大化前代の紀年(V)
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(2) . 大化前代 の紀年. 栗. 原. V. 薫. 平子鐸嶺氏の紀年論を評し仏教公伝に及ぶ 平子鐸嶺氏の紀年論は那河通世氏のと並んで紀年論中の白眉 である.. 平子氏は明治三十八年, 「継体以下三皇紀の錯簡を餅ず」 ( 『史学雑誌』 第十七篇第六号、 第七号) で, 継体紀以下欽明紀に至り錯簡があり, 継体紀七, 八, 九, 十年はす ぐ同紀二十-年に つづく事,. 継体崩年は古事記の丁未 ( ) 52 7 ) で, 仏教公伝は戊午 である事などを主張さ 531 , 宣化崩年は辛亥 ( れた。. 1 )で 記紀等の 私は昭和五十四年三月 「半年一年辛酉起点の紀年」 ( 『国史と国語』 二十一巻二号) , 紀年に, 辛酉起点半年一年の紀年, つまり通常の干支による紀年の辛酉の前半年を辛酉とし, 半年 を一年として, 通常の干支の順におく っ て行き, 通常の三十年 で, 六十年を一巡する干支紀年が混っ て居り, その為に紀年に混乱が生じていると論じた. 通常干支紀年と辛酉起点半年一年干支紀年と を対照表示すると次の頁の表の如く である 左側が .. 通常干支, 右側が辛酉起点半年一年干支である。 通常干支には漢字の数字, 辛酉起点半年一年干支 にはアラビヤ数字を右肩に付しておく って行く順序を示している. 通常干支の三十一 で, アラビヤ 数字の方はもとの1, 2にもどる.. 一つの辛酉起点半年一年の干支に 対する通常の干支は二つ ある 壬戎2に対し辛酉- と辛り際 とが 。 ある様に である. 一つの通常干支に対する辛酉起点半年一年の干支も又二つある 辛酉ーに対する . 辛酉1, 壬戎2の様にである. 記紀等に, 同一事件に通常干支の紀年と, 辛酉起点半年一年干支 の紀年との両方がある事例 が二 十程ある.. ここに継体紀以下の紀年の一部が辛酉起点半年一年の紀年より出た紀年だと考える事によって , 平子氏の紀年論を批判したい. まず平子氏が 「(継体紀の) 七年八年九年の 『紀』 より, 廿三年の前半の 『紀』 には 最よく事実 , の脈絡を保ち, その 『十年紀』 より直ちに 『廿一年紀』 に至りて, 中間十年ただ年次のみにして紀. 事の聞けたるは, 全く紀年の錯簡より生じたるものにして, この年数はまず除去せ ざる可らざるも のとなるなり。」 とされたのを批判したい.. 平子氏は 「継体紀の前半,その六年十二月,百済が任部国上 略劇, 下咳 剛 裟陀 牟婁四県を請う , , てきた. 大伴金村は啄剛国守穂積 臣押山の奏をよしとして, その四県を百渚に輿えた 七年六月 , . 百清は更に文貴将軍等を遣して伴肢 国に奪われたとして己 技を請うた 朝廷は十一月 になっ て 又 . , 己汝, 帯沙を百清国に賜っ た。 この月伴肢国は珍宝を献じて己汝を乞うた が許されなかっ た 八年 。 伴波は, 城を子呑, 帯沙に築いて満渓に連ね, 蜂候, 邸閣を置いて日本に備えた そして新羅を攻 ..
(3) . 栗. 辛酉- 六 丙寅. 辛未± 丙子実 - 辛 巳=. 丙戎云 辛卯三 丙申豪 辛丑ョ 丙午冥 辛亥塞 丙辰妾. 辛酉1 壬 戎2. ・ 辛 未・ 2 壬 申1. ・ 辛巳2 2 壬 午2. ・ 辛卯3 2 壬 辰3 1 辛丑4. 2 壬 寅4. 1 辛亥5 2 壬 子5. 辛酉・ 壬 戎2. ・ 辛未・ 2 壬 申1. 1 辛巳2 2 壬 午2. ・ 辛卯3 2 壬 辰3. 1 辛丑4 2 壬 寅4. 1 辛亥5 2 壬 子5. 壬戎二 丁卯と 壬申き 丁丑宅 壬午ョ 丁亥毛 壬辰≧ 丁酉暑. 壬寅塑 丁 未窒. 壬子吾 丁巳老. 発亥3 甲 子4. 3 葵酉・ 4 甲戎1. 3 奨来2 4 甲 申2. 3 葵巳3 4 甲午3. 3 奏卯4 4 甲辰4. 3 薬丑5 4 甲寅5. 葵亥3 甲 子4. 3 葵 酉1 1 4 甲戎. 3 奏未2 4 甲 申2 3 奏 巳3 4 3 甲午. 3 葵卯4 4 甲辰4. 3 葵丑5 4 甲 寅5. 原. 葵亥三 戊 辰八 葵酉ま 戊 寅大 - 発末三 ー 戊子ス. 葵 巳昌 戊戎受. 薫. 乙丑5 丙寅6. 5 乙亥1. 6 丙 子1 5 乙酉2. 6 丙 戎2 5 乙未3 6 丙 申3 5 乙 巳4. 6 丙午4 5 乙卯5. 6 丙辰5 乙丑5 丙寅6. 5 乙亥1. 6 丙 子1. 甲子四 己 巳九. 甲戎函 己卯丈 - 甲申函 - 己丑究. 甲午量 己亥受. 丁卯7 戊 辰8. 7 丁 丑1 8 戊 寅1. 7 丁亥2 8 戊 子2. 7 丁 酉3 8 戊 戎3 7 丁 未4. 8 戊申4 7 丁 巳5. 8 戊午5 丁卯7 戊 辰8. 7 丁丑1 8 戊 寅1. 7 丁亥2. 乙丑き. 己 巳9 o 庚 午l. 庚ギ 屍欝 乙亥圭 庚辰羊 - 乙酉云 庚 寅学 乙未曇 庚子甲. 9 己丑2 0 庚 寅3. 9 己亥3 0 庚子4. 9 己酉4. 0 庚戎5 9 己未5. 0 庚 申6 己 巳9 o 庚午l. 戊 申買. 5 乙来3 3 丙申6. 己酉究. 7 丁 酉3 3 8 戊戎. 庚戎羊. 奏丑蓋. 5 乙 巳4 4 丙午 6. 甲寅喬. 7 丁 末4 4 戊 申8. 乙卯蓋. 9 己酉4 5 庚戎0. 己未麦. 7 丁 巳5 5 戊午8. 庚 申辛. 9 己未5 6 0 庚申. 5 乙卯5 6 丙 辰5. 支と 通 常 干 支 との 対照 表. 9 己丑2 3 庚寅 0. 甲辰窟. 戊午芙. 年 一 年干. 9 己卯1. 5 乙酉2 2 内戎6. 乙 巳望. 起 点半. 0 庚 辰2. 葵卯里. 8 戊 子2. 辛酉. 9 己亥3. 0 庚 子4. めた. 九年二月, 百清使者文貴将軍が帰国するのに副えて物部 連(百渚本記には物部至々 連とある) を遣した。 彼は舟師五百を率いて帯沙江に至っ た. 所が伴破が攻めたので, 物部連等は逃れて汝 慕 羅に泊っ た. 十年, 百清は物部連等を迎え, 更に特部連等の帰国に州 利卸次将 軍を遣して, 百清 に己技を賜っ た事を謝したとある. 所が又十数年後の継体紀後半の 二十三年の条に, 百渚王が下多 劇国守穂積押山臣に 『加羅の多沙津を得て朝貢の津路としたい。』と望んだので, 穂積押山臣はそれ をとりなした. そこ で三月物部伊勢連父根を遣して, 多沙津を百清王に賜っ た. 加羅王は多沙津は 臣の朝貢の津渉だと抗議したがいれられなかった. そこで父根は大島に却き退って, 別に録事を遣 して, 百済に賜っ た. そこ で加羅は新羅と結んで日本に 怨をなすに至っ たとある. (大意)」 と問題 の発端を取り 上げられた. 平子氏はついでこの 二群の記事について次の様に論ぜ られた. 多瞬 り国守に, 十七年後の二十三年になって猶日本人の 継体六年, 百清に賜 っ た四県の一つの= 多剛国守穂積臣云々の事は, 何らかの錯誤 穂積臣押山がついているのはお かしい. 二十三年紀の下= ①. に 出 て いる の は 明 白 だ.. ②. 七年紀の帯沙と, 廿三年紀の多沙津とは, 共にタサで, 同一の地でなけれ ばならない. どち.
