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<論文>ハンガリーにおける体制転換の公的記憶とその起点:「第三の共和国」をめぐって

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はじめに

 本稿ではハンガリーにおける体制転換の公的記憶のあり方を考察すべく、2009 年秋のハンガリーで公的な言説として用いられた「第三の共和国」論(体制転換後 のハンガリーを複数政党制による議会制民主主義の共和国としては同国の歴史上三 番目であると位置づける歴史認識)に注目する。この歴史認識は政治体制において 社会主義期のハンガリー人民共和国との相違を明示しようと試みたものであった。 しかし、この「第三の共和国」論で一番目とされた 1918-19 年のカーロイ・ミハー イ政権期の「人民共和国」が「第一の共和国」として位置づけられるようになった 起点は、1960 年代前半、すなわち 1956 年のハンガリー事件後に政権に就いたカー ダール・ヤーノシュが主導する体制の時期に見出すことができる。  1989-90 年の体制転換後、特に 2000 年代後半以降のハンガリーの政治情勢では 社会主義体制の経験という公的記憶が大きな要素となっている。例えば 2010 年 4 月の総選挙で第二次オルバーン・ヴィクトル政権が発足した際、オルバーンはこの 勝利を投票所で起きた革命と位置づけ、体制転換の総仕上げとして「国民的協力体 制」〔a Nemzeti Együttműködés Rendszere〕の下で従来の政治システムを大きく 変 え る 諸 政 策 を 進 め た1。2012 年 1 月 に 施 行 さ れ た 新 憲 法 で あ る 基 本 法 〔Alaptörvény〕はその象徴的な例であった。この政権交代の大きな要因には 2006 年(1956 年のハンガリー事件から 50 周年)秋の社会党(旧社会主義労働者党)に よる政治スキャンダルに端を発した混乱があった2  体制転換を経てハンガリーでの現代史をめぐる状況は大きく変化した3。とりわ け現代史の「トラウマ」をめぐる記憶の政治化が特徴的である。そもそもハンガリ ーの体制転換自体が記憶と歴史の政治化を伴っていた。その象徴がカーダール体制 下で「反革命」とされてきた 1956 年のハンガリー事件の再評価だった4。ハンガリ

ハンガリーにおける体制転換の公的記憶とその起点:

「第三の共和国」をめぐって

辻 河 典 子

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ー現代史の「トラウマ」にはこの他にもホロコースト、第一次世界大戦後の歴史的 領土の解体とそれを国際的に確定させたトリアノン条約などがある。いずれも体制 転換後にはその歴史解釈をめぐって論争が生まれ、記憶と歴史の政治化が引き起こ されてきた5  記憶に関する研究としては 1980-90 年代にフランスで進められたピエール・ノラ らによる「記憶の場」の共同研究が日本でも知られているが、体制転換後のハンガ リーの歴史研究でも 1970 年代から 1980 年代にかけて西欧や合衆国で登場した様々 な方法論(ポスト構造主義、ミクロストリア、オーラル・ヒストリー、歴史人類 学、文脈主義的な知識史、ジェンダー史など)が受容され6、これを背景として記 憶と歴史の関係、歴史認識の形成に記憶が果たす役割、記念儀礼、集合的記憶の特 性などが歴史研究のテーマとして取り上げられるようになった7。この取り組みは まず 1919 年と 1945-89 年の両方の社会主義体制の下での記念にまつわる表象の研 究から進められた。2000 年代にはこの研究手法が近代史まで拡大し、1848-49 年革 命の記憶やハプスブルク君主国解体関連の集合的記憶・神話が主要な研究テーマの 一つとして論じられるようになった8  体制転換後のハンガリーでは社会史の研究も大幅に進展した。中でもジャーニ・ ガーボルは記憶と歴史認識の問題に積極的に取り組んでおり、ハンガリーではアカ デミズム外の傾向としてトリアノン条約および同条約に象徴されるハンガリーの歴 史的領土の解体を国民が分断された悲劇として描かれる一方でホロコーストに象徴 されるユダヤ人に対する諸政策への言及が回避されることについても彼は論じてき た9。この他にも 20 世紀ハンガリー史の集合的記憶や神話化、スケープゴートの問 題は様々に論じられている10。本稿では詳しく取り上げないが、後述するカーロ イ・ミハーイも「第一の共和国」を率いた人物として肯定されることがある一方 で、歴史的領土の解体のスケープゴートとして否定されることもある11  このようなハンガリー現代史と記憶をめぐる研究状況およびそれを取り巻く政治 状況の中で、近年では体制転換後の時期を考察する研究も登場している。こうした 研究の成果は歴史学だけでなく、政治学や社会学など隣接ディシプリンからも示さ れている12。これらの研究は体制転換の公的記憶の受容と公共空間への表象のあり 方というテーマで共通する。

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 以上から、本稿では 1989-90 年の体制転換のハンガリー社会における受容のあり 方を考える手がかりとして、新体制への移行が宣言された 1989 年 10 月 23 日以降 のハンガリー共和国を「第三の共和国」として位置づける歴史認識を取り上げる。 この立場は体制転換後のハンガリーを特徴づけるものとして公的空間(主に政治や メディア)、特に 2009 年 10 月に当時の社会党政権が体制転換 20 周年とハンガリー 事件 53 周年を記念する行事の中で公式に提示された。しかし、この歴史認識にお いて「第一の共和国」と見なされたカーロイ政権下の「人民共和国」(1918 年 11 月 16 日から 1919 年 3 月 20 日)が「第一の共和国」と位置づけられるようになる 契機はカーダール体制下の 1960 年代初頭にあった。以下では、まず 1.で「第三 の共和国」論について概観した後、2.でカーロイ政権における「共和国」の位置 づけを考察する。その上で 3.ではハンガリーで王制が廃止された 1946 年以降の 「共和国」の位置づけ方の変化を明らかにする。  本稿で主に参照するメディア関連の文献は日刊紙『人民の自由 』、 および非歴史研究者向けの歴史雑誌や解説書である。『人民の自由』紙は 1948 年 6 月 12 日の社会民主党の解体と共産党への合同によって成立したハンガリー勤労者 党の機関紙『自由な人民 』13を前身としており、勤労者党が 1956 年の ハンガリー事件の最中にハンガリー社会主義労働者党へと改名した直後の 1956 年 11 月 2 日から刊行された。体制転換後は社会主義労働者党を継承した社会党との 関係を残しながらもハンガリーで代表的な左派系日刊紙として刊行を続けたが、 2015 年にメディアワークス・ハンガリーが同紙を買収し、2016 年 10 月 8 日付で刊 行を停止した。刊行停止後も 2018 年 5 月時点で同紙 web サイトはアーカイブとし て公開が続いている。こうした来歴を持つ『人民の自由』を調べることで、同紙を 社会主義期においては公的な歴史認識を大衆に伝えるメディアとして、体制転換後 は左派の公的な歴史認識の表明媒体として、その変遷を追跡することが可能とな る。

