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佛教学研究 第67号 005山口, 大輔(意眞)「『提謂波利経』佚文補遺」

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全文

(1)

侠文補遺

(

)

はじめに

r&JII被 将 位s倹文繍述 ① 現在のところ﹃提相波利経﹄(以下 、 ﹃ 提 諦経 ﹄ ) の 本 文資 料としては 、 線本普隆氏 ( 一 八 九 八

i

一 九 八

O

)

が 主 に 時 ・府代の章疏から抄出した一二粂の侠文(いわゆ る 塚本侠文)と、牧田諦亮氏(一九二一

i

}

が同定した 四種の敦娘本が知られている。これらにより、それまで全くの未見であった﹃提朔経﹄も 、 そ の 全 貌がほぼ把握

-71ー

されるまでになった. しかしながら、依然としてその姿は完全でなく 、 更には、これらの敦 娘 本が﹁多くの諸師が引いた﹃提調経ヒ @ の異本である可能性も捨てきれないことから 、 今なお、新たな本文資料の増補が望まれている. ③ よって筆者は 、 両氏の時代には未運用であ っ た電子大蔵経を使用し 、 塚本 供 文にも教 壇 本にも未見の 倹 文(新 侠 文)を抄出することを目指した。そして 、 本 稿 が抄出した 侠 文によって知られる幾つかの新情報についても 言 及 し て お こ う と 思 う 。

(2)

第一章

問題の所在

『銀問波利経』侠文補遺 ﹃提謂経﹄には一巻本と二巻本の二種が存在したらしいが、 ④ 録﹄)の頃から散侠したままである。二巻本は、この一巻本に曇靖が五行五方思想を付加する形で撰述したもの ③ とされ、その目的は太武帝による廃仏(四四六)からの急激なる復仏にあった。﹃僧祐録﹄の頃より真経とされ 続けてきた一巻本とは裏腹に、二巻本はその撰述から五

O

年も経たぬ内から一貫して疑経として扱われるように ⑦ なる。とは言え、二巻本の伝播カや影響力は大きかったようで、一時は﹁提諸経会﹂ともいうべき熱心な信仰結 ⑧ ⑨ 社が形成されたり、智額・吉蔵・道宣らが引用するなどしている。内容的には、中国の習俗信仰を自ら積極的に 摂取・融合することで、三帰五戒受持や斎戒修善の必要性を説くものであり、後世の仏教に多大な影響を与えた 重要経典の一つと言える。 しかしながら、一巻本はおろか二巻本さえも長らく散侠していたためか、未解明の要素も多く残されている。 このうち、本稿が問題とするのは次の三点である。 一巻本は少なくとも﹃出三蔵記集﹄(以下、﹃僧祐 ﹃提閉経﹄は一巻本・ニ巻本ともに、白河本が今なお存在しない 一点目は、﹁﹃提謂経﹄は一巻本・二巻本ともに、完本が今なお存在しない﹂という問題である。これは、本稿 の主題が成立する前提でもある。一巻本は、前述の理由から完本は存在しないと言える。二巻本については、塚 ⑬ 本氏の時代にも完本は存在しなかったらしく、それから三

O

余年後に為された牧田氏の敦燈本同定によってさえ も、完本レベルの復元は果たされなかったのである。 第一節

(3)

牧田氏の同定した敦組本とは、二巻本の巻上と思われる毘吋路、巻下と思われる印

N C

E

、 その印

N

C

E

を短くし 五滅威儀の五六行を付した霜字一五号、

ω

呂田の一部とほぽ一致するが一二行と僅かな断簡である俄﹄ H O Z 勾 の四種である。これらにより、確かにその全貌がほぽ把握可能なまでに本文資料は大増補されたのであるが、 司勾おが巻首・巻尾欠であり、∞ NO 巴が巻首欠であり、霜字一五号や俄 b H O H a m斗が前述の通りのものであるか ⑪ ら、やはり完本は存在しないと言わざるを得ないのである。しかも、原典の何割程度がこれらによって明らかに されているかも定かではないのである。 rf是開波利経』侠文補遺 塚本倹文と敦姐本との対照は完了していない 二点目は、寸塚本供文と敦耀本との対照が完了していない﹂とい、ヲ問題である。一部の塚本侠文の敦 健本における存在確認が宙に浮いたままになっているのである。塚本侠文と敦燈本との対照は、牧田 [ 一 九 六

一73-第三筋 つ ま り 同

M

ω

ω M

を除く三つの敦娘本に限定してのことであった。それもそのはずで、同 v 忠信が牧 ⑫ 剛氏の目に触れたのは一九七三年のようであり、牧田[一九七二以前での対照は不可能だったのである。ただ、 一九七三年以降に発表された牧田[一九七六]でも、同 v ω 吋 ω N と塚本侠文の対照が新たに為された様子はなく 、 現 状では、塚本倹文二・三・五・六・一六・一七・一九についての対照結果が言及されているのみであ旬。 八]に為されているが、 ニ巻本﹃提閉経﹄はいつ散倹したのか 三点目は、コ一巻本の散供時期が解明されていない﹂という問題である。 第三節 一巻本の散供時期が少なくとも﹃僧 祐 録 ﹄ の撰述以前であったことは前述した通りであるが、二巻本については、その散侠時期に関する記述が経鎌 や意疏類に見えないことから解明されないままでいる。例えば、牧田氏による﹃提閉経﹄研究の集大成と言うべ

(4)

きものでさえ、﹁上述のように、枇舎によく信仰されていた提謂経がまったくその姿を中園の偽教界から消えさ

るのは何時ごろであるかは、あきらかにしがたい。﹂と述べている。また、牧田氏の研究を踏襲する諸氏の研究 でもこれを解明しようとするものはない。つまり学界では、この問題が未解明のまま放置されているのである。 右の三点が本稿の扱う問題であるが、本稿の為す倹文補遣は、それぞれの問題を解決する可能性を持っている と言える。すなわち本稿の為す侠文補遣は、完本の状態に少しでも迫るもので、また塚本侠文と敦娘本との対照 も作業上必然的に完了されることになり、ひいては二巻本散供時期の下限も特定し得るのである。 r拠開波やl続』倹文補選

第二章

倹文補遺

第一節 通常、学界で言う﹃提謂経﹄侠文とは、塚本侠文と俗称される一二条の侠文群を指す。これらは、陪・唐代の 章疏類に﹃提調経﹄引用箇所が度々見られる事を利用して、一九四一年に塚本氏が抄出したものであ旬。例えば 氏は、﹃法苑珠林﹄中の﹁又提謂経云。如有一人在須禰山上以織綾下之。一人在下持針迎之。中有旋嵐猛風。吹 ⑮ 綾難入針孔。人身難得甚過於是。又菩薩蕗胎経。世尊説偽云 : : : 略 : : : ﹂を典拠に、直線部を﹃提謂経﹄の侠文 (塚本侠文二)として抄出している。本稿も基本的にこれと同じ方法論をとるが、塚本氏のそれとは以下の四点 方法鎗 で 異 な っ て い る 。 ⑫ 第一は、電子大蔵経を使用した点である。第二は、塚本氏の抄出対象が主に陪・唐代の章疏であるのに対して、 本稿はそれ以外の章疏、例えば宋・元・明・清代などの章疏はもちろん、﹃大正大蔵経﹄に所収される日本の章 ⑬ 疏にまでその対象を広げた点である。第三は、塚本氏が﹁明確なる抜粋を予感させる文頭末を持つ箇所﹂以外の