(4) . 大化前代の紀年. らも加羅の要津である. その同一の地を, 七年と二十三年と二回重ねて賜っ ているのはおかしい . ③ 九年紀の物部至々 (チチ) 連と二十三年紀の物部伊勢連父根 (チチネ) は同一人物で 己技 , , 多沙を賜る為に遣されたの である. 伴肢は己技を百済に賜 った為 加羅は 多沙を百清に賜った為 , , 共に怨を我国に結んで, 使人物部連を追っ た事情が, 前後十数年を隔てて 別箇に録されたもの で , あるのが明瞭 である.. ここに①, ②, ③によって 「七年八年九年の 『紀』 より, 廿三年の前半の 『紀』 には 最もよく , 事実の脈絡を保ち, その 『十年紀』 より直ちに 『廿-年紀』 に至り 中間十年ただ年次のみにして , 紀事の開けたるは, 全く紀年の錯簡より生 じたるものにして この年数はまず除去せ ざる可から ざ , るものなり.」 とされた。 3 4 5 6 今継体紀七年 (奨巳3 ) 八年 (甲午3 ) 九年 (乙未3 ) 十年 (丙申3 ) をそれぞれ辛酉起点半年一年 紀年とすると, 上述対照表によって, 通常紀年は七、 八年は共に丁未窒 (二十一年) 九 十年は共 , , 6 に戊申買(二十二年) となっ て, 継体十年 (丙申3 ) を辛酉起点半年一年の干支とみると, 通常紀年 の継体二十三年(己酉兇 )のすぐ前にくるの である. 自然継体天皇六年の百済への四県賜奥も通常 の ) 紀年では継体二十年の事とみてよい2 。 結局平子氏 が錯簡と考えられたのは, 辛西起点半年一年の干支を 通常紀年の干支と間違えて , , 継体天皇の何年という数字紀年にした為に生じたのである .. ここにこれら継体紀の紀年の辛酉起点半年一年の紀年と 考えられるものを通常紀年に直すと 任 , 那が半ばを新羅に奪われる結果となった廿一年紀からの任那の兵乱は, 二十年の任那四県の百清へ の賜典よりひきつづいておこなった事件である事, 筑紫国造磐井の任那に呼応しての反乱も 四県 , 賜典にすぐつづく事件 である事になる. 継体二十-年紀からの任那及 び九州の兵乱が四県賜典等を } 不満とする兵乱であった事は間違いない3 。 7とされた事について論じたい ついで平子氏が継体崩年を古事記によって丁未4 . 平子氏は単に継体紀末年の条に, 二十五年 春二月, 天皇病甚 丁未 天皇崩二千磐余玉 穂宮- と記 . . , してあるが, 紀の筆法は, 日次を記すに当り, すべて朔日の干支をあげているのに ここはあげら , れていないから, これは丁未年天皇崩御という古記 があっ たのを, 漫然二十五年の下に そのまま , 採録したの であろうと信んずるとされた. 7を辛酉起点半年一年の紀年とすると 通常紀年は甲寅喬となり 継体紀二十五年崩 さてこの丁未4 , , 御記事注の或本云, 天皇, 二十八年歳次甲寅崩の甲寅となるの である . 平子氏が継体崩年を丁未とする理由にあげられた継体二十五年紀記事の丁未は平子氏のいわれる 7と考えて何の支 障もないのである 様に丁未年であっても, これは辛酉起点半年一年干支の丁未4 。 4 7 古事記の継体崩年丁未 は辛酉起点半年一年干支 で, 通常に直して甲寅茜( ) となるべきであ 5 34 る。. {平子氏のいわれる古事記崩年干支は大いによるべきではあるが, それは古事記崩年干支の一部 (崇神崩年戊寅, 成務崩年乙卯, 仲哀崩年壬戎, 允恭崩年甲午, 雄略崩年 己巳, 継体崩年丁未 )を , 辛酉起点半年一年紀年とみた場合 である.(敏達崩年は除く)私はその事を「大化前代の紀年1 『北 1」(. 海道教育大学紀要』 第3 2巻2号) などで発表した.} 7が辛酉起点半年一年の紀年 で 通常干支は甲寅喬とすると 継体崩年は継体 古事記継体崩年丁末4 , , 紀本文の二十五年 (辛亥) か, 書紀注或本云の二十八年 (甲寅) のどちらかという事になる 平子 . 氏の通常紀年としての丁未 (二十一年) は成立たなくなる. 又平子氏は継体二十三年 (己酉) を安閑崩年, 継体二十五年 (辛亥) を宣化崩年とされた 。 それは継体二十八年 (甲寅) か二十五年 (辛亥) のどちらかが継体崩年だとすると成立たなくな.
(5) . 栗. 原. 薫. る.. 平子氏は又『法王帝説』の志帰島天皇治天下四十一年(辛卯年四月崩. 陵槍前坂合岡也.)によって 辛卯 ( ) の41年前の辛亥を欽明元年とし, 辛亥を宣化崩 年とする場合合うとされたが, 辛亥又 571. は甲寅が継体崩年では, その辛亥を宣化崩年とする事は出来ない. 平子氏は又「大臣巨勢 (雀部) 男人の莞去が, 『継体紀』 では廿三年九月 であるが, 後宣化天皇の 元年に至り, 蘇我稲目の大臣に 任ぜられるまで, 中間六年, 紀にはただ大連をあ げて, 大臣を欠い ているのはおかしい. しかるに 『続日本紀』 天平勝宝三年 二月の条に,(甲寅朔)己卯,典膳正六位下 雀部朝臣真人等言, 磐余玉穂宮 (継体) , 勾金椅宮 (安閑) 御字天皇御世, 雀部朝臣男人為二大臣- 供奉云々 とあって, 男人の大臣は明らかに継体, 安閑の 二朝に歴事したと言っ ている. 継体紀の 二 十三年, 大臣男人莞去は安閑紀中 が事実であるのは最早 疑をいれない. 丁未継体崩御, 安閑即 位後 も, 大連は魚鹿火, 金村, 大臣は男人並に故のごとく で, 安閑は在位二年, 崩御は男人と同じ己酉 であったろう. その翌庚戎正月宣化即位され, 二月蘇我稲目が大臣となった. 続紀の男人二朝歴事 を骨子とし, 継体紀男人己酉藁の干支に係けて安 閑の紀年をきめ, 宣化元年稲目の新任を以て干支 に拘らず, 安閑崩年の翌年 (即男人莞去の翌年) に見ると, 継体, 安閑, 宣化三皇紀の紀年はよく 合う.」 とされた. 9 ) を辛酉起 点半年一年の紀年とみると, 通常紀年は乙り陰 (安閑二年) ここに継体 二十三年 (己酉4 となり, その年男人莞, 翌宣化元年蘇我稲 目大臣となるで, 続紀と紀との矛盾が解消する. 又紀の 男人莞去から六年間も大臣がいなかっ たという問題 も解決する. 9を通常紀年と間違えて 元来安閑二年(崩 つまり書紀は男人莞去の辛酉起 点半年 一年の紀年己酉4 , 年, 乙り瞳)の事件だっ たのを, 六年前の継体 二十三年の所に入れて しまったの である. そう解する ) が実は安閑崩年だっ たという事にはならな と, 平子氏の解かれる様に, 紀の継体二十三年 (巳酉更 い の であ る.. 9 7と継体紀男人莞去の 二十三年 (己酉4 ) は辛酉起点半年一年の干支 結局古事記継体崩年干支丁 未4 ) 崩の甲寅喬及び, 安閑紀 二年(乙り陰)の乙り畦 であって, 通常に直すと, 継体紀注二十八年 (甲寅喬 であって, 平子氏の丁未継体崩御, 己酉安閑崩御, 辛亥宣化崩御説は 成立たなくなる. 更に平子氏の仏教公伝戊午説を批判したい. ) と, 『法王帝説』 の 『法王帝説』 平子氏は先にあ げた欽明御字四十一年 (. 志葵島天皇御世, 戊午年十月十二日, 百渚国聖明王, 始奉 度二仏像経教並僧等- , 勅授二蘇我稲 目宿祢大臣-令二 興隆-也. によっ て, 欽明天皇戊午年を仏教公伝の年とされた. しかし継体天皇丁未崩, 安閑天皇己酉崩, 宣化天皇辛亥崩がくずれては, その線からの欽明 天皇 辛亥即位は出てこない. 欽明治世四十一年をとると, 欽明即位は辛亥となる. しかるにその辛亥即 位が成立たないのであ るから, 法王帝説の欽明御宇四 十一年は疑わしくなる. かくては, 欽明時代, 戊午仏教伝来は, 力 の 弱 い 主 張 に な っ て しま う の であ る.. 辛酉起点半年一年の紀年を利用 しては, 仏教公伝についてここま でしか言えない. 唯多少考えがあるので記して 付したい. 『歴史地理』 第五十二巻第一号 「継体天皇以下三天皇皇位継承に関する疑問」 で喜田貞吉氏は,. 「やはり他の多くの日本紀の紀年に関する考説と同様, 単にそうあるらしいという以上に, 断定的 威力に乏しいの感が無いでも ない. のみならず, 同君 (平子氏) は日本紀紀年の不信を訴ふるに急. に して, 何故に其の矛盾を生ずるに 至ったかについての観察に 欠くる所があり」と平子氏を批判し,.
