Glocke)を指す。鈴木 2019 S.34 及び注 16 参照。

(11)

ツ語地域(言語島)同様に祝われていたが、ここでは祭りそのものについての言及は割愛する。 2005 年のシラー祭を前に、ホルスト・ファッセル18が戦後ルーマニアの少数民族としてのド イツ人に向けた文芸・文化雑誌『南東ドイツ四季報』(鈴木 2014 参照)19に寄稿文を寄せた。そ こでは、ブコヴィーナにおける複雑極まりないシラー劇上演史から当地のシラー受容が素描され ていた。この雑誌はルーマニア国内ではなく、ザクセン人が戦後多く居住することになったミュ ンヒェンで刊行され、ルーマニアの内外に居住する同郷の人々に広く読まれている。1775 年以来 ハプルブルクによって原野の開発が推進された皇帝直轄領から 1918 年にルーマニアの版図に入 り、22 年に人口比で拮抗するウクライナ人ではなく都市のドイツ人に対してのみ敵対行動をとり 始めた時点から辿り、第二次大戦後にウクライナ領となって 2005 年に至るまでのチェルノヴィッ ツ(ブコヴィーナの首都)20の劇場とシラー上演の歴史を扱った論文である。ファッセルの話題は、 ユダヤ人の財力をもとに 1905 年に建設され、シラー像が建立され、背後の通りをシラー通りと 命名された劇場を中心に展開する。1940 年以降、ドイツ語話者が激減したチェルノヴィッツでは ドイツ語劇場の存続が不可能となったことを述べて、ファッセルは論文を以下の言葉で結んだ。 …シラーが通りの名とチェルノヴィッツ劇場のファサードの胸像としてその場で生き延びて きたことは、この地でドイツとウクライナの文化の間で再び良好な接触が行われること、そ して特に今日劇場の建物の前で君臨しているウクライナの国民詩人(訳者注 : オルハ・コビ リャンスカ21)が言葉と作品において二つの文化を繋いできたことは希望の契機となること ができるかもしれない。その際にシラーに重要な役割が与えられることが可能なのではなか ろうかと思われるのである(Fassel 2005 S30 f.)。 チェルノヴィッツがウクライナ領となってドイツ系住民のほとんどを失った現在、希望的観測 という言葉は、この論文の末尾のためにあるようにすら見える。シラーの胸像が残るか否かはド イツのウクライナに対する経済支援の額次第なのではなかろうか。シラー祭を祝うにしては、実 に寂しい限りの論文ではあった。ルーマニアのドイツ人、またルーマニアからドイツに逃れてき たドイツ人向けのこの雑誌は、ズィーベンビュルゲン出身者の執筆者が多く、相対的に「民族」 主義的傾向を帯び、右に傾きやすかったことは否定できない、というよりは必然性すらあった。 ただし、2005 年からハイデルベルク大学の付置研究所の雑誌(鈴木 2014 参照)となってからは、 著しく学問的なルーマニア情勢の分析、ルーマニアのドイツ人の文化に関する研究が目立つ他、 18 1942 年ティミショアラ生まれのファッセルは、アカデミズムとジャーナリズムの両面でルーマニアとドイツ の両国で活躍した。チャウシェスク時代の 1983 年、許可を得て西ドイツに移り、2017 年ヴッパータールで没し ている。チャウシェスクは少数の移住希望者と亡命者を西ドイツに送るか、あるいは故意に逃がし、西ドイツ から多額の見返りを得て、かつ彼らの旧居を接収していた。 19 この雑誌は 2006 年から学術誌の色合いを濃くし、ミュンヒェン大学の付置研究機関「南東ヨーロッパドイツ 文化・歴史研究所」(IKGS)からSpiegelungenの名で年二回刊行されている。 20 ブコヴィーナはザクセン人のズィーベンビュルゲン、シュヴァーベン人のバナートと並んでルーマニアの主 要ドイツ人地域だが、ルーマニアでは 1918 年に割譲されたこれらの地域も一様にトランシルヴァニアと目され ることが多い。 21 ブコヴィーナのゲルマニストであるリフロら(Rychlo u. a. 2009, S. 73–79)によると、オルハ・ユリアニヴナ・ コビリャンスカはドイツ系の母を持つブコヴィーナ生まれの女流作家(1863-1942)。ドイツ語で日記をつけ始 め、詩作を始めたことが大文学者への第一歩であった。『土』(1954)をはじめ数編が映画化されているとのこと。 現在チェルノヴィッツの劇場の前にはシラーに代わってコビリャンスカの銅像が立っているほか、同市には彼 女の博物館がある。

