文藝の科学序章(二) : 日本文芸史学ヘの試論
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(2) . 第2 穣 第1. 聾-. 学. 号. 昭和25年8月. ′. て解釈され、 他人の独自性は愛によって理解されるもの と した。 而かも個の全に対する調和が重んぜられた。 従. ではない, シュライエルマッヘルの老は職業の倫理的意 lung der ck 味 に 関 嚇 して い る。」 (Wundt: Di e Entwi. . . . って 彼の個人性なる観念や人間性或は調和等はライ ブ=. i 1 i l tans t t s s e chauungen;1912 chen “ァ .207) ・s. ツの軍子論を初めス ピノ ザ、 カント、 フィヒテ・ シェリ Lたものである, 叉個 ング等の哲学の影響の下に意図さナ. (4) H6ぼding: 「シュライエルマッヘルの個人性の強調はカントやフ. 人の一般的なるものの表現は ヘー ゲル哲学とも関聯して. ィヒテに同意しない。 個人が何等かの道徳的贋値を有す る事の出来る唯一 方法は、 彼が個人の仕方で普遍的な. いる, 以上はシュライヱルマッヘルの倫理学説中人間性 と個人性の問題について考察したのである。. ものを表現する事である, 個人性の懸著な特色を欠く個 人の行鴬の場合には、 其の個人は十分に能動的である と. の哲学の問題 人間性及び個人性の問題は単に十九世紀 . r ding: A br i tory of,modern ef hi はいわれない」 (Hるf s ′・ . ・ l i l os ophy:1912 1 .p .193)・ p ′ . ・. シュライエルマッヘルは独自な表現形式を以て人格の. 重要な作用となし、 カ ントの普遍的形式的道徳律に更に 個人の特異性を附加した, 従って人格は個人によって 特. . る。 私は個人の創造的自由な活動の意義を明かに しよう と して其の基盤をシュライエルマッヘルの個人の観念に 求めたのである。. 今日大学教育に於て全人教育が実施せられて、 一般教. 殊なものである。 個人の償値を張調 した事はカントの倫 理学説よりも優れたものであるという事が出来る。 人間. 養と専門教育とに分れている。 前者は人間性の問題であ り、 後者は個人性の問題であると考えられるのである。. 性の発見、 個人性の自覚はシュライエルマッヘ ル倫理学 の卓越した学説である。 併 し是等は単に倫理学的立場か. ・. l i i l i I l MO ogen 1 1 edr ISch I 1 c I Ogeq-Fr e er acher Mono P ‐ bi l i e e t den V nebg or ar et en. von二 F.M.Qch , voh 日. Mul rh .9ヱ4 e .. のである。 彼の人間性に関する直性は宗教的体験に基い. の. 、. . 〆. ′. 〔備考〕 文献 「独語鰍」. らのみ考究されたものでなく、 彼の紳学的見解に基くも. 文 ・璽. . であるばかりでなく、 今後の哲学に於こ攻究されなけれ ・てい ばならない。 個人性の問題は自由の意味と結 びっV. 科. 学. 序. .. 章 (二). -日本文芸史学への試論- 野. 吾. , 函館分校園文学研究室. 郎. Goro Uchi eraceto Modern St t no: Pr tur era udy of Li e .(2) l A Ne” r out l l tory of Japa oo 【on t t 1 e St s ・ 1 t udy of Hi e se Li era ure .. 目 ま. え. が. き. 1 . 萎 術 と 科 学 2 . 女費の科学的研究 3 . ドイ ツ 女 塾 学. 4 , ソ聯甑術赦曾掌 ソ聯女塾学の実体については、 私たちはソ聯の他の文 まり知るべきたよりをもっていないJ しか 化と同様にあ,. 次. ソ聯塾術耐会学 5 . 国文学への反省 6 . 日本女独学批判 む. ・す. び. い。 図文学界に{ ま職事前から歴史直会学振とし うもの が , ある。 特に終戦後はソ聯の塾術蔵会学、.交響冠会学の立 場からの批評や立言が女壇でも大きな勢力とな りっ1あ. しそれは日本の女藤学にとって無縁の存在でない事は勿. る。 特に日本女塾学をめ ぐって戦後この派と前項 ドイツ 女馨学振との間に論戦がた▲かわされている。 ・そ こ で. 論、 現在の日本にはいろいろな形でこふからの刺戟が顔. 今、 ちらちらと垣間見た丈の資料にすがってY 不完全な.
