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撮影者のまなざし : 写真撮影の動機となった対象の探究

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Academic year: 2021

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(1)

撮影者のまなざし : 写真撮影の動機となった対象

の探究

著者

樋口 誠也

雑誌名

名古屋学芸大学メディア造形学部研究紀要

14

ページ

10-16

発行年

2021-03-31

URL

http://id.nii.ac.jp/1095/00001576/

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はじめに

 私たちは常日頃、撮ろうとして見ているわけではない。見 てしまったから撮る。ではなぜ撮ってしまうのか。  私は作品制作において、写真撮影という一連の行為の中で 「見た」後に「撮る」という意思が発火した原因を撮影者の立 場による写真の想起を用いて考察する。  過去に発表された写真論の多くは「写真とは何か」という 問いについて写真メディアとその扱われ方の変化に伴い繰 り返し議論しているが、その語り手は哲学者や批評家であ り、鑑賞者である場合が多い。現在はスマートフォンとSNS が我々の生活に浸透したことにより、どんなものであれ写真 を撮る機会が増えており、撮影者が増え続けているこの状況 において一度、「なぜ写真を撮るのか」という問いについて考 えることに私は意義を感じている。この問いを経由するこ とで、写真史の中で常に議論されている「写真とは何か」とい う問いに対し、撮影者またはイメージを作る人物としての視 点から生まれた論考を加え、議論の新たな展開を期待する。  本報告書では、はじめに現在の研究・制作テーマに至るま での背景と、これまでに制作した作品を取り上げ考察し、今 後の展望を述べて結びとする。

1 背景

1.1 写真と意味の齟齬

 写真を作品と呼ばれる形にするためには、意味やテーマが 与えられてまとめられる場合が多い。特別な気概なく撮ら れた写真であっても、そこに言葉が添えられた途端に何か意 味を感じてしまい、鑑賞者はそこにある意図を読み取ろうと してしまうのではないだろうか。写真作品を作る側として も、写真単体での意図や理由が明確ではない場合でも、複数 の写真を一つのテーマのようなもので括るなど、ある手続 きを踏むことで写真を作品として成立させようとする。私 は学部生の頃からこの点に疑問を感じていた。確かに、ある テーマや目的が先行しそれに沿った写真を撮影していく制 作手法はあるが、果たしてそれらの写真一枚ずつを撮る瞬間 においても、あらかじめ決められていたテーマが絶対的な撮 影の動機となっていたのだろうか。写真を撮影する際には、 それらの作品としての意味とはまた異なる基準による撮影 者個人の審美が働いていたのではないだろうか。この「写真 としての感覚」と「作品としての意味」が接続できないままに 作品たる意図や理由を探し、辻褄を合わせる行為に終始して しまうことは双方の面白みを抑制しているように思えた。  ポスト印象派画家として知られるポール・セザンヌはその

01

撮影者のまなざし

写真撮影の動機となった対象の探究

Photographer's eye

Reflections on the objects that motivated me to take the

photographs

映像メディア学科・助手

Department of Visual Media・Research Associate

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研究活動報告 絵画の中に「塗り残し」をあえて残す。これについて洲之内 徹は著書『セザンヌの塗り残し 気まぐれ美術館』(1983)の中 で「凡庸な絵かきというものは、批評家も同じだが、辻褄を合 わせることだけに気を取られていて、辻褄を合わせようとし て嘘をつく。それをしなかった、というよりもできなかった ということが、セザンヌの非凡の最小限の証明なんだ(1)」と 述べている。  またこれに対し、竹内万理子は鈴木理策の写真を例にあげ て『沈黙とイメージ 写真をめぐるエッセイ』の中で以下のよ うに述べた。 「仕上げ」を振りかざして世界を理解したふりをする (辻褄を合わせる)のではなく、そうした「仕上げ」を手放 すことによって、世界のわからなさに目を見開き、それ と対峙すること。その意味で、鈴木理策は、写真から人 間化のルールを少しづつ剥ぎ取りながら写真という一 つの光学装置を通して世界に触れようとする困難な道 のりを引き受けたという点において、紛れもなく写真 家なのではなかったか。(2)  セザンヌが絵画のある箇所に色を置くことができなかっ たこと、鈴木理策が仕上げを手放したことは、自身の感覚に 非常に真摯に向き合ったためである。これらを踏まえ、私は 写真と作品の間を強引な意味付けでつなぎとめるのではな く、言葉で無理に回収しないことでより自分の意図が明快に なるのではないかと考えた。  そこで私は自分が撮っている写真単体について単純に「な ぜそれを撮ったのか」ということを考えるようになり、その 探究の実践として作品を制作していくこととなる。

