(第9回日本土木史研究発表会論文集1989年6月)
函 館 、札 幌 、帯 広 の 都 市 計 画
―1930・40年 代 の 計 画 思 想 の 発 展
正会員 神奈川県都市部都市政策課 ・日本大学理工学部講師 越 沢 明
Planning of Hakodate, Sapporo and Obihiro
Japanese Planning Theory and Concept in 1930's and 1940's
Akira Koshizawa 概 要 戦 前の 昭 和 期(1930年 ・40年 代)は 戦 時 色 が 強 くな る 時代 の 特 徴 か ら、 都 市 計 画 は あ た か も何 の 進 歩 も な く、 暗 い 時代 で あ った か の 印 象 を 持 た れ て い るが 、 こ れ は 事 実 に反 す る。 む しろ 日本 初 の 本 格 的 な都 市 計 画 事業 で あ る帝 都復 興 事 業 の 完成 の後 、 そ の経 験 を 生 か し、 また 欧米 都 市 計画 の動 向 を踏 まえ て 、 日本 の都 市 計 画 は 新 た な展 開 が 図 られ て い る。 函 館 は1934年 の 大 火 を契 機 と して 、全 市 街 を 広 幅 員 の 防 火緑 樹 道 路 に よ って 分 断 す る構想 が樹 て られ 、 実 現 を み た。 また こ れは 都 市 計 画 事 業 に よ っ てつ くられ た 初 の 本格 的 な ブ ール バ ール で あ る 。 札幌 はす で に 既成 市 街 地 の街 路 が 完 成 して い た が 、1936年 、 公 園系 統 の考 え方 に も と づ き、 広 幅 員 の 放射 環 状 道 路 を配 置 す る雄 大 な街 路 網 が計 画 され た 、 ま た合 わ せ て風 致 地 区 も計 画 さ れ た が、 こ れ らの 計 画 は 戦後 廃 止 され て しま っ た。 帯 広 で は1944年 、 街 路 網 が 決 定 さ れ た。 これ は斜 路 と広 場 を 配 置 す るな ど従 来 の 帯 広 の 都市 形 態 を発 展 さ せ た 都 市 デ ザ イ ン で あ っ たが 、 この 計 画 も戦 後 、 ほ とん ど継 承 され な か っ た 。 こ れ らの 市 街 地 構成 の原 理 と街路 設 計 の 思 想 は 今 日、 な お学 ぶ 点 が 少 な くな い 。 1、 は じ め に 筆者 が別稿(越 沢1987)で 明 らか に した よ うに、 日本 の都 市 計画 の発 展過 程 をみ ると、戦 前 昭和期 に都 市計 画 の思想 と技術 の面 で大 きな発 展 が あ り、戦 後 の都市 計 画の 基礎 が形 成 され て い る。 この時代 につ いて は 、戦 時下 で あ るため都 市 計画 に つい ては何 ら見 るべ き成 果 のな いよ うに従 来 、思 わ れが ちで あち たが 、 これ は実証 抜 きの 誤 っ た見 方 で あ る。 筆 者の 別稿 は 日本 全 体の 状況 を分析 して お り、 個 々の都 市計 画の 実態 まで は取 りあげ て いな い 。 そ こで本稿 は 、土木 学会 の 日本 土木 史 研究 発表 会 の開催 地 であ る北海 道 に因 ん で、北 海 道 の主要 都 市 で あ る函 館、 札幌 、帯 広 を例 に と り`、1930年代 、 1940年 代の 都市 計画 の特 徴 につ いて論 じたもの で あ る。