(3) . 1 vo .2 .1 , No. ≠. IEI 工 GA GAKUGE. .. Aug .1950. -べつを奥え、 その立場丈でも知っておきたい。 塵学の理論 私が今手元にもっている丈の資料では、 女‐. だからである。 こ ”こ蔵会学が登場 して くる。 就会学的に美学を見ようとした人は西欧に も 沢 山 あ. 的な展開のあとや・ 、 学者や学説について 歴史的に細い事 れ を学の基礎になって を知る事が出来ないJ 只女 婆学や璽ず. る。 しかし之を馨術冠会学 として、 決定的な業績を残 し た人は、 プレハーノ フ、 メーリン グを筆頭にして、 ルナ. いる美の問題について、 その大体を選べるば かり で あ (註) る。 槍こふに参照した著書論文は次の様なものである。 註) 岡沢秀虎 「ソビェー ト女襲思潮史」 昇曙夢 「ロ シ ヤ女襲思潮」 フリーチェ r塾術砥会学」(昇曙夢訳) と人 「整術論」 ヘー ゲル 「薬学講義」 (甘粕石 減原打 ロ レタリア菟警 理論史」 プ 介訳) -係重美 r日本プ・ レハーノ フ 「製術論」 (外村史郎訳) 川口浩 「プロ , レタ リア文学概論」 山田橋三郎 「日本プロ レタ リア 1 1 女学理論の発展」 三木満 「現代階級斗帯の文学」」 口浩 「製術厳会学の発展過程」 (文学) 吉 田精一 「文学史の方法」 ( rプレハーノ フ). チ ヤ ル ス キ.-、 フ リ ー チ モ、,マ ー ツ ア、 ハ ウ ゼ ソ ス タ イ. ソビエートの女墓学は一言に して言えば、 女墓誌会学 であり、 整備諺会学であり、 実の諺会学である。 そこ に は一科の学 として の女馨学や 蔓術学や美学はない。 殊に その根抵をな している唯物史観では、 方法論を具体的把 握の中に織り込むのであって、 方法論 丈を単独に詳しく こ女塾学の理論を坂出し は越べてくれないので、 今こ ム} てみるこ とは出来ない が・ 聾術論や美諭につい下 運べ・. その理論の上に立つ女製の批評や許贋の問題にふれてみ たい。 近代美学はカントの主観 的、 批判美学と、 それに対す る批判者--シェリ ソグ、 ゾル ゲル ヘ ー ゲ ル、、フ イ ッ シェル等の美学説から出発する。 彼等は美を人間の主観 に求めないで、 その対象の中に求め様と した。 そ Lてわ. れわれの現象の世界の背後に絶対的な実在を ア プ リ オ リ に設定する。 この絶対物は或は 「稗」 であったり、 閥青 f ”」 であったり、 「イデ-」 であったり・ 人によっ下 違 示 うが、 兎に角こう して設定された絶対物 が感性的にあら. ン、 ルカッチ等の史的唯物論による一群の整備理論家た ちである。 メ- -リングはカントの美学の批判から、 出発したので あるが、 「人間がいかに感覚 しうるかという問題は、 感 覚の生理学という自然科学に属するものであるが、 人間 がいかに感覚 したかという問題は、 美学という諺会科学 に属するものである。」(「美学的散歩」) と している。 プ レハーノフは美的感 情は歴史的歌会 的に動くものである ことを指摘する。 ハウゼンス タイ ンや フリー チェは更に 之を前進させて、 「整備厳会学」 を提唱 した。 それは初 め、 ハウゼンスタインによって唱えられ、 フリー チヱに よって完成された。 彼は 「一定の武会形態と一定の馨術 の型とのあいだの法則的連関を設立するとともに、 他方 において、 反復された類似的諺会形態の現存 に 際 し て の、 一定の璽術の型の法則的反復をあきらかにすること を目的として」 その 「整備就会学」 をかいた。 かく ,して 客観的科 それは-願科学と して成立した。 しかし彼等は 学的で あろうとするあま り、 単なる記述や説明 に終って しまって、、美的な慣値判断、 評慣という問題はついにお ろそかにされてしまった。 しか し最近のこ の方面の理論 の進展は、 とにかくこの問題にも一 蹴の解決を奥えてい る。 