2 過去作品について

2.1 まなざしのありか

  「なぜ写真を撮ってしまうのか」という点に着目した私 は「まなざしのありか」という映像作品を制作した(図1)。   これは、自分が撮った写真のプリント80枚を見返しなが ら、その写真を撮影した日付やその日の状況、何が写ってい るのか、撮影時にはどこに目を向けていたのか、なぜその写 真を撮るに至ったのかということを思い出しながら語ると いう映像作品である。この作品内での写真の扱い方は、あく まで写真は撮影者が興味や意識を向けたまなざしの痕跡で あり、そこに写るものや周辺の状況から、自分がなぜそれを 撮ったのかということを思い出すためのツールとして扱う ことで、写真に対し意味やメッセージを与えず、プリントと いう視覚情報から撮影の動機を回想することを試みた。 図1:映像作品『まなざしのありか』抜粋 2019  この作品から考察できることは、ある写真を見てその撮影 動機を思い出すという行為は、そのプリント上の視覚情報と 当時の状況を結びつけて、撮影理由を言語的に制作している 面が強いということである。もちろん初めからそれが目的 ではあったのだが、写真内には撮影時にはほとんど目を向け ていなかったものも切り取られているため、撮影の動機とは 関わりのないものさえも考察の対象となってしまう。つま り、確実に目を向けていた主題が情報過多な背景によって霞 んでしまうのである。そのため、写真プリントという一つの ヴィジュアルイメージ上に散らばる複数の要素をつなぐこ とが出来る理由を、「思い出し」ではなく写真を見ている時間 において言語的に制作してしまうのである。これらの過程 が写真撮影の動機を探る上では間違いではないのかもしれ ないが、私はこれを有効だとは考えない。なぜなら、写真の 構図を作ることに時間をかけても、カメラを向けることには それほど複雑な思考を伴わないからである。私たちは何か を見てカメラを向ける意思を決めるとき、閃光的に馬鹿にな るのである。  この「まなざしのありか」での実践と考察から、写真を見て その撮影動機を思い出すという行為には、余計な要素が多く また構図作りという別の問題が含まれてしまうことが分か り、これ以降の作品では「写真を見ずに想起する写真」という イメージを扱うこととした。

2.2 some things do not flow in the water

 映像作品「some things do not flow in the water」は、2019 年7月から8月にかけてシンガポールのラサール芸術大学に て開催されたアートキャンプ「Tropical Lab 13」にて制作を した作品である。1942年から1945年にかけて、日本がシンガ ポールを統治し植民地支配をしていた。大戦終了後の1962 年、被害者の慰霊碑を建設し、その起工式の際に当時の首相 のリー・クアンユー氏はスピーチの中で「許そう、しかし忘れ ない(forgive, but never forget.)。」という言葉を残した。こ