(6) . 大化前代の紀年. 欽明天皇と, 安閑, 宣化両天皇との二朝並立 説をたてられた 喜田氏は二つの紀年の並立 という形 。 で, 史料の重出を解こうとされたの であるが, 二朝並立を直接証明する史料が何らない だけに や , はり確実な事実の上に立脚しているとは認め難い . 喜田氏説を発展させた林屋 辰三郎氏は「継体, 欽明朝内乱の史的分 析」『ふたたび「継体 欽明朝 , の内乱」について』 ( 『古代国家の解体』 ) で, 内乱の為二朝並立があったのだとされた しかし内乱 . を直接証明する史料が全くない等の弱点がある . 私は記紀紀年の矛盾がなぜ生じたかを, 辛酉起点半年一年紀年 でかなり解いたのであるが 仏教 , 公伝の紀年については辛酉起点半年一年 では十分には解けないの である . まず書紀本文継体崩年の辛亥について論じた い .. これが百済本記の大歳辛亥三月……又聞, 日本天皇及太子皇子 倶崩莞に依っ たもの であるのは , , 書紀に注記してある通りである. 百清本記と記紀を比較 してみると, 継体天皇の太子は安閑天皇であるが 倶に莞ぜられる所か , , 次の天皇となられたし, 又他の皇子が倶に薬ぜられた記録は全くない .. ここに北醜をみると 「武泰元年 ( ) 四月, 掲族の爾朱柴が, 孝明帝を殺した霊太后 次にたて 528 , られた幼帝以下を殺し, 孝荘帝をたてた. しかし孝荘帝は その爾朱祭を殺したの で 永安三年( ) 530 , 十二月, 怒っ た爾朱一族が反して京城を襲い孝荘帝以下をとらえ 三日より二十三 日にいたる間に , , 帝, 皇子, 臨准王, 苑陽王, 陳留王を殺した 」 ( ) . 『魂書』 当時百清と北魂との間には国交がなかっ たので, 風聞として翌5 31年 (辛亥) に伝り, その紀年 の下に又聞位にして記録されていたのではあるま いか 百済は南朝梁に朝 貢していたの で 北魂 の . , 孝荘帝を帝とは書かず, 北朝の皇帝 がしばしば使っ た天王と書いたの ではあるまいか 北魂とも何 。 ともせず唯天王と 書いてあっ たので,後になって日本の天皇と間達われて 百渚本記の日本天皇云々 , と な っ た の であ ろ う.. ここに平子氏が 「継体以下三皇紀の錯簡を糟ず」 を書かれた後, 世間に出た 『元興寺伽藍縁起』 の斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭 (欽明) 天皇御世, 治天下七年歳次戊午十二月 (仏教) 度来と , さきの 『法王帝説』 の欽明天皇御世戊午仏教伝来とについて考えてみたい . この欽明七年, 欽明御世と戊午は元来別々 の記録だっ たのが, 後から傍記されたもの が本文に組 込まれたか, 或は二つの史料が良く 考えずに集め結びつけられたのであろう . 考えてみると, 何度もくりかえして, 百済からの働きかけがあって その何回分かが集められて , い る の であ ろ う.. まず欽明紀十三年の仏教伝 来記事をみると, その年壬申( )の出来事としてしか理解出来ない 552 内容を持っ ている. それは渡来したものに, 金銅像-躯 がある事である それは西蕃献仏相貌端 巌 . といわれ, 仏像が端巌だっ たので受容されたのである . 欽明紀六年, 百清は丈六の仏像を天皇の為に作ったがそれなりになってしまっ た 元興寺伽藍縁 . 起の欽明七年仏教伝来は, この仏像が翌年欽明七年伝えられた事件だが 仏像の出来が悪くそれ程 , 我国の関心を引 かなかったのであろう.. 佐藤智水氏が 「北朝造像銘考」( 『史学雑誌』 第八十六巻十号) で, 南北朝時代の仏像 (彫刻) の. 遺存するものは, ほとんど北支に限られているとされた . そこで我朝廷で受容された仏像 (彫刻) は北朝より得たとしか考えられない 所が魂への百済の . 遣使は, 472年以後なかっ た. 太清三年( ) 549 , 梁に 侯景の乱がおこって百清の使が囚執された. そ の翌大宝元年 ( ) 東魂に奮 が代るや, 百渚王隆 (聖明, 55 550 4莞) は使を八十年ぶりに遣した。 (北 史) これは自ら作ってうまくいかなかった仏像 (彫刻) を求めるという目的もあったと思われる.
(7) . 栗. 原. 薫. )の方 でなければならない. 55 2 その仏像 (彫刻) がもたらされたのだとすると, それは欽明十三年 ( 金銅像一躯とは彫刻に違いないからである. 戊午の方は, 法王帝説には仏像とあり, 元興寺伽縁起には太子像とある が, どちらも書像であっ. ても差支えない. ) 百清は梁中大通元年 ( 534 , 梁にはじめて浬築等経義, 工匠, 書師等を求めて,それを給された. 戊午 ( ) に伝ったものはその時百漬が得たもの で, 仏像は書像だっ たのだと 思う. 5 38 ) のそれぞれに, 百清から働きか 2 ) と, 欽明十三年 ( 55 ) と, 欽明七年 ( 5 46 538 つまり, 戊午 (. けがあっ たが, 戊午や欽明七年のは, 我国ではさ程関心を引かなかっ たのである. 欽明十三年に至っ てその金銅仏が我国の興味を引きおこしたのである. そこ で我国の朝廷には 欽明十三年のが記録に. 残っ たのである. 一方百渚は戊午の時, 力を入れて行っ たので, 戊午のが重視され, やがて我国に 根を下した仏教界でも, 百清よりの伝来であっ たから, 最初の公的伝来として戊午が重視され, 記 録に残っ たものであろう.. 法王帝説や元興寺縁起のは, それら度重なる伝来の史料が混っ て出来上ったものと 思う. 書込み が本文化する事は時にある事である. 又法王帝説の, 欽明天皇治世四十一年は, 史料が混合して出来上っ た欽明七年戊午より逆算して 得た壬子 ( ) 欽明元年を, 百渚風の当年称元 (前王莞去の年が新王の元年となる. 我国のは天皇 532 崩御の年の翌年が新帝の元年と なっていた) に直して算出したもの である. 結論として継体崩年としての 辛亥は北 魂の事件が誤り伝えられ, 誤って採用さ れたもの で甲寅. ( )が正しい. 又仏像伝来は戊午にもあっ たし, 欽明十三年壬申に もあったが, 我国に影響をあ 5 34 たえ, 我国で問題にされたのは欽明十三年の方である. 戊午の方は百湾や仏教界で重視されていた. と思われる. 1巻第2号, 所収) 『北海道教育大学紀要』 第3 註1) 拙稿 「大化前代の紀年」 ( 3 6ペー ジ 『文化史学』 第35号, 所収) 注1, 232ペー ジ --2 拙稿 「上代天皇の長寿について」 ( にも概要を述べてある. 註2) 平子氏は又, 『継体紀』 廿年の条に 秋九月丁酉朔. 己酉. 遷二都磐余玉穂- . (一本云七年也). とあるのをあげ特に理由をあげずに一本御宇世七年の説はこれ尤事実なるべしとされた. この記事は 『扶桑略記』 にもあっ て, 唯紀年は継体二十一年になっている. 3 ) を辛酉起点半年一年の紀 年とすると, その通常紀年は丁未望(継体二十一年) 継体七年 (葵巳3 となっ て, 『扶桑略記』の二十一年の方をとると, 七年は全く別の紀年ではなくて, 同年をさす異種 の紀年という事になる. したがっ て七年も 二十一年も どちらも事 実で, 通常年としては七年の方 で. はなく, 二十一年の方を生かさねばならぬという事に なる. 註3) 扶桑略記には. 廿一年丙午九月, 遷二郡大和国磐余玉穂宮- . 廿二年丁未. 兵伐二新羅- . 廿三年戊申九月. 大臣許勢男人莞. ○十一月. 定二西土彊場- . とある, この連続した記事は, 男人薬を除いて, 紀年が書紀より一年づつくり上っている.. そして略記廿二年 兵伐 二 新羅‐は書紀の廿 一年六月, 近江毛野臣が任那に渡ろうとして, 筑紫 国造磐井にさまたげられ中途で掩滞 したとあるのに当る. しかるに継体紀廿四年秋九月の条に, 毛野臣が久斯牟羅に掩留二歳, 一本云三歳者, 連去来歳数 也とある. そして毛野臣は廿四年帰路対馬で病死をしている. 三年というのは廿二年からで, 去来.
