「被災」する「研究者」─東日本大震災とネパール
大震災を経て─
著者
工藤 さくら
雑誌名
東北宗教学
巻
14
ページ
153-191
発行年
2018-12-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/00127433
「被災」する「研究者」
──東日本大震災とネパール大震災を経て──
工藤さくら
はじめに 2015年4月25日に発生したネパール大震災から3年が経つ。筆者にとってこ の震災が遠くのどこかの国で起きた出来事のように思えないのは、ネパール滞 在中に起きた、人生で二度目の大震災だったこともある。2011年3月11日に起 こった東日本大震災は、7年が経った現在でも各地に様々な爪痕を残し、そし て、未だに決着のつかない問題を抱えている。被災者のこころの支援は、政府 をはじめとして災害復興の重要な課題となり、震災直後から活動をはじめた Cafe de Monkをはじめとする宗教者らによるこころのケアは、臨床宗教師と いう新たな実践へと形を変えている。震災後さまざまな研究分野で震災に関 わってきた東北大学に在籍しながら震災を経験した筆者は、長い間、震災の経 験を語ること、ひいては、震災に関わる研究について、非常にもどかしい思い を抱えてきた。 帰国直後の2016年ある集中講義を聴講したときのこと。震災がテーマの講義 では、毎講、最後の1コマは対談形式で異なる先生がゲスト講師を務めていた。 ある日のゲストは山形孝夫先生で、『おもかげ復元師の震災絵日記』の著者、 笹原留衣子さんを題材とした著作や文学作品をいくつか取り上げて朗読する機 会があった。遺体修復師の方が遺体に対面する場面、そしてご家族がご遺体と 対面する場面に差し掛かったとき、わたしは涙が止まらなくなってしまった。 なぜ泣いたのかを授業で共有するように促されたが、考えがまとまらない。し かし、涙を流す学生は私一人ではなかった。教室は異様な空気になっていた。 フィールド報告この時の様子は、ある著作の冒頭にやや情緒的に紹介されている。この時、教 室では、自分のした支援活動や被災者を分析的に語り始める者もいた。主体を どう捉えるのかもこの講義の重要なテーマではあったが、あたかも自分が震災 をよりよく捉えているような語りをする「表現者」1がイニシアチブをとるよう な空気感に、わたしは納得できなかった。研究者2は言葉を与える、それによっ て気持ちが整理される人がいるのも事実である。しかし「研究者」の「被災」 はみえない。なのに、言葉を見つけることができない「研究者」は、役に立た ないと言われているかのようだった。講義が終わった後、先生には「そのまま ではあなたはいけない」と言われ、泣きながら研究室の先輩に話を聞いても らった。沿岸被災地に3年以上も行けなかったこと、震災研究に意欲的になれ ないこと、震災を伝えることへの違和感、あの日いた人・いなかった人、被災 地ボランティア、東日本大震災の感情のままネパール大震災が起きてしまった こと……話せなかった自分の思いが溢れ出た。震災を自分のこととして泣くこ とができて初めて、なぜ自分は泣いたのか《自分の震災》について考えるきっ かけになった。 この出来事から一つ気付かされたのは、自分は「震災」を語るときに客観的 でなければいけないと思い過ぎていたかもしれないということだった。自分が どう感じたかではなく、自分を除いた、客観的な出来事だけを伝えようとし、 感傷的な思いを共有すること以上に、伝えることを避けてきたことに気づいた。 それは少なくとも、完成された答えでない限り、発言することを許されていな いと自分自身が感じていたからでもある。それから2年経ち、今なぜネパール の地震について語ろうと思えたのか、それは「研究者」が「震災」を解釈、翻 1 磯前は『<死者/生者>論』(2018、ぺりかん社)の序章で、第三者の重要性について説 明する。第三者の介在によって、人々が「穏やかな感情へと転換していく回路」が求められ ていると言う。すなわち、イタコのような宗教者、「私のような学者」、あるいは芸術家といっ た、「被災地の経験に新たな意味を付与する表現者」あるいは、それを「翻訳する」存在が それに当たると述べている[磯前2018:11-24]。 2 この場合の研究者とは、教職に就く教授やベテランの学者を意味している。一方で、本稿 で「研究者」と示したのは、筆者のような大学院生を含む少なくとも学術的な訓練を受けた 研究員・学徒を意味する。
訳をつうじて伝えた時の違和感について考え始めたからだと思う。「サバルタ ンは語ることができない」と論じたガヤトリ・スピヴァクは、知識人の語りに おける認識の暴力について、政治家の使うような「代弁/代表」という意味の ルプレザンタシオン(représentation)と、芸術や哲学における「再現/表象」 という意味のルプレザンタシオン、これら同一の言葉の間の差異が無意識に語 られるときに認識の暴力が生まれると述べている3。また、デリダの発言に対す る箇所では、それは「同化によって他者を領有する危険」4であり、このような 主体に影のように付随する権力/暴力/利害のネットワークに警鐘を鳴らすの である。 現場に参与する人類学者が100%客観的ではあり得ないように、被災した「研 究者」もまた自身の経験を除いて語ることは難しいはずである。また、震災の 記憶は、あの日に居合わせたからと言って特権的に語られるうるものではなく、 被災地を訪ねた人たちにも必ず何かの想いを追随させる。今でも震災の話にな ると涙を流す研究者がいる。震災後の地域の変化に心を痛める人たちがいる。 それらの体験を見聞きしたり、語り合ったりして共有することは、研究という 範疇を超えて重要な営みだと今では思う。磯前順一はある著作で「災害の当事 者だから現実が誰よりもよく分かるわけではない。当事者だからかえって見え にくいこともある。かといって、被災しなかった非当事者が被災者よりも現実 を公平中立に理解できるわけでもない。誰一人として正解を有しているものは いないという認識を共通の地平として、異なる視点を持つ者が互いに謙虚かつ 批判的に語り合っていくこと」5そのような共同作業が必要だと述べている。し かし、研究という地平でそれはいかに可能となるかを「研究者」は考える必要 があるだろう。筆者である私は、上述のように「研究者」が伝えることへの違 和感から、自身の震災の経験を伝えることに抵抗感があった。しかし、テクニ 3 ガヤトリ・スピヴァク著、上村忠男訳(1998)『サバルタンは語ることができるか?』み すずライブラリー pp. 1 29。原著 Can the Subaltern Speak? は1988年に刊行。
4 前掲 p.116
5 磯前順一「沈黙の眼差しの前で」磯前順一編『宗教と公共空間』(2014年、東京大学出版会) p.19