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の言葉と、日本人が時折言う「水に流す」という言葉が制作の 大きな軸であり、そこに写真と記憶の関係を絡めることでこ の作品は成り立っている。  この作品を制作するにあたり私は、文献と当時の記録が残 る現地の資料館でのリサーチをもとに、かつての大日本帝国 軍がシンガポールを侵攻する際に通った場所や戦場となっ た場所を調べた。そして実際にその場に行き、そこで写真を 撮影した。その後写真をプリントし、私はその写真プリント と一緒にシャワーを浴びた。日本人が他人と一緒に風呂に 入ることを交友関係を深める一つの手段とするのは、無防備 な状態をさらけ出すという面もあるが、互いの悪い過去や諍 いを水に流して忘れようという禊的な面がある。写真プリ ントは湯に濡れたためインクの一部が剥がれ落ちてしまう が、それらの空白になった箇所を私のおぼろげな記憶の回想 を頼りに補完していく過程を映像で記録した。この作品は 二画面の映像で構成されており、一方では私が写真と一緒に シャワーを浴びておりそのプリントのインクが剥がれてい く映像、もう一方はインクが落ちてしまったプリントを見な がらそこには何が写っていたのかを思い出して語っていく 映像とし、その二つの映像を並べて上映した。(図2)  この作品で私は、写真はあくまで記憶を想起するための視 覚的なトリガーであるという扱い方した。自分に関係する 写真を見た際に、たとえその当時の記憶が不鮮明であっても そこに写るものを目と脳が知覚したことによって強制的に 当時の状況が想起させられ、写真のイメージに半ば引っ張ら れるようにして記憶が形作られてしまうことがある。この 場合、写真は想起のための視覚的刺激であり、写真を見るこ とで記憶の「再認」を行なっている。ではある出来事にまつ わる、写真を含めた物質的な記憶の「証拠」となるものがない 場合、いつか記憶が薄れて誰もがそれを忘れてしまったとし たら、その出来事はなかったことになるのだろうか。

図2:映像作品『some things do not flow in the water』抜粋 2019

 この作品で扱う写真は部分的にインクが落ちているもの がほとんどだが、映像に登場する最後の一枚のみプリントの インクを全て洗い流し、完全な白紙としたものがある。その 写真に関しては、何も写っていないただの白紙を見ながらそ こに写っていたものを想起しているのである。図3は映像の 中に登場する、部分的にインクが落ちたプリントである。

図3:映像作品『some things do not flow in the water』抜粋 2019

 このプリントは中央を縦断するようにインクが剥げてい るが、ここには滝が写っていた。私はこの空白の箇所にあっ たイメージを想起する際、おそらく残ったインクの描写から 推測することで抜けたイメージを補完しようと想起したは ずである。図3における想起のプロセスをたどると、まずそ のプリントを見ることで、撮影者である私はそれをいつど こで撮ったのかということを思い出す。この写真はチャン ギ空港で撮ったということが思い出され、その空港には滝 があったということを思い出す。さらにいうと滝の写真を 撮ったということを覚えていたので、ある程度の確信を持っ て想起していた。しかし、「滝があった」という象徴的な記憶 以外の、細かいディティールは思い出すことができなかっ た。映像内で少し滝壺の話をするのだが、その際には残りの インクの描写に続くように空白の箇所を推測していたため、 想起とはまた違う行為であった。  これらの想起や推測のプロセスは作品内の他の写真にも 当てはまる。この作品で考察できる、写真について思い出す という行為に共通していることは、まずその写真には何が 写っていて、何が起きていたのかという撮影時の象徴とな る物や出来事が思い出されるということである。そしてそ の想起される内容には、周辺や細部の情報はほとんどない。 つまり想起されるイメージは写真のように四角形内が描写 で埋められているのではなく、ある一部のものの輪郭線だけ が濃く描かれていて、その他は解像度が低くぼやけているか 抜け落ちているのである。写真はその不鮮明な箇所を強制 的に補う力を持っていて、抜けた記憶を視覚イメージによっ て補うという役割は写真や映像が多くの場合を担っている ため、記憶の空白は次第に写真や映像によって上書きされて いくのではないだろうか。この作品を制作している段階で

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研究活動報告 は、写真は記憶を想起するための視覚的なトリガーであると 考えていたが、実はトリガーそのものによる「知覚的想起」に よって想起の行方を誘導されていたのではないだろうか。 前節で取り上げた「まなざしのありか」に続きこの作品でも、 写真を見なければ思い出せないこともあるが、見たことに よって思い出す対象や撮影の動機が誘導されるというジレ ンマを実感した。しかし、この映像作品に登場する10枚の写 真の内1枚だけはインクが完全に落ちた白紙となっており、 それを見ながら写っていたものを想起していた(図4)。

