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譯注 中国古代の占夢(1)

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立命白川靜記念東洋字究紀   第六號 六五 凡   例 一   これは、 劉文英『夢的迷信与夢的探索』 (中国社会科学出版社、 一九八九年八月)の日本語訳(抄訳)である。 二   原著は、上編、下編、外編の三部からなる。本稿は、上編「中 国古代的占夢迷信」を訳出するものである。 三   本 文 中、 (   ) は 原 著 者 に よ る 注 で、 ( 1 )( 2 ) な ど の 番 号 を 付し〔   〕は訳者による注で、 〔 1 〕〔 2 〕などの番号を付して いる。 四   引用文中の(   )は、その出典の原文との校勘により異同を記 すものである。 五   引用文や語句、および出典の記載において、明らかに誤記と思 われるものについては、特に重要と思われるもの以外は、訳者 の判断によって訂正したものを訳文中に記すことにした。

はじめに

夢にまつわる迷信は、第一に宗教学上の問題である。それは、形と 神との関係や心と物との関係、さらには天と人との関係にまで及んで おり、特殊な哲学上の問題でもある。中国古代の宗教史には、道教や 仏教などの教団宗教のほかに、教団をもたない世俗的な迷信が多く存 在する。占夢も占卜という一種の迷信で、主に夢のイメージによって 未来の吉凶を予測するものである。占夢の方法には組織だった形式は ないが、教団宗教にはない特殊なはたらきをもっている。中国古代の 道教や仏教、あるいは他のあらゆる教団宗教は、占夢に取って代わる ことができない。そればかりか、占夢を神学上の手段と見なし、これ によって霊魂の不滅や鬼神の存在を証明しようとする。哲学史におい ても、神秘主義者や唯心主義者たちはいつも夢を利用して、精神が物 質に依存するという考えを否定するのである。 占夢の淵源は、遥かなる太古の時代まで遡ることができる。その影 響は今に至るまで及び、 多くの人々の脳裡から離れぬままだ。 夢は人々 の実際の体験であることから、占夢はこうした体験を神と人との意志 の疎通、あるいは、吉凶の予兆を示す媒介と見なす。したがって、占 夢 は 他 の 占 卜 以 上 に 特 殊 な 神 秘 性 や 魅 惑 的 要 素 に 富 む の で あ る。 『 漢

中国古代の占夢(一)

 

 

 

 

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中国古代の占夢(一) 六六 書 』 芸 文 志 に、 「 衆 占 は 一 に 非 ず、 而 し て 夢 を 大 と 為 す 」 と い っ て い るように。 占夢は特殊な社会現象であると同時に、複雑な認識上の問題でもあ る。両者に配慮しながら、中国古代の占夢の起源と発展、占夢家の活 動、占夢という秘術、占夢書の流伝および占夢の社会的な影響につい て考察する。これらの問題を扱う資料は断片的にしか残っていないの で、できる限り歴史的な筋道の叙述につとめた。これによって、中国 古代の社会生活や文化において、これまであまり注意が払われなかっ た側面に光を当てることになるだろう。

一、占夢の起源と発展

占夢の起源は原始社会の幼稚な夢魂の観念で、夢を見るのは魂が肉 体を離れて外界を浮遊するためで、そこには鬼神の力がはたらいてい るという考えである。したがって、 夢は結局、 鬼神からの啓示であり、 さらには夢のイメージにもとづいて神意を察して吉凶を予兆するもの である。殷周の奴隷制の時代には、占夢は国家の吉凶を観察し、国家 の大事を決定するための重要な手段であったため、それは国家の宗教 において重要な役割を果たしていた。ただ、春秋時代以降、占夢はし だいに世俗的な迷信になっていった。占夢はその特質を保ちながら、 他の宗教と互いに影響しあってきたのである。占夢の理論と哲学はと もに、神秘的観念論以外の何ものでもない。 (一)原始社会における夢魂の観念と夢の予兆 原 始 社 会 の 人 々 が 夢 と 霊 魂 と を ど の よ う に 関 連 づ け た か に つ い て は、今ではその直接の証拠をつかむことはできない。博物館に横たわ る古代人の化石は何も答えてはくれないからだ。ただ、古代人の知的 水準をもとに推測したり、原始の宗教や習俗の中に多くの「生きた化 石」を見つけ出すことはできる。嘗てエンゲルスは北アメリカの古代 人に関する資料をもとに、古代の夢魂の観念を分析した。 遥か昔、人々は自分の肉体の構造について全く無知だった。し かも、夢の内容に影響され、ある観念をもつようになった。それ は、思考や感覚を自己の肉体とは別個にはたらくもので、 しかも、 それらが肉体に宿りながらも死後は肉体を離れる特殊な魂の活動 とする考え方であ る (( ( 。 以下、エンゲルスの分析を具体的に考察していこう。古代人が洞窟 で 眠 っ て い た 時、 彼 ら の 肉 体 は 洞 窟 か ら 出 た り は し な い。 そ れ な の に、なぜ夢の中で仲間たちと野外で猟をしたりするのか。当時の人々 は、夢の中で猟をしているのは、洞窟で眠っている自分ではなく、我 が身を離れ肉体の束縛を受けないもう一人の自分だと考えていたのだ ろう。彼らはきっと既に死んだ身内を夢に見ることもあっただろう。 その死体はとっくに埋葬され腐っていたはずなのに。当時の人々は、 夢の中に現われた身内は、肉体をもった生前のそれではなく、肉体の 束縛を受けない身内と考えていたのだろう。肉体をもたずその束縛を

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立命白川靜記念東洋字究紀   第六號 六七 受けない人とは、一体どんな存在なのか。長い思考の過程を経た後、 古代人はしだいにある考えに行き着いた。それは、人の肉体にあり肉 体を支配しながら、肉体そのものではなく、睡眠時に肉体を離れ、夢 を見ている時には外界に浮遊し、死後も依然として存在し活動するも のであると。だから、人は夢を見ている時、野外で猟をすることもで きるし、既に死んでいる身内に会うこともできるのだと。後にそれに あ る 名 前 が 付 け ら れ た、 そ れ は「 霊 魂 」 で あ る。 古 代 人 は 夢 を 通 し て、霊魂の観念を形成した。これは逆に言えば、霊魂の観念によって 夢や夢のイメージを解釈したのである。古代において、夢と魂とはこ のように密接に結びついていたのである。上記の分析について、それ は古代人の思考法を現代的に解釈したものではないかと疑う向きもあ ろう。それを確かめるべく、どうか「生きた化石」の「観察」にご同 行願いたい。 東北地方のホジェン族は、清代以前は依然として先史時代の生活を していた。その信仰について言えば、人にはみな三つの霊魂があると いう。それは、生命の霊魂、転生の霊魂、思想や観念の霊魂である。 生命の霊魂は人に生命を、転生の霊魂は来世の転生を司り、観念の霊 魂は感覚や思想をもたらす。睡眠時には、からだも動かず、目も耳も はたらかないから、 観念の霊魂だけが肉体を離れる。 人が夢を見たり、 夢の中で多くのものを見たり、既に死んだ身内を見たりするのも、観 念の霊魂が肉体を離れて、別の場所に行くことができ、また、神霊や 別の霊魂と接触することができるからであ る (( ( 。夢中の霊魂は、神霊や 祖先の霊魂と接触できるため、夢を神霊や祖先による啓示、あるいは 予 兆 と 考 え た の で あ る。 ホ ジ ェ ン 族 に と っ て 吉 兆 を 示 す よ い 夢 が あ る。例えば、酒を飲みお金をもらう夢は、猟をして多くの獲物をとっ て返って来る予兆とされ、また、夢に死人が現われ、その棺桶をかつ ぐのは、獣を捕えることができる予兆とされる。反対に、凶兆を示す 悪い夢もある。例えば、黒い熊を夢に見たら災いが身に降りかかる予 兆で、 家族か親族に死人が出るとされる。また、 馬に乗る夢を見たら、 猟をして何も収獲がない予兆とされ る (( ( 。ホジェン族の夢の予兆に対す るこうした迷信は、狩猟生活や古い考え方と密接な関係がある。これ らの夢の予兆は、彼らの生活にもとづいた「夢解釈」である。獲物を とって来ればお金や酒になり、逆に、酒を飲みお金が入る夢は、獲物 をとって来てはじめてかなう。同様に、獣を殺したら、死人や棺桶を かつぐようにそれらをかつがなければならず、逆に、死人や棺桶の夢 は、獣を殺してはじめてかなう。さらに言えば、いつも獣のような格 好をするのを好む古代の人々にとって、死んだ獣をかつぐのと死んだ 人間をかつぐのとは何の違いもないのだ。 興安嶺の大森林に住むオロチョン族にも霊魂の観念がある。かれら の霊魂に対する解釈はホジェン族とほぼ同じだが、ただ特に強調され ているのは霊魂の観念的な部分である。人が夢を見る原因について、 彼らはこう考える。人は眠ると霊魂が肉体をとび出して、ある物に出 会うからだと。では、夢の中で死んだ人間と出会うのはなぜかといえ ば、それは身内の肉体がまだ滅んでおらず、その霊魂がまだ残ってい るからだ と (( ( 。 西 南 地 方 に 住 む リ ス 族 は、 そ の 多 く が 解 放 前 に 封 建 社 会 に 変 っ た