カルな理論よりも、まずは曲がりなりにも考え、主体的に語り情報化する重要 性について最近やっと気づきはじめた。本稿は、このようなきっかけから「私」 を主語に、自身のネパールでの被災体験を記録するものである。 文中の言語は以下の表記で示している。例)ネパール語[Np.]、ネワール語 [Nw.]、英語[Eg.] また、首都名は現地語の発音に近いカトマンドゥに統一したが、学校名など の正式名としてカトマンズが使用されている場合はそのままにした。 1.ネパール大震災その規模と被害 2015年4月25日(土)現地時間の午前11:56、ネパール中部ゴルカ地方を震 源とする、マグニチュード7.8の地震が発生した。ネパール大震災(Nepal Earthquake)あるいは、ゴルカ地震(Gorkha Quake)と呼ばれる震災は、休日 の穏やかなひとときを一変させた。震源地のゴルカ地方(28.231゚ N 84.731゚ E) は、地震空白域(seismic gap)の中心に位置しており、以前から地震発生が懸 念されていた。ネパール中部を走る東西150キロに渡る断層が最大で4m 動い たとされ、震源地から80km 離れた首都カトマンドゥにも甚大な被害をもたら した。ネパール政府の発表では、ネパールのほか、インド、中国、バングラデ シュを含み死者9,100人以上、史跡や家屋の倒壊による被害総額は約67億米ド ル(約7,600億円)にも至った(2016年時点)6。実は、ネパールは地震の多い国で、 1934年には、インド - ネパール国境を震源とするビハール・ネパール大地震が 起こっている。私が現地に滞在していた2011∼2016年の間にも体感できるほど の小規模の地震は毎年のように起こっていた。しかし、1990年民主化、1996∼ 2006年マオイスト内戦、2008年王制廃止などの情勢不安の時期が長く続いてい たネパールでは、本格的な災害対策はあと回しにされていた。2013年にはネ パール中部で大規模な山崩れが起き、中国・チベットへの主要な交易道路の閉
6 「被災地を乗り越えるネパール」:2016年3月30日読売新聞、International Research Institute of Disaster Science, Research Report: IRIDeS Fact-finding and Relationship-building Mission to
鎖で観光産業が深刻な打撃を受けていたこともあり、2014年8月の現地新聞に は災害時のカトマンドゥ周辺エリアへの甚大な被害への懸念という記事も伝え られ7、日常会話においても自然災害は主要な話題の一つになっていた。2014年 には、日本政府と JICA が中心となり災害対策アセスメントを提起しているが、 2014年の暮れにはネパール政府によって災害リスクマネジメントを含む5ヶ年 計画が発足されていた。そのため、一部のネパールの現地校では、地震発生時 に机の下などで身を守るなどの指導が行われるようになったという。一方、ネ パール大使館に届けを出している邦人に対しては、在ネパール日本人会・日本 大使館主催での避難訓練が定期的に行われており、地震発生前の2015年3月7 日(土)にも、在ネ邦人の子供たちが学習するカトマンズ補習授業校8と協働で、 地震を想定した避難訓練が行われたばかりだった。避難場所などの連絡は、 FMラジオ、大使館からのEメール、また、2014年から開始された SMS メー ル(テキストメッセージ)を通じて連絡が回ってくるようになっていた。カト マンズ補習授業校には、災害時用の大使館との連絡手段としてトランシーバー が完備されており、生徒たちは、保護者のお手製の防災頭巾を兼ねた椅子座布 団9を学校で使用することになっていた。 2.地震発生時 発生から避難まで 地震がおきた2015年4月25日は土曜日で、公共の休日にあたるため、ネパー ルの公共機関や商店、現地校の多くはお休みだった。一般的なネパールの家庭 では、朝ごはんを食べ終わったくらいの時間帯で、ゆったりとした休日のひと 時を過ごしている頃である。カトマンズ補習授業校は、土曜日のみ開校する学 校で、幼稚園児から中学3年生までが通っている。当時、小学校5年生で教え 7 2014年8月30日 ナガリク紙[Eg.]「災害発生時のネパールの危険性は世界一」という内容で、 地滑り、洪水、地震について述べられている。 8 多くは大使館や JICA 駐在員、日本人配偶者の子供だが、日本経験のあるネパール人夫婦 の子供も少数いる。 9 座布団は2層になっていて、その間に頭が入るようになっていた。
ていた私は、その日も学校にいた。地震が発生した11:56は、ちょうど昼食の 時間で、私たち5年生が小学1年生の教室で一緒にお弁当を食べる日になって おり、いただきますをして一口目を食べようとした時だった。ゴゴゴゴと揺れ がおこったと思うと、数秒間では止まらずにどんどん強くなり、ぐるぐると建 物がしなって旋回するような強い揺れに変わっていった。実際にはもっと短 かったかもしれないが、5分間ほどの長いあいだ揺れていたように感じた。揺 れが強まってすぐに、机の下にもぐろうとしたが、5年生も私も1年生用の小 さな机に全身が入らず「先生からだ入らない!」と叫ぶ子供、「大丈夫きっと 止まるから、頭だけでも守って!」何か落ちたり倒れたりしないでくれと祈る 気持ちで、揺れが収まるのを祈った10。外からはガラスがバリバリと割れるよ うな音が聞こえ、机の上のお弁当が落ちていくのが見えた。地震で建物が軋む ような騒音のなか静かに終わるのを待った。揺れが収まるとすぐに、防災頭巾 を頭に外へ飛び出した。つい先日行なった避難訓練が功を成し、とてもスムー ズに子供達とともに外に避難することができた。外に出ると、学校の隣にある 催事場のガラスがほとんど割れていて、正面の大きなお家の外壁には大きなク ラックが入っていたのが見えた。学校にいた生徒と保護者、教員の安否を大使 館に伝え、次に、保護者に迎えの連絡をとる。補習校の生徒は、普段から安全 上の理由で、帰宅時には保護者に迎えに来てもらうことになっていた。連絡を 入れる教員主任は、生徒の親が大変な状況にあるかもしれない、迎えに来ない かもしれないという不安で潰れそうになっていた。大きな余震が何度も続いて おり、ビニールシートを敷いてひとかたまりになる生徒たちは、とにかく先生 にくっついていた。くっつかれていた私も子供達のおかげで少し心が和んだ。 次々と迎えの保護者が来る中で、迎えの来ない生徒の焦りや不安が膨らむ。か という私も、自力で帰らなければならず、ネパール人の配偶者がいる先生たち が次々に帰宅するのを目にすると非常に不安が募った。この時、まだ現地の携 帯電話の回線はつながっていた。すると、親しい一人が「さくらの住んでると 10 後日、震災マニュアルの改定を兼ねた臨時職員会議が行われた時にこの出来事が取り上げ られ、教員の責任が審議されたことは言うまでもない。
こ、すごい被害が出てるみたい。ぜったいに今日は帰っちゃだめだからね!」 と言う。研究の関係で、私は旧市街と呼ばれるエリアに住んでおり、ネワール 族特有の4∼5階建ての建物が密集する区画の細い通路を入った先にアパート があった。その夜は学校の保護者の家に泊めていただくことに決まり、他の子 供達と迎えを待ちながら大使館員のスタッフクオーターに移動した。もう16: 00になっていた。いつも交通渋滞する道路は静かで、道に多くの人が出ていた。 少し落ち着いたところで、携帯の充電やリチャージ11が続く限り自分の安否 を知らせようと国際電話をかけ始めた。国内通話は回線の混雑で繋がりにく かったが、海外への電話は数回に1度ほどはつながる状態だった。東日本大震 災に続く2回の震災で、家族で唯一実家から離れて暮らす娘を両親は心配して いることだろう。電話が繋がると、母親の声が震えているのが伝わり、申し訳 ない気持ちでいっぱいになった。こんなに心配をかけてまでネパールにいる意 味は一体何だろう、これほど親不孝な人はいない、そんなことまで考えてしまっ た。その後、カトマンドゥに住む日本人の友人、ネパール人の友人たちとも連 絡が取れとりあえず無事らしいことが分かり安堵した。 象徴的タワーの崩壊 スクーターで外を見に行った一人が「ダラハラが崩れた」という。ダラハラ (Dharahara-)とは、ビムセン・タワーとも呼ばれる街を象徴するタワーで、 1832年にビムセン・タパ首相の時代に建てられた高さ62m 弱のレンガ積みの 展望塔のことだ。スンダラと呼ばれる、地方行きの長距離バスや市内巡回バス を集約する停留所が近く、安宿や軽食店が多く並ぶエリアに突き出るようにそ びえ建っている。地方出身者の多くは首都カトマンドゥに着くと、まず目にす る建物でもあり、市内の人々にとっては買い物やデートを楽しむ場所として休 日には多くの人が訪れる。実は、この塔は1934年のビハール・ネパール地震で も倒壊し、再建されていた。長年、立ち入り禁止になっていたが、2005年から 11 ネパールの携帯はプリペイド式になっており、一定額のリチャージ・カードを購入して データ回線を利用する。