1.「第三の共和国」

1-1.概要  この「第三の共和国」とは専門的な歴史研究で言及されるというよりも、政治家

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やメディア、あるいは歴史研究者の手によるものでも歴史雑誌や新聞などで一般向

けに書かれた論考において、特に 2000 年代後半に見られた14。2012 年 1 月施行の

基本法〔新憲法〕でハンガリーの国号から共和国が削除されてからは、新体制を推 進したオルバーン政権および与党支持者のみならず、左派でも「第三の共和国」と は違う新しい体制に移行したことは比較的広く認識されている。例えば 2012 年 4 月から 2016 年 10 月には「第四の共和国」〔a negyedik köztársaság〕を目指した

左派系の議会外政党「4K!」が活動している15。2015 年 10 月に体制転換後のハンガ リー共和国初代大統領だったゲンツ・アールパードが亡くなった時には『人民の自 由』の訃報記事で彼は「第三の共和国の初代大統領」と称された16  「第三の共和国」論における共和国の数え方については、ハンガリーの歴史研究 者が編集する一般向け歴史雑誌『ルビコン 』の 1997 年第 8 号に掲載され た論考「ハンガリーの共和国制度」に詳しい17。この論考では「第一の共和国」を 1918 年 11 月 16 日から 1919 年 3 月 20 日までのカーロイ政権下の期間に、「第二の 共和国」を一九四六年第一号法(1946 年 2 月 1 日に施行され、ハンガリーが共和 国であることを規定した)から一九四九年第二〇号法(1936 年のスターリン憲法 を模した憲法として 1949 年 8 月 18 日に成立し、人民共和国として社会主義体制が 確立した)までの期間に、そして「第三の共和国」は一九八九年第三一号法(1989 年 10 月 23 日に施行され、一九四九年第二〇号法を改正して社会主義労働者党の主 導性を放棄し、議会制民主主義への移行が明示された)以降の期間を指すことが解 説されている。また、共和国理念の前史として 18 世紀末のハンガリー・ジャコバ ンと、1848 年革命の中で 1849 年 4 月 14 日にデブレツェンで出された独立宣言、 亡命中のコシュートが執筆した憲法草案、1912 年に結成されるも間もなく禁じら れた全国共和国党が紹介される。なお「第一の共和国」も「第二の共和国」も後に 共産党が主導する一党独裁体制へと移行するが、この論考にもあるようにその期間 は「共和国」として数えられないのが通例である。すなわち「第三の共和国」論は 複数政党制による議会制民主主義を「共和国」の前提と位置づけている18 1-2.2009 年 10 月の公式評価

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『人民の自由』において「第三の共和国」〔a harmadik köztársaság〕という語を含 む記事を検索すると、最もヒット件数が多かった 2006 年分で 29 件と言及された回 数は決して多くない。しかし 2009 年 10 月下旬には「1956 年」53 周年と共に「(第 三の)ハンガリー共和国」20 周年を記念する屋外展示が国家行事として行われて いる19。回数よりも公的な言説として採用されたという点で、「第三の共和国」論 への注目は体制転換の公的記憶の構築を考えるために重要であろう。  以下では、この屋外展示で設置されたパネル(写真 1 と 2)20に掲載された文章 を手がかりに、2009 年当時の社会党を与党とするバイナイ・ゴルドン政権21が公 式に示した「共和国」の歴史認識を検証する。 写真 1: 「20 周年のハンガリー共和国:1956 年 1989 年 2009 年 10 月 23 日」 1956 年革命の参加者たちと自由闘争の英雄たちによる自由で独立した民 主主義的なハンガリーへの諸要求は 1989 年に実現した。2009 年 10 月、 第三のハンガリー共和国の宣言の 20 周年および 1956 年の革命と自由闘争

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写真 2:  人類の歴史の希有で恵まれた時機において、利己主義や憎しみ、野心、 独裁の精神ではなく、良き意思と利他的に役立つ用意があることが、何 百万人もの人生を新たな道へと導く。 1989 4444 年にヨーロッパとハンガリーは新しい道を出発した。4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 東ヨーロッパの国家社会主義体制を強いられた諸人民は自由と民主主義を 望んだ。  1989 年に想像できないことが起こった。6 月 16 日に何万人もの人々の 立ち会いの下で 1956 年の殉教者の首相ナジ・イムレと処刑されたその仲 間たちが再埋葬された。ハンガリーは 6 月 27 日に国〔ハンガリー〕を西 ヨーロッパから分断していた鉄のカーテンを切断した。〔ハンガリーは〕9 月 10 日に自由を求める東ドイツの市民たちの前で国境を開いた。ヨーロ ッパとドイツを二つに分断していたベルリンの壁は 2 ヶ月後に崩壊した。 1989 4444 年4 1044月4 2344日に第三のハンガリー共和国が誕生した。4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 平和裡に、話し合いによって、無血で、新しい諸法律によって。

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 1989 年に奇跡が起きた。ハンガリーは自由で独立した民主主義国家と なった。ハンガリー市民たちの自由の要求、勇気および愛国心によって、 共和国の誕生が達成されただけでなく、統一されたヨーロッパへ至る道で 最初の一歩が成し遂げられた。  1956 年の諸精神とは、今日 2009 年に、1989 年に生まれたハンガリー共 和国の憲法に含まれる諸価値である。1956 年の英雄たちと 1989 年の体制 転換の立役者たちに敬意を表し、生命と活動と愛国心によって 20 周年の ハンガリー共和国の誕生に貢献した全ての者に我々は感謝する。 このパネルを通じて、当時の政権は自らが自由と民主主義に根ざした独立国家を目 指す点で「1956 年」の伝統にもとづいた 1989 年の体制転換の継承者であるという 歴史認識を明確に発信した。この認識に従えば「第三の共和国」が生まれた 1989 年の体制転換はヨーロッパ統合への第一歩でもあった。「第三の共和国」論は欧州 統合を目指す EU にハンガリーが加盟を目指してきた過程とも深く関わっていたこ とが推定される22。このパネルの文章では「第一の共和国」と「第二の共和国」が 何を指すかは具体的に示されていなかった。  社会党内部での「第一の共和国」と「第二の共和国」に関する認識を知る手がか りの例としては、2007 年 8 月 24 日付『人民の自由』が当時の社会党政権のジュル チャーニ首相が前日付の自身のブログでドイツのアンゲラ・メルケル首相に国会議 事堂内にある聖王冠を紹介したことについて「なぜ第三の共和国の象徴が聖王冠に なるのか私には理解できない」、「ハンガリーが自らを 1918 年の、後に 1946 年の共 和国に続く第三の共和国として見なすのは偶然ではない」などとコメントしたこと を伝える記事がある23。この記事からはジュルチャーニも 1918 年成立の共和国を 「第一の共和国」、1946 年成立の共和国を「第二の共和国」と位置づけていたこと がうかがえる。 1-3.1989 年当時の位置づけ  しかし体制転換が始まった 1989 年 10 月の時点では、この「第三の共和国」論は 公式に用いられていなかった。1989 年 10 月 23 日の臨時国会議長スーレシュ・マ