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中国古代の占夢(一) 六八 が、 依 然 と し て 原 始 的 な 焼 畑 農 業 の 段 階 に と ど ま っ て い る 地 区 も あ る。リス族には、霊魂を信仰する習俗のほか、夢の中で「魂を殺す」 習俗もある。それは「扣扒」とよばれ、その魂は一羽の鷹の魂と見な されているという。鷹の魂は夢の中で 「魂を殺す」 ことができるので、 人々は「扣扒」を怖れかつ憤る。もし、夢に一羽の鷹を見て、ある人 がそこに現われたら、その人が「扣扒」なのである。その夢を見た人 が 病 気 で 死 ん だ と し た ら、 「 扣 扒 」 に 魂 を 殺 さ れ た か ら で あ る。 夢 中 のある人が「扣扒」だと証明し、 「魂を殺し」た責任を追及するには、 巫 師 た ち に よ る 油 鍋 を す く う と い う 驚 く べ き 儀 式 に よ っ て「 神 の 審 判」 を仰がなければならない。これによって、 「扣扒」 は 「魂を殺した」 罪によって厳しい懲罰を受け る (( ( 。イム・エンテが一九四四年にガイア ナのインディアンの社会で発見した事例と酷似している。それは、 「夢 中に現われた人は、一時的に肉体を離れた魂であるから、他人の夢に 現われた自分はその行動に対して責任を負わなければならな い (( ( 」とい うものであ る 〔( 〔 。前漢の賈誼の『新書』匈奴篇には、 古代の匈奴に、 「夢 の中でした約束は、覚めてからそれに背いてはならない(夢中に人に 許(詐)すに、 覚めて[且つ]其の信に背かず) 」という習俗がある。 これらの例は皆、夢は夢を見る者(自己)と夢に見られる者(夢の中 の他人)との魂の活動とする考え方である。 チンポー族やヤオ族の社会は相当高いレベルまで発展している。た だ、一部の地域では後れたままで、夢魂の観念や夢の予兆の迷信がい たるところに存在しているが、それらは上古から伝来したもので、古 代の観念の遺物と考えるべきだ。チンポー族はふつう霊魂を「南拉」 とよぶ。また、夢を見るのは、魂が自分の肉体を離れるからだと考え る。もし魂が肉体を離れなかったら、眠っても夢を見ない。眠っても 夢を見ないことがあるのは、魂が外に出たのに何にも出会わなかった からである。魂が外に出て変な物に出会ったら、睡眠中に変な夢を見 る。 チ ン ポ ー 族 の 習 俗 で は、 鋩( き っ さ き )、 槍、 長 刀 な ど の 夢 を 見 たら男児が生まれる吉兆、鉄鍋や三脚などの夢を見たら女児が生まれ る吉兆とされる。キュウリやカボチャがたくさん実って、籠に積んで 帰る夢を見たら、それは凶兆とされる。太陽が沈み、歯が抜け、酒を 飲み肉を食らうという夢も凶兆で、家族が死ぬか隣人が死ぬか、どち らか だ (( ( 。 ヤオ族にも夢の予兆に対する解釈がある。太陽が傾き沈む夢を見た ら両親に災いがあり、風が吹き雨が降る夢や女性と恋仲になる夢を見 たら自分に災いが降りかかり、歌を歌う夢を見たら喧嘩をし、肉を食 べる夢を見たら病気になるか災いを蒙り、食事をする夢を見たら終日 働いて疲労困憊し、大便をしたりうごめく蛇を見たり、木や石を持っ て山から転がり落ちる夢を見たら、財産を失う。逆に、蛇を捕まえた り家を焼いたりする夢を見たら、金が入るか金持ちになり、山火事の 夢や両親が現われる夢を見たら雨が降り、死人の夢や自分が死ぬ夢を 見たら自分や死んだ他人が幸福で長生きをし、哭く夢を見たら却って 幸せになるなどであ る (( ( 。 漢族の先史時代の伝説で今も残っているものは少ない。ただ、後の 時代の詩文から、古代の情報を知る微かな手がかりを得ることはでき る。 『楚辞』九章・惜誦に、 「昔余夢に天に登り、魂は中道にして杭す

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立命白川靜記念東洋字究紀   第六號 六九 る無し」とある。ここには、夢と魂とが併記されており、夢は魂の浮 遊とされる。司馬相如の 『長門賦』 に 「忽ち寝寐して夢想し、 魂 (魄) は君の旁に在るがごとし」も夢と魂とが併記され、夢は魂による体験 と見なされている。唐の銭起『夢に西山の準上人を尋ぬ』詩「何ぞ当 (嘗)て夢魂去りて、雪山子を見ざらんや」 、白居易『長恨歌』 「漢家 の天子の使いなりと 道 い ふを聞き、 九華帳裏夢魂驚く」 、南宋の楊万里 『雪 舟に釣りて倦睡す』詩「 端 ゆくり なく却つて被る梅花の悩み、 特 ことさら 地 に吹き香 りて夢魂を破る」など、夢魂の観念の影響は中国の古代に広く浸透し ている。 夢魂の観念は夢の予兆の基礎となる考え方であるとはいえ、本来は 全く別の代物である。夢魂の観念は夢を魂の浮遊と見なすだけで、そ れが吉凶を予兆するとは言っていない。夢魂の観念と鬼神の観念とを 関連づけたり、夢を神霊や鬼魂による啓示と考えることによって、初 めて夢の予兆という考えが生まれたのである。実際、こうした過程を 経た両者が関連づけられることは、古代の人々にとってはきわめて自 然なことであった。というのは、彼らはきっとこう答えるからだ。肉 体に宿った霊魂は、なぜ肉体を離れようとし、また、なぜ肉体を離れ られるのか。それは夢魂以外のものに原因があるからだ。彼らが神霊 に行き着く経緯、それは「万物に霊が具わる」という古代の観念およ び夢自体の特質と関連があろう。誰にもこんな経験があるだろう、夢 とは気づかず、なぜ夢を見ているのかも知らず、また、夢中のイメー ジに覚えがあり、生き生きとして現実のようだというような経験が。 さらに、夢のイメージが奇妙な幻で不断に変化するために、夢に暗々 裏 に 何 ら か の 力 が は た ら い て い る の で は な い か と 思 い が ち だ。 こ の 暗々裏の力がすなわち神霊なのだ。ホジョン族は、霊魂は神霊によっ て賦与され、霊魂の活動は神霊に支配されていると考える。リス族は 悪夢を見たら「夢鬼」を祭り、チンポー族は「鬼を唱える」が、それ は 霊 魂 の 浮 遊 と 神 霊 と の 関 係 を 物 語 っ て い る。 『 楚 辞 』 招 魂 に は、 上 帝の臣下に「掌夢」の神がいるとし、その注に「帝の通じる所の夢に 魂魄の官を引起す」 とある。このことから、 夢が上帝や鬼神の 「通引」 であることがはっきりした。 夢魂の観念と神霊の観念との関係は、あらゆる民族の古代宗教にお いて普遍的に見られる。レヴィ・ブリュールは嘗て古代民族の夢観念 についてさかんに引用して、夢は夢を見る者と「精霊、霊魂、神との 交流」であり、夢は「神が自分の意志を人間に伝達するための常套手 段だ」と説い た (( ( 。北アメリカ原住のインディアンは、夢中の神の啓示 を得るために、事前にインピ(蒸気浴)をして三日間斎戒し、眠る時 には婦女を避けて一人で眠る。私たちの祖先も世界の古代民族同様、 初 め は こ う し た 夢 魂 の 観 念 を も つ こ と で、 夢 の 予 兆 を 信 じ る よ う に なっていったのである。 (二)殷代の占夢 古代の人々は初めは何の自覚もなく夢の予兆を信じた。吉凶を予兆 する夢は、彼らの生活と密接に関わる特殊な内容をもった夢に限られ る。その他の夢にはあまり注意が払われないのが常だった。しかし、 生 活 の 複 雑 化 に と も な っ て 物 事 を 予 知 す る 必 要 性 が 高 ま り、 そ れ に