(12)

変わらず若い世代の文学作品の発表の場となっている。この雑誌において本格的にシラー祭が論 じられるとすれば、2059 年の生誕 300 年祭を俟つまでもなく、研究論文の形で世に問われるこ とを期待したい。

最後に、最新のシラー祭の記事を、ルーマニアのドイツ語新聞から引きたい。現在の在ルーマニ ア在留ドイツ人の主要全国紙である『ルーマニアのための一般ドイツ語新聞』(Allgemeine Deutsche

Zeitung für Rumänien)が「ティミショアラのシラー講演会」(Schiller-Matinee in Temeswar)の見出しで、 5月9日の命日からだいぶ遅れて2005 年 5月25日の地方面にティミショアラの記者の報告を掲載した。 副題には「残念ながら聴衆の数はわずか」という文字が見える。短い記事ゆえ、全文を引く(S. 8 地方面)。  フリードリヒ・シラーの没後 200 年を記念してティミショアラ大学のドイツ学講座が 22 日日曜日にアーダム・ミュラー・グッテンブルン記念館で記念行事を開催した。ドイツ学講 座を代表してアンゲリーカ・イオナシュ博士、国立ドイツ語劇場代表のルチアン・ヴァルシャ ンダン、レーナウ・ギュムナージウムのローレッテ・ブラディチェアヌがルーマニアとティ ミショアラにおけるシラー受容の概説を行った。アーダム・ミュラー・グッテンブルン記念 館、ドイツ大使館、ドイツ学術交流会(DAAD)及びドナウ資金調達対話(DFD)ブカレス ト支所の後援行事である。  シラー作品のいくつかは、すでに 19 世紀初頭からルーマニアで翻訳・流布されていた。 とりわけ、ドイツの演劇一座の紹介によって、シラー戯曲がバナートとズィーベンビュルゲ ンで演じられていた。この古典主義を代表する文学者が、没後 200 年を経てもティミショア ラで生きていることは、演劇史的に重要な国立ドイツ語劇場のルチアン・ヴァルシャンダン の概説で明らかにされた。そして仮にシラーが今日もはや個々人の必読書とは言えなくとも、 ニコラウス・レーナウ・ギュムナージウムではカリキュラムの重要な要素である。ローレッ テ・ブラディチェアヌは、生徒が幾度も、抑圧と自由がテーマになると、シラーから活気を 与えられているとのこと。  催しの頂点はオスバルト・ガイアー演出のブカレスト・シラー劇場の登場で、『詩・場面・ ハプニング』と題し、有名な、あるいは知られざるシラー作品を想起させるものであった。 この催しの主旨は、シラーの作品は今日焦眉のアクチュアルなものだ、というものであった が、聴衆が少ないために、シラーの「専制」22はほとんど虚ろに響いた。 この記事で目に留まるのは、(公式には)セクリタテアの目を気にする必要がない時代とはいえ、 大胆な、半ば公的な行事に対する批判である。記事はドイツ系の学校23のなかでシラーが「専制」 的な睨みを利かせていることを、観衆がわずかしかいないということと同時に述べることで皮肉 22 この「専制政治」(in tyrannos というラテン語)は、シラーの『群盗』を論じるときに「カール・オイゲン公 の専制によって亡命を余儀なくされたシラー」のように、必ず用いられてきた言葉だが、ここでは学校教育に おけるシラーの(教師による上からの)圧倒的な影響力を指している。ただしこの記事の記者は in tyrannos と いうキーワードを in tirannos と誤記している。 23 この「学校」の原語は Lyzeum(リュツェーウム、高校)となっているが、ドイツ語で教育を行い、卒業試験 として独墺のギュムナージウムと同じアビトゥア(マトゥア)が課され、これに落第しなければ独墺の大学に 進学可能な学校であるので、独墺本国と同じギュムナージウムとした。独墺の大学に進学しやすいこのような 学校は、例えば上述のホンテルス校や、その他にヘルマンシュタット(シビウ)のブルケンタール・リュツェー ウムのようにドイツ系住民が多い他の大きな都市にもあり、ドイツ人の人口が減った今、実はルーマニア語話 者にも人気があり、定員充足に役立っている。

