翻 訳
ビマル・クリシュナ・マティラル
ビマル・クリシュナ・マティラル
ことばと世界(3)
ことばと世界(3)
──言語研究におけるインドの貢献──
加 藤 普由子(訳)
加 藤 普由子(訳)
[解題] 本稿は加藤[2015; 2016]に続く第5章の翻訳であり,「カーラカ」(kāraka)の考え方を 概説する。 インドにおけるサンスクリット語文法学の起源は明らかではないが,非常に早い時期から 学問の一分野として認識されていたのは確かであり,その価値はパーニニ(紀元前5∼4世 紀)に負うところが大きい。パーニニの系統に属さない文法学者も存在したが,パーニニの 流れをくむ文法学派においては,紀元前3世紀頃のカーティヤーヤナ,紀元前2世紀頃のパ タンジャリ,5世紀頃のバルトリハリ,11世紀頃のカイヤタ,16世紀頃のバットージ・ ディークシタ,そして18世紀のナーゲーシャ・バッタへと一つの大きな流れが連綿と続く (Coward & Raja [1990])。言語としてのサンスクリットの分析はパーニニ文法学なくして不 可能である。また,パーニニ文法学は決して古代インドに限定されない。たとえば,バッ トージ・ディークシタの『シッダーンタカウムディー』では,パーニニの『アシュターディ ヤーイー』のスートラがより利用しやすく分類,編集され,取り組みやすくなっている。ま た,同時代の『ラグーシッダーンタカウムディー』1)は簡約版であり,サンスクリット語文 法の入門書として,パンディット2)に限らず大学のサンスクリット語講義にも使用されてい る(Ballantyne [1891]; 高崎[1959])。このように,パーニニの規則は現在に到るまで意義を 持ち続けている。 他方,その価値は西洋の言語学においても認められている。古代インドではすでに言語自 体が研究対象として認識され,文法学が独立した学科として出現していた。その後19世紀 に西洋においてパーニニとインド文法家の存在に気づき,ようやく歴史文法研究の道が始 まったと言われる(マルティネ編[1972])。ビアルドーはパーニニについて「文法学者はあ らゆる意味作用を離れた語に関して操作を行う必要があると強調した最初の人であった」と 評する。「文法学派においてこそ,インドの理論は,言語自体に関心を持つという意味で,西洋の現代の言語理論に接近するように見える」とも述べる(ビアルドー[1987: 171])。ま た,19世紀から20世紀初頭のスイスの言語学者であるフェルディナン・ド・ソシュールは 言語の本質を求めて考察するなか,ラングなどの概念定義を示したが,サンスクリット語や サンスクリット文法研究がその探求に貢献したのではないかと想像がふくらむ。彼の博士論 文がサンスクリット語の絶対属格の用法に関するものであったのも含め,興味が尽きない。 さて,「カーラカ」の考え方はパーニニ文法学におけるハイライトの一つと称しても過言 ではないであろう。では「カーラカ」とは何か。その1つの答えが本章である。マティラル は「行為を完成させる要素」,「行為や動作の実現に役立つ要素」と理解する。他の代表的な 重要研究として,たとえば Sharma [2002],Cardona [1976; 1997],菅沼[1995],小川[1991; 1996],Kudo [1995],工藤[1997]が挙げられる。Sharma はサンスクリット表現(文)の意 味の中心にはクリヤー(行為)3)があるとし,行為の完成には参与者(participants),すなわ ちカーラカが要請されると述べる。Cardona は行為への直接参与者(direct participants in actions)をカーラカと説明する。菅沼では,「或る行為を為す者(動作主)」,「或る行為を完 成させる者」と説明される。小川は「行為を実現する要素」[1991],「行為参与者」[1996] と訳出している。工藤では,「カーラカ(kāraka)とは行為が達成される場合にその行為を 構成する様々な能働者を意味する文法概念である」と説明されている。ただし「行為」とい う訳語について,パーニニはカーラカを分類するにあたり,生物と非生物との区別をしてい ないことから,一般的な読者の感覚としては「行為」だけでなく「動作」や「状態の変化」 の完成に寄与する要素と説明した方がわかりやすいかもしれない。 文法学派では語句を構成する際の始発点を行為に置き,最も重要な要素は動詞で表現され る。他の要素は行為を実現させるものであり,名詞格語尾や動詞語尾で表現される。言語で 表現されるもの・ことの世界では,6つのカテゴリーを使って,行為完成への直接寄与者で あるカーラカを表す。そしてカーラカは言語表現において文法機能を表す名詞格語尾や動詞 語尾に反映される。ただし注意が必要である。カーラカは言語表現において名詞格語尾や動 詞語尾で表されるが,その逆に,特定の名詞格語尾はそのまま素直に対応するカーラカを意 味するかと言えば,そのように簡単には処理できない。カーラカは意味に基づくと言われる が,対応する言語表現においては動詞の制約を受けて統語上の文法操作が必要となる場合が ある。カーラカは意味と統語の両方に関わる。 インドでは古代から今にいたるまで,言語に対する深い洞察が連綿と続く。パーニニによ る文法体系の確立は,西洋や東洋に限らず現代においてことばに携わる者に大きな知的興奮 を提供してくれる。 本稿においては今まで以上に翻訳が煩雑になる危険性を孕んでいた。そこで,術語に関し ては,サンスクリット語の読みのままにしている。すなわち,「行為を完成させる要素」で
はなく「カーラカ」と表している。また,術語を強調しない限り,括弧も外している。カー ラカのカテゴリーの役割についても,サンスクリット語表記のままとしているが,必要に応 じて,読者の便宜を考えカッコ内に日本語の説明を入れているときがある。読みづらさを最 小限にするよう心がけたつもりではある。しかし,「カーラカ」という表現が,概念を表し ているのか,言語で表現されるもの・ことの世界での一つ一つの行為完成要素なのか,それ とも文法機能なのか。それらの相違を明確にするため,表現や説明が込み入っているかもし れないことをお断りしたい。なお,原文中サンスクリット語で表されている例文を訳す場 合,不自然な日本語にならない限りサンスクリット語の語順に従っている。必要に応じて, 日本語に対応するサンスクリット語を括弧内に示している。 最後に,翻訳するにあたり,訳出表現や解説において誤った理解をしている場合,訳者の 責任であることは述べるまでもない。
第1部 一般的論題