図4:映像作品『some things do not flow in the water』2019 白紙の写真からそこに写っていたものを思い出している様子  つまりその写真においては、視覚による知覚的想起や残っ たインクによる推測が行われるのではなく、自身がその写真 イメージについて覚えているものだけが内から絞り出され るのである。この白紙に写っていたイメージを想起して語 る内容は、映像内の他の写真と同様にまず撮影した場所とそ こで起きていたことが話され、次に写真イメージ内で象徴的 だった部分がざっくりと語られた後にその周辺にあったも のを思い出そうとしていた。  図4での具体的な例でいうと、これは友人と美術館に行っ た際に立ち寄ったマリーナベイサンズで撮影したものでこ の日は天気がいい日だった、建物の中に川が流れているとい う状況を珍しく感じて写真を撮ったという撮影までの経緯 が語られた。次にその写真には川が写っていたため、イメー ジのほとんどは青色で構成されていたという象徴的な部分 の話がされ、その周りにはオレンジ色の階段の手すりがあっ たことや白い柵のようなものがあったかもしれないと確信 はないがわずかに覚えている箇所について語られた。  この実践から考察できることは、自分が撮影したある写真 について思い出す際に初めに想起された対象は、その写真イ メージの象徴となるものであり、撮影時の記憶の象徴にも なっているということである。そしておそらく、その対象が カメラを向けさせた原因となっている。図4で取り上げた川 の写真の場合、その川がなければ私はその写真を撮らなかっ た。映像内で語られる手すりや柵はただその写真という平 面イメージを構成していた要素として二次元の中で想起さ れたに過ぎず、撮影時のことを思い出して語られることは 「川があった」という単純なことだけである。しかし、それこ そがこの写真と私の当時の記憶を要約するに完璧な一言で あり、それ以上の装飾は逆に事実から離れていくと感じる。  この作品から私は、自分が撮影したある写真を何も見ずに 想起することで、そこに写っていた撮影の原因となった対象 を抽出することができると考えた。しかし、その対象を見た ことでカメラを向けるという意思が起きた経緯は、驚くほど 単純であるかもしれないという可能性が微かに窺えた。こ れらの実践を踏まえた上で制作された大学院修了作品につ いて、次章から考察を進めていく。

3 映像作品「seeing the points」について

3.1 作品概要

 私が大学院修了作品として制作したものは「seeing the points」という映像作品である。この作品の主題は「写真を 見ずにその写真に写っていたものを思い出す」ということで ある。  制作のプロセスとしてはじめに、これまで私が撮影した写 真について想起し、そこに写っていたものを可能な限り思い 出して語っていく音声を録音した。次に、そこで語られた写 真をスマートフォンのカメラロールやPC内のバックアップ から探し出し、先に録音した音声の中で語られた箇所だけを 切り抜き、語られなかった箇所は削除する。作品としては、 想起の音声に合わせてその写真の切り抜きが映像内に配置 されていくことで、ある写真について自分の覚えているイ メージのみが映像として立ち上がる作品となっている。作 中の一部を例として図5と図6で示し解説する。  図5、図6は修了作品の展示記録写真である。映像は床面と 壁面にプロジェクターにより投影されており、図5の床面に 映る写真は私がかつて撮影した写真である。作品の仕組み としては、先に録音したその写真に写っていたものを思い出 す音声に従って切り抜かれたイメージが壁面へと移動して いく。図6において、壁面に映るイメージは私がその写真の 中で覚えていた箇所であり、床面に残ったイメージは思い出 されなかった箇所である。これにより、一枚の画像の中から 自身が覚えていたもの、言い換えると確実に目と意識を向け ていた対象のみを抽出し、それらが画像になる前の自身の認 知の仕方に則した見え方を再現し、そこからなぜ写真撮影が 行われたのか考えることを試みた。

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図5:映像作品『seeing the points』展示記録1 2020

図6:映像作品『seeing the points』展示記録2 2020

3.2 写真イメージは四角ではない

 修了作品である「seeing the points」は、先述した過去作の 段階を踏んだ上で制作をした作品である。一連の作品が写 真を切り口として常に「見ること」について考えてきた思考 の痕跡であり、この修了作品では写真そのものをやや冷めた 目で捉えている。これは私が今まで写真を撮ってきた中で、 自身の理想に従い「かっこいい四角形」を作りそれを作品の ようにして提示することは、自分の見え方に対し誠実でない と感じていたからである。私は四角形ではなくその奥にあ るものに魅力を感じたのである。これはかつてレンガー= パッチュの写真をベンヤミンが非難したように、写真によっ て対象の本質が覆い隠されることに加え、自分から対象へと 注がれたまなざしが写真によってせき止められるような感 覚がしたからである。これらのことから本作品では、写真の 四角形という形式を解体し、その中にある自身の目を引き止 めたものを抽出しようと考えた。

