東洋経済史学会編『中国の歴史と経済』(中国書店、2000年3月)書評
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(2) の透明度が高まった。またぐ予選により在式の候補者を選んだ。村長候補者は演壇に上が り施政方針を報告し、質簡を受けて回答する。』投票所に隔離された投票室が設けられた。 さらに外出中の有権者に投票させる「書翰投票」を行うという変化が見られ、 「農村幹部. の選出過程に民主化の潮流の洗礼を受け、農村基層も民主的管理の試練を受けている6そ れによって、中国の民主化の発展に重要な意義を持ち始めている」と言われる。 以上の論点は首肯できるものであるが、ただ、紙数の関係もあったであろうが、台湾の 選挙と中国の選挙の明確な相違点及び中国の遅れている状況を具体的に述べて戴きたかっ たという印象をもつ。 (以上、三元論文の評者、松田吉郎). 「青島経済の現状と課題」 海 沢洲 海氏は元々は出代の市舶司研究を行われていたが、最近は現代中国、特に青島経済につ いて精力的に分析されており(本論の註及び本書『中国の歴史と経済』所収「東洋経済史 学会開催記録/発表論題」による)1 A本論はこの一連の研究上にある。中国北方の代表的 都市のひとつである青島市は、上海や南方諸都市に比較すると、まだ海外直接投資による 経済発展の恩恵は多いとは言えないが、近年はかなり整ったインフラ施設や立地条件のよ さに加えて労働力の豊富さやその価格の低さ等が見直され、韓臥香港、マカオ、台湾、 日本等の資本を大きく受け入れることにより着実に発展を遂げつつある。. 青島市はその地理的環境により、海外との接触の磁北が長い。例えば、北宋の涌出3年 く1088)には北方唯一の市舶司がこの地に置かれ、元・明・清時代も北方唯一の対外貿易 港であった。近代になるとド.イツ、日本の租借地となるなどがその実例であった。. 新中国になり第一次五力年計画(1949∼57)で経済発展したが、1958年からは青島市は 海防前線都市として位置づけられたために1978年の改革・開放政策の実施に至るまでの20 年忌は経済の停滞期であった。しかし、改革・開放政策実施率、1986年に青島市が計薗単 動都市に指定されく89年に山東省全域が開放区に指定され、90年置省都済南も蘭放地区と なり、92年の螂小平の「南面講話」で改:革・開放政策が完全に確認され、山東省は青島市. を中心に本格的に山東省経済発展計画が実施されることになった6さらに、中韓国交樹立、 黄河流域経済圏、環黄海経済圏政策が青島の経済機能を上昇させた。こめ潮流にのって青 島は同港の港湾環境を生かしっっ、 「一心.三区三線」、即ち青島東部の暑山区にハイチク 工業園、・黄島経済誌、・青島保税区、r青島国家観光休暇区、青島から済南、青島から煙台ま. での国道及び青島から環膠州湾都市高速道路のインフラ整備による山東経済の総合的発展 が目指されて湿る。. 山東省の経済発展のパターンは広東、福建という典型的な華僑・華入指導型、依存型と は異なり、韓国との密接な繋がり、台湾出身者の里帰り、日本と至近距離1こあるという特 有の色彩をもっており、今後ますます対外経済交流が盛んになるであろ’う。. 青島への海外直接投資の現状は韓国、香港、マカオく日本、台湾、シ「ンガポニルとの関. 係が深く、その投資内容は合弁企業方式が減少し、独資方式が逓増しており、海外企業と. 一71一.
(3) 青島企業の技術交流・技術移入等の四球現象へ繋がる却それもある。 従って、今後は青島の三三企業の発展を考え・海外の中小企業.による小型投資を多く受 1呼入れ、両者を積極的に結び付ける。即ち、合弁により日本、ア7アニーズの中小企業か ら郷鎮企業への経営ノウハウや技術移転が行われば、経営水準を高め、国有企業のリス.ト ラ人員の受llllにもなると結論づけられている。.. 青鳥の歴史と現代経済分析と今後の課題を述べられた論文である。 「撫墾署・辮務署時代の原住民教育.; . 松田吉郎. 松田氏はここ数年、日本統治時代台湾の原住民教育史に関する論文を発表され、本論も その一環の研究である。. rl本の台湾統治は明治28年(1895)に開始するが、ド関条約で李三章が伊藤博文に台湾 難治の所以の…っに1化外の生蕃.…をあげていたが、総督府も原住民対策をすぐさま実施 した。即ち、翌29年(1896)・から山地の原住母統治機関として撫三三が設置され、131年 (1898)6月まで続き、その後は辮務署に継続されて34年(19⑪1)11月まで存続し、やが て警察本署「蕃務課」に受け継がれた。. 撫二二は清朝時代に台湾山地に置かれた撫墾局に範をとり、全島に12カ所二三され、原 住民撫育と調査、樟脳製造を管轄するもので、その…環として原住民子弟教育も行われた。. 同教育については知育よりも徳育重視、抽象的な倫理教育は無二であり、幻灯等の実物教 育が行われた,,さらに宗教的な教化の必要性も感じられていた。この教育は一部では撫墾. 署に親近感を持たせる段階にまですすんだ所もあったが、酒食の饗応に終始したりした所 もあり、また「蕃語1通訳が育たず、原住民教育も八、九割は行われず、三期の目的は達 成されなかった,,. 辮務署は同署に第三課をおき、撫三二から原住民統治事業を引き継いだ。下肥署は全島 に19カ所設置され、また支署、出張所等も設置されていた。辮務署の原住民統治事業は撫 墾署とほぼ同じ内容で撫育、授産、取締、調査、教育であっ牟。. 教育面で見るべき成果をあげ搾のは嘉義辮務署であり、同署は阿三山原住民子弟のアパ リ、ウオングなどを教育し、アパリには内地観光、台湾観光を行っ#。・これらの教育によ. って日本への反抗の不可能性を知らしめるとともに、臼本への憧れを抱かせ、部落原住民. へ日本事惰を宣伝させ、原住民統治の円滑化が行われた。総督府が意図した原住民の意識 改革という所期の目的は達成された。. 以上の撫墾署・辮務署時代の原住民教育は「テスト」形式ではあるが、後の原住民教育 の原型を作ったこと、.清朝時代の「二化i政策とは異なる[近代的i日本教育であり、原 住民を漢族と分離する教育であったと言われている。. 史料的制約もあるであろうが、撫墾署・辮務署の教育と清朝時代撫三局の教育内容の具 体的な比較分析が欲しかったと望まれる。 (以一ヒ、海、松田三論文の評者、松本哲也). 一72一.