即ち、 「整備は単に人間の 思想や感情、 一口でいえば、 イ デ オロ ギーを表現するばかりでなく、 もっと 本 質 的 に は、 客観的現実 (自然 ならびに人間の生活) をなんら かの仕方で反映する、 というこ とだ, したがって 整備 その一形 は科学とおなじく現実認識の一所産であり、. 態である。 現実をほんとうにただしく把握し、 これを. われたものが 「美」 だというのである。 これは 「美の形 而上学」 であり、 所謂 「上からの美学Jで ある。 しか しこの経験的に実証されないものをア プリオリに 設定するということは非科学的である。 そこで 「美感」. 精紳的に再 生産するの が、 塾術的創造の震義である。 この整備的贋実 (それ は科学的員建とその現わ し方を. を純然たる生理的心理的現象として、 自然科学的に之を. 異にするのであるが) の創造過程に横たわるさま ざま の法則を究明すること--これが整備学の基本課題で. 考察しようという一つの道 がある。 これは 「実の心理 学」 であり、 「下からの美学」 であるコ フイヒネルやり. なければな らぬ。」 (川口氏前言巳論文 P.7. P.8). ツプスの美学で あって、 之は一悪科学的で ある。 未開人. 更に叉科学的批評の規準を 「もしも整備が客観的現実. でも文明人でも人間と しての感覚の生理的 心理的過程は. の反映をその本質とするものであるならば、 現実を どの 程度までただしく反映 しているかによって、 聾術作品の. 共通である。,Lかし文明人と未開人とでは美の 意識には 違いがある。 これは解決されない問題である。 こ に至. 慣値がきまって くるはずである。 客観的現漢の塾術的反 映の程度--これこそが整備作品の客観的債値であるo」 (同上 P .8) と言っている。. 」 は全く無力である。 それはこの差 って 「美の自然科学. 異が自然的生理的存在膝件の中から出てくるのではなく て、 人間の武会的歴史的生活像件の中から出てくるもの. -態の理論的完成 「愛す れ を冠会学」 は- こム ・にい たって、 12.
(4) . 第2巻 第1号. ・. 学. 墜. 昭 和25年 8 月. を示した。 そしてそれはかつてのマルキシズ ム 女 塾 論 や、 その批評の規準等より は数歩前進している。 例えば. 学問は殆ん どない。 近世の始めからの 「国学」 と明治以. 「整術は、 その階級のイデオロ ギーの プロバカソダであ る。」・とか、 「整備は階級斗等の強力なる武器である」 と. るといってもいい。. か、 プレハーノフの論文集 「二十年間」 の序文を引いて 女聾批評の規準について、 「輿えられたろ聾術作品の評. 誤って、 喧樽されていたが、 戦後は叉ぱったりと影をひ そめてしま った。 試に戦時中の著書や論文をみると、. 後の 〔国文学J について語れば、 その総てをつく してい ・. 図学にっぃては・ 轡 沖 は鞄こ誇大に・ といぅょ 硯ま. 慣に際 して先づ第一に、 この作 品の中には如何なる方面. 「園学」 についての言説が如何に多いかに驚かさ れる。 そして叉それらが、 「文華の学」 と しては勿論、 言語の れば 「如 何なるイデオロギーを反映してゐるかと云うこ . 学や歴史の学としても、 凡そその学の名に償いしない程 とを問題とすべきである。」「第二に徹会への役割(影響) 純粋性と科学性と慈失ったものであることに再び驚かさ の徹会 (或は階級) 意識 が表現されてゐるか」 言いかえ. れる, 例えばその対象について も、 「国学は文学道標、. 目的意識、 第三に階級斗零にはたす役割の大小」 (以上 職原惟人 「整術論」 P .6) とか言った様ないくつかの例. 宗教等に関する学術的刷新、 並に思想的改善の運動であ. と比較してみるとその成長のあとがはっきり判る。 かつ てのマルキシズム馨術論が如何に公式的であり、 直接的. って、 且、 法制、 歴史、 教育等 にも亦その研究と活動と が及んでをる」 (河野省三 「国学の研究」 P.3) といっ. であり、 幼稚であったか。 