3.3 知覚に頼らず想起するイメージ

 私たちが普段何かを見ているときは視界としてある程度 の範囲が見えているが、焦点が合っている範囲は自分が意識 を向けて見ようとしている部分だけで、その他の範囲の解像 度は視覚的にも意識的にも低くなっている。そして、後日そ の光景を思い出そうとしたときには、おそらく自分が焦点を 合わせて注視していたものが優先的に想起されるはずであ る。

 これは過去作として2.2で取り上げた「some things do not flow in the water」において白紙となった写真からそこに 写っていたものを想起した際に、「川があった」という象徴的 なイメージしか思い出すことができなかったことからも考 えられる。一方、写真を見ながらその当時について思い出す 場合では、四角形の中に情報が敷き詰められているため、自 身が覚えていなかったものさえも「ああ、確かにこんな感じ だったかも。」と、写真による知覚的想起によって納得させら れてしまうのである。私は写真が過去の証拠となることは 認めるが、そこに写るものは自分の当時の見方とは必ずしも 同じものではないと考える。それは過去作の実践からも分 かるように、我々の視界と意識は目に写るもの全てを捉えて いるようでありながら、ある一部に焦点を合わせた「点」のよ うに見ていると考えられるからである。  写真イメージは記録されるフィルムやデータが四角形な だけであり、我々の視覚の認知のあり方としてはもっとい びつな点の集まりのような形式であると考えられる。そう して見ていた対象を写真からあぶり出すために、本作品で は写真を見ずにそこに写っていたものを思い出すことが有 効であると考えた。なぜなら、私たちの記憶において印象深 い出来事が優先して残り続けるように、覚えているというこ とは、意識を向けて見ていたということに直結するからであ る。

3.4 指差しと写真

 写真から抽出された「点」のように見ていた対象は、その写 真の「核」となったものであり、おそらくそれがなければそ の写真は撮られていなかったものと言い換えることができ る。例えば道端に猫がいる状況に遭遇して写真を撮る場合、 その猫がいたからカメラを向けたのであって、ただの道端だ けの光景では写真は撮らなかったはずである。私の修了制 作の実践では、そのような要素を写真から抽出して、そこか ら撮影の動機を考察することを目指した。  そこで「写真を見ずに想起する」という手法を試みる。見 るという行為は恣意的であり、それと地続きに認知と記憶の 仕方もある程度自分の都合のいいように歪曲、削除している と考えられる。おそらくその仕組みは写真イメージにも当 てはまり、前述した猫の写真の例の場合、「猫がいた」という ことがより重要なことであり、背景の道端のディティールは 早々に忘れ去られていく対象である。  このように考えていくと写真撮影という行為は、あるも

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研究活動報告 のに対し子供が指を差す行為に近い。これは写真の特性の 一つである「インデックス性」として過去にチャールズ・サン ダース・パースやロザリンド・クラウスの議論の中で登場し た概念である。これについて写真家、写真批評家である港千 尋は著書『記憶―「創造」と「想起」の力―』(1996)の中で次の ように述べている。 われわれはなにかを示すのに、インデックス=人差し 指で対象を指しながら、ほらっと言う。写真が呈示する 仕方は、これに似ている。写真はなにも述べない。ただ ほらっというだけである。なにかを述べるのは、写真を 手にし眺める人である(3)  ここでは写真そのものはある対象を示しているに過ぎな いとされており、私はそれに同意する。しかし、さらに踏み 込むのであれば撮影者として指差したいのはそこに写るあ る一部のみではないだろうか。撮影者としてある写真につ いて想起する際には、おそらくその指差したいものがまず想 起されるはずである。さらにいうと、その指差したいものし かはっきりと想起できないのではないだろうか。なぜなら、 撮影する際に自分の意識が強く向いていたのはその一部だ けだからである。  また指差しと写真を結びつける上で、映画『燃えよドラゴ ン』(1973)の中でのブルース・リーのセリフから、私の論考と 作品の核心に迫るあることを考察することができる。その セリフとは一般に「考えるな、感じろ」と知られている一言で あるが、そのセリフには続きがある。日本語訳した場合その セリフは「それは月を指差すようなもの。指に集中していて は栄光は掴めない。」と続くのである。このセリフにおける 指とはまさに写真であり、月が撮影の動機を起こした或るも のと例えることができる。つまり、私は写真メディアそのも のに何か意味を感じているが、実はそこはそれほど重要なこ とではなく、最も注意すべき点はある人物とその目の先にあ る向かい合ったものとの関係を読み解くことに真髄がある のではないか。  さらに話が飛躍してしまうが、水面に映る月を見た際に、 その「水面に月が映る」という状況に趣を感じることがある が、ここで最も重要な点は「月がある」ということである。水 面を写真媒体と見立てるならば、そこに映るものが写真に なったことによって、趣やエモーショナルが発生するのであ る。これはマーシャル・マクルーハンがその著書『メディア 論-人間の拡張の諸相-』(1964)の中で「メディアはメッセージ である」と定義したように、情報の容れ物に我々は意図を感 じてしまうのである。おそらく私の論考と作品ではそこを 突き破り、人と目の止まった対象についての考察を試みてい るのである。