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ーチャーシュによる新体制への移行を宣言する演説では「コシュート・ラヨシュ、 カーロイ・ミハーイとティルディ・ゾルターンの名と結びついた先行するハンガリ ーの諸共和国にならって我々は進む」24とあり、1989 年 10 月 23 日に新たに成立し たハンガリー共和国は四番目の共和国として公には位置づけられていた。  『人民の自由』を確認した限り、同紙上で 1989 年 10 月 23 日以降のハンガリー共 和国の意での「第三の共和国」の用法の初出は 1991 年 2 月 1 日付のハンガリー現代 史研究者のフェイトル・イシュトヴァーンによる論考「我々の共和国」であった25 この記事で彼は 1946 年 2 月 1 日の共和国化を国民の独立と近代化を実現するため であったと説明し、更に 1918-19 年のカーロイ政権と 1989 年以降の政権を結びつ けた26。この他、1980 年代後半にブダペシュトの反体制派知識人を中心に結成され

た自由民主連盟〔Szabad Demokrata Szövetsége:SZDSZ〕所属の国会議員だっ たメーチュ・イムレは 1991 年 10 月に新生共和国 2 周年に際して寄せたコメントの 中で「第三の共和国」の定義を用いた27。但しこれらは例外的な用法であった28 以上より、体制転換後のハンガリー共和国を「第三の共和国」として数える立場 は、ハンガリーの EU 加盟の気運が高まるのと軌を一にして 2000 年代に入ってか ら体制転換の受容の一つのあり方として公的に用いられるようになったと考えられ る。  ところで、この「第三の共和国」論では 1918 年 11 月 16 日にカーロイ政権が成 立を宣言した「人民共和国」が「第一の共和国」として見なされている。しかしこ の「人民共和国」も初めから「第一の共和国」として位置づけられていたわけでは ない。次章からは 1918 年成立の「人民共和国」が 1960 年代前半のカーダール体制 下で「第一の共和国」として表象されるようになる過程を整理したい。

2.「第三の共和国」の起点

2-1.カーロイ政権と「共和国」  1918 年 10 月 23 日から 24 日にかけての夜に、ハンガリー王国議会の議員で大貴 族出身の改革派カーロイ・ミハーイを議長として、彼を党首とする貴族や名望家を 主体とする議会内野党の「独立と四八年党」(通称「カーロイ党」)、ブダペシュト の改革派知識人を主体とする議会外政党の市民急進党、および社会民主党によるハ

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ンガリー国民評議会〔Magyar Nemzeti Tanács〕がブダペシュトで結成された。 ハンガリー国民評議会は 26 日に、この三党の名義で国民評議会の設立と 12 項目か ら成る課題解決を宣言した29。この時点で彼らは共和制の導入までは主張していな かったが、それまで男子制限選挙で国会議員が選出されていたハンガリーを「完全 なる普通・平等・秘密ならびに女性にも拡大した選挙制度を地方自治体も含めて直 ちに導入すること」で民主主義化させることを目指していた。  当初のカーロイ政権は共和制の導入までは主張していなかった。革命によって 1918 年 10 月 31 日に国民評議会を主体とするカーロイ政権が成立した際には、国 王代理だったハプスブルク家のヨージェフ大公から首相の指名を受け、翌日に国王 の同意を受けて正式に政府が発足している。ハプスブルク君主国の解体が進む中で 11 月 13 日に国王カーロイ 4 世が国事行為への関与を断念すると、「経済・軍事・ 外交上のハンガリーの完全なる独立を遅滞なく実現すること」30を国民評議会の綱 領に含めていたカーロイ政権は 11 月 16 日に人民決議を発表して「人民共和国」 〔népköztársaság〕の宣言を行う。  ここでは従来の国会の解散後に人民決議を議決すべく 11 月 16 日午前に開かれた 大国民評議会〔Nagy Nemzeti Tanács〕の議事録を参照し、この「人民共和国」の 理念的特徴を考察する。まず特徴として挙げられるのが 1848-49 年の革命と独立戦 争の継承者を自任したことである。それは人民決議の第一条「ハンガリーはあらゆ る他の国から独立かつ自立した人民共和国である」にも表れている31。議長を務め たホック・ヤーノシュは演説の途中で聴衆の中にいた 1848-49 年の戦闘への参加者 に向き合い、その功績を称えた32。全国共和国党出身の共和主義者ナジ・ジェルジ は「ヨーロッパ東部で 1848 年に形成されたハンガリーのレスプブリカが最初の共 和国であった」33と述べ、カーロイ政権が 1848 年革命の後継者であることを同様に 主張した。一方、社会民主党中央派のクンフィ・ジグモンドは「人民共和国」の実 現に対する謝意を示す先人として、1849 年に共和国を宣言して犠牲を払った人々34 だけでなく、マルティノヴィチ・イグナーツらハンガリー・ジャコバン、第一次世 界大戦で犠牲になったり苦しんだりした人たちやそうしたことから国民評議会に期 待を寄せた人々にも言及した。  第二の特徴として、1918-19 年の「人民共和国」は大衆の政治参加を念頭に置い

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た近代化・国民化を目指した。これは後にカーロイ政権が男女普通選挙権を採用し た選挙法を成立させたことからもうかがえる。大国民評議会でカーロイは「我々の 綱領は国民的であると同時に民主主義的で社会主義的なものを含んでいる」と述べ たが35、カーロイ政権は 1949 年 8 月 20 日から 1989 年 10 月 22 日までの社会主義 体制を採った人民共和国と比べると総じて西欧型の市民社会を志向した36。人民決 議は耕作者への土地分配も掲げており37、農業の集団化を進めた第二次世界大戦後 の人民共和国とは経済政策の面でも大きく異なる。  1919 年 3 月 20 日、カーロイ政権はハンガリーの歴史的領土の完全な解体を意味 したパリ講和会議からの通達を拒んで総辞職した。既に前年 11 月にはモスクワの ハンガリー人戦争捕虜の間でクン・ベーラを中心に結成されていたボリシェヴィ キ・グループが帰国して社会民主党左派とハンガリー共産党を設立していた。彼ら は社会主義革命を掲げて経済混乱や土地改革の遅れに不満を持つ労働者や復員兵、 貧農らを組織し、政府を批判した。カーロイから政権を委ねられた社会民主党は共 産党と合同し、1919 年 3 月 21 日にクンを事実上の首班とする評議会共和国が発足 したが、拙速な共産主義化への反発と同年 6 月下旬のパリ講和会議の勧告に従った チェコスロヴァキアからの撤兵による求心力の低下、ルーマニア軍の侵攻により、 同年 8 月初めに倒れた。カーロイは 1919 年 7 月にハンガリーを去り、1946 年 5 月 の帰国まで亡命生活を送った。その間、彼は特に 1920 年代から 1930 年代半ばまで 共産主義に共感を示し、亡命ハンガリー共産党員と交流した時期もあった。一方、 ハンガリー国内では 1921 年からカーロイを「国家反逆者」として領土解体と政治 混乱のスケープゴートとした欠席裁判が開かれ、1928 年に財産の大半の没収が確 定した38 2-2.1946 年 2 月成立のハンガリー共和国  1945 年 4 月、ハンガリーはソ連軍によってナチス・ドイツおよびその支援を受 けた矢十字党から「解放」された。既に 1944 年 12 月にデブレツェンでダールノキ =ミクローシュ・ベーラを首相とする臨時政府が成立していた。臨時政府はブダペ シュトに移り、11 月に国会議員選挙が行われた。これに先立ち 1945 年 9 月 16 日 には 20 歳以上の男女に普通・平等・秘密選挙を認めた選挙法(一九四五年第八号

