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大正大学研究紀要103号(201803) 002春本 秀雄「太平真君五年正月以前の蓋呉の反乱について」

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太平真君五年正月以前の蓋呉の反乱について

太平真君五年正月以前の蓋呉の反乱について

はじめに

先の拙論に「北魏廃仏の説について――蓋呉と図讖と僧侶の関係――」 (『小此木輝之先生古稀記念論文集   歴史と 文化』   青史出版   二〇一六年〈平成二十八〉 )がある。ここに次のように述べ た ( 1 ) 。 蓋呉の反乱の時期については、 『宋書』索虜伝では元嘉二十三年(四四六)とあり、 『魏書』太武帝紀では太平 真君六年(四四五)九月とあり、 更に、 『魏書』釈老志では太平真君五年(四四四)の正月の第二回目の廃仏(と 図 讖 禁 絶 ) の 詔 が 出 る 以 前 で あ る と あ る。 こ の こ と は、 元 嘉 二 十 三 年( 四 四 六 ) に も、 太 平 真 君 六 年( 四 四 五 ) 九月にも、更に、太平真君五年(四四四)の正月の第二回目の廃仏(と図讖禁絶)の詔が出る以前にも蓋呉の反 乱 が あ っ た も の と 考 え ら れ る。 つ ま り、 第 二 回 目 の 廃 仏( と 図 讖 禁 絶 ) の 行 な わ れ た、 太 平 真 君 五 年( 四 四 四 ) の正月以前にも蓋呉は反乱を起こしていたものと考える。 とある。しかし、 呂宗力先生 (以下本文において 「先生」 の敬称を省略する。 ) の 「魏晋南北朝至隋禁毀讖緯始末」 (『高 敏 先 生 八 十 華 誕 紀 念 文 集 』 北 京 綫 装 書 局 二 〇 〇 六 年   二 三 五 ~ 二 五 二 頁 ) で は、 蓋 呉( 四 一 七 ~ 四 四 六 ) の 反 乱 を 一

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大正大學研究紀要   第一〇三輯 太平真君六年(四四五)とだけしてい る ( 2 ) 。また、長安寺院の兵器の私蔵を太平真君七年(四四六)としてい る ( 3 ) 。呂宗 力 の こ の 部 分 の 見 解 に は 問 題 が あ る。 何 故 な ら ば、 呂 宗 力 の 太 平 真 君 六 年( 四 四 五 ) の 蓋 呉 の 反 乱 に つ い て は、 『 魏 書 』 巻 四 下 世 祖 紀 第 四 下 に 太 平 真 君 六 年( 四 四 五 ) 九 月 と あ る の で、 呂 宗 力 は こ れ を 根 拠 と し て い る の で あ ろ う が、 前記の拙稿のように、 太平真君五年(四四四)の正月以前にも蓋呉は反乱を起こしていたと考えるからである。更に、 長 安 寺 院 の 兵 器 の 私 蔵 を 呂 宗 力 は 太 平 真 君 七 年( 四 四 六 ) と し て い る が、 長 安 寺 院 の 兵 器 の 私 蔵 は、 『 魏 書 』 釈 老 志 に は( 第 三 回 目 の 廃 仏 の 太 平 真 君 七 年( 四 四 六 ) で は な く て、 ) 第 二 回 目 の 廃 仏 の 太 平 真 君 五 年( 四 四 四 ) 正 月 以 前 とあ る ( 4 ) 。このような呂宗力の不可解な見解の部分について、本拙稿において明確にし、その不可解な見解の部分は何 故そのような見解になったのか、更に、何が正しい見解と言えるのか、等々、について詳述してみたい。更に、呂宗 力の論文における引用文献である呂思勉 (一八八四~一九五七) 著 『両晋南北朝史』 (台湾開明書店   一九六九年 〈民 国 五 十 八 〉) 「 第 八 章   宋 初 南 北 情 勢 」 三 七 五 頁 と 林 旅 芝 著『 鮮 卑 史 』( 波 文 書 局   一 九 七 三 年 ) 「 第 二 十 五 章   拓 跋 鮮 卑之宗教」第二節   佛教   三七五頁との北魏の廃仏についての筆者の見解をもここに明確にして述べてみたい。

 

呂宗力の見解

呂 宗 力「 魏 晋 南 北 朝 至 隋 禁 毀 讖 緯 始 末 」( 『 高 敏 先 生 八 十 華 誕 紀 念 文 集 』 北 京 綫 装 書 局 二 〇 〇 六 年   二 三 五 ~ 二五二頁)に次のようにあ る ( 5 ) 。 太 平 真 君 五 年 禁 令, 并 非 专 对 谶 纬 , 实 际 上 主 要 针 对 师 巫 和 佛 教 僧 侣 , 兼 禁 私 养 手 工 艺   工 匠。 这 宗 公 案 涉 及 南 北朝 时 期佛道斗争, 引起 许 多中国宗教史学者的注意。其中比 较 流行的看法, 以 为 太武帝在崔浩和寇 谦 之的影响下, 崇道 灭 佛,致有此 举 。67   对 此 吕 思勉有所考 证 , 结论 是太武帝之 废 佛,主要是 发现长 安一寺院收藏兵器,因而 二