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中国古代の占夢(一) 七〇 伴って予知した夢を活用しようとする傾向が強まった。人々は進んで 夢兆を信じ、意識的に夢の兆しを求めるようになった。夢の予兆に対 するおきまりの解釈に始まり、次第に解釈は複雑化していき、古代の 夢の予兆は占夢へと変貌する。 では中国古代の占夢はいつ始まったのか、年代が古くてさっぱり見 当がつかない。現存の資料によれば、占夢を取り上げた最初の人物は 黄帝である。皇甫謐の『帝王世紀』 (『史記』五帝本紀正義引)に、 「黄 帝、大風の天下の塵垢を吹きて皆去らしむるを夢み、又人の千鈞の弩 を執りて羊万群を駆るを夢む」とある。目が覚めた後、黄帝は自らこ う 解 釈 し た。 「 風 は 号 令 た り、 政 を 執 る 者 な り。 垢 の 土 を 去 る は、 后 の在るなり。天下それ姓は風、名は后なる者有らんか。それ千鈞の弩 は、力を異にする者なり。羊千万群を駆るは、能く牧民の善を為す者 な り。 天 下 そ れ 姓 は 力、 名 は 牧 な る 者 有 ら ん か 」 と。 そ こ で、 「 二 占 に依りて之を求め」て風后と力牧という名臣を得たのである。記載の 内容は明瞭だが、信憑性に乏しい。そもそも黄帝の時代に文字があっ たのか、どうやって文字を分解して意味をさぐり夢を解釈したのか、 大いに疑問である。たとえ文字があったとしても、漢魏の時代の隷書 ではなく、甲骨文字よりも古い象形文字か絵文字だったはずで、文字 を分解して意味をさぐるのは全く不可能だ。ただ国内外の多くの古代 民族の情況からすれば、黄帝の時代に占夢があったとしても、それは 有り得ないことではない。 『 帝 王 世 紀 』 な ど の 古 文 献 に は、 天 に 登 り 龍 に 乗 る 堯 の 夢 や、 長 い 眉をして鼓をうつ舜の夢、禹の山書、洗河の夢や舟に乗って月を過ぎ る夢などが記載されている。本当にこれらの夢を見たのかどうか甚だ 疑わしい。ただ、堯舜禹の時代は黄帝より後の時代で、古代社会から しだいに文明化していく時期だから、当時占夢が流行した可能性も十 分考えられる。台湾の高山族の原始部落には、少し前まで占夢を信じ ていたばかりか、占夢の制度まであった。かれらは占夢のことを「タ イラモ・シジュポ」とよんだ。戦いや猟に出かけるときは必ず占夢を した。その途中で夢を占い、凶と出れば引き返し、吉と出れば進む。 凶夢を見てどうしようもない時には、ずっと吉夢を見るまで待ってか ら や っ と 進 む こ と が で き た ((( ( 。『 金 史 』 五 行 志 に「 初 め 金 の 興 く る や、 世祖敵と戦ふに、嘗て夢寐を以て其の勝負を卜す」とある。 黄帝や堯舜禹の時代は遥かに遠い伝説の時代であるから、その夢や 占夢については、参考程度にとどめておきたい。中国史上、信頼でき る資料は、殷の時代のものがその初めである。殷の甲骨文字に既に比 較的整った「夢」の文字が見え る ((( ( 。また、甲骨の卜辞の中に殷王の占 夢に関する記載も多く存在する。 しかも、 災いをもたらす夢かどうか、 いつも殷王が問う。それは、殷王が夢の吉凶に大いに関心があり、占 夢が殷王の生活にとって重要な位置を占めていることを物語る。 著名な甲骨学者の胡厚宣氏の統計によれば、殷王の卜辞中に見える 占夢には、人物、化け物、天象、獣、あるいは狩猟や祭祀などの夢が ある。人物は、殷王の身辺にいる妻や妾や史官、物故した亡祖父や亡 母など。天象は、雨とか晴れとか。獣は、牛とか死んだ虎だとか。な ぜか殷王の夢にはやたら化け物の夢が出てくる。

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立命白川靜記念東洋字究紀   第六號 七一 癸未卜、王貞鬼夢、余勿□。 (祭名) 丁未卜、王貞多鬼夢、亡未□。 庚辰卜、貞多鬼夢、不至田。 庚辰卜、貞多鬼夢、叀、疒(二人)見。 □□□、貞多鬼夢、叀、言 (二人) 見。 (胡厚宣 『殷人占夢考』 (『甲 骨学商史論叢初集(下) 』)より) これらの化け物の夢の多くは、 自分で夢を占ったり、 史官の叀、 疒、 言などを呼んで訊ねたりしている。殷王はどうも化け物の夢が相当恐 ろしく、災いが降りかかりはしないかとびくびくしていたようだ。こ うした心理状態は、 『周礼』の「懼夢」と酷似している。 『礼記』表記に、 「殷人は鬼(神)を尚ぶ」とある。殷人は、殷王の 夢 は 主 に そ の 先 王 や 先 祖 に よ る 祟 り に よ る も の と 考 え て い た。 よ っ て、殷王が夜に不思議な夢を見た時には、いつもどの先祖のしわざか 占うのであった。例えば、 「貞王夢、 佳□」 、「貞王夢、 佳□」 、「貞王夢、 佳大甲」 、「貞王夢、 不佳大甲」 、「貞王夢、 佳祖乙」 、「貞王夢、 不佳祖乙」 、 「貞王夢、不佳兄戊」など、類似の記録が多い。占夢の後、どの先祖 か確定したら、必ず盛大な祭祀を執り行なう。このように、殷王がよ く化け物の夢を見たり、 その夢を恐れたりするのは、 「殷人は鬼(神) を尚ぶ」と関係があるようである。 化け物の夢を恐れる心理に関連して、殷王の占夢には夢のマイナス 面に着目するという特徴があるようだ。だから、殷王は化け物の夢を 見ると、災難が降りかからないかと訊ねた。そのほかの夢についても だ い た い そ う し た 傾 向 に あ り、 「 め で た い 夢 か ど う か 」 を 問 う た 例 は 一つもない。それはおそらく、殷王は何事もなければ占ったりはしな かったためで、また、占卜の中で占夢はさほど重要視されていなかっ たためであろう。 古文献の多くの記載の中で最も広く伝わっているのは、殷の高宗が 夢に傅説を見た記事であろう。 『尚書』説命上にこうある。 〔 高 宗 〕 夢 に 帝、 予 に 良 弼 を 賚 たま ふ。 そ れ 予 に 代 り 言 は ん。 乃 ち その象を審にし、形を以て天下に旁く求めしむ。説、傅巌の野に 築 を り、これ 肖 に たり。乃(爰)ち立てて相と作す。 賚は、 賜である。 「その象」 とは、 夢中のイメージを指す。 殷の高宗 (武 丁)は上帝がかれにすぐれた臣下を下賜し、かれを補佐して国政を宰 らせるという夢を見た。高宗はその人の夢の中でのイメージをもとに あちこち探したが、とうとう傅巌の野である奴隷を見つけた。説とい う男で、 夢中の人とよく似ていた。そこでかれを大臣にした。 『国語』 楚語上にもこうある。 昔、 殷 の 武 丁 能 く 其 の 徳 を 聳 すす め、 神 明 に 至 り、 ( 中 略 ) 是 か く の 如くして又夢み、象夢(夢象)を以て旁く四方の賢に求めしめ、 傅説を得て以て来らしめ、升して以て公と為す。 『 史 記 』 殷 本 紀 や『 帝 王 世 紀 』 な ど に も 類 似 の 記 載 が あ り、 話 の 筋

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中国古代の占夢(一) 七二 は同じである。この話が卜辞と異なるのは、高宗の高徳を強調する点 で、 それが神明や上帝を感動させ、 神霊が夢枕に立つのである。今日、 我 々 の 目 か ら す れ ば、 こ の 夢 は 武 丁 が 破 格 の 抜 擢 を す る た め の 作 り 事 に 見 え る。 明 の 楊 慎 は 嘗 て、 「 武 丁 嘗 て 荒 野 に 遁 れ、 而 る 後 に 即 位 す。彼は民間に在りて已に説の賢なるを知る。一旦之を挙げんと欲す るに、之を臣民の上に加ふ。未だ必ずしも帖然として以て聴かず。故 に之を夢に徴す。これ聖人の神道の設教なり」 (『丹鉛総録』巻一〇) と述べたことがある。ただ、作り事にせよ、教化のためにせよ、人々 に信じられるにはでたらめではだめで、既存の伝統観念にもとづく必 要 が あ る。 卜 辞 に は「 父 を 夢 む 」 例 を い く つ か 挙 げ た。 『 菁 』 六「 王 固曰く、 『之を求めて父を夢み、 其の来りて嬉しむ』 。」 、『後』下五「王 固曰く、 『之を求めて父を夢み、甲寅 允 まこと にこれ来りて嬉しむ』 。」 〔(〔 。ある 人の推測によれば、 「父を夢む」とはおそらく夢によって得たのを、 「師 保」を「保父」と称するように、これを尊んで「父を夢む」と言った のであろ う 〔( 〔 。つまり、このような占夢の例は早くからあるのだろう。 しかし、先例の有無は、我々にはさほど重要ではない。我々が特に指 摘したいのは、殷人が夢の中に死んだ人間の魂が現われると考えただ けでなく、上帝も人の夢に現われると考えていたこと、夢境や夢景や 夢象はすべて神意の表現と考えていたことである。 (三)周代の占夢 殷が周に滅ぼされる前は、夢にまつわる伝説は多く存在し、占夢の 活動は極めて頻繁に行なわれていた。周の文王と武王は事前に多くの 吉夢を見て、 周が殷に代わる天命を予測していた。 『帝王世紀』に「文 王 曽 て『 日 月 の 其 の 身 に 着 く 』 を 夢 む 」 と あ る( 『 夢 占 逸 旨 』 宗 空 篇 注 引 〔( 〔 )。日月は、帝王の象徴で、文王が天命を受けたことをいう。 『逸 周書』程寤解には太姒の夢がより具体的に記されている。 太姒、夢に商の庭に棘を産し、太 (小) 子発、周庭の梓を取り、 之 を 闕 間 に 樹 え、 梓 化 し て 松、 柏、 棫、 柞 と 為 る[ を 見 る ]。 寐 より覚め(寤驚)て以て文王に告ぐるに、文王乃ち(及び)太子 発と明堂に占ひ、王及び太子発并びに吉夢を拝し、商の大命を皇 天上帝より受く。 棘は潅木で、殷商を意味する。梓は喬木で周を意味する。梓が棘の 間で松や柏や棫や柞などの大樹に変ったというこの夢の意味は一層分 かりやすい。彼らは上帝が「商の大命」を周人に賦与したと判断した のである。 『尚書』太誓中に、 「朕の夢は朕の卜に協ひ、休祥を襲ぬ。 商を戎するに必ず克たん」とあるのは、武王による紂王討伐の誓いで あ る が、 武 王 が 一 体 ど ん な 夢 を 見 た の か は 語 ら れ な い。 『 墨 子 』 非 攻 下には、 武 王 阼 を 践 み、 夢 に 三 神 を 見 て 曰 く、 「 予 既 に 殷 紂 を 酒 徳 に 沈 漬す。谷 [往] きて之を攻めよ。予必ず汝をして大いに之に 戡 か [堪] た[しめ]んと」 。武王乃ち攻む。