(13)

に描いており、現代の在ルーマニアドイツ人の大半がシラーとシラー祭をこのように理解してい るのであろうことが示唆されている。劇場の演目とはなっても、シラーがもはや個々人の必読書 ではないと言い切っているのも興味深い。とはいえ、名実ともに現在のルーマニアのドイツ人の 声を代表しているこの新聞の記事が、彼らを支援しているアカデミズムのみならず、実はドイツ 大使館、DAAD、DFD まで敵に回しているのである。筆者は勇敢な地方記者なのだろうか。し かし過去のシラー祭が担ったナショナリズムの悲劇的な結果を非明示的に喚起させようとしたよ うには見えない。あるいは学校のシラーを用いた授業で苦い思いをしたのだろうか。入植が 12 世紀以来という長い歴史を持つズィーベンビュルゲンではない、バナートのこととはいえ、シラー 祭を全ドイツ語圏と共に祝ってきた歴史はすでに過去のものとなっていることを如実に示す記事 ではある。そもそもシラーと同じ出身地から来たバナートのドイツ系住民は(ブコヴィーナでも 事情は同じである)、18 世紀後半以来という浅い入植の歴史しかなく、ドイツ語で生活してきた 入植者は確固たるドイツ人としてのアイデンティティを捨ててはいないと見るべきなのである。 中世にドイツから入植して以来の歴史の末に改めてドイツ人と「なる」ためにシラー祭が祝われ たズィーベンビュルゲンとは初めから事情は異なっており、この意味においては、シラーと同郷 の人々とはいえ、シラーに関して思い入れがやや浅い、ドイツ本国と似た意識を持っているかの ようにみえないこともない。 同年 5 月 6 日付のこの新聞の文化面(S. 5 全国面)は、9 日の没後 200 年の日を前に、「今日も 対極的にみられる反逆者、かつ古典主義の巨人」という見出しで、シラーの詩を含めると文化面 の半分を使ったかなり大きな記事を掲載していた。もちろん、かつて 1905 年の没後百年祭に、「新 聞」が数か月前から周到に準備し、大小さまざまな記事で読者を誘導していた状況(鈴木 2018 参照)とは比較にならない規模ではある。 アンティエ・ラウシュナー(Antje Lauschner)という署名のあるこの記事は、シラーの『歓喜に 寄す』(1803 年版)ベートホーフェンが改変して第 9 交響曲に用いた Ode an die Freude (『歓喜に寄 せる頌歌』)が 1985 年以来 EU の公式頌歌となっていることから説き起こし、アカデミズムを背景 とした、極力客観的なシラー像を紹介しようとした記事であった。現代人がシラーを読む意味を理 解させるという観点では、こうした記事が掲載される意義は小さくない。記述に非政治性と学問的 客観性を感じさせるとともに、逆に現在ではドイツ人コミュニティに改めてシラーを教えなければ ならないのか、という感慨を覚えさせる記事ではあった。この新聞がシラー祭を忘れない姿勢を示 したことが、ズィーベンビュルガー・ザクセンと並んでバナートのシュヴァーベン人が多くを占め るルーマニアのドイツ人の社会で、シラーがヒトラーによる極度の熱狂に至るまでとは違う形でま だ生きのびていることを同時に示していると言うことはできるであろう。このドイツ人の「全国紙」 の中に、この年のズィーベンビュルゲンにおけるシラー祭の報告は発見できなかった。 しかし重要なことは、上述の二つに記事が共に 1859 と―ズィーベンビュルゲンではハンガリー 政府の目を意識して自制的であった 1905 年の―シラー祭の興奮の中で「ドイツ民族」意識が不 可逆的に成立または再確認されていたことを述べ、民族の歴史の記憶を再確認するべきであるこ とを一般の読者に想起させるべきことを忘れているということである。敢えて隠そうとする理由 があるわけではなかろう24。しかし彼らは―故意に―本国の大半の人々同様、この歴史を意識の