2.函 館 の 復 興 都 市 計 画 (1934年) 函 館 は昭和 初期 まで北 海 道 ・東北 地 方で 最大 の 都市 で あ った(1930年 当時 、函 館 の人 口 は全国 で 9番 目で 、札 幌 ・仙 台 よ りも大 きい、1940年 に は 17番 目に低下 す る)。1940年 当時 は、 人 口20万 人 以 上 の都市 は 日本 内 地 で17都 市 で あ ったが 、 この う ち戦 前に お いて、 全面 的 な都 市 改造 が実 行 され たの は 関東 大 震災 の被 害 を 受 けた東 京 と横浜 、 そ して1934年(昭 和9年)に 大火 に 襲わ れ た函館 の 3市 に 限 られ る。災害 の復 興 と いう形 で しか都市 計 画 が実施 に移 され な いの は、 日本 内地(北 海 道 も内地 に含 まれ る)の 悲 しむべ き実態 であ った が、 帝 都復 興事 業 と函 館 の復 興事 業 は それぞ れ 、 日本 都 市計 画 の発展 の エポ ック メ ーキ ングで あ った 。 帝都 復興 事 業で 何が な さ れた か、 そ の認識 が都 市 計画 界 に おいて さ え一般 化 して いな い今 日、函 館 の復 興事 業 の意義 につ い ても その認 識 が確 立 し て いな いの は致 し方 のな い こ とで あろ う。 本稿 で は、1934年 の函館 復 興事 業 が いかな る点 で 日本 の都 市計画 史上 、意 義が あ るのか と いう点 に 限定 して 以下 、述 べ たい と思 う(し たが って復 興 事業 その もの の詳 細な経 緯 に は言及 しな い)。 函館 は明 治大正 期 、頻繁 に大火 が生 じて いる。 これ は北海 道の 玄 関 と して 、満足 な都 市 計画 な し に 急速 に市 街化 が進 む一方 、 外洋 に突 き出 した地 形 の条 件か ら風 が強 く、一 旦 、火 災 が発生 す ると 広 い範 囲 に延焼 したため で あ る。そ の中 で も1879 年(明 治12年)の 大火 の復 興 の際 は、 防火 線道 路(現 在の 二十 間坂 な ど)を つ く り、区画 を整理 す るな ど、 都市 計画 的な措置 が採 られて い る[図 1]。 1934年3月21日 の大 火 は未 曽有 の もので 、 当時 の全戸 数4万2000の う ち2万4168戸 が焼 失す ると い う大 災害 とな っ た。 これ を機会 に内務 省都 市 計画 課の 直接 の指導 の下 に抜本 的 な都市 改 造プ ラ ンが 策定 され 、焼失 区域 全 域 とその 周辺 を合わ せ て422haの 地 区に対 して 復 興事業(1934∼1940 図1函 館 の明治12年大火跡 地の改正1879年 1878年(明 治11年)、 大 火で13町 が焼失 した 。 この とき、 開拓使 の鈴 木書 記 官の 指 示 で区 画の 整理 を行な い、 弁 天町 ・大 町の 大通 りは幅 員12問 、 小路 で も6問 以上 と した。 翌1879年 の大 火(総 戸 数6000の うち2326戸 焼失)の 際 、前年 の整 理 地区 は類 焼 せず、 その 効果 が 明 らか とな っ た。そ こで 再び 鈴 木権 大書 記官 の指 示 で焼跡 の整 理 を断 行 した 。図 の うち黒 い実 戦 は1879年 前の 在来 道 路で あ り、焼 失 区域(図 中 央 の塗 りつ ぶ しを して いな い 白い地 区)の 中に あ る旧道 路 は廃止 され た。 また、 消防線 道 路 に指定 し た街 路 に面 した家 屋 は石 造煉 瓦土 蔵 に限定 した(今 日 も現存 す るもの あ り),こ の結果 、 今 日の函館 の 西部 市街 が で きあ が った。