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法)が成立した。総選挙は小農業者党が勝利し、同党左派のティルディ・ゾルター ンを首相として小農業者党、社会民主党、共産党、民族農民党が参加する連立政権 が発足した。  1946 年 1 月 31 日、国会は王制の廃止と共和国の成立を定めた一九四六年第一号 法 を 採 択 し、 翌 2 月 1 日 に テ ィ ル デ ィ が 大 統 領 と な っ た。 同 法 は「 小 憲 法 」 〔kisalkotmány〕とも通称され、王制廃止後のハンガリーの共和国憲法として位置 づけられた。そこで同法の前文およびその公式の弁明に表れるハンガリーの共和制 の理念的系譜を明らかにする。  同法の前文は「ハンガリーでは 1918 年 11 月 13 日に国王の権力の行使が停止し た。国民は自ら統治する法を再獲得した」と始まる39。ハンガリーでは 1918-19 年 の一連の革命の後に王制が 1920 年 2 月に復活していたが、実際には 1944 年まで旧 海軍提督のホルティ・ミクローシュを摂政とする国王なき王制が敷かれた。この点 に関して 2 月 20 日に公布された同法の弁明は、王政復古は実際のところは成功せ ず、それ以後もできなかったと説明し、「現行の〔当時と〕同様の我々の憲法府は 〔 〕君主制の再建は国民の意思とは相容れないと明確に宣言する」40と補足した。  「小憲法」の前文はハンガリー人民の意思が政治体制に反映されうる形でハンガ リーが独立を達成したことを称える内容となっており、「400 年の戦い」、「オーノ ドの集会」、「1849 年のデブレツェンの決定」、「2 つの革命の試みとそれに続く抑 圧」という近世から第二次世界大戦末期に至るまでの政治的独立を求める戦いの末 に、ハンガリー人民が新たに政治体制について自由に決められるようになった(す なわち独立を達成した)と述べる41  この共和制への移行によって成立した共和国を共産党機関紙『自由な人民 』も社会民主党機関紙『光明 』も「第三の共和国」と位置 づけた42。いずれも 1849 年 4 月のデブレツェンでの独立宣言後の体制を「第一の 共和国」と考えた。しかし社会民主党が「第二の共和国」を具体的に 1918 年と記 してカーロイ政権期を明示したのに対し、共産党は「第二の共和国では内なる反動 と反革命のヨーロッパが力を合わせて異国の傭兵らと共にハンガリー〔原文では nagyar〕の人民の自由を血塗れに抑圧した」43と書いている。これは評議会共和国 が倒れた後の共産党による自己批判と重なり、共産党は評議会共和国を「第二の共

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和国」と位置づけていたことが推測できる44  この新体制の下で 1946 年 2 月に一九四六年第二号法が制定され、戦間期に「国 家反逆者」として財産を没収されたカーロイの法的地位の回復が図られた。国会で この法案を審議した 1946 年 2 月 14 日には、カーロイ政権に共に参加した社会民主 党から選出された議員だけでなく、独立小農業者党などからも 1918 年の革命期の 彼の民主主義への貢献を肯定的に評価する発言が相次いで出された。この審議の際 もカーロイ政権が「第二の共和国」、当時の共和国が「第三の共和国」と呼ばれて いる45  自身の法的な地位が回復された後、カーロイは 1946 年 5 月にハンガリーに帰国 した。彼は翌年 8 月からは駐フランス大使として再びパリに赴任する。1947 年に 入ると冷戦の脅威が強まる中で、ハンガリー国内でも共産党の影響力が高まってい った。1947 年 9 月に結成されたコミンフォルムにハンガリーも加入し、大銀行や 大工場の国有化などが進められた。1948 年 6 月には共産党と社会民主党が合同し てハンガリー勤労者党が成立した。ユーゴスラヴィアがコミンフォルムから除名さ れてからは勤労者党の一党独裁体制が進められ、1949 年からは対外的な脅威を利 用して勤労者党第一書記だったラーコシ・マーチャーシュが党内の粛清を推進し た。同年 5 月には外務大臣ライク・ラースローら 4 名が西側のスパイなどの嫌疑で 逮捕され、10 月に公開裁判に付されて処刑された。カーロイはライクの逮捕に抗 議して 6 月に駐フランス大使を辞し、ライクの助命をラーコシに働きかけるが失敗 に終わった。その後のカーロイはフランスで再び亡命生活を送り、1955 年 3 月 19 日に亡くなった。  こうした中で制定されたのが一九四九年第二〇号法であった46。同法はスターリ ン憲法にならった人民共和国憲法として 1949 年 8 月 20 日に施行され、ハンガリー での社会主義体制の確立を象徴するものとなった。その前文では社会主義国家建設 におけるソ連の主導的役割(特に 1945 年の「解放」)が強調された。同じく前文で は「ソ連に頼る我々人民は、何十年にもわたる諸戦闘で勝利した労働者階級の指導 によって、および 1919 年の社会主義革命の諸経験によって強化され、社会主義の 基礎付けを開始した」という形で、ハンガリーの社会主義国家建設における 1919 年の評議会共和国の先駆性にも言及されている。一方で、1946 年の「小憲法」に

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おいてハンガリーの政治的自立性の系譜として重視されていた 1848 年革命とその 中で出された独立宣言についての言及は 1949 年の人民共和国憲法では見られなか った47 2-3.1950 年代後半からの変化  1956 年のハンガリー事件の後、1950 年代末から 1960 年代初頭にかけて 1918-19 年の一連の革命の公的な評価が徐々に向上した。1960 年代初頭からカーダール体 制は現実的な政策を通してハンガリー事件で分断された国民の再統合を図ろうとし ており、この傾向は敵でないものは味方であるとしたカーダールの政治方針と同調 するものであったと言えるだろう。  アポルの研究によれば、体制側から「反革命」と位置づけられたハンガリー事件 で犠牲となった人々に関する記憶が 1919 年 8 月の評議会共和国崩壊後にハンガリ ーを席巻した反革命勢力による「白色テロル」(急進右翼から革命に関係があると 思われた社会主義者、共産主義者、ユダヤ人を主な標的とした暴力的な報復)の犠 牲者と結びつけられた48。それを端緒として 1959 年の 40 周年記念に向けて 1919 年の評議会共和国に関する公の場での言及や学術的な研究が進展した。  この過程で重要な要素となったのが 1848 年革命である。1959 年、ハンガリーで の 1848 年革命の記念日に当たる 3 月 15 日付で『人民の自由』に掲載された文学史 家・批評家のパーンディ・パールによる論考「1848 年と 1919 年」で、「1848-49 年」は社会主義革命と自由闘争の文脈において「1919 年」に至る端緒であったと 位置づけられた49。直後の 3 月 20 日に開かれた評議会共和国 40 周年記念集会で は、本人も評議会共和国に関わったミュッニヒ・フェレンツが演説の中で同様の見 解を示し、1848 年革命と 1919 年の評議会共和国での労働者や貧農による社会主義 革命という側面での 1959 年当時の体制との連続性を強調した50。その一方で、共 和国をめぐる議論はほぼ見られない51  評議会共和国が肯定的に評価されるようになったことに伴い、カーロイ政権の時 期についても評議会共和国の先駆的存在として実証的な歴史研究が徐々に進んだ。 その成果の代表例がハイドゥ・ティボルによる一連の業績である52。更にカーロイ 政権期の再評価を象徴したのが、カーロイの妻の要求が認められてカーロイの遺体

