神奈川県東半部の昆虫相,とくに相模野欠如要素の存在について
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(2) 高桑. 62. 正敏. 調べた結果,多摩丘陵の東端,高津区を章削こその東側で分布記録のない3種の存在を認め, そこにダイアナ・ラインという分布境界線を提唱した。ダイアナとはクロヒカゲの含まれ るヒカグチョウ属の属名Dal'anaのことで,後に[岸]. (1990)はクロヒカゲの県内におけ. る詳細な調査をまとめ,県東半部にあってはこのチョウの分布がほぼ相鉄線の北側に限ら. れるとした。さらに岩野(1988)は県内と多摩丘陵のミスジチョウを調査した結果,その 当時での生息境界が県東半部では多摩丘陵の横浜市緑区・旭区から川崎市麻生区にあると し,そのラインをミスジ・ラインと呼んだ。 一方で筆者は,県東半部においても昆虫の分布態には,本地域に特有な興味深い現象が 生じていることに気づいていた。それを一言で表現するなら,クロヒカゲのように北部だ. けに分布する種の存在に加え,多摩丘陵北部方面と南部の三浦半島方面とに分かれて分布 する種,すなわち相模原台地から多摩丘陵南部,下末吉台地などの平坦地や沖積低地での 分布を欠く種の存在である。ここでは,県東半部の昆虫相を概観する中で,こうした南北 に不連続な分布パタンを示している種類の存在を強調したい。そして,高桑(1980)の提 唱した伊豆・箱根欠如要素の用語に倣い,これらを相模野欠如要素と呼んでおきたい。次 に,分布空自の理由について,生態的および地史的な面から若干の考察を加えたい。なお, ここで用いる分類群はどれもよく知られているものなので,種名については学名を省略し, 通常使用されている和名のみとする。 本論文は,横浜国立大学教育学部の遠山三樹夫教授(植物生態学専攻)の退官記念に捧 げられる。本文に先立ち,筆者の高校生時代から35年の長きにわたり,公私ともあたたか なご指導をいただいている遠山教授には心からの感謝を申し上げたい。さらに,本論文を 作成するにあたっては,職場同僚の平田大二氏に地学的な知識について,同じく勝山輝男 氏には植物全般について,同じく苅部治紀氏にはトンボ目昆虫について教示を得た。また, 神奈川昆虫談話会の稲垣. 聖. 毅氏には横浜市のトンボ類について教示を願ったほか,原. 樹・美ノ谷憲久・中村進一各氏には常日頃からチョウ類の知見ならびに文献を授けていた だいている。これらの方々に心からの感謝を申し上げる。. 1.神奈川県東半部の昆虫相. ここでの神奈川県東半部とは,神奈川県をほぼ相模川によって東西に分けた場合の東側 地域を指す。具体的には相模川河口から北-向かい,相模原市では相模線に沿ったライン. から東側を想定しており,町田市や稲城市など東京都側の地域も含めて考察している。地 形的には相模原台地や下末吉台地,沖積低地などの平坦な土地が広がっているが,北部は 町田市から川崎市西北部にかけて多摩丘陵が東西に走り,さらにその東部からはより低い 丘陵となって横浜市内を南下し,当地域では最も標高的に高い三浦半島の山地-とつなが る(図1,. 2)。全域がシイ・カシ帯に含められるが,群落レベルの植生は必ずしも均質で. はなく,やや変化に富んだものとなっている。また,シイ・カシ帯の構成要素が中心となっ. て植物相を形成しているが,その分布態もマクロな観点から一様ではない(大場, ここでの昆虫相はほとんどがシイ・カシ帯の要素で構成されるが,アオスジアゲハやモ ンキアゲハのような東洋熱帯系の要素も少なくなく,ルリツヤハダコメッキやミヤマクロ ハナカミキリのようなブナ帯の要素も少数だが分布している。神奈川県全体で見た場合に. 1988)0.
(3) 63. 神奈川県東半部の昆虫相,とくに相模野欠如要素の存在について. は,県西半部よりもか なり相は単純である. が,その多くはブナ帯 の要素のほとんどを欠 くことによる。ただし, シイ・カシ帯の要素で あっても,県西半部に は分布していながら当 地域に分布していない 種が少なくない。この 理由の1つとしては, シイ・カシ帯要素の分 布の広がりが,ふつう. 県西南部から県東部と向かうことによる (高桑, 1980)。すなわ. 図1-2.神奈川県東半部の地形。 (いずれも松島・平田.. -1,地形区分図; 1988より一部引用)。. 2,地形図. ち,分布拡大の過程で. 相模原台地や多摩丘陵に達していない種の多さであり,キリシマミドリシジミやウラナミ ジャノメはその好例であろう。 さて,県東半部の中での昆虫相は,植物の場合と同じように,多少とも地域差を生じて. いる。それを種類数が多く,かつ分布相が比較的詳しく解明されているチョウ類とトンボ 類を例にして見てみることにしたい。また,カミキリムシ科甲虫など必要に応じて他の分 類群も参考とする。ただしここで注意しなければならないのは,人為的な干渉による各地 域からの分布の欠落である。過去,たとえば1960年代までは分布記録があっても,現在は 分布していないという地域は非常に多い。この点に十分留意したうえで,以下に考察を進 めたい。. (1)チョウ類 神奈川県には土着種(一時的な発生を含む)と考えられるものが119種ほど記録されてお り,県東半部ではそのうちの82種が生息する(していた)。これらの全種が西側にも分布し, 県内では東部に限って分布する種は1つもない事実は興味深い。 82種の県東半部における地域別の分布状況を表1に示す。川崎市北西部は東急田園都市 線から西側の地域を指しており,それより南東側の地域を示さなかったのは記録が不十分. だったことによる。横浜市北西部は青葉区と緑区を,横浜市北東部は鶴見区と港北区,神 奈川区北部を,横浜市中部西は旭区の大部分と保土ヶ谷区,瀬谷区,泉区,戸塚区北部,港 南区芹ケ谷,南区の西部を,横浜市中部東は中区と磯子区北部,南区東部を,横浜市南部 は金沢区と磯子区南部,港南区南部,栄区をそれぞれ示している。さらに註に示したよう. に,横浜市北東部には川崎市南東部の記録を,横浜市南部には鎌倉市東部の記録を含めた。 表1から,県東半部のチョウ類の分布はおおよそ次のようにパタン化される。ただし, テングチョウのように近年になってから分布域を拡大した種については,分布パタンを考 えるうえで煩雑となるため別枠とした。.