第5章 「カーラカ」理論 Ⅰ 「カーラカ」の考え方はパーニニ文法学体系の中心テーマの1つである。「『カーラカ』説 はパーニニの派生体系の基礎である」と説明される(Cardona [1976: 215])。カーラカはパー ニニにより定義されていないが,P.1.4.23 kārake は表題規則と理解されている4)。続いて6 種類のカーラカが述べられる。アパーダーナ(分離という行為における固定点)5),サンプ ラダーナ(行為の受益者)6),カラナ(行為手段)7),アディカラナ(行為の基体)8),カルマ ン(行為対象)9),カルトゥリ(行為主体)10)である11)。アパーダーナとサンプラダーナは西 洋文法における奪格と与格に対応すると言えるかもしれない12)。W. D. Whitney はカーラカ のカテゴリーを単なる「格の屈折形」と説明するが(Whitney [1893]; Staal [1972: 165]),私 は彼の捉え方を受け入れることを躊躇しているため,最初に対応表現の提示を控えてきた。 このような慎重な姿勢を持ちつつ,便宜上,アパーダーナに対しては奪格を,サンプラダー ナに対しては与格を適宜使っていく13)。 名称が示すように,カーラカは行為14)の完成に寄与する諸々の要素である。通常,1つの 行為・動作は,たとえば「patati」(∼が落ちる)のように,1つの動詞形式によって表現さ れる。落下という動作には,少なくとも3つ(あるいは2つ)の要素が求められる。「vṛkṣāt parṇam bhūmau patati」(木から一枚の葉が地面に落ちる)の場合,3つの要素が動作の完成 に寄与しており,それらは木,葉,そして地面である。パーニニ規則では,それぞれの要素 を特定のカーラカクラスに割り当て,前述の文を導き出す。分類は,行為完成に対して,それぞれの要素が果たす役割に基づいていると考えられる。葉は行為主体である。なぜならば 行為とは独立した関係にある(P.1.4.54 svatantraḥ kartā。「svatantraḥ」とは「独立している」 という意味である)15)。木は[葉が離れていく]「固定の」出発点(P.1.4.24)であり,アパー ダーナと呼ばれる。地面は落ちていく葉の「アーダーラ」(基体)(P.1.4.45)であり,アディ カラナと呼ばれる16)。同様に,「rājā viprāya sva-hastena dhanam dadāti17)」(王はバラモンに自 らの手で富を与える)の表現では,行為主体(王)の他に,与えられるカルマン(対象であ る富。P.1.4.49),サンプラダーナ(受益者・受領者であるバラモン。P.1.4.32),そして与え るためのカラナ(道具である手。P.1.4.42)が表されている。カーラカの分類は,どの動詞 語尾そして名詞格語尾が導入されるかという条件を示すためである。それぞれのカーラカは ある程度意味も考慮されているが,サンスクリット語の一般的な統語体系とも関連する。一 旦,各項目を分類するためにカーラカのカテゴリーを当てはめれば,このような条件のもと ではこのような項目に対して接辞を導入するといった,文法規則を系統立てて説明すること が容易になる。たとえば,カルマン(対象)の場合,(特記がない限り)第2格語尾の1つ である「-am」(単数形)で表される。また,カラナ(道具)の場合,第3格語尾の1つで ある「-ṭā」(単数形)が付加される。 Ⅱ 最近は前述したカーラカカテゴリーの細かな関係について異議が唱えられている。言語外 の問題であり,論理や観念形成化の問題と主張する者,あるいは純粋に意味論の問題とする 考えもある。また,統語論にも関係するとの主張もある。しかし,これらの論争は非生産的 と考える(Cardona [1976: 215‒24])。まず,パーニニは意味に基づいてカルトゥリ,アディ カラナ,カルマンなどのカーラカカテゴリーを定めた。その後,統語などを考慮し,それぞ れのカテゴリーの範囲を拡大させる規則をさらに多く作り上げた。たとえば,P.1.4.45では, 行為に関連する基体はアディカラナと述べられている。しかし,P.1.4.4618)において,次の 条件のもとでは,カルマンと述べられている。すなわち,特定の動詞に特定のウパサルガ (動詞前綴り)19)を付加する条件である(たとえば,「śī」,「sthā」,「ās」に動詞前綴り「adhi」 を付加して「adhi-śī」(横たわる),「adhi-sthā」(立つ),「adhi-ās」(座る)となる)。 1. grāmam adhitiṣṭhati:(彼は)村に滞在している。 2. grāme tiṣṭhati:(彼は)村に滞在している。 事例1の村(grāma)はカルマンに割り当てられ,事例2ではアディカラナに分類され る20)。このことから,カルマンやアディカラナのようなカーラカのカテゴリーは,純粋に意 味論上の術語として定義されたのではないことが少なくとも分かる。パーニニがサンスク リットという言語を説明する際,自身の説明を容易にするための便宜的手段として,カーラ
カのカテゴリーを導入したのではないかと考える(カーラカのカテゴリーがラテン語あるい は西洋文法の「格」とは厳密に異なるということは明らかである。たとえば,西洋文法の属 格はカーラカではない21))。具体的には,ある意味の関係を表すとき,どの接辞を導入する かを説明しているのが,カーラカのカテゴリーである。他の様々の要素を含めるためには, 意味に基づく狭義のカテゴリーが(パーニニが行ったように)拡大されなければならず,そ うでなければ,文法の捉え方は異なっていなければならない。カルトゥリのカテゴリーにつ いても同様な便宜上の計らいにより,感覚生物であるカルトゥリとそうでないものとの区別 を無視することになったのかもしれない。人間(たとえば「devadatta」)であろうが斧 (paraśu)であろうが,両方共にカルトゥリのカテゴリーであり,同じ分析と派生操作が行 われる。
Devadattaḥ vṛkṣaṃ chinatti:デーヴァダッタは木を切る。 Paraśur vṛkṣaṃ chinatti:斧は木を切る。