一般公開が始まり、入場料12を支払えば塔の上部まで行くことができた。倒壊 してから知ったのは、実はこの塔には芯がなく、煉瓦積みの空洞の建物だった ことだった。しかしながら、ダラハラが崩れたことは、多くのネパール人を震 撼させ、ある意味では、地震の規模が予想以上に大きかったことを実感させた。 当時、ダラハラ周辺には200人近くの人びとが休暇を楽しむ姿があったといわ れており、塔の崩壊によってカトマンドゥでは最多の死傷者がでた13。震災当 日の午後10時、政府はネパール全土に非常事態宣言を発令した。 余震・停電・食料や備蓄 2日目からは、在ネパール日本大使館の近くの日本人の友人の家に寄せても らうことになった。早朝の移動で、ダラハラ前を車で通ったが今まであったも のがぽっかりと無くなった風景は、喪失感のような違和感があった。友人の住 居のあるエリアは、高い建物もほとんどなく庭やガレージを配した広い家々が 集まる新興住宅地だったため、比較的被害は小さかった。家先の玄関に相当す る屋根のあるスペースには、どこからかやって来た近所の家族が毛布にくる まって身を寄せていた。大家の知り合いだったらしいが、友人も面識があるわ けではない。地震の日、家の中で過ごすことを恐れて多くの人が野外で一夜を 明かしていたこともあり、ネパール語を話すことができない友人は、なんか落 ち着かないけど仕方ないと言いながらそれを遠目に眺めていた。本震の後も、 夜中じゅう余震が続いていたため、玄関先に身を寄せている家族の顔にも疲労 が見えた。この時期は、ネパールの季節でいうと春にあたり、日中は強い日差 しのため半袖で過ごすことも出来るが、朝晩は日中よりも10度∼15度は冷える。 それでも家の中よりは安全だという考えがあったようで、ネパール人の多くは 外で夜を明かし、家の中で寝るジャパニ(日本人)は地震に慣れすぎている、 12 2015年時点で、ネパール人99ルピー、外国人288ルピーの入場料がかかった。 13 2015年5月に出版された『WAVE』[Eg.]という雑誌には、その当時、ダラハラの塔の上 で被災し、奇跡的に助かった女性のインタビューが掲載されている。揺れが起こった瞬間に ついて 彼女は以下のように話している。 ……For the first few seconds, it felt like I was in a swing. I knew I was going to smash down into the ground below. I started praying God to save me. I had no hope that I would survive.…… [Wave, 2015 May, no.232 p.41]
と冷ややかな眼差しを向けられていた。家内で就寝する私たちも、いつもは防 犯のため内鍵付き二重ロックの扉にも、すぐ外へ出られるように鍵をかけずに 寝ていたため、玄関先の家族を牽制するような気持ちだった。友人はレストラ ンで働いていたため、自宅には食品を保存するための冷蔵庫がいくつかあり、 備蓄もあった。コンビニも無く、スーパーにも常に同じものが並ばないネパー ルでは、必要なものを必要な時に調達するようでは、生活がままならないため、 備蓄をすることが普通である。一人で暮らす私自身も、普段から飲用水のボト ル(20ℓ)2本∼3本を家においていたし、保存の効く乾燥した豆や乾麺、大 豆ミート、ドライフルーツ、ビスケットの類は、日本の業務用スーパーで見る ような単位で余分に購入する習慣があった。水道水は衛生基準を満たしておら ず飲めないため、料理をする際にもボトルの飲用水を使用する。また、発電機 (ジェネレーターやインバーター)が自宅に設置されていることもカトマンドゥ の中間層以上の世帯では一般的だった。ネパールでは、電力不足に伴う計画停 電が行われているが、9割以上が水力発電のため、雨季(6~ 9月頃)の停電 時間は短めだが、乾季の終わりころ(2~ 5月頃)には極端に長くなる。震災 直前の2015年3月17日に発表された計画停電の時間は、週67時間で、1日9. 5 時間以上は停電で電気がない状態だった。しかし、私が経験した中で最も長 かった停電時間は2012年2月頃で1日12時間もあったため、活動時間にほとん ど電気がなかった。出かける時に電気が来ると、予定をキャンセルして急いで 携帯の充電をしたり、家電を使ったりする人も多くいたため、それに比べれば 少しは改善されているような印象だった。友人の家の冷蔵庫は、その時はまだ 稼働しており、wifi ルーターも動いていたが、ガソリンで動く発電機が燃料不 足になるのも時間の問題だった。 大使館に避難する観光客・不満の増幅 震災2日目、足が早そうな食品から調理して朝ごはんを食べ終わった頃、日 本大使館から友人の携帯に電話が入った。どうやら、大使館に避難して来た日 本人観光客のために食事を提供できないかという相談だった。その時点で、自
分の店の状況も確認できず、従業員全員とも連絡が取れていなかった友人だっ たが、迷ったあげく、無料提供ではなく販売として引き受けることを決めた。 昼と夜、自宅にあった備蓄を使っておにぎり一つ100ルピー14で提供した。そ のお手伝いのため行き来しながら、外の様子を観察すると、一時的に店を開け た商店には、少し人が集まってきており、新聞を数人で開いて読む人たち、乾 麺や菓子類、携帯のリチャージカードを購入したり、飲用水の注文を相談した りする人の姿があった。大使館のホールには、40人ほどの日本人観光客の姿が あり、集団になる者、群れから距離をとる者、大学生ぐらいの若者から中年の ヒッピーのような人まで、床にダンボールを敷いて座っていた。商店ではビー ルも手に入ったようで、避難して来た人の中には、ビールを大量購入して宴会 状態になっている人も少なくなかった。異様な空気だった。東日本大震災の時、 商店から真っ先に日用品や食料品が消えていったが、最後まで残ったのは酒類 だったのを思い出すと、状況が違った。日本大使館は耐震構造がしっかりなさ れてあり、お手洗いにはウォシュレット、洗面台からはお湯も出たため、言い 過ぎだが、天国のようだった。しかし、避難者の多くの不満は、日本大使館で は避難者が来た場合の毛布や食料などの用意がされていなかったことだった。 大使館では、職員の私物を持ち寄り、防寒用の毛布や2ℓのボトル水が提供さ れた。大使館に避難する人のほとんどは旅行者だったが、数名の在ネ邦人やネ パール人の姿もあった。その日の夜、おにぎりの提供を終えて帰ろうとすると、 大使館の入り口で何かいざこざが起きていた。どうやら、女性の配偶者はネ パール人で、結婚の届けを大使館に出していなかったため、夫だけ入館を拒否 されたようだった。実は他にも届けを出していない「夫婦」が既に中に避難し ていたが、入り口でその対応をしていたのは警備のネパール人で、女性の夫が ダリット(不浄ないし不可触として抑圧されてきた人々15)であることを理由 14 当時のレートで100円強 15 この定義は、「カーストに基づく不可触性により生じた差別によって、経済的、社会的、 教育的および政治的セクターで後進におかれてきた人びと」という地方開発省の下部組織ダ リット委員会の1997年の定義に基づく。また、2004年時点で、ダリットに指定されているの は17のカーストと1民族で、全人口比の12%にあたる。[南真木人(2008)「ネパールの社会 運動と留保制度の開始」『人権と部落問題』2(769)部落問題研究所 pp.30−38]