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立命白川靜記念東洋字究紀   第六號 七三 とある。以上の夢の記事には、明らかに政治的な意義や目的が色濃 く反映しており、そこに虚構が含まれることは避けられない。ただ、 これによって、占夢が政治上極めて重要な位置を占めることが知られ よう。周王は殷王以上に夢を尊崇し、政事に当たっては必ず太子を召 し、 夢を占う時には神聖なる明堂で執り行なう。 占って吉夢とでれば、 上帝や神明に向かってひざまずき、天の加護に感謝する。 周が殷を滅ぼす過程では、姜太公(太公望呂尚)が極めて重要な役 割を果たしている。武丁が夢で傅説を得たのと同様、姜太公にも夢に まつわる多くの伝説がある。緯書の『尚書中候』 (『夢占逸旨』宗空篇 注引)に、太公がまだ文王と出会う前、磻渓で魚釣りをしていた頃、 ある夜、北斗輔星が彼に「紂を伐つ意」を告げる夢を見 た 〔( 〔 。姜太公は 天 神 に よ っ て 派 遣 さ れ た 輔 臣 だ っ た の で あ る。 『 荘 子 』 田 子 方 に も、 文 王 の 夢 に 一 人 の「 良 人 」 が 現 わ れ て、 「 政 を 臧 丈 人 に 寓 せ ば、 民 に 瘳ゆること有るに庶幾からん」と告げる記載がある。この「良人」と は 凡 俗 と は 異 な り、 神 に 属 す べ き 人 で あ る。 ま た、 「 臧 丈 人 」 は、 臧 の地で魚釣りをしていた漁師だから、 姜太公を指す。晋の 『太公望表』 の記載はより神格化されている。 文 王、 天 帝 の 玄 禳 を 服 し て 以 て 令 孤 の 津 に 立 つ を 夢 む。 帝 曰 く、 「 昌( 文 王 の 名 ) よ、 汝 に 望( 太 公 呂 望 ) を 賜 ふ 」 と。 文 王 再拝稽首し、太公後に於て亦再拝稽首す。 (魯迅『中国小説史略』 人民文学出版社、一九七六年によ る 〔( 〔 ) こ の 夢 は 任 命 の 儀 式 そ の も の で あ る。 『 博 物 志 』 異 聞 篇 に も「 海 婦 の夢」がある。太公が灌壇令だった時、文王は夜に夢の中で一人の婦 人 が 道 で 泣 い て い る の を 見 た。 婦 人 は、 「 吾 は 東 海 の 女 た り。 嫁 し て 西海の童と為る。今灌壇令、道に当たり、我が行を廃す。我行かば必 ず大風雨有れども、太公に徳有りて、吾敢て暴風雨を以て過ぎず」と 言った。東海の女とは、龍王の娘である。龍王の娘は姜太公に遇って 畏れたというから、その偉大な威力のほどが窺える。これらの夢はお そらく後代の虚構によるものであろうが、夢によって周代の名臣を神 格化することは、当時でも不可能なことではない。 周 が 殷 を 滅 ぼ し た 後、 武 王 は 跡 継 ぎ の こ と で 悩 ん だ。 武 王 に も ま た、この政治上の難題を天神による夢のお告げによって解決したこと があった。 『逸周書』武儆解にこうある。 これ十月 [有] 二祀四月、王夢を告ぐ。丙辰、金枝 (板) の郊宝 ・ 開和の細書を出し、周公旦に命詔して後嗣を立たしめ、小子に 属 しょく し て 文 及 び 宝 典 を 誦 せ し む。 王 曰 く、 「 あ あ、 之 を 敬 め。 …… 敬 み守りて失ふこと勿れ。……」と。 既 に 武 王 の 夢 に も、 「 周 公 旦 に 命 詔 し て 後 嗣 を 立 た し め 」 と あ る の だから、誰が成王に反対しようか。 殷周時代は国家の大事はすべて占卜によって決められていた。異な るのは、殷では占卜は主に占亀により、占夢はその一部にすぎなかっ た。 周 に な る と 占 卜 は 占 亀 と 占 易 と 占 夢 の 三 者 を 綜 合 し て 行 な わ れ

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中国古代の占夢(一) 七四 た。 『周礼』 (春官 ・ 大卜)によれば、 卜官の長たる太卜が、 占亀、 占易、 占 夢 に 関 す る、 「 三 兆 の 法 」、 「 三 易 の 法 」、 「 三 夢 の 法 」 を 掌 り、 そ れ ら の 占 い の 結 果 に よ っ て「 国 家 の 吉 凶 を 予 測 」 し、 「 吉 と 出 れ ば 行 な い、 凶と出れば止め」 、 凶兆に対してはそれを挽回する措置を講じた。 殷王には太卜しかいなかったのに、周王には太卜の下に夢を専門に扱 う役人がいたのである。 さらに、 『周礼』の記事によれば、周の占夢は、 「一に曰く正夢、二 に曰く噩夢、三に曰く思夢、四に曰く寤夢、五に曰く喜夢、六に曰く 懼夢」 (春官・占夢)のように、夢を六つに分類していた。 「六夢」の 中に「懼」とか「喜」とかいう語があるのは、殷代に単純に畏れの感 情を抱いていたのとは大きく異なり、夢に対する周代特有の心理を表 し て い る と 言 え よ う。 『 周 礼 』 の 成 立 時 期 に つ い て は 今 で も ま だ 定 説 が な い。 し か し、 『 詩 経 』 中 の 関 連 記 事 に よ れ ば、 上 述 の 占 夢 の 制 度 は 西 周 時 代 か ら 春 秋 時 代 の 初 め 頃 の 状 況 と 概 ね 一 致 す る。 『 小 雅 』 正 月に「彼の故老を召し、 之に占夢を 訊 と ふ」とあるのは、 周王が故老(太 卜は多く故老が任じていた)や占夢の官を召喚して夢占いをさせてい た こ と を 示 す。 『 小 雅 』 斯 干 に「 大 人 之 を 占 ふ、 こ れ 熊 こ れ 羆 は、 男 子 の 祥 な り、 こ れ 虺 こ れ 蛇 は、 女 子 の 祥 な り 」 と あ る。 「 大 人 」 は 占 夢官に対する尊称で、天子のために夢を占う。王妃が熊や羆の夢を見 た ら 男 を 産 み、 虺 や 蛇 の 夢 を 見 た ら 女 を 産 む と い う 予 兆 で あ る。 『 小 雅』無羊に「牧人乃ち夢む、……大人之を占ふ、衆とこれ魚とは、実 にこれ豊年なり、旐とこれ旟とは、室家蓁蓁たり」とある。これは牧 人が占夢の官に夢占いをしてもらうというもので、水中に魚がたくさ んいる夢を見れば豊作の年となり、亀や蛇、あるいは鳥が描かれた旗 の 夢 を 見 た ら 家 族 が 増 え る 兆 し だ と 詠 っ て い る。 『 詩 経 』 の 小 雅 に 見 えるこうした情況から、当時、上は周王から、下は民衆まで、占夢を 信じない者はいなかったといえよう。 (四)春秋戦国時代の占夢 春秋時代以後、周の天子の地位は日ごとに低下していった。その活 動にも、人々はもうあまり関心を払わなくなった。もちろん周の天子 の夢は少なくはなかったが、歴史上にその痕跡がはっきり残されてい ないため、今となってはそれを探る手立てがない。したがって、周の 天子が夢に対してどのような態度をとったかについても考察のしよう がない。ただ、編年体で記された歴史書『左伝』には、各国の諸侯た ちが歴史の舞台で縦横に活躍するさまが描かれている。諸侯たちは戦 争ばかりか祭祀も行ない、疑心暗鬼に陥ったりした。それで夢に対し ては真剣な態度をとった。 ……公将に往かんとするに、襄公の祖するを夢む。梓慎曰く、 「 君 行 く を 果 さ ず。 公 の 楚 に 適 く や、 周 公 の 祖 す る を 夢 み て 行 け り。 今 襄 公 実 に 祖 す。 君 そ れ 行 か ず 」 と。 子 服 恵 伯 曰 く、 「 行 か ん。先君未だ嘗て楚に適かず、故に周公祖して以て之を 道 みちび く。襄 公楚に適けり。而して祖して以て君を道く。行かずして、何くに 之かん」と。 (『左伝』昭公七年)