パーニニとパーニニ学派が「シャブダプラマーナカーハ」22)(シャブダを正しい認識手段と 認める人々)であることはよく知られている。パタンジャリは次のように述べる(頻繁に引 用されている)。「私たちは『シャブダ』(ことば)の権威を認める。『シャブダ』が『伝え る』ことに,私たちは(ものごとを決める際に)依拠する」23)。文法学は存在論(あるいは 意味論。すなわち,ものやできごと)に主眼をおくのではなく,人々が実際に述べる表現に 関わる,とこのように理解する。すなわち,ものやできごとについて人々がどのように表現 するかに主眼をおいている。パーニニによるカーラカのカテゴリーは,この考え方にぴった り適合する。故に「sthālī pacati」(大釜が料理する)のような表現方法を簡単に説明するこ とができる。言うまでもなく大釜は料理が行われる土台であり,料理をする行為主体ではな い。しかし,哲学的には,大釜は料理という行為に寄与する要素であり,大釜になんらかの 作用因を割り当てることは可能である。 カーラカのカテゴリーの本質は統語に関わっているのか,あるいは意味に関係しているの か,この論争については,かなり昔に巻き起こった論理学者(ニヤーヤ学派)と文法学者と の間の論争の焼き直しと捉えることもできる。[パーニニ学派が]「シャブダプラマーナカー ハ」であるのに対して,ニヤーヤ学派は「アルタプラマーナカーハ」24)(アルタ,すなわちも のやできごとを正しい認識手段と認める人々)である。ニヤーヤ学派の関心は世界のあり方 (あるいは,世界のあるべき姿)にあり,人々が世界をどのように表現するかには特に興味 を持っていない。ニヤーヤ学派は人々の言語表現の分析を通して知見を得てはいるが,彼ら の関心が意味論,存在論,そして認識に関する問題にあるのは確かである。カーラカのカテ ゴリーについて,ヴァーツヤーヤナ(350年)25)は中観派26)による論理学者批判に応える際 に論じている。論理学者は「プラミティ」(正しい認識),「プラマートゥリ」(正しい認識
者),「プラメーヤ」(知られるべき正しい認識対象),「プラマーナ」(正しい認識手段)を区 別するが,中観派はこれを批判した。これらの区別は,文法学者の術語で言うと次のように なる。「プラミティ」とは「行為」(動詞の意味)であり,他の3つは3種のカーラカであ る。すなわち,「プラマートゥリ」は「カルトゥリ」(行為主体),「プラメーヤ」は「カルマ ン」(対象),そして「プラマーナ」は「カラナ」(手段)である。この区別(文法学および 論理学の両方で広く普及していた)について,ナーガールジュナ(大乗仏教中観派の始祖) は恣意的と断じた。なぜならば,同じ項目が言語表現により「カルマン」(対象)になった り「カラナ」(手段)となり得るからである。さて,ヴァーツヤーヤナはこれを受けて,根 本的なカーラカの分類はものに存在する性質(力)に基づいており,ものには数々の力があ り得ると応えた。言い換えるなら,カーラカの分類は諸々のものの分類ではなく,ものに存 在する諸々の力の分類である。『ニヤーヤ・スートラ』2.1.16からヴァーツヤーヤナのこと ばを以下に引用する。 (すべての)カーラカの術語27)は何らかの理由が発生することで適用される。たとえば, 「(そこに)木が立っている」の場合,木は行為主体である。なぜならば,立つという行 為に関して木には「非依存性・独立性」(P.1.4.54)がある。「(彼が)木を見る・見てい る」の場合,木は(行為主体により)見られるという行為を通して「実に望まれてい る」ので,木はカルマン(対象)である。「(彼は)木の傍にある月をさししめす」で は,木は月を見せるための「主要な道具」であるが故に,木はカラナ(主要な道具)で ある。「(彼は)木に水をやる」の場合,木は散水という行為の「恩恵を受けるもの」で あるから,木は恩恵を受けるものあるいはサンプラダーナ(受益者)である。「葉が木 から落ちる」では,木は離脱が意図されている時の動かぬ点だから,木はアパーダーナ (固定の出発点)である。「カラスが木に住んでいる」の場合,木は住むという「行為」 に関しての土台だから,木はアディカラナ(基体)である28)。このように,カーラカと はものそのものでもなければ,行為そのものでもない。では,カーラカとは何か。もの が行為に寄与するとき,あるいは特定の機能的活動をするとき,ものはカーラカにな る。行為から独立しているものがカルトゥリ(行為主体)であり,ものそのものでもな ければ,行為そのものでもない。(カルトゥリによって)最も望まれるものがカルマン (対象)であり,ものそのものでもなければ,行為そのものでもない。その他カラナ (手段)等,このように説明されるのがもっとも適切である。諸々のカーラカのカテゴ リーはこのように適用される。カーラカのカテゴリーは,ものそのものに対しても,行 為そのものに対しても適用されない。では何に対してか。ものが行為に寄与するとき, そして特定の機能的活動をするとき,そのものに対して適用される。
ヴァーツヤーヤナは明らかに「一次的」意味における6種のカーラカカテゴリーを述べた 6つの主要な規則に言及しているが,「拡大された」あるいは「二次的」意味に関しては無 視している29)。これらの主要規則では,カーラカカテゴリーの意味上の基準が最も重視され ている。しかし,前述したように,パーニニによるカーラカカテゴリーの適用には他の要素 も考慮されている。たとえば,動詞語根に特定のウパサルガ(動詞前綴り)を付加すると, アディカラナ(基体)からカルマン(対象)に変わる(P.1.4.4630))。この場合,パーニニ学 派によれば,同じ「村」(II の事例1と2を参照)にはアディカラナとカルマンの両方を顕 現させる力がある。2の事例では[行為に関連した]アディカラナであり,1の事例ではカ ルマンである。付帯条件(この場合は,特定のウパサルガの存在)によって,いずれの力が 支配的になるかが決定する。ここでの教訓は,言語使用が文法理論を決定づけるべきであ り,意味が決定づけるのではない。パタンジャリの「シャブダプラマーナカーハ」の考えが ここで再び正当化される。 Ⅲ カーラカの「本質」について,すなわち「『カーラカ』とは何か」の問いにパーニニは明 確に答えていない。パタンジャリは P.1.4.2331)を次のように注釈し,その具体的な使用法の 理 解 に 役 立 た せ た。「 行 為 を 実 行 す る も の, そ れ は 行 為 を 成 就 さ せ る 」(karoti kriyāṃ nirvartayati)と説明される。したがってカーラカは実行者(a do-er)であり,行為者(an actor)であり,それ故に行為への関与者(a participant)である。しかしながら曖昧である。 文法学と論理学の伝統では広く,カーラカは一般的に次のように理解されるべきと述べられ る。 1 つ は「 ク リ ヤ ー ニ ミ ッ タ 」(kriyānimitta), も う 1 つ は「 ク リ ヤ ー ヌ ヴ ァ イ ン 」 (kriyānvayin)である。前者は動詞で表現される行為(クリヤー)の原因となる要素(ニミッ タ)であり,後者は動詞で表現される行為と統語上繋がる要素(アヌヴァイン)である。い ずれの定義も「クリヤー」という語の曖昧さを利用している。クリヤーは行為(あるいは少 なくも動詞の意味)を表しているとも,あるいは単に動詞の形式,統語上の表現形式を表し ているとも捉えられる。考えるに,前者の定義は意味,すなわち行為に依存している。後者 の定義は動詞の形式に依存している。もしこの理解が正しければ,この2つの定義のうち前 者には意味論的含意があり,後者には統語論的含意があると言えよう。さらに微妙な点があ る。クリヤーには術語としての顔がある。つまり,ダートゥ(語根)の意味である行為が暗 示される。ところが,ダートゥの中には実体を表すものがある。ダートゥとは,パーニニ文 法に付属している『ダートゥパータ32)』のダートゥ(dhātu)リストにある項目である。さ て,リスト内のダートゥの中には行為ではなく実体を表すものがある。たとえば,「gaḍi」 は「顔の一部」を意味する。「gaṇḍati kapolam」33)は動詞と名詞から構成される文だが,「頬