(4) 三浦半島 000000000 000000. 000000000. 000. 000000000. 000. 000000000. 00000000000. 000000. 0000000. 000000000. 0000000 000000. 000000000. 000000000. 000000. 0000000. 000000. 藤沢市 000000000. 000000000. 茅ヶ崎市 000000000. 000. 横浜市南部. 大和・座間市 000000000. 000000000. 相模原市 000. 000000. 横浜市中部東 0000000. 000000. 000 000. 000. 0000. 00000. 0000000. 000000. 000. 000. 00000. 0. 000000000. 横浜市中部西 000000000. 000. 0. 0000000. 横浜市北東部. 000000000. ○. △. 000000. 横浜市北西部. 000000. 000. △. △. ○. 000000000. 000000000. △. △. △ △. △. 0. 000000. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. △. 0. 0. 0. 0. 0. 00 00. 0. 0 0. 00. 00. 00. テングチョウ科 テンダチョウ マダラチョウ科 アサギマダラ タテハチョウ科 ウラギンスジヒョウモン. 0. 00 00 00. 00 00. 00. 00. ウラナミシジミ. 00 00 00. 00 00. ヤマトシジミ シルビアシジミ ツバメシジミ ルリシジミ. 000000. ミズイロオナガシジミ アカシジミ. 0. コツバメ ペニシジミ タロシジミ. 0 0 ミドリシジミ オオミドリシジミ. 0 ハヤシミドリシジミ トラフシジミ. 川崎市北西部. モンシロチョウ スジグロシロチョウ シジミチョウ科. 000000000. ウラゴマダラシジミ. 0000000. ツマキチョウ. 000000. ウラギンシジミ. 00000000000. ムラサキシジミ. 稲城市. 多摩丘陵. ゴイシシジミ. 0 0 0. アゲハチョウ科 ギフチョウ クスバシロチョウ ジャコウアゲハ キアゲハ アゲハ オナガアゲハ クロアゲハ モンキアゲハ カラスアゲハ ミヤマカラスアゲハ アオスジアゲハ シロチョウ科 ヒメシロチョウ キチョウ ツマグロキチョウ モンキチョウ. 正敏 高桑 64. 表1.神奈川県東半部におけるチョウ類の分布状況. ウラナミアカシジミ.
(5) 65. 神奈川県東半部の昆虫相,とくに相模野欠如要素の存在について. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 00000. 000000. 000000. △00. 00. 00000?. 0△0. 0. 000000. 0. 0. 000000. 0. 0. △00. 00. 00 00. 00000. 00 00 00 00. 000. 000000000. 00000. 000000. 000000. ゴマダラチョウ. 0. 0000. 00. 00000000000. 00000000000000. 0. 0000. 0. 000000△00. 00. 0. クラギンヒョウモン オオクラギンヒョウモン ツマグロヒョウモン イチモンジチョウ アサマイチモンジ ミスジチョウ コミスジ ホシミスジ キクテハ ヒオドシチョウ アカタテハ ヒメアカタテハ ルリタテハ スミナガシ コムラサキ. 0. 0000. 0000. 000. メスグロヒョウモン. 00 0000. 000000. 0000. ミドリヒョウモン クモガタヒョウモン. 000000. オオウラギンスジヒョウモン. 00 00 00 00 00 00. オオムラサキ. ジャノメチョウ科 000. 000. 000. 000. 0000△. 0000. 0000△. 0000△. 0. 000000. 000000. 000000. 000. 000. 000. 000. 0. 0. 0. 0. 0. 00000. 0000. 0000000. 0000△ △. 000. 0000000. △. ヒメジャノメ コジャノメ. 000. 0000000. カゲ. 00000000. ヒ. トキマダラヒカゲ. 00000000. ヒカグチョウ ロ クサ. 00000000△. ヒメウラナミジャノメ ジャノメチョウ. クロコノマチョウ ウスイロコノマチョウ. セセリチョウ科. 000. 00000. 00000. 00. 000. 000000. 00000. 00000. 00000. 000000. 000. 000000. 000000. 000000000000. ミヤマセセリ ギンイチモンジセセリ ホソバセセリ. 000000000000. ダイミョウセセリ. 000000000000. アオバセセリ. コチャバネセセリ ヒメキマダラセセリ. イチモンジセセリ. 土着種の合計種数. 0 76. 66. 72. 63. 000. キマダラセセリ. オオチャバネセセリ チャバネセセリ ミヤマチャバネセセリ. 0 65. 62. 66. 65. 63. 58. 65. 64. 62. 註1.偶産種,および人為的な移入によると思われる記録は含めていない。 2.大和市・座間市には海老名市の,横浜市北東部には川崎市南東部の,横浜市南部に は鎌倉市東部の,それぞれ一部の記録も含めた。 3.川崎市と横浜市における区分は本文を参照。 4. 0印は土着と考えられる地域。 5. △印は発生しても-時的と考えられる地域。 6. ?印は確実な記録だが偶産と考えられる地域。.
(6) 高桑. 66. 正敏. A.一定の分布パタン. ①. ほぼ全域に分布 アゲハチョウ,. キアゲハ,クロアゲハ,カラスアゲハなど. 過半数の4245種程度が該当 し,大部分は現. 在も県東半部で 広く分布してい る。ただし,ツ. マグロキチョウ (図3)に限って は1980年代には すでに絶滅状態 になっていたと 見られる。また, ウラナミアカシ ジミやメスグロ. 図3-4・神奈川県東半部におけるチョウ類の過去の記録地点。. ヒョウモン,オ. -3,ツ. マグロキチョウ;4,クロシジミ。. オチャバネセセ リなどは現在きわめて分布域を縮小しているものと考えられる。. ②. 三浦半島だけ欠如(3種) オオムラサキ,ギンイチモンジセセリ,ホソバセセリ 県東半部のほぼ全域に分布しているものの,三浦半島の中・南部に記録のない種で ある(三浦半島の基部には産するため表1では三浦半島に分布が記されている)。ギン. イチモンジセセリは神奈川県内では大河川沿いの種という印象が強いが,それは近年 の縮小した分布状態から感ずることであって,過去には河川に関係ない地点でも多く の記録があった。. ③ 北部から中部にかけて分布(6種) クロシジミ,ウラギンスジヒョウモン,ミスジチョウ,コムラサキ,クロヒカゲ, ミヤマチャバネセセリ. 多摩丘陵北部あるいは相模原台地の北部には分布するが,茅ヶ崎市や横浜市南部か ら三浦半島方面にかけては分布が知られていないか,記録があったにしても他からの 飛来個体と推定されている種である。この分布パタンのものはクロヒカグを除くと,. 1960年代にはこの県東半部の大部分から姿を消したと思われる種を含み,現在も生息 している可能性があるのはミスジチョウ(横浜市北西部・川崎市北西部)とミヤマチャ バネセセリ(川崎市北西部と相模川沿い)のみである。. [岸] (1990)の示したダイア. ナ・ラインは,このパタンの南限線の1つを示している。クロシジミ(図4)はかつ て相模原市に多産していたという(桐生,. 1957;ほか)。. ④ 多摩丘陵から三浦半島にかけて分布するが,平地では局地的(9種) ジャコウアゲハ,オナガアゲハ,ミヤマカラスアゲハ,ミドリシジミ,コツバメ,.