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太平真君五年正月以前の蓋呉の反乱について 怀 疑僧 侣们 与叛乱者盖 吴 等通 谋 ,再加上因某些僧 侣为 其政治 对 手服 务 而引起的 积 怨,崔浩 兴 道 灭 佛之游 说 尚在其 次。68   亦即是 说 ,太武帝 发 布禁令的 动 机,与其 说 出于个人信仰或好 恶 ,不如 说 出于 实际 政治斗争的考 虑 。此 说 不 为 无据。院的不軌行 为 而 迁 怒佛教全体?但是拓跋魏自道武帝 进 中原以来, 即礼敬佛教。太武帝虽然 转 而崇道, 何至于因某一寺又 为 甚么同 时 葶 谶 ?当 时 反叛者此起彼伏, 为 甚么独 对 盖 吴 之乱如此敏感?或 说 禁令是因沙门、 师 巫、 图谶 造成 许 多社会的弊端。那么道教何 尝 不是如此?春本秀雄 认为 , 废 佛禁 谶 出于同一理由 : 据《宋 书 • 索 虏传 》 和《魏 书 , 释 老志》 ,北魏当 时 流 传 一 谣谶 :   “ 灭虏 吴 也 。 ” 太 武 帝 “ 甚 恶 之 ” 。 及 盖 吴 乱起,其名恰与瑶合, 太 武 自 然 不 能 容 忍, 必 平 之 而 后 快。 恰 又 在 此 时 发 现 寺 院 有 通 盖 嫌 疑, 加 上 崔 浩 等 人 的 煽 惑, 遂 有 废 佛 禁 谶 之 举 。 此 说 较 旧 说 圆 满 , 但 忽 略 了 一 个 重 要 史 实 : 盖 吴 之 乱 起 于 太 平 真 君 六 年( 4 4 5) , 长 安 寺 院 私 藏 兵 器 案 揭 发 于 太 平真君七年, 而禁 绝 沙门 图谶诏书颁 布于太平真君五年。所以盖 吴 之乱和 长 安寺院案可 说为废 佛禁 谶 事件火上加油, 却不能 说 是其起因。 (67   参 见 春 本 秀 雄 “ 北 魏 太 武 帝 の 废 佛と 图谶 禁 绝 についての一 试论 ” ,载 中村璋八 编《 纬 学 研 究 论 丛 》, 東 京 平 河 出 版 社, 1 9 9 3 年 版, 第 2 9 9 ~ 3 2 4 页 。   6 8   同 上( 呂 思 勉《 两 晋 南 北 朝 史 》, 第375頁。 )(太平真君五年の禁令は、専ら讖緯に対するものではなくて、事実上は主に師巫と仏教の僧侶に対 するもので、更に、私養の手工芸の工匠をも禁じている。この禁令は南北朝時代の仏教と道教の闘争に及ぶもの で、多くの中国の宗教史学者の注意を引き起こしている。この中で比較的に流行している見解では、太武帝が崔 浩と寇謙之の影響下にあって、道教を崇拝し、仏教を廃棄して、このような禁令になったとし た ( 6 ) 。これに対して 呂思勉の考証がある。結論としては、太武帝の廃仏は、その主要をなすものは長安の一寺院が兵器を収蔵し、こ れによって僧侶達が叛乱者である蓋呉等と通謀を懐疑して起きたものであり、更に加えて、ある僧侶の政治に服 従する上で引き起こされた積怨に対してでもある。崔浩が道教を興して仏教を廃棄すると言うような説はその次 になる。また、即ち、この(呂思勉の)説は、太武帝が禁令を発布した動機が、個人の信仰或いは好悪に出てい て、実際の政治闘争の考慮をしたものではない。この呂思勉の説に根拠がないわけではない。しかし、拓跋魏は 三

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大正大學研究紀要   第一〇三輯 道武帝が中原に進行してより以来、即ち、佛教に礼敬していた。太武帝は転じて、道教を尊崇していたが、何故 某一寺院の常軌を逸した行為によって、佛教全体に怒りを及ぼしたのであろうか。また、どうして同時に讖を貶 めたのであろうか。当時の反逆者はここそこに跋扈していたにもかかわらずに、どうして蓋呉の反乱に対しての み、このように敏感であったのであろうか。またあるいは禁令は沙門・師巫、図讖が造成した幾多の社会的弊害 によるものだと言う。それならばその道教はどうしてこの廃棄に相当しないのであろうか。春本秀雄は次のよう に 考 え た。 つ ま り、 廃 仏、 禁 讖 は 同 一 の 理 由 に よ る と し た。 『 宋 書 』 索 虜 伝 と『 魏 書 』 釈 老 志 に 北 魏 当 時 の 一 謠 讖である「虜を滅するは呉なり」が流伝していたとある。太武帝ははなはだこれを悪み、蓋呉の乱起に及び、そ の名が知れ渡ることが、太武帝は当然のことながら容認できず、これを征伐しなければ気がすまなかった。あた かもまたこの時期に寺院が蓋呉に通じている嫌疑を発現して、崔浩等の煽惑も加わり、ついに、廃仏禁讖の挙が あったとした。この(春本)説(筆者の説)は従来の説(呂思勉の説)と比較して(その欠を補っていて)円満 充実している。しかし、一つの重要な史実を見落としている。それは、蓋呉の反乱は太平真君六年(四四五)で あり、長安寺院の兵器の私蔵の件は太平真君七年(四四六)に摘発されたもので、そして、沙門、図讖の禁絶の 詔は太平真君五年(四四四)に発布されたものである。従って、蓋呉の反乱と長安寺院の件は、廃仏と禁讖事件 に火に油を注いだもののようであると言うべきであり、 つまり、 その起因するところと言うことは不可能である。 ) と あ る。 呂 宗 力 は 太 武 帝( 四 〇 八 ~ 四 五 二 ) が 沙 門・ 図 讖 の 禁 絶 の 詔 を 発 布 し た の は 太 平 真 君 五 年〈 四 四 四 〉 で あ り、蓋呉の反乱はこの後の太武帝が沙門・図讖の禁絶の詔を発布した太平真君五年(四四四)の一年後の太平真君六 年(四四五)のことであり、更に、長安寺院の武器私蔵も二年後の太平真君七年(四四六)であるので、廃仏と図讖 禁絶の起因として蓋呉の反乱と長安寺院の武器私蔵の件を考えることは、史実を無視したものであるとしている。し たがって、春本説は呂思勉の説の欠を補って円満であるのだけれども史実を無視した成立し得ない見解であると呂宗 力はしている。しかし、この呂宗力の見解は誤りであり成り立たない。何故ならば、次のようであるからである。 四

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太平真君五年正月以前の蓋呉の反乱について 先の拙論「北魏廃仏の説について――蓋呉と図讖と僧侶の関係――」 (『小此木輝之先生古稀記念論文集   歴史と文 化』青史出版   二〇一六年〈平成二十八〉 )に次のように述べた。 北魏の廃仏は、図讖禁絶が「主」で廃仏が「従」の関係の上に廃仏が行われたのであると筆者は考えてい る ( 7 ) 。 北魏の廃仏は、太武帝、崔浩、寇謙之の三者の思想を十分に把握して廃仏の真相を考えなければならない。筆 者は次のように考え る ( 8 ) 。北魏太武帝の廃仏は、為政者である太武帝に廃仏の思想がなく、仏教を内包した世界観 を持つ新天師道の信仰者である太武帝は、どちらかと言えば仏教養護派なのであるから、側近の崔浩がいくら廃 仏、廃仏と唱えてみても、それが易々と受け入れられるものではない。逆に、廃仏を崔浩が太武帝に進言すれば 進言する程、太武帝にとってはその言を受け入れるよりも崔浩を失脚させようとする方向に気持ちが傾くはずで ある。そのような関連があるにもかかわらず崔浩の進言の通りに廃仏が行われたのは、その進言を聞き入れた太 武帝に崔浩の進言以外に廃仏断行の強い理由、意思があったからに他ならない。つまり、それは何か、と言うこ とを太武帝、崔浩、寇謙之の考え方を明確にして、それぞれの関係を考え、突き詰めていくと、武功第一の太武 帝 に と っ て は、 「 魏 を 滅 ぼ す も の は 呉 で あ る 」 の 謠 言 が 許 せ な か っ た と い う と こ ろ に 行 き 着 く。 蓋 呉 と 通 謀 し て いた長安の一寺院は壊滅して然るべきはずであるが、一寺院だけに止まらず、仏教全てを廃棄したのは崔浩の進 言があったとは言うもののそれが決定的な理由ではない。仏教を内包した世界観を持つ新天師道を信仰する君主 であった太武帝が廃仏の断を下したのであり、それは太武帝自身の武功を第一に考える太武帝の決断によってな されたのである。ここに廃仏の行われた真の決定的理由があるのである。崔浩の進言により廃仏が行われたので はなく、太武帝自身に廃仏を行わなければならない理由があったので廃仏が行われたのである。つまり、太武帝 の側近である崔浩は太武帝の廃仏断行の後押しをした形なのである。 『宋書』索虜伝に、 先 是、 虜 中 謠 言、 「 滅 虜 者 呉 也。 」 燾 甚 悪 之。 二 十 三 年、 北 地 濾 水 人 蓋 呉、 年 二 十 九、 於 杏 城 天 台 挙 兵 反 虜、 五