同時にそれらの時代を経て来 た現在のソ聯女馨学 文聾就会学が如何に高められ、. た様に実に漠然としていた。 この園学に つ い て の漫然. たる非科学的な取扱いが、 戦時中の緊迫した滝会状勢に. .きれいに装われているかは、 簡単な以上の比較において も明かである。. 一般的方法を一言で言へば 『物質的諺会の発展の反映と. つれて、 意識的無意識的に歪められていって、 遂には当 中が か り 的 な傾 時の軍国主義的指導者達に迎合して、 市 」 向を強くしていった。 かくして古典はその歴史の座標か ら逸脱して現実性をおぴ、 図学は遂に時務の 学 と し て. しての一定の聾術の発生、 発展、 滅亡の法則、, いひかへ れば整備発展の弁証法を明かにする』 ことにある」(「文. 政治性を張めていった。 戦争が苛烈になる につれてこの 傾向は著 しくなっていった。 死屍にむちうつ 事 に も な. 学史の方法」 (プレハー ノ フについて)「園語と園文学」 .巌密 昭・24 .lo)といい、 そのあまりにも公式的であり、 な弁証法のわくの中に入れようとしている無理を指摘し. り、 快よい思出でもないので、 今こ▲に一々引用するこ とをさけるが、 故藤田徳太郎氏の諸論文 (「新園学論」 昭16 . 「平田篤胤の国学」 同 ヒ、 「国学者論集」 昭 17 . ′「古典と日本橋譜」 昭 17 .「国学と文学」 昭 19 .lo等) や保田奥重貞K氏の 「みたみわれ」 の園学的女整論等を見. 吉田精一氏は最近の論文で 「プレハーノフの整術論の. ている。 こ れは しかしフリー チェ以下の聾術蔵会学の総 てについても言えることである。 特に批評における客観. 的規準についても、 「現実を どの程度正 しく反映 してい れば、 当時の圃学が如何に時流に迎合した非科学 であっ ・ るか」 ということはやはりそこに主観がある。 と言うよ たかゞわかる。 このことは勿論、 これら二三の人々の問 題ではなく当時一般の姿であったつ (最近 〔25年3月「文 りは、 それは表面にこ そ出 こいないが、 「正 しく」 あら 「文献学批判」 においてや 八つ当 われる 「現実 月次、 予定されたある階級の「一つの現実」 学」〕 榊原美女氏が・ であって、 結論はもう先にある。 「蔵会的に」とか「現実」 とか表現されてはいるが、 結局は織原氏の端的な表現に. り的ではあるが鋭くついている。 参照されたい。) しか し之等の園学論が決ーて近世国学を正 しく博えたもので. 衣を着せた にすぎない、 ソ聯女塾学はかくして就会学で. ない事は勿論、 寧ろそれは全々別個のものだと言って差 支 えない。 近世図学への虚心な反省や正 しい批判、 言い. あり、ー政治学であって、 正 しく 「文整の科学」 では決し てなかった。. かえれば、 女塾の学としての園学の再発見は、 戦後の私 たちに課せられた重要な一つの問題で ある。 日本文塾の. 図女場への友省. 学が、 科学として成立するためには是非必要な 「学史」 の第一頁をかざるために。 しかし事実は正に 反 対 で あ ,. 次に私たちは日本における父馨の科学について一わた . ・ り見なければならぬ, しか しき々二千年の歴史をもち、 その古さと量において誇る日本文塾の研究史 をのべる事、 はそう容易ではない。 くわ しくは他日に ゆずって、 今は 簡単にその要点丈にふれておく。 前にものべた様に私た ちの日本文整は制作された量と年代に比 して、 受容の面 では可成り貧弱である。 研究らしい研究や、 学問らしい. る。 戦後図学についての立言は殆ん どない。 それを・言う 事があたかも重大なタ ブーをおかずものであるかの如く に--o ・ こうした風潮の中で 戦後-早くなされた荻原 浅男氏 、 の発言は、 (「上代古典研究と国学の問題」 ●「国語と図文 学」2ー年8月 「日本譜活研究の課題」 同上 22,lo 参照). 13.