(7) 神奈川県東半部の昆虫相,とくに相模野欠如要素の存在について. 67. アサマイチモンジ,スミナガシ,ミヤマセセリ,アオバセセリ. 多摩丘陵から三浦半島にかけての丘陵地には広範に分布するのに,相模原台地や鶴 見川沿いなどの低地では少ない種。渋谷(1974)が唱えたダイアナ・ラインは,本来 このパタンの多摩丘陵東端部付近における状況を示しているように思える。. ③のパタ. ンとは三浦半島まで分布する点で区別され,より丘陵依存性が強い種を含むと考えら れる。. ③と同様に衰退の著しい種が多く,とくに相模原台地での過去の分布相は必ず. しも明らかでない。また,ジャコウアゲハは相模原台地や横浜市北部でも点々と記録 があるが,安定した土着には至っていないと考えられる(例えば美ノ谷,. 1986).ミヤ. マカラスアゲハは県東半部での土着性を否定する考え方もある。. ⑤ 北部だけに分布(3種) ギフチョウ,ヒメキマダラセセリ,ホシミスジ. 丹沢山地や津久井地方から多摩丘陵にかけて分布しているが,相模原台地や横浜市 中・南部,三浦半島方面にかけての広い地域で分布を欠いているもの。. ③のパタンを. 顕著にしたものとも考えられる。. ⑥ 相模原台地だけに分布(2種) ヒメシロチョウ,ハヤシミドリシジミ 前種は横浜市旭区万騎ケ原と大和市林間の1960年代以前の記録しかない。全国的に も内陸型の分布傾向が強いので,県東半部ではこの地域にしか生息できなかった可能 性が強いが,一方,ある程度安定した草地環境にしか生息できないことで,調査が十 分ではないうちに他の地域から姿を消してしまった可能性も考えられる。後種は大和 市林間の記録しかない。関東近辺ではカシワだけを寄主植物とするが,その樹種の移 動に伴い,他地域から持ち込まれたものの可能性も考えねばならないだろう。. ⑦. 海岸や大河川沿いに分布(1種) シルビアシジミ. 湘南・三浦半島の海岸沿いと相模川・多摩川沿いに限って分布するパタンである。 ギンイチモンジセセリとミヤマチャバネセセリも現在での分布状態を見ればこのパタ ンに近いが,かつては河川沿いばかりでなく谷戸の草地・湿地でも分布していたので, ここには含めていない。. ⑧. 分布パタンの不明なもの(6種) アサギマダラ,オオウラギンスジヒョウモン,クモガタヒョウモン,ウラギンヒョ ウモン,オオウラギンヒョウモン,ツマグロヒョウモン アサギマダラは三浦半島では確実に土着しているものの,それ以外の地域では発生 することがあっても夏期だけの可能性が強い。同様にツマグロヒョウモンも,発生す るケースもあるようだが一時的だろう。オオウラギンスジヒョウモンとクモガタヒョ ウモン,ウラギンヒョウモン,オオウラギンヒョウモンは移動性が強い種のうえに,. 県東半部においては1960年代にはほぼ姿を消してしまったらしく,採集例も少なくて 分布パタンがはっきりしないのでここに含めた。ただ,とくにオオウラギンスジヒョ ウモンとウラギンヒョウモン,オオウラギンヒョウモンは内陸部の開けた草地環境を 好んで生息するので,. ③または⑥の分布パタンに含めるのが妥当かもしれない。同様. にクモガタヒョウモンを③または④のパタンと見なす意見もあるだろう。.
(8) 高桑. 68. 正敏. B.流動的な分布パタン(7種). ① 最近になって県東半部に分布するようになったもの(2種) クスバシロチョウ,クロコノマチョウ. 前種は多摩丘陵と相模原市の一部に進出している。後種は少なくとも1970年代まで は県東半部に土着していなかったと思われるが,現在はほぼ全域で姿を見かけるまで になっている。. ② 近い過去に県東半部での分布を拡大したことがあるもの(5種) ムラサキシジミ,ウラギンシジミ,トラフシジミ,テングチョウ,ミドリヒョウモン これらの全種が最近になって県のほぼ全域から記録されている。全種とも分布拡大 時期以前から県東半部の大部分に生息していた可能性が強いが,少なくともトラフシ ジミとテングチョウは三浦半島や湘南地域には分布していなかったと考えられる。 [分布相の考察] 以上の分布パタンからは,県東半部に生息するチョウ類の過半数がほぼ全域に分布する (していた)こと,しかし一方ではある特定の偏った地域に分布する(していた)種も決し. ⑦のように明らかに生息環境に. て少なくないことが明らかである。さらに後者の中では, 規制された分布パタンも稀にあるが,. ②-⑤のように地理・地形的な要因が関係すると思. える分布パタンの方が多い。これを要約すれば,県東半部のチョウ相全体としては丘陵地 ほど,また北部ほど種類数が多く,低地ほど,また南下するにつれその数を減じる,とい うことになる。実際,最北に位置する多摩丘陵(確実な土着種はほぼ76種)で最もチョウ 相は豊富であり,川崎市北西部(同72種:丸山,. 1971;原,. 1971;増淵,. 1995;神部,. 1996)が少ないように思え. 1997;ほか)がそれに次ぐ。同じ北部の稲城市(同66種:林,. るかもしれないが,これは調査地域が狭小なことに加え,用いたデータ・e)調査時期が1980. 年代以降と新しく,それ以前に姿を消した種が欠落しているからと思われる。一方,南部 1997)は最もチョウ相は貧弱で. でかつ標高がせいぜい50m以下の茅ヶ崎市(同58種:岸,. あり,標高200m以上の山地を擁する三浦半島(同62種,うち数種は半島北部のみの記録: 三浦半島昆虫研究会, (同63種:加藤, 1970. 1978. ;ほか)でもかなり貧弱である。中間に位置する横浜市北西部. 1979;井形,. ;モルフォ生物同好会,. 1986;ほか),横浜市北東部(同65種:鶴見, 1980. 録編纂委員会編, 1956;石渡ほか, ほか),大和市・座間市(63種:上野, 木, 1995;岸,. 1954;金子,. ;ほか),横浜市中部西(62種:京浜昆虫同好会蝶類目 1989-1991. ;ほか),横浜市中部東(66種:桃井,. 1981;岩野ほか,. 1996),横浜市南部(同64種:新堀,. 1956;. 1993;ほか),藤沢市(同65種:鈴. 1948;大胡,. 1960;ほか)は,それぞ. れに種類数の差が多少見られるものの,ほぼ北部と南部の中間の数値を示している(表1)0 (2)トンボ類. 神奈川県には土着種と考えられるトンボ類が82種ほど記録されており,県東半部ではそ のうちの73種が生息する(していた)。チョウ類とは異なり(残された記録を見る限りだ が),県内では東部に限って分布する種はかなり多く,ヒヌマイトトンボやハネビロエゾト. ンボをはじめとして県産の約1割の9種が数えられる。この理由としては,東部と西部と の水環境の違いの他に,東半部に位置する横浜市が古くから調査されていたことが大きい と考えられる。つまり,西半部での調査が盛んになった1970年代以降には,すでに西部で は姿を消してしまった種が多い可能性を考慮に入れなければならない0.