とは顔の一部と一致するものである」と理解される。「gaṇḍati」は動詞を示しているが,元 来は行為ではなく実体(顔の一部)を表す。しかし,このような項目はクリヤーと呼ばれる べきである34)。したがって頬はクリヤーに寄与するカーラカである。ここで,このサンスク リット語の例文には同一性を表す「be 動詞[に該当するもの]」がないことに注意しなけれ ばならない。動詞と名詞から成立しているが,明らかに両方とも同じ対象を示している。 問題はさらにある。もしカーラカが「実行者」を意味するならば,カルトゥリ(行為主 体)と同義であり,他のカーラカは不要になる。バルトリハリ(450年)は次の方法でこの 問題を回避する。カーラカを表すすべての要素は,ある意味,主行為の完成に向かって何ら かの機能を果たしている。デーヴァダッタが料理しているとき,料理という主行為は一定の 時間に渡る一連の作用である。まきは調理のために燃え,鍋は調理される米の容器となり, 米粒は調理過程において柔らかく煮える。それ故に,大まかに捉えると,それら(まき, 鍋,米粒)はすべて行為主体として機能している35)。すなわち行為者性によって特徴づけら れているのだ。ただ,主行為の完成に向かって果たすそれぞれの役割および機能の違いを考 えると,それぞれをカラナ(手段)と呼んだり,アディカラナ(基体)と呼んだり,カルマ ン(対象)と呼ぶ(Bhartṛhari, III. 7. 18)。 カーラカを単に行為を生み出す要素と定義するならば,その意味論的側面を強調すること になり,行為動詞と(統語的に)結びつけられるものと定義するならば,その統語論的もし くは文法機能面を強調することになる。しかし,これらの定義はいずれも批判されている。 行為とカーラカとの間の因果関係36)は広義に捉えられるべきであり,その結果,直接的な関 係と間接的あるいは「連鎖的」な関係の両方が含まれなければならない。そうでなければ, 行為主体あるいは手段のみがカーラカと呼ばれることになる。サンプラダーナ(受益者・受 領者。西洋文法における与格)やアパーダーナ(固定の出発点。西洋文法における奪格)は 間接的に行為に寄与しているに過ぎない。ただし,因果関係の概念を広くとり,直接的およ び間接的関係の両方を含めてしまうと,是認し得ないことが出てきて,アティヴヤープタ (ativyāpta)である。カーラカに関しては,西洋の格文法とは相容れない独特な考え方がも う1つある。いわゆる属格(パーニニ文法の術語では「シェーシャ」すなわち残余[の関 係])はカーラカではない37)。この点について説明することで,カーラカの概念がさらに明 らかになろう。カーラカはドラヴヤ(実体)と行為との関係を強調している。シェーシャは ドラヴヤとドラヴヤの関係である。たとえば,「チャイトラの富」や「チャイトラの息子」 のように,所有性あるいは親性という関係である38)。ここで注意すべきは,カーラカとの対 比におけるシェーシャと,どちらの関係も表す第6格語尾(ṣaṣthī vibhakti)である。たとえ ば,「Rāmasya putraḥ」(ラーマの息子)の場合,第6格語尾39)はシェーシャ関係を表してい る。他方,「Rāmasya gamanam」(ラーマが行くこと)や「jalasya pānam」40)(水を飲むこと)
の場合,第6格語尾はカーラカ関係を表しており,前者はラーマの行為主体性を表し,後者 は水の対象性を表している。ここでは使用に厳密さがない。さらに,話者が特定のカーラカ 関係ではなく,単に一般的なカーラカ関係を強調したいとき,たとえばカルマン(対象)を 表すのに第6格語尾が使われたりする41)。いずれにしろ,シェーシャ関係とカーラカ関係の いずれも第6格語尾で表現されるとしても,この2つの関係は区別すべきとの理解は共有さ れている。統語の視点からみると,シェーシャ関係を表すために第6格語尾が求められ,名 詞あるいは代名詞同士を結びつける。しかし,カーラカ関係を表す場合,第6格語尾が求め られのは動詞に名詞あるいは代名詞を結びつけるときである。 上記の広義の解釈については次のように説明できるであろう。たとえば,「Caitrasya taṇḍulam pacati」(チャイトラの米を調理する)では,チャイトラはいかなるカーラカにも分 類されない。チャイトラはシェーシャ(残余)である。しかし,少し巧妙に考えれば,チャ イトラと[行為である]調理との間に広義の因果関係の適用を主張することができる。すな わち,チャイトラがカーラカでなければ42),調理人はチャイトラの米を調理できないではな いか(たとえば,チャイトラは米の所有者で,[調理人である彼に]調理の許可を与えたの かもしれない,といった関係が想定される)。このようになると,因果関係に基づく定義は 広すぎる。あるいは,チャイトラは動詞形式の「pacati」と統語上で直接結びついていない, すなわちアヌヴィタ(anvita)ではないので,統語的関連性に基づく2つ目の定義には過失 がないと言えるか。そうではない。カーラカの説明に「直接的な統語関係」を含めることは できない。パーニニの P.2.3.51∼ P.2.3.5643)の規則では,カルマンやカラナのような特定の カーラカが非カーラカであるシェーシャに変換される条件(統語など)が述べられている。 たとえば「mātuḥ smarati」44)(母を覚えている)と「sarpiṣo jānīte」45)(ギーであるかのように儀 式を行う)の場合,母(mātṛ)やギー(sarpis)を意味する語は,それぞれの動詞と直接の 統語関係がある。しかし,[パーニニの P.2.3.51∼ P.2.3.56の規則にしたがい]両方ともシェー シャ,すなわち非カーラカと理解され,それ故に第6格語尾で表されている。「直接」とい う語によって統語関係を示す場合,重複は避けられない。他方,「直接」という表現の代わ りに,「直接または間接」とも「統語関係がない」とも述べることもできない。「Rāmasya putram abhivādayate」(ラーマの息子を歓迎する)の場合,第6格語尾で表される「Rāmasya」 (ラーマの)は,少なくとも息子を表す語「putram」を通して動詞と間接的に結びついてい るからである。これは広義の解釈の異なる例である。この場合の「Rāma」は非カーラカで あり,シェーシャに分類される。 Ⅳ 15・16世紀の新ニヤーヤ学派は,この問題から逃れる方法を考案した。バヴァーナン