(8) . 大化前代の紀年. 歳というから, 継体紀年廿一年の記事は, 実は廿二年 で, 扶桑略記の紀年の方が正しいという事に なる. 扶桑略記は 書紀稿本の様なものから引いたのであろうか. 書紀は最終的に, 廿三年の所にそ れまでの朝鮮関係記事をあっめ, 磐井平定はそれ以前の事として, 元来廿三年の所にあっ たのを- 年くり上げ, それにおされて関連記事その他を一年づつくり上げたのである.. 継体紀七, 八, 九, 十年を辛酉起点半年一年の紀年とみると, 通常紀年は上述した如く, 七, 八 年は二十一年九, 十年は二十二年となる. すると物部至々連が舟師五百をひきいて任那に赴いたの は, 二十二年の事となる. 六月その後を追っ て, 衆六万をひきいて朝鮮半島に出兵した近江毛 野臣 は, 背後を磐井が突いたの で苦境におちいり, 磐井は翌二十三年に平定されたが, 任那にま で十分 手が廻らなくなっ て, やがて任那の半ばが新羅に合される事になっ てしまっ たのである .. 太田亮氏の紀年論を評す 太田亮氏は昭和三年五月, 『日本上古史新研究』 を出し, 書紀の紀年を旧史の如く干支に復して , 支那史籍並びに朝鮮史籍に比較してみると, ほとんど一致して違ってはいないとされた しかし殆 . ん ど では 駄 目 な の であ る。. 太田氏は, 古事記崩年干支を重んずる人が多い中で, 古事記崩年干支は一部を除き書紀成立以後 作られたものとして排除し, 書紀の大歳干支を重んぜられた.. 太田氏が復活された紀年を, 私の修正紀年と比較してみたい . まず太田氏は, 雄略崩年を, 例外的に古事記雄臨崩年己巳をとって489年とされた そして書紀 . の雄略治世二十三年をとって, 丁未 ( ) を元年とされた. 467. 又太田氏は, 「雄略紀九年 (壬寅, 46 ) 条, 夏四月, 呉国使を遣して貢献すは, 宋書に大明六年 2 三月倭国王世子興 ( 462 ) に爵号を授けたとある年で, 宋書には出てないが, 宋の国使が授爵の為 , に来朝したのである. この授爵は宋書大明四年 ( ) 十二月丁未, 倭国使を遣し, 方物を献ずとあ 460 るのに応ずるもので, 安康天皇は即位前に世子として使を出し, その年十二自己巳朔壬午 (書紀) 即位されて, その翌年四六一年が安康元年で, 書紀によると (治世三年をと ると) 奏卯 ( )崩 46 3 御となる. その後の三年は, 安康崩御, 眉輪王の伏課, 諸皇子の遭難, 大迫瀬市辺両皇子の対立な ど内乱が三年に互っ たとみるべき である. 安康紀三年条に, 秋八月甲申朔壬辰, 天皇眉輪王の為に 方々, 三年後, 乃ち菅原伏見陵に葬り奉るとあ るが, 三年後の大葬は内乱三年に互っ た事を表して. いると思う.」 (大意) とされた. ここに古事記雄略崩年己巳9を辛酉起 点半年一年の干支とみると, 通常干支は乙丑五 となり, 485 年となる. それより書紀の雄略治世23年をとると, 雄略元年は463年となり, 462年, 興受爵の年. を安康三年とすると, 元年は4 60年, 宋書倭国遣使の年となる. つまり安康治世は太田氏復活のよ り一年くり上るが, 漢史との間には矛盾がない.45 9年允恭崩御, その年安康即位前に宋への使者が 出発し, 翠46 0年, 安康元年になってその使者が宋に遅したとみればよい.. すると私の修正紀年{拙稿「大化前代の紀年1 1」 ( 『北海道教育大学紀要』 ) を参照されたい}では, 允恭崩年より雄略崩年ま で, 書紀紀年より六年おく れて平行している事になる その修正紀年では , , 太田氏の様に無理をして安康即位前に空年一年,安康崩御後に内乱期の三年をとる必要はなくなる . 安康天皇を陵に葬るのに三年かかったのは, 大葬が遅れたの ではなく, 雄略初政が不安定だっ た為. に陵の築造が遅れただけである. その間内乱を考える必要はないのである. 太田氏が, 書紀の允恭奏巳1( 45 ) 崩御, 翌甲午冨安康即位が事実だとすると, 宋書の世子興が 3.