に入館が阻まれたと女性は抗議していた。余震への恐怖や疲れも重なり泣き喚 く女性を前に、ネパールや南アジアの国々で大きな社会的問題となっているダ リットへのまなざしを痛感せざるを得なかった。その日、女性と夫、そして同 じく国籍を理由に大使館への入館を断られた台湾人の男の子は、みんな友人の 家に避難した。その日から友人の家には、避難に困る人たちが入れ替わり立ち 代わり滞在するようになっていった。 震災3日目、避難所になっていた大使館ホールでは、少しずつ周辺の状況や、 国内の被害情報、他の各国大使館と日本大使館の対応の違いが明らかになるに つれ、避難者の不満が増幅する空気感があった。中国政府は、ネパールを訪れ ていた中国人観光客の帰国のために片道航空券を配布していた。アメリカ大使 館も国外退去のための準備に取り掛かったらしい。韓国大使館は、ひととおり の災害グッズを詰めた段ボールを配布していた。インド政府は、インド帰国の ための陸路便を用意し、空路についても負担しているらしい……16。そんな情 報が行き交うなか、日本大使館の不備、不親切さ、さらには職員の態度につい ても避難者が抗議するようになった。そのうちの一人は、在ネ日本大使館を批 判する内容を日本の雑誌に売るぞと言い出した。実際に、2015年5月8日発行 の『週刊ポスト』(5/22号)には、当時の大使をはじめ職員への痛烈な非難 が掲載されることになった。地震発生からこの日に至るまで、昼夜問わずさま ざまな対応に追われ家族を差し置いて大使館に寝泊まりしていた事を知ってい る私たちにとって、大使館員への無慈悲な批判は非常に心が痛かった。避難者 用の備蓄という点では改善の余地があるものの、在ネパール邦人からの批判が ほとんど上がらなかったのは、ネパールに住む4,000人を超える在ネ邦人を想 定した災害対策は行われたという証明でもあった。5月11日に窓口業務が再開 するまで、多くの避難者が滞在したが、彼らが退屈しないようにと、在ネ邦人 が協力して雑誌や本を持ち寄って避難所に置いていたが、回収時には、紛失が 多く苦い思いをした。日本に住んでいると雑誌や文庫本は消耗品のように消費 16 日本大使館には、帰国の航空券を手配するようにという要求が殺到していたという。もち ろん、在ネ国民に個別の対応をしなかった大使館・領事館は他にも多くあった。
される。しかし、ネパールに住む人にとっては、旅行者が置いていった本が図 書室に大切に保管されているように、それらは手に入りづらい書物であり、日 本に帰国できないあいだに大事に読む財産なのである。それもまた、避難者に は届かない声でもあった。3日目の夜、カトマンドゥに電気が戻った。 国際空港の機能停止・支援物資への課税と廃棄 震災前の2015年3月4日トルコ航空の大型旅客機が胴体着陸する事故を起こ し、空港が何週間も閉鎖された事件があった。ネパールの空の玄関口であるト リブヴァン国際空港には滑走路がひとつしかないことと、大型旅客機を移動で きる重機がネパールに存在しなかったことが主な理由で復旧対応が大幅に遅れ た。そして、今回の震災が起こってから一番問題になったのは、救援部隊が着 陸できない状態が続いたことだった。日本の緊急救援隊もネパールへの着陸が できず、燃料切れでインドに着陸し、その後、経由地のバンコクに戻ってから ネパールに入ることになったため、震災発生から3日目にようやく被害地域に 到着するという状態だった。次々と外国からの支援団が入国するようになり、 多くの支援物資が届けられるようになったはずが、1週間ほど経っても必要な 被災者に届いていないことが問題になった。ネパールは山国のため、限られた 交通道路で土砂崩れが発生していると、瓦礫撤去の作業に時間を要していた。 それだけでなく、トリブヴァン空港の税務局は律儀にも支援物資それぞれの内 容を確認し、課税していた。信じられないようだが、ネパールに住む人なら誰 しもが感覚的に分かる気がした。というのは、ネパールでは郵便物を自宅配送 するようなシステムは整っておらず、海外からの郵便物を受け取るには、直接、 郵便局を訪れて受け取らなければならないが、その際に、郵便局の関税担当者 と課税割合をめぐってバトルしなければならなかった。食料品などは割合低く、 衣料やコンタクトレンズなどの医療品等の値が張るものについては割合高く、 コネがあれば安くといった具合に担当者によって5∼25%という幅で恣意的に 課税されていた。そんな具合で、支援物資を品定めしていたため、物資が空港 内の倉庫に滞ってしまい、ネズミなどの害獣被害で物資の何割かが廃棄される
事態が起こっていた。2015年5月4日の現地の英字新聞リパブリカ紙には、ネ パール政府税務局からの通知が掲載され、今後、震災関係の支援物資・救助の ための物資について課税対象としないことがやっと明言された17。この状況に 怒りを通り越して呆れる人も多かった。一方で、ネパール国内のネパール人の 支援の手はとても早かった。震災の翌日には、家の使用人や店の従業員の出身 地が被害にあっていると聞きつけると、すぐに物資を携えてバイクで現地入り する姿があった。たくましく頼もしい光景だった。市内のビニール製品を扱う 店からは、厚手のビニールと敷物などに使われるスポンジ・シートがあっとい う間に消えていった。 空路が物理的に受け入れが難しい状況にあった期間、陸続きのインドと中国 からの支援の手は非常に早かった。そしてこの二国は、ネパール支援を巡って 張り合うように物資を送り、軍隊を送り、ネパール国民の評価を獲得していっ た。インドへの評価は、前年2014年にナレンドラ・モディ首相(2014年から現 職)がネパールを訪問して親ネ的スピーチをしたことが話題になってからは、 高評価が続いていたが、震災後の支援を巡っては、中国政府に対する評価の声 が多く聞かれた18。カトマンドゥで最も大きな避難キャンプのひとつトゥン ディケル広場には多くの避難テントが連立していたが、「中國」と大きく書か れたテントの数は他国のテントの比ではなく、視覚的にその影響力を示してい るようだった。他方、インドの評価が下がった原因の一つとして、インドでの 報道にネパールのメディアを非難するような内容が多くあがったこと、また、 ツイッターなどの SNS に震災を揶揄する内容のものが掲載された事が多くの ネパール人の怒りを買ったようだった。 17 同様の文書は、ネパール政府税務局のホームページ(www.customs.gov.np)上にも同時掲 載された。 18 また、日本の救助隊として現地に向かったニシジマ・タロウ氏によると、27日に日本が現 地入りした際、被災地ではネパール、中国、トルコの3カ国が救急救命業務に当たっていた と述べている[2015年5月28日カトマンドゥ・ポスト [Eg.]「災害マネジメントにおける日 本の重要な役割」(オリジナルは The Daily Yomiuri)]。