(5) . ( ÷RI. ÷AKU(. Vo l .l .2 , No. △ug .1950. その時期が早かった ばかりでな ・く、 その内容も公平冷評. 明治三十年代に外遊から帰った芳賀矢一博士や上田万. であって、 科学的に園学を批判し再嫁討している点で確 かに目だつた業績であった。 氏は前記論女の中で、,国学. 年連牛 によって、 ドイッ文献学が輸入され、 園学が再編 成されて、 こふに始めて学としての 「園文学」 が成立し た。 芳賀博士は 「日本文献学」 の第一章に、 「こ に所. を規定して、 「古代筒嫌を前提(動機) と し、 (簡古主義. l l i e の 意 味 で、 即 ・ o ogi 謂日本文献学とは、 Japane s e P1 ち園学のことである。 (中略) ,園学者が従来やって来た ′ 事業は 即ち女献学者の事業にタ トならない。 唯その その究極に於て民族固有の し(学の分科と範囲) に究明 ,方法 、. 唯一絶対的な 的態度}古代の園典及び古語の知的解明を1 通路として (文献学的方法ノ古代女物の諸領域を相関的. に於いて改善すべきものがある。」 と言っているo、こう 古道を嗣明 し (学の目的と対象)、 且つこ れを信行する ・ 「 (信仰性と実践性) 学- して 「国文学」 は 「園学」 と 「ドイツ文献学」 の混血児 i と し、 要するに 古道を対象と 1 )P と して、 その両方の血を受けついでいた し女献学を方法とする学である。」(前議論女の ( .9) 元来文献学の近世的な誕生は、 女聾復興期の所謂 「中 と定義している 氏は更に論を進め、 要約して次の様に (1) 近世以降 現代に至るまでの図学は、 その対象性に. 世的世界の改造」 を志 して生れたものであって、.ギリシ ャ、 ローマの文献を通 して、 「文化原型」 としての古代. 即して観る限り、 こっの樽統的な面があった。 「つは 慎淵、 宣長等を ,範型とする人間生活の内部に深い関職. ギリシャの文化を明らかに しようとしたものであった。 随ってそれは前代への批判と新 しい出発への要求に基い. をもつた、 或る 意味においてヒューマニ ズム的、 自律 的自然主義 的な面である。 他の一つは春碗、 篤胤及び. て近代的なヒュトマニ ズムと実証主義の精赫に立ってい. 結論している. れた文献学はこの本 た。rしか し芳賀博士によって輸入さ , 来 のものではなくて、 十九世紀 ドイツの文献 学 で あ っ. 明治以降の一部の圃学者を範型とするもので、 人間の 内部生活よりは外部生活により多く関嚇 した、 或る意. た。 当時の ドイツは、 国家の統一と近代的編成の立遅れ を急速に飯返す必要から、 自らの封建性を清算 し切れな. 味において リゴリ ズム的、 制他的、 治道主義的な面で ′. ‐い内に他の先進園の近代性を急激に坂入れていた時代で あった。 ドイツ文献学はこうした時代的背景の上に立っ ・ て 献学をも蓮臆 し、 随って上代古典観及びその研究操作 、 よ り多くの民族的な文献を通 して、 民族精榊を閥明 することを第一の目的と していた。 この事情は、 明治三 をして無用に叉安直に政治に輔 入せ しめる傾向があっ あ る。. 、. (2) 而 して両面の中、 後者が優勢な場合には、 その文. た3. .. 十年代の日本と、 当時の学界でその近代化を急がれてい た園学とに、 丁度ぴったり していた。 かくして ドイツ文 献学が 「図女学」 の成立に大きな役割を異したことは思. (3) また前者が比較的健全に働いて ゐる場合には、 そ の多分の主観性の介在にも拘らず、 何程か文献学の過 程に卸してをり、 随ってその古典理解も或程度の客観 性、 妥当性を保持 していた (4) 特に戯時中の現象に関聯 していへば、 (2) の鱒. こう した民族精蒔の再興を一つの大きな特色とする ド イツ女献学と、 古道の復興をやはり重要な一つの目的と. 統的な面が客観的な情勢と吻合して、 過多な政治性を. する国学との間に生れた 「国文学」 の性格は、 も早ここ. 帯びて学の境界を突破 したのみならず、 上代古典を政. こ言い得ることば、 日本 に説くまで もない。 しか しこ ふを. 治の用具と化 し、 且 ‐っそれはその史 的当体より抽象化 L、 逸脱せしめて しまったことが指摘される。 (同上. の女璽 学が、 国学の持っていた何ほ どかの科学性を女織. えば奇 しき因縁であった。. 学によって呼びさまされ新しい園文学として再編成さ れ. 論叉 P.17. P.18). ることによって、 近代科学の入ロにいくらか近づいたこ とは事実である。. 以上で明解に論ぜられているように、 国学の本質は戦 時中歪められ謀られた様な、 政治性の濃い時務の学では なくて、 もっと科学的なものであった。 只国学が、・その. 6 , 日本女整堅批判. 対象である古 道の内容と して持っていた雑多なものやあ. ここで実は園文学の諸学減 (図学的文献学派、 書誌学. いまし なものの一つの面を戦時中極端に利用されたとい うことである, しか しそれは 正統図学の贋の 姿 で は な い 少くとも国学が方 法として もっていた女献学ば、 立 ・ 源に近代的な科学性をもっていた, 事実近代の 「国文. 的考証源、 訓話註釈学飯、 形象論学振、 民俗学減、 歴史 魂吐会学振、様式学的日本文塾学派等) についての べて、戦. 前の文献学源と女製学狼の対立や就会学派と女塾学振の 論争、 特に戦後鋭く対立して最も活機な論戦を 展 開 し た、 後者の所謂 「女墓学論争」 についてのべ、 園文学か ら女整学に至 る学的な推移のあとを辿るつもりであった. 学」 は 「図学」 の方法を自覚し、 対象を限定するところ から、 その近代化の第一歩を踏み出 したのである。 14.