(9) . 栗. 原. 薫. ) が允恭の 459 ) の前年 己亥叉( 460 七年つづいていた事に なるので, 世子興が宋に使を遣した庚子 ( .思う. 崩年であろうとされたのは正しいと 太田氏は更に 「応神紀庚午四十一年, 呉へ出した使が帰っ たとあるのと, 仁徳紀庚午五十 八年, 430 ) 43 0 呉国と高麗国が来貢したとあるのは, どちらも庚午十( , 倭国王 , 庚午) , 宋文帝元嘉七年( 使を遣して方物を献ずとあるのに 一致する. それより考えると応神紀, 仁徳紀の此記事は有力 なる 史料より得たものであろう. そして応神 紀四十一年条には, 使が武庫に帰り着いた時, 天皇が崩ぜ ) は, 又仁徳天皇崩年である. (大意)」 とされた. 430 られたとあるので, 庚午 ( 応神紀, 仁徳紀の同じ庚午の 歳の遣使及び来貢記事が, 同一事件をのべたものだというのは正し . oを辛酉起点半年一年の紀年とすると 通常紀年は乙丑五 で, この場合425年とすると( 365 唯庚午l , ) 二年讃遣使と一致する なくの意 5年で 年や, 48 , 宋書元嘉 . ) 説とどちらをとるべきであろうか. 430 太田氏の元嘉七年 ( 太田氏は百清王の莞去記事と同じく, 百渚系史料より出ている紀年とされた. しかし書紀をみる と, この遣使は百渚を避けて高句麗を利用 して行われ, 我国への使者も呉 (宋) のと共に高麗のが 来ている. その様なのが百渚系史料より出ているとは思われない. したがっ て干支 二運くり上げて,. 4 30年 (庚午) にする訳にはいか ない. もとより高句 麗系史料が使われた痕跡もない.. この記事は人名 表記その他より見ても, 国内史料より出ている. 応神紀, 仁徳紀の国内史料より 出ているもの で, 確実な対応史料の あるもの, 又はそれに準ずるものを見ると, 皆辛酉起点半年- 年の紀年 である. その例は以下の通りである. (対呉通交記事は 除く) 5 3 ) 秦氏帰化記事. 神功紀六十 二年注 『百清記』 壬午三記 ) 十六年 (乙巳4 1 応神紀十四年 (奏卯4 『北海道教育大学紀要』33券2号)} V」 ( 事に対応. {拙稿 「大化前代の紀年 I. 2 仁徳紀四年課役免除, 仁徳紀十一年難波堀江等築造, 仁徳紀十二年高麗来貢. 応神紀七年韓. 人池築 造. 4例共に 好太王碑に対応 (拙稿, 1と同じ) 3 壬申± 432 ) も辛酉起点半年一年の紀年である. (拙稿 「大代前の 又隅田八幡鏡銘 紀年 (葵未2 , ,. 『北海道教育大学紀要』32巻2号) 1」 ( 紀年 1 0 )と 42 5 ) も辛酉起点半年一年, 通常に直し乙丑5( そこで呉への使節帰国の応神四十一年 (庚午1 み る べ き であ る.. 又応神紀37年より41年に 至る呉への遣使は, 半年一年で五年 (通常 で二年半) もかけ高句麗を 道案内としたの であるか ら, 呉への最初の遣使と 思われる. 坂元義種氏の 『倭の五王』 によると, 413 ) の倭国の晋への朝貢は, 邪皮, 人参を献上品として居り, 倭国の朝貢では 『晋書』 義無九年 ( ) の関連記事には詔 書の 421 ない様である. (どちらも倭国の産物ではない) 又 『宋書』 永初二年 ( 内容があるだけで, 遣使の記事はない. 坂元氏は同書で, 『南史』晋紀に永初 二年, 倭国遣使朝貢と あるのを, 『宋書』にはないが, 何らかの依拠史料があっ て, 著者李延寿がのせたのだろうとされた. しかし 『南史』 は唐代の成立なので, その依拠史料が信用出来るものだっ たか どうかは 必ずしも保 )の遣使が最初の遣使と 425 証の限りではない. 永初二年の遣使がなかっ た事になると, 元嘉二年 ( 次の遣使なので, 二度目 庚午 ) ( の遣使はその ある 4 0年 3 なる. これは 『宋書』 に遣使を明記して . 1 ) の方が, 応神4 425 ) の方ではなく, 元嘉二年 ( 4 30 の遣使と なっ て具合が悪い. 結局元嘉七年 ( 年 (庚午) の遣使に対応している とみるべき である. 0年 (元嘉七年) とする説は退けるべき であろう. 結局太田氏の, 応神紀の呉への遣使を43 太田氏は, 先に触れた允恭天皇の 真の崩年己亥が又書紀の仁徳崩年の干 支 であるから, これは允.
(10) . 大化前代の紀年. 恭崩年を仁徳崩年と間違 えたものであろうと考えられた 更に各天皇の元年等の大歳干支を重視 し . , かつて古記録による各天皇元年等の大歳を それ以前の天皇の元年等に移したものとさ れた , 。 例えば雄略紀大歳丁酉は 継体元年丁酉 ( ) 517 ) 532 , 允恭紀大歳壬子は欽明元年 壬子 ( , 反正紀 大歳丙午は雄略即位の丙午 ( 466 ) 4 ) 60 , 履中紀大歳庚子は安康即位庚子 ( , 神功摂政紀元年大歳辛 巳は, 允恭元年 辛巳 ( 44 1 ) より移されたものとさ れた. しかし私がかつて「大化前代の紀年 1 1」 (前出) で論じた如く, 古事記崩年干支の一部を辛酉起 点半年一年の紀年とみれば, つまり私の修正紀年に依れば 記紀の紀年が一致するのであるから , , 書紀の各天皇元年の干支の如きは, 書紀編纂者が古記録の干支をいれかえて作っ た様なもの ではな い. 書紀は, 古事記崩年干支より出てきた紀年を何々 天皇の何年と教字で表した が 間々各天皇治 , 世間に 空年があったりするのを,その天皇の元年の干支を記す事 で明らかにし その干支を大歳何々 , (干支) としたに過 ぎない 後世の天皇の元年大歳を移して大歳とした様なものではない . 。 例えば, 履中天皇大歳庚子は, 古事記仁徳崩年丁卯七 ( ) と, 同応神崩年甲午冨( 427 ) との間 394 三十三年 (仁徳治世) を, 半年一年の年数に直した66年に 紀の允恭崩年発巳1と 私の修正允恭 , , 7との差 1 崩年己亥弄( 45 9 ) の辛酉起点半年一年の干支丁丑1 6年 (書紀は允恭崩年発巳以前は 半年一 年, 奏巳以後は通常 である. 唯その接続はあたかもその様な断絶がないかの如く行われている そ . の様な別々 の紀年だと言う事を全く知らない者 の手で 唯辛酉起点半年一 年紀年の方 が16年くり , 上っているのをみて,16年引き下げて単純に接続させ てしまったのである そこで書紀の允恭以前 . の紀年は真の紀年より, 原則的に16年くり下っているの である 唯応神紀 仁徳紀に多数みられる . , 辛酉起点半年一年の紀年の如く, そのまま記されていて16年元に戻す必要のないものもかなりあ る) 及び, 記の反正崩年丁丑モ( 437 ) と履中崩年壬申±( 432 , 反正, 履中共に私の修正紀年) より 出した反正治世5年と,その半年一年の年数1 0年との差5年を加 えて87年となる紀の仁徳治世を , 記応神崩年 甲午冨(私の修正紀年, 辛酉起点半年一年干支 で丁卯7 戊辰8 ) に, 履中の古事記治世年 , 七 427 数5年 {履中崩年壬申±( 432 ) )} を半年一年とした10年より, 紀の履中治 , 仁徳崩年丁卯 ( 世6年を引いた4年を加えた次の年たる奨酉 (紀の仁徳元年) よりとっ た己亥の翌年と言うに過ぎ. ナ し、 .. 太田氏は, 先に述べた大歳についての考えにより 珍しく元年大歳 でない (4例あるのみ) 神功 , 三十九年に是年也, 大歳己未とあるのを 元来は何れかの天皇の元年大歳に違いないと考え これ , , を応神元年とさ れた. そして同じく神功紀六十九年の 是年也 大歳乙丑を応神崩年とされた , , , しかし私の修正紀年 では, 古事記崩年甲午冨( 394 ) で, 記紀は一致し, 漢史や好太王 碑ともうま く合うの で, 太田氏の様に考える必要はないのである . やはり神功三十九年は, 書紀の注にある様に 景初三年に当り 倭女王が遣使した年 であり 69 , , , 年は三韓経営のはじめを開いたの で特記すべき皇后の崩ぜられた年なの で 特に大歳干支 を付した , の であ ろ う.. 太田氏は更に愛用の記事のない年を削るという方法 で 神功摂政元年を考えられた 太田氏は , . , 神功紀は十三年の後に直ちに冊九年の大歳をのせているのを見れば もと冊九年 (己未) は十五年 , だったのではあるまいかとし, 神功摂政元年を乙巳 ( ) とされ, その翌丙午 ( 345 34 ) には, 三国 6 史記に倭兵弾至二風島- 抄 掠辺戸 三 金城 又進園 急攻云 々の記事があるのが, 神功皇后新羅征 - , 二 - , 伐ではないか, 彼我の国史, 一致する事驚くべき であるとされた . しかし記事のないというだけ で引延された期間と言う事は必ずしも出 来ない 史料がなく て記事 . を書き様もない場合も考えられるからである 又三国史記新羅本紀の記事は 南朝に継続的な朝 貢 . , を始めた六世紀以前のものは, それだけでは信悪性 がない 殊に四世紀となるとそう である つま 。 ..