ダ46)に従い説明しよう。カーラカとは,一次的意味と二次的意味の両方において,「ヴィバ クティ」(いわゆる格語尾)の意味を介して行為動詞と統語的に結びつけられるもの(アヌ ヴァイン)と理解されるべきである。つまり,それぞれのカーラカのカテゴリーは,意味と 文法上の接尾辞との媒介者であることは明らかである。バヴァーナンダによれば,一次的 カーラカとは行為の完成に明確に寄与する要素であり,ヴィバクティの意味を介して動詞形 式と統語的に結びつく。二次的な場合,様々な統語上および他の判断事項によってカーラカ のカテゴリーが決まる。たとえば「cakṣuṣā paśyati」47)(眼で見る)の場合,眼(cakṣus)は行 為完成に明らかに寄与している。それに対して「ghaṭam jānāti」(壺を知っている)の場合, 見方によっては,壺(ghaṭa)は厳密には認識を生み出す要素とはならないかもしれない。 すくなくとも,統語的に行為動詞と結びついているということはでき,第2格語尾の「-am」 の意味が媒介者である48)。 「格語尾の意味を媒介者として」との条件を加えた理由は全く明らかではない。バヴァー ナンダは,この条件により,副詞との重複が避けられると信じていた。たとえば「stokam49) pacati」((彼は)少しだけ料理をする)の場合,「stoka」は第2格語尾「-am」をとっている が,このような副詞的な接辞は何も意味を表さないとする考えもある。単に語幹を有用なパ ダ(語)に変えるために使われているに過ぎない50)。故に,バヴァーナンダの示した条件 は,副詞をカーラカの範囲から除外するために必要である。他方,副詞は形容詞もしくは動 詞の限定詞として扱われるべきとの考えもある。副詞的接辞は同一関係(アベーダ)を表示 し,限定されるものと同一である。そうなると,形容詞のような副詞はカーラカとして扱わ れる。すると,[副詞を除外するための]先ほどの条件は必要とされない。また別の考えで は,バヴァーナンダの示した条件はクリティ(kṛti)すなわち努力・意欲を除外するために 必要である。そうでなければ動詞語尾の意味としての「クリティ」は[カーラカの]定義の 中に含まれてしまうというのがニヤーヤ学派の考えである51)。いずれにしろ,バヴァーナン ダの提示した条件をうまく説明することは難しい。 カーラカを定義する主目的は,非カーラカの関係を除外することである。非カーラカは シェーシャ(残余)と呼ばれ,通常第6格語尾で表される。統語的には,シェーシャを表す 語,より正確に言えば第6格語尾が添えられる語も動詞形式と結びついている。たとえば 「Caitrasya pacati」(チャイトラの(米を)調理する)の例が示している。そのうえで,バ ヴァーナンダは最終的に次のように結論づけている。「『カーラカ』とは,行為動詞と統語的 に結びついたもの(アヌヴィタ)であり,次の6つの性質あるいは力のいずれかが与えられ ている。すなわち,行為主体性,対象性,手段性,受益者性,出発点性,そして基体性であ る。」ここで重要な術語は「アヌヴァヤ」(anvaya)である。この術語には曖昧な使われ方が あるが,文法あるいは統語上の項目同士の統語関係を表すと理解している。と同時に,文法
と他の項目の意味の関係も表すかもしれない。名詞語幹の動詞形式に対する統語関係を強調 したくない場合,非カーラカの関係が選択される。たとえば「daṇḍena ghaṭaḥ」(棒によって 壷は(作られる))では,行為を表す動詞との明示的関係がないため,棒(daṇḍa)は単に 「ヘートゥ」(hetu)すなわち原因と呼ばれ,カーラカとはみなされない。パーニニは,
P.2.3.23において,第3格語尾を特別に説明している52)。他方,「daṇḍena ghaṭaḥ kṛtaḥ」(棒に
よって壺は作られた)のように,動詞との統語関係が明確に示されている場合,手段性とい う関係は第3格語尾で表現されるとの通常の規則にしたがい,棒はカーラカとなり,カラナ を表す。 パーニニに限らず,母語話者もカーラカの概念を理解していたと考えられる。しかし, カーラカを定義したり,ラクシャナ(lakṣaṇa),すなわち6種のよく知られたカーラカにの みある特別な徴候を特定することはほぼ不可能である。この直感的なものを説明するために 様々な説明が試みられてきたが,全く成功していない。バヴァーナンダが最終的に到達した 結論では,まず6種のカーラカの力を個別に挙げ,そのいずれについてもカーラカの術語を 使う根拠(ニミッタ)があることを述べる。哲学において,これらの6種の力をカーラカと いう表題の下にまとめることができる,と直感的に述べることは珍しいことではない。だ が,広義の解釈や狭義の解釈に決して陥らないように,この直感を完全に誤りなく説明し, 論理的に定義することは難しい。それでも,さまざまな定義を立て,それらを検証しようと する試みから,カーラカとは何かについての考えを導き出すことはできるであろう。 翻訳註 1) ヴァラダラージャ(17世紀)著。パーニニのスートラの最も基本的な規則(約1,300のスート ラ)が解説されている。詳細は高崎[1959]。 2) 知的活動に精通した職能人(フィリオザ[2006] )。
3) “Dictionary of Pāṇinian Grammatical Terminology”(Roodbergen [2008])では,『マハーバーシュ ヤ』(パーニニの『アシュターディヤーイー』とカーティヤーヤナの『ヴァールッティカ』に 対する補注・注釈)に言及し,「kriyā」(クリヤー)とは「action(as the meaning of a verbal base)」である。たとえば,「īhā」(努力),「ceṣṭā」(動き),「vyāpāra」(諸々の活動)による。 4) 「P」は『アシュターディヤーイー』すなわち『パーニニ・スートラ』を表す。アディヤーヤ (巻),パーダ(章),スートラ(規則)から構成されている。そして規則は大きく4種類に分 けられる。すなわちサムジュニャー(定義),パリバーシャー(メタ規則),アディカーラ(表 題),そしてヴリッティ(操作規則)である。 P.1.4.23は『アシュターディヤーイー』の1巻,4章,23規則で参照される。P.1.4.23 kārake と は「カーラカのもとに」という表題規則であり,これ以降の規則で6つのカテゴリーが述べら れる。問われるのは,なぜ「kārake」と第7格語尾で述べられているか。複数の解釈があり,