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もの、例えば、﹁如提謂経中﹂などの﹁要略を予感させる文頭末を持つ筒所﹂や、﹃何も文頭末を持たないが持制 や波利といった間有名調が合まれている箇所﹂などからも侠文を抄出し、さほど文頭末の文言を気にしていない @ 様子であるのに対して、筆者はある程度、それらにも留意しようと努めた点である。第四は、塚本侠文と追い、 本稿は牧田氏による敦埠本の同定後に発表するものなので、当然ながら﹃敦焼本にも未見であること﹂が新供文 には要求されるという点である。つまり、塚本侠文に未見の侠文として抄出したものを、更に敦耀本と対照させ る作業を加えることが必須なのである 。 r提郡波~J経』侠文補遺 これらに留意しながら作業を進めた結果、文中に何らかの形で﹃提翻経﹄の名が確認された約二五

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箇所から 胸、新侠文の候補として次の六つが抄出された 。 抄出された新侠文の候補とそれに対する考察 侠 文 一

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i

-Z

提謂経云)心為大王。上義下仁故居百貫之内。﹂ @ 供文)は、智顕説・法慎記・濯項再治﹃次第神門﹄から抄出したものである。﹃諦観音経疏岡義紗﹄や﹃宗鏡 @ 録﹄にも同様の供文が見えている。 J 郡鏡録﹄に関しては、文顕に﹁如締波羅蜜云﹂とあるので、﹃﹃次第禅門﹄ を孫引きした時に﹃提謂経﹄も一緒に混入した﹂といった表現の方が適切かもしれない。 そしてこれらの章疏類に見られた侠文一は、多少の同異があるものの司

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に﹃心為王者明上義親仁故故居 百之重 陶 ﹂というこれとよく似た文が見られたため、新侠文とすることはできなかった。なお、これらの系統の 第二節 延長線上にあると思われるものが、次の侠文二である。 侠 文 二 ; : : : ﹁ 心 如 帝 王 。 ﹂

(6)

侠文二は、宋・智円﹃般若心経疏詰謀妙﹄ σ3 方 寸 者 、 俗 書 = 説 切 人 之 心 議 ハ 唯 ダ 方 一 ・ す イ ミ ト 。 正 法 念 経 ュ 云 夕 、 王 ザ 。 皆 肉 回 心 也 。 心 ハ 知 計 ト 蓮 華 / 開

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。 提 謂 経 -一 云 夕 、 心 ハ 如 て 帝 [新国統蔵二六、七四一中] をはじめ、以下の三つから抄出したものである。 『縫銀波やj経』侠文補遺 宋・浄源﹃原人論発徴録﹄ :::略:::肉心ュ有叫トハ質者、謂勺肉闘心ニハ有寸形質-故ナリ。按す五議論↓(心牌肝肺腎)説三人之心 議↓唯ダ一方すノミナリ。正法念経ニ云夕、知一マ蓮華ノ開合づ提謂経ェ云夕、心ハ如苛帝王イ。皆肉囲心也。是 非 ハ 不 v 広 枇 ヲ 也 。 園 川 テ 何 -一 取 リ 捨 奪 ス ル ヤ 也 。 意 ハ 謂 P 因 川 テ 何 -取 川 目 疋 ヲ 捨 吋 ル ャ 非 ヲ 耶 。 内 外 相 ヒ 通 ズ 。 下 ノ 肉 心 ハ 居川テ内-一眼耳ハ居川外ュ。内外質擬スレパ如何ガ相ヒ通ズルャ耶。[新旧統蔵五八、七二八上] 宋・従義﹃法華経三大部補注﹄ 居 子 方 す 俗 書 ニ 説 切 人 ノ 心 蔵 ハ 唯 ダ 方 一 す り ミ ト 。 正 法 念 経 -云 夕 、 如苛帝王イ。皆肉園之心也。 心 ハ 如 弓 蓮 華 ノ 開 合 イ 。 提 諸 経 三 玄 夕 、 心 ハ [新間続蔵二八、三六八中] 宋・法雲﹃翻訳名義集﹄ @ 紘(胡結)利陀耶。此レ云幻肉園心寸。如訪黄庭経ノ五歳論=所 w 明 ぇ 。 正 法 念 経 = 云 夕 、 心 ハ 知 計 ト 蓮 華 / 関 A ロ ザ 。

(7)

健 制 云 ュ 云 夕 、 心 ハ 加 苛 帝 王 ィ 。 皆 肉 回 心 ナ

1

色 法 ノ 所 吋 り 摂 マ ル O [ 大 正 五 回 、 一一五二中] 右の何れもが、﹃肉団心 L の説明において二子も違わぬ形で供文二を引いている。供文二は敦娘本にも見えず、 抄出元の何れの文頭も﹁提謂経云﹂とあるが、 その内実は、﹁智同によって侠文一が要略されたもの﹂であるよ うに思われる。なぜなら、供文二を引用する最古のものは、各書の撰述者の生没年から察するに﹃般若心経疏詰 謀紗﹄であ旬、その﹃般若心経疏詰謀紗 L 以前の著述である﹃諦観音経疏岡義紗﹄(一

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九撰)には 、 rt島問波利絡』侠文繍退 次 品 嗣 蹴 d h 感 知 心 ィ 。 以 一 γ 成 立 一 ニ 観

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赤肉之心ハ聞チ肉園心也。正法念経中 -、如

4 1

リ 蓮 華 ノ 霊 ハ 開 キ 夜 ハ A

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1

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。即

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組 制 。 俗 書 -一 謂 幻 之 ヲ 方 寸

1

以 巧 ノ 此 ノ 心 議 ノ 唯 ダ 方 一 す 吋 ミ ナ ル ヲ 故 三 。 然 ラ パ 為芳成知之所計託附づ故ナリ。由 μ 四三有九病、則チ底知ノ傾倒也。一身之主上者、提謂経ュ云夕、心ハ為江大王九上義下仁ノ故 -居守百重之内づ 故 二 身 ノ 六 分 ハ 悉 タ 由 叫 机 肝 心 一 -也 。 通 明 視 久 者 、 謂 タ 従 川 初 メ 修 干 一 溜 シ 通 子 観 ス ル ヲ 息 色 心 一 -4 徹 見 シ テ 無礎