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大正大學研究紀要   第一〇三輯 諸戎夷普並響応、有衆十余万。燾聞呉反、悪其名、累遣軍撃之、輒敗。 (これより先、虜中の謠言に、 「虜を 滅 す る は 呉 な り。 」 と。 燾 甚 だ こ れ を 悪 む。 二 十 三 年、 北 地 濾 水 の 人、 蓋 呉、 年 二 十 九、 杏 城 天 台 に 於 い て 挙兵し虜に反す、諸もろの戎夷普ねく並んで響応し、衆十余万有り。燾、呉の反を聞き、其の名を悪み、軍 を累遣してこれを撃ち、輒ち敗る。 ) とある。武功第一の太武帝にとっては、 民族起義を鎮圧する為に、 「滅虜者呉也 (虜 (魏) を滅ぼすものは呉なり) 。」 の 図 讖 に 類 す る 謠 言 を 何 と か し な け れ ば な ら な か っ た。 つ ま り、 「 謠 言 ― 図 讖 ― 僧 侶 ― 仏 教 」 の 密 接 な 連 関 の も とに、図讖禁絶と連携して廃仏は行われたものと考えている。もう少し詳しく述べると次のようになる。第二回 目の太平真君五年(四四四)正月の廃仏(と図讖禁絶)も、 三回目の太平真君七年(四四六)三月の廃仏も、 「滅 虜者呉也(虜(魏)を滅ぼすものは呉なり) 。」の図讖に類する謠言を後ろ楯とした蓋呉の反乱を完膚なきまでに 鎮圧除去しなければならない必要性が太武帝にはあったので行なわれたものと考える。当時の北魏社会における 「 謠 言 ― 図 讖 ― 僧 侶 ― 仏 教 」 の 密 接 な 連 関 か ら し て、 完 膚 な き 図 讖 禁 絶 を す る こ と は 完 膚 な き 廃 仏 を し な け れ ば ならないという相互の関係性がある。仏教を内包した世界観を持つ新天師道を信仰する君主であった太武帝は完 膚なき廃仏をしてはいけなかった。しかし、完膚なき廃仏は行なわれた。それは何故か。蓋呉の反乱をくい止め る 為 に は、 先 ず は、 「 滅 虜 者 呉 也( 虜( 魏 ) を 滅 ぼ す も の は 呉 な り )。 」 の 図 讖 に 類 す る 謠 言 を 何 と か に な け れ ば ならなかった。それが先ずは太武帝の念頭にはあったものと考える。蓋呉征伐の過程で長安の一寺院と蓋呉が通 謀している疑いがあることを太武帝は知った。太武帝はこの長安の一寺院だけを壊滅させるのではなくて、結果 的に北魏全土において完膚なき廃仏を実施した。仏教を内包した世界観を持つ新天師道を信仰する君主であった 太武帝は完膚なき廃仏をしてはいけなかったのにもかかわらず完膚なき廃仏をしたのは、蓋呉征伐の為には、完 膚 な き 図 讖 禁 絶 を す る 必 要 性 が 太 武 帝 に は あ っ た 為 で あ る と 考 え る。 そ こ で、 北 魏 の 廃 仏 は、 図 讖 禁 絶 が「 主 」 で廃仏が「従」の関係の上に廃仏が行われたものと筆者は考えるのである。 六

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太平真君五年正月以前の蓋呉の反乱について とある。ここに、 「第二回目の太平真君五年(四四四)正月の廃仏(と図讖禁絶)も、 三回目の太平真君七年(四四六) 三 月 の 廃 仏 も、 「 滅 虜 者 呉 也( 虜( 魏 ) を 滅 ぼ す も の は 呉 な り )。 」 の 図 讖 に 類 す る 謠 言 を 後 ろ 楯 と し た 蓋 呉 の 反 乱 を 完膚なきまでに鎮圧除去しなければならない必要性が太武帝にはあったので行なわれたものと考える。 )」とした。第 二回目の太平真君五年(四四四)正月の廃仏(と図讖禁絶)が何故、行なわれたのかといえ ば ( 9 ) 、第二回目の太平真君 五年(四四四)正月の廃仏(と図讖禁絶)についての『魏書』巻四下、世祖紀第四下に、 戊申、 詔曰、 愚民無識、 信惑妖邪、 私養師巫、 挟蔵讖記、 陰陽、 図緯、 方伎之書、 又沙門之徒、 仮西戎虚誕、 生致妖 孽 。 非所以壱斉政化、布淳徳於天下也、自王公已下至於庶人、有私養沙門、師巫及金銀工巧之人在其家者、皆遣詣官 曹、不得容匿。限今年二月十五日、過期不出、師巫、沙門身死、主人門誅。明相宣告、咸使聞知。 」(戊申、詔し て曰わく、愚民、識無く、妖邪を信惑し、私に師巫を養い、讖記、陰陽、図緯、方伎之書を挟蔵し、又、沙門之 徒、 西戎の虚誕を仮にして、 妖 孽 (凶悪の萌兆)を生致す。政化を壱斉にし、 淳徳を天下に布く所以に非ざる也、 王公より已下、庶人に至るまで、私に沙門、師巫及金銀工巧の人を養い、其の家に在る有るは、皆な官曹に遣詣 し、容匿を得ず。今年二月十五日を限りとし、期を過ぎ出でざるは、師巫、沙門身、死、主人、門誅。明に相い 宣告す、咸く聞き知ら使めん。 ) とある。師巫、讖記、陰陽、図緯、方伎之書、沙門を同時に廃禁しようとするその理由は、 『魏書』釈老志に、 会蓋呉反杏城、関中騒動。帝乃西伐至於長安。先是、長安沙門、種麥寺内、御騶牧馬於麥中。帝入観馬。沙門飲 従官酒。従官入其便室、見大有弓矢矛盾、出以奏聞。帝怒曰、此非沙門所用、當與蓋呉通謀、規害人耳。命有司 案誅一寺、閲其財産、大得醸酒具及州郡牧守冨人所寄藏物、蓋以萬計。又爲屈室、與貴室女私行淫亂。帝既忿沙 門非法。浩時従行、 因進其説。詔誅長安沙門、 焚破佛像、 勅留臺、 下四方令、 一依長安行事。又詔曰、 彼沙門者、 假 西 戎 虚 誕、 妄 生 妖 孽 、 非 所 以 一 齊 政 化、 布 淳 徳 於 天 下 也。 自 王 公 已 下、 有 私 養 沙 門 者、 皆 送 官 曹、 不 得 隠 匿。 限 今 年 二 月 十 五 日、 過 期 不 出、 沙 門 身 死、 容 止 者 誅 一 門。 ( 会 た ま 蓋 呉、 杏 城 に 反 し、 関 中、 騒 動 す。 帝、 乃 は 七