論ぜられてきた。詳細については,Sharma [1990: 229‒234],Cardona [1997] を参照。
5) P.1.4.24 dhruvam apāye’pādānam「分離における固定点はアパーダーナである」。第5格語尾で 表現する。
6) P.1.4.32 karmaṇā yam abhipraiti sa sampradānam「行為の受益者・受領者はサンプラダーナであ る」。第4格語尾で表現する。
7) P.1.4.42 sādhakatamaṃ karaṇam「特に行為の完成をもたらす手段はカラナである」。第3格語尾 で表現する。
8) P.1.4.45 ādhāro’dhikaraṇam「行為の基体はアディカラナである」。第7格語尾で表現する。 9) P.1.4.49 kartur īpsitatamaṃ karma「行為主体が最も求めるもの・目的・対象はカルマンである」。
第2格語尾で表現する。 10) P.1.4.54 svatantraḥ kartā「行為に対して独立している・非依存的であるものはカルトゥリであ る」。第1格語尾で表現する。 11) 規則の順番については Sharma [1990: 234] を参照。 12) カーラカを西洋文法機能に対応させるのは危険である(Ganeri [2006])。パーニニ文法学では 数字を使って名詞の格語尾を表している。すなわち,第1格語尾∼第8格語尾と呼び,主格∼ 呼格という表現を使わない。数字で表すことによりカーラカの意味的役割と混同せずに済む。 たとえばサンスクリット文において,行為主体は動詞語尾で表現され,第1格名詞と同一関係 にある。また,名詞と名詞が並列されている場合,いずれかの名詞は述語を表している。第6 格語尾についても注意が必要である。あえて他の印欧語の格の呼び方と対応させるならば属格 となろう。しかし,属格は所属や所有の関係を表すが,サンスクリット語の第6格語尾は非 カーラカの所有関係を表す場合と動詞で表現される行為に寄与する要素としてのカーラカ関係 を表す場合がある。後者の場合,「属格」という術語を使うのは不適切である。 13) 原文では,カラナ,アディカラナ,カルマン,カルトゥリについて,順に具格,処格,対格,主格 と括弧内に対応表現を示しているが,アパーダーナとサンプラダーナについては載せていない。 14) 原文は「action」。カーラカを「行為を完成させるもの」,「行為や動作の実現に役立つもの」と 理解する前提上,基本的に「行為」と訳している。しかし,のちに説明されるように,パーニ ニはカルトゥリのカテゴリーについて,生物と非生物とを区別していない。文脈により「動 作」「動き」と訳した方が自然な場合がある。 15) 原文では6つのカーラカカテゴリーを紹介する際,カルトゥリを「agent」と括弧内で説明し ている。そして,当該箇所では「the leaf is the agent」と英訳されている。すると「葉」はカル トゥリとなる。他方,P.1.4.54は「行為に対して独立している・非依存的であるカーラカはカ ルトゥリである」という規則である。この規則では,カルトゥリは他のカーラカの関与に依存 する必要がない,と述べられている。たとえば「devadattaḥ sthālyāṃ pacaty odanam agninā」 (デーヴァダッタは鍋で火を使ってポリッジを料理する)の場合,基体のアディカラナ (「sthālyāṃ」は第7格語尾を持つ),対象のカルマン(「odanam」は第2格語尾を持つ),手段 のカラナ(「agninā」は第3格語尾を持つ)はあくまで行為完成に寄与する役割がある。他方, 行為主体無くしていかなる行為も完成しないということからも,カルトゥリの非依存性・独立 性が示される(Sharma [1990: 268‒270])。また,動詞「pacaty」の語尾「-ti」がカーラカを表し ている(この場合はカルトゥリ)。動詞語尾はプラトヤヤと呼ばれ,条件や因果関係を示す。
第2章にあるように,動詞語尾は行為主体が動作完成という結果をもたらす因子であることを すでに示していると考えられる(加藤[2015])。また,能動態文ならば,動詞語尾はカルトゥ リを表し,受動態文ならばカルマンを表すとも説明できる。したがって実際の人間であるデー ヴ ァ ダ ッ タ と カ ル ト ゥ リ の 関 係 は ア ベ ー ダ(abheda) す な わ ち 同 一 関 係 で あ る。P.2.3.46 prātipadikārthaliṅgaparimāṇavacanamātre prathamā と述べられるように,第1格語尾は,名詞の 語幹の意味のみ,性のみ,量のみ,あるいは数のみが表示される時に導入される。 では,動詞語尾がカーラカを表しているのならば,語根の意味は何か。次のように説明される (Sharma [ibid: 254])。文法学において動詞の語根は2つのもの・ことを意味する。すなわち, 行為完成過程中の諸々の活動である「ヴヤーパーラ」(vyāpāra)と行為の結果である「パラ」 (phala)である。前者は完成されるべきもの・ことである「サードヤ」(sādhya)と呼ばれ,後 者は完成されたもの・ことである「シッダ」(siddha)とも呼ばれる。たとえば他動詞の語根 で表される行為においては,カルトゥリはヴヤーパーラの存在する基体とみなされる。対し て,カルマンはパラの基体とみなされる。 後半にバーヴァーナンダ(新ニヤーヤ学派)の見解が述べられるが,文法学派との比較におい て他学派(ニヤーヤ学派や新ニヤーヤ学派)の行為主体概念については,Matilal [1991],工藤 [1997] を参照されたい。
16) 「vṛkṣāt parṇam bhūmau patati」のカーラカと対応する文法機能は以下のように説明される。ア パーダーナは落下の出発点である木であり,「vṛkṣāt」と表現される(男性名詞「vṛkṣa」の単 数形,第5格語尾を持つ)。アディカラナは落下の基体である地面であり,「bhūmau」と表現 される(男性名詞「bhūmi」の単数形,第7格語尾を持つ。行為主体は「parṇam」(中性名詞 「parṇa」の単数形,第1格語尾を持つ)と表現される(P.2.3.46)。カルトゥリは語根「pat」の
3人称,単数,現在形の語尾「-ti」で表現され,「patati」となる。