知らないところで紙面に載る 震災から3日目の28日、私は日本のある地方新聞の第一面を飾っていた。「県 人2人ネパールから連絡 大震災の様子語る」。その事実を知ったのは掲載さ れた後だったが、震災翌日の26日に筆者の Facebook に記者を名乗る男性から 「取材させてほしい、いま別件で取材中なので、日本時間16時頃に連絡が取れ ないか」というメッセージが一方的に送られてきていた。ネパールとの時差は マイナス3時間15分……私の携帯はそのとき既に電源が切れていたため確認し たのは、記事が発行された28日の夜になっていた。「こういう風になるとは思 わなくて……」母親からのメッセージは驚きにも似ていた。どうやらこういう ことのようだった。震災の翌日、筆者の実家に“小学時代の先輩”を名乗る女 性が訪問してきたという19。私の安否をひととおり伺った後、家族への取材を 申し入れたそうだった。母親はそれを断ったが、ネパールでの状況について聞 かれた際、私が26日の朝に投稿した Facebook の投稿を見せたのだそうだ。「生 きてます!無事です!みんなに伝えていただけますか。……」という内容で、「友 達」にのみ公開されたメッセージだった。すると、それを見せてもらったのを 取材の承諾と判断したその記者は、私の顔写真とアカウント名が分かる箇所を 撮影し、そのまま記事にした。納得がいかなかった私は、29日にメッセージ上 で抗議の内容を返信した。本人の許可なしに顔写真付きで掲載したこと、そし て現地の状況を確認せず取材時間を指定したことに対して、不快であると。す ると、以下のような返信が返ってきた。「……地元紙として県民の安否は何よ り重要な報道事項であり、当時は地震発生間もなくで日本人の安否そのものが ほとんど伝わっていなかった事情も加わり、独自に取材、確認できた内容とし て報道させていただきました。……写真使用は記事に対する読者の共感、関心 を高める目的があり、ご家族にお願いし、ご提供いただいたことから掲載させ ていただきました。」メッセージの最後には、わざわざ「〇〇小学校、さくら 19 筆者がネパールにいることについては、大学時代の後輩が新聞社とつながっていたことで、 地元新聞社へと情報が回ったそうだった。後輩は、情報提供したことについて謝罪してきた が、この後輩に非は無いと私は思っている。
さんの一級上」と書かれており、関係性が強要されているようでより不快感が 増した。読者にとって、県民がネパールにいた事実自体、知らなかった事実で あり、顔写真の掲載や私の所属・略歴の掲載は、こんな人があんな時にという 消費者を狙ったスキャンダルではないか。一度、紙媒体が出版されると、それ を引用して今度は他のメディアが取り上げるようになった。ある地元の報道番 組では、私の Facebook アカウントと投稿の内容が流れ、ネパール支援を行う 某会社の社長のインタビュー映像がそれに続いた。「被災者のみなさんは今で も野宿を強いられていて……」。これではまるで、私が野宿しているようでは ないか。事実の組み方によって、報道は、事実を歪曲することがあると痛感し た。先の新聞記事の掲載後の対応について、新聞社からの労いの言葉は一切な く、現在では、その記事を閲覧することはできなくなっている。消耗品のよう に消費された気分だった。新聞によって安堵したのは、私の友人の一部、近所 の親しい人たちだけだった。新聞に掲載されるだけで、よりセンシティブに彼 女たちの不安を煽ってしまったのは、不本意なことだった。 「なぜあなたは家にいなかった?」 震災から3日目、地震発生後はじめて自分の住むアパートを見に帰った。街 中には粉塵が舞っていて、行き交う人々は支援物資のナイロンのマスクを装着 していた20。アパートの1階部分にある飲食店スペースには、近所の人々が避 難して身を寄せており、タイルの床に直接、たくさんの布団が敷かれてあった。 避難している人たちの顔には、疲労と怒りにも似た混乱が見えた。普段からお 世話になっている近所のネワールのおじさんの顔にも深いクマが見え、疲労が 隠せない様子だった。すると「なぜ家にいなかった?どこにいた?」「なぜ、 私たちがいるのに他の場所にいる?」と私に言った。この言葉は、私の心を締 め付けた。急に距離を感じたのである。なぜ、私たちを頼らない?私たちが信 20 排気ガスによる空気汚染が悪化している首都カトマンドゥでは、マスクの装着が当たり前 に行われている。それまでは、マスクといえば布マスクが定番で、さまざまな模様の布生地 のマスクはファッションの一部でもあった。
じられないのか、という怒りに近い言葉は、相手にとっても自分にとっても、 そこに壁を生じさせた。東日本大震災のとき、被災者と非被災者、そして被災 者のなかにも、沿岸地域と内陸部という、語り合うことが憚られるような見え ない壁が生じたのを思い出した。内陸で被災した私たちは、沿岸地域の津波や 原発の被害状況を知るにつれ、「被災者」と言うことを口にしなくなり、震災 を語ることに申し訳なさを感じ始めた。もしかしたらそこに会話が必要だった かもしれない。きっとおじさんも同じように、私に距離を感じたかもしれない。 私はおじさんに日本人学校にいたことを弁解し、震災直後、互いにどのように 過ごしていたか、家族は大丈夫か、おうちのおばあさんは……話をしていると少 しずつ時間が共有できてきたように感じ、最初の違和感は少し解消された。 5日目の夜、友人が突然泣き出す出来事があった。在ネ邦人の中には、ネパー ルで長年ビジネスをして拠点を構えている人もいる。その中には、自分が雇っ ている従業員の安否のため現地を駆けずり回っている人もおり、そういう一人 が、自分が目にした各地の被害状況について話をしに来ていた時だった。突然 泣き出した友人は、その時は理由を教えてくれなかったが、後で、被災の様子 を堂々と語り、被害の重さや被災者をみて「かわいそう」と話す様子に嫌気が さしたのだと教えてくれた。同じ地震を経験していても被災地に駆けつける人、 被災地に行けない人、支援する人、しない人、できない人、このような違いの 間ににわかに壁ができているように感じられた。 写真1:倒壊した学校 (2015年4月30日筆者撮影) 写真2:近所の住居、この様子を絵画にする若者がいた(2015年5月7 日筆者撮影)
地震の原因、迷信、予言 地震の起こる原因について、神話的には、人の住む地球は創造神ヴィシュヌ 神の肩に乗っていて、神が右肩から左肩(あるいは逆)へと地球を移動させた 時に、地震が起こると説明される。一方で、カトマンドゥでは、災害や大きな 社会的変化が起きる前には、マチェンドラナート21の山車が倒れた、生き神ク マーリー女神の視線が揺らいだなどと語られ、今回よく耳にしたのは、ある寺 院のシヴァ神の神像から汗がたくさん吹き出ていた22という話だった。1934年 にビハール・ネパール地震を体験した被災者の一人は、地震が起こる前、神様 の像に目がいくと、その神様は顔をしかめていたと言い、家に帰って家族にそ れを話すと、次の日に震災が起きた23。地震の原因は、神様との関連で説明さ れることが多く、神託などの能力がある民間宗教者の中には、30分以上も後の 地震を予言する者も出てきて、混乱が起こった。顕著だったのは、ボウダナー トという地域に位置する国際的な高級ホテル、ハイアットリージェンシー・ネ 21 カトマンドゥで行われるセト・マチェンドラナート(白・観音)、ラリトプールのラト・ マチェンドラナート(赤・観音)の祭りでは、高さ20m にもなる山車を巡行するジャートラー が行われる。それが倒れると不吉なことがあると考えられており、2001年に王宮内で起きた 王族虐殺事件の前にも、この山車が倒れる事件が起きていたと人々は説明する。 22 結露していたという説明もできるかもしれないが、それを語る人々は、暑い・寒い・湿度 に対しての説明を用いず、「汗が(勝手に)吹き出していた」と語る。 23 モティクリシュナ・トゥラーダール(2012)「あの時神様の顔はしかめっ面(abalay dyaḥyā khwāḥ khiuñ)」Mānandhar, Sunita ed.『おじいさんおばあさんの昔の話(Ajā Ajiṅ
Kanātaḥgu Bākhaṅ)』D. Rising Sun Printers.