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大正大學研究紀要   第一〇三輯 ち西伐して長安に至る。是れより先に、長安の沙門、麥麦を寺内に種まき、御騶、馬を麦中に牧す。帝、入りて 馬を観る。沙門、従官に酒を飲ましむ。従官、その便室に入りて、大いに弓矢・矛盾あるを見て、出でて以って 聞くところを奏した。帝、怒りて曰はく、此れ、沙門の用ひる所に非ざる、当に蓋呉と通謀して、人に害を規せ んべきのみ。有司に命じて案じて一寺を誅し、其の財産を閲るに、大いに醸酒の具、及び、州郡の牧守、冨人の 寄藏する所の物を得、蓋し萬計を以ってす。又た、屈室たるは、貴室女と私に淫亂を行う。帝、既に沙門の非法 を忿る。浩、時に従行して、因りて其の説を進む。詔して長安の沙門を誅し、佛像を焚破し、留臺に勅して、四 方に下して令し、一へに長安の行事に依った。又た詔して曰はく、彼の沙門は、西戎の虚誕を仮にして、妄りに 妖 孽 を生じ、 政化を一斉にして、 淳徳を天下に布く所以に非ざるなり。王公より已下、 私に沙門を養うもの有るは、 皆な官曹に送り、 隠匿を得ず。今年(太平真君五年(四四四) )二月十五日を限りとして、 期、 過ぎて出でざるは、 沙門の身、死、容止するは一門を誅す。 ) とある。更に、 前掲の 『宋書』 索虜伝にあるように、 武功第一の太武帝にとっては、 蓋呉の民族起義を鎮圧する為に、 「滅 虜者呉也(虜(魏)を滅ぼすものは呉なり) 。」の図讖に類する謠言を何とかしなければならなかった事情がある。こ の図讖を完膚なきまでに廃絶する為には「謠言―図讖―僧侶―仏教」の密接な連関を廃棄する必要性があったのであ る。折りしも、崔浩も進言する廃仏をするために、太武帝は太平真君五年(四四四)の正月に第二回目の廃仏と図讖 禁絶の詔を出したのでる。つまり、ここに取り上げた『魏書』巻四下、世祖紀第四下と『魏書』釈老志によれば、太 武帝が太平真君五年(四四四)の沙門・図讖の禁絶の詔を出す前に蓋呉の反乱があるのであり、長安寺院の武器私蔵 は太平真君七年〈四四六〉ではなくて第二回目の太平真君五年(四四四)の廃仏と図讖禁絶の詔を出す以前のことで ある。したがって、呂宗力の「太武帝が沙門・図讖の禁絶の詔を発布したのは太平真君五年〈四四四〉であり、蓋呉 の反乱はその後の太平真君六年〈四四五〉であり、長安寺院の武器私蔵は太平真君七年(四四六)である」とした呂 宗力の見解は誤りである。繰り返すが、 つまり、 太武帝が沙門 ・ 図讖の禁絶の詔を発布したのは太平真君五年(四四四) 八

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太平真君五年正月以前の蓋呉の反乱について であり、蓋呉の反乱は先述の『魏書』巻四下、世祖紀第四下と『魏書』釈老志によれば、太平真君六年(四四五)で はなくて、太平真君五年(四四四)の沙門・図讖の禁絶の詔を出す前に蓋呉の反乱があるのであり、長安寺院の武器 私蔵も太平真君七年 (四四六) ではなくて第二回目の太平真君五年 (四四四) の廃仏と図讖禁絶の詔を出す以前にあっ たのある。  

 

呂思勉著『両晋南北朝史』について

ここに、呂思勉著『両晋南北朝史』 (台湾開明書店   一九六九年〈民国五十八〉 )の北魏の廃仏の記述について述べ てみたい。同書「第八章   宋初南北情勢」三七五頁に次のようにある。 釈老志又言、 蓋呉反杏城、 関中騒動。帝乃西伐至於長安。先是、 長安沙門、 種麥寺内、 御騶牧馬於麥中。帝入観馬。 沙門飲従官酒。従官入其便室、 見大有弓矢矛盾、 出以奏聞。帝怒曰、 「此非沙門所用、 當與蓋呉通謀、 規害人耳。 」 命 有 司 案 誅 一 寺、 閲 其 財 産、 大 得 醸 酒 具 及 州 郡 牧 守 冨 人 所 寄 藏 物、 蓋 以 萬 計。 又 爲 屈 室、 與 貴 室 女 私 行 淫 亂。 帝 既 忿 沙 門 非 法。 浩 時 従 行、 因 進 其 説。 詔 誅 長 安 沙 門、 焚 破 佛 像、 勅 留 臺、 下 四 方 令、 一 依 長 安 行 事。 之 挙。 然 則 佛法見廢、 實由見疑與蓋呉通謀、 謂由崔浩進説者、 尚未知其眞際也。 (釈老志にまた言ふ。蓋呉、 杏城に反し、 関中、 騒 動 す。 帝、 乃 は ち 西 伐 し て 長 安 に 至 る。 是 れ よ り 先 に、 長 安 の 沙 門、 麥 麦 を 寺 内 に 種 ま き、 御 騶、 馬 を 麦 中 に 牧 す。 帝、 入 り て 馬 を 観 る。 沙 門、 従 官 に 酒 を 飲 ま し む。 従 官、 そ の 便 室 に 入 り て、 大 い に 弓 矢・ 矛 盾 あ る を 見 て、 出でて以って聞くところを奏した。帝、 怒りて曰はく、 此れ、 沙門の用ひる所に非ざる、 当に蓋呉と通謀して、 人 に 害 を 規 せ ん べ き の み。 有 司 に 命 じ て 案 じ て 一 寺 を 誅 し、 其 の 財 産 を 閲 る に、 大 い に 醸 酒 の 具、 及 び、 州 郡 の 牧 守、 冨 人 の 寄 藏 す る 所 の 物 を 得、 蓋 し 萬 計 を 以 っ て す。 又 た、 屈 室 た る は、 貴 室 女 と 私 に 淫 亂 を 行 う。 帝、 既 九