(4) 堤和幸 「光緒新政下に’おける潮汕鉄道の建設とその意義」 堤氏はこの論文の中で、清末という政治状況の中で潮油鉄道(広東省潮州∼汕頭問の約4. 0Rmの短距離鉄道)を敷設する必要性と意義がどこにあったのかを端的に主張されてい る。また、潮汕鉄道起二r二までの経緯も細かく調査され、年代を追ってまとめられた功績には 頭の下がる思いである.その主張は次の通りである。. 19世紀末から20世紀にかけての鉄道行政を牛耳っていたのが、1896年12月、1= 海に設立された「鉄路総公司」である。この総公司で権力を握っていたのが、鉄路督辮大臣 に就任した盛宣懐である。盛宣懐は当初、掴力増強のため、各国からの借り入れによる資金 を調達し、幹線の建設にあたるという「借款官辮」をもくろんでいたという。. しかし、1903卑9月過民族資本による産業育成と民間資木を重んじた中央官庁「商 務部」が設立される。盛宣懐も1902年からの通商条約改訂の中国代表として交渉する にあたって、列強(さしあたって英国)の強力な外圧を感じることとなり、支線建設にお ける自主化支持の姿勢を明確にするようになったと指摘される。したがって、事実鉄道は 列強の鉄道事業への進出に歯止めをかける役割と、商務部の基本方針である「華人資本に よる民営鉄道建設を奨励jし、「外国からの借款を拒絶する」という役割も担った鉄道敷設 計画であったことを明らかにされている。 さらに、資金調達は同郷ネットワークを通じての華僑資本が支えていることから、獺郷鉄. 道は商務部による本格的華僑資本導入のモデルとしての意義が高いことを指摘された興味 深い内容となっている。. しかしながら実際の所、資金の調達において華僑’(張灘南ら)が半分、台湾総督府が半分 工面しているようである。ま.た、鉄道開通後数年は日本人の手によって運営されたようであ. る。マッケイ条約などでイギリスの要求を退け、列強を拒絶するはずの商務部が、なぜ日本 の介入を拒めなかったのか、また、華人資本による自力建設を目指す商務部とは相反する借. 款官辮を考えていた総公司が、なぜ1907年まで延命できたのか一・言述べていただきた い部分であ’る.. しかしながら懸垂の論は、従来十分考察されてこなかった華僑資本による中国最初の民 営鉄道の詳細と実態を明ら’かにされた。今後の活躍を期待したい。. 一73一.
(5) 中山義弘 〔橘撲の中国認識と孫文理解」 ∼道教研究から孫文思想研究∼ 橘撲は1881年10月14同、大分県北海部郡臼杵町に生まれ、..1914年より道教研究を始 める。1917年には一r支刃K研究資料』を発刊し、1924年にはr月刊支那研究』を創刊し、 中国社会の学術的究明とともに目本人に中国常識を普及するのに貢献した人物である。. 中山氏によると、橘模は中国の民衆や社会を把握するために道教に焦点を当てる。道教 は儒教と並び、中国の思想上二大潮流の一つであり、被治者の思想及び感情を代表するも のであるとして研究に取り組んだ。この被治者(民衆)の立場に立って主張していく姿勢は、. これ以後の二二に一貫されるものであった。. 通俗的道教による中国理解をする橘町が、孫文思想による中国理解へと発展していった 契機が間もなく訪れることとなる。1924年、中国国民党第1回全国代表大会が中周国民党 孫文総理の下、スタートしたことである。これは橘模にとって、現実の中国を理解認識す る上で、武器となった。この後、『月刊支那研究』を創刊し、本格的な孫文思想研究に取り 組むこととなる。. 三民主義において、民族主義については、漢民族の国家を建設するというものだけでな く、列強の諸権利を奪還することによる民族の独立を指すと熊張する。しかし、対内的に は回教族、西蔵族、蒙古族にも言及し、彼らの民族的及び宗教的満足を与えるような政策 が考慮されていないと批判する。民権主義については、県自治の実施には賛成であるが、自. 治行政の最下限を県にとどめ、村落は大家族制による自治を行わせることが適当といって いることから、官僚階級の打倒を言うが、家族主義との衝突は避けてようとしている姿勢が うかがえる。さらに、民生主義においては、完成を願うならば、孫文自ら民衆の一員として. 立ち、民衆の信頼を背景として軍閥を打倒しなくては駄目であると批判している。この民衆 の立場に立って主.干するというのが、かって道教研究.をしたという経歴の橘檬らしい部分 である。. さらに質撲は大アジア主義論を根拠にして、日本は西洋諸国家の独断と偏見とを緩和す る機会を捉えるに敏捷でなくてはならないとして、臼本を中心とした東洋的共同社会を構 想する。いわば∫大東亜共栄圏」である。したがって丁丁は、孫文思想による中国理解はで きても、臼本的立場(帝国主義R本の中国に対する姿勢)からは脱却できなかったと中山氏 は主張される、. 中山論文の他にも橘撲を取り扱った論文はあるが、中山氏のように孫文思想との関わり を重視し、そこに焦点を合わせて考察されたものはなかっただけに、今回の功績は大きなも. のと思われる。しかし、中山氏自身が言われるように、橘撲の考えの基底となっている「道. 教研究」にどのような契機で携わるようになったのか、日本の道教研究の申でどのような 位置づけになるのかを今後是非とも言及していただきたいものである.. 以上、堤、中山二論文の評者 笠木勝範. 一74一.