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立命白川靜記念東洋字究紀   第六號 七五 「 公 」 は、 魯 の 昭 公 を 指 す。 楚 王 が 章 華 台 を 建 て、 諸 侯 た ち と 落 成 を祝いたいと思った。魯の昭公はその招きを受け、出かけようとする と、夢に先君(襄公)が現われ、昭公のために道神を祭った。そこで 行くべきか止めるべきか迷ったのである。梓慎は、止めたほうがよい と説いた。それは、嘗て襄公が楚に行こうとした時、夢に周公が現わ れて道神を祭った後に出かけたからである。今、夢に現われたのは周 公ではなく襄公であるから、行かないほうがよいと。子服恵伯は、行 くべきだと説いた。 それは、襄公はまだ楚に行ったことがなかったので、周公が道神を 祭って導いたのである。今、既に楚に行ったことがある襄公が道神を 祭 っ て 君 王 を 導 い て い る の だ か ら、 行 か な い で は お ら れ ま し ょ う か と。君と二人の臣とが夢によって行くべきかどうか判断しているので ある。彼らの考え方はそれぞれ異なるが、夢を判断の基準とする点は 一致している。彼らは、嘗ての襄公の夢が周公の意を表し、昭公の夢 が先君(襄公)の意を表していると考えているのである。 同じ昭公七年の条には、衛の孔成子の夢の記事が載せられている。 夢の中で先祖の康叔が、元を国君とせよと言う。史朝も夢の中で康叔 が苟と圉とに元を輔佐させるように命じたと告げる。二人の夢が一致 したので、衛の襄公の死後、孔成子は元を国君に立てた。それが衛の 霊公である。昭公十七年にも、韓宣子の夢の記事が載せられている。 夢の中で晋の文公が荀呉を引き連れ、陸渾に引き渡した。それで、荀 呉に兵を指揮させることに決めた。荀呉は陸渾の軍を破った後、その 捕虜を晋の文公の廟に奉献した。孔成子が国君を立て、韓宣子が指揮 を 命 じ た と い う 二 つ の 記 事 は 、い ず れ も 夢 が 行 動 の 指 針 に な っ て い る 。 夢の中で康叔が言ったことばは祖先の命令であり、また、夢中にお ける晋の文公の行為も祖先の意図を示すものと、かれらは考えていた のである。このことから、彼らがいかに夢を信じていたかが分かる。 『 左 伝 』 所 載 の 夢 は、 そ の 大 部 分 が 諸 侯 や 公 卿、 あ る い は 将 軍 や 臣 下たちの夢である。もちろん、諸侯の愛妾や小臣の夢もある。ただ、 諸侯と関係がある夢だけが記載されたのである。例えば、宣公三年の 条には、燕姞が蘭を夢に見たのは、鄭の文公に子が授かる予兆となっ た と い う 記 事 が あ る。 成 公 十 年 に は、 「 景 公 を 負 ひ て 天 に 昇 る 」 と い う小臣の夢の記事がある。哀公七年には曹人の夢に「衆君子」と曹叔 振 鐸 が 現 れ る 記 事 が あ る。 昭 公 十 一 年 に は、 泉 丘 の 女 子 の 夢、 「 其 の 帷を以て孟氏の廟に幕するを夢み、遂に(孟)僖子に奔る」という記 事を載せる。夢のイメージや夢のお告げは、殷周時代のそれよりもよ り複雑化している。 夢のイメージや夢のお告げの第一は神霊で、天、天使、河神などで ある。 (穆子) 夢に天、己を圧して勝たず。 (中略) 「牛余を助けよ」 と。 乃ち之に勝てり。 (昭公四年) (燕姞)夢に天、己に蘭を与へて曰く、 「余は伯鯈たり。余は 而 なんぢ の 祖なり。是れを以て而の子と為す」と。 (宣公三年) (楚子玉)自ら瓊弁玉纓を為す。 (中略)夢に河神、己に謂ひて曰 く、 「余に 畀 あた へよ。余は 女 なんぢ に孟諸の麋を賜はん」と。

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中国古代の占夢(一) 七六 (僖公二十八年) こ れ ら の 夢 に は 吉 夢 も あ れ ば 凶 夢 も あ る。 穆 子 の 夢 は、 「 天 の 己 を 圧するを夢みるは、 君の寵に臨むなり」のごとく吉夢のようだが、 「天 は勝つべからず、天に勝つは不祥なり」ともいう。それで、後に自分 を助けた牛によって餓死させられてしまったのだ。燕姞の夢は明らか に吉夢で、後に夢の通り鄭の文公に子が生まれ蘭と名づけられた。子 玉の夢は、河神とは何の関わりもなかったため、後に何の結果ももた らさなかった。 夢のイメージや夢のお告げの第二は 「厲鬼」 である。 「厲鬼」 とは、 すなわち悪鬼のことで、子どものいない鬼は常に「厲」となる。 晋侯、夢に大厲の被髪して地に及び、膺を 搏 う ちて踊りて、曰く、 「余の孫を殺すは、不義なり。余、帝に請ふるを得たり」と。 (成 公十年) 伯 有 の 介 し て 行 く を 夢 み て、 曰 く、 「 壬 子、 余 将 に 帯 を 殺 さ ん と するなり。明年壬寅、余又将に段を殺さんとするなり」 (昭公七年) 晋侯疾[有]あり。 (中略) 「今、黄熊の寝門に入るを夢む。それ 何の厲鬼なるか」と。 (昭公七年) これらはふつう凶夢に属し、夢中の「厲」の多くは、夢を見ている 本人の仇敵の魂である。晋侯の夢に現われた「大厲」は、晋侯が自分 の孫を殺したと咎めるが、これはまさしく死者の祖先の魂で、上帝に 報復を頼み込んだのである。鄭人の夢でも、伯有が「厲」となるが、 これも鄭人が伯有を殺したために、逆に帯と段とを殺そうとしたので ある。晋侯の夢に現われた黄熊は、子産の解釈によれば、鯀の魂が化 したものである。晋が盟主となってからは、ほとんど祭祀が行なわれ なくなったため、こうした祟りが起こるようになったのである。 夢のイメージや夢のお告げの第三は、先祖や先君の霊である。この 夢は『左伝』中、最も多い。孤突が太子の申生を、孔成子と史朝がと もに康叔を、魯の昭公が襄公を、韓宣子が晋の文公をそれぞれ夢に見 た記事などがある。夢を見た者に告げられたのはみな先祖や先君の意 志で、それらの夢は吉夢とされた。成公二年には、韓厥の夢に父の子 輿 が 現 わ れ、 こ う 告 げ た、 「 且( 旦 ) に 左 右 を 辟 け よ 」 と。 翌 日、 戦 車の左右の席に乗らぬように忠告したのだ。そこで真ん中で戦車を操 縦しながら斉侯を追った。 その結果、 左の席の者は車から落ちて死に、 右の席の者は車中で死んだが、彼だけは無事で、勝利を得た。 夢のイメージの第四は、日月、河流、城門、虫鳥など、象徴的な意 味をもつもので、夢のお告げもはっきりとした指摘はないものの、結 局は神霊によるものとされる。 呂錡夢に月を射て、之に中て、退きて泥に入る。 (成公十六年) 声伯、夢に洹を渉り、或るもの己に瓊瑰を与へて之を食し、…… (成公十七年) 得、夢に啓の北首して盧門の外に寝し、己は鳥(烏)と為りて其 の上に集まり、咮は南門に加はり、尾は桐門に加はる。