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。 故 -名 却 通明

1

又 普 干 修 ス レ バ 此 ノ 締 寸 能 タ 接 試 六 通 三 明 ↓ 。 圏 中 -一 説 づ 果 ヲ 故 -名 日 通 明 叶 。 此 ノ 締 無 目 別 s 位 ・ 。 次 -還 テ 約 弓 根 本ノ四脚四空 4 而 修 ス ル ノ ミ 耳 。 今 経 。 一 観 珂 ル ハ 心 -P 心 脈 ↓ 即 チ 此 ノ 柿 也 。 委

7

2

明 守 , 修 誼 ↓ 如 計 調 門 第 八 巻 可 。 [大正三九、九九八下] の文を、智円が﹃般若心経疏詰謀紗﹄にて 要略したと推測されるからである。しかも、最後尾には﹁委

3

・ 一 明 日 コ ト 修 誼 寸 如 詰 脚 門 第 八 巻 ゴ ﹂ と あ る か ら 、 知 同 円は﹃次第榔門﹄巻八が引いた﹃提謂経﹄の教説(すなわち、供文一)を要略したと考えられるのである。 考察すべきはここからである。このような経緯で成立したと思われる供文二は、前述したように、智円以降の とあることから、こうした直線部のような﹃正法念経﹄や﹃提間経﹄

(8)

『健悶波平1)正Lt.生文繍;a 浄源・従義・法雲らによってもこぞって引かれる訳である。それも、智円以前の章疏類には全く引かれていない 状況においてでである。そればかりか、侠文二が一字も遠わずに同じような内容の中で引かれていることをも考 慮すれば、寸彼らは智同が要略した供文ニを孫引きした﹂と考えるべきなのである。 なれば、浄源や法雲はともかくとして、従義がこうした採引きをすることには違和感を感じざるを得ない。な ぜなら、拙稿︹二

O

O

九︺にて明らかにしたように、従義は﹁自らの祖師である智朗が引いた(二巻本﹃同時間 経﹄をはじめとする)疑経群﹂に対して実に神経質な態度を見せていたからである。あれほど論理をふりかざし て、﹁智顕が引用した二巻本﹃提謂経とを擁髄するにもかかわらず、﹃提調経云﹄との文頭を持つ快文二を無頓 着にも智円の﹃般若心経疏詰謀紗﹄から孫引きしているのである。確かに筆者も、智円の﹃梢観音経疏間識紗﹄ の記述との関連に気付くまでは、﹃般若心経疏詰謀紗﹄にある侠文二は吋提調経﹄からの抜粋であると疑わなか った@筆者は幸運にも思い違いを犯さずにすんだが、従義の場合は果たしてどうだつたであろうか.興味の持た れ る 所 で あ る 。 何れにせよ侠文二の生涯は、変相の歴史であった。

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にあった﹁心為王者明上義親仁故故居百之重内﹂胸、 @ ﹃次第禅門﹄にて可心為大玉上義下仁故居育重之内﹂(侠文ごとなり、それを智円が﹃般若心経疏給謀勧﹄に て要略して可心如帝王﹂(侠文二)となり、更にそれを浄源・従義・法雲らが孫引きして快文二がいつしか定着 したと思われるからである。これは時代や人を経た倹文の変相の歴史であり、﹁侠文は生きている﹂とさえ表現 で き る 適 例 で あ る 。 侠 文 三 ・ : : : : 1 出入無乱往来無問。統御一身以立道根。﹂ @ 侠文三は、智頭撰﹃維臨時経玄麗﹄から抄出したものである。多少の同異はあるが、﹃金光明文句﹄にも問内容

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@ のものが引かれている。これを敦組本と対照させると、司自一 ω N ・中に﹁出入無孔往来無問。泥疑君開虚無門ロ統御 一身立道之耐﹂というよく似た教説が確認できたので、侠文三に関しでも新侠文とすることはできなかった。 供文四

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-﹁提調粗目。行道七匝者。以聴七畳分度七世父母也。﹂ 供 文 五 : ・ : : : ﹁ 提 調 組 云 。 三 匝 者 。 臨 三 界 減 三 世 界 。 除 三 議 聴 三 業 也 。 ﹂ rt基町i証Ir::f1J絡J侠文書E遺 供文六:・:::﹁提謂経云。行道有其三品。調上中下。上者百匝、中者三十匝 、 下 者 十 匝 。 ( 以 聴 百 年 。 ) ﹂ 侠文四

1

六は何れも、唐・法山家﹃仏項単勝陀羅尼経教跡義記﹄(以下、﹃仏項尊勝陀羅尼経疏 L ) にある次の三 箇所からそれぞれ抄出したものである。 遁 偽 七 匝 シ 項

--

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誼 ぇ 偽 足 4 者 。 述 シ テ 日 夕 、 第 二 修 敬 蹄 依 @ 文 中 ュ 有 叫 二 意 二 一 -ハ 行 道 、 二 三 組 奔

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一 回 ぞ 行 道 ↓ 者 、 即 テ 蓮 働 七 匝 也 。 提 謂 鰹 -一 日 夕 、 行 道 七 匝 者 、 以 テ 耐 崎 山 七 億 分 一 -度 目 七 世 ノ 父 母 イ 也

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躍 拝 者 、 有 川 英 三 品 -。 如 山 上 司 一 所 w

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。 [ 大 正 三 九 、 一

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三七中] 爾 ノ 時 雄 世 ノ 四 天 王 ハ 遁 郷 三 匝 ス 者 。 述 シ テ 日 夕 : ・ ・ ・ ・ 略 ・ ・ ・ ・ ・ -一 空 間 町 内 修 敬 ヰ 旬 、 即 ι T H 匂 遁 仰 三 恒 也 。 提 珊 叩 粧 品 云 夕 、 三 匝 者 、 聴 三 二 界 一 -減 三 二 世 ノ 非 ↓ 、 除 三 ニ 議 寸 晦 日 ル 三 業 4 也 LF 。 ︹ 大 正 三 九 、 一

O

三七下] 爾 ノ 時 帝 稗 ハ 至 つ 第 七 日 戸 一 奥 日 普 住 天 子 4 。 特 刊 で γ 諸 ノ 天 衆 イ 般

2

持品事量・塗香・末香・賓噛・幡蓋・天衣・哩

(10)

政 情 寸 。 微 妙 - a 荘 厳 シ テ 往 千 詣 ν 偽 ノ 所 4 設 日 大 供 養 ↓ 。 以 計 妙 天 衣 及 ピ 諸 ノ 理 洛 ↓ 供 千 養 シ 世 尊 寸 法 叫 百 千 匝 -者 。 述

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日夕。第七持供報思。文中 -有叫ニ意ベ一三持供、二三旋遁

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。 提 調 経 司 -云 夕 、 行 道 ュ 有 叫 其 ノ 三 口 百 謂 口 上 @ 中下↓。上者百匝、中者三十匝、下者十匝