(6) . 第2 巻 第1号. 塾. 学. 昭和25年8月. 学界の-部に問題になりつ あった事は事実である。 し 「日本文塾学」 が今日の如く方法と体系とをはっき か し・ りさせて、 私たちの前にその全貌を表したのは岡崎教授. が、 もう制限の紙数は残り少くなっている。 今は一切省 略して他日にゆずり、 所謂 「日本女雲学」 への簡単な批 判丈をのべて結論を 急ぎたいと思う,. 探索や発掘を行い、 科学的な批判や整理、 刊行等の一. の業績以来である。 その後の種々な批判や反 論もあるに はある が、 園学の庶子として ドイ ツ文献学に育て られた. 方、 それを基礎としての解釈や女璽史の研究等に大きな してきた。 Lかし、 この叉献研究の占める位置 進歩を示、. 園女学から・ その封建性や雑学性を郷拭して、 近代的な 「女整の科学」 へと数歩前進させた功績は高く許贋され. の一種不均衡な大きさ が、 元来之を基礎作業として その 上にうち立てられるべき 「女聾の学」 に対する自覚と、. なければならない。. 明治以来の日本の学界は、 長い間女献学の下で文献の. 岡崎女墓学 (岡崎教授の 「日本女塾学」 を指す) は、 従来の国文学が女塾でないものをも雑多に含 んでいた、. その扱行的状態に我慢のならない 不満が爆発して、 遂に 「日本女聾学」 の提唱となった。 昭和九年十月の 「文学」 に岡 崎義悪教授の放った第一. 対象における 「雑学性」 を先ず沸拭して、 厳密に 「日本 文製を直接の対象として、 文聾の民族的様式を通 じて女 塾の本質を究めんとする」 ところに出発 しているJ そ し. 声が、 「日本女整学の樹立について」 であったd その冒 頭で教授は、 r『日本文塾学』 の名 が我々 の心を謎ふや ぅになってから、 既に七八年を経たのであるが (中略). て 「『女婆学』は理論的、 体系的方面を研究 し、 女塾の永 久普遍的な本質を確認 し、 その類型と系列とを設定 し、. ー体 『日本文婆学』 の観念が我々の脳裏に宿ったのは独. 更にこれが我々の生活に交渉する鷹用的方 面を検討する. ha f ture Wi t t 等の影響もあるのである e ra s ens c 逸の Li s. 作業であり、 『女塾史』 は女豊的現象の事実を確定し、. が、 しかし其根本的な動機といふものは、 .我々日本女塾 が 『 の研究を専門とする者 、 女献学的な 園文学』、書史学. その発生と発展とを因果関係の上から究明 L、.原始的女 塾から現代文塾を生み出すに至った動力を別決 して、 明. 的、 簿記学的方面に偏した 『国文学史』 などにあきたら ず、 はっきりした自己の研究領域を確保せんとする意慾 を感じた事に存するのである。」 といっている, 当時の 事情や教授の抱負を知ることが出来る, その後岡崎教授 3年) o年)「日本女塾の様式」(昭1 は 「日本文馨学」(昭l 「実の懲統」(昭15年)「馨術論の探求」(昭16年)「古代. 日の女聾の方向を指示する作業である。