(6) 「町代道光町の西湖管理と杭州商紳」. 森田 明 森由氏は本稿で、西湖管理コ開平事業の組織形態とその性格を、清代特に道光期を中心 に考察された・醐は杭州の歴史的発展を支えてきたインフラーストラクチャ7であ?た・ その西湖の管理では、蓄水能力を随害する涙塞が最大の問題で、放置すれば用水の枯渇を. 招いた。しかレ町代までは対症的で木定期な撃墜事業の実施ピ止まつセいた。明清時代 にはいると、自然の浪塞だけでなく豪昆を申心に意図的な引田化が行われる1ようになり、. 以たな西湖水源能力の阻害原因となった。対処策として水源確保を自的とする西湖管理一 四界事業は官浅官弁で、湖水の城内・城外への用益上の水路管理は直接用益民の負担とし、. この問題を解決しようとした。しかし、乾隆末・嘉慶年間になると、清朝権力の総体的低 下により西湖の管理にも影響が出てきた。すなわち嘉慶19年に開平が行われて以来、十四 年間にわたって三等は実施されず、漁塞によって著しく水源としての機能が低下し、道光 年間1こは一刻も早い筆管が課題となっていた。道光9年1月、地元杭州の紳士、商人を中 心とした民間の自主管理体制下の西湖開凌管理シヌテムが発足した。この組織は、道光4 年、漸四丁撫・領承濾が商絹銀4万両を西湖の溶治費として供回したものを、「発商生息」 方式によって薄商グループに貸し付け、月8麓の利息を得て運用するというものであ?た。. この新システムの利点は、(1)財源の安定的確保(2>董事による経埋の把握(3)公 選による琴平の適任化(4)溶湖の地元(人)管理(5)経理の公開の5点で、従来の西 湖管理の弊害をクリアするものであった。筆者ば歳修章程(運営規定)、続陳規則(労務 管理的規則)、続議章程(技術的諸規定〉を通じ畔引湖事業の運営とその問題点を時系列 的に取り上げ、組織上の問題点について考察している。そして、定期的な新湊作業の円滑 な運営にとって最も重要であるのは、直接作業にあたる人夫の労務管理であること。また、. システム全体の統括責任者である董事の人格、責任能力がいかに重要かということ。嘉慶 年間の中期から、』西湖搬塞の対処策である「養魚去草」が、紹興や甲州からの流民による. 養鴨によって潰されていること等を具体的に取り上げられて論じられた。さらに、西湖の. 溶治システムがわずか3、4年で窮状に陥った原肉を(1)事業計画やその見積もり等へ の刑吏の不正(2)嘉慶∼道光年問の「銀貴所賎」現象による塩鱒の崩壊から説明されて いる。. 筆者ぽ、この西湖管理システムの問題点である董事の負担の電さは、野馬進著『中国善 会好発史研究』第9章「杭州雪竿連合体と都市行政、ギルドおよび国家」で述べられてい る問題点と部分的ながち関連するところが少なくないと論じ’ 轤黷トいる。ずなわち仔馬氏. は、杭州義挙連合体を統括する善挙縄董は、毎年継続される公共事業で巨額の赤字を自腹 を切って補填せねばならなかったので、この任に就きたい者はなかったと指摘されている。. 筆者自身が述べられておられるように、酉湖の溶治システムの窮状原因についてゐ考察は 今後の課題とするもめの1中国独自の地方自治や都市行政の問題を考える一ヒで我々に大き な示唆を与えてくれた論文である。. 一75一.
(7) 「徐壽輝西系紅巾軍の特質一主に国遠・印章の視点から一⊥. 東郷孝仁 「濡鼠明初の時代」を主翠とした従来の先行研究は、①政治的には紅■巾の乱で幕を開け た韓山童・韓広遠の“東系紅巾の乱”、とその系統に連なる明朝の建国者“朱元璋”の研究. ②宗教的には韓山童の白蓮舎を中心どレた“白蓮教讐研究の二点が主流であった。東郷氏 はこのような先行研究動向の中で,これまで副次的に取り扱われる事の多かった三富玉・. 都普勝1徐壽輝らの“西皆紅巾の乱”を自身の研究主題として多数論稿を発表されてきた (註)。本論稿も徐壽洗魚系紅三軍の特質を、(・1)国号であ?た「天完」に関する考察(2). 官位の血忌や印章(官印)等の利用という二つの視点から明らかにしょうと言うものであ る。. 温温輝の西系紅巾軍は、『元史』順帝本紀によると、至正11年10月、薪水を都とし、国 を“天完”と号し、治平と改元したとある。『明実録』『明史』業に同感の記事がある。 しかし筆者はこの「天完」の国号に疑問を呈している。その根拠として、宋濠の『宋学士. 文集』巻3干指揮墓誌銘と、西系紅自軍の領袖の…人であった明玉珍の衣冠墓から発見さ れたく玄宮誌面〉碑文に、回忌輝の国号が「宋」と記されていう.ことを挙げている。筆者 は、明代にこの「天完」という国号に対して懐疑を示した趙士詰の『三綱録』.の記述やそ れを受けた楊訥の見解に着目している。すなわち徐壽輝が天応を号として採用したのは、 “大元’を宇形で以て威圧.するという意味があり、そこに反元朝意識が強く込めれれてい. ると言うのである。筆者も、徐壽輝西系紅巾軍は少なくとも叛乱の初期の血温では「宋」 と言う国号を使用していた可能性が高いと論じられていう。.そして、「天完」という文字 を紅巾軍の旗幟として用い、民族主義を鼓吹して叛乱の拡大を図ったために、’「天完」と 、いう旗幟が強烈な印象をあたえ、恰も国号と同心回して理解されるようになったのではな いかと述べられている。. 第二点目の西系紅巾軍の官位の償称と印章(官印)等の利用という問題であるが、元末 紅巾軍勢力は東系・西出を:開わず印章や貨幣を鋳造していた。筆者は一山輝が有力人物を. 幕閣に加えるために“偽印一紐”を与えたり、徐壽輝が饒洲路で官印を奪い携行していた こと、心友諒が諸司の.印章を鼠取しよう.としたこと等を検証診てヤ・る。その結果、官爵や. 印章の付与が知識人階層を獲得し、紅巾軍の“権威性”を高め、その行動を「起義」とし て“正統化”を図る手段として一番簡単で有司であったと述べられている。そして・この ような乙丸輝の行為は当初の「民衆救済」を説く秘密結社の首領かち元朝支配に不満な漢 人知識層の心理に迫る反元朝ナショナリズムの“象徴”としての側面が濃厚になってきた 証であると論pられた。以上;点から、、筆者は徐二品の西系紅巾軍集団も民衆に対する自 己政権の正当化及び権威付けを通して、宗教的秘密結社の叛乱≒いう閉鎖憧から脱却して、 伝統的漢民族王朝への道を歩もうとしていたと結論されている。「天完」.国号謀に関すう 問題につい=(は・今後の検討余地が残されてセ’るものρ・・本論稿において重慶ρ明玉珍衣. 冠墓から発見された『〈玄宮之碑〉碑文』等の新史料を活用し、積極的に西系紅巾軍の本. 一76一.