年)が 実施 され た。 当初 の復 興計 画の ブ ラン は こ の 復興 事業 の実施 によ って ほ とん ど実 現 して い る [図2、3] 1934,年3月 末 、内務 省 都市 計画 課 よ り飯 沼 一 省(課 長) 、桜井英記(土 木主任技師)ら が函 館 に赴 き、現 地 で神尾 守次(都 市計 画北 海道 地方 委 員 会技 師)と 共 に温 泉 に泊 り込 んで 、復興 の プ ラ ンを練 り上 げ た。 これは筆 者 が生 前、 桜井 英記 氏 よ り伺 っ た とこ ろに よ る(温 泉 は湯 の川温 泉 か ?)。 1934年4月6日 、内務 省 に おいて 函館 復興 計 画 に関 す る第 一回会議 が 開か れ、 内務 省 よ り飯 沼 一省 課長 、 中島清二 事 務官 、桜 井英 記技 師 、菱 田厚 介 技師(建 築 の主 任)、 北海 道庁 よ り泊武 治 土 木 部長 な ど関係 官参 集 の上 で協 議 を進 め、 次の よ うな復 興計 画案 大網(つ ま りマ ス タ ーブラ ン) の三 大方 針 を決定 した。 ① 土 地区画 整理 を断 行 ②公 園 施設 の増 設 ③幅 員55mの 大道 路 を増 設 す る外 、 都市 計画 線 を追 加 す るこ と この 函 館の復 興計 画 マ ス タ ーブ ラン の特 徴 を一 言 でい えば 、函館 の 防火 都 市 への改 造 で ある。 つ ま り、幅 員55m(30間)と36m(20問) と い う防 火緑 樹帯 道路 に よっ て市 街 地 を分断 し、 防 火 ブ ロ ックをつ く り、火 災 の延 焼 を各 ブ ロック で 止め よう とす るもの で あ る。防 火道 路 の交点 に は公 園 や耐 火建 築(RC造 の小 学 校 、寺 院、宮 庁) を配 置 し、 防火 の効果 を高 め よ うと して いる。 防 火緑 樹帯 道 路は 中央 部 に幅 の広 いプ ロムナ ー ドと植 樹 帯 を有 して い る。55m道 路は 中央 に幅 14問(25.4m)、36m道 路 で は幅7間(12.7 m>が グ リーンベル トと して 設計 され 、林 の よ う な様 相 を育 て上 げ る こと を計 画 した 。こ のよ うな ブ ールバ ールは 、平 時 は市 民 の健康 と レク リエ ー シ ョン に資 す るこ とも合 わ せて 目的 と して い る。 この ブ ール バ ール は幹 線交 通 路 には 使用 され ず、 路 面電 車 も別 の街路 を走 っ て いる。 この55m街 路 は東京 の 昭和 通 、大 阪の 御堂 筋、 も幅 員 が広 く、 また この よ うな本格 的 なベ ール バ ール を市 内 につ く りあげ た の は、 日本 で初 の こと で ある。 図2函 館 の復興 計画 若松町 ・松風町周辺 筆者所蔵 函館 の復 興計 画 は帝都 復 興 事業 を指導 した 日本 の都市 計画 の大 家 。専 門家 、 一 池 田宏(後 藤 新 平 のブ レーン、 元帝 都復 興 院 計画局 長)、 佐野 利 器(後 藤 新平 の ブ レーン、 元 帝都 復興 院建 築局 長 、 建 築 学会 長、 東大 教授)、 伊部 貞吉(佐 野 利器 の 腹 心 、 区画整 理 の技術 的 な権 威)も 応援 し、実 際 の 事業 は道 庁 の幹 部職員 が函 館 市復 興事 務局 のポ ス トを兼務 す るな ど、 国 と道 庁 の全 面的 な支 援 に よ り、 短期 間で 事業 を成 し遂 げ た。 当初 の計 画 と 最終 の完 成 状況 をみ ると、 公 園 が漁業 者 の網干 場 の関 係、 官公 庁建 物 の用 地 の ため 、部分 的に縮 小 ・廃止 され たこ と、また函館公園へ通 じる広路な ど が、未 完成 な こ とを除 けば 、原 計画 の意 図 した も のは ほぼ完 全 に実現 した と言 え る。 また 、今 日、函 館の 財産 で あ る函 館 山か らの夜 景 は復 興事業 が あれば こそ で き あが った もの で あ る(函 館 の夜景 は道路景 で あ り、 高層 ビル に よ る 建 築景 で はな い ため)。 筆者 は別 稿(越 沢1988a)で 近代 日本 の広幅 員 街路 の歴 史 につ いて論 じて お り、 函館 の 防火緑 樹 帯道 路の 位置 づ けにつ い ては合 わ せて そ れを参 照 され た い。