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が帰国して(遺体は 1955 年の死去後イギリスに留まっていた)1962 年 3 月にブダ ペシュトで埋葬されたことであった。1963 年 3 月 4 日のカーロイの誕生日にはブ ダペシュトの生家の外壁に記念銘板が設置された。そこには「勤労ハンガリー人民 の解放の断固たる戦士」、「第一のハンガリー人民共和国の大統領」、「ハンガリー人 民共和国政府が設置した」等と記された53。カーロイの遺体の埋葬が行われた直後 の 1962 年 3 月 7 日から、ブダペシュト首都評議会の運営委員会では評議会共和国 の先駆者としてのカーロイの功績を称えて生家のある通りの名をカーロイ・ミハー イ通りとすることが提案されてきた54。この提案は 1965 年 2 月 3 日に承認される 55。1975 年 3 月にはカーロイの生誕 100 周年を記念し、ハンガリーを代表する彫刻 家ヴァルガ・イムレが制作したカーロイの銅像が国会議事堂のあるコシュート広場 の片隅に建てられた。銘板には写真 3 にあるように「ハンガリー最初の大統領」と 刻まれていた。 写真 3: 「カーロイ・ミハーイ ハンガリーの最初の共和国大統領」。2010 年春の第 二次オルバーン政権成立後、コシュート広場の景観を 1944 年以前に戻す ことが国会で決議された。2012 年 3 月にカーロイ像は撤去され、制作者

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 1960 年代から 1970 年代にかけて示されたハイドゥ・ティボルの 1918-19 年の一 連の革命およびカーロイに関する研究成果は、1970 年代以降に進展するカーロイ 政権に参加した他の政治家や知識人に関する研究、およびその発展形としての「オ ルタナティブな」歴史叙述を基礎づけた56。代表的なのがカーロイ政権に参加した ヤーシ・オスカールら市民急進主義者(普通選挙制度にもとづく西欧型の近代市民 社会の構築を目指した政治思想および運動に従事した知識人)についてのリトヴァ ーン・ジェルジによる研究である57。リトヴァーンはハンガリー事件で反体制派に 与したために禁固刑(後に特赦)を受けている。そうした経歴を持つ彼の研究に は、共産主義に批判的だったヤーシに自らの反体制的な立場を重ねた側面があるこ とは否めない58。ヤーシが中央ヨーロッパのナショナリズムの問題の民主主義的解 決を目指して提示した連邦国家の構想は、冷戦期の東欧/西欧の分断状況へのオル タナティブとして 1970 年代以降に登場した「中央ヨーロッパ」論と親和性を持ち、 1980 年代にはハンガリーの歴史研究でも肯定的な再評価が進行した59。この傾向の 一つの到達点が先述した自由民主連盟が体制転換時に示した綱領であった。この綱 領において彼らは複数の歴史的人物や思想の後継者と自任したが、その中には彼ら がヤーシら市民急進主義者の後継者である旨も含まれた。彼らは 1848 年、1918 年、 1956 年の各革命の理念の実現を目指す旨も表明した60  このように 1960 年代から 1970 年代にかけて公的に復権が進んだかのように見え るカーロイであったが、彼から派生した研究や歴史叙述が体制との関係ではあくま でも「オルタナティブな」ものであり、「1918 年」やカーロイが体制にとっての 「正統な」歴史に完全に組み込まれていたとは言い難い。カーロイ政権は評議会共 和国の前史として再評価が始まったが、その評議会共和国が成立した記念日である 3 月 21 日も 1967 年から 1987 年までは 1848 年革命記念日の 3 月 15 日と 1945 年の 「解放」記念日の 4 月 4 日と合わせて「革命的青年層の日々」と命名された記念日 群の一つに過ぎなかった。1918-19 年革命から 50 周年に当たる 1968-69 年には記念 行事が個別ではなく一連のものとして挙行された。更に 1946 年 2 月の王制廃止と 共和制への移行から 30 周年に当たる 1976 年 2 月 1 日付の『人民の自由』には 「一九四六年第一号法:第三の共和国の誕生」という記事が掲載された。この記事 では 1946 年の共和制への移行について「〔 〕〔勤労人民は〕1848 年の第一の、そ

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して 1919 年の第二の成功しなかった試みの後、最終的だと見なされる第三を望ん だ」と共産党の従来の見解がそのまま引き継がれていた61。公的評価は改善された ものの、1980 年代末まで「1918 年」は「正統な」歴史とそうではない歴史の境界 に位置する存在であったと言えるだろう。

おわりに

 本稿ではハンガリーにおける体制転換の公的記憶のあり方を考察すべく、体制転 換から 20 周年を迎えた 2009 年秋のハンガリーで公的な言説として用いられた「第 三の共和国」論に注目した。この歴史認識は体制転換後のハンガリー共和国と社会 主義期のハンガリー人民共和国との政治体制の相違を明示しようと試みた。しか し、この「第三の共和国」論で一番目とされるカーロイ政権期の「人民共和国」が 初めて公の場で「第一の共和国」として位置づけられたのはカーダール体制下の 1960 年代前半のことであった。  但しこの位置づけは体制側の公式な歴史認識ではなかった。このため、1960 年 代半ば以降はカーロイ政権期の「人民共和国」が「正統な」歴史とそうではない歴 史の境界に位置する存在となり、「オルタナティブな」歴史への道筋のひとつを開 いた。1970 年代以降にはリトヴァーンのような体制批判的な立場からの歴史研究 もこれに寄与した。体制転換に際して「オルタナティブな」歴史の正統化が試みら れた結果、カーロイ政権期の「人民共和国」がハンガリーにおける複数政党制にも とづく議会制民主主義の共和国の起点として見なされるようになったと考えられ る。  本論でも述べたように「第三の共和国」論の公式化には欧州統合を目指す EU に ハンガリーが加盟を目指してきた過程とも深く関わっていたことが推定されるが、 体制転換当時にはほぼ見られなかった「第三の共和国」論が 2000 年代にかけて公 式化されていく過程については更なる検討が必要である。稿を改めて論じたい。 本研究は JSPS 科研費補助金・基盤研究(A)「1918-19 年像の再構築―継続と変 容―」(2017-19 年度、代表:大津留厚)17H00935 による研究成果の一部である。