(11) . 栗. 原. 薫. り太田氏は十分 な史料なしに345年とされたのである. ここに私の修正紀年では, 古事記仲哀崩年壬戎2を辛酉起点半年 一年の紀年とする通常紀年の辛 ) である. これは紀の仲哀崩年とも, 允恭以前の16年のずれを修正すると, ほぼ一致する り醇( 331 だけでなく, 好太王碑とも 一致している. (倭以辛卯年来渡海破百残……) 私の修正紀年によるべき である. 太田氏は更に仲哀元年大歳について,書紀 では仲哀帝は 二年より八年まで穴門豊浦宮に居られたと. なっ ているが,六年又は七年 もの間,何の為に穴門に居られたかを解する事 が出来ないとし,二年発 9だったのが 一方の干支が他といれかわって別々の干支 9とは 元来どちらも己卯1 3と八年己卯1 酉1 , , となっ たのだろうとし, 仲哀治世は, 仲哀紀の元年, 二年 (8年) , 三年 (9年) の三年だっ たので はあるまいかとされた. しかし私の修正紀年 (古事記崩年干支) は, 成務は乙卯, 仲哀は壬戎が崩 年で, 仲哀治世は7年である. 乙卯, 壬戎に辛酉起点半年一年干支なので, 通常の年数では3年半 と な る の で あ る.. ) 17 5 ) は, 雄略朝の如く10年くり上っ ていて, 実は丁酉 ( 50 7 又太田氏は 「H継体紀大歳丁亥 ( 0年程であるからうま で, 崩御は古事記にしたがっていても, 吉田東伍説の如く重複を匡せば実紀1 く合う.」とされた. しかし古事記継体崩年丁未は辛酉起点半年一年の干支で, その通常紀年は書紀 )である. したがって継体天皇の崩年は, 継体二十五年辛亥か, 34 5 注或本廿八年歳次甲寅崩の甲寅( 継体 二十八年甲寅かのどちらかであっ て, 丁未は甲寅の辛酉起点半年一年の干支で, 甲寅と同じ年 であるから, 通常紀年に混えて丁未を取る訳にはいか ない. ) を安閑元年, 書紀によって安閑治世二年をとって己酉 8 52 したがっ て太田氏が, 丁未の翌戊申( 431 )日本天皇及 太子皇子倶崩莞の天皇を宣化ととっ )を安閑崩年, 書紀注百清本記, の辛亥( ( 529 て, 辛亥宣化天皇崩御, 法王帝説によって欽明元年 をその翌年とされた事は皆間違いという事にな る.. 0を取っ て,68年を治世にしたのだろうとされた が, 又太田氏は崇神天皇の古事記宝算168の10 これは逆に治世より宝算を出したものの様に思われる. 太田氏は「大歳並びに崩年に関する古記録の多くは, 単に天皇とのみありて, 御名を載せてなかっ. たのではなかろうか. 即ち応神紀四 十一年条の 『天皇崩二千明宮』 , また継体紀 二十五年条の 『或本 云, 天皇廿八年歳次甲寅崩』 の如きものが多かったのであろう. 而して外国史籍に至っては勿論百 清本記に 『大歳辛亥三月, 云々, 又日天皇及太子皇子倶崩莞』 とあるが如きものであっ たに違いな い. そこで書紀は自由に 大歳崩年を他に移し, 干支を変えず, 天皇を置き換える事で年代を延長し た の で あ る.」 と さ れ た.. しかし上述した所で記紀の 干支はお互によく合って居り, それは又漢史とも合っ ていて, 太田氏 の如く, 書紀の大歳が他の天皇の下に自由に移されているという事は困難である. 結局太田氏の修正紀年は, 応神紀四十一年の呉への使節帰朝と仁徳紀 五十八年の呉, 高麗の来貢. 62年の興授 462 とが同一年の 一連の事件とされた点, および雄略紀 六年 ( , 壬寅) の呉使来献が, 4 他は誤り が正しく である. 己亥 59年 ( ) とされた点 爵に連る事件とされた 点, およ び允恭崩年を4 ,. 三. 山本武夫氏の紀年論批判. 山本武夫氏は, 『日本書紀の新年代解読』 で, 半年を一年として新 しい修正紀年を出された. ) にとって, それ以前の書紀紀年を半年一年と 彼は安康崩年を, 宋書世子興授爵の462年(壬寅豊 10.
(12) . 大化前代の紀年. し, 書紀紀年を半減して新紀年を出された. ただ書紀紀年が越年称元 (前帝崩御の翌年が新帝元年 となる) なのを, 韓風に当年称元 (前王莞年を新王元年とする) に変えて計算して居られる (韓史 . でも三国遣事は越年称元である.) 山本氏の修正紀年を表示すると 仲哀崩. 346年 (丙午). 神功崩. 37 1年 (辛未). 応神崩. 391年 (辛卯). 仁徳崩. 435年 (乙亥, 又は4 36年丙子, 仁徳元年は392年壬辰又は39 3年発巳) 438年 (戊寅). 履中崩 反正崩. 441年 (辛巳). 允恭崩. 461年 (辛丑). 安康崩. 462年 (壬寅). 雄略崩. 484年 (甲子). 神功治世は別の計算になっている. 仁徳元年と允恭元年は書紀紀年 でそれぞれその前に空年が2. 年, 1 年 と あ る の で, その 翌 年 を 元 年 と し て い る,. これでみると山本氏の修正紀年は, 書紀から出発しているので, 自明の事として書紀と合う 又 . 山本氏の諸帝修正崩年は漢史の遣使紀年と矛盾しない. しかし古事記崩年干支とは一つも合ってい な い の であ る.. 私の修正紀年は記紀のどちらとも一致し, 漢史との間に矛盾がないのである , 山本氏の修正紀年は, 漢史, 好太王碑と比較してみると, 唯一の例外を除いて一致していない . その唯一の例外に山本氏は気付いて居られないが, 仁徳元年を三九三年とすると, 仁徳紀五十八 年呉国高麗貢献は四二一年となる. この年我国の呉への遣使が帰国したも のとすると (書紀の紀年 では応神末年の呉への使節帰国の紀年と, 仁徳五十八年の呉国貢 献の紀年とは同じ庚午である) ,宋 書永初二年, 詔日倭讃万里修貢の永初二年 ( 421年, 辛酉) と一致する. しかし山本氏の修正紀年と漢史, 好太王碑との紀年の一致はこれが唯一の孤立した例 である . 山本氏の では応神四十一年の呉への遣使帰国は391年, 雄略6年の呉国の遣使貢献は467年, 雄 略八年 -- 同十年の呉への遣使は469年 --4 71年, 雄 略十二年 -- 同十四年の呉への遣使は. 4 7 3年 --475年となって, 宋書の倭王遣使の紀年とは一致していない. 私の修正紀年では皆一致している.. 又好太王碑との一致は山本氏が特に一章設けて強調された所ではあるが, 山本氏は三国史記の紀 年と好太王碑の紀年との間に一年の差があるのを, 三国史記の方をとり, 好太王碑の紀年を一年く. り下げ, それと書紀とを比較し一致しているとされた. しかし好太王莞去後二年して建てられた好 太王碑と, 好太王薬去後八百年たって作られた三国史記とどちらによるべきかは言うま でもない事 である. 一年くり下げた紀年と合う様なら, 山本氏の修正紀年は本当の紀年と合っていないのであ. る.. 山本氏は三国史記の紀年の方を正しいとしてその理由を三つあげられたが皆好太王碑紀年を否定. する程の力はない. その一つは慶州 「新羅壷粁塚」 より出土した壷 軒の底面に陽刻された 「乙卯年国岡上広開土地好 太壷 粁十」 によるものである. 山本氏は 「『晴書高麗伝』 には, 『死者ノ・屋内ニ積シ三年ヲ経テ吉日. ヲ択ンデ葬ル』 とある. またその葬儀は 『鼓舞作楽しながら才 テわれ, 棺を埋め終ると, 死者生前の 服翫車馬が墓側に置かれ, 会葬者が争い取って去る』 と記されている, ところが (好太王) 碑文に 11.