(9) 神奈川県東半部の昆虫相,とくに相模野欠如要素の存在について. 69. これら73種の地域別の分布状態は表2に示される。分布はおおよそ次のようにパタン化 されるが,とくに次の3点において注意を必要とする。第1に,過去の文献記録には誤同 定の可能性がつきまとうこと。とくにサナエトンボ科やイトトンボ科は要注意で,記録の. 基になった標本を調査することによって誤同定が確認できた例もある(川島, に,事実に基づかないと推測される記録(養父,. れるケースの存在(苅部,. 1990)。第2. 1991)や,人為的に導入されたと考えら. 1998)である。前者については論外であり,後者についてはト. ンボ池造りの気運が高まる中で,関係者には今後こうした事態を招かないような配慮が望 まれる。第3に,とくに相模原台地はもともと水環境に乏しかったうえに,早くから開発 が進んでおり,知られざるままにその地では姿を消してしまった可能性がある。また,チョ ウ類におけるテングチョウのように,近年になってから分布域を拡大した種も少なくなく, これらは別に区分けした。 A.一定の分布パタン. ①. ほぼ全域に分布 アジアイトトンボ,オニヤンマ,ギンヤンマ,シオカラトンボなど。 28-30種程度しか該当しないので,全体の4割程度にとどまっている。これはチョ ウ類とは大きな違いである。止水域に生息し,飛邦力が強くて分布拡大能力が高いと. 考えられる種が多いが,オニヤンマ(図5)やハグロトンボのように流水性の種も含 まれる。後種については,表2を見る限りではこの分布パタンに見えないが,これは 平地部からは早い時期に姿を消したために過去の文献上に現れなかったもので,オハ グロトンボの名で広く親しまれていたことからもわかるように,実際には広く分布し ていたと考えるのが妥当であろう。ハグロトンボのように調査が十分に進まないうち に各地から姿を消してしまい,そのために局地的な分布状態を示していると思われる 種は少なくないはず(例えば不明種に入れた種はその可能性が強い)である。. ② 北部から中部にかけて分布・(1種) モートンイトトンボ 本種は例外的に藤沢市での記録(岸,. 1996)があるが,それ以外は横浜市旭区-瀬 谷区-座間市より北での生息しか確認されていない。ちょうどチョウ類におけるクロ ヒカグ的な感じである。湿地や田に生息する種なので,平坦地では調査される前に姿 を消してしまった可能性も強い。. ③. 多摩丘陵から三浦半島にかけての丘陵地に分布するが,平地では局地的(9種) アオイトトンボ,オツネントンボ,カワトンボ,ヤマサナエ,キイロサナエ,ダビ ドサナエ,コシボソヤンマ,ミルンヤンマ,コヤマトンボ. アオイトトンボとオツネントンボは①のハグロトンボのように広く分布していた可 能性があり,それ以外は渓流性(一部は中流域にも生息)である。カワトンボ(図6) は横浜市南部から三浦半島一帯,それに横浜市戸塚区の北部から緑区にかけての地域 に分布する以外は,わずかに藤沢市川名付近,川崎市麻生区黒川付近(と多摩区生田 緑地?. :西田ほか,. 1996)に隔離分布するだけであり,コシボソヤンマとミルンヤン. マもほぼ同様な奇妙な不連続分布を示しているのは,実に興味深い。ヤマサナエ(本 来は中流域にも生息)はこれら3種よりも分布域が広がっているものの,基本的には 同じ分布パタンを示す。ダビドサナエとコヤマトンボ(本来は中流域にも生息)はさ.
(10) 高桑. 70. 正敏. 表2.神奈川県東半部におけるトンボ類の分布状況 三浦半島. 横浜市南部. 藤沢市. 茅ヶ崎市. 大和・座間市. 横浜市中部東. ?0. ボ 0. 00 00 00. 0. 000000. 00 00. 000. ボ ンボ. 00000000. ?. 000 0. 00. ポー ンポ. 0000. 0000. 00. 0 0 0000 (横浜:詳紳は不 00 00 00 00 00 0 0000 00. 0. _t仙皿. ン. g. 0 0. ン. ポ ボ. 0. 00ー00. 00 ○. 00. 000 000. 00. ○ 明. 00 000. 00 0. 00 0. ?. 0000000 0 0 0. 000 0. 0 00. 00 00. *ダビドサナエ. 000. コサナエ. 0. 0 0000000. *キイロサナエ ☆オナガサナエ. 横浜市中部西. *ホンサナエ *ヤマサナエ. 横浜市北東部. 0 000000. ムカシャンマ. サナエトンボ科 ☆ミヤマサナエ. 0. 0. モノサシトンボ科 モノサシトンボ オオモノサシトンボ アオイトトンポ科 アオイトトンボ オオアオイトトンポ コバネアオイト オツネントンボ ホソミオツネン カワトンボ科 *ハグロトンボ *カワトンポ ムカシャンマ科. 横浜市北西部. オオイトト セスジイトト オオセスジイト. 0. 00. ボ. 000000. ト ト ムスジイト. 川崎市北西部. 稲城市. ト イ. ー. ンポボ ンン ボーンボンボン -ーーボンーーンーン. 科イーーン ボンイイーーンイー ンーマミトイモアイ -一ヌソイニオジロ -モヒホキベアアク. イ. *ヒメクロサナエ *コオニヤンマ ウチワヤンマ. 000. ☆オジロサナエ. 0 0. 0. 0. 0. 0. 00 0. 0. 0. オニヤンマ科 *オニヤンマ. 00000000000. ヤンマ科 *コシボソヤンマ *ミルンヤンマ アオヤンマ. 0 0 0. 00. サラサヤンマ. 00 0 000. 0 0 0. 000 000 0.
(11) 神奈川県東半部の昆虫相,とくに相模野欠如要素の存在について. 000. 000. 000. 000. 00 00. 000. 000. 000. 00. 000. 000000. 00. 000. 0 0. 000. 000. マルタンヤンマ ギンヤンマ クロスジギンヤンマ. 000. 00. 0000000. ネアカヨシャンマ カトリヤンマ ヤプヤンマ ルリボシャンマ. エゾトンボ科 ○/0 0000. *コヤマトンポ オオヤマトンポ. 00 00. 0 0 0. ハネビロエゾトンボ タカネ Ⅶ止屈 ボボ トラフ ンン. 0. 0. 0. 0. 0. トンボ科 0000△. 0000. 00000. 00000. 00000. 00000. 00000. 000000. 000. 00000. 00000. 0000. 0000. 0000 00000 0. 0000. 0000. 35. 0000. 33. 0000. 000. 44. 0. 000. 44. 00. 0. 0000. 45. 000. 0000 53. 000000000. 45. 00000. 土着種の合計種数. 00000. 0. 00. 0?0. 00. コシアキトンポ チョウトンボ ウスバキトンポ. 00000. 00000. コノシメト ア カ ネ リキ スー ンポ オオキトンポ ネキトンポ. 0000. 00000. ージ. 00000000000. 00000. ポ. ヨネ ト ン ボ アキアカ ナツアカネ マユタテアカネ マイコアカネ ヒメアカネ ミヤマアカネ ノシメトンボ ヨ. 00000000000000000. コキウ. コシ. ウ. 00000. ツフ. 00000. ペ. ン. 00000. ヨツポシ. ポポ. トポポ ンンボランンポウ ーーン. ハラビロ ー シオカラ ー ンオヤト ン オオシオカ. 38. 38. 50. 53. 註1.偶産種,および人為的な移入によると思われる記録は含めていない。 2.当地域に記録があっても.相模川沿いにしか生息しない種は含んでいない。 3.横浜市北東部には川崎市東部.横浜市南部には鎌倉市の記録を含むo 4. 0印は土着と考えられる地域。 5. ?印は偶産または同定に疑問のある記録地。 6. *印の種は清流性,かつ源流域にも生息するもの。 7. ☆印の種は幼虫が流下する習性をもつもの。. らに分布域が狭く,横浜市南部から三浦半島一帯に多い他は,前種はわずかに横浜市 中区と大和市で,後種は横浜市緑区と保土ヶ谷区で記録を見るにすぎない。ただし, 養父(1991)はヤマサナエとダビドサナエが横浜市戸塚区舞岡町や港北区茅ヶ崎南,. 緑区寺山町,緑区新治町,旭区大池町でも`観察できる'としているが,少なくとも ダビドサナエはその全箇所で生息していないことは確実であるし,ヤマサナエもその. 71.