17) 「rājā viprāya sva-hastena dhanam dadāti」のカーラカと対応する文法機能は以下のように説明さ れる。行為主体は「rājā」(男性名詞「rājan」の第1格語尾を持つ)と表現される。サンプラ ダーナは「viprāya」(形容詞「vipra」の第4格語尾を持つ),カラナは「sva-hastena」(男性名 詞「sva-hasta」の第3格語尾を持つ),カルマンは「dhanam」(中性名詞「dhana」の第2格語 尾を持つ)と表現される。カルトゥリは語根「dā」の3人称,単数,現在形の語尾「-ti」で表 現され,「dadāti」となる。 18) P.1.4.46 adhiśīṅsthāsāṃ karma「adhi が動詞『śī』,動詞『sthā』,動詞『ās』の前に付加されると, 基体を表すカーラカはカルマンである」 19) 加藤[2016]を参照。 20) 事例1の「grāmam」単数形,第2格語尾を持ち,事例2の「grāme」は単数形,第7格語尾を 持つ。 21) あえて属格に対応させるならば第6格語尾であろうが,第6格語尾はカーラカ以外の関係も表 す(P.2.3.50 ṣaṣṭhī śeṣe)。たとえば,「rājñaḥ puruṣaḥ」(王の家来)の「rājñaḥ」は単数形,第6 格語尾を持ち,「puruṣaḥ」との関係は所有者と被所有者である。カーラカは行為完成寄与者の 役割を果たすため,この場合の第6格語尾はカーラカを表さない。
22) 「śabdapramāṇakāḥ」の直訳は,プラマーナ(正しい認識手段)を持つもの,それはシャブダで ある。
23) パタンジャリの『マハーバーシュヤ』の最初の章である「パスパシャー・アーフニカ」では功 徳 と こ と ば の 知 識 お よ び 使 用 の 関 係 が 述 べ ら れ て い る。 そ の な か で,「śabdapramāṇakā vayam. yac chabda āha tad asmākaṃ pramāṇam」(我々はことばの権威に従う。ことばが[何かに] 言及するとき,それは我々にとって権威である)と説かれる。 24) 「arthapramāṇakāḥ」の直訳は,プラマーナ(正しい認識手段)を持つもの,それはアルタである。 25) 4∼5世紀のニヤーヤ学派の学匠。この派の根本経典である『ニヤーヤ・スートラ』に対する 『注解』を著した。 26) 150∼250頃のナーガールジュナ(龍樹)を始祖とするインド大乗仏教の学派。その中心は空 思想にある。 27) 6つのカテゴリーを使って,カーラカを表している。 28) 木がカルトゥリとされる理由は木に存在する「非依存性・独立性」,カルマンとされる理由は 木に存在する「対象性・望まれている性質」,木がカラナとされる理由は木に存在する「手段 性」,木がサンプラダーナとされる理由は木に存在する「受益性」,木がアパーダーナとされる 理由は木に存在する「∼から離反する固定地点性」,木がアディカラナとされる理由は木に存 在する「基体性」であると理解され,木に存在する性質の違いがカーラカカテゴリーの違いと 述べている。 29) Matilal [1991] を参照。 30) P.1.4.46 adhiśīṅsthāsāṃ karma(前掲)。 31) 「kārake」という規則(前掲)。 32) パーニニに帰せられるかどうか不明(Roodbergen [2008])。 33) 「ganḍati」は語根「gaṇd」に3人称,単数,現在形の語尾が付いている。「kapolam」は男性名 詞「kapola」に単数形,第2格語尾が付いている。直訳すれば「頬を装う」となる。 34) ダートゥ(語根)の意味である行為が暗示されている。 35) 「sthālī pacati」(大釜が料理する)において,語根「pac」によって表される行為には,火をつ けること,鍋を火にかけること,鍋の中身(たとえば米)を水に浸すこと,鍋の中身を調理す ることといった多くの動作が含まれている。行為の完成は鍋の中身の調理が完成することであ る。つまり,行為の完成以外の動作は補助的と考えられ,行為完成に寄与する要素である。他 方,補助的動作そのものの行為主体を考えた時,火は燃焼という行為の行為主体であり,鍋は 火にかかるという行為の行為主体と捉えることができる(Sharma [1990: 269])。 36) 行為の完成をもたらすカーラカ。 37) 第6格語尾使用について,パタンジャリは『マハーバーシュヤ』「パスパシャー・アーフニカ」 において次のように説明する。
atha vyākaraṇam ity asya śabdasya kaḥ padārthaḥ. sūtram. sūtre vyākaraṇe ṣaṣṭhyartho’nupapanaḥ. sūtre vyākaraṇe ṣaṣṭhyartho nopapadyate vyākaraṇasya sūtram iti. kiṃ hi tad anyat sūtrād vyākaraṇaṃ yasyādaḥ sūtraṃ syāt … atha vā punar astu sūtram. nanu coktaṃ sūtre vyākaraṇe ṣaṣṭhyartho’nupapanna iti. naiṣa doṣaḥ. vyapadeśivadbhāvena bhaviṣyati
(さて,文法学と[いう]このことばの意味は何か。規則である。文法学が規則ならば,第6 格語尾の意味が説明されない。文法学が規則ならば『vyākaraṇasya sūtram』での第6格語尾の 意味が適切でない。なぜなら,規則とは異なる他の規則の規則はあるのだろうか。(中略)あ
るいは,[文法学とは]規則であるべき。いやそうではない,「文法学が規則ならば,第6格語 尾の意味が説明されない」と[述べられた]。これは欠陥ではない。[あることばに本来は無 い]意味があるかのような存在によって[解決]するだろう) つまり「vyākaraṇasya sūtram」の「vyākaraṇa」と「sūtra」の対象を同じとすると,第6格語尾 使用が正当化されない。しかし,「vyākaraṇa」とは規則の本体であり,これによって発話が分 析されるものとの意味を与えれば,問題は解決される。これが「vyapadeśivadbhāva」の表す意 味である。その結果,「vyākaraṇa」と「sūtra」とは表示対象が異なることになり,第6格語尾 使用が正当化される。なお,「vyapadeśivadbhāva」については,Abhyankar and Shukla [1975], Joshi and Roodbergen [1986],和田[1993b],Unebe [2006] に詳しい。
38) P.2.3.50 ṣaṣṭhī śeṣe「残余を表す時,第6格語尾である」