(13) . 栗. 原. 薫. よれば広開土王は 『辛卯年』 に即位し, 在位二十 二年にして 『壬子年』 に莞 じ, 『甲寅年』 に山陵に 葬られているのであるから, まさに 『晴書』 の言うように 『三年ヲ経テ』 葬られているのである. ……そうすると, 葬儀も 静青書高麗伝』 が記述している形式で行われ, 会葬者は, 墓側に置かれた. 死者生前の遺品をとって散会したと考えられる. ただし, 高句麗人にとっ ては, 開間以来の大王の 葬儀であるから, 会葬者も多数なので, 分与する記念品が大量に作られて葬儀場に用意されたのが 『有銘銅秤』 であり, その一つが何らかの経路で新羅に伝来されたものと考えるべき であろう. こ. のようにみると銅秤の銘文にある 『乙卯年』 というのは, 広開土王の莞後 『三年ヲ経夕』 年の干支 ということになる. したがっ て, 藁年は (壬子より一年後の) 『葵丑年』となり, 即位年すなわち永 楽元年=壬辰年 (辛卯より -年後) という計算になる. 換言すれば, 碑文の 『干支』 は原稿作者の. 何らかの錯誤に基くもので, 『三国史記』 の方が正しいということになる.」 とされた. しかし好太王碑文には以二甲寅年九月二十九日乙酉- , 遷就二山陵-とある. 二十九日が乙酉だと 朔日は丁 巳となる. 『晋書』 安帝紀義則 烏十年 (甲寅) に, 九月丁 巳朔. 日有 蝕之. 林邑遣 使来献. 二方物-とあり, 甲寅年九月二十九日乙酉はそのまま でよく誤りでは ないのである. 甲寅という干支 ・ない. 『三国史記』の方が誤まり なの である. 壷秤塚 が何らかの錯誤に 基いて刻まれたものとは思え の遺物はなんの目的で作られたものかそれだけでははっ きりしない以上, 乙卯年を好太王碑甲寅年. の真の紀年と考える事は 無理で, 何か別の行事の紀年 である. 第二は『晋書』 『宋書』の, 高句麗王高 穂が義 際九年晋に貢献し, 使持節都督営州諸軍事征東将軍. 句麗王楽浪公に任ぜられたという記事についてである. 山本氏は 「遣使が即位年の翌年ということ も考えられないことではない. しかし当時の高句麗は国勢隆々たるとき であり, 新王の即位につい て何の国内的トラ ブルもなかったのであるから, 即位後ただちに使節の派遣が行われたと考える方. が常識的に妥当であろう. 事実, 『三国史記』 の 『高句麗本紀』 には 『元年』 長史高翼を遣わして晋 に入ると記してある. 広開 土王の莞去は 『冬十月』 とあるが, 使節は允分, 年内に東晋の首都, 建 鞭九年= 康に到着し得たはず である. これが正しいとすれば, 『宋書』 の 『夷蛮伝』 が記録する, 義! 413年(葵丑年)は, 長寿王即位年すなわち広開 土王莞年 である. したがって, 永楽元年は三九一年 (辛卯) ではなく, 三九二年 (壬辰) という結論を与えることになるのである.」 とされた.. しかし 『梁書』 諸夷伝によると, 晋安帝義 無中, 始奉 表通二貢職-とあっ て, 長寿王の貢献が, 前王莞し新王が立つとす ぐ行うという様な性質のものでなかっ たのは明らかである. したがって義 無九年に長寿王の貢献があっ たから, その年が前王好太王の藁年に違いないという事は無理で, 好 ! 太王碑のまま41 2年の莞去でよいのである.(高句麗本紀の方は, 王暦と関りなく宋書の記事をその ) けなのである まま寓しただ 第三に山本氏は 『三国史記』 と 『百渚記』 の記事と紀年とが一致している事をあげて居られる.. しかし 『三国史記』 と 『百清記』 との一致は, その一致している部分は, 同一の史料から出てい るという事を示して いるだけ で, その史料が正 しいという事を何ら意味しないのである. 例えば 『三国史記』 百清本紀の, 高句麗と百済との 戦の記事をみると, 369年に始り, 386 , , 389. 結 好, 人 質 を 出 し て よ り, 七 十 年 も 平 和 が つ づ 390 , 392 , 393 , 394 , 395と つ づ き, 397年, 倭 と. 6年より始り, 407 いている.,所が好太王碑をみると, 『三国史記』 では戦が終っ た395年の翌年39 倭が新羅に出兵した年 後である 3 9 9年は 6年の十年 年に及んでいる. その396年は三国史記の38 , . であるが, 同年百清は倭と和通しているので, 倭と共に戦っ たであろう. 『三国史記』にはその気配 9年の百清と立句麗との戦になって一致する も見られないが, 十年くり上げると, 『三国史記』の38 のである. 翌400年は高句 麗が大挙南下した年で, 百渚は倭と共に方句麗と戦っ たと考えてよいが, 『三国史記』にはその片鱗も ない. しかし十年くり 上げると390年となって, 『三国史記』と-致す 12.
(14) . 大化前代の紀年. 4年も, 同様 『三国史記』 にはその片鱗もないが, 十年くり上げ る. 次に倭と高句麗とが戦っ た40 4年の戦となって一致する. 392年, 393年, 395年のは小規模の戦だったの ると, 『三国史記』の39 で好太王碑には出ていないのであろう. 好太王碑の407年の戦には, 百清は脱落していたので,『三 国史記』に出ていないのであろう. 39 07年に, 倭と結好し, 人質を出す必要があったのは 7年実は4 その為であろう. 参局 『三国史記』 の百清本紀の好太王碑関係記事は十年くり上っているので, 十 年くり下げて考えねばならない. 今山本氏の様に 『三国史記』 の方が好太王碑より正 しいとする事 は出来ない. 好太王莞後二年して, その子が作った記念碑の紀年の多くに, そろっ て十年もの誤り があると考える事は不可能である.. 又 『三国史記』 によると百済王腰支 (紀で直支, 漢史で映) は, 405年即位, 420年莞 であるが, ) 『宋書』 『梁書』 によると, 映は義 無十二年 ( ) 4 416 24 , 晋及び宋に朝貢している。 こ , 景平二年 (. の場合漢史の方を採るべき であるのは言を得たない. さてこの場合, 『三国史記』を十年くり下げて 見ると, 415年即位, 43 0年莞という事になって漢史と矛盾しなくなる. つまり 『三国史記』の直支 王の王暦は十年くり上げられているの である。 『三国史記』 新羅本紀の好太王碑関係紀年は, 実聖尼師今元年 ( ) 倭国と通好, 末斯欣を人質 402. としたという記事を除いて, 対応する確実な史料がないので, 原則的に信用出来ない。 更に 『三国史記』 高句麗本紀の好太王碑関係紀年は, 40 0年代のは 『資治通鑑』 を寓したもので,. 39 0年のは 『百渚本紀』 を寓したものである. 独自のものは王暦以外にない。 更に 『三国史記』 と 『百清記』 の紀年が一致している39 2年 (壬辰) の阿花王即位に関する記事. は, そのまま では天皇へ失礼だったので辰斯王が殺さ れたというその無礼が何んで であったのか 中々理解し難いが, 十年くり下げると4 02年となる. 倭と高句麗との戦が399 ,400 ,404とつづき, その前後をはさんでいるのであるから, あり得る事となるのである。 更に39 7年, 阿花王が人質に子の直支を倭に送り, 又領土の一部を倭に奪われたという事件も,. 『百清記』 , 『三国史記』 の紀年が一致している. これも397年では, 百済が高句麗の奴客となって 07年と いた時期 で, 我国が領土を奪っ たり人質を取っ たり出来る筈がない. しかし十年くり下げ4. すると, 倭と高句麗との最後の戦がすんだ後であり, あり得る事となる. 結局この様な 『三国史記』 や 『百渚記』 であるか ら, 『三国史記』 と 『百清記』 とが一致するとい. う理由で, 『三国史記』 の紀年を正しいとする訳にはいかない. 結局山本氏の 『三国史記』 によっ て, 『好太王碑』 紀年を一年くり下げるべきだとする山本説は成. り立たない. 『好太王碑』 紀年はそのままでよいのである. そこでその様な山本氏の一年くり下げた 『好太王碑』 紀年と, 山本氏の修正紀年とが一致してい. ても, 一致していなくても, 山本氏の修正紀年の裏付けにはならないのである。. した が っ て こ の 問 題に つ い て こ れ 以 上 論 じな く て も よ い の であ る が, 猶 多 少 言 及 した い.. 山本氏の修正紀年によると, 仁徳天皇が民家に炊煙がたっていないのをみて課役を免ぜられたの は394年, 炊煙が盛んに立上る様になったのをみて喜ばれたのは396年である. ここに仁徳四年(丙. ) で, 新羅出兵の前年となる. 出兵 398 子) を辛酉起点半年一年の紀年とみると, 通常紀年は戊戎 ( の為の動員 で薪を十分に採る労働力が民家に残っていなかったのである. 394年から396年にかけ. てでは出兵のかなり前なので, その様な状態にはまずならなかったであろう.396年高句麗が百済を 侵し, 驚いた我国はは じめて準備にかかり三年して出兵のはこびになっ たのである. 8年, 399年に 仁徳十一年より仁徳十四年にかけての土木工事(紀)は, 出本氏の修正紀年では39 なるが, これは出兵準備中と, いよいよ出兵の年で, とても土木工事をしきりに行う余裕はなかっ たに違いない, ここに仁徳十一年 (発末) , 十二年 (甲申) , 十三年 (乙酉) , 十四年 (丙戎) を辛酉 13.