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以 チ 聴 ば 百 年 三 。 [ 大 正 三 九 、 一

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下 ] T錐銀波利絞』侠文補選 @ そもそも﹃仏項尊勝陀羅尼経蔵﹄とは、仏陀波利訳﹃仏項尊勝陀羅尼経﹄に対する注釈敢闘である。その﹃仏項 尊勝陀緩尼経﹄には、仏を詣でる帝釈天や間修羅法王が仏を七匝、四天王は三匝してから教えを硝うたこと 、 そ して帝釈天が仏から教えを受けた後にも大供養して仏を百千匝したことなどの記述が存在してい旬。これらを ﹃仏頂噂勝陀羅尼経疏﹄が注釈する際に、教証として引かれるのが侠文四

1

六である。見ての通り 、 侠文四・五 は ﹁ 数 字 の 語 呂 会 わ せ ﹂ と も 一 言

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べき手法で教説されたものであり、侠文六は、(侠文四・五にも関係すると思 われる)﹁行進﹂を三品に分類して説明したものである。 @ これら倹文四 1 六については、敦娘本にもそれらしきものが見当たらなかったため、﹁新侠文﹂とすることが できた。なお、筆者がこれらを新倹文としたのは、次寧に示す六つの根拠からである。

第三章

侠 文 四 ・ 五 ・ 六 が 新 侠 文 で あ る と 雷 え る 根 誕 第一は、抄出元の﹃仏項尊勝陀羅尼経疏﹄には侠文四の他にも、供文四の要略と思われる記述が認めら向、ま た、快文四

i

六が行進に関する教説という点で共通していることなどから、これらが独立した教説として存寂し た可能性は高いと思われること。 @ 第二は、﹁数字の語目合わせ﹂は二巻本﹃提謂経﹄に多く散見されるもので、こうした類のものが教説中に幾

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つあっても不思議ではないということ。 第三は、﹃提閉経﹄は﹁二商人{提潤と波利)の説話﹂を教説的金型とするが、この説話の原型とされる﹃四 分律﹄﹃五分律﹄﹃修行本起経﹄﹃太子瑞廓本起経﹄﹃普陥経﹄﹃中本起経﹄﹃出陥経﹄﹃仏本行集経﹄﹃方広大荘厳 @ 経﹄﹃過去現在因果経﹄などに三匝や七匝の記述を求めたところ、全てがどちらか 一方の記述 を有し、またその ほぼ全てが何れの記述も有していたというこヤ 第四は、(四種の敦燈本の全てに見えないことからその存在が確定的でなか っ た)塚本侠文一五にも 、

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*

品阿波剥縫』倹文補選 提 謂 経 -云 夕 、 長 者 提 調 ハ 白ウ偽 - m 与 す 一 回 夕 、 散 華 ・ ・ 焼 香 ・ 然 燈 ・ 植 拝 、 目 疋 レ 為 ロ 供 養 斗 。 旋 塔 ハ 得 勺 何等 ノ 福 寸 。 偽 言 ハ 夕 、 旋 塔 三 有 J -五 ノ 福 徳 寸 一 -二 後 世 -得 = 端 正 好 色 サ 。 一 一 ユ ハ 得 z 音 ノ 好

11

三 品 川 得 ν 生 以

2

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天 上 4 。四 三得 ν @ 生

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3

4

王侯 ノ 家 4 。五 三 得 = 泥 垣 ノ 道 ↓ 。 何 ノ 因 縁 ァ

1

得苛端正好色↓。曲川 テ 見 せ偽 像 寸 歓喜

2

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故 -。 何 ノ 縁 ア リ テ 得苛聾音 ノ 好

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,。由ラ鹿塔 ハ 説

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- a

経 ・ 4 臥 ・ 3 何 ノ 縁 ア リ テ 得 叫 ャ 生 以 ル ヨ ト ヲ 天 上 4 。 由 叫 が 哲 一 一 旋搭 ノ 時 ュ 意 ハ 不 剛 犯 内 戒 ヲ 故 -。 何 ノ 縁 ァ

1

得 叫 ャ 生 以 ル コ ト , 王 侯 ノ 家 づ 由 叫 が 頭 面 シ テ 組 以 ル ュ 偽足 4 故 品 。 何 ノ 緑 ア リ テ 得 勺 泥 } 国 道 ↓ 。 由

τ

有 斗 -倹 福 り ( 塚 本 [ 一 九 四 ニ ] コ 二五頁 }

故 とあるように、﹁行道﹂の意に包含される﹁遁培(旋培)﹂についての教説が見えるだけでなく、 @ の内容とは異なっているが)霜字 一五号にも遁塔 への言及が見られるので、﹃提閉経﹄には行道の記述がかなり の確率で存在したと思われるこ と 。(ただ、行道には遁搭のほか遁仏の意もある。おそらく侠文四

1

六はその両 方の意を含んだ﹁行道﹂、もしくは﹁遁仏﹂のみを指すものと筆者は考えているた句、﹁善治﹂をここに栂拠とし ( 塚 本 侠 文 一 五 て挙げることはあくまで間接的な意味合いからである)

(12)

第五は、前述の塚本侠文一五が抄出された箇所の続き(﹃法苑珠林﹄)には、 右 鏡 者 、 経 伸 伸 之 中 - -制 シ テ 令 品 右 - -緯 ↓ 。 若 シ 左 焼 ノ 行 ハ 為 ロ 神 ノ

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ヘ 珂

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乃至左乙遜 シ テ 奏 滑 寸 為 民 俗 ノ

- n v

4

其 ノ 徒

有 川 所 v ス 。 且 タ 論 て 常 行 三 匝 寸 者 、 表 円 供 -・ 獲 シ ヱ ニ 尊 ↓ 止 三 ニ 畿 サ 滞 U 三 業 サ 滅 帆

2

1

三悪道 M 。 得 叫 放 ナ リ 。 韓 中 般 経 ノ 偏 ュ 云 夕 、 始 〆 -欲弓鹿

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寸 , そ 各 '提甥披剥量量』侠文補遺 究 子 暢 シ テ 道 意 ↓ 賞 品 願 ハ タ パ 衆生

i

毛 -緯 塔 三 匝 ご 哲 -- 願 ハ タ パ 衆生

lf

施 工 行 シ 福祐 ↓ 待 日 一 向 J 意 寸 永 タ 絶 句 3b , 三 毒 ↓ 。 又賢者五戒組二友夕、雄培三匝者、表干 一敬

21t

三 尊 刊 。 一 ユ ハ 偽 、 ニ ニ ハ 法 、 三 二 ハ 僧 ナ リ 。 亦 タ 念

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減 目 三 毒 ↓ 。 一 二 ハ 食 、 ニ ュ ハ 眠 、 三 -ス 鍵 ナ リ ト 。又三千威儀 -- 云 夕 、 健 熔 品 有 叫 五 事 4 一 三 低 吋 シ テ 頭 ヲ 視 ν , 、 二 -ス 不 ν ν 守 山 抽 ヲ 、 三三不 ν 得 ・ 4左省顧視