写真3:カトマンドゥ旧王宮広場の 一 画、 崩 れ た レ ン ガ は そ の ま ま だった(2015年5月17日筆者撮影) 写真4:カトマンドゥ旧王宮広場、 倒壊した寺院の基礎だけが残って いる(2015年6月14日筆者撮影)
パールに避難した人たちだった。○○時○分に地震が来ると予言されると、そ の数分前には、避難している多くのネパール人の多くが「早く逃げろ」と悲鳴 をあげながら外のテニスコートに走って逃げるのだと言う。1日に何度もそん なことがあり、それを目にした日本人の友人は驚いていた。日本人なら誰しも、 地震予測はいくら技術が進んでも3秒前が現在の最速だと言うことを知ってい る。当時、ハイアットリージェンシーには多くの欧米人、チベット人僧侶らも 避難していたが、予言を信じてあたふたするネパール人の姿は迷信に満ちてい ると語られたと言う。この出来事は、空き巣を狙った泥棒が、地震が来るとホ ラを吹いて回っていた事件が後に発生して逮捕者がでてからは聞かなくなった。 ネパールの人々は震災を神(prabhu, nāth [Np.])との関係で理解し、その神 は破壊をつかさどるシヴァ神やヴィシュヌ神との関連で語られることも多いよ うである。ネワール語放送局の「ネパール・マンダル」では、地震後から1ヶ 月ほどあたりまで、通常のテレビ番組の代わりに印象的なコマーシャルをたび たび流していた。震災に関わる歌が使用されており、歌手名は分からなかった が、今回の震災に関わる瓦礫撤去や避難所の様子、逃げる人々、火葬場が足り ずに野焼きされるたくさんの遺体といった映像を背景に、30秒ほどの映像には 以下のようなネワール語の歌詞が流れていた。 われわれを守りたまえ われわれを守りたまえ おお、神様 主人よ 同じように われわれを守りたまえ われわれを守りたまえ おお、神様 主人よ 同じように 地震が怖れを与えぬよう 主人よ われわれを嘆き悲しませるには 十分だ 先輩からのメール 地震から6日目、日本に住む研究関係の先輩からメールが届いた。メールの 内容は、ネパールで支援活動に奮闘するチベット僧侶や、日本での募金の様子、
援助ネットワークの形成など精力的に活動する人たちの状況を説明するもの だった。ネパール国内にいても知らないような国内の動きが説明されていた。 メールをくれた先輩は、なんとなしに東日本大震災とネパール大震災で生き 残ったのはなにか徳が備わっているんだねと話しながら「……今後、現場での 様子を日本人に伝えられる仕事をされると良いと思います。ただ、本当に無理 のないように。」とつづっていた。このメールから自分は、その役目を負う立 場にあることに気づかされ現実に戻った。そののち一時帰国をすると「いずれ はあなたが震災についてなにかできるように」と言われることも少なくなかっ た。それは、一被災者として何かできることを期待されているのではないこと は明らかだった。「研究者」として震災を対象とし、それを解釈し、人に伝え る役目を自ら負わなければいけないと受け取り、正直、辛くなってしまった。 2.地震その後 地震から一週間:街の変化 地震から1週間、引っ越しのため物件を見て回り始めた頃、カトマンドゥの 上空には、日本の辺野古基地からオスプレイ3機が到着して支援活動が行われ ていた。が、ものすごい騒音に驚いたのを覚えている。バチバチと引き千切ら れそうな音で建物が割れてしまうのではないかと思ったほどだった24。地上で は、震災により郊外の賃貸物件を求める人が増え、家賃が数倍に跳ね上がって いた。カトマンドゥでは、ネパール人に対しひと部屋(キッチン無)が3千∼ 5千ルピー程で貸されていたものが、3万ほどになるケースもあった。外国人 に至っては、もともと平均的に1.5万∼3万の家賃だったものが普通に借りる と数倍にも跳ね上がることになった。一方、ホテル住まいの観光客も不便を強 いられていたようだった。余震が起こるとホテルの管理をしている従業員が逃 24 2015年5月11日の時事ドットコム(電子版)には、現地時間10日、英空軍のヘリコプター 「チヌーク」3機についてネパール政府は入国を断ったと報告されている。ヘリが大きすぎ、 着陸の際に下降気流で建物に損傷を与える可能性があったためだという。また、被災地への 救援物資輸送をめぐり、米軍の垂直離着陸輸送機オスプレイも建物の屋根を吹き飛ばしたと いう被害が出ていると地元メディアは報じており、当時、状況の調査中にあった。
げてしまい、その際に焦って外から施錠して、中の人が出られなくしてしまっ たり、滞在先のホテルに到着すると鍵がかかっていて誰もいなかったりと、諍 いも絶えなかったようである。震災から1週間は、友人宅から自分のアパート に通う生活が続いたが、夕方16:00にもなると、旧市街地の商店は、いつもよ りもずっと早くシャッターを閉めて店じまいをするようになった。旧市街地の 住民は、すこし郊外の親戚の住居に身を寄せる人も少なくなく、旧市街にある お店や自宅の様子を見るために通う生活をする人も多かった。私のアパートの ある地域は、市場が近く、朝夕には野菜などを路上で売る人々が集まり買い物 客で賑わう懐かしい光景が広がる場所だったが、人が密集することや周囲の建 造物の古さもあって、災害危険区域に指定されていた。しかし、被害は予想さ れたほど大きくなかった。それでも震災後の旧市街は、夕方になると人の声も 聞こえなくなり、生気の抜けた廃墟のような雰囲気になった。立ち話や用事を 終えた人々は、「また明日」と背中を向けて郊外へ去っていく。あのネワール のおじさんもそうである。この街はどうなってしまうのだろうと不安になった。 日中、瓦礫撤去や家の掃除のために通う人びとは、マスクを着けて粉塵を吸 わないように心がけていたが、実はこんな理由からだった。「粉塵を吸うと病 気になる。人が死んだから。」人を病気にするのは粉塵自体ではなく、粉塵に 紛れ込んでいる死者の慰撫されない魂であり、それを吸い込むことに警戒して いた。これは1年後のことだが、2016年4月26日の現地の新聞の記事には、レ ンガにろうそくを灯す写真が掲載されていた。ダラハラや一般の家屋はレンガ 積みの建物が多かったため、トゥンディケルをはじめとする大きな広場には撤 去された瓦礫のレンガが山積みにされていた。そこに、震災による死傷者を悼 むためろうそくが灯された。死者の満たされぬ思いや魂がモノに宿るという観 念があるようだった。 震災直後、こんな印象的な出来事もあった。地震翌日の新聞には、地震の記 事の他に結婚式を挙げた夫婦の写真が大きく掲載されていた。震災のあたりは、 国の公式の暦のビクラム暦で1月に当たるバイサーク月という季節で、結婚に 適した吉祥な日が多くあった。実際に、私も震災3日前に友人の結婚式に参加
したばかりだった。「次いつ結婚できるか分からなかったので、急いでやりま した」という内容の記事は、カトマンドゥ市内のニュースではなかったが、非 常に驚いたのを覚えている。 復興のシンボル、2度目の大きな余震 街を象徴するタワー、ダラハラの崩壊はその建築物の脆弱性への注目以上に、 ネパールの人々の復興へのシンボルとして徐々に強調されるようになった。街 を歩く人の中には、“WE RISE AGAIN という英字の横に再生したダラハラが 描かれた T シャツを着ているのを多く見るようになり、のちに、街の T シャ ツ屋にも、様々なデザインの“WE RISE AGAIN の商品が並ぶようになった。 2015年5月8日のカトマンドゥ・ポスト紙[Eg.]には、ダラハラの再生を願 う人々によってダラハラを模したモニュメントが作られ、式典が行われた様子 が伝えられていた25。その後、誰が作ったかは定かではないが、ダラハラがも ともとあったスンダラ地域の交差点にも、同じようなモニュメントが作られて いた。新聞と同じ日、政府議会では復興再建に関わる事前集会が行われたが、 住宅再建についての支援額について、主要3党のマオイスト政党の共産党毛沢 東主義(UCPN)、ネパール会議派、ネパール共産党マルクス・レーニン主義(CPN UML)の意見が分かれ、復興への長い道のりを予感させた。この時点(5月 8日)で、20万552戸の家屋が全壊、18万6,285戸が半壊および欠損という状況 だった26。その後の議会で、一家屋30万ルピーの再建費用が政府から補助され ることに決まったはずだったが、建てた後の支給という条件付きだったため、 再建できない世帯も多くあったと聞いている。 地震発生から少し落ち着いてきた市内では、少しずつ夜を外で明かす人も少 なくなり、揺れが起こるたびに聞こえる逃げる人々の声も聞かれなくなってい 25 2015年5月8日(金) カトマンドゥ・ポスト紙 [Eg.] の「被災者を思うこと」という記事 では、ラリトプール市のサネパという地域で行われた、ダラハラのモニュメントの式典の様 子が報告されている。 26 2018年5月8日(金) カトマンドゥ・ポスト紙 [Eg.]「3政党が詳細で分かれる:今日の 議会会議の前に期待される『再建計画』の方法を巡って」