3.内 務 省 の 都 市 計 画 思 想 防火 ・不燃化 という こと は明治 以来 、 日本 の都 市 計画 の重要 課題 で あ った。 また1930年 代 、 欧 州 と 日本 では戦 時色 を背景 と して 防空都 市 計画 (空 襲 に強 い都 市構造 をつ くる)の 考 え方 が都 市 計 画 の課題 とな った。函館 の復 興都 市計 画 は、 こ れ まで の 日本 の都 市計画 技 術の蓄 積 を生 か し、 こ の よ うな防火 と防空 の要 請 に対応 した全 面 的 な都 市 改造 を実 施 す る最初 の好 機会 で あ ったの で あ る。 その 後 、内務省 は1939年7月17日 、 内務 次 官 通牒 と して 「防空土 木一 般指 導要 領」 を各 省 、 各 庁 府県 に示 して い る。 これは鉄 道、 港湾 、道 路 、 河 川 な どあ らゆる土木 施設 の 設計 と施工 に あ たっ て 防空 上考慮 す べ き事 項 を指示 した もの で あ る。 こ の うち都市 計画 につ いて は、 次の よ うな事 が記 され いる(引 用 は抜 粋 に とどめ る)。 -企 画設計 に 当 り考 慮 すべ き事 項 (1)都 市の形 態 (イ)大 都市 に於 い ては地形 、土 地 の用 途、 人 口密 度等 に応 じ、市街 地 を成 るべ く 緑 地 を以 て適 当 の大 さの区 画 に分 割す るこ と (ロ)区画 を構 成す る内可能 な るも の に就 いて は高速 交通 及避難 交 通 に利用 し得 な交 通線 を 付帯 せ しむ るこ と (ニ)都 市の 周辺 は緑 地 を以 て囲続 せ しめ 、 都市 の不適 当な膨張 を阻止 す る こと (2)都 市 の防火 的構 築 (イ)市 街 地中 には 広幅 員の 防火道 路 、河 川濠 渠 、高架 鉄 道、公 園緑 地並 防 火地 区等 に依 り、 市街 地 を適 当の防 火 区画 に分割 す る こと (ロ)既 存 の交 通線 は成 るべ く之 に緑 地 を 付 帯 せ しめ 、前 項 の区画構 成 に利 用 す るこ と こ の 防 空 土 木 一 般 指 導 要 領 に 示 さ れ た 街 路 と緑 地 の 設 計想 想 は 今 日、 「防 災 と み ど り の 都 市 計 画 」 と で も キ ャ チ フ レ ーズ 、 コ ピ ー を 貼 りか え さ え す れ ば 、 そ の ま ま通 用 す る も の で あ り、 む し ろ 、 今 日 で こ そ 改 め て 追 究 す べ き テ ー マ と い え よ う。 一方 、1941年 にな る と、内 務省 計画局 は新興 工 業都 市建 設の 指導要 領 を策 定 し、広 幅員街 路 と緑 地 を重視 した市街 地構 成の 考 え方(つ ま り都 市デ ザ イ ンの原理)を 明 確に示 して い る(詳 しくは、越 沢 1987を参 照 の こ と)。 この ような市街 地構 成 の考 え方 は戦 後 の戦災 復興 計 画(規 模 が縮小 され る前の 当初 案)の 設計思 想 の ベ ース をつ くって い たの であ る。 そ して、以 下述 べ る1930年 ・40年 代 の札 幌 都市 計画 はそ の先 駆 的 な試 み のひ とつ であ った。 3.札 幌 の ブ ー ル バ ー ル と 準 公 園 系 統(1936年) 札幌 に都 市 計画法 が適 用 され たの は1923年( 大正12年)5月 で あ る。 しか し、実 際 の都市 計 画 施 設 の決 定 は1936年(昭 和11年)に な ってか らで ある。