(8) 質をさぐろうとされている筆者の意欲が伝わってくる:。今後、本論稿に触発されて、‘f西 緒言巾の乱”の解明演より一層進展せんことを期待したい。. (註) 「紅巾の乱の勤向と課題」(匡東洋史訪』尉刊号・兵庫教育大学東洋史研究会D1995) 「(妖僧}彰釜玉一元末酉系紅巾の乱の宗義的摺導者門に寒いて」(ぎ東洋史訪』第2号f兵庫教育大学東洋吏研究会。1996). 「自由の乱への道程(上〉一元末順帝と伯顔の政治を中心に一」〈冨鹿児島史学』第42号価1996) 「紅巾の乱べの道程(下〉一奎元年間の民衆叛乱の史的意義一ゴ、(写鹿児島史学退第43号r1997>. 「徐壽輝西系紅巾軍の活動に関する一考察一元末紅市の乱にみられる水寵酌側面」(窪中国水利史研究』第25号ら1997) ・ 「元末民衆叛乱口上序章」(『鹿児島県立加治木高等学校研究紀要』第16号・1998). 「元代の鮎並書『牧民忠告』について」. 古林森廣 毒心以降、地方行政の手引・心得といった類の書である官良書が数多く中国では出版さ れた。筆者は、元代の官箴書である『牧民忠告』を考察対象としてとりあげた理由として、. ①宋代の官山台に較べて、項目のたて方、記述内容にかなりの相違があること②『牧民忠 告』『試論忠告』『廟堂忠告』の三書を合わせた『三事忠告』の訳注・解説書の記述内容 が、余りにも現代人に活かせるように解説・紹介することが優先して、現代語訳において 元代という時代的な背景に対する考慮が欠落していることの二点を挙げている。 『牧民忠告』は元代の宮僚であった張養浩が中書省南部の東血路堂暗譜の血戦(次官). 在職中の体験に基づいて著した、幕職官(幕属)2準官員を含む官員の県行政の手引き・ 心得意で、特に県歩の執務心得である。その内容は任官の辞令拝受から離任にいたるま.で、. 県サ在職中の関係職分の項目とそれに対処する心得を条項別に列記してある。. 筆者は本論稿で、感心の官箴書『作邑自箴』から南面の諸官塩鮎を経て元代の『牧民忠 告』に至って、記述内容が行政実務の処理方法よりも,むしろ県行政官の心構えに力点を 置く傾向が強くなった原因を究明された。 その理由として筆者は、. (1)元代は、中央はもちろん地方においても蒙古至上主義にあった。漢人は科挙進士の 道が閉じられていたので、元朝との根脚(二由緒・譜代〉関係によって官界に進出する場 合を除いては、胃吏から昇進する以外に道はなかった。その結果、元代の政界の特徴とし て、漢人の鳥取への進出が顕著であった。ここに漢人の出仕者は、先ず吏事の修得、次に 経書の学習が求められた。それ故に『牧民忠告過では「無為の治」を理想とし、上に立つ 者がとやかく作為しないことが∼却って天下が自然に治まる良策であると儒学的な教訓が 強く説かれた。. (2)元代の地方曲射の現場では、朝廷から派遣された監督官のダルガチ(長官)が事務 全般に対して最高の決定権を持ち、また漢人官員を指揮監督した。しかし蒙古人のダルガ チと漢人の県弄(次官〉との関係はしっくりいかないことが多かった。それは張養浩自身. 一77一.
(9) も経験したこと.であった。ここから『牧民忠告』では勢い官界における上下関係を基準に した道徳上訓戒ないし心構えを説く内容にならざるをえなかった。 と分析されている。. 本論稿によって、筆者は地方官の規律を中心に記述した『牧民忠告£が宋代の諸官箴書 と異なる記述内容であることを明らかにされた。そして、元代の地方行政と関係官吏の実 態を究明されたことは意義深いものがある。さらに、『風憲忠告』『廟堂忠告』.の考察が. 行われ{宋学が命題とした「天理の公」「人欲の私」といった倫理規範が、元代に継承さ れていることをより明確にされることを期待したい。. (以上、森田、東郷、古林三論文の評者、蔭木原洋). 一78一.
(10) 「繋争の塩交引に関する研究の整理と課題」. 安藻 幹夫氏 まずはじめに、宋代の塩政についてギ特に専売制、有価証券たる交引の重要性に視点を 据え、制度史に止まらず、経・済の実態を捉える視点から、研究史が概述され.ている。宋代. は膨大な軍隊と官僚組織によって支えられており、財政収入の柱として、専売制は重要で あった。宝元元年(103$)、西夏の離反と侵窓に対し、軍隊の糧草調達が重要な問題となっ た。これらの沿辺地への納入とひき換えに、商人へ支給されたのが塩をはじめとする交引 である。宋代、塩の専売制度は権塩法(塩の生産・運搬・販売をすべて政府が管琿)と、 通商法(課税塩を商人に払い下げ、後は自由販売。ただし販路は制約あり)とに大別でき る。宋代の塩政で特に重要なのは、まず契丹と境界を接する河北であり、軍隊駐屯に伴う 民衆の負担軽減と、契丹塩の流人に対抗するため、通商法が適用された。社会政策的な意 義から優遇策を採ったと言えよう。塩町の安定・民生の安定と共に、椌場での貿易統制に より、銭禁・銅禁をも兼ねていた。慶暦6年(1046)11月、張方平は、禁権を強行すれば、. 塩価が騰貴し、安価な契丹塩の流入と銭流出を招き、両国関係に隙を生ずる、と述べてい る。しかし、煕寧7年(1074)、モ安石の経済積極政策により、銭禁・銅禁の解除を見、河. 北でも禁煙が実施された。その後、旧法党は通商法を、新法党は禁椎法を、と塩政が交替 した。. 他方、最大の産廻書を誇る濫南での塩法は、当然最高額の塩税を納めていた。潅南での 禁権は、太平興国2年(977)に確立されたが、ここでは塩利確保のため、生産価格が消費 価格の十分の一にすきない、という’生産者への経済的不利を前提として、成立していた。. 国初以来、辺防毒の補填を潅南産の末塩で折中(沿辺に舞粟人中→京師で絹銭、江惟で 茶塩支給)する制度は、雍煕中(984∼87)には成立をみた。同時に、生産者も含めて、糧草. や塩の転運を中心的に担い得るのは米商・塩商であり、彼らの権貨務への入中が、塩交引 の発行を促し、信用を高めた。一方で、当局は、こうした商利を統制する必要もあった。 また、塩交引の形式、経済的意義にも言及している。. 次に、陳西での著名な萢祥による紗法改革(慶暦8年、1048)について、戴紅燈氏の言 に拠りなが・らまとめている。即ち改革の原因として、①放漫な入中による、物価高、塩価. 安の招来、②衙前による塩運で、民が疲弊したこと、③青白塩の流入、④姓氏の入中での 横領を挙げる。これに対して宝島は、①沿辺への豆本納入を見銭に改め、虚f占の負担を減. じたこと、②解塩鋤は、従来の京師権貨務から映西町辺の九折博務に移したこと、③通商 法に改め、盛事の役を廃したこと、④塩鋤の濫発防止、⑤京師都釣戸での塩価調整など、. 時宜に適い、上は国を利し、下は民を安んじたという(戴翻焼『戦艦隠事制度研究』中華 書局、玉981年3月)。その後、心向もこれを継承し、県側、皮公魚.なども繰り返し暗影の. 制度の復活を唱えている。しかし、票京の通商法が行われると、国利・民生より、商利が 優先されるようになった。. 最’後に安薫氏は、塩・茶などの専売品の研究が、有価証券から、宋代社会全体の国家権. 一79一.