i(「日本文馨学」 〔方法と体系〕 P.7) この体系的女整理論-- 「女 塾学」 と、 史学的女醤研究-- 「文聾史」 とを綜合した 「文馨 の学」 を贋義の 「女整学」 であると岡崎教授は 言ってい. 日本の女蔓」(昭18年)「日 本整備 思潮」 (i.2.3 以下終 ・て着々その 戦後へ続刊中 「昭18年より」) と書きつづり. る。 こう して岡崎女塾学ば、 ドイツ女馨学と ドイツ美学 とをその直接の謹として、 日本女婆を様式史的に把え様 とLた, いまその体系を教授の著書から要約すれば次の、 様になる。. 業績を挙げていられる。 -文塾学」 は岡崎教授の提唱 したものでもな もとより{. ての 「日本女整ー を 「女製の - 岡崎教授は学の対象とし ・ 日本的様式- i と して把えた 更にさかのぼって 「女製」 とL、 「整備」 を 「美の人篇的な存在 を 「言語的塾術」●. いL、 独占物でもないJ 日本に於て 「女塾の科 学」, への まじめたのは、 「日本文献学」 以来 やみ難い慾求が表れ‘ ′. ま員、 善、 聖等と並んで 「精 様式! と見る。 更に 「美 月・ 稗が人間的行鷺を起す篇めに自己の本性を発表する或様. だと言ってもいいが、 ドイツやソ ビエー トではそれより も古く 「女墓学」 のあった事は前に述べた通りである。. 式- とし、 更に進んで 「橋稗」 は 「生の一様式」 と して そ して最後に 「生」 も叉 「生以上のものの} 様式. 随ってその孫訳や紹介は可成り古く書かれている。 プレ (昭2年) や r階級諺会 ハーノフの 「聾術と砥会生活」・. いる. に過 ぎない」 といって、 「それは言語に絹する境地」 で あるとして 諭秘な ヴェールに包んでいる, かく して女塾. の整備」 (昭3年. が早く も職原惟人氏によって翻訳さ れているのは別としても、 石山徹郎氏の 「文整学概説」 (昭4年) 、.ハウゼソスタイ ンの 「造型馨術就会学」′昭. は、 生--精辞--美--整備--女嚢、 という生命の. 4 年川口法訳) 歓会学」 (昭5年昇 、 フリーチェ 「整備,. 曙夢訳) 、 マールホルッ 「女学史と女塾学1(昭5 年角田 く昭7年芦田弘夫訳) 俊訳) 、 ベーターゼソ 「女蔓学概論」 等の醗訳や著書が出、 風巻景次郎氏の 「日本女雲学の発 o 生」 (国交学誌昭6の l .1ー) や高木市之助氏のr図文. 様式の一環と して位置づけられる。 そ して勿論この 「女 である。 要約す 整」 は更にその下に多く の様式を含むの・ れば、 学問の対象 としての日本文塾を、 具体的個別的な 現象形態から一般的なものへ抽象して、 その本質を帰納, し、 その上で更に再びそとから具体的な現象 へ演揮的に 下ってくるので あって、 こ れは学問の手続と しては全く 正しい。 岡崎女整学はこの点 「女塾の科学」・としての体. 学と日本文塾学」 (図語と園文学昭7の 1) 等の論交に よって、 「文整学- 1や 「日本文璽学」 が昭和の初めから 15.