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大正大學研究紀要   第一〇三輯 に 沙 門 の 非 法 を 忿 る。 浩、 時 に 従 行 し て、 因 り て 其 の 説 を 進 む。 詔 し て 長 安 の 沙 門 を 誅 し、 佛 像 を 焚 破 し、 留 臺 に 勅 し て、 四 方 に 下 し て 令 し、 一 へ に 長 安 の 行 事 に 依 っ た。 こ の 挙 あ り。 然 ら ば 則 は ち、 佛 法、 廃 さ る る は、 實 に蓋呉と通謀するを疑うを見、崔浩の進説に由るを謂ふに由る者なれども、尚ほ未だ其の眞際を知らざるなり。 ) とある。このように、 呂思勉は『魏書』釈老志を根拠にして述べ、 結論的には「然則佛法見廢、 實由見疑與蓋呉通謀、 謂 由 崔 浩 進 説 者、 尚 未 知 其 眞 際 也。 ( 然 ら ば 則 は ち、 佛 法、 廃 さ る る は、 實 に 蓋 呉 と 通 謀 す る を 疑 う を 見、 崔 浩 の 進 説に由るを謂ふに由る者なれども、尚ほ未だ其の眞際を知らざるなり。 )」と述べているのである。従って、呂宗力の 言 う )(1 ( ように、 吕 思 勉 有 所 考 证 , 结 论 是 太 武 帝 之 废 佛, 主 要 是 发 现 长 安 一 寺 院 收 藏 兵 器, 因 而 怀 疑 僧 侣 们 与 叛 乱 者 盖 吴 等 通 谋 , 再加上因某些僧 侣为 其政治 对 手服 务 而引起的 积 怨, 崔浩 兴 道 灭 佛之游 说 尚在其次。68 (68   同上 (呂思勉 《両 晋南北朝史》 ),第375頁。 )(呂思勉の考証がある。結論としては、太武帝の廃仏は、その主要をなすものは長 安の一寺院が兵器を収蔵し、これによって僧侶達が叛乱者である蓋呉等と通謀を懐疑して起きたものであり、更 に加えて、ある僧侶の政治に服従する上で引き起こされた積怨に対してでもある。崔浩が道教を興して仏教を廃 棄すると言うような説はその次になる。 ) と 呂 思勉は言っているのではなく、 寧ろ、 呂思勉の考証では、 「尚未知其眞際也(尚ほ未だ其の眞際を知らざるなり。 )。 」 としてその「真相はわからない」と呂思勉は言っているのである。従って、呂宗力の呂思勉の考証のまとめ方は問題 である。 一〇

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太平真君五年正月以前の蓋呉の反乱について

 

林旅芝著『鮮卑史』について

こ こ に、 林 旅 芝 著『 鮮 卑 史 』( 波 文 書 局   一 九 七 三 年 ) の 北 魏 の 廃 仏 の 記 述 に つ い て 述 べ て み た い。 同 書「 第 二十五章   拓跋鮮卑之宗教」第二節   佛教   三七五頁に、 太 平 真 君 五 年( 公 元 四 四 四 年、 ) 正 月、 戊 申、 詔 王 公 以 下 至 庶 人 以 私 養 沙 門 巫 覡 於 家 者 皆 遣 詣 官 曹。 過 二 月 十 五 日 不 出、 沙 門 巫 覡 死、 主 人 門 誅。 並 斥 佛 教 為「 西 戎 虚 誕、 妄 生 妖 孽 。」 其 年 九 月 而 玄 高、 慧 崇 被 殺。 太 平 真 君 七 年( 公 元 四 四 六 年 ) 二 月、 拓 跋 燾 至 長 安、 在 佛 寺 見 大 有 兵 器。 燾 怒、 疑 與 蓋 呉 通 謀。 命 誅 闔 寺 沙 門。 閲 其 財 産、 得醸具及州郡牧守冨人所寄藏物以萬計、又爲窟室以匿婦女。崔浩因説燾悉誅天下沙門、毀諸經像、燾従之。寇謙 之與浩固爭、 浩不従。先盡誅長安沙門、 焚毀經像。并勅留臺下四方、 令一用長安法。於是年(公元四四六年) 、三月、 下 詔、 其 文 自 謂、 「 承 天 之 緒 欲 除 偽 定 眞。 復 羲 農 之 治。 」 此 蓋 自 以 為 継 王 之 問 統、 用 寇・ 崔 之 説 也。 ( 太 平 真 君 五 年( 四 四 四 年 ) 正 月 戊 申 に 詔 し て、 王 公 以 下、 庶 人 至 る ま で 以 っ て 沙 門・ 巫 覡 を 家 に 私 養 す る 者、 皆、 官 曹 に 遣詣せよ。二月十五日を過ぎて出でざるは、沙門・巫覡、死し、主人門誅。並びに佛教の為「西戎の虚誕、妄り に妖 孽 を生む。 」を為すを斥く。其年、九月にして、玄高、慧崇殺さる。太平真君七年(四四六)二月、拓跋燾、 長安に至り、佛寺に在りて大いに有兵器あるを見る。燾、怒りて、蓋呉との通謀を疑ふ。寺を闔(と)じ沙門を 誅 す る を 命 ず。 其 の 財 産 を 閲 し、 醸 具 を 得、 及 び、 州 郡 牧 守・ 冨 人、 寄 藏 す る 所 の 物、 萬 計 を 以 っ て し、 又 た、 窟室為るは以って婦女を匿す。崔浩、燾に悉ごとく天下の沙門を誅し、諸經像を毀すべきを説くに因り、燾、之 に従ふ。寇謙之、浩と固より爭ひ、浩、従はず。先に盡ごとく長安沙門を誅し、經像を焚毀す。并はせて、留臺 に 勅 し て 四 方 に 下 し て、 令 す る こ と 一 へ に 長 安 の 法 を 用 ふ。 是 の 年( 四 四 六 )、 三 月、 詔 を 下 し て、 其 の 文 自 ず から謂ふ、 「天之緒を承け、定眞を偽はらんとするを除かんと欲す。羲農之治に復さん。 」此れ蓋し自ら以って継 王之統を問はんと為し、寇・崔之説を用ひんとするなり。 ) 一一