24 ラウシュナー氏はドイツの dpa Die Deutsche Presse-Agentur(dpa ドイツプレスエージェンシー)の記者である。 後者の記事は、おそらくこの新聞が dpa から買ったものにすぎないと推察される。

(14)

外に置こうとしているのではないかとすら思われる。 それに比べれば、ルター派教会という、外に対しては閉じられているものの、何よりも依然と してほとんどの住民の拠り所である世界の中で、たとえ規模は小さくとも 11 月 10 日に「ルター・ シラー祭」で二人の生誕を祝い続けるズィーベンビュルゲンでは、シラー祭によって何が行われ ていたのかを伝承することによる、負の遺産も含めた自らのアイデンティティの確認作業が、む しろ実質的に途絶えていないということができよう。本研究の冒頭(鈴木 2018 参照)で引いた「こ こではゲーテでなくてシラーなのです」(鈴木 2018 p.29)という、クリスマス革命以後のザクセ ン人の中心人物の一人であったレーナー牧師の言葉がそれを端的に示しているのはこの事情なの であろう。通時的に、ズィーベンビュルガー・ザクセンを中心として、トランシルヴァニアに居 住するドイツ人たちにとってのシラー祭の意味を問うてきたこの研究はここにいったん閉じるこ ととしたい。 文 献

Braemer, E. / Wertheim, U. (1959) Schillers Wallenstein. In: Neue Literatur, RVR 1959 Nr.2, Bukarest, S. 97-102

Böhm, Johann (1999) Die Deutschen in Rumänien und das Dritte Reich 1933-1940. Peter Lang Europäischer Verlag der Wissenschaften, Frankfurt a.M.

Böhm, Johann (2006) Hitlers Vasallen der deutschen Volksgruppe in Rumänien vor und nach 1945. Europäischer Verlag der Wissenschaften. Frankfurt a. M.

Fabricius, Hans (1932) Schiller als Kampfgenosse Hitlers. Nationalsozialismus in Schillers Dramen. Verlag Deutsche Kultur-Wacht, Berlin/Schöneberg.

Fassel, Horst (2005) Schiller-Rezeption und Schiller-Präsenz in Czernowitz. Zu einigen Aspekten aus den Jahren 1921-1922. In: Südostdeutsche Vierteljahresblätter 54.Jahrgang Heft.1,(München) S. 24-32

Göllner, Carl (1988) Die Siebenbürger Sachsen in den Jahren 1848-1918. Böhlau. Köln/Wien.

Grimm, G. u. Zach, K. (Hrsg. 1995) Die Deutschen in Ostmittel- und Südosteuropa Bd. 1.Vlg. Südostdeutsches Kulturwerk, München.

Friedlich Schiller Universität (2009) Tradition, Brüche, Wandlungen: Die Universität Jena 1850-1995. Böhlau, Weimar. König, Walter Hrsg. (1994) Siebenbürgen zwischen den beiden Weltkriegen. Böhlau, Köln.

König, Walter (1995) Die Deutschen in Rumänien seit 1918. (In Grimm u. Zach Hrsg.1995 S. 251-296). Korn, E. R. (1955) Prolog zur Schillerfeier. In: Banater Schriftentum 1955 Nr.1 S.10f.

Logge, Thorsten (2014) Zur Medialen Konstruktion des Nationalen: Die Schillerfeiern 1859 in Europa Und Nordamerika. Vandenhoeck & Ruprecht, Göttingen.

Meschendörfer, A. (1933) Der 30. Januar 1933. Aus einem noch unveröffentlichten Werk von Adolf Meschendörfer. In: Volk im Osten 1942 Heft1 S. 40 f.

Meschendörfer, A. (1943) Der Ausflug nach Rosenau. In: Volk im Osten 1943 Heft5/6 S. 80-89.

Möckel, Andreas (1994) Kleinsächsisch oder Alldeutsch? Zum Selbstverständnis der Siebenbürger Sachsen von 1867 bis 1933. (in König Hrsg. 1994 S.129-148).