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1 Az Országgyűlés 1/2010. (VI.16.) OGY politilkai nyilatkozata a Nemzeti Együttműkö-désről , 2010.évi 103.sz., 21481. 2 2006 年秋に当時のジュルチャーニ・フェレンツ首相が同年春に行われた総選挙に際して 国内の経済状況について嘘をついていたことを内輪の集会で語った発言の録音が報道され、 これを非難する大衆、およびオルバーン率いる野党フィデス Fidesz が「1956 年」の再来 を自任して蜂起した。 3 1989-90 年の体制転換から 2005 年頃までのハンガリーにおける歴史研究はトレンチェー ニとアポルによる詳細なレビュー論文に詳しい。この論文で述べられた傾向が現在でも全 般的に継承されている。近年独自の特徴としては 2000 年代以降に体制転換後の時期を振り 返る研究が歴史学(現代史)だけでなく政治学、社会学、文化人類学などの隣接ディシプ リンとの協同の中から生み出されている点が挙げられる。Balázs Trencsényi and Péter Apor, Fine-Turning the Polyphonic Past: Hungarian Historical Writing in the 1990s in Sorin Antohi, Balázs Trencsényi and Péter Apor (eds.),

, Budapest, Central European University Press, 2007, 1-99. 4 1989 年の体制転換に「1956 年」の記憶とその正統性の再定義の試みが果たした役割の考 察については平田武「1956 年革命とハンガリー現代史研究」、『東欧史研究』30 号(2008 年)、55-73 に詳しい。 5 姉川雄大「ハンガリー―五六年研究所、「テロルの館」、ホロコースト記念センター」、 橋本伸也編著『せめぎあう中東欧・ロシアの歴史認識問題―ナチズムと社会主義の過去 をめぐる葛藤―』、ミネルヴァ書房、2017 年、93-102;同「ハンガリーの歴史認識と現代 政治―「ヨーロッパ」性と新自由主義・人種主義政治―」、橋本前掲編著、195-216。 両論文が収められている論文集は旧社会主義東欧圏で進行する記憶と政治の問題を扱った 共同研究の成果である。姉川は後者の論文でイム・ジヒョンがグローバルな問題としての 歴史認識問題を理解する枠組みとして提唱した「犠牲者性ナショナリズム」を手がかりと して、1944 年以降のハンガリー史をナチス・ドイツとソ連という二つの全体主義による占 領という犠牲者認識にもとづいて解釈する歴史認識を紹介している。1945 年以降の社会主 義期をハンガリー史の「逸脱」と見なす解釈は体制転換後の第二次世界大戦後の社会主義

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体制の評価と重なる。Trencsényi and Apor, Fine-Turning the Polyphonic Past , 52.

6 Ibid., 61. 7 Ibid., 54.

8 Ibid. 具体的な研究成果の例は以下の通り。Gerő, András,

, New York, Columbia University Press, 2006; Gergely Romsics,

Budapest, L Harmattan, 2004 [

Boulder, Columbia University Press, 2005]; Id.,

Budapest, ÚMK, 2010 [

, New York, Columbia University Press, 2010.]

体制転換後のハンガリーでは戦間期に関する研究も進展したが、こうした傾向の下で第 一次世界大戦末期から 1918-19 年の一連の革命、および 1920 年代初頭にかけての時期が君 主国解体と新体制の成立の間の過渡期として一括して扱われる傾向が強まっている。

9 例えば Gyáni Gábor, Nemzet, kollektív emlékezet és public history , ,

54.évf. (2012) 3.sz., 357-375. この他の彼による記憶と歴史認識に関する研究成果には次のよ

うなものがある。Gyáni Gábor, Budapest,

Napvilág Kiadó, 2000; Id., ő

Napvilág Kiadó, 2000; Id., ő

Napvilág Kiadó, 2000; Id., őő , ,

Budapest, Nyitott Könyvműhely, 2010; Id., ű , Pozsony, ű , Pozsony, ű

Kalligram, 2016.

10 Pók Attila, űűű ő , Budapest, Akadémiai ő , Budapest, Akadémiai ő

Kiadó, 2010; Romsics Ignác (szerk.),

ő , Budapest, Osiris Kiadó, 2005; Id., , Budapest, Osiris Kiadó, 2008.

11 Hajdu Tibor, Budapest, Napvilág Kiadó, 2012. ブダペシュトの

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きた論争については拙稿「現代ハンガリー・ナショナリズム試論―2010 年のカーロイ・ ミハーイ像をめぐる論争から―」、『比較文学・文化論集』29 号、2012 年、48-67 頁参照。

12 ハンガリーを論じた研究の例としては Egry, Gábor, A Fate for a Nation: Concepts of

History and the Nation in Hungarian Politics, 1989-2010 , Michael Kopeček and Piotr Wciślik (ed.),

, Budapest, Central European Press, 2015, 505-524; Bozóki, András, The Illusion of Inclusion: Confi gurations of Populism in Hungary , ., 275-311 など。

13 最初の刊行は 1942 年で、1944 年にも再刊されたが、いずれも刊行期間は短かった。

1945 年 3 月 25 日からハンガリー共産党の機関紙として継続して刊行されるようになった。

14 例 え ば 以 下 の よ う な も の が あ る。Bódi Csaba, A magyar köztársasági intézmény ,

, 1997/8., 45-48.; Konok Péter, Hogyan lett Magyarország első köztársaság elnökéből a Horthy-korszak első számú bűnbakja? in Ignácz Károly (szerk.),

, Budapest, Napvilág Kiadó, 2015, 152-154.; Standeisky Éva Mi a közös 1945-ben, 1956-ban, 1989-1990-ben? in Feitl István (szerk.),

ő , Budapest, Napvilág Kiadó, 2016, 286-287.;

Romsics Ignác, , Budapest, Kossuth Kiadó, 2009.; Tőkes Rudolf, , L Harmattan Kiadó, 2015.

15 Párt lett a 4K! , , 2012. április 30., 2.

16 Gyász̶Elhunyt a harmadik köztársaság első elnöke: Göncz Árpád államfő elnöke: Göncz Árpád államfő elnöke: Göncz Árpád államf , író,

el-lenálló, legenda , , 2015. október 7., 2.

17 Bódi Csaba, A magyar köztársasági intézmény , , 1997/8., 45-48.

18 もちろんこの見解には異論もある。例えば 2015 年 10 月 16 日付『人民の自由』に文筆家 のデル・メディツォ・イムレによる「第三?第七!」と題された投書が掲載された。この 投書で、彼は基本法の施行以降、第三の共和国を再建しなければならないと近年のハンガ リーで繰り返し言及されるようになっている状況に触れ、その見解に異論は無いと述べる 一方で、次に成立する共和国は第七の共和国ではないかと述べた。彼によれば、第一の共 和国は「カーロイ・ミハーイの名に結びついた『人民の』、しかし実質的な共和国」、第二 の共和国は「1919 年のハンガリー評議会共和国」、第三の共和国は「1946 年に制定された

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憲法にもとづくハンガリー共和国」、第四の共和国は「1949 年のスターリン的な憲法によ って建てられたハンガリー人民共和国」、第六の共和国を「フィデスの基本法にもとづき、 現在も存在するハンガリー」である(したがって明記はされていないが、彼は 1989 年 10 月に新体制への移行が宣言されてから 2012 年 1 月の新憲法施行までのハンガリーを第五の 共 和 国 と 位 置 づ け て い る こ と に な る )。Del Medico Imre, Olvasói levél--Harmadik? Hetedik! , , 2015. október 16., 10.