都 市計 画法 適用 の 当時 、北 海道 庁 で は札 幌 の 隣接 町村 の土 地調 査 を行 っ てお り、 図面 を は じ め とす る資料 の収 集 に非常 な労力 を費 した と い う。 まず、 都市 計画街 路網 の調査 に取 りかか り、193 0年 に第1次 案 を 作成、 さ らに1932年 に 第2次 案 作成 し、そ れに対 す る内務 省都 市計画 課 の指 示 に も とづ き調査 を続 け、1934年 に最終 案 を作 成 、 さ らに内務省 の指 示で 訂正 を加 え、1936年10 月 に決定 をみ た(内 務省 告示 第534号)。 そ の決 定 理 由書 は次 の ように述 べ て いる。 札幌都市計画街路決定理由書 市 の中 央部 は明治4年5月 開拓 使 の計 画 に係 り、従 て街 衛整然 そ の幅員 広 潤 に して概 ね11 間 及6間 を有 す 。殊 に大通 と称 せ られ るもの は そ の幅員58問 を有 す る とい え ども 、市 の 発達 に伴 ひ不規 則 な る街 路 随所 に現 はれ 、殊 に市 内 の 一部 及隣 接町村 の区 域 は道 路甚 だ不 整而 も幅 員 狭溢 に して近代 的交 通機 関 の利用 に適せ さ る ものあ り。茲 に於 て街 路網計 画 を決定 し、都市 構築 の根 幹 を示 し、 交通 上 の欠 陥を 除去 す ると 共 に系 統的 交通網 を確 立 す るこ とは実 に現 下 の 急務 に属 す 。
街路 計画 を樹つ るに 当 り地 勢 、地域 、河川 、 鉄 道等 の関係 を考慮 し、 先 づ中央 部 は 区籔 整然 たる ものあ りと雖 も、多 少の 不規 則 な きに非 ざ るを以 て、之 を整正 す るに止 め、稍 々都 心部 を 離 る るに及 漸次放 射並 に環 状 に幹線 を更 に是 等 幹線 を基準 として補助 幹線 を 配置 し、 以 て土 地 の状況 に適応 せ しめた り。 尚今 後の都 市施設 と して緑 地帯 の 存置 は独 り 市 民の保 健及都 市の美 観 上必 要な るのみ な らず 、 偶 々火災 其の他 の災禍 の突発 に際 して は是等 施 設 に俟つ べ きもの ある を以て 、現在 市 内及 近 郊 に点 在せ る公園及 自然 緑 地 と連 繋 を と り、且 、 将来 の都市 計画公 園の 連鎖 た らしむ るべ く、広 路及緑 地帯 を考慮 した る幹線 街 路 を配 した り。 其 の路線 数60延 長 約247kmに 達 す る。 この決定 理 由書か ら明 らかな よ うに市街 地 は すで に 開拓地 の殖民 区画 として 整然 として街 路網 が で き あ が って い るため、新 設 の街 路 は主 に郊外 に配置 さ れ て いる。 しか も、 公園系 統(バ ーク シ ステ ム)を 構 成 す るよ う広 路(ブ ール バ ール)を 放射 ・環状 に 計 画 して い るこ とが一 大特 徴 で あ る。既 設 の大 通 も この広路 のひ とつ と して 位 置づ け られ た[図4]。 新 設の 広路6本 はい ずれ も幅員55m以 上 で、 う ち3本 は80m以 上 の区 間 を有 して い る。 しか もそ の 計画断 面 をみ ると河川 を 取 り込 ん で るい るのが 特徴 で あ る[図5]。 札 幌 の街路 計画 は満 州 、 台湾 な ど植 民 地 を除 けば 、 初 め て のブ ール バ ール ・公 園道路 を本 格 的 に配置 し た街 路網 で あ り、 しかも河 川 を取 り込 ん で 設計 した ブ ールバ ール と して も初め てで あ った。 1920年 代 の欧米 の都 市 計画 思潮 の影 響 を受 け て、 日本 で も公 園緑 地系 統 が 重視 さ れ るよ うにな り、 東 京 で は内務 省が 中心 とな り東京 緑地 計画 を調査 し、 策 定 して い る。