(11) 力の問題・財政問題・通貨間題・商業問題等と関潭・していく重要な課題であるごと、巨視. 的な視点と共に、より詳細な地域研究の重要性も指摘されている。 この、国家財政の枠組み、という観点から考察.した場合、宮澤知之氏の研究.に、興味深. .い指摘がある。即ち、萢祥の改革期を境として、商税収入が急減するこ七、原因として、. 沿辺での軍糧納入が見銭納入に改められたため、開封での塩鋤発行が省かれ、塩紗の発行 額は増え、塩.課収入は増加したが、商人の移動を伴う商品流通の総量=商税収入はかえっ. て減少した、という点である(宮澤知之『画嚢亀鑑の国家と経済』副文社、1998年3月、 p47∼51)。. 「北盛期の商税について一主として国家財政との関連一」. 足立 公徳氏 宋代の財政史・商業史研究のうち、粗面に関する理解は欠かせな.いものであり、加藤滝 里以来、鵠我部静雄ギ梅原郁.斯波義信、河原由郎、吉林森廣、1幸徹、1小川策之介、等の 諸氏がさまざまな角度から考察されている。.足立論文では、北宋期における商税制度の整 備と、依存度の高まりによる濫徴傾向、濠.びその緩和策としての免税措置を、一通と.して.国 家財政の視点から考察して.いる。. 中央集権をめざした宋朝の成立、支配領域の拡大に伴い、節度使が持っていた商税’管理 権も次第に中央に帰し.、太.宗の頃に・は、.主要場務に使.臣、即ち監当官を派遣、.三年任期と. 膨、小なる寒風は、所属の州県官に掌握させた。監当官の設置基準は、真宗景徳2年(1005) には3.万貫以上の場務、・仁宗天聖6年(1028)には、河北路では3;O〔,0貫以上で:あ.つた。.他. に、商税の徴収を請け負う買撲税場も、各地.1こ設、けられた。マ宋会要語食貨15・16・17商圏. 所載の有名な統計によると、全国の場戸数は、Φ旧統計が1.837、②煕寧.10年(1α77)の統. 計が1,993であることが知られている。実際の徴収に当たっては、竪町則例によること、 端撲元年から淳化元年(988−90)の3年闘の最高額を某準(祖額)とし、これに対する増損 で、監当官への勤務評定が行われた。. 真宗・仁盛期には、京師に商税を集団することに務めた。遠隔地がら京師への長距離の 搬送には、客商に対し、長引即.ち通過税等を発送地で払わせず、京師の都商税院での一括 納入の制度を用いた.。また、商人の規模に応じた収納方法も講ぜられていたが、茶などの 専売品にはかなり厳しい規定が設けられていた。また、脱税防止のため、賞罰規定を設け、 指定外の私路を通過する商人、物貨.を蔵匿する商人の密告奨励・輯奨規定を設け’ている。. 足立氏は、宋朝の対商業政策は、前期はその存立の基礎を崩さぬ限りにおいて流通も保 護し、小農・一般民衆の保護とを併せ行い、比較的安定していた、・とする。しか一し、中期 の仁宗・神当期を境として、地方政庁によ.る場務の増設によ.り、商税の濫徴傾向が隼じ・、. かえって収税額が減少し、巾央が増設増徴への夢裡策に転じた、とする。全国の商税額は・ 太宗至道中(995∼97)には400万貫、真宗景徳中(1004∼07)には450万貫・だったも・のが、同や く.天禧中(1017−2Dには804万貫、仁宋朝(1‘}22∼63、.年代.不明、初期の頃か).には1」04万貫、. 一80一.
(12) 同じく一目中(1041−48)には1,975万:貫と最高を記録するが、同じく皇祐中(1049−53)には、. 786万貫に激減し、1英宗治平中(1064’一66)の846万貫、神宗煕寧10年(1(177)め855万貫と推. 移している。足立氏は、慶暦前後の増加は、対西夏戦争の軍事費増大の結果である、とし ているが、その後の急減は如何に理解すればいいのだろうか。中央財政から地方財政に移 管された、という統計ヒの問題ではなく、より巨視的な視点が必要なのではないだろうか。 地域的には、両建をはじめとする東南及び広南が著しく増加し、商業の繁栄を十分伺わせ る。また、小農民・一一般民衆保護のため、珍貨に対し、また客船に対して、免税も実施さ. れたが、あくまで臨時の措置であった。分圧の商税を国家財政の中に位置づける時ぐ塩税 ・酒税といった課利全体で’の相互の関連を見つつ、軍糧の確保と見銭め流通・循環が、両 税収入、漕運米の確保と共に宋朝財政の根幹を支えていた、とするなちば、足立氏の研究 は、更に意義を持って来るであろう。.安臨写の論文と併せて読むとき、より・一一層興味深い テー.マとなってくる。. 「南宋の権帥貿易一旺胎無権場と管理体制一」. 井上 孝範氏 南宋期、宋金町の官営貿易場として設置された酒場は、宋側では、紹興12年(1142)正 月の肝胎軍畑場を嗜矢とする。その後、堀金両国の国境線上に、それぞれ約10ケ所程度 の虫歯が設置され、特に宋側の肝胎軍と金側の{四州の2ヶ所が、両国官民貿易の中心とし て栄えた。両国間の貿易に関しては、加藤正副の「宋と金国との貿易に就いて」(『支那. 経済史考証』下、東洋文庫1952年)が基礎研究であり、貿易の概要と、その問題点につ いては、ほほ網羅されている。井上論文は、肝胎軍と洒州での権場設置の歴史的・地理的 背景、及び肝皇軍での山場管理体制と、その官職の具体的な職務内容の推移を考察したも のである。. 北宋期、潅水と沐河が交叉する漕運土の要衝に、洒州と肝胎軍は位置していた。洒州は、ゴ. 潅水の北岸に位置し、京師に最も近い転般倉を擁する地であった。肝胎軍は、潅水を二里 隔てた南岸にあった。紹興11年(1141)の和議締結により、潅水が宋金両国の国境となっ た。この前後、肝胎毒の築城が本格化したと考えられる。その後、時折両厘場は停止され るが、紹興12年(1142)正月から29年(1159)正月、隆興2年(1164)12月から、開禧2年(12〔〕6). 5月、嘉定元年(1208)9月から端平元年(1234)まで\流場貿易は続け.られる。その管理手. 続きは、.かなり詳細に定められていた。旺胎軍職は東・西・南の三面を山に囲まれ、北側 の一一面のみ准水に向けて開かれた、安定した立地に・築かれていた。本格的な築城は紹興6 年(1146)の事である。対する洒年月は、宋初より土岐で、中央に北西から南東’を貫流する. 沐河を挟みて東西の二城からなっていた。潅水・沐河の二本の川に挟まれ、屡々洪水’に見 舞われた。明初には一城とし、千石を使用するな9 ヌしたが、次第に洪澤湖の面積が広がり、 康煕19年(1679)には、南流時期の黄河氾濫により、遂に湖底に水没した。『一時肝胎県に 州治は寓居したが、乾隆年間、洪澤湖の西に㍉新たな州治が築かれた。. 一81一.