19 Visszafogott kettős ünnep: Október 23-a méltóságát még meg kell teremteni , Kettős

ünnep Nagytéténytól a Deák térig: Kevesebb rendőr, kevesebb kordon lesz az utcákon , , 2009. október 22., 1-2. 2009 年 10 月 20 日から 23 日にかけて、ソ連軍の第 二次介入の際にブダペシュト市街地で大規模な戦闘が起きたモスクワ広場〔現セール・カ ールマーン広場〕、西駅前の広場、ブラハ・ルイザ広場、コルヴィン横町には後述するパネ ルの他に当時を模した武装車両が置かれ、当時の戦闘の様子の朗読とそれに合わせたパン トマイムが演じられた。 20 2009 年 10 月 23 日に西駅前の広場で筆者撮影。キャプションは筆者による日本語訳。他 の三カ所に設置されたパネルにも同一の文章が掲載された。原文の強調は太字。 21 ジュルチャーニは 2006 年秋に発覚した政治スキャンダル後も政権の座にとどまっていた が、2008 年秋に始まる経済危機の影響で IMF の支援を受け入れるなどもあって更に求心 力を低下させ、第二次ジュルチャーニ政権で国家開発・経済相を務めたバイナイが非社会 党員ながら 2009 年 4 月に首相となった。同政権は前政権の方針を基本的に踏襲した。

22 Arcanum Digitális Tudománytár を用いて『人民の自由』に「第三の共和国」という語

が登場した回数を検索すると、ヒット件数が 10 件を超えるのは 2004 年から 2013 年である (2004 年 15 件、2005 年 13 件、2006 年 29 件、2007 年 15 件、2008 年 12 件、2009 年 11 件、 2010 年 18 件、2011 年 18 件、2012 年 16 件、2013 年 10 件 )。2004 年 5 月 1 日 に ハ ン ガ リ ーは EU に加盟した。なお 2010 年春のオルバーン政権成立後、特に 2011 年 4 月 18 日に新 憲法(基本法)が国会で可決されてからは、それまでの体制を「第三の共和国」と見なす 立場から書かれたオルバーン政権批判の記事が大半である。

23 Még mindig a koronáról , , 2007. augusztus 24., 3.

24 Végre legyen jókedv és bőség: Szűrös Mátyás beszéde , , 1989. október

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25 1990 年の諸記事では社会主義期と同様に「第三の共和国」はフランス第三共和政の意で

用いられていた。

26 Feitl István, Köztársaságaink , , 1991. február 1., 8. 27 Pártvélemények az eddigi útról , , 1991. október 22., 17.

28 例えば「第三の共和国」のヒット件数は 1990 年代前半に 1-2 件で推移した後に 1995 年

に 6 件と増加するが、6 件全てがオーストリア自由党のイェルク・ハイダーの政治構想の 用語であった。

29 Magyarország népéhez! , 1918. október 26., 1.  この国民評議会の宣言は 10 月

25 日に全国市民急進党のヤーシ・オスカールが執筆し、社会民主党のクンフィ・ジグモン ドによって若干の修正が加えられたものである。10 月 26 日付で全国市民急進党系の日刊 紙『世界 』などに掲載された。Jegyzet, Magyarország népéhez! A Nemzeti Tanács Kiáltványa , Litván György és Varga F. János (válogatta, szerkezette és a jegyzeteket készítette), , Budapest, Magvető Könyvkiadó, 1981, 285.

30 Magyarország népéhez! , , 1918. október 26., 1.

31 1918. Néphatározat , A Magyar Belügyminisztérium,

, Budapest, Pesti Könyvnyomda-Részvénytársaság, 1918, 334.

32 A Nagy Nemzeti Tanács I. ülése: 1918.évi november 16-án, szombaton ,

ű ő , XXXXIV. kötet, Budapest, Az Athenaeum Irodalmi és Nyomdai Részvénytársulat, 1918., 457.

33 A Nagy Nemzeti Tanács I. ülése , 460.

34 1848 年革命の中で 1849 年 4 月、デブレツェンに移転していたハンガリー議会はハプス

ブルク家の王位継承権を否定してハンガリーの完全独立を宣言した。

35 A Nagy Nemzeti Tanács I. ülése , 458.

36 例えばホックは「西欧の文明が我々の文化的力と高貴な民族の質のために必要である」

と主張した。Ibid., 457.

37 1918. Néphatározat , 335. 土地改革の実施はカーロイの長年の持論であった。

38 彼の所有財産のうち、動産の全てと限嗣相続財産(不動産)の 60%が国庫に没収され、

残りの不動産の 40%は彼の親族のものとなった。Hajdu, , 153.

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László (jegyzetekkel ellátták), , Budapest, Franklin Társulat, 1946, 1.

40 1946. évi I. törvénycikk indokolása Magyarország államformájáról https://net.jogtar.

hu/ezer-ev-torveny?docid=94600001.TVI〔2018 年 5 月 30 日確認。本稿の web サイトは以 下同じ。〕

41 Az 1946. évi I. törvénycikk Magyarország államformájáról , 1. 「400 年の戦い」の始ま

りは 16 世紀半ば、オスマン帝国のスレイマン 1 世による 1541 年の親征とその後の軍隊の 駐留を契機として、ハンガリーが以後 150 年余りにわたってハプスブルク支配領、オスマ ン帝国直轄領、オスマン帝国の宗主権を認めるトランシルヴァニア侯国の三つに分割され るようになった時期であると考えられる。したがってこの前文では、16 世紀半ば以降のハ ンガリーでは後述するいくつかの政治的な独立の試みはあったが 1946 年 2 月まで達成され なかったという歴史観が示されている。前文ではこの他にも三つの政治的独立の試みが挙 げられた。「オーノドの集会」とはラーコーツィ=フェレンツ 2 世による対ハプスブルク解 放戦争中の 1707 年 6 月にオーノドで招集した議会のことで、この議会ではハプスブルク家 出身の国王ヨージェフ 1 世の廃位が決められた。「1849 年のデブレツェンの決定」とは 1849 年 1 月にデブレツェンへ移転したハンガリー議会が同年 4 月にハプスブルク家の王位 継承権を否定してハンガリーの完全独立を宣言したことを指す。「2 つの革命の試み」とは 1918 年 10 月に始まる共和主義革命と 1919 年 3 月の共産主義革命のことであり、「それに 続く抑圧」とはその後の反革命とその中から台頭したホルティが 1920 年 3 月から 1944 年 10 月まで摂政となっていたこと、更にナチス・ドイツの意を受けて 1944 年 10 月に クーデ タを起こした矢十字党が 1945 年初めまで政権の座にあったことを指すと考えられる。

42 Megválasztották a magyar köztársaság elnökét , 1946. február 2., 1.;

Magyarország köztársaság , 1946. február 2., 1.