Mungiu, A. (1995. deutsche Übersetzung von W. Kremm u. a.) Die Rumänen nach ’89. Sozio-politische Studie. InterGraf Verlag, Resita

Myss, Walter (1968) Fazit nach achthundert Jahren. Geistesleben der Siebenbürger Sachsen im Spiegel der Zeitschrift

„Klingsor“ (1924-1938). Verlag des Südostdeutschen Kulturwerkes, München.

Myß, Walter (Hrsg.1993) Lexikon der Siebenbürger Sachsen. Wort und Welt Verlag, Innsbruck. Roth, Harald (Hrsg.1995) Minderheit und Nationalstaat. Böhlau, Köln.

Roth, Harald (1995) Zum Wandel der politischen Strukturen bei den Siebenbürger Sachsen 1918-1933 (in Roth Hrsg.1995 S.99-114).

(15)

Ruppelt, Georg (1979) Schiller im nationalsozialistischen Deutschland. Der Versuch einer Gleichschaltung. Metzler Studienausgabe, Stuttgart.

Rychlo, P. u. a. (2009) Literaturstadt Czernowitz, 2., verbesserte Auflage. Czernowitz. Schmidt, A. (Direktor 1940-44) „Volk im Osten“. Bukarest.

Stockhorst, Erich (1967) Fünftausend Köpfe: Wer war was im Dritten Reich. Blick & Bild Verlag, Velbert.

Vianu, Tudor (1959) Der Freundeskreis des jungen Schiller. In: Neue Literatur, RVR 1959 Nr.2, Bukarest, S. 103-114. Weber, A. (2010) Rumäniendeutsche? Diskurse zur Gruppenidentität einer Minderheit (1944-1971). Bölau, Köln.

鈴木道男(2019)「戦間期と「国家社会主義者」シラー トランシルヴァニアのシラー祭Ⅱ」東北大学大学院国際 文化研究科『国際文化研究科論集』第 27 巻 1-13 頁 鈴木道男(2018)「トランシルヴァニアのシラー祭―1859 年の生誕百年祭・1905 年の没後 100 年祭を中心に―」 東北大学大学院国際文化研究科『国際文化研究科論集』第 26 号 29-42 頁 鈴木道男(2014)「アンドレアス・シュミットの『フォルク・イム・オステン』序説:忘れられた戦時下ズィーベンビュ ルゲンのナチス文化雑誌と文学」東北大学大学院国際文化研究科『国際文化研究科論集』第 22 号 45-58 頁 鈴木道男(2007)「ディアスポラの紐帯としてのアンソロジー―『故郷の心』とズィーベンビュルゲンの国家社会 主義について―」『東北ドイツ文学研究 』 (50) 121-142 頁 鈴木道男(1997)「ルーマニアのドイツ語言語島の文化的意味について I. 三つの言語島の過去と現在」東北大学言 語文化部『言語と文化』第 8 号 125-144 頁 藤田恭子(2016)「ルーマニアにおける国家保安部(セクリタテア)記録文書公開」日本独文学会東北支部『東北 ドイツ文学研究』第 57 号 105-117 頁

参照

関連したドキュメント

*ホバークラフト 記念祭で,幼稚 園児や小学生を乗 せられるものを作 ろうということで 始めた。右写真の 上は人は乗れない

成される観念であり,デカルトは感覚を最初に排除していたために,神の観念が外来的観

関係委員会のお力で次第に盛り上がりを見せ ているが,その時だけのお祭りで終わらせて

が漢民族です。たぶん皆さんの周りにいる中国人は漢民族です。残りの6%の中には

ヨーロッパにおいても、似たような生者と死者との関係ぱみられる。中世農村社会における祭り

であり、 今日 までの日 本の 民族精神 の形 成におい て大

・この1年で「信仰に基づいた伝統的な祭り(A)」または「地域に根付いた行事としての祭り(B)」に行った方で

をき計測磁については 約機やぞの後の梅線道燦ω @J III 祭賞設けて、滋問の使用!窓織象件後紛えているをのもあ~.正し〈誕lÉをされていない官能筏