(13) このように、至近距離にあり・かつ最も重要な拠点にあった肝山亭1洒州の椎場貿易は・ 時に両国間の政治的緊張が高まっても、交戦状態にならない・限り、貿易停止、.「椎場廃止は. 極力避けられた、との指摘は重要である。その理宙と’して、金側が、貿易による経済的・. 財政的利益に依存していた事、面心も輸出超過を続け、歳幣の支出を上回る収入が上がっ た事、等が挙げられるだろう。対権場貿易税として、民宋会要』には毎貫200文の穎銭、20. 文の牙銭、4文の脚銭の例が見え、派兵の率20%は、流露中の過税2%・と比べで10倍の・ 高率で、か塗りの税収になつだと思われる。肝胎軍下の.宝積山には歳幣庫が設置され、.対. 岸の酒州に運び、そこで受け渡しが行われていた。これに伴い、輸送単位たる「銀綱」・ 「絹綱」の人員が往来・滞在する施殻が整備・拡充されていったであろう事も、』当然伺う ことができる。同時に、私貿易への対策も取られており、.懇話で見ると、提領官(総領)、. 措置宮(温州・出軍)、提血忌(通判)、主管官・2名、活発官2名などの官制が整備され ていった。実際の現場責任者が主管官、検査・許可証の発行担当が押直宮で.更に貿易の. 増加と違法貿易の急増などを受け、監守官、渡口官司、渡口捜検官等が増員され、貿易制 限策も実施された。以上のように述べられている。.今後は井上氏の言にある通・り、他の文. 場城市・との比較考察を通じ、治安・巡検体制、胃吏・三人の関与等への研究が待たれる。 「北宋期の福祉事業について」. 小川 策之介氏 宋代に福祉事業が発達をみた原因を、小川氏は国初より徐々に蓄積された社会矛盾が、 水早災・飢鰹など、主「として自然災害.を機に多くの流民・乞再を生み、国家に種々の対応. を迫らせる圧ヵとなった、とする。. 宋代は・、唐の悲田院にならい、倒都開封に東西二つの福田院を設け、鰹寡強将の人々を 収養していたが、人数も少なく、建前としてだけ設けられていた。その後、仁宗朝(1022−63). になると、郷村における土地の偏在と賦役の不均・過重により、形勢戸と貧.下戸に両極分. 解し、郷・村社会は崩壊の危機に瀕していた。同時に士大夫層を中心とした宗族社会も、急 速に分解し始めていた。明道・景祐年間(1032−37)には天災が相次き、加えて慶暦3年(1043). の王倫の乱などにより、「極世態世」を謳われた時代も、内実は矛盾に満ちていた、とい ・う。こうして、流民が発生し、、多くは都市に流れ込んだ。政府は度々帰農策を打ちだした が効なく、遺棄幼老・飢民・死者などが数多く記されている.6そこで、・嘉祐2年(1057)、. 枢密使韓碕の請によ、り、「訴人耕作」による租を地方都市に設置された廣恵倉が貯え、「州. 県郭内の老幼貧疾の者で、自ら存す能わざる者」に給した。当初は提点図獄司の、後には. 司農寺の所管となり、州毎に幕止血・曹官が監督、毎年11∼2月に、3日毎に大人1日米 1升、小人同5合を支給した。また、福田院も嘉祐8年(1063)には四つに増設され、煕寧 中(1068∼77)には、画面対象者が記章「増額」となっている。そして、元符元年(1098)に. は、画期的な「元符令」が出され、鰹寡孤濁も収養され、』乞再法により、一年中米・.豆が 支給された。崇寧4年(1105)・には居養院(主に鰹寡孤濁:など)、安濟坊く病人の治療・収. 一82一.
(14) 養)、ρ漏三園(無縁墓地)が、まず州県城、ついで開封に、更に千戸以上で神職駐在の城 塞・鎮市へ’と、相次いで設置さ九、内容も手厚いものであった。これらの措置が実施きれ た時期は、丁度徽宗朝の票京政権時}ピ当.たる。しかし、次第に.放漫経営となり、官吏・胃. 吏の不正、里正・再首らとめ結託により、弊害も次第に大きくなってい』つた。しがし一方 で、・こうした「経世済民」の思想が、南宋でも社倉、養濟院、慈神州などを設置していく のである。以上のように述べられている。 参考文献として、今堀誠二氏』『中国史の位相』(手擦書房、1995年)所収の常平倉以下. の諸論文、梅原郁氏「宋代の救済制度一都市の社会史によせて一」(『都市の社会史』ミ ネルヴプ書房1983年)などの研究史があるが、『宋史食貨平尾註』(二)(三)(東洋文庫、1999. 年)も参照されたい。また、近年の伊原弘氏の都市社会史研究、寺地遵氏の在地士人を中 心とした地域社会研究といった視点も、庶民の生活実態を知る上では有効なのではないだ ろうか。. 「四川成都の都市形成と水利問題」. 西岡 弘晃氏 成都は四川省の省都で、早筆堰あ建設によって開発された成都平原の沖積扇状地の東南 端に位置している。古来、「天府輝国」と称された四川の開発は、紀元前4世紀末に始ま ったとされる。秦漢三国時、すでに成都は政治・文化の中心となりつつあったが、本格的 な都市として発展したのは、唐代後半期から宋代にかけての時期であった。本論文は、研 究史の特に少ない成都の都市水利についての貴重な研究成果である。 さて、秦恵王27年(前311)大城が、翌年少城が初築される。唐末の乾符6年(879)、節. 度使高吟が周囲25里の羅城を、後唐天成2年(927)には、成都ヂ孟知祥が、周囲42里、 高さ1丈7尺の羊馬城を築いた。宋代には、北宋の元祐(1086−93)、南宋の建炎(1127∼30) ・紹興(1131∼62)・乾道(1165∼73)の各時期に、修築が繰り返されている。. 次に、成都の都市水利についての考察に及ぶ。『嘉慶成都県志』巻1、金水河の条によ ると・、城内水利の整備は、唐の大中8年(854)、西川節度使白敏中が成都西郊から郭野水 を城内に引水したのが最初である。後、北新の開宝(968∼75)初ぐ劉高古が理解して水患. を防ぎ、天陣中(1017∼20)、王竸は城内河(金水河)の大規模整治と拡張を行い、大観 (1107dO)初の席旦、宣和(1119−25)末の旦子益、南砂淳煕中(1174∼89)の萢成大も、疏導・. 修葺工事を繰り返し、整備に務めた。・これら城内河は、三三、生活用水のみでなく、成都 城民に水辺環境も提供していた。その他の用水源として、池塘及び水井も重要で、蓄水、. 排漢、灌概機能の他、養魚・種蓮も行い、都市環境美化の機能も併せ持った。望江楼の聾 濤井は最高の飲料水として有名であった。 成都の水災については、郭濤氏の研究が詳しい(『西川城市水災史』巴蜀書社、1989年)。. 郭濤氏は、洪水の原因を、成都付近での大雨の場合と、上游での大雨の場合の例に分類し、. 時期は7・8月に多いこ・と叉宋代と民国期にピークが見られ、一しかも連年の傾向があると. 一83」.