(7) . l Vo .1 .2 , No. GA GAKUGEI. ・′ ′ ′′. . 系を最も整然とととのえていると言ってよい 問題は こ 。 iた してその通りに行われてい の整然たる理論体系が、t るかどうかという点である. を、 二つの大きな 峯として鋭く対立している。 そし . て ,そ れは結局 「ドイ ツ女馨学」 と 「ソ騎女馨学」 との冷い職. 即ちその女婆学の実践にお. 争の延長であるd,しかし岡崎女馨鐸ともいい、 歴史冠会学. いて、 最初の作業がはたして具体的な女聾現象--個々 の現実の作品(歴史的蔵会的な制約を受けて実際に存在. 源もいう様に、 女塗の研究は何処迄も現実にある具体的 . な個々の作品から出発すべきである。 作品をその 「歴史 的座標」 において把え、 その蔵会的な傑件を明確につか. する具体的な作品) の具体的な分析からのみ出発 してい るかどうかということである。 この点岡埼教授の態度は 全く 具体性を欠 いてし・る。 歴史的制約や蔵会的環境か ら. む事は最も大切な事である。 只その際何処迄も 「女馨」. 遊離した、 女塾一般、 日本文塾一般から出発 している。 随ってそこから抽象され、 帰納されたものは、 具体的な. しその範囲を無 限に拡大していけば、 何れは政治や経済 や自然の環境に迄行き当るであろう。 しか しそこには自. 要素を含まない観念的な亜術一般、 美一般、 精紳一般、 生一般となって しまうのである。 これが岡崎女馨学の持. ら別な学問が在存 ずる筈である。 それらの学問と手を握. という 「馨術」 の面にいることを忘れて はならない。 モ ). る事はよい。 しかし引っぱり込まれるこ とは本意ではな い。 「女聾の科学」 が 「女聾の政治学」 や 「文整の蔵会 学」 になって しま つてはならないのである。. つ宿命的な弱点であって、 それはその背景をなす ドイ ツ 女聾学の蔭であり、 「上からの美学」 の当然な結果であ った。 こ g′ こソ聯女聾学の流を吸む歴史諺会学派が鋭く 対立するのも叉 当然である。 .. Aug .1950. こ ▲迄来て実はもう一つ重要な問題を残しているのに. 気がつく。 前に言い残しておいた女璽体系学と文馨史学. 歴史冠会学源についてこ ”こ多くを ,語る余裕を持たな. との問題で.ある, 「一般女豊学J と、 ある特定の 「園民 .しか ・象として、 女馨史」 との間に、 その園の女整丈を対. いが、 その代表的な学者である近藤忠義氏の理論r と実践 とに一寸注意をしておこう。 昭和十二年二月、 氏が匿名. もその範囲内における原理的本質的な研究を課題とする. で藤村作博士と共著として世に逐った 「日本文学原論」 ・. ′′′. 「何団交整学」 というものが許さるべきかという問題で ある 。紙数の関係で結論丈を言えば、 答はも早明瞭であ. ′′′′. アシズムのあらしの中で、 ごうごうたる批難 は当時のフ・ をあびた。 (中 ‘しかし氏の 「文学、 馨術の研究に在って, 、. る。 一般の哲学や経済学の他に 「日本哲学」 や 「日本経 済学」 という一科の学 が存在し得うだろうか。 それらは. 略) その研究の終点は、 その作家の文学、 整備的活動 の、 乃至は奥へられた作品の、 歴史的意義を確認するこ と以外の何物でもあってはならぬ。」(前言明憲章 P.365), という徹底L ,た立場は今も織一貫 して馨らない。 のみな. らず終戦後のソ聯女馨学の理論の輸入や、 唯物史観や、. 日本哲学思想史や日本経済史等の様に、 その現象を史的 に把えるか、 日本哲学史、 日本経済学史の様に 「学史」 として把える か以外には、 世界に唯一つの 「哲学」 や. マルキシズム女馨論と照醸 して、 層々強固にたくま しく. 「経済学」 があるばかりである。 同様に 「女馨の科学」 は 「一般女塾学」 と 「各国文整史」 と 「各国女璽学史」. 発展して、 多くの若 ・人々を引きつける魅力を持ちつづ けている。 世界観やイ デオロギーの問題は別と して も、. との三つに要約される。 日本のみについていえば、 私た ちは世界に共通な一般 「文馨学」 の他には 「日本女豊. .客観的科学的に把えよう 女馨や整備を歴史的蔵会的に、. 史」 と 「日本文塾学史」 とをもつばかりである。 そして. とする意慾と信念は美事なものである, そ してそれはそ の限りにおいて正 しい。 しか し問題はその歴史の内容と. その三者の交ったところに 「日本文豊科学」 の全貌があ るJ (50 .22 ヒリ .4 .. 諺会性の限界である, 言うべき事は多いが、 只一言、 そ れがソ聯女聾学の亜流であり、 随ってソ断交塾学におけ. (あ と が き) 本稿は初め7 0枚位の予定で書v ・たが、 そ. ,. の後紙面の都合で50枚位にちぢめることになり、 や. ると同様の長所と欠点とをもっているというこ とを言う に止めておく。 ′. む. す. む なく 項 目 を 削 り、 文 章 も つ め て や っ と ま と め た。. その鴬の無理や書足りない点も目立ち、 筆者自身何 と・も 不 満 な も の に な っ て しま っ たが 今は 目 を つ む っ. び. て一礁筆をおく。 他日紙数を得て必ず補稿すること をお約束 して大方の御諒恕を得. たい。. 日本の文整学界の現状は岡崎女塾学と歴史砥会学源と. 16.
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