東京 で はブ ールバ ール と して、河 川 沿 いに保健 道 路が 計画 され てい る(詳 し くは、越 沢 1988bを 参 照)。 しか し戦 前で は東 京 の既存 の 幹線 道 路網 を公 園系統 の 視 点 か ら全 面 的 に練 り直 す とい うこ とはな か った。 この課題 は東 京の戦 災復 興 計画(1946年 の 当初 計画)で 実 現 され るこ と にな る(詳 し くは越 沢1989)。 戦前 にお いて、 緑 地思 想 に もとつ く全市 に わ た る雄大 な幹 線道 路 網 を計画 したの は植民 地(新 京 、ハル ビン、 大東 港 、 台北 、高雄 な ど)を 除 けば 、札 幌 のみ で あ る。 札幌 で は道路網 に合 わせ て1939年7月 、風致 地 区が 決定 され た 。そ の指 定 され た地 区 に は藻 岩 山 の ような森林 の 他 に、広 路 に沿 ってそ の両 側 に風致 地 区が 設定 され て い る。 これ は道 路の沿 道 の建 物 を コ ン トロ ール し、広路 の植 樹 帯 と合 いま って 、準公 園 的な 風致景 観 をつ く り出 す こ とをね らっ たもの で あ る。 また防 火帯 をつ くり出す ことも役 目のひ とつ で あ った[図6、 図7]。 この よ うな広幅 員街 路 と風 致 地区 を セ ッ トにす る 方 式 は、 日本 では初 め ての ことで あ る。 表1 札 幌 の 都 市 計 画 街 路 (注)広 路以外の街路は省略 した。
図4 札幌の都市計画街路
図6 札 幌 の風致 地 区
戦後 、札 幌の 都市 計画 街路 の変 更 ・見 直 しの 際、 広 路の うち多 くは幅員 縮小 して お り、 また公 園道 路 と い う名 称 も使用 され な くな った 。 また風 致地 区 に つ いて は戦時 中、 既存 の森 林 や大通 で は樹 木 が乱伐 され た り、 畠と化 し、 また戦後 は風致 地 区 の規 制 は 有 名無 実化 し、 いた る所 、建 築活 動 が進 行 した。広 路 に沿 った計画風 致 地区 で は民意 の協 力 が得 られ ず 、 事 実 上 、廃止 せ ざ るを得 な くな った 。 こ う して、 戦前 に計 画 され た雄大 な公 園系 統 の機 能 をも つ街路網 計画 はその 目的 を達 成 す るこ とが で きな い まま、札 幌の 市街化 の波 の中 に埋 没 して しま い、 この よ うな計画 の意 図 が あった こ とさ え、 今 日 で はす っか り忘 れ去 られ て いる。 ちな みに広 路5号 、7号 は現 在 、都市 計 画道 路3 ・2・10環 状 通 とな って い るが、 幅員 は36mに 縮 小 され て いる。そ れ で も6車 線 に 比較 的広 い中央 分 離帯 を有 す る形で整 備 さ れて い るが、 戦前 の全 幅 員55mの うち 幅30.5mを 樹林 帯 とす ると いう 雄 大 な原 計画 と比 べ る と、残念 な が ら街 路 計画 の思 想 と しては現在 の環 状 通 は見劣 りす ると言 わ ざ るを えな い。 4.帯 広 の 街 路 と 広 場 (1944年) 帯広 は 明治 時代 、北海 道 の開拓(当 時 の言 葉で は 殖 民地 選定)の 中 で、市 街地 の区 画設 定 に よ り誕 生 し た典 型 的な都 市 であ る。1892年(明 治25年) と1893年 、 市街地 区 画 がな され、 市 街地 の貸 下 が 開始 され た 。区間 は方60間 を大区 画 と し、 これ を 間 口6問 奥行27問(162坪)の20の 小区 画 に 分 け、貸 下 げた 。