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立命白川靜記念東洋字究紀   第六號 七七 (哀公二十六年) 「 月 」 は 異 姓 を 表 す。 よ っ て、 呂 錡 が 夢 の 中 で「 月 を 射 」 た の は、 まさしく楚王を射ることを示す。泥に入るのは「死ぬさま」を示すか ら、呂錡は死ぬ運命にある。昔、人が死ぬと、口に石珠を含ませる。 そ れ で、 声 伯 が 瓊 瑰 を 食 べ る 夢 を 見 た の も 凶 夢 と さ れ た。 『 礼 記 』 礼 運に、 「死者は北首し、 生者は南向 (郷) す」 とある。啓は夢の中で 「北 首」していたのだから必ず死に、得は夢の中で咮(嘴)を南に尾を北 に 向 け、 「 南 向 」 し て い た の だ か ら 必 ず 生 き る。 得 に と っ て は 吉 夢 と いえよう。ではなぜ呂錡や声伯が凶で得(宋の昭公)が吉なのかとい えば、当時はそれが天の意とか神の意と考えられていたからである。 注 目 す べ き は、 『 左 伝 』 で は 諸 侯、 将 軍、 宰 相 な ど の 夢 は 重 要 な 史 実と見なされたことである。文の前半に夢が記されれば、後半には必 ずその結果が記される。例えば、呂錡の夢を前に引けば、後ろには呂 錡が夢の如く楚王の目を射抜くが、自分も楚王の部下に首を射られ、 弓 袋 の 上 で 死 ぬ。 ま た、 楽 得 が 夢 を 見 て、 「 余 の 夢 は 美 な り、 必 ず 立 たん」 と大喜びしたが、 後に果して宋の昭公に立てられた。成公十年、 晋侯が夢に「大厲」を見たという記事はさらに不思議である。まず、 晋 侯 は 桑 田 の 巫 に 夢 を 占 っ て も ら う。 巫 は 言 っ た、 「 思 う に、 王 は 新 麦を口にできますまい」と。晋侯の病は一層重くなり、秦の名医の緩 に救いを求めた。緩が着く前に、また夢を見た。二人の子どもが現わ れ、 一 人 が、 「 緩 は 名 医 だ か ら、 き っ と 私 た ち は や ら れ て し ま う よ。 ど こ へ 逃 げ た ら い い だ ろ う 」 と 言 う と、 も う 一 人 が、 「 肓 の 上、 膏 の 下に隠れて、奴がどうするか見ていよう」と言った。緩は着くと晋侯 に言った、 「もはや手の施しようもありません。肓の上、 膏の下では、 石針でも薬でも無理です」と。麦が実る六月になると、晋侯は嘗て桑 田の巫が占ったのはでたらめだったと思い、巫の目の前で麦を食べよ うとしたが、口に入れようとして腹が張り、便所に入った途端に肥溜 に落ち絶命した。このようなややこしい話を敢て記すのは、一体何を 言おうとするためか。それは、こうした「史実」によって、夢の吉凶 が予め定まっていて誰もそれに抗うことができないということを人々 に伝えようとしたためである。 『 左 伝 』 中 の 夢 の 記 事 を 見 れ ば、 占 夢 が 当 時 の 社 会 に い か に 影 響 を 与えていたかを知ることができる。夢の話を記載するのは、史官が伝 統 的 に し て き た こ と で あ る。 清 の 汪 中 の 考 証 に よ れ ば、 『 左 伝 』 は 人 事を記すほかに、あらゆる「天道、鬼神、災祥、卜筮、夢など備に策 に書」されたものは、みな「史の職」に属した( 『述学』内篇) 。つま り、 夢 を 記 す の は 史 官 の 職 責 の 一 つ で、 当 然、 『 左 伝 』 の 作 者 も そ の 例外ではない。事実、いかなる者もその時代の制約を超えて思惟し認 識することはできなかったのである。 「怪、 力、 乱、 神を語らず」と言っ た孔子も、 夢は信じていた。孔子は晩年、 「甚だしいかな、 吾衰へたり。 久しいかな、吾復た夢に周公を見ず」と言ったではないか。 (『論語』 述 而 篇 )。 こ の 嘆 声 は 夢 そ の も の に つ い て 論 じ た も の で は な い が、 も う二度と周公が夢に現われて啓示を与えてくれることはないというよ うな、ある考えを示していることは確かである。死を間近にした孔子 は、 「予疇昔の夜、坐して両楹の間に奠せらるるを夢む。 (中略)予殆 ど将に死なんとす」と言った( 『礼記』檀弓上篇) 。霊柩を両楹の間に

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中国古代の占夢(一) 七八 置くのは殷の葬礼である。孔子は、 「丘や、 殷人なり」と言っている。 両楹の間に坐して食を供える夢を見て、孔子は凶兆と見なした。この ことから、孔子はどんな夢でも占っていたわけではないが、占夢を信 じていたことは確かである。 ただ、 ここでことわっておきたいのは、 春秋時代には「礼楽が崩壊」 し、周の天子の地位が日増しに衰退するにともない、天子に命を授け る天上神の地位も衰退の一途をたどったため、占夢は他の伝統的な宗 教とともに、新たに興った無神論による打撃を被ることになったので ある。殷周時代には占夢に対して、夢の予兆は当然かつ絶対的で何の 疑 う べ き と こ ろ が な い と 誰 も が 考 え て い た。 そ れ が 春 秋 時 代 に な る と、支配階級に属する士人たちの中から、夢の予兆に対して、無関心 な態度を取ったり懐疑的な態度を取ったりする者が現われてきた。占 夢を疑い批判した斉の晏子や楚の子玉、衛の寧武子や復涂偵などは、 その先駆的な位置を占めている。 七雄が覇を競い合った戦国時代は、まさしく経済力や軍事力、ある いは権謀術数が勝負を決めた。人の実力が十二分に発揮された時代に は、無神論が空前の盛況を見せる。それで、上層階級において、占夢 は急速にその力を弱めていった。文献上、この時代に君主や臣下が占 夢によって政事や軍事を決定した例はほんの少ししかない。思想界を 見わたしても、儒家の孟子や荀子、法家の商鞅や韓非、道家の荘子、 兵家の孫臏、陰陽家の騶衍など、占夢を信じたという記録はどこにも ない。 『荘子』 や 『韓非子』 の中に占夢への言及が数箇所見られるが、 ただそれも問題点を指摘し批判的な叙述に終始している。もちろん、 占夢の民間への影響力は依然として根強いと言えよう。ただ、恨むら くはそれを具体的に示す資料がない。 (五)秦漢時代以後の占夢の変化 占夢の歴史は中国古代から長く続いてきた。春秋戦国時代には、そ の影響力はしだいに弱まっていったが、夢自体は正体不明のまま神秘 のベールに包まれていた。それで代々それが伝わっていくうちに、特 殊な頑迷さをも持ち合わせることになった。 先秦時代に比べると、秦漢時代以降は占夢が顕著に変化した。その 主な点は三つある。その一、占夢はそれまで政府における宗教的な信 仰であったが、それがしだいに民間の世俗的な迷信へと変化したこと である。既述のように、殷周時代、占夢は支配階級の信仰であった。 占夢は国家制度の一つで、大事ある毎に、殷周の王たちは厳粛かつ鄭 重に占いをする必要があった。夢を見なかった時には、宗教的な手続 きを経て、神に夢を祈ったり、神のお告げを求めたりしなければなら なかった。占夢者や占夢官たちはその国の官僚だった。秦漢以後、歴 代の皇帝は依然として多くの伝統的宗教に関わる活動に携ったが、占 夢は既に一線から退いてしまい、占夢という官職も姿を消したまま再 び現われることはなかった。 占夢は主に民間に流行し、 しだいに卜卦、 算命、 風水、 人相見などと同様に、 世俗的な迷信の一種となっていく。 『漢書』 芸文志は占夢を 「数術略」 の 「雑占」 類に列ねている。 『晋書』 は占夢家を「芸術列伝」に入れている。 「芸術」とは、 「吉凶を定め、 存亡を審らかにし、 禍福を省る」術、 つまりは「方術」であった。 『晋

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立命白川靜記念東洋字究紀   第六號 七九 書 』 の 著 者 は、 「 衆 術 を 詳 観 す る に、 抑 々 こ れ 小 道、 之 を 棄 つ れ ば 惜 しむべき或るが如く、 之を存するも又経ならざるを恐る」と言う。 「小 道」 、「不経」の語から、当時の占夢の地位がうかがえる。宋の李昉編 『太平御覧』には、占夢や夢の兆しに関する資料は皆「方術部」に収 録されてい る 〔( 〔 。 古代人の霊魂観が長期にわたって蓄積してきた思想的土壌に占夢が 深く根づいていることから、統治者自身も夢を見る原因については全 く分からず、夢について怖れに似た疑いを抱くのが常であった。さら に重要なことは、彼らは決してこうした特殊な迷信を払拭しようとは せず、それを君主権の根拠として利用した。それで、占夢は世俗的な 迷 信 に な っ て い っ た が、 統 治 者 は 決 し て そ れ と 縁 を 切 ろ う と は し な か っ た。 『 史 記 』 高 祖 本 紀 に、 劉 邦 の 母 が「 嘗 て 大 沢 の 陂 に 息 ひ て、 夢 に 神 と 遇 ふ。 ( 中 略 ) 已 に し て 身 有 り、 遂 に 高 祖 を 産 む 」 と あ る。 そ の 時、 「 雷 電 晦 冥 」 し、 劉 邦 の 父 は 劉 邦 の 上 に 蛟 や 龍 が 現 わ れ た の を見た。これは正しく夢によって劉邦が「龍種」に属していることを 証明しようとするものである。 『後漢書』 馮異伝にこんな記載がある。 劉 秀 が 即 位 前 に 馮 異 に 向 っ て こ う 言 っ た、 「 我、 龍 に 乗 り 天 に 上 る を 夢む」と。馮異はその意を悟り、急いで彼を皇帝の座にすえた。その 後、歴代の皇帝の出産や即位の時には、必ずと言っていいほど不思議 な夢のお告げがあった。出産前、后妃は必ず太陽や月を抱く夢を見、 即位前、皇帝は必ず龍に乗って天に上る夢を見る、それが決まったパ ターンになっていた。もちろん、皇帝の中には智恵をしぼって新しい 手 口 を 使 お う と す る 者 も い た。 『 謨 烈 輯 遺 』 に よ れ ば、 朱 元 璋 が 即 位 前に見た夢は、他の皇帝とはずい分と異なっていた。 太祖、夢に西北の天上に一朱台有り、四周に欄有り、上に立て る二人は金剛の如し。台の南の幞頭抹額の者数人列座す。中に立 つ三尊は、道家の三清の状の若し。数紫衣の羽士、絳衣を以て来 た り 授 け、 裏 を 掲 げ 之 を 視 る に 五 彩 有 り。 問 ふ、 此 れ は 何 物 か と 。 道 士 曰 く 、 文 理 は 真 人 の 服 な り と 。 こ れ 上 帝 の 明 命 の 験 な り 。 しかしながら、夢のお告げがいかに変化しようと、その動機と目的 は 全 く 同 じ で あ る。 「 こ れ 上 帝 の 明 命 の 験 な り 」 の 一 語 に そ れ が 明 白 に示されているではないか。 その二、占夢が迷信として、他の宗教や迷信に影響し、かつ互いに 利用し合うということ。漢代には讖緯が猛威をふるい、天道や人事は みな五行に付会され、占夢はついにその一つとなり、五行説によって 占 夢 が 行 な わ れ た。 当 時、 こ ん な こ と ば が あ っ た、 「 人、 夢 に 火 を 見 れ ば、 占 し て 口 舌 と 為 す 」 と。 な ぜ か。 そ れ は、 「 口 は 火 な り。 五 行 の 二 を 火 と 曰 ひ、 五 事 の 二 を 言 と 曰 ひ、 言 と 火 と 直 あ た る 」 か ら、 「 火 は 口 舌 の 象 を 為 し 」、 五 行 の「 火 」 と 五 事 の「 言 」 が 対 応 す る か ら で あ る( 『 論 衡 』 言 毒 篇 )。 『 隋 書 』 経 籍 志 に、 漢 の 京 房 に『 占 夢 書 』 三 巻があったことを記す。この書は早くに散逸したが、京房は五行にも と づ く 災 異 の 思 想 を 説 い た こ と か ら、 両 者 の 関 係 を 知 る こ と が で き る。当時流行の書には、上は黄帝や少昊より、下は孔子や劉邦まで、 夢のお告げに関する記事は枚挙にいとまがないほどである。