(12) 高桑. 正敏. 図5-8.神奈川県におけるトンボ類の過去の記録地点。 ボ;. 7,コオニヤンマ;. 6,カワトン. -5,オニヤンマ;. 8,アオモンイトトンボ(いずれも佐々木ほか,. 1989-1990:. 7. については加筆)。. いくつかでの生息はきわめて疑わしい。このため,事実に基づかない記録として採用 するべきでない。キイロサナエは川崎市北西部と横浜市瀬谷区,金沢区でしか記録さ れていないものの,田の用水路にも生息するので,かつては広く分布していた可能性 も強い。同様に,本来は中流域にも生息していたコヤマトンボやヤマサナエも,かつ ては広く分布していたのかもしれない。. ④ 北部と三浦半島に分かれて分布(7種) ホンサナエ,コサナエ,ヒメクロサナエ,コオニヤンマ,サラサヤンマ,タカネト ンボ,マイコアカネ ホンサナエとヒメクロサナエ,コオニヤンマ(図7)は渓流性で,いずれも三浦半. 島方面と多摩丘陵方面だけから記録があり,相模原台地から横浜方面にかけての広い 地域で分布を欠く点で非常に興味深い。ただし,ヒメクロサナエは分布的に疑問とい. う意見もあるようである。タカネトンボは止水性だが,確実に三浦半島に定着してい るように思える。残りの4種は止水性または湿地性であり,相模原台地や横浜市など で良好な環境が早くに失われてしまったために記録が残されなかった可能性も強 い。. ③のパタンがより顕在化したと考えられる。なお,マイコアカネの三浦半島(城. ケ島)の記録は最近のことであり,房総半島からの飛来個体と見なしたほうが妥当か もしれない。.
(13) 神奈川県東半部の昆虫相,とくに相模野欠如要素の存在について. ⑤ 北部だけに分布(3種) オオセスジイトトンボ,オオモノサシトンボ,ムカシャンマ. オオセスジイトトンボとオオモノサシトンボの2種は神奈川県内では川崎市の1つ の池からのみ知られ,そこが種としての分布南限でもあったが,池が公園として整備. されたために絶滅してしまった。ムカシャンマは水のしたたり落ちるような斜面に幼 虫が生活するので,生息できる場所はごく限られる。. ⑥ 湘南の丘陵地のみ(1種) ハネビロエゾトンボ. 茅ヶ崎市北部と鎌倉市腰越のみから記録されている。 ⑦ 海岸部あるいは大河川沿いに分布(8種) ヒヌマイトトンボ,アオモンイトトンボ,ムスジイトトンボ,セスジイトトンボ, ミヤマサナエ,オナガサナエ,オジロサナエ,オオキトンボ ヒヌマイトトンボは河口付近の汽水域にすみ,アオモンイトトンボ(図8)など他 のイトトンボ科3種は大河川のワンドや海岸近くの池沼を好んで生息する。サナエト ンボ科3種は生息する場所を多少とも違えるが,いずれも幼虫が河川を流下しながら 中流域あるいは下流域まで達する。オオキトンボはかつて川崎市で見られたという(加 藤, 1971)0. ⑧ 不明(8種) ホソミイトトンボ,ペニイトトンボ,、コバネアオイトトンボ,ルリボシャンマ,ア オヤンマ,トラフトンボ,ベッコウトンボ,キトンボ いずれも止水性の種で,県東半部にあっては古い記録が散見されるにすぎない。と くにコバネアオイトトンボは原記載における横浜(基準産地)という以外にデータが. なく,またトラフトンボは戦前の採集地案内記事に種名を認めるだけである。ペニイ トトンボは1958年の鎌倉市(苅部ほか,. 1994)の他に1981年の横浜市都筑区(大沢,. 1983)の記録があり,また金沢区で人為的な移入によるものと思われる最近の記録が. ある。同様に最近のコバネアオイトトンボの横浜市保土ヶ谷区での発生も,人為的な 移入の結果であることに疑いがない(苅部,. 1998)0. B.流動的な分布パタン(7種) 近い過去に県東半部での分布を拡大したことがあるもの(7種). ①. ハラビロトンボ,ヨツボシトンボ,ヒメアカネ,ミヤマアカネ,コノシメトンボ, ネキトンボ,チョウトンボ いずれの種も県東半部ではわずかな記録が知られるのみだったが,ハラビロトンボ 以下4種は1970年代後半から1980年代にかけて,またコノシメトンボとネキトンボは. 1990年代に入ってから,それぞれ横浜市南部方面にまで進出した。前者のグループの 分布拡大の理由としては休耕田の増加現象が指摘されている。チョウトンボは県内で の絶滅危倶種に位置づけられたほど衰退していたが,ごく最近になって分布拡大傾向 が顕著である。 [分布相の考察] 以上の分布パタンからは,県東半部に生息するトンボ類の多くはほぼ全域に分布する(し ていた)が,ある特定の偏った地域に分布する(していた)種も少なくないことがわかる。. 73.
(14) 高桑. 74. 後者の中では,. 正敏. ③-⑥の. ⑦のように明らかに生息環境に規制された分布パタンもあるが,. ように地理・地形的な要因が関係すると思える分布パタンの方が多い。とくに④のように 北部と南部に分かれて分布する種が認められることは,チョウ相と比較して大きく異なる 点である。したがって,県東半部のトンボ相全体として見た場合,丘陵地ほど種類数が多 く,低地ほどその数を減じることは確かだが,南北での差は少ないということになる。実. 際には,三浦半島(確実な土着種は53種:大場・石渡, り,川崎市北西部(同52種:佐々木ほか, 場・石渡,. 1979;佐々木ほか,. 檀:佐々木ほか,. 1989-1990;. 1989-1990;ほか),横浜市中部西(同44種:佐々木ほか,. 浜市中部東(33種:桃井, 1991;焼田,. (同38種:岸,. 1989-1990;ほか),横浜市南部(同50種:大. 1989-1990;ほか),やや種数を減じて横浜市北西部(同45. ほか),横浜市北東部(同43種:佐々木ほか,. 焼田,. 1979;ほか)で最も相が豊富であ. 1989-1990;ほか)と続く。これに対し,横. 1956;ほか)と相模原台地に位置する大和市・座間市(同35種: 1996)と茅ヶ崎市. 1993;ほか)が最も貧弱で,藤沢市(同38種:岸,. 1996)がそれらに次ぐ。北部の稲城市(同45種:西,. 1996)は調査地域が狭. 小な点,用いたデータの調査時期が1980年代以降と新しい点を考慮すると,この種数であっ てもかなり豊富と考えられる。′. 各地域間のトンボ相を渓流性の種(12種:表2の*印)に限って比較すると,丘陵部と 平地部との差は明らかである。すなわち,最も丘陵部に恵まれた三浦半島(11種)と横浜 市南部(lo種)で最も相が豊富であり,多摩丘陵の東端にあたる稲城市(6種),川崎市北 西部(7種),横浜市北西部(6種),横浜市中部西(7種)がこれに続き,最も丘陵に恵 まれない茅ヶ崎市(2種)と横浜市北東部(2種)で貧弱となっている。相模原台地に位 置する大和市・座間市(7種)は比較的多いが,これは座間市谷戸山(5種)という座間. 丘陵の最標高地の存在を無視できない。 2.昆虫相を規制する環境要因. 県東半部のチョウ相とトンボ相を見たとき,両者には共通点と相違点とがあった。共通. 点としては平地部よりも丘陵部の相の豊富さである。相違点としては,チョウ相における 多摩丘陵の豊富さと三浦半島方面ないし湘南地区の貧弱さ,それに対するトンボ相の多摩 丘陵方面に劣らず三浦半島方面での豊富さと言えるだろう。トンボ相にあってはとくに,. 多摩丘陵方面と三浦半島方面とに分かれて分布するパタンが注目されてよい。 平地部よりも丘陵部の相の豊富さは当然のことと言い得る。平坦な地形だと,台地や低 湿地など同一環境が広い空間として与えられるが,生物環境の種類としては多様ではない 一方で,起伏に富んだ地形の方が,箱庭的な狭い空間ではあっても山麓,斜面,頂上,あ るいは明暗,乾湿など,より多様な生物環境を擁するからである。生息空間が狭くても個 体群を維持できる昆虫たちは,それゆえ丘陵部で種類数が多いと思われる。ただし,生息 空間が狭いゆえに,少しの環境の変化でも地域個体群が失われてしまう可能性が大きい。 主に丘陵部に生息していたチョウ類の多くが,現在著しく衰退している事実はこのことを 裏付けている。この点は,後の議論のためにも留意しておく必要がある。 チョウ相とトンボ相の間に見られた差は,たがいの生態的な差が大きいと思われる。こ の点を次に論じてみたい。.