43 Megválasztották a magyar köztársaság elnökét , , 1946. február 2., 1. 44 評議会共和国を主導したクン・ベーラは戦間期にはモスクワを拠点に活動し、1938 年頃

にソ連で処刑された。彼の名誉回復は 1955 年のことであり、1946 年当時のハンガリー共 産党はクンおよび評議会共和国を公式には肯定的に扱いにくかったと考えられる。

45 例えば社会民主党選出議員のファラゴー・ラースローは「第三のハンガリー共和国は汚

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19. ülése: 1946.évi február hó 14-én, csütörtökön ,

ű , I. kötet, Budapest, Az Athenaeum Irodalmi és Nyomdai

ű , I. kötet, Budapest, Az Athenaeum Irodalmi és Nyomdai

ű

Részvénytársulat, 1946., 575. 筆者が確認した限り、この審議において「第一の共和国」 を具体的に示した発言は見られなかった。

46 1949. évi XX. törvény A Magyar Népköztársaság Alkotmánya https://net.jogtar.hu/

jogszabaly?docid=94900020.TV&timeshift=ff ff ff f4&txtreferer=00000001.TXT 47 ラーコシは 1949 年 8 月 17 日にハンガリー国会で人民共和国憲法制定に関する演説を行 った。その中ではコシュート時代のハンガリーの国章を用いなかったことに言及し、1848 年当時のハンガリーに長らく属していない領域(すなわち第一次世界大戦後の歴史的領土 解体によって周辺国に属することになった領域)のシンボルを切り離す意図や国章から王 冠を取り去る意図があったことを紹介した。彼は「国章を見る者は説明が無くとも直ちに これが労働者たちの国を示すことを理解する」と、社会主義労働者と勤労農民のシンボル として槌と赤い星、麦の輪、麦の穂を赤・白・緑のハンガリー民族の色と共に用いた旨も 述べている。後述する 1959 年における 1848 年革命の公式評価と比較すると、ラーコシが 1848 年革命(およびその象徴であるコシュート)よりも社会主義のシンボルを優先してい たことが読み取れる。 Az országgyűlés 10. ülése: 1949.évi augusztus hó 17-én, szerdán ,

ű , I. kötet, Budapest, Az Athenaeum Irodalmi és Nyomdai Részvénytársulat, 1950., 178.

48 Apor, , 61-98.

49 Pándi Pál, 1848 és 1919 , , 1959. március 15., 7-8. この論考では 1848 年、

1919 年に続く第三の段階として 1945 年(の「解放」)を位置づけた。Ibid., 8.

50 Dr. Münnich Ferenc elvtárs ünnepi beszéde , , 1959. március 21., 2-3. ア

ポルによればミュッニヒの演説が 1848 年と 1919 年を結びつけて連続性を示そうとした最 初の試みのひとつであった。Apor, , 142-143.

51 「1918 年 10 月にハンガリー人民は労働者階級の指揮の下で帝国主義の戦争に終わりをも

たらし、我が国におけるハプスブルク家の支配を覆し、共和国を形成した」という表現で カーロイ政権についての言及は見られるが、労働者階級が「ブルジョワ民主主義」のカー ロイ政権では満足できなかったと否定的に記述されている。 Dr. Münnich Ferenc elvtárs ünnepi beszéde , 2.

(24)

52 Hajdu Tibor, őőő , Budapest, Kossuth Könyvkiadó, 1963; Id., , Budapest, Kossuth Könyvkiadó, 1963; Id.,

, Budapest, Kossuth Könyvkiadó, 1968; Id., , Budapest, Kossuth Könyvkiadó, 1969; Id.,

, Budapest, Kossuth Könyvkiadó, 1978.

53 生家の記念銘文は次の通り。「この家で 1875 年 3 月 4 日にカーロイ・ミハーイが生まれ た/ハンガリーの独立と勤労ハンガリー人民の解放の断固たる戦士/第一のハンガリー人 民共和国の大統領/生家は反革命が 1920 年に没収され、解放されたハンガリーが返還され たが、1946 年に勤労ハンガリー人民へ寄贈された/ハンガリー人民共和国政府が設置した / 1963 年 3 月」。この作品は彫刻家カロー・ヴィクトルが制作した。彼は社会主義的なモ チーフの作品を多く手がけ、1960 年に共和国広場(現ヨハネ・パウロ 2 世広場)に設置さ れた 1956 年 10 月 30 日の事件(ハンガリー事件の中で暴徒化した群衆が勤労者党本部を襲 撃して党員に犠牲者が出た事件)の犠牲者を追悼する記念碑も制作した。旧共和国広場に あった記念碑はブダペシュト郊外にある社会主義期の記念碑を集めた野外博物館に現在移 設されている。

54 Budapest Főváros Tanácsa Végrehajtó Bizottsága üléseinek jegyzőkönyvei HU BFL

XXIII. 102. a. 1. 1953 年 12 月 3 日の会議に同評議会の第四・人民芸術部門から提出された 「反動的な通りの名前の変更についての提案」では 15 区にあったカーロイ・ミハーイ通り (ならびに彼が政治家の道を進む上で強く影響を受けた大叔父カーロイ・シャーンドルの名

を冠した通り)が変更の対象に含まれていた。

55 HU BFL XXIII. 102. a. 1.

56 Trencsényi and Apor, Fine-Turning the Polyphonic Past , 38-40. 57 代表的なものとしては Litván György,

, Budapest, Magvető Könyvkiadó, 1978; Id.,

, Budapest, Osiris, 2003./ ,

Budapest & New York, Central European University Press, 2006.

58 辻 河 典 子「 書 評 Litvan Gyorgy, (Budapest, Osiris, 2003)

(Budapest & New York, Central European University Press, 2006)」、『東欧史研究』29 号(2007 年)、53-54。

(25)

シ没後 25 周年の記念集会では、社会学者、「中央ヨーロッパ」構想、反ファシズム主義的 立場、ドナウ愛国主義の観点から報告がなされた。4 報告の内容は学術雑誌『光明 』1982 年 7 月号の特集「ヤーシ・オスカールについて」に収録されている。 Nagy Endre, A Durkheim-sokk: Jászi találkozása az új szociológiával , 414-418. ;Irinyi Károly, Jászi és a közép-európai államszövetség terve: Jászi Oszkár Mitteleurópa-koncepciójának értelmezése , 418-422.; Varga F. János, Jászi antifasizmusa , 423-426. ; Hanák Péter, Jászi Oszkár hazafi sága , 427-428.

60 Szabad Demokrata Szövetsége, , Budapest, SZDSZ,

1989, 9-10.

61 Szabó László, 1946. I. TC.: A harmadik köztársaság születése , , 1976.

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