t

, 、 四 ・ ス 不 ν ν ヨ ヲ 洛 前 ノ 地 上 で 五 -ハ 不 拡 w z 中 -住 手 輿 ν 語 づ ; 。 [ 大 正 五 三 、 五 八 二 下 ] という文があり、侠文五と近似する箇所が見られるものの 説と誤認し要略した訳ではないようであるというこ匂・ これは、直線部を﹃健制経﹄侠文の一部(つまり滋本倹文一五に継続する部分)と誤認する可能性から想定さ れる問題である。塚本氏は、直線部を﹃提調一位﹄侠文でないと判じた理由を語っていないた旬、筆者自身もその ような﹁誤認﹂を犯していた時期が暫くあった。 ( 直 線 部 後 半 ) 、 おそらく法崇がこれを﹃提甜経﹄教

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なぜなら、経典中に ﹁ 経律 ﹂ が持ち出されていることは、﹃提閥“経乙という経典の中に直線部が存在しない @ とする積極的な理由にはならず、何より、侠文五と近似する文が含有されているからである。 しかしながら直線部は、道宣﹃釈門帰敬儀﹄の次の部分の要略であろうことが分かったのである。 rt量甥波:f1J経JI'i文情通 十 ュ 明 内 在 す 緯 ι 恭 敬 -者 。 経 律 之 中 -制 E Y テ 令 品 右 a 緯 ↓ 。 飲 -左 - -行 勺 緯 塔 寸 為 立 仰 ノ 所 叫 一 叫 ル 。 左 = ・ 遺 シ -7 姿 積 立 伺 民 俗 ノ 所 ν , 。 其 ノ 徒 衆 ν 失 。 且 タ 述 げ 知 叫 ト コ g , 之 -。 今 行 事 者 、 順 守 於 天 時 一 -面 ヲ 西 ュ シ テ 而 北 -鞘 シ 右 肩 ヲ 祖 ギ 侍 リ テ 而 為 川 敬 , 也 。 比

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見 守 一 有 ル 僧 サ 非 日 於 此 ノ 法 九 使 チ 両 ヲ 束 子 手 而 北 -斡 ス ル ヲ 為 ロ 右 縫 っ 也 。 天 竺 ノ 党 僧 唄 千 葉 - y l 吾堅一経行旋 続三目干閲

2

-英 ノ 縦 ↓ 説 ベ テ 従 川 西 週

1

而名町右暢

1

以叶順守天道 4 如

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日 月 り 鵡 。 然 ル ・ 4 似 て -組 中 ↓ 匝 敵 ・

4

⋮ り { 号 。 成 ハ 云 口 一 匝 三 匝 七 匝 百 匝 千 匝 無 蚊 匝 叶 者 、 斯 レ 何 ノ 放 ナ ラ ン 耶 。 管 制 円 随 す 務 ノ 紐 急 4 致 ッ テ 有 刺 ト 不 同 日 略 ・ ・ ・ ・ ・ ・ [ 大 正 四 五 、

]

これを見れば、前述の推論の正当なることが瞭然であ旬。 こ の 他 に も 、 ﹁ 三匝が三尊・三礎 ・ 三業・三悪道・ 三 宝と関係する教説 ﹂ {直線部後半}の教証として﹃挙厳 経﹄や ﹃ 賢者五戒経﹄を引用していることからも、直線部はやはり﹃提謂経﹄供文でないと考えるべきなのであ ろ 、 フ 。 前述の通り、塚本氏が直線部を﹃提謂経﹄侠文でないと判じた理由を知ることは出来ないが、 おそらくは右の ような理由からであろう。 ただそのように考えれば、次段階として必ずや次のような反論が予想される。それは、﹁法崇が﹃法苑珠林 ﹄ 中の直線部を﹃提調経﹄侠文の一部と誤認し要略したものが、侠文五ではないのか﹂といった反論である。しか

(14)

しながら、倹文六はおろか、侠文四にあるような七匝に関する教説も直線部にはなく、また、法袋以前の章疎類 中には侠文四・六が孫引き(要略・改変等も含む}し得るような﹃提相経﹄引用箇所も見られなかったために、 この反論は否定されることになる。 『縫 籾 波111量王』倹文鋪逸 第六は、侠文六の要略前の教説と見なし得る箇所を、﹃提謂経 ﹄ と密按に関係すると言われる﹃浄度三味経﹄ にも見出せたことであ旬。 ﹃ 浄度三昧経 ﹄ とは、ニ巻本﹃提閉経 ﹄ と閉じ時代に同じ地域で閉じ目的のもとに撰 述されたものであり、その撰者は、太武帝による廃仏からの復仏事業のリ ー ダー(沙門統}であった曇晒とされ てい旬。器摘が曇聞の統率した復仏事業集団に所属していたとは断言できないものの、当然のことながら、両経 には共通点が多く存在している。こうした﹃浄度三味経 ﹄ に、候文六の要略前の教説と見なし得る簡所を見出せ たことは、前述してきた五つの根拠とも相まって、倹文四

1

六が新倹文であると主張する大きな栂拠となるであ ろ う 。

@ これらの理由から、本稿は、塚本侠文にも敦也本にも見られない新快文として倹文四・五 ・ 六を提示した。こ のうち倹文 四 ・五からは、数字の語呂合わせを踏まえた三匝や七匝の教説が﹃提調経﹄に存在したことが示され た し 、 侠文六からは、三匝や七匝の教説を総括するような行進全般の教説があったことが予測される。また、四 種の敦飽本全てに見えないことからその存在が確定的でなかった塚本供文一五についても、供文四

1

六が抄出さ れたことや、霜字一五号に行道と密接な関係のある遁絡の教説が見出せたことを以て、その存在はほぽ確定的に なったように思う(三家) ・

(15)

'総鰐証主'利経J~文補選 また副次的ではあるが、これら三つの新侠文からは、問題点の一つであった二巻本﹃提謂経﹄の散供時期につ いても(一奪三節}、一定の目安を示すことが出来た。すなわち、供文四