た。その矢先の2015年5月12日、ネパール中部ドラカを震源とする、本震に次 ぐ大きさのマグニチュード7. 3の余震が発生し、再建や復興に活気づく雰囲 気は一転した。2度目の余震は、人びとの間に恐怖や不安を明確に芽生えさせ た。この時、私は、外にいたが、外を歩く人々は地面に倒れ込み、ある近所の 大使館の大きな樹木が驚くほどしなりながら揺れていたのを覚えている。近所 の女性たちは、「また外で寝なきゃいけない」と肩を落として外に座り続けて いた。この余震で、本震で被害の大きかったネパール中部のシンドゥーパル チョークという場所では被害が拡大した。 心霊談 私の住んでいた旧市街地が比較的、被害が小さかったのに対し、1990年代に 建築ラッシュが起こったゴンガブという新興住宅地では、建築バブルに伴う欠 陥工事が原因で多くの家屋やビルが崩壊していた。サンドイッチ・クラッシュ と呼ぶ人もいるようだが、1階部分に上階が潰れ込んだり、ちょうどドミノを 倒したように、そのまま横倒しになりサンドイッチ状に建物が崩壊する家屋が 多くあった。ある人の話では、学校で地震が来たら机の下に潜るように言われ ていた子供達が、避難していた外から家の中に戻ってしまい被害にあってし まったという。その頃から、心霊談もよく聞かれるようになり、タクシーの運 転手が搭乗した客に行き先を聞くと、被害の大きかった建物を指定し、運転手 が恐る恐る目的地まで到着すると、後ろには誰も座っていなかったという話が 広まった。人々はそのようにして、夕方以降そこに近付かないようにしていた。 復興インフラ、雨季までの支援 2015年5月17日のカトマンドゥ・ポスト紙[Eg.]に「レンガ・ビジネス最 盛期」という記事が上がった。同時に掲載された写真には、素焼きレンガを焼 く窯の周りで忙しそうに仕事をする多くのインド人・ネパール人労働者の姿が 写っていた。このとき、カトマンドゥ旧市街は、あちこちで家を一時的に支え るための木の棒がついたてのように置かれていた。その棒のおかげで道幅が狭
くなり、自転車すら通れない道もあった。一つ崩れたら全部が倒壊と言わんば かりに、家々が均衝を保っていた。そのあたりから、ネパール政府との共同チー ムで、大学等の建築科の学生たちが家々を回り、家屋の被害状況、耐震状況に ついて記録し、解体の必要がある家々には、赤い貼紙27やチョークで「×」を つけていく作業が始まった。旧市街地中心部はほとんどがそんな具合に「赤紙」 や「×」だらけになってしまったが、その頃、解体業者不足が深刻な問題になっ ていたため動き出す人もいなかった。ネパール人の間では建築・土木業につい て良いイメージを持たない人も多い。カトマンドゥでは、建築や解体を行う日 雇い労働者の多くはインド国境地域の人々に担われていた。地震発生後の4日 後あたりから、首都圏に出稼ぎに出てきているネパール人の多くが出身地の 村々に戻っていく動きがあり28、そのためか、交通渋滞が急激に減少し、街は より静けさを増したばかりでなく、停電時間がほとんどなくなった。解体を行 う労働者の多くも村に戻ってしまい29、解体作業に要する費用も、以前は500ル ピーだったものが、震災後には一人当たり日給700∼1,000ルピーにもなり、仲 介業者に対しても手数料を支払わなければいけなくなった30。そのため、数名 雇っただけで1万ルピー近く支出しなければならなくなり「できない」という 声も多く聞いた。 二次災害を防ぐための解体工事と住宅再建のための政府の取り決めが進むな か、雨季を前にした早急な復興対策が急がれていたが、ネパール政府は短期的 支援を開始した。2015年5月17日のカトマンドゥ・ポスト紙には、仮設住居(テ ンポラリー・ハウス)を作る資金として被災者に1.5万ルピーが支給されること、 ローカル・マーケットにトタン板を供給すること、食料の3ヶ月分の備蓄と必 27 政府の都市開発・建築部門では、損壊状態に応じて3つの紙が貼られており、著しい損壊 には赤、修復後に再判定の必要があるものには黄色、安全な家屋には緑が貼付された。しか し、筆者はカトマンドゥ旧市街で緑の貼紙を見たことがない。 28 4月29日には、地方行きバスに乗れなかった人びとが暴徒化し騒ぎになる事件が起こって いた。 29 あるデータでは、最大で30万人近くの労働者がカトマンドゥを離れたとされている[2015 年5月28日カトマンドゥ・ポスト紙 [Eg.]「急騰する費用と格闘する首都」]。 30 前掲
要な薬を備えること、ヘルス・ポスト31の再開、各省庁の被災地訪問、議員は 自分の選挙区に戻ること、土壌の脆弱な村に住む人々は、共有シェルターに移 動することが提言・指導された32。しかし一方で、仮に家族5人の住むトイレ・ 水場付きの仮設住宅を作るためには少なくとも5万ルピーは必要であるという 意見もあり、決して十分な額とは言えなかったようである33。また、5月3日 頃には、海外からの個人及び団体からの物資支援が差し止められたため、政府 の対応を煽るように国内の人々が、刻一刻と変わる必要物資を把握し、被災地 に送り届ける作業が行われていた34。 31 メディカル・ケアを行う地方の医療クリニックのこと。 32 2015年5月17日(日)カトマンドゥ・ポスト紙 [Eg.]「閣僚、震災被災者のための短期的 支援にサイン」 33 2015年5月17日(日)カトマンドゥ・ポスト紙 [Eg.]「チュリ・ガウンの金属製の家々」 34 カトマンズ補習授業校を中心としたグループでは、初期には、衣料品、医薬品、衛生品、 食料品、毛布、リネン類、ろうそくや軍手という物資の提供を呼びかけ、次に「家に代わる 物資」となるテントやそれに準ずる材料が必要になった。そののち、5月8日頃には、教育 ツール(筆記用具やおもちゃ類)、農具・工具(スコップ、鋤、鍬、バケツ、ペンチ、ドラ イバーなど)の支援を呼びかけている。 写真5:ダラハラのモニュメント、 ろうそくで WewithNPL(Nepal) と書かれている(2015年5月8日 カトマンドゥ・ポスト紙) 写真6:「充実する支援、支援以上 に!」ダラハラの特集号を紹介 する新聞の広告(2015年5月28 日カトマンドゥ・ポスト紙)
地震発生から1ヶ月後:出稼ぎ、レイプ被害 震災発生後1ヶ月が経つと、復興のためのさまざまな国内ファンドが立ち上 がり、新聞にも大きく取り上げられるようになった。しかし、海外の団体から の送金には高額の手数料が発生する状態だった。また、新聞記事の中で私の目 をひいたのは、ひときわ紙面を埋めていた失くし物の知らせだった。紛失時期、 紛失者の氏名、電話番号、住所など個人情報がネパール語やアルファベットで 記載され、それぞれ「パスポート紛失」という表題がついている。このように パスポートの要求度が高かったのは、再発行に手間と時間がかかるという理由 写真9:火葬場の近くに設置された 仮設テント(カトマンドゥ、2015 年7月24日筆者撮影) 写真7:2度目の余震、救助 された女性(2015年5月12 日カトマンドゥ・ポスト紙) 写真8:家屋を支えるついたて、 交通の大きな障害だった(2015 年7月18日筆者撮影)