(15) 神奈川県東半部の昆虫相,とくに相模野欠如要素の存在について. 図9. -14.神奈川県東半部におけるチョウ類の過去の記録地点での神奈川県でのそれらの寄主植物の. 分布。. -9,スミナガシ;10,アワブキ;ll,ミスジチョウ;12,イタヤカエデ;13,コツバ 1988を転写・加筆;10,12,14 は神奈川県植物誌編. 1988.ただし12はエンコウカエデとウラグエンコウカエデを重ねた図)。. メ;14,ヤマツツジ(9,13は町田市における分布を省略;11は岩野,. 75.
(16) 高桑. 76. 正敏. (1)丘陵依存型チョウ類の存在 さて,チョウ類に限っては多摩丘陵北部から三浦半島方面に南下するに従い,種数を減 じる傾向が顕著に見られた。この理由としては,チョウの寄主植物の分布状態と,最終氷 期以降の植生の移り変わりによる影響が大きく関与していると考えられる。. ① チョウの分布と寄主植物との関係 スミナガシ(図9)は多摩丘陵から三浦半島北部にかけて局地的に記録されている が,その分布状態は幼虫の食餌植物であるアワブキ科アワブキのそれとほぼ一致して いる(図10)。さらに美ノ谷(1988)は,横浜市旧縁区の本種を調査した結果,同じよ うにアワブキを寄主植物とするアオバセセリとは異なり,アワブキが生育していても 本種の生息が確認できない地域があることを指摘した。これらの点からは,スミナガ シにとっては寄主植物の生育が生息の第1条件であること,しかもバッrヤードとし てのそれなりの広い生息環境が必要であることを示唆している。 ミスジチョウ(図11)はもともとブナ帯とクリ帯に生活の中心をおく種であり,県. 東半部では多摩丘陵から横浜市中部あたりに記録がある。イロハモミジやイタヤカエ デ(図12)などカエデ科の樹種を幼虫の主な食餌植物とするが,これらは相模原台地 ばかりでなく,横浜市北部や中部の丘陵部にあっても分布は希薄である(神奈川県植. 物誌調査会編,1988のイロハモミジの分布図を見れば県東半部に広く分布しているが, 実際には金沢区南部周辺や三浦半島を除いて自生の個体数は非常に少ない)。美ノ谷. (1994)はこの点に気がつき,横浜市北部でのカエデ類とミスジチョウの分布を調査し て,ミスジチョウの分布縮小の原因を推定した。この中で美ノ谷(1994)はまた,横. 浜市青葉区鉄町在住の古くからの住民にアンケート調査を行うことによってカエデ類 がもともとにそこに自生していたことを確かめたうえで,住民の植栽行為がミスジ チョウに自生株から植栽株-の転換を促したと推定した。ただし,カエデ類は岩盤の. 露出した,あるいは被覆土のうすい土壌に好んで生育する。このため県東半部にあっ ては,急な傾斜地に富む横浜市南部から三浦半島にかけては多数生育しているが,丘 陵部でも緩傾斜が大部分の横浜市北部・中部などではもともと自生株が少なかったの であろう。ミスジチョウもまた横浜市北部・中部などでは分布が希薄だったと考えら れる。 コツバメ(図13)ももともとブナ帯とクリ帯に生活の中心をおく種であり,県東半. 部では多摩丘陵から横浜市南部まで丘陵地に点々と分布記録が残されている。ツツジ 科を幼虫の主な食餌植物とするが,県東半部ではヤマツツジ(図14)だけが広範に分 布し,あとはナツハゼとネジキが北部の一部で記録されている程度である(神奈川県 植物誌調査会編,. 1988)。これらのツツジ類もカエデ類同様に,岩盤のほぼ露出した土. 壌下に好んで生育することから,相模原台地や横浜市北部・中部などの低くなだらか な丘陵にはあまり自生株を見ない。このため,もともと分布の広がりが制限されてき たと思われる。 余談だが,イタヤカエデやヤマツツジと似た性質ゆえに同様な分布態を示す樹種と しては,他にもモクセイ科のマルバアオダモ,ブナ科のウラジロガシなどが挙げられ. る。また,筆者のよく知るカミキリムシ科甲虫だと,フタコブルリハナカミキリ,モ モグロハナカミキリ,ホソトラカミキリ,ゴマフカミキリ,チャボヒゲナガカミキリ,.
(17) 神奈川県東半部の昆虫相,とくに相模野欠如要素の存在について. キモンカミキリなどが同様な分布態を示している。. ② 気候的な要因による植生環境の変遷 ミスジチョウにしてもコツバメにしても,それぞれの主な寄主植物は2種のチョウ の記録のない三浦半島方面に多く生育している。寄主植物だけで考えるなら,三浦半 島方面での分布の欠如は説明がつかない。 約2万年前の最終氷期最盛期以降は温暖化に向かい,約6500-5500年前の復水期の. ヒプシサーマル(最温暖期)を経て現在に至っている.気候の温暖化に伴い,その後 を追うようにシイ・カシ帯の要素が北上・繁茂し,一方ではブナ帯の要素が後退・縮 小したと考えられる。ブナ帯とクリ帯の要素であるミスジチョウとコツバメも生息域 を後退・縮小せざるを得なかったと思われるし,それぞれの主な寄主植物も同じよう. な境遇にあったであろう。すなわち県東半部にあっては,後氷期とくにヒプシサーマ ル以降は,後に述べる富士山起源のテフラによる影響を考慮しなければならないにせ. よ,台地斜面や丘陵地はカシ類などの照葉樹林で被われていた可能性が強い。ちなみ に三浦半島の北部に位置する逗子市池子では,縄文時代後晩期の頃はイチイガシなど 現在では県東半部に自然分布していない樹種をはじめとしたアカガシ亜属を中心とす る照葉樹に加え,モミなどの針葉樹,ケヤキやキハダなどの夏緑樹の混交林で構成さ. れていたと考えられている(池子遺跡群自然科学分析調査会編,発表準備中)。今か らたかだか4000-2000年前頃のことである。ミスジチョウの寄主植物であるカエデ類. は,急斜面の崩壊地など不安定な環境にかろうじて生育していたであろうし,コツバ メの寄主植物であるヤマツツジも樹林の縁や崩壊地などの縁に細々と生育せざるを得 なかったと推測される。ある程度の良好なバックヤードがないと,生息を保つにはき びしい種類があることはスミナガシを例に前述した。したがって,もともとブナ帯と クリ帯の要素であるミスジチョウやコツバメは,食餌としての寄主植物の縮小・後退 ならびに生息空間としての夏緑樹林の喪失という,植物環境の面でも生存をきびしく されたことであろう。個体群の狭小化と不連続分布が,消滅の危険にさらされるだろ うことも前に述べた。あるいは,三浦半島方面では当時生息していなかった可能性も 高い。 しかし人類は,とくに弥生時代以降は集落や都市を形成するようになった。同時に,. 燃料として森林を伐採・管理するようになってクヌギやコナラ,クリなどから構成さ れる夏緑樹林が広がった。三浦半島方面でのカエデ類やヤマツツジも勢力を盛り返し たことであろうし,ブナ帯やクリ帯に生活基盤をもつ昆虫たちの生息空間も再び広 がったことだろう。 こうした夏緑樹林の復活に後押しされるように,ミスジチョウやコツバメも分布域 を広げたに違いない(高桑,. 1989を参照)。多摩丘陵西部方面から東部-と分布を広げ. る下地があったのである。ただ,その南下は思うようにはいかなかった可能性が高い。 それは1つには分布拡大の時期,すなわち成虫期での南方向からの季節風の影響であ. る。つまり,飛期して分布拡大をはかるチョウ類にとっては,逆風は多少とも障害と なるだろう(高桑,. 1980)。もう1つは横浜市北部や中部などの低い丘陵地で見るよう な現象,つまりミスジチョウにおけるカエデ科,コツバメにおけるヤマツツジのよう な寄主植物の分布の希薄ゾーンである。夏緑樹林が復活したとはいえ,カエデ類やツ. 77.