1

六を孫引き(要略 ・ 改変等も合む) @ し得るような﹃提調経﹄侠文が、法崇以前の章疏類中に存在しなかったことを以て、﹁法山印刷

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七六三

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七 六 四

1

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の生きた八世紀後半までは、少なくとも二巻本﹃提甜経﹄は現存していた﹂と推知可能なのである。ま @ してや、法祭は長安の千福寺に住し不空三蔵の訳場にあった人とされているので、この推知の持つ影響力も少な くないはずである。そして仮に、散侠時期の下限がこれより時代を上らないとすれば、中国史上最大の廃仏であ @ る会昌の廃仏(八四五)と関係してのことかもしれない。無論、想像で多くを語るべきでないのでこれにて留め ておくが、今後の﹃提謂経﹄研究において散倹時期の目安が設定されたことは有為なことである。 そして﹁塚本侠文と敦壇本との対照が完了していない﹂というもう一つの問題点こ章二節)も作業上完了さ @ れたし、何より、倹文六の要略前の教説と見なし得る箇所を﹃浄度三昧経﹄にも見出せたことは 、 今後の﹃提謂 経﹄研究における大きな足がかりの一つとなるはずである。 ( 了 ) 時号表 塚 本 [ 一 九 四 一 ] い 原 本 韓 首 険 ﹁ 支 郷 在 家 仏 教 特 に 庶 民 仏 教 の 一 経 典 │ 提 細 波 利 経 の 歴 史 ﹂ ( ﹃ 東 方 学 報 ﹄ 一 一 一 、 一 九 四 こ 塚 本 ︹ 一 九 四 二 ] 二 塚 本 普 隆 ﹁ 支 郊 の 在 家 仏 教 特 に 庶 民 仏 教 の 一 経 典 │ 提 開 波 利 経 の 歴 史 ﹂ ( ﹃ 支 郷 仏 教 史 研 究 ﹄ 弘 文 堂 惜 官 房 、 一 九 四 二 ) 相 場 本 [ 一 九 七 四 ] い 塚 本 普 隆 ﹁ 中 国 の 在 家 仏 教 特 に 庶 民 仏 教 の 一 一 経 典 ﹂ ( ﹃ 塚 本 普 隆 著 作 集 第 二 巻 北 朝 仏 教 史 研 究 ﹄ 、 大 東 出 版 社 、 一 九 七 回 } 滋 総 [ 一 九 六 八 ] 一 道 端 良 秀 ﹃ 仏 教 と 館 教 倫 理 ﹄ 、 平 楽 寺 普 底 、 一 九 六 八 牧 田 [ 一 九 六 八 ] 一 牧 悶 締 亮 ﹁ 数 縫 本 提 翻 経 の 研 究 ( 上 ) 1 安世高訳分別普怒所起経との類似 i ﹂ ( ﹃ 仏 教 大 学 大 学 院 研 究

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『提窃波利益a候文補遺 紀 婆 ﹄ て 一 三 七 i 一八五夏、一九六八) 牧田︹一九七一]一牧田務亮﹁敦健本綾謂経の研究(下 ) l 安世高訳分別普慈所起経との類似 1 ﹂ ( ﹃ 仏 教 大 学 大 学 院 研 究 紀要﹄二、二ハ五 1 一九七頁、一九七一) 牧限︹一九七三三牧田諦亮﹁提閉経あれこれ﹂(﹃人文﹄九、京都大学人文科学研究所 、 一 九 七 三 ) 牧悶︹一九七六]一牧田諦亮﹃疑経研究﹄{京都大学人文科学研究所、一九七六) 土橋︹一九七六︺一土橋秀高﹃敦燈資料﹃仏説綾部五戒経弁威儀巻下﹄について﹂(﹃印度学仏教学研究﹄三五の一 、 一 一 三 1 一一七頁、一九七六) 木村[一九八 一 行木村光佐﹃仏教経典にみる五戒と五行の相関の歴史的一考察 1 提謂波利経・五行大義を中心とし て 1 ﹂ ( ﹃ 中 央 学 術 研 究 所 紀 要 ﹄ 一

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、 三四 1 五五真 、 一九八二 鎌田[一九九四︺一鎌田茂雄﹃中国仏教史第五巻﹄ 、 東京大学出版会、一九九固 定方[二

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二一定方鼠﹁二商人事食の伝説について﹂(﹃東海大学紀要文学部﹄七 六 、 七 七 l 一 二

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頁 、 二

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一 ) 拙稿[二

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九守山口大輔(意民)﹁宋代十 一 世紀にみえる﹃縫籾波利経﹄の兵偽問題﹂(﹃龍谷大学文学研究科紀要﹄ 三一、九九 l 一 一 九 頁 、 二

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九 ) 陸 ①﹃提閉経﹄には一巻本とニ巻本の二種がある。本稿では 、 これらを特に区別する場合のみ二巻本﹃提稲経﹄﹂﹁ニ 巻本﹃提翻経﹄﹂(もしくは﹁一巻本﹂﹁二巻本﹂}と表記し、それ以外は単に﹃健相経﹄と表記したい。なぜなら、二 巻本は一巻本に五行五方思想が付加されたものとされ(誇しくは後述てその区別が厳密には困難な場合があるから である。また、﹃提初経﹄には四種の数値本があるが 、 これらを本格が引用する際には、これらの敦迫本が翻刻され ている牧図[一九七六︺の頁数と上下段の別を記すことで典拠を一不すこととする(例、牧岡︹一九七六])。 ②牧悶︹一九六八]一三九頁 ③塚本倹文が発表されたのは一九四一年、牧岡氏による最新の﹃提説経﹄研究が所収される﹃疑経研究﹄でさえ一九 七 六 年 の 刊 行 で あ る 。 ち な み に 、 の ∞ 開 、 ﹃ ﹀ や

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ジを見ると、両者とも﹁ 一 九九八年のスタート﹂と あ っ た 。

(17)

rt量調波利経』侠文補遺 ④現存母古の経録である﹃出三蔵記集﹄の時点で﹁欠本 ﹂として 記放されていること、そして ﹃ 倫 祐 録 ﹄ 以 降 に 一 巻 本を著録する経録でも全てこれが踏酬製されているので、一巻本は﹃似祐録﹄の時代から散侠したままであると考えら れている 。 ⑤ ﹃ 歴代三宝紀 ﹄徒 側 波 利 縦 二 容 ( 見 三 歳 記 } 右 一 都 合 二 単 位 。 宋 孝 武 世 。 元 総 沙 門 緑 曇 静 . : : : 略 : : : 経 文 萄 録 別 総 有 録制緩一谷。興鮪経鵡向。但酬明加足五前向行.用石標金致成疑耳。今以一巻成者為定.{大正四九 、 八 五 中 ] . 他 に は 、 ﹃ 絞高僧伝 ﹄ [ 大 正 五

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、 四 二 七 下 ] 、 ﹃ 大 唐 内 典 鉢 ﹄ [ 大 正 五

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、二六八中]、﹃金光明経文句新記﹄[新氾統蔵ニ

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、 三 八 九 上 ] 、 ﹃ 法 務 三 大 部 補 注 ﹄ [ 一 八 五 下 ] な ど 。 ⑥ 捌 稿 { ニ

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九 ] 一

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五頁 ⑦ 同 時 代 ・ 岡地域にて訳出された、しかも 、 沙門統曇昭や外国三臓によって訳出された経は、五