「śesa」(残余)とは P.2.3.2 karmaṇi dvitīyā ∼ P 2.3.46 prātipadikārthaliṅgaparimāṇavacanamātre prathamā(P.2.3.2と P.2.3.46を含む)の規定範囲以外のものであり,第6格語尾の被指示物で ある。たとえば「rājñaḥ puruṣaḥ」(王の家来)の場合,「rājñaḥ」は単数形,第6格語尾を持ち (<男性名詞「rājan」),「puruṣaḥ」(男性名詞「puruṣa」の単数形,第1格名詞)との関係は所 有者と被所有者である。 P.2.3.2 karmaṇi dvitīyā とは「カルマンが説明されていない時,第2格語尾である」という規則 である。この規則は P.2.3.1 anabhite「他で述べられていない時」に従う。カーシカは P.2.3.1は 表題規則であり,格語尾導入の際にはこの規則が必ず考慮されなければならないと述べる。 P.1.4.49では,語幹に第2格語尾をつけるのはカルマンを表す時と述べられるが,P.2.3.1と P.2.3.2により,他の方法でカルマンが述べられていないという条件がつく。もしカルマンが既 に述べられていたら,格語尾を使って再びカルマンを述べてはならない。このように,P.2.3.1 は格語尾導入を制約する規則であり,格語尾が導入できるのは,被指示物が他の方法で述べら れていない場合である。たとえば,「Devadatta odanaṃ pacati」(デーヴァダッタはポリッジを 調理する)の場合,行為に寄与するカルマンは述べられていないため,第2格語尾が「odana」 に導入されている。他方,「Devadattena odanaḥ pacyate」(デーヴァダッタによってポリッジが 調理される)の場合,「pacyate」(語根「pac」の受動態)の動詞語尾「-te」によってカルマン が表されているため,格語尾を使ってカルマンを再度述べることができない。なお,P.2.3.46 prātipadikārthaliṅgaparimāṇavacanamātre prathamā とは「第1格語尾は,名詞語幹の意味のみ,性 のみ,量のみ,あるいは数のみが表示される時導入される」という規則である(Sharma [1995])。 39) 「Rāmasya」は単数形,第6格語尾を持つ(<男性名詞「Rāma」)。「putraḥ」は男性名詞「putra」 の単数形,第1格名詞。 40) 「gamanam」について,語根「gam」(行く)に kṛt 接辞の「-ana」が付いて中性名詞が作られて いる。「gamanam」は単数形,第1格名詞。「pānam」(語根「pā」。「飲む」という意味)も同様 に分析できる。「jalasya」は中性名詞「jala」(水)に単数形,第6格語尾が付いている。 41) Vasu [1906: 365] を参照。 42) 具体的には,「チャイトラがどういうわけか調理という行為に関与していなかったら」を意味 している。 43) 以下,規則を説明する。 ・ P.2.3.51 jño’vidarthasya karaṇe「語根『jñā』が『知る』の意味で使われない場合,カラナは第
6格語尾で表される」
・ P.2.3.52 adhīgarthadayeśāṃ karmaṇi「動詞が語根『adhī』(想起する),『day』(分配する),『īś』 (支配する)の意味で使われるとき,カルマンは第6格語尾で表される」
・ P.2.3.53 kṛñaḥ pratiyatne「何かの新しい性質が理解されるとき,語根『kṛ』(する・作る)の カルマンは第6格語尾で表される」
・ P.2.3.54 rujārthānāṃ bhāvavacanānām ajvareḥ「語根『jvar』を除き,動詞が語根『ruj』(苦しめ る)の意味で使われるときで,行為主体がバーヴァを表す場合,動詞のカルマンは第6格語 尾で表される」 ・ P.2.3.55 āśiṣi nāthaḥ「語根『nāth』が語根『āśī』(祝福する)の意味で使われるとき,カルマ ンは第6格語尾で表される」 ・ P.2.3.56 jāsiniprahaṇanāṭakrāthapiṣāṃ hiṃsāyām「語根『jas』,動詞前綴り『ni-』や『pra-』を 伴う語根『haṇ』,『naṭ』,『krāth』,そして『pis』が『損傷する』の意味で使われるとき,カ ルマンは第6格語尾で表される」 44) 「smarati」は語根「smṛ」の3人称,単数,現在形であり,「∼を忘れない」という意味で使わ れる時,P.2.3.52の規則にしたがう。カルマンである「mātṛ」(母)に第6格語尾「-uḥ」が導入 される。 45) 「jānīte」は語根「jñā」のアートマネパダ態,3人称,単数,現在形である。P.2.3.51に従い, カラナである「sarpis」(ギー)に第6格語尾「-aḥ」が導入される。例文が「sarpiṣo」と表記さ れているのは,サンディ規則(連声法)によるヴィサルガ(「-ḥ」)の処理であり,「-aḥ」が有 声子音の前で「-o」に交替している。 46) バヴァーナンダ・シッダーンタヴァーギーシャ。新ニヤーヤ学派の学者。ベンガルにおいて 16世紀頃には活躍していたと言われる。バヴァーナンダの統語論概念のうち行為主体性につ いては,工藤[1997]を参照。 47) 「cakṣus」に第3格語尾の「-ā」が添えられ(cakṣuṣā),カラナ(手段)が表される。 48) 「ghata」に第2格語尾「-am」が添えられている(ghaṭaṃ)。 49) 「stokam」は副詞(「少しだけ」の意味)とも,形容詞「stoka」(「少し」「小さい」の意味)に 第2格語尾「-am」が添えられているとも捉えられる。サンスクリット語では形容詞の第2格 単数形語尾が副詞として用いられる場合がある。その他,男性名詞の「stoka」(「一滴」の意 味)もあるが,文脈上選択されない。
50) P.1.4.14 suptiṅantam padam とは「sUP(名詞格語尾)あるいは tiṄ(動詞語尾)で終わる形式を パダ(pada)と呼ぶ」 51) ニヤーヤ学派では次の因果関係で行為が実現されると考える。すなわち「認識」(jñāna)→欲 求(icchā)→努力(prayatna, yatna)→行為(kriyā)。その中の「努力」と「意欲」(kṛti)は同 じ意味で使用され,動詞語尾で表現される。たとえば「caitraḥ pacati」という表現において, ニヤーヤ学派は動詞語尾の「-ti」はチャイトラに存在している努力を表していると考える。文 法学派の考え方については前述している。詳細は和田[1990; 1993a; 1993b],工藤[1997], Wada [2006]。 52) P.2.3.23 hetau「原因を表す時,第3格語尾が現れる」。この場合の「ヘートゥ」(hetu)は一般 的な意味における「原因」を表し,術語ではない。
原典文献
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