大 区画 は丁 目を も って数 え て お り、格 子状 の街 路網 とな っ て いる[図8]。 帯広 の市 街地 区画 の都 市デ ザ イ ンと して の特徴 は 斜 めに 幅12問 の火 防線 と い う防 火道 路 が設 け られ て いる こと、 また斜 路の 交差 地 に数 カ所 、広 場 を設 けて い るこ とで あ り、 これ は北 海道 の他 の 都市 で は 類 例が な い。 この斜 路 の火 防線(水 光 園通 、幅 員 36m)は 現 在 、 プロム ナ ー ドと して整 備 され 、北 海 道の 単調 な都 市形態 ・市街 地 景観 を打 ち 破 るす ぐ れ た施 設 とな って いる。 現在 、広 場 は公 共施 設用 地 とな って お り、 いわ ゆ る広 場 と して の形 態 は保 って い ない。 鉄道 南へ の市 街地 拡 張 に あた って も斜路 と 広 場 を組 合せ た都 市デザ イ ンは継 承 され て お り、 広 場 は大 通公 園 と して現存 して いる。 帯広 は 市街 地の イン フ ラ整 備が すべ て 完成 して い たため 、都 市 計画法 の適 用 後 も、何 の都 市 計画 決定 もな され なか っ たが、1944年(昭 和19年)に 表2 札 幌 都 市 計 画 風 致 地 区 (注)路 線型以外の もの は省略した。
図8 帯広の市街図1915年 全 市の都 市計 画街 路網 が決 定 され た。 これ が帯 広の 近 代都 市計画 と しての 最初 の ブ ランで あ る[図9]。 一般 に1943∼45年 の都 市計 画資 料 は戦 争末 期 のた め、全 国的 に も乏 し く(都 市 計画 法 の 戦時特 例 のた め、事務 手続 きが簡 素化 さ れた こ と、情 報の 秘 匿 ・用 紙の不 足 、戦災 と終 戦直後 の文 書 廃棄 な ど が原 因)、 北海 道庁 で は、 全 国の他 の府 県 に比 べて 都市 計画 文書 の保存 状態 が 悪 い(戦 前 の文 書が何 ひ とつ保存 され て いない)。 したが って、 この帯広 の 1944年 の街 路計画 は、 わず か に市 に図面 が一 枚 保 存 され て いるのみ で、 関連 の文 書 が何 ひ とつ現 存 せ ず、 また 『帯 広市史 』(1960年 刊)で も何 の 記 述 もな い。 この ため、 筆者 の 図面 の読 み込 み に よ るひ とつ の解釈 を述 べ るに とどめ る。 殖民 地の 市街地 区画 と しての帯 広 の街 路 は方60 間 の区 間 に対 して幅員15問 と11間 の街 路 が交互 に 配置 され て いる。南 北方 向 は中 間 に幅6間 の細街 路 を さ らに挿 入 して い る。1944年 の街 路 計画 は、 殖民 地 の区画 の上 に重 ねて 幹 線街路 の ネ ッ トワ ーク を定 め た もので も、 これ まで の帯広 の 都市 デ ザ イン (斜 路 と広場)を よ り強 調 したも の とな って い る。 大 通公 園道(現 在 の西 南 大通)、 西 大通(現 在 の 西南大 通)は 幅 員20間 に拡幅 さ れ、東 大 通(現 在 も東 大通)は 広 路 と して幅 員26問 と して新 設 され て いる。 また斜路 の交差 地 な ど随所 に広 場が設 定 され て い る。 これ はそ の形 態 と大 き さを考 え る と交通 処理 の た め だけの もの ではな く、装飾 広場 と して の効果 を ね らっ て いるの は間違 いな い。 また十勝 川 を渡 る既 存 の2本 幹線 道路 は十勝 大 橋 の手前 で合 流 し、や は り広場 が設 け られ て い る。 