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年 経 つ で も な お 、 南朝帝都にすら流伝していなかった。塚本[一九四ニ]三四

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頁 参 照 。 @ ﹃ 統 高 僧 伝 ﹄ ( 曇 附 伝 附 見 ) 、 ﹁ 附 開 皇 嗣 壇 。 往往民間猶習縫開。邑義各持衣鉢。月再興愈.儀範正律。遁相繋鎗。甚 具 期 集 云 @ ﹂ [ 大 正 議 五

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・ 四 二 八 上 ] 参 照 。 ⑨ 塚 本 [ 一 九 四 二 ] 、 牧 悶 [ 一 九 七 六月倒稿[二

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九]など. ⑪塚本[一九四二]コ二

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頁 に は 、 ﹁ ﹃ 縫 翻 綬 ﹄二巻は 、 既 に 散 侠 に 蹄 し て ゐ た と せ ら れ る 。 : : : 略 : ・ ・ : 現 在 の 所 で は 私 は 、 未 だ こ の 帽 胞 の 完 本 の 現 存 す る も の を 知 ら な い 。 ﹂ と あ る ・ ⑪四種の敦悠本を牧田氏や土締氏の 言 を借りて説明すれば 、 以 下 の 通 り と な る 。 同 v S ω N 一﹁書写年月は明示されていないが、唐代の写経であることに間違いない。また、王重民の ﹃ 敦也遺書総 自索引﹄に記録されているが 、 巻首・巻尾を欠く為、経名などが未詳のまま戒律類に属する仏舎として無 寄贈のまま置かれていたものを、二巻本 ﹃ 縫繍経﹄の巻上(?)と同定した﹂(牧田[一九七六]一八 二 頁 を 要 略 )

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-容体から判断すると臨閣の開元ごろの写経と見られ 、 その斉整な番目聞からは、僧などのような相禽な知 織人によって鍛写されたものと推測でき 、 二 巻 本 ﹃ 提鰯経 ﹄ の巻下(巻首欠)に 該 当するものであろう﹂ ( 牧 回 ︹ 一 九 六 八 ] 一 三九頁などを要略} 霜字 一 五号一﹁北京図書館本敦飽経霜字一五号緩翻五戒経弁威儀と呼ばれるもので、教組腫劫余録に所収されてい

-

(18)

87-r主是翻波平4経」倹文補遺 る 。 ま た 、 ωNO 巴と岡本であるが、霜{子一五回すの方がかなり短く、後ろに五戒威儀の五六行が付されてい る﹂(牧田[一九六八]一一三九頁、牧岡[一九七六]一八二頁を要略)﹃首都の欠けた有罫で一行一七字 詰金三五七行からなる、六朝書風の襲った格調ある巻子本である。その園名は尾題によってつけられてお り、三五七行という全巻の盤から考えて、首都の欠落もさして多いものとは思えない。二

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行目までが 五戒経で、ニ

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一行自に,五戒威儀 e との標目があり、次行から優袋柑症の威儀が続くものである﹂(土僑 [ 一 九 七 六 ] 一 一 三 頁 を 要 略 ) 俄

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-メンシコフ編アジア民銀研究所所蔵中国教燈写本文献目録大二輯にある二巻本﹃鍵繭経﹄の巻下 の 断 簡 で あ る 。 ωNO 臼の一部とほぼ一致するが、一二行と僅かな断簡である。﹂(牧田[一九六八]一三九 頁などを要略) ちなみに、この俄

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の本文は、牧田氏による一連の研究においても、他の諸氏の研究において も活字化されていない。よって、後の研究者の使宜を考え、俄羅斯科副学院東方研究所聖彼得隻分所編﹃俄 議敦迫文献、八﹄を底本とし、ここに紹介しておく。なお、()内は 、 ωNO 臼との対校により筆者が補正 した字であり、︻︼内は、フォントの関係から師匠子して表記した字である。 { 偽 ? } 言 ︻ 戸 十 一言+辛}如繭病人終不能穏扶持師与弟子 口行成威儀者如繭病人終不能相口口口口 能 相 度 脱 長 者 提 浦 臼 悌 一 首 甚 微 妙 与 人 五 戒錫甚難天中天(銭?)人重(任?)大難天中天 口 教 奉 行 不 敢 ( 途 ? ) 失 一 世 糸 口 口 口 口 口 口一内箸心中皆臼偽言一口口口口 求 係 人 道 知 偽 畳 一 同 者 甚 雛 甚 難 天 中 天 人 ( 心 ? ) 念法一念米一遁滅一復生心之校務造作 元端百心百念以身人意雑務身震心本心不 口口不可信是故知人身難得度世甚危 口口天中天偽 言如如(所?)言偽語不異人口

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r後開波利UJI9<文繍jft. 口口得 ︻ 戸 + 一首 + 辛 } 如二人在須弥山上︻︿+一 + 口 + ロ + 川 ︼ ︻ 車+官+女 ︼ 下之一人 ⑫牧田[一九七六︺一八一頁、牧回 [ 一 九 六 八 ] 一 三 八 1 一 四

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頁、牧田[一九七ニ 一 七 七 l 一 八 四 頁 ⑬牧田[一九七二、牧田[一九七六︺ ⑪牧田[一九七六] 一 六六頁 ⑮同様本[一九四こが原級だが入手は困難であった。ただ、塚本[一九四二︺や塚本 [ 一九七四]にも所収されてい る の で 、 本 稿 は 阿 部 本 [ 一 九回二の代わりに塚本[一九四二 ] を 用 い て い る 。 ⑮[大正五三、四五五中︺ ⑪ ﹁ 以上の倹文は主として附唐時代の偽徒の著述から主なるものを抄出したのみで 、 ま だ 遺 ・ 漏 も あ ろ う し : : : 略: : : ﹂ ( 同 様 ・ 本 [ 一 九 四 二 ] コ 二 八 頁 } ⑬ 拙 稿 [ 二