(18) 高桑. 78. 正敏. ツジ類にとっては土壌条件が好転したわけではないので,その分布拡大もごく限られ. ていたと考えてよいだろう。したがって,多摩丘陵方面からこのゾーンを越えて南下 することは,これらのチョウ類にとって寄主植物の面からも困難なことであっただろ う。これらの困難さの結果が南下を妨げ,ダイアナ・ラインに見るような分布南限線 を示していると思える。 この分布南限線は種によって異なる。三浦半島欠如型のギンイチモンジセセリやオ. オムラサキは三浦半島北部が分布到達の限界であったし,横浜市中部あたりを南限と するミスジチョウやクロシジミはそこが限界であった。また,ヒメキマダラセセリや. ホシミスジは多摩丘陵を東には到達できたものの,そこから南下するには至らなかっ た,と解釈することも可能であろう。ちなみに,カミキリムシ科甲虫だと,ニセノコ ギリカミキリ,コボトケヒゲナガコバネカミキリ,オダヒゲナガコバネカミキリ,ク リサビカミキリ,ヒゲナガカミキリが多摩丘陵には分布するが,それより南に分布で きなかった種の代表といえる。. (2)トンボ類における相模野欠如要素の存在 トンボ相はチョウ相とは異なり,三浦半島方面での種数の減少はなかったし,とくに渓 流性の種類はむしろ豊富であった。この理由は次のように説明できるだろう。すなわち,. 県東半部においてもっとも水環境が豊かであること,とくに渓流に恵まれていたゆえ,も ともとトンボ相が豊富であったと考えられる。また,幼虫が水の中に生活するために気候. の影響はチョウ類ほどには受けなかったであろうことから,後氷期のヒプシサーマルに向 けての温暖化の影響,またその後の温暖な気候の影響も少なくてすんでいるだろう。 一方では,相模原台地や横浜市北・中部での種類数の減少,とくに渓流性の種の貧弱さ は著しいものがあるo この理由としては,三浦半島方面と比較すればも'ともと渓流環境に 乏しいという理由が挙げられる。しかし,それだけではないと思える。. たとえば,カワトンボは県西半部では広範に分布しているが,・県東半部ではとたんに局 地的となり,おおよそ4つの地域集団に分割されてしまう(図6)。すなわち,多摩丘陵沿 いに東-は川崎市麻生区黒川と多摩区生田(最近だけの記録なので移入の可能性もある). の2地点,また横浜市緑区南部から戸塚如ヒ部にかけての地域,藤沢市川名周辺のごく狭 い地域,そして横浜市南部から三浦半島一帯にかけての広い地域である。このトンボは県 東半部での衰退は著しいと考えられている(苅部ほか,. 1995)が,もともと源流域を好む. 性質があり,人為的な影響で分布を大幅に縮′J、して上記の地域だけに残存したとは考えに くい。また,地形的な観点からは横浜市緑区南部から戸塚区北部にかけての地域,藤沢市 川名周辺のごく狭い地域に生息する一方で,相模原台地や横浜市方面の他の低地部に分布 していない理由が,人為による影響を考えるだけでは説明できない。 同様な環境に生息するミルンヤンマ(図15)も似た分布パタンを示すがより分布地は少. なく,座間市谷戸山に点状に記録されている以外は,横浜市緑区南部から瀬谷区,旭区に かけての地域と,横浜市南部から三浦半島一帯にかけての広い地域に分布するだけである。 やはり源流域を生活場所とするダビドサナエ(図16)も,ある意味で似た分布型を示す。. 横浜市南部から三浦半島一帯にかけての広い地域で個体数も多く生息しているが,他には 横浜市中区本牧と大和市泉の森に点状に記録があるだけである。 これら3種はいずれも渓流性であり,とくに源流域を主な生息場所としている。県東半.
(19) 神奈川県東半部の昆虫相,とくに相模野欠如要素の存在について. 部における水域環境の悪化は著しいが,その中にあって中小河川の源流域に限っては悪化 の程度が小さく,そこを生活場所とするトンボ類はもともとの生息域を大幅に縮小したと は考えにくい。したがって,これら3種の分布を規制する要因が,人為でないところにあっ たと考えるべきであろう。. さて,多摩丘陵北部と三浦半島に分かれて分布するパタンの種もあった。ホンサナエ, コサナエ,ヒメクロサナエ,コオニヤンマ,サラサヤンマ,タカネトンボ,マイコアカネ の7種だが,これらのうちホンサナエとヒメクロサナエ,コオニヤンマは渓流性で,残り の4種は止水性または湿地性であることは前記した。止水性または湿地性の種は,県東半. 部における止水・湿地環境の現状を見るまでもなく,良好な環境が早くに失われてしまっ たために記録が残されなかった可能性も強い。しかし,渓流性の種は前述したカワトンボ などと同様な理由で,もともと相模原台地や横浜市の低地部のほとんどで分布を欠いてい た可能性も強い。これらは,その理由はともかく,現象面からは「相模野欠如要素」と呼 ぶにふさわしい。. 台地や低地部での分布縮小,あるいは欠如は他の分類群でも多数が知られる。たとえば カミキリムシ科甲虫だと,北部と三浦半島に分かれて分布が知られている種として-リグ ロペニカミキリ,アカネトラカミキリ,トゲバカミキリがあり,丹沢山地などに分布する ブナ帯要素が三浦半島方面に隔離分布する種としてミヤマクロハナカミキリ,ウスイロト ラカミキリ,シロトラカミキリ,トガリバアカネトラカミキリ,ヒゲナガゴマフカミキリ, ゴマダラモモブトカミキリ,キッコウモンケシカミキリなどがある。また,後者には前に 述べたように,コメッキムシ科甲虫のルリツヤハダコメッキのような顕著な例もあり,こ れらは最終氷期時代のレリックとして捉えることができる。興味深いことに,こうしたレ. リック種は幼生期を水の中,あるいは枯れ材,土の中で過ごす。ほとんどのチョウのよう に外界に身をさらすことがないのである。. 図15-16.神奈川県におけるトンボ類の過去の記録地点。 (いずれも佐々木ほか. 1990に加筆)。. -15,ミルンヤンマ;16,ダビドサナエ. 79.