これ らの広場 は 戦後の 都 市 計画 街 路図 の見 直 しの中 で すべ て廃止 され て い る の は誠 に 残念 な こ とで あ る[図9、 図10]、 帯 広 の1944年 の都 市 計画街 路 網に は札幌 の よ う な公 園系 統 の考 え方 はな い。 む しろ帯 広の 計画 は ユ9世 紀 の古典 的なバ ロツ ク都市 計 画の再 現 とい っ て よ いも ので、戦 争 末期 に この よ うな牧 歌 的な 都市 計 画 が実 際 に決定 さ れて い た事実 に は驚 きを覚 え る。 そ して この 計画 の特徴 は 古典 的な 街路 景観 の設 計手 法(ビ ス タと広場)を 伸 び 伸び と北 海道 の大 地 に適 用 した もので ある。 5.終 わ り に 今 日、誰 も が重視 す る よ うにな った都 市デ ザ イン 、 街 路 の景 観設 計 につ いて は、 植栽 や舗装 の色 や材質 、 ス トリー ト ・ファ ーニチ ャ ー とい ったい わばデ ィテ ール の処 理の 問題 が強 調 され て い る。それはそれで 非 常 に重 要 な ことで あ るが、1944年 の 帯広 の街 路網 のデ ザ イン に見 られ る ような骨 太 の イン フラ を つ くる とい うゆ った りと した スケ ール感 覚 の都 市設 計 こそ 、北 海道 の大 地 にふ さわ しい もの で あ る し、 今 日、 再評 価 され るべ き もので はな いだ ろうか。 1936年 の札 幌 、そ して1944年 の帯 広の 街 路 網 計画 と街路 設計 にみ られ る骨太 の都 市計画 思 想 が 戦後 、 全 国的 な戦災 復興 計 画 の見 直 し亀縮小 の後 は 消 え うせ て しま ったか に みえ る こ とは残 念 な事態 で あ る。
図10 帯広 の都市 計 画街 路1977年 ■参考 文献 ・越沢 明 「戦 時時 の住宅 政策 と都 市 計画」 、 近代 日 本研 究 会編 『戦 時経 済 』 山川 出版社 、1987年 。 [越沢1987] ・越 沢明 「近 代 日本 都市 計 画 に おけ る広 幅員 街 路の 系譜 」 『第8回 日本 土木 史 研究発 表会 論文 集 』 1988年 。[越 沢1988a] ・越沢 明 「昭和 の東 京都 市 計 画」 『戦災 復興 期東 京 1万 分 の1地 形 図集 成解 題 』柏 書房 、1988年 。 [越沢1988b] ・ 『文化遺 産 と して の街路 』(昭 和63年 度 研 究調 査 報告会 用資 料)、 国際 交 通安全 学会(研 究 メ ン バ ーは中村 良夫 、篠原 修 、 越沢 明、天 野光 一)う ち越 沢担 当部 分 。[越 沢1989] ・神尾 守次 「函館市 の復 興 事 業に就 い て」 『土木 学 会誌 』25巻2号 、1939年 。 ・ 『函 館大 火 の惨状 と復 興 と途上 の大函 館 』第2報 、 小 島大盛堂 、1939年 。 ・塩谷 勇『 函館復 興 事業 に 就 いて」 『都 市公 論』 20巻9号 、1937年 。 ・ 『函 館市史 資料 集』 第6集 、函館市史編纂委員会、 1956年 。 ・ 『函館 都市 計画概 況 』函 館 市、1941年 。 ・神尾 守 次 「北海道 都市 建 設 の特殊 性 」 『都 市公 論 』 20巻7号 、1937年 。 ・ 『札 幌都 市 計画 概 要』 札 幌市建 設 部計 画課 、 1954年 。 ・ 『札幌 都市 計画 資料編 』札幌 市 企画 調整 局計 画 部 、1985年 。 ・ 『帯広 の百 年』 帯広 市史 編 纂委 員会 、1982年 。 ・ 『明治期 作 成の 地 図』佐 藤 甚次 郎、古 今書 院、 1986年 。 ■ 付記 帯 広市 都市 計画 課 の富 岡 浩二 係長 、函 館市 都市 景 観 保存対 策事 務局 の 山本 真 也技 師 に1988年 の調 査 中お世 話 にな りま した 。 謝意 を表 します。