だけでなかった。ネパールは出稼ぎ労働者を多く輩出する国である。記録開始 の2008/ 9年には20万人だった出稼ぎ労働者は、2015年上半期には、年間50万 人となり年々増加傾向にある35。また、報告によると国内総生産(GDP)のう ち出稼ぎによる送金が占める割合は、2003/ 4年で10.9%、2014/15年では 27.7%にも上っており、ネパールの国家経営において重要な資金源の一つに なっている。在ネパール日本大使館の前には、留学・就労の面接を希望する人 びとが早朝から長蛇の列を作っていた。震災のすぐ後、ネパール政府は国内の 労働力不足を懸念して出稼ぎ労働者の出国を一時的に禁止していた。前掲の報 告書には、2013/14年に15%以上が出稼ぎ労働のための許可を得ているのに対 して、2014/15年では、マイナス3.8%(うち男性マイナス2.51%、女性マイナ ス26.44%)に下がっている。出国者数が増えていることを考えると、それ以 上に希望者が多かった状況が考えられる。このように、震災で国内での経済活 動に希望が見出せず、国外への出稼ぎを考えているという人も少なくなかった。 さらに、生活の困窮につけ込んだ人身売買も横行した。ネパール人女性の中に は悪質なブローカーによって国境管理の緩いインドを経由して中東に家政婦と して送られ、性被害を受けるケースもあった36。また、首都カトマンドゥの野 営の避難キャンプでも、女性や子供に対するレイプや暴力が問題になりはじめ、 5歳∼9歳の少女に被害が多かったと言われている37。専門家によると、野営 キャンプにおいて最も問題なのは、酒で酩酊した男性が深夜に騒ぎ、暴力を振 35 国連労働機関(ILO)の報告によると、この数には、オープン・ボーダーの協定を結ぶイ ンドへの労働者と、韓国への国家間労働者許可者の数は含まれていない[ILO, 2016, Labour
Migration for Employment: A Status Report for Nepal 2014/15, Ministry of Labour and Employment]。また、留学などによる渡航者は含まれていない。2014/15のデータでは、男 性が約47万人、女性が約2万人と報告されている。男性の渡航先で最も多いのがマレーシア [33%]、次いでカタール[19%]、サウジアラビア[18%]、女性では、アラブ首長国連邦 (UAE)[19%]に次いでマレーシア[17%]、クェート[13%]の順だった。 36 ネパールの NGO シャクティ・サムハは19人の女性を助け出したと報告している。[2017 年4月24日河北新報「山岳地帯届かぬ支援 生活が困窮 人身売買も」]シャクティ・サムハに ついて詳しくは、田中雅子(2017)「テーマ・コミニュティにおける「排除」の経験と「包摂」 への取り組み:人身売買サバイバーの当事者団体を事例に」名和克郎編著『体制変換期ネパー ルにおける「包摂」の諸相』三元社 pp.297-333 37 また、このとき20代∼40代のネパール人がレイプ容疑で逮捕されている。[2015年5月8 日カトマンドゥ・ポスト紙 [Eg.]「野営におけるレイプ、暴力の報告」]
るうことだったという。トゥンディケル広場の野営避難キャンプに避難してい た、あるネパール人の友人は「アプシー」がそういうことをする、だから怖い と言う。ネパール語で「アプシー」とはアフリカ系黒人を意味する蔑称である。 彼女によると、ネパールのサッカーのナショナル・チームの強化練習のため、 ガーナから選手たちが招かれており、彼女と同じ野営の避難所に滞在していた。 ねずみ色のテントが連立するキャンプ地では、誰が出入りしているか確認しづ らく、日中でもテントの中は薄暗い。また、悲鳴のような声が聞こえても巻き 込まれるのを恐れて、確認には行かないのだという。友人のテントの中を覗か せてもらうと、女性たち数名が地面むき出しになったところに敷物一つを敷い た状態で身を寄せていた。寝るための毛布以外、中には他に何もない。食事は、 自宅の台所に戻って摂り、夜になったらキャンプに戻ってくる生活だった。夜 も遅くなるし38、余震もあるから家にむやみに行かない方がいい、と私が言っ ても「調理できないしどうするの」という。キャンプ地では炊き出しなどは全 く行われていなかった。カーストや浄不浄という観念の問題もあり、とくに朝 夕の食事(米飯)を自宅ではない場所で済ませることに抵抗感があったようだっ た。この地でその観念を傷つけぬよう食事を提供できないか、外国人としてで きることはないか悩んだ39。一方、2015年6月16日のヒマラヤン・タイムズ紙 には、警察による女性と子供のための自己防衛スキルを教える様子が伝えられ ていた40。慣習的に家の中にいることが多い女性は、避難場所のキャンプ地で もテントの中で過ごすことが多いが、このようなプログラムが行われることは、 地域の防衛意識を高めるだけでなく、外との結びつきという点で期待ができた。 38 一般的なネパールの家庭の夕飯時間は20:00頃だが、祝い事の外出でない限り、家事をする 女性が19:00以降ひとりで外に出歩くようなことはあまりない。通常は、友人や家族と連れ 添って行動するが、ひとりで夜遅くに歩くという行為は被害を受けてしまう危険性をはらむ。 39 2015年9月23日のカンティプール紙[Np.]には、死傷者を多く出したゴンガブ地域で、 韓国人の詩人(Hyanghyo[ママ])によって「ブクンパ・カフェ(地震カフェ)」が開かれ、 被災者に対してパンの支援が行われたことが報道されている。浄不浄観念を考えた時、それ を打破する最適の食品ではないかと期待した。 40 2015年6月16日ヒマラヤン・タイムズ紙[Eg.]「被災者に自己防衛スキルを教える警察(女 性)」
震災から2ヶ月:行き届かない物資、支援物資の転売 震災から2ヶ月目、高騰しつつあるガソリンをなんとか手に入れてもらい、 今回の震災で最も大きな被害を受けたと言われるシンドゥパルチョークへ向 かった。その途中に、プリティヴィ・ハイウェイという幹線道路があるが、カ トマンドゥからバクタプールという古都を結ぶ区間は、日本政府の ODA で作 られており、他の道路に比べて舗装の質が高く、部分的に信号が使用されるほ ど管理されていた。しかし、今回の震災で、その一部の道路が大きな地割れを 起こし、1m ちかくの段差が出来てしまった。私が見た2ヶ月後にはすでに、 割れた部分を埋める工事は終わっていたが、明らかにぐにゃりと歪んだ道路を 見て、改めてその威力を感じざるを得なかった。5月5日時点、政府は、被害 の大きかった地域に対し、食料と救命器具購入のため1兆8千億ルピーを支給 することを決め、各郡(村落開発委員会[VDC])に対し90万ルピーの義援金、 死者の出た各世帯に14万ルピーの支給をはじめた。震災から2ヶ月のこの時、 山中にある村には物資が届いていないと話されていたが、山の方に向かうと、 主要な道路沿いのバザール(市場)には、物が届いているようで人が多く集まっ ていた。しかし、後で友人に聞いたのは、バザールで販売されているものの一 部は、支援物資としてその村に届いたものだった。個人的に支援物資を届けよ うとした場合、それまでは、村の有力者がまとめて物資を引き受けていたが、 写真10:野営避難キャンプの様子 (バクタプール、2015年5月17 日カトマンドゥ・ポスト紙) 写真11:子供達に護衛術を教える女性 警 官(2015年 6 月16日 ヒ マ ラ ヤ ン・ タイムズ紙)