3.5 イメージを掬い上げる

 映像作品「seeing the points」では水面に投影された写真イ メージを両手で掬い上げることで、その箇所が切り抜かれ別 画面に移動するという手法がとられている。本節ではその 意図について考察していく。  禅語として知られる「掬水月在手」という一節を『春山夜 月』という漢詩の中で詠んだのは唐の時代の詩人、于良史で ある。これは水を掬うと月さえも手の中に映すことができ るという意味であり、禅語的な解釈では、月の光は誰にでも 平等に注がれているが、「手で掬う」という自分の働きかけが あって初めてその光を自分のものとして感じることができ るという意味がある。これは写真撮影にも似た部分があり、 同じ場にいれば誰にでも見えているものを写真として撮影 するかは、その人物のまなざしに委ねられていることに通じ ている。しかしここで忘れてはならないことは、それはあく まで水面に映った月であり、実体ではないのである。この作 品における水面とは写真メディアそのものであり、私たちは 写真を通して実体を見ているのではなく、あくまでそのイ メージを見ているだけであるという、洞窟の比喩のような概 念として水面に映像を投影した。  また、この映像の水面は始めかなり揺れており、投影され た像が正確に映し出されていないのだが、両手で掬われたイ メージは手により波から守られるため、水面が凪ぎイメージ が正確に見えるようになるのである。図7は揺れる水面に写 るイメージ、図8は両手で水を掬う際にイメージが正確に見 えるようになったものである。  このように見ると、記憶の中の曖昧なイメージの中から、 自身の覚えているものだけが掬い上げられているようであ り、それは写真撮影によって特定の対象をその他のものとの 差別化を図るという行為に似ており、実際にやってみると 「写真の中で写真を撮っている」ような感覚であった。  また作品としての意図や理屈とは関係ないのだが、手の間 から水がこぼれ落ちていく様子が、記憶やイメージを自身の 中に保とうとしても保てないという様子にも見えた。

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図8: 映像作品『seeing the points』手で掬うことで水面が凪ぎ、イメージが正確に投影され ている

4 考察

 これまでの制作と論考の経緯を順を追って確認していく と、まず初めに私は写真を作品とする上で与えられる意味や 言葉を疑った。なぜなら、写真を一枚ずつ撮る瞬間において も、それらのテーマが絶対的な撮影の動機となっていたとは 考えづらいからである。そこで、単純に「なぜ写真を撮って しまうのか」ということを考えるようになり、写真を見なが らその撮影の動機を思い出すことを試みた。しかしここで 起きた問題は、写真上には撮影の動機と関係ないものも写っ ており、それらが考察の対象となってしまうことで、正確な 撮影動機が導かれないと考えた。これを解消する手段とし て、私は写真を見ずに、その写真を撮った時のことや、写って いたものを思い出すということを試みた。そして、そこで録 音されていた音声を聞き返すと、思い出されるものは「誰が 写っていた」「こんなものがあった」などと、当時見ていた対 象、もしくは画像として覚えられていた対象がぽつぽつと独 立した状態で語られていたのである。つまり、写真を撮る時 や、何かを見ている時は必ずしも視界全てを捉えているわけ ではなく、特定のものを「点」のように見ているのではないか ということが考えられた。ある写真において語られた対象 は、よく覚えていたものであり、意識を向けて見ていた対象 でもある。それは写真の主題となり得るものでもあり、それ らが撮影の動機と関係があると考えた。  現段階での考察はここまでである。今後も作品制作の実 践を通して、写真撮影行為、言い換えるとイメージを収集す る行為への考察を深め、作品と論考を発展させていくことを 目指す。