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中国古代の占夢(一) 八〇 黄 帝、 天 老 を 召 し て 問 ふ、 「 余 夢 に 両 龍 の 白 図 を 挺 し て 以 て 余 に 河 の 都 に 授 く る を 見 る 」 と。 天 老 曰 く、 「 河、 龍 図 を 出 し、 洛、 亀 書 を 出 す、 ( 中 略 ) 天 そ れ 帝 図 を 授 く 」 と。 (『 夢 占 逸 旨 』 宗 空 篇注引『河図挺佐輔』 ) 帝摯少昊氏、母を女節と曰ひ、大星の虹の如きもの、下りて華渚 に流るるを見、既にして接するを夢み、意感じて白帝、朱宣を生 む。 (『初學記』巻一〇引『河図』 ) 堯、 天 子 た り し と き、 ( 中 略 ) 白 帝 の 遺 る に 烏 喙 子 を 以 て す る を 夢む。烏喙子は、皋陶なり。 (『夢占逸旨』神怪篇注引『春秋元命 苞』 ) 大 任( 太 妊 の こ と、 文 王 の 母 )、 長 人 を 夢 み て 己 に 感 じ、 文 王 を 生む。 (『太平御覧』巻八四引『詩含神霧』 ) 孔子の母徴、黒帝の使の己に往かんことを請ふを夢む。語げて曰 く、 「 汝 の 乳 は 必 ず 空 桑 に 在 り 」 と。 覚 め て、 感 有 る が 若 し。 後 に孔子を空桑に生む。 (『夢占逸旨』宗空篇注引『孔演 図 〔( 〔 』) 讖緯思想の影響により、漢魏六朝時代には、讖言や隠語によって夢 を 解 く の が は や っ た。 『 後 漢 書 』 蔡 茂 伝 に こ ん な 記 事 が あ る。 蔡 茂 が ある大きな屋敷に坐り、 「極」 (棟木)の上に三本の穂が伸びているの を見て、その真ん中の一本を取ったが、後にうっかり失くしてしまっ た。主簿の郭賀は、それはとても縁起のよい夢だと祝いのことばを述 べた。 大 殿 は、 官 府 の 形 象 な り。 極 ま り て 禾 有 る は、 人 臣 の 上 禄 な り。中穂を取るは、これ中台の象なり。字に於て禾失は秩を為せ ば、之を失ふと曰ふと雖も、乃ち禄秩を得る所以なり。袞職に闕 有りて、君それ補せられん。 『呉録』にはまた、 松が腹上に生えた丁固の夢を記載する。そして、 「松の字は十八公」を指すという。十八年後、丁固は夢のとおり三公 の位に至った。先に引いた『帝王世紀』も、 黄帝自ら夢を解いて、 「風 は 号 令 た り、 政 を 執 る 者 な り。 垢 の 土 を 去 る は、 后 の 在 る な り 」、 そ の 人 は 姓 は 風 で 名 が 后 で あ ろ う、 ま た、 「 千 鈞 の 弩 は、 力 を 異 に す る 者なり。羊千万群を駆る(万群を牧する)は、能く牧民の善を為す者 な り 」、 そ の 人 は 姓 は 力 で 名 が 牧 で あ ろ う と 言 っ た。 そ の 後、 夢 の と おりに風后と力牧という二人の名臣を得たのである。この書は先秦の 書には記載がなく、作者が漢魏の際に生きた人であることから、讖緯 関係の書物から取材したのかもしれな い 〔( 〔 。 道教は後漢時代におこったが、もともと占夢とは関係がなかった。 しかし、晋以後は絶えず占夢を取り入れ、それを主要な内容とするよ うになった。 『抱朴子』 (内篇)論仙篇の記載によれば、方士の李少君 が こ の 世 を 去 る 前、 「 武 帝 夢 に 之 と 共 に 嵩 高 山 に 登 り、 半 道 に て、 使 者の龍に乗り節を持し、 雲中より下るに、 云ふ、 太乙、 少君を請ふと。 帝覚め、以て左右に告げて曰く、我の夢の如くんば、少君は将に我を 捨てて去らんと。数日して、少君病と称して死す」とある。葛洪がこ の夢を記載したのは、明らかに夢の予兆をとおして、仙人の不死と昇

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立命白川靜記念東洋字究紀   第六號 八一 天 を 言 お う と し た か ら だ。 陶 弘 景 は 道 教 の 重 要 人 物 で あ る。 『 梁 書 』 によれば、 その母が陶弘景を身ごもった時、 天上から二人降りてきて、 香炉を手に寝室までやって来る夢を見た。この夢は当然、陶弘景が天 から下された非凡なる人物であることを示す。唐代の 『酉陽雑俎』 (前 集 巻 八 ) に、 「 道 門 言 ふ、 夢 は 魂 妖 な り、 或 は 謂 ふ、 三 尸 の 為 す 所 な りと」と記す。これは、この頃には既に道教が夢に関する見識をもつ よ う に な っ た こ と を 示 し て い る。 「 魂 妖 」 云 々 と は、 伝 統 的 な 夢 魂 の 観 念 に も と づ き、 ま た、 「 三 尸 の 為 す 所 な り 」 と は、 道 教 独 自 の 考 え 方である。道教にいう「三尸」とは、人体にあって祟りをなす三匹の 虫で、 「三尸神」と呼ばれる。あるいは、 彭倨、 彭質、 彭矯、 または、 青 姑、 白 姑、 血 姑 と い う。 「 三 尸 」 は 人 の 過 失 を 覚 え て い て、 庚 申 の 日 が 来 る た び に、 人 が 熟 睡 し て い る す き に、 「 之 を 上 帝 に 讒 す 」 る の で あ る。 「 之 を 上 帝 に 讒 す 」 と は、 つ ま り、 上 帝 に 告 げ 口 す る こ と を いう。それで、 道教はいつも 「至人は夢なし」 、「真人は夢なし」 を尊ぶ。 道士はといえば、彼らは庚申の日が来るたび、夜の間ずっと眠らずに いて、 「三尸」が天に上って「之を上帝に讒す」るのを防ごうとす る ((( ( 。 インドでおこった仏教は、初めから夢の予兆や占夢を信じていた。 南北朝以来、各種の漢訳仏典には夢の予兆や占夢の記事が数多く録さ れ て い る。 よ く 知 ら れ た も の に、 仏 陀 の 母 摩 訶 摩 耶 の 五 夢( 『 摩 訶 摩 耶経』下) 、波斯匿王の十夢( 『舎衛国王夢見十事経』 )、訖栗枳王の十 夢( 『 倶 舎 論 』 九 )、 不 黎 先 泥 王 の 十 夢( 『 法 苑 珠 林 』 不 善 部 引『 不 黎 先 泥 十 夢 経 』) 、 悪 生 王 の 八 夢( 『 法 苑 珠 林 』 善 性 部 引『 雑 宝 蔵 経 』) 、 阿難の七夢( 『阿難七夢経』 )などがあるが、その内容はどれも未来の 予言である。例えば、頻婆娑羅王が毛布が裂けて十八の切れ端になる 夢を見たり、金の杖が折れて十八の断片になる夢を見たりする話があ る。仏に問うと、仏は答えた、仏教は以後、十八の派に分かれるであ ろうと。果して、釈迦牟尼没後百年にして、仏教はまず上座部と大衆 部とに分かれ、ほどなくしてそれらはさらに分かれて十八の部になっ た。隋唐の時期には、 インドから 『竭伽仙人占夢経』 一巻が伝来した。 こうした伝説や迷信は、もともと仏教に固有のものであったのに、一 たび中国に伝わるや、中国の伝統的な占夢と手を取り合うようになる のである。 仏教が占夢を信じるのは、主に行ないの善悪による因果応報を言う た め で あ る。 『 善 見 律 』 の 所 謂「 天 人 夢 」 は、 善 人 が 善 を 行 な え ば 天 が善夢を現わし、善根を伸ばす、一方、悪人が悪をなせば天が悪夢を 現わし、恐ろしさのあまり悪を改めて善を行なうというものである。 所謂「想夢」とは、常に善事を思えば善夢が現われ、常に悪事を思え ば悪夢が現われるというものである。 『法苑珠林』 にはさらに所謂 「有 記 夢 」 に つ い て 言 及 が あ り、 「 若 し 宿 もと よ り 善 悪 有 ら 」 ば、 則 ち「 夢 に 吉凶有り」という。つまり、夢に善悪の分があるのは、夢を見る前や 前世において「善悪の種子」があるからだとする。仏教は時に、夢は 外界の刺激や身体の疾病と関係があるとする。なかでも強調するのは 「他引」 である。 『毘婆沙論』 によれば、 「他引」 は 「諸天、 諸仙、 神鬼、 呪術、薬草、親勝所念や諸聖賢など」を含 む 〔(( 〔 。この理論にともない、 中 国 化 し た 善 悪 応 報 の 夢 の 例 が 次 々 に 生 ま れ た。 『 述 異 記 』 に こ ん な 話がある。宋羅の妻の費氏はいつも『法華経』をあきることなく繰り