(15) . 栗. 原. 薫. ) となる. 399年新羅に出兵した 起点半年一年の紀年とすると, 通常紀年は壬寅 ( ) 40 4 02 3 , 発卯 ( 『資治通鑑』)ので, 高句麗 我国と戦う為, 400年, 高句麗は南下したが, 後燕がその背後を突いた(. は腹背に敵を受けて戦えなかっ た. そこで高句麗は我国に和を求め, 新羅を我国の勢力圏として認 め, 人質の実聖を返して新羅王とした. 新羅は我国と戦っ た前王奈勿の王子未斯欣を我国の人質と した. かくて仁徳十 二年, 高句麗の使が我国に来(紀) , 又我国が種々 の土木工事を行う余裕が生れ. たのである. 『三国史記』 朴堤上伝には実聖王元年壬寅 ( 402 ) , 典二倭国- 講和と書かれ, 新羅本紀 には実聖尼師今元年, 三月, 興二倭国-通 好, 以二 奈勿王子未斯欣-為 質とある.. 仁徳十二年の高麗来貢(紀)は, 山本氏の計算では398年となる. 398年とすると, 百渚を征服し. た好太王が, 我国にそれを認めしめようとしての遣使になるが, 仁徳十二年 (甲申) を辛酉起点半 ) となる. 上述した所によりその年, 40 年一年の紀年とすると, 通常紀年は壬寅 ( 402 0年以後の和 平交渉が一応の成果をみて, その為の来使とみる方が妥当なの ではないかと 思う. 更に山本氏が, 書紀 (修正紀年) と, 一年くり下げた好太王碑とが完全に一致しているとされた 二例に ついて 述べたい.. 山本氏はその一つとして, 先述応神三年 (壬辰) 百溶辰斯王の無礼を責め, 百渚は辰斯を殺した の で, 阿花を王としたという書紀の記事と, 好太王碑の以二辛卯年‐ 来渡 海破二百残云々 をあげら れ た.. 応神三年 (壬辰) を例によっ て12 0年くり下げると392年となり, 好太王碑の辛卯を391年と解 した場合 (私は331年としている) その翌年となる.. しかし百済王廃立の応神三年 (壬辰) は, 百済史書より出た紀年なので, 上述した所により十年 くり下げねばならない. 十年くり下げると402年となって, 好太王の辛卯を391年と解してもその. 翌年所ではなくなる. {4 02年は講和の年である. それを機会に, 396年以来の百清の無礼 (高句麗 の奴客となり, 色々の無礼があっ たのであろう) を責めてそれまでの事を清算したのであろう。 百. 済本紀によると, その年, 高句麗と百清は又々 戦い始めた. 百清は高句麗が漢水を渡るまで争わず, 漢水北岸の諸城を譲っ ている.これは402年の講和の条件にあっ たのであろう.高句麗が漢水を渡っ て更に南下するに及んで又々戦が再発した.} 山本氏があげられたもう一つは, 仁徳紀十七年, 新羅が朝貢しなかっ たので, 秋九月, 的臣の祖 砥田宿祢, 小迫瀬造の祖賢遺臣を遣して, 闘貢之事を問わしめた所, 新羅人は催れて, 調絹一千四 百六十匹及び種々 の雑物併せて八十糠を貢ぎ献っ たとあるのと, 好太王碑の399年, 倭が新羅に出. 兵した記事が完全に一致するという事である. 山本氏の修正紀年 では, 仁徳十七年は400年となり, 399年を一年くり下げた40 0年と一致する.. しかし内容は書紀は問罪の使節が遣わされたというだけだが, 好太王碑は出兵でいささか異る. 9 仁徳十七年 (己丑2 ) を辛酉起点半年一年の干支とすると, 通常干支は乙巳望とかり, 405年とな る.402年の講和はす ぐ破られて百渚と高句麗との小ぜり合いになっ たが,段々発展して4 04年の倭. と高句麗との戦となった.405年はその翌年 で,百清本紀によると,高句麗と百済との戦いがあっ た.. それはやがて407年の最終的な戦にまで続く.405年はその様 な年であるから,新羅が形勢を観望し て, 朝貢をおこたる事はあり得る事なのである. こちらの方がよりよく一致している. つまり, 山本氏の言われる様に, 好太王碑の方を一年くり下げて合わす必要はないのである. つまり山本氏の修正紀年で, 漢史及び好太王碑と合っ ているのは, 仁徳五十八年呉国, 高麗来貢 が,421年の倭讃万里修貢と一致している一例のみである. 私の修正紀年だと8例皆一致し, 柔盾の. 例は一つもないのであるから, 私の修正紀年の方を採り, 山本氏のは偶然合っ たとすべきである. 又大宝以前の紀年に干支が使われていた事は,金石文及び木簡によって明らか である.それが推古 14.
(16) . 大化前代の紀年. 以前に及ぶ事は,隅田八幡鏡,稲荷山鉄剣の例によって言える.百溶系史書の紀年が干支 のみなのも傍 証となる. 所で山本氏の修正紀年による時, 仁徳五十八年 (庚午) は, いかなる経路をへて, 永初. 二年 (辛酉) より庚午になっ たか説明が必要であるが, 出来そうもないと言う事もある. 結局山本氏の修正紀年は偶然一致した一例を除いて, 漢史及び好太王碑と一致しないし, 古事記 崩年干支とも一つも一致しないので, 誤った修正紀年と言わざるを得ない. そうなっ た原因は, 通常紀年から半年一年紀年に変る節目が允恭なのを, 間違えて安康崩年とさ れた事及び, 書紀の越年称元をそのまま でよいのに敢えて当年称元に変えられた事にある. 猶山本氏の修正紀年は百清記とも合っていない.. 百済記の, 王暦以外に紀年 を明記 してあるのは 二例 である. その一, 壬 子年, 新羅不 奉二貴 国- . 貴国遣二沙至比脆-令 討 之. 云々について, かつて井上光貞氏が, 応神十四年, 十六年の 秦氏帰化の折, 新羅が邪魔し, 葛城襲津彦が加羅に派遣されたという紀の記事と, 同一事 件の別伝. とされた.山本氏も取上げ修正紀年を出された.すると378年と37 9年となる.しかしその壬午三は, 少しだが喰違っている. 山本氏は,「襲津彦事件というのは……かなり長い経過を伴う事件 であるか. ら, 『百溝記』の紀年の年次は, どの時点でこの事件を取上げて三八二年=壬午年としたのか, はっ きりしない 点もある. この程度の差は一応の一致と見なすことにするより外ないのである.」とされ 3 た. しかし応神十四年 (奨卯4 ) を辛酉起点半年一年の紀年とすると, 通常紀年は壬午三となり, 書 紀と 『百清記』 とぴっ たり一致するのである.. 又山本氏は応神紀二十五年の直支莞じ, 子久爾辛立ちて王となるを, 応神は仁徳で直支は阿花, 久爾辛は直支だとさ れた. そして仁徳二十五年は山本氏の修正紀年で4 05年となるので, 紀年が合 うとされた. しかし山本氏が合うとされた書紀 (百清史料よりの記事) 三国史記の阿花莞年は405年ではある. が, 上述した所によりそれは十年くり上げられて居り, 本当は415年 で, 出本氏の修正紀年の4 05年 と 合 わ な い の であ る.. (本 学教 授. 旭川 分 校). 15.
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