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九 ] で は ﹃ 提澗経﹄が宋 ・ 元・明 ・ 清代においても広範に引閉されていることが明らかにな っ て い る し 、 ﹃ 大正大蔵経﹄に所収される日本陣供述の章疏類についても電子検索が可能であるから 、 本 稿 が 為 す 抄 山 山 に は 期 待 が 持 て る 。 ⑬線本︹一九四二]等を見る限り、氏がどのような基準で﹃提初経﹄倹文を抄出したのかは不明である。筆者が塚本 倹文の奥拠を洗い直した限り、文頭や文末の文言のみを判断基準にはしていないように感じられた。と 言 うのは 、 ﹁ 明確なる抜粋を予感させる文頭米(例えば、﹁又提翻経云 ﹂ ﹁ 提部経説 ﹂ ﹁ 提 翻 経 日 ﹂ など)を持つ筒所﹂以外から も塚本氏は倹文を抄出しているのである。つまり 、 ﹃ 要略を予感させる文頭末{﹁如従調経中 ﹂ ﹁己如前引提翻経之所 明 也 ﹂ など)を持つ筒所﹂や、﹃何も文頭末を持たないが捻澗や波利といった国有名問が合まれている筒所﹄などか らも、氏は倹文を抄出 し ているのである。ただそうしたものを筆者が敦飽本と対照させた所、大幅なる要時や引用者 による途意的 引 用と思われるものが目立ったので(例えば、原本倹文八などは 、 司ミおの牧田 ︹ 一 九 七 六 ] 一 八 四 上 、 一 八 四 下 、 一 八 五 上 、 一 八五下 、 一九三下などから智頗が違怠的に引用したものと思われる} 、 抄出の信頼性確保の ためにもそう し た文頭末の文言にもある程度留意する必要を感じるのである@ @﹃縫制経﹄を指すと考え得るものには ﹃ 梱 憶 測 経 ﹄ や ﹃ 提 謂 波 利 経 ﹄ の ほ か 、 ﹃ 健 胃 経 ﹄ ﹃ 離初経﹄﹃般向蹴梨迦経﹄な どの計一-二訴があったので、これらを以て検索を行った。詳細は 、 拙稿 [ 二

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九]を参照のこと。ちなみに、制梢 [ 二

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九 ] は コ 録制経 ﹄ の中国における展開 ﹂ を考察するものなので、電子検索の対象から日本撚述の章統頬等

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r鍵 調i庄和l経J侠文補遺 を除外しており、一七一筒所が考察対象となっている。一方、本稿はあくまで新侠文の抄出を目的とするので、日本 撚述の傘疏類も除外しておらず、その為に考察の対象が二五

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箇所以上へと大幅に嶋えている。ここに訂正されてい る訳ではないので 、 注 意 さ れ た し 。 @心為大王上義下仁故。居在百重之内。出則有前後左布官邸制侍街。肪為司馬。肝ゐ司徒。牌為司空。腎為大海中有神 品他。呼吸元信執行風致雨通篠田支。四支為民子。左為司命。右為司録。主録人命。斉中太一君亦人之主柱。天大柑府軍特 進君王。主身内前向二千大神。太一有八使者八卦是也。[大正四六、五三二下] @﹃紛観音経疎開義紗﹄[大正三九、九九八下]。これについては、本節の﹁侠文二 L の 項 に 詳 述 し て い る 。 ﹃ 宗 銭 録 ﹄ [ 大 正 四 八 、 五 五 四 下 ] 。 @牧閏[一九七六]一八六下

9 常 φ @ 紘 刺 陀 耶 と は 耳

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曲の音写で﹁肉団心﹂と訳されるものであり、﹁意担の所託﹂との意である。 @ ﹃ 般 若 心 経 疏 払 削 線 紗 ﹄ ﹃ 翻 訳 名 義 集 ﹄ ﹃ 原 人 論発徴録 ﹄﹃法務経三大部術注﹄の中で 、著述年代が明らかなのは ﹃ 翻 訳 名義集 ﹄ ( 一 一 四 一 二 } の み で あ る 。 @ 牧 田 [ 一 九 七 六 ︺ 一 八 六下 @勿論、これは智阪が拠った﹃鈍翻経﹄が司勾おと岡本であるという前提があっての話であるから、知回顧が達意的 引用によって侠文一を変相させたとまでは表現していない。よってここでは、引用文が変遷しているという﹁事実﹂ の み を 記 す に 留 め て い る 。 @ [ 大正三八、五四八中] @ [ 大 正 三 九 、 五

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下 ] @牧田[一九七六]一八八上・下 @﹃以謄百年﹂も﹃提翻経﹄侠文の一部と見なすならば、この後には三十匝や十匝と対応する形式で 、 可 以 前 地 三 十 年 、 以謄十年﹂と続いていたとも考えられる。 @仏陀波利訳の他に、社行頻訳や義浄訳がある。 @[大正一九、三五

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上・中][大正一九、三五一中 ・ 下][大正一九、三五二上] @侠文五のみは問機的に類似する次のような文を敦燈本 に 見 出 す こ と が で き る 。

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歳三務者、減三界想制三流狭、断苦習入遜道、治三議出三界、求三道出三塗、思三隊問。是飲持歳三藤救三位。 牧田[一九七六]一九七下 '提繍波利経Jf央文相llft 砂川念三苦一.一者飢駒昔、二者貧賎昔、三者三惑道音。欲滅是三務者、一歳三布縮錫除三議亦滅三苦得三一刷。 一 者 生 天 上 衣 食 自 然 、 二 者 得 豪 宮 、 三 者 問 三 悪 道 不 待 値 惜 財 貨 。 牧 田 [ 一 九 七 六 ] 一 九 五 下 どちらも﹁三﹂のつく仏教用語が辿呼され、﹁数字の語呂合わせ﹂とも言うべき手法を用いて三長爺や三若を説いた ものである.録者は﹃これらを法銭が三匝の説明の為に改変したのではないか﹂と一度は疑ったが、やはり、三長斎 や三苦のような独立した一つの教税が三匝にも存在したと考えたい。そのように考えた理由は、次なに詳述している。 @ ﹃ 言 七 匝 者 、 録 制 経 目 、 癒 七 処 分 也 。 ﹂ [ 大 正 三 九 、 一

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二 四 上 ] @﹃提初経﹄では、五常と五戒・五行・五経常守を対配させるほか、註三四に挙げたような記述も多︿見え、﹃数字の怒 呂合わせ﹂は﹃提制経﹄の得意とするところと言える 。 なお、道端︹ 一 九六八︺の 二 二 六 頁 によると、二巻本﹃徒翻 経﹄は、仁義礼智信の名を出して五常と五戒 ・ 五行 ・ 五経等を対配させた最初の経典であろうとしている。 @塚本[一九四二︺、牧田︹一九七二、定方[二

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@﹃修行本起経﹄ ﹃ 中本起経﹄には七匝の記述が見えず、 ﹃ 過去現在因果経﹄には三匝の記述が見えなかった。この 三 つ以外は、全て三匹と七匝の両方の語が見える。 @同様本倹文一五の山間拠である道世 ﹃ 法苑珠林 ﹄ と比較すると、塚本倹文一五は﹁生 ﹂ の字が抜け落ちている。相場本 [ 一 九 四 二 ︺ コ 二 五 頁 。 @牧岡[一九七六]ニ

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七下 @ ﹃ 仏頂掠勝陀羅尼経疏 ﹄ で は 晴 嵐 仏 の 意 で 侠 文 四 l 六が引かれ 、 また後述する第六の板拠である ﹃ 浄度三味経﹄中に 見出した記述も﹁治仏﹂としての記述であったため、継者は今のところそのように考えている. @同じく道枇の﹃諸経要集 ﹄ にもほぼ同文が見える。[大正五回 、ニ ニ 下 ] @線本[一九四二円以