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大正大學研究紀要   第一〇三輯 と あ る。 『 魏 書 』 巻 四 下、 世 祖 紀 第 四 下   と『 魏 書 』 釈 老 志 に よ れ ば、 こ の 林 旅 芝 の 太 平 真 君 五 年( 四 四 四 ) の 記 述 には問題はないが、 林旅芝の太平真君七年 (四四六) の記述には誤りがある。何故ならば、 次のようであるからである。 林旅芝の「太平真君七年(公元四四六年)二月、拓跋燾至長安、在佛寺見大有兵器。燾怒、疑與蓋呉通謀。命誅闔 寺沙門。閲其財産、 得醸具及州郡牧守冨人所寄藏物以萬計、 又爲窟室以匿婦女。崔浩因説燾悉誅天下沙門、 毀諸經像、 燾従之。 寇謙之與浩固爭、 浩不従。 先盡誅長安沙門、 焚毀經像。 并勅留臺下四方、 令一用長安法。 (太平真君七年 (四四六) 二月、 拓跋燾、 長安に至り、 佛寺に在りて大いに有兵器あるを見る。燾、 怒りて、 蓋呉との通謀を疑ふ。寺を闔(と) じ沙門を誅するを命ず。其の財産を閲し、醸具を得、及び、州郡牧守・冨人、寄藏する所の物、萬計を以ってし、又 た、窟室為るは以って婦女を匿す。崔浩、燾に悉ごとく天下の沙門を誅し、諸經像を毀すべきを説くに因り、燾、之 に従ふ。寇謙之、浩と固より爭ひ、浩、従はず。先に盡ごとく長安沙門を誅し、經像を焚毀す。并はせて、留臺に勅 して四方に下して、令すること一へに長安の法を用ふ。 )」は、前掲の『魏書』釈老志に相当しており、これは第二回 目の太平真君五年(四四四年)廃仏と図讖禁絶の前掲の『魏書』巻四下、世祖紀第四下に相当す る )(( ( 。従って、 『魏書』 巻四下、世祖紀第四下   と『魏書』釈老志によれば、太武帝が沙門・巫覡を取り締まる前に蓋呉の反乱があるのであ り、林旅芝の太平真君七年(四四六)の記述は誤りである。つまり、太平真君七年(四四六)ではなくて太平真君五 年(四四四)とすべきであ る )(1 ( 。

 

以 上、 呂 宗 力「 魏 晋 南 北 朝 至 隋 禁 毀 讖 緯 始 末 」( 『 高 敏 先 生 八 十 華 誕 紀 念 文 集 』 北 京 綫 装 書 局 二 〇 〇 六 年   二 三 五 ~二五二頁)の北魏の廃仏についての筆者の見解を述べ、更に、呂宗力の論述における引用文献である呂思勉著『両 一二

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太平真君五年正月以前の蓋呉の反乱について 晋南北朝史』 (台湾開明書店   一九六九年 〈民国五十八〉 ) 「第八章   宋初南北情勢」 三七五頁と林旅芝著 『鮮卑史』 (波 文 書 局   一 九 七 三 年 ) 「 第 二 十 五 章   拓 跋 鮮 卑 之 宗 教 」 第 二 節   佛 教   三 七 五 頁 の 北 魏 の 廃 仏 に つ い て の 筆 者 の 見 解 を述べた。 北魏の廃仏は、太延四年(四三八)三月に第一回目が行われた。第二回目は、六年後の太平真君五年(四四四)正 月である。第三回目は更に、二年後の太平真君七年(四四六)三月である。これらの三回の廃仏については、基本的 に第一次資料である 『魏書』 巻四上 世祖紀第四上 ・『魏書』 巻四下 世祖紀第四下によって知ることができる。しかし、 この三回の廃仏の様相を知る為にはこれらの資料だけでは北魏の廃仏についての全てを知ることはできない。 『宋書』 索 虜 伝、 『 魏 書 』 釈 老 志、 『 資 治 通 鑑 』 巻 百 二 十 三、 宋 紀 五、 文 帝 元 嘉 十 五 年、 『 資 治 通 鑑 』 巻 百 二 十 四、 宋 紀 六、 文 帝 元 嘉 二 十 一 年( 四 四 四 )、 『 高 僧 伝 』 巻 十 曇 始 伝( 大 正 五 十 ・ 三 九 二 中 ) 等 々 の 多 く の 資 料 を も 駆 使 し な け れ ば そ の 様 相 を 把 握 す る こ と は 困 難 で あ る。 拙 稿 に お い て は、 『 魏 書 』 巻 四 下、 世 祖 紀 第 四 下 と『 魏 書 』 釈 老 志 に よ り、 太 武 帝が太平真君五年(四四四)の沙門・図讖の禁絶の詔を出す前に蓋呉の反乱があるとした。更には、長安寺院の武器 私蔵は太平真君七年〈四四六〉ではなくて第二回目の太平真君五年(四四四)の廃仏と図讖禁絶の詔を出す以前のこ とであるともし た )(1 ( 。 総じて、 太武帝が沙門 ・ 図讖の禁絶の詔を発布したのは太平真君五年 (四四四) であり、 蓋呉の反乱は 『魏書』 巻四下、 世祖紀第四下と『魏書』釈老志によれば、 太平真君六年(四四五)だけではなくて、 太平真君五年(四四四)の沙門 ・ 図讖の禁絶の詔を出す前にも蓋呉の反乱があるのであり、長安寺院の武器私蔵も太平真君七年(四四六)ではなくて 第二回目の太平真君五年(四四四)の廃仏と図讖禁絶の詔を出す以前にあったのである。 (1)拙論 「北魏廃仏の説について― ―蓋呉と図讖と僧侶の関係――」 (『小此木輝之先生古稀記念論文集   歴史と文化』 一三

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大正大學研究紀要   第一〇三輯 青史出版   二〇一六年〈平成二十八〉年)四〇七頁。 (2)呂宗力 「魏晋南北朝至隋禁毀讖緯始末」 (『高敏先生八十華誕紀念文集』 北京 綫装書局 二〇〇六年) の二四五頁に、 「 盖 吴 之 乱 起 于 太 平 真 君 六 年( 4 4 5) , 长 安 寺 院 私 藏 兵 器 案 揭 发 于 太 平 真 君 七 年, 而 禁 绝 沙 门 图 谶 诏 书 颁 布 于 太平真君五年。 (蓋呉の反乱は太平真君六年 (四四五) であり、 長安寺院の兵器の私蔵の件は太平真君七年 (四四六) に摘発されたもので、 そして、 沙門、 図讖の禁絶の詔は太平真君五年 (四四四) に発布されたものである。 )」 とある。 (3)註 (2)参照。 (4)本拙稿「一   呂宗力の見解」参照。 (5)呂 宗 力「 魏 晋 南 北 朝 至 隋 禁 毀 讖 緯 始 末 」( 『 高 敏 先 生 八 十 華 誕 紀 念 文 集 』 北 京 綫 装 書 局 二 〇 〇 六 年   二 三 五 ~ 二 五 二 頁 ) の( 注 0 1) の 前 に ★ 印 で 次 の よ う に あ る。 「 ★ 高 敏 先 生 是 中 国 史 学 界 的 名 学 者, 也 是 我 所 熟 悉, 尊 敬 的 前 辈 。 非 常 荣 幸 获 此 机 会, 以 拙 文 恭 贺 先 生 八 十 华 诞 。 本 文 系 据 我 的 英 文 论 著 P o w e r   o f   t h e   W o r d s: C h e n   P r o p h e c y   i n   C h i n e s e   P o l i t i c s, A D 2 6 5 ~ 5 1 8. ( O x f o r d: P e t e r   L a n g   A G, 2 0 0 3) 之 第 一 章 改 写 而 成。 原 文 曾 以 日 文〈 两 晋 南 北 朝 よ り 隋に至る圖讖を禁絶する歴史の真相〉刊 载 於《中村璋八博士古稀記念東洋學論集》 (東京:汲古書院,1996, 2 4 3 ~ 3 0 1 頁 )。 本 文 在 英 文 和 日 文 稿 的 基 础 上 作 了 修 改。 」 と あ る。 こ こ の「 两 晋 南 北 朝 よ り 隋 に 至 る 圖 讖 を禁絶する歴史の真相」 (『中村璋八博士古稀記念東洋學論集』汲古書院   一九九六年〈平成八〉二四三~三〇一 頁)は中村敞子・李雲の日本語の共訳である。日本語訳だけでなく元文の中国語の原文を見たいと翻訳者の中村 敞子氏に二〇一六年〈平成二十八〉五月二十九日に中村璋八先生の一周忌供養の日にお尋ねしたところ、山梨県 立大学の名和敏光先生のところに中村璋八博士の蔵書は全て寄贈してあるとのことであった。そこで名和先生に お尋ねして調べて頂いたが、 残念ながら不明とのことであった。呂宗力御本人も「魏晋南北朝至隋禁毀讖緯始末」 (『 高 敏 先 生 八 十 華 誕 紀 念 文 集 』 北 京 綫 装 書 局 二 〇 〇 六 年   二 三 五 ~ 二 五 二 頁 ) の( 注 0 1) の 前 の ★ 印 で 述 べ 一四