おわりに

 本報告内で取り上げた3作品は、段階的に制作された作品 であり、一つのシリーズとして完結したように思える。写真 の撮影動機を探ることを発端とし、徐々に写真そのものから 離れていき、3作品目「seeing the points」では撮影者と被写 体の間から写真を一度取り除き、 対象を画像的に捉える前 の見方に立ち返ることを試みた。私は自分の目の前にある ものや出来事に魅力を感じそれを写真で画像化する。そし て、しばらくするとその実物ではなく、画像を愛でることが ある。実物を見れば良いはずなのに、なぜか画像や動画、水 面や窓ガラスに「映ったもの」に魅力を感じていることに気 づく。これは視覚的なものだけではなく、Youtubeなどに 投稿されている実況動画にも似た感覚があり、自分が行うの ではなく、「誰かが何かをしている」ところを見ることを面白 く感じてしまう。つまり直接ではなく、何かを「介して」見る ことに、実体験とは別の魅力を感じているのである。今後は この点を主題にし、イメージや似姿に魅せられることへの考 察を、作品制作の実践を通して探究していく。 参考文献 [1] セルジュ・ティスロン(2001)『明るい部屋の謎―写真と無意識―』 青木勝訳, 人文書院 [2] 港千尋(1996)『記憶―「創造」と「想起」の力―』講談社選書メチエ出版 [3] ヴィレム・フルッサー(1999)『写真の哲学のために―テクノロジーとヴィ ジュアルカルチャー―』 深川雅文訳,勁草書房 [4] 竹内万里子(2018)『沈黙とイメージ―写真をめぐるエッセイ―』 姫野希美 編集,株式会社 赤々舎 [5] 後藤繁雄,港千尋,深川雅文 共編(2019) 『現代アート写真言論「コンテンポラリーアートとしての写真」の進化系へ』 フィルムアート社 [6] 中島義道(2014)『生き生きした過去―大森荘蔵の時間論、その批判的解読 ―』 河出書房新社 [7] レフ・マノヴィッチ(2018)『インスタグラムと現代視覚文化論―レフ・マノ ヴィッチのカルチュラル・アナリティクをめぐって』 久保田晃弘,きりとり めでる共訳、編著 BNN新社 [8] ジョン・シャーカフスキー(1966)『図録:写真家の眼』 佐藤守弘訳,ニューヨー ク近代美術館 [9] ハンス・ベルティンク(2014)『イメージ人類学』(仲間裕子訳)平凡社 [10] 柄谷 行人(2009)『日本近代文学の起源 原本』 講談社文芸文庫 [11] 赤瀬川原平(2006)『四角形の歴史』 毎日新聞社 [12] マイケル・ラドフォード監督(1984)『1984』 [13] リドリー・スコット監督 (1982)『ブレードランナー』 [14] ロバート・クローズ監督(1973)『燃えよドラゴン』 (1) 洲之内徹『セザンヌの塗り残し 気まぐれ美術館』 新潮社 1983年 P69 (2) 竹内万理子 (姫野希美編集)『沈黙とイメージ 写真をめぐるエッセイ』株式 会社 赤々舎 2018年 P42-43 (3) 港千尋『記憶―「創造」と「想起」の力―』 講談社選書メチエ出版 1996年  P151-152

参照

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* Windows 8.1 (32bit / 64bit)、Windows Server 2012、Windows 10 (32bit / 64bit) 、 Windows Server 2016、Windows Server 2019 / Windows 11.. 1.6.2

注1) 本は再版にあたって新たに写本を参照してはいないが、

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