(15) する。丙岡氏は、郭濤氏⑱データに基づきながち、史料か5更に城内河等、水路の目塞が 洪水の…因である点を読み解いている亭成都城内の水路・水利施・設の修築工事は丸…般.に. 成都サ、知成都府、守庫、通判などの地方官の管理のドで行われて’いた。労働力の徴発に ついては、南宋の紹興3!年(1161)、.成都の隣県、双空耳の事例では、付近4県の夫数千. 人を徴発したが、人数ρ確保が困難であったこと、工事費用の負担ぱ、各農民のもつ凪地 の面積に応じて、費用の共同支出によって賄われていた、≧する。また夫役参加者は、平 等に労賃を受け取っていた。ここから氏は、城内の水利工事においても、労働の対価とし て、労賃が支払われていた、と推測されている。、最後に、1993年から成都で進められて いる「府南河綜合整治工程」は、過去の水災を教訓に、百年に一度の洪水にも対応できる 防洪⊥事も含み、積年の課題を抜本的に解決しようとする歴史的に意義深い大事業である、 と締めくくる。. 「四川専売下の茶生産について」. 松田 孝氏 真諦は、、煕寧年問(1068∼77)に、四川で始まった椎茶、即ち茶専売制度下の買茶場に焦 点をあて、園戸(茶生産者)に与えられた茶本(前貸付金)を詳細に検討することにより、. 担当の官司、買茶場、園戸を取り巻く構造を明らかにしている。. 唐中期以来、茶は塩・酒と共に、専売課税の対象であり、国家財政の重要な財源であっ た。苗代でも、豊隆3年(962)に初めて権茶が実施され、統一の進展に従って全国的に実 施・整備されていった。四川での権茶1ま、王詔g)照河路経略に伴い、その糧草購入及び茶 場貿易の財源として、隣接する四川山路で極めて政治的な目的で煕寧7年(1074)に始めら れた。買茶本銭は成都府路では、当初三司の財源に拠ったが、後には転運司を中心とし、. 不足の場合は提当市易司から融通し、中央の司農寺の支出を仰いだ、とする。導入時の李 杞・蒲宗閲は、権発遣三司塩鉄判官公事、同提挙域都路利州路買茶公事など、さまざまな 差遣を兼ねることで資金の融通を図っていた、とする。一買茶場での実際の職務は、茶場監. 官以下、貼司掌典(書記)、庫子・秤子(倉庫番・秤量係)等の胃吏の他、有力牙人を登 用していた。買茶本銭は、交子や銀を支払い手段’としたが、その際、市価より数%∼r割. 程度割り引いて本来を節約していたこと、逆に四通からも茶価を割り引いて買い入れ、増 収に務めたこと、を述べる。こうして、負担は園戸に集申していたこど、更に前貸付に際 しても、生産茶の買い上げに際しても、忍人の無人が避けられず、その手数料が、併せて 園戸への圧迫となった、とする。 蝕法に関する研究史は、佐伯富、河上光…、梅原郁、古林森廣等の諸氏をは.じめ、多く. を数える。本論をその中に位置づけると、制度史を踏まえ、生産の実態に踏み込んで考察 した研究と言える。水野正明氏は、従来の研究が、「極圏体制の生産面、特に園戸に.与え. た影響を一一律に抑圧と評価している」点に疑問を呈し、園戸に対する優遇措置にも目を配 りながら、椎茶体制が茶生産の商業化・を一層促進した側面も指摘する(「宋代における茶. 一84一.
(16) の生産について」、“『待兼山論叢』17、1983年置。また、梅原郁氏は、「県税は財政的な比. 重はそれほ早大ぎくないが、沿辺の糧草購入や軍事費確保と密接忙絡む為、重要な問題と なった」と指摘している(「時代茶法の一考察」、『史林』55−1、1972年)。尚、河原由郎氏 『北宋期・土地所有の問題と商業資本』(西日’本学術『 o版社く1964年)の各論編、特に第. 4章「四川四隅の土地問題と商業資本」を参照されたい。茶の生産については、商税や塩 町の問題と共に、経済史・「 熕ュ史全. フの枠組み遼)中であるいは国安石による煕寧の新法、. という政治史の二環どしてダイナミックに捉える規点が丸今後ますます重要になるのでは ないだろうか。. 「西廻における進習物の発送率備」. 宮薗 和四望 唐代、国家の税制の根幹をなす租庸調制・両税法とは別に、唐前半には、州府の長官が 各地方の特産物を毎年の朝賀に献⊥する「貢献」(上貢)があり、玄宗朝以降は、使職・ 刺史・藩子等が、金銀・早撃・器物などを天子に贈る「進奉」があった。進奉とは、正税 外の徴収であり、「羨’ ]」(収支の余剰)、或いは「方円」(遣繰捻出)であり、保身・栄. 達のためのものであったが、後には儀礼化した、とする。また、徳宗は衆財に用い、重要 な財源の一つであった(『日野開’三郎東洋史学論集』第3巻・第4巻、三一霞房1981年)。 宮薗論文は、この進男物についての、極めて具体的で興味深い考察である。. 進奉物の調度方法としては、進奉者が支配領域内で、各種の方法により耳敏したものを 直接進奉ずる方法、同じく聚敏したものを加工製品化して進奉ずる方法、他所から市場を 介して原材料や完成品を入手して進奉ずる方法、に大別される。しかも、進奉にかかわる 工人(匠人)や作業場の存在、あるいは多領域との広範な交易活動への注視の必要も指摘 されている。以下、更に進奉物に対する具体的な考察に移る。当時の物品輸送には、顧や 函、また樽などの容器が用いられ、個別の表書きとは別に、進軍者の氏名・役職等と、進 三物一覧を記した表・状などが別途用意されていた。また、汚損への対策も十分に講じら れていた。氏の指摘の通り、進愚物は、送られるだけでは意昧をなさず、出発時における 状態がそのまま維持され、天子のもとへ届けられてはじめて意味をなす。そのために、紙 や布あるいは植物類や籠などを用いた二重の保護、防塵・防水用のシート、梱包および牽 引に用いるローブなどの使用も、史料から認められる。氏によれば、尚残された課題は、 輸送にかかわる人の問題と、天子のもとへ至る過程の問題である、という。 進山は、後述の小西論文が取り’⊥げた聖帝の上奏文の中でも、改革すべき「非法賦敏」. の一つとして指摘されている(『陸宣公等』巻22、「均節理税期百姓」第・条「論両税悪 弊須有麓町」)こうした進植物は天子の内庫に入れられるが、更に中央在庫にも入れられ、 現実には重要な財源の一つ’になっていた。最初に述べたように、唐代の税制史研究のヒで の重要な課題で’ ??、。また、徳宗以後の藩鎮対・策の一つとして、政治’. 要な課題であろう。. 一85一. j的にも同様に重.