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太平真君五年正月以前の蓋呉の反乱について ているように中国語の原文は公にしていないようであり、中国語の原文よりも先行してその日本語訳の翻訳が公 になったものだと考えられる。本拙稿においては、今回は、呂宗力「魏晋南北朝至隋禁毀讖緯始末」 (『高敏先生 八 十 華 誕 紀 念 文 集 』 北 京 綫 装 書 局 二 〇 〇 六 年   第 二 三 五 ~ 二 五 二 頁 ) を も と に し て こ こ に 考 察 を し た。 ま た、 呂宗力の論文の中村敞子・李雲の共訳の「 两 晋南北朝より隋に至る圖讖を禁絶する歴史の真相」 (『中村璋八博士 古 稀 記 念 東 洋 學 論 集 』 汲 古 書 院   一 九 九 六 年〈 平 成 八 〉  二 四 三 ~ 三 〇 一 頁 ) を も 参 考 に し て 本 拙 稿 に お い て 考 察を試みた。尚、本小論に於ける中国語の本文入力は、従来の一字一字の入力でなく、五十嵐恵太修士のスキャ ナー入力による協力を得た。ここに感謝の意を記す。 (6)北 魏 の 廃 仏 が 図 讖 の 禁 絶 と 同 時 期 に 行 な わ れ た こ と に 興 味 を 覚 え 考 察 し た の が、 拙 論 の「 〝 北 魏 太 武 帝 の 废 佛 と 图 谶 禁 绝 に つ い て の 一 试 论 〟, 载 中 村 璋 八 编 《 纬 学 研 究 论 丛 》, 東 京 平 河 出 版 社, 1 9 9 3 年 版, 第 2 9 9 ~ 324 页 。」である。呂宗力は「この中で比較的に流行している見解では、 太武帝が崔浩と寇謙之の影響下にあっ て、 道 教 を 崇 拝 し、 仏 教 を 廃 棄 し て、 こ の よ う な 禁 令 に な っ た と し た。 」 と し て 筆 者 の 論 文 の 論 点 を ま と め て い るのであるが、筆者は、従来、北魏の廃仏は崔浩が中心人物である旨の定説に対して、北魏の廃仏は崔浩よりも 太武帝が中心人物として行なわれたとし、呂宗力は触れていないが、廃仏と図讖禁絶が同時に行なわれた理由に ついて「滅虜者呉也(虜(魏)を滅ぼすものは呉なり) 。」の図讖に類する謠言を後ろ楯とした蓋呉の反乱が原因 ではないかとの指摘をもここでしている。 (7)「北魏の図讖禁絶― ―特に太武帝時について――」 (『大正大学研究紀要』 第九十二輯   二〇〇七年 〈平成十九〉 ・「北 魏 法 難 の 実 態 解 明 に つ い て 」( 『 大 正 大 学 研 究 紀 要 』 第 九 十 四 輯   二 〇 〇 九 年〈 平 成 二 十 一 〉) ・「 中 国 に 於 け る 北 魏 法 難 の 研 究 に つ い て 」( 『 大 正 大 学 研 究 紀 要 』 第 九 十 五 輯   二 〇 一 〇 年〈 平 成 二 十 二 〉) ・「 日 本 に 於 け る 北 魏 法 難 の 研 究 に つ い て ―― 先 考 研 究 に つ い て ――」 (『 宇 高 良 哲 先 生 古 希 記 念 論 文 集「 歴 史 と 仏 教 」』 文 化 書 院   二〇一二年〈平成二十四〉 )参照。 一五

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大正大學研究紀要   第一〇三輯 (8)註 (7)参照。 (9)「 北 魏 廃 仏 の 説 に つ い て ― ― 蓋 呉 と 図 讖 と 僧 侶 の 関 係 ――」 (『 小 此 木 輝 之 先 生 古 稀 記 念 論 文 集   歴 史 と 文 化 』  青史出版   二〇一六年〈平成二十八〉年)参照。 ((1)呂宗力 「魏晋南北朝至隋禁毀讖緯始末」 (『高敏先生八十華誕紀念文集』 北京 綫装書局 二〇〇六年) 二四四頁、 参照。 ((()更 に、 『 資 治 通 鑑 』 巻 百 二 十 四、 宋 紀 六、 文 帝 元 嘉 二 十 一 年( 四 四 四 ) に、 「( 嘉 二 十 一 年 ) 戊 申、 魏 主 詔、 『 王、 公 以 下 至 庶 人、 有 私 養 沙 門、 巫 覡 於 家 者、 ( 胡 三 省 注: 男 曰 巫、 女 曰 覡、 覡、 刑 狄 翻、 ) 皆 遣 詣 官 曹、 過 二 月 十 五 日不出、 沙門、 巫覡死、 主人門誅。 』(胡三省注 : 門誅者、 闔門尽誅之) 」( (嘉二十一年)戊申、 魏主、 詔して、 『王、 公以下、 庶人に至るまで、 私かに沙門、 巫覡を家に養う者有るは、 (胡三省注 : 男は巫と曰い、 女は覡と曰ふ、 覡は、 刑狄の翻、 ) 皆官曹に遣詣し、 二月十五日を過ぎて出でざるは、 沙門、 巫覡は死、 主人は門誅。 』(胡三省注 : 門誅は、 闔門、尽ごとくこれを誅す。 )とある。 ((1)『資治通鑑』 の太平真君七年 (四四六) の記述と林旅芝の太平真君七年 (四四六) の見解は同様である。しかし、 『魏書』釈老志によれば蓋呉の反乱は太平真君五年(四四四)正月以前と考えられ、 『魏書』釈老志では続けて太 平真君七年(四四六)に関しての記述が存在する。つまり、 『魏書』釈老志によれば、 『資治通鑑』の太平真君七 年(四四六)の記述と林旅芝の太平真君七年(四四六)の記述は成立し得ないのである。 ((1)筆者の北魏廃仏の説についての呂宗力の見解は妥当な部分と不可解な部分とがあり 、この妥当でない不可解な部 分 は 何 故 妥 当 で な く て 不 可 解 な の か の 解 明 を 今 回 、 本 拙 稿 に お い て 詳 述 し た 。 つ ま り 、 呂 宗 力 の 見 解 の 妥 当 な 部 分 と は 次 の よ う で あ る 。〈 呂 宗 力 「 魏 晋 南 北 朝 至 隋 禁 毀 讖 緯 始 末 」( 『 高 敏 先 生 八 十 華 誕 紀 念 文 集 』 北 京 綫 装 書 局 二 〇 〇 六 年   二 四 五 頁 ) に 、「 春 本 秀 雄 认 为 , 废 佛 禁 谶 出 于 同 一 理 由 : 据 《 宋 书 • 索 虏 传 》 和 《 魏 书 , 释 老 志 》, 北 魏 当 时 流 传 一 谣 谶 :〝 灭 虏 吴 也 。〝 太 武 帝 〟 甚 恶 之 〟。 及 盖 吴 乱 起 , 其 名 恰 与 瑶 合 , 太 武 自 然 不 能 容 忍 , 必 平 之 而 后 快 。 恰 又 在 此 时 发 现 寺 院 有 通 盖 嫌 疑 , 加 上 崔 浩 等 人 的 煽 惑 , 遂 有 废 佛 禁 谶 之 举 。 此 说 较 旧 说 圆 满 ,( 春 本 秀 雄 は 一六