(20) 高桑. 80. 正敏. 3.欠如をもたらした要因. 本稿で相模野欠如要素としたものの典型は,丹沢山地あるいは多摩丘陵北部と三浦半島 方面とに隔離分布している種である。さらに,多摩丘陵沿いに三浦半島まで局地的に分布 する種,あるいは県東半部では多摩丘陵北部にしか分布していない種も含められる。これ らは,どうして相模原台地をはじめとした低地に分布を欠くのだろうか。その生態的に考 えられる理由はすでに述べておいた。ここでは,補足的に地史的に考えられる理由につい て触れておきたい。 (1)縄文海進による影響. 茅ヶ崎市でのチョウ相は岸(1997)により詳しく調査され,現在は市内で絶滅したと考え られている5種を含め,合計で55種が記録された。そのうちで,ウラゴマダラシジミ(図17), アカシジミ,ウラナミアカシジミ,ヒメウラナミジャノメ,コジャノメ,ホソバセセリなど. は北部の丘陵部(標高50m程度)には分布するが,沖積低地ではほとんど生息していない。こ の理由は生態面からは説明しにくい。今でこそ丘陵部以外は緑地環境に乏しいが,中部の沖 積低地2-. 3カ所でオオムラサキが記録されていることから,その当時は広い雑木林環境が. あったはずである。したがって,寄主植物あるいは生息環境の面からは,古くからの都市部. や海岸部を除けば,分布を妨げる要素が存在しているとは思えない。 後氷期のヒプシサーマル時(6500-5500年前頃)には海面が上昇し,海岸線が現在より も内陸にあった事実が詳しく確かめられている(松島,. 1984;ほか:図21)。いわゆる縄文. 海進である。茅ヶ崎市においても北部丘陵以外は海面下にあり,現在の海岸線にやや近い 位置まで海が後退するのは2000年前以降と考えられている(松島,. 1984)。当然のことなが. ら,ヒプシサーマル時は北部丘陵以外にチョウ類の生息地はなかったし,その後も沖積低 地がチョウたちに適した生息環!亮に変わるまでには,さらに時間を要したことであろう。 加えて前述したように,飛押して分布を拡大するチョウにとっては,北から南方向-の移 動は常時逆風という悪条件下にある。茅ヶ崎市産チョウ類の中には,沖積低地に分布を拡 大できなかった種があることは,十分に納得できる。 縄文海進の影響を受けなかった河川起源の沖積 低地も,同様な理由で,生息環境としての基盤形成 が遅れたと考えられる。その形成が新しく,かつ不 安定な立地条件であったために,ある種の昆虫に とっては好適な生息環境とはならなかったであろ う。それゆえ沖積低地で分布を欠く種があるのは当 然と言ってよい。渋谷(1974)が最初に唱えたダイ アナ・ラインは,まさにこうしたチョウ類の分布限 界を示していると思える。. なお,第四紀における神奈川県の古地理図が松 島・平田(1988)に示されている。これによれば県 東半部は,約200-100万年前(図18)は三浦半島周. 辺を除いて海であり,約50-40万年前(図19)に多 摩丘陵が陸化するが三浦半島方面とは横浜市中部. 図17.茅ヶ崎市における縄文海進時の 陸地(網部は海)とウラゴマダラ シジミの過去の記録地点(岸,1996 を基に作図)0.
(21) 神奈川県東半部の昆虫相,とくに相模野欠如要素の存在について. 図18-21・神奈川県の古地理の変遷。 12万年前;. -18,約200-100万年前; 21,約6500-5500年前(いずれも松島・平田,. 19,約50-40万年前;. 81. 20,約13-. 1988,堆積層の名称を削除)0. あたりでつながらず,約13-12万年前(図20)の下末吉期になって陸橋がかかるoこの地. 史の変遷は,本稿で述べてきた県東半部の昆虫相を説明するうえで非常に興味深い。例え ば, [岸] (1990)はクロヒカグの分布を説明するのに下末吉期の海進期と関連させたが, それほどダイアナ・ラインは当時の海岸線と合致している。また±多摩丘陵から三浦半島 にかけての丘陵地沿いに分布する種の存荏を考える際にも,下末吉期の古地理図は大変に 都合がよい。さらに,約50-40万年前の古地理図は多摩丘陵と三浦半島方面とに分かれて 分布している種,約200-100万年前の古地理図は三浦半島方面のレリック種をそれぞれ説 明するのにきわめて都合がよい。ただし,. [岸] (1990)も懸念しているように,昆虫がそ. れほど古い時代から分布域を変えていないと見なすことは,かなりの無理が感じられる。 狭い地域の中での生物の移動を扱う場合は,原則として最終氷期以降の地史に基づくべき であろう。 (2)富士火山起源の火山灰による影響 相模原台地や多摩丘陵などでは,テフラ(降下火山灰)が厚く堆積しており,その大部 分は箱根火山と富士火山起源とされている。箱根火山は時代は古いが,町田(1977)の描 いた図から読み取ると,この地域の全テフラ量は厚さ40-20mにも及ぶ。また,富士火山. は約1万年前以上の古期富士と約6000年前以降の新期富士の時代とに分けられ,古期富士 では15-10mの厚さに,新期富士でも1m近くの厚さとなっている(図22).このような大.
(22) 高桑. 82. 正敏. 量なテフラの存在は, この地域での生態系に 大きな影響を及ぼして きたと考えねばならな いし,大規模な火山の 噴火によって植生の変 革がなされた事実も一 部で明らかにされつつ ある(辻,. 1993)0. こうした状態での昆 虫-の影響は,高桑 (1991)により具体的に 指摘されたことがあ. 図22.富士山から噴出したテフラの分布(実線は新期富士テフラ,破線 は古期富士テフラ:中村ほか,. 1987)。. る。すなわち,関東地 方周辺では一般的に土中で越冬するアオオサムシなど狭義のオサムシ類(オサムシ科甲虫) が,大和市にあっては朽ち木中もしくはその樹皮下で越冬する傾向が著しい。火山灰土壌. 中でオサムシ類が発見できない例は,他にも横浜市緑区・青葉区・戸塚区でも経験済みで ある。オサムシ類は土壌越冬する際に壁面を固めた部屋(越冬禍)を作るが,サラサラし た火山灰土壌だと壁面を固めることが困難なため,それがより容易な朽ち木に対象を変え たと推測される。火山灰土壌の影響を生態の変化によってクリアーしたわけであるが,土 壌性昆虫のすべてが同様にクリアーできるとは限らないだろう。. オサムシ類は成虫・幼虫ともに動物食である。これに対し,チョウ類はほとんどが植物 食である。大量のテフラが植物に与えた影響は決して少なくなかったであろうから,チョ ウ類にもその影響は波及したはずである。影響の具体的なデータを持ち合わせていないが, テフラの量が多ければ多いほど,マイナスの影響は大きかったと考えねばならない。この 場合に重要なのは,県東半部において全テフラ量は均一でない,という点である。すなわ ち,図22からすぐわかるように,相模原台地方面での多さに対し,三浦半島方面での少な さである。加えて,地形的な違いもあった。平坦なあるいは緩やかな地形の相模原台地や. 多摩丘陵と異なり,三浦半島は急な地形を擁する山地となっている。前者の地域ではテフ ラは積もり重なる場所が多いが,三浦半島では雨風によって流出してしまい,積もる量も わずかとなってしまう。実際,ここでのオサムシ類はふつうに土中で越冬しているo テフラによって大きくマイナスの影響を受けてきた地域と,影響が少なくて済んでいる 地域との差,それが昆虫相にも反映されてきたと思える。前者の地域で分布が局地的になっ たり,まったく分布を欠如してしまう種類,すなわちここで言うところの相模野欠如要素. の存在は,その歴史的な現れである可能性が強い。逆に,三浦半島方面でのトンボ相,と くに渓流性の種の豊富さは,そこでの生息環境があまり撹乱されてこなかったこと-の傍 証となるのではなかろうか。もちろんこの地域におけるチョウ相とトンボ相との大きな差 は,生態的な要因と密接に関係しているだろうことは前述したとおりである。.
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