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中国古代の占夢(一) 八二 返 し 誦 し て い た。 後 に 重 い 病 に 罹 っ た が、 夜、 「 仏 の 窗 中 よ り 手 の 席 の 如 き を 投 ず 」 る 夢 を 見 て、 す ぐ に 平 癒 し た と い う 〔(( 〔 。『 春 渚 紀 聞 』 の 記載によれば、湖州安吉県の沈某が、金の兵がやって来る前に僧侶が こう告げる夢を見た、前世のおまえに殺された仇敵がやって来るぞ、 家の者たちを逃がし、おまえ一人で守れ、もし刀を持った男が戸を蹴 破っても恐れるな、まず、そいつに燕山府の某かどうか訊ね、それか ら首を伸ばすのだ。もし殺されなかったなら、前世の恨みも消えたと いうことだ。その後、果して僧侶の言ったとおりとなり、その人は事 の次第を知って沈を殺さなかったばかりか、二人は心を合わせて仏教 を信奉し、兄弟の契りを結ん だ 〔(( 〔 。この二つの夢には宗教色が濃厚で、 全くの虚構ではないとしても、多分に誇張されていると考えられる。 道教や仏教の影響の下、それらの要素の一部が伝統的な占夢に浸透 していった。例えば、 敦煌の遺書に現存する夢書の残巻に、 もっぱら、 『仏法仙篇』 、『仏道音楽章』 及び関連の兆辞や占辞が録され る ((( ( 。ただ、 道教を尊崇するものもあれば、仏教を尊崇するものもあることから、 道 仏 二 教 が 争 う 複 雑 な 事 情 を 見 て 取 る こ と が で き る。 例 え ば、 「 夢 に 老子を見て、 人の念ふ所と為る」 、「夢に僧尼を見て、 求むる所成らず」 な ど は、 明 ら か に 道 教 に 味 方 し 仏 教 を そ し っ て い る。 ま た、 「 夢 に 僧 尼を見て、弘福にして大吉なり」 、「夢に大浮屠を見て、大いに富貴と なる」 、「夢に菩薩を見たる者は、主に長命なり」などが仏教を宣揚し ていることは明白である。このほか、仏教の呪、道教の符なども、知 らぬ間に占夢に浸透していっ た ((( ( 。 その三は、占夢が一種の方術として、しだいに複雑化し精巧になる とともに、 その適応度を高めていったことである。 『左伝』や『詩経』 に見られる関係資料から、先秦時代の占夢は、まず「直解」の方法を とり、夢の内容をもとに夢が示す意味を解釈していることが分かる。 後に吉凶となって結果が現われるが、それは夢の内容とじかに対応す る。 例 え ば、 昭 公 七 年 に 穆 子 が「 夢 に 天、 己 を 圧 し て 勝 た ず 」、 牛 な る者が来て助けたが、後に果して牛に出会って助けられる。同年の記 事には、鄭の人が夢に伯有を見て帯と段を殺すという予告を聞くが、 後に果して帯と段が相次いで殺される。これが「直解」 、「直応」とい う も の で あ る。 も う 一 つ は「 転 釈 」 と い う、 主 に「 象 徴 」 に も と づ く解釈法である。夢の内容は直接には夢の意味を示さず、ただその象 徴する内容が夢の意味を示すというものである。よって、その応験も 「直応」ではなく、 「曲応」である。成公十六年の呂錡が月を射た夢、 十七年の声伯が洹をわたる夢などは、 彼らが 「月を射」 たり 「洹を渉」 っ たりすることをいうものではなく、ただその象徴的な意味を伝えるに す ぎ な い。 『 詩 経 』 の 熊 羆 の 夢 や 虺 蛇 の 夢 も、 そ れ ら を 見 る だ ろ う と 予測するものではなく、熊羆や虺蛇が男児や女児を生むことを象徴的 に示しているだけである。したがって、この種の夢の応験は直接的で はなく間接的なものとなる。ただ、これらの占法や解釈法は比較的簡 単である。的中するかどうか、夢を見た当人でも容易に判断できる。 ただ、うまく解釈できない夢もあるわけで、うまく解釈できなければ 「占して験有り」 とは言えないことにもなる。このように、 占夢がずっ と発展し続けていくためには、占夢の方法において、占う者が融通を きかす余地を残しておく必要があったのである。

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立命白川靜記念東洋字究紀   第六號 八三 秦漢以後、 「直解」のほかに、 「転釈」の中からその「象徴法」を敷 衍した新しい解釈法が生まれた。 「連類法」 、「類比法」 、「破訳法」 、「解 字法」 、「諧音法」などである。さらに、新たに「反説」という占法も 生 ま れ た。 「 反 説 」 と は、 夢 が 凶 な ら 吉 と し、 夢 が 吉 な ら 凶 と す る よ うに、夢の内容とは逆の解釈をする方法である。こうして、夢を「直 解」するのか、それとも「転釈」するのか、あるいは「反説」するの か、占う者にとって腕の見せ所、融通性を発揮する場面である。だか ら、占う者はいとも容易く時代の要求に答えて勝手な付会を加え、当 たる当たらないもすべて思いのままであった。 また、 占夢者は占夢の活動に対して、 多くの付帯条件を定めていた。 例 え ば、 占 夢 は 夢 の 内 容 を 分 析 す る だ け で な く、 「 そ の 変 改 を 謹 み、 その徴候を審らかにし、内に情意を考へ、外に王相を考ふ 」 〔((〔 というこ とが要求された。そして、占夢は夢を見た人やその地位についても考 えを及ぼす必要があった。同じ内容の夢でも、貴い人か賎しい人か、 君子か小人か、帝王か家臣かで、夢の意味はみな異なってくる。さら に、夢を見た人が誠実かどうかも考慮しなければならない。誠実なら ば夢は現実となり、不誠実ならばそのとおりにならない。たとえ夢占 いが当たらなかったとしても、占夢者を責めとがめてはならない、そ れはあなたの心が誠実でなかったからなのだ。このようにして、占夢 者 は い か な る 情 況 に 置 か れ て も う ま く 取 り 繕 う こ と が で き た の で あ る。こうした情況については、第三章で具体的に検討するつもりであ る。 (六)占夢の理論と哲学 先秦時代の占夢は概ね古い伝統的な夢魂の観念に支配されている。 両漢時代以来、宗教や神学の発展により、占夢も日増しに理論化して いった。占夢の理論化は、神道や唯心主義哲学による理論武装に表わ れていた。これも秦漢以後の占夢の重要な変化の一つといってよい。 両漢時代、王充の『論衡』には「人の夢や、占夢(占者)は之を魂 行くと謂ふ」 (紀妖篇)とあるが、 「魂行く」によって、どうやって夢 が生まれるのか。 それは、 「精神行くに、 人と物と相更々す」 だという (論 死 篇 )。 こ の 頃 に は、 既 に 霊 魂 が 人 の 精 神 で あ る と 考 え ら れ て い た こ と が 明 ら か で あ り、 「 魂 行 く 」 は「 精 神 行 く 」 の 意 で あ っ た。 占 夢 者 の考えによれば、 人は睡眠時に精神が肉体を離れて浮遊し、 人と出会っ たり、物と接触したりするために、その人や物を夢に見るということ だ。 霊魂が天に登れば、 上帝に会えるかもしれない、 「夢に帝を見るは、 こ れ 魂 の 天 に 上 る な り 」 と い う よ う に( 紀 妖 篇 )。 け れ ど も、 人 は 睡 眠時には肉体が動かないのに、精神がどうやって肉体を離れて浮遊す る の か。 占 夢 者 は 言 う、 「 精 神 自 ら 身 中 に 至( 止 ) り て、 吉 凶 の 象 を 為 す 」 と( 論 死 篇 )。 だ が、 こ こ に 言 う「 精 神 」 は 夢 を 見 て い る 人 の 精神ではなく、その人の身体の外にある精神で、すなわち、上帝や神 霊、または、他人の魂である。外界の魂が眠っている者の魂にはたら きかけてはじめて「魂行く」ことで夢が生まれるのである。ただ、 『論 衡』中の資料は雑駁の感を免れない。理論的色彩を帯びているとはい え、イメージによって論述されている傾向が強い。 『論衡』 の後に著された王符の 『潜夫論』 に 「夢列」 という篇がある。

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