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太平真君五年正月以前の蓋呉の反乱について 次 の よ う に 考 え た 。 つ ま り 、 廃 仏 、 禁 讖 は 同 一 の 理 由 に よ る と し た 。『 宋 書 』 索 虜 伝 と 『 魏 書 』 釈 老 志 に 北 魏 当 時 の 一 謠 讖 で あ る 「 虜 を 滅 す る は 呉 な り 」 が 流 伝 し て い た と あ る 。 太 武 帝 は は な は だ こ れ を 悪 み 、蓋 呉 の 乱 起 に 及 び 、 そ の 名 が 知 れ 渡 る こ と が 、 太 武 帝 は 当 然 の こ と な が ら 容 認 で き ず 、 こ れ を 征 伐 し な け れ ば 気 が す ま な か っ た 。 あ た か も ま た こ の 時 に 寺 院 に 蓋 呉 に 通 じ て い る 嫌 疑 を 発 現 し て 、崔 浩 等 の 煽 惑 も 加 わ り 、つ い に 、廃 仏 禁 讖 の 挙 が あ っ た と し た 。 こ の ( 春 本 ) 説 ( 筆 者 の 説 ) は 従 来 の 説 ( 呂 思 勉 の 説 ) と 比 較 し て ( そ の 欠 を 補 っ て い て ) 円 満 充 実 し て い る 。) 」 と あ る 。 こ の 部 分 の 呂 宗 力 の 見 解 は 大 筋 評 価 で き る 。 註 (7)参 照 。〉 。 ま た 、 呂 宗 力 の 見 解 の 不 可 解 な 部 分 と は 次 の よ う で あ る 。〈 主 に は 、 本 拙 稿 「 一   呂 宗 力 の 見 解 」 を 参 照 さ れ た し 。 つ ま り 、 呂 宗 力 「 魏 晋 南 北 朝 至 隋 禁 毀 讖 緯 始 末 」( 『 高 敏 先 生 八 十 華 誕 紀 念 文 集 』 北 京 綫 装 書 局 二 〇 〇 六 年   二 三 五 ~ 二 五 二 頁 ) の 不 可 解 な 見 解 の 部 分 は 、 呂 宗 力 「 魏 晋 南 北 朝 至 隋 禁 毀 讖 緯 始 末 」( 『 高 敏 先 生 八 十 華 誕 紀 念 文 集 』 北 京 綫 装 書 局 二 〇 〇 六 年   二 三 五 ~ 二 五 二 頁 ) の 論 文 に お い て 、 林 旅 芝 著 『 鮮 卑 史 』 を 引 用 し て 論 を 展 開 し て 、〈 林 旅 芝 著 『 鮮 卑 史 』( 波 文 書 局   一 九 七 三 年 ) 「 第 二 十 五 章   拓 跋 鮮 卑 之 宗 教 」 第 二 節   佛 教   三 七 五 頁 〉 の 「 誤 り 」 を も 呂 宗 力 は 「 是 」 と し て 認 識 し て 自 説 の 論 を 展 開 し た と こ ろ に 起 因 し た も の と 考 え る 。 本 拙 稿 「 一   呂 宗 力 の 見 解 」・ 「 三   林 旅 芝 著 『 鮮 卑 史 』 に つ い て 」 参 照 。 ま た 、〈 呂 思 勉 著 『 両 晋 南 北 朝 史 』( 台 湾 開 明 書 店   一 九 六 九 年 〈 民 国 五 十 八 〉) 「 第 八 章   宋 初 南 北 情 勢 」 三 七 五 頁 〉 の 主 張 を 呂 宗 力 は 曲 解 し て い る こ と も 今 回 、 指 摘 し て 明 瞭 に し た 。 本 拙 稿 「 二   呂 思 勉 著 『 両 晋 南 北 朝 史 』 に つ い て 」 参 照 。〉 。 従 っ て 、 北 魏 太 武 帝 の 第 二 回 目 の 廃 仏 や 図 讖 禁 絶 の 詔 が 出 た 後 に 、 蓋 呉 の 反 乱 が あ り 、 第 二 回 目 の 廃 仏 や 図 讖 禁 絶 は 蓋 呉 と 関 係 が な い と 考 え た の な ら ば 、 何 の 為 の 図 讖 禁 絶 な の か 、 何 の た め の 廃 仏 な の か の そ の 理 由 が 、呂 思 勉 の 言 う よ う に「 尚 未 知 其 眞 際 也( 尚 ほ 未 だ 其 の 眞 際 を 知 ら ざ る な り 。) 。」 と な り 、「 真 相 は わ か ら な い 」 も の と な っ て し ま う 。 蓋 呉 と 廃 仏 や 図 讖 禁 絶 が 関 係 の な い も の と し た の な ら ば 、 何 の理由 で廃仏や 図讖禁 絶が行わ れたので あろうか 。 仏教を内 包した寇 謙之を信 奉する太 武帝にと って 、蓋 呉以外 の 理 由 で 廃 仏 や 図 讖 禁 絶 の 詔 を 出 す 決 定 的 な 理 由 を 見 つ け 出 す こ と は 不 可 能 で あ る 。 註 (7)の 拙 論 参 照 。 一七

参照

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〔付記〕

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向井 康夫 : 東北大学大学院 生命科学研究科 助教 牧野 渡 : 東北大学大学院 生命科学研究科 助教 占部 城太郎 :