(17) .参考文献と.して、宮薗和禧.r唐代貢献制の研究‘九州共立大学地域.経済研究所.、.1988. 年)、陳明光『唐心財政史新編』(中国財政経済出版社、1991年)がある。. 「陸賛の財政経済思想について一斐延齢批判を中心に一」. 小西 高弘氏 唐心後半の徳宗期は、両税法が実施された時期に当たり、従来の研究も、この方面のも の.が多い。自賛は、この徳宗期に活躍し、「儒学に深く根ざした政治家」で、苛敏謙求を. 戒め、両税法を批判した、とのイメージで語られることが多かった。本論は、小西氏の旧 稿「陸賛の両税法批判考」(『福岡大学経済論叢』37−4)を受け継いだもので、徳宗に追従 したとされる斐延齢への批判を軸として、陸賛の財政経済観を考察したものである。(1}. 小西氏の行論は、『陸宣公白蛇全集』からの引用が当処にわたるが、論旨は比較的明快 である。まず、陳松雄氏の著書『陸宣公之政事与文学』(文史哲出版社、民国74年、1985 年)の問題意識を借りて陸賛の財政思想に切り込む。つまり、徴税については、常に民生 の安定を図り、節度を以て時期を守ること、国家が節用・薄賦に努めることが肝要、と説 く。次に、巻4「論斐延齢仁心状」を引用し、陸賛の斐延齢批判は、装が徳宗に対.し、国. 家の財源不足の実情を述べず、帝室財政を補充することばかりに意を汲み、徳宗の個人的 寵愛にRがくらみ、国家財政、良(公)民の民牛を無視した点にある、とする。斐の私宅 設置を是とした徳宗に敢えて諌言、公益・公正の追求のみが国家財政の正常化をもたらす、 と勇気をもって皇帝を批判した。その詳細な批判を概括すると、二つの柱に行きつくので はないか。第…は、斐の政策が、財源を帝室に集中した結果、沿辺の軍糧不足と、市人・. 農民への搾取を来しているとの社会経済的批判、第二は、斐自身が小人で、私欲追求に汲 々とし、倫理的に腐敗している、との政治道徳的批判である。第一について、陸贅は、貞 元10年前後の財政卜:の問題点を列挙した上で、自身の建軍和画法に基づく辺彊運送費の 節約と現地勧農政策を展開し、漕運を利用して関輔・江濫間の穀価・諸価を調整し、運脚 三等の負担も軽減せよ、と論ずる。この史料は、主に巻3「医心京東水面取身命於沿辺州 鎮儲蓄軍糧事状」で、小西氏は「貞元/・年頃」の事としておられるが、王壽南氏はこの日 付を、「貞元八年八月」としている(「従陸宣公証苑論壇唐徳宗時代的政治」、中央研究院 国際漢学会議論文集、歴史考古組、民国70年、1981年)。第二については.、斐の批判と同 時に、徳宗自らが重税を課さず、財貨を貯蔵せず、一・般人と憂患を同じくし、兵卒と有無 を共有することが必要である、とする。. 小西氏は、陸蟄の財政経済思想をまとめて、楊炎と同じく現実を注視し、儒家的合理主 義を貫徹しようとした、と括る。具体的には、①強制的労働であっても公正な対価を支給 すること、②国家財政を華北依存型から華中的開発による依存型へ転換し、かっ漕運、物 価調整(議院)休制の強佑により、辺謡・庭中・華巾の相互関係を維持しつつ、国防につ とめること、③国家財政を重視し、帝室財政への逆行を批判、農・エ・商・買の均衡を重 視したこと、④斐延齢と共に徳宗自身も批判し、重税の軽減化と、倫理の復活による徳治. 一86一.
(18) 政治の復活を求めたことで、観念的批判ではなく、具体的数値を以て楊炎から連続する同 じ軌道を歩んでいる、と結論づけている。. 註(1)尚、本論考評作成に関しては、龍谷大学畑純生講師から、陳松雄氏著書の恵贈をは じゃ、.数々.g有益な碑教示を頂いた。深謝の意を表したい(参考文献。畑純生「陸賛 の時政批判と徳宗建中年間の中央政界について」『東洋史苑』45、1995年.。項斌他三. 名編著『中国古代財政思想史稿』中国財政経済出版社、1993年。徐世炬編著『歴代 理財人物選記中国財政経済出版社』、1983年)。. 以上、8篇の論考を紹介した。時代的には唐宋に集中しており、互いに密接に関連し合 いながらも、テーマは多岐にわたっている。いずれも経済史に止まらず、経済学史的分析 が基層に流れており、各氏の長い研究活動に裏打ちされ、深い洞察力に溢れた論文集であ る。ただ、今後の研究の発展のため、気付いた点を記しておく。各論考は、個々の問題関. 心に基づいて発表されたものだが、必ずしも研究史を整理し、共通の土俵に乗っていると は言えない面もある。評者自身の自、戒も込めて、一層建設的な議論を展開したいものであ. る。評者の力量不足から、あるいは論旨の読み違えや誤解があるかもしれない。責任は当 然評者にある。諸氏の御批評を賜りたい。. (以上、安蕪、足立、井上、小川、西岡、松田、宮薗、小西8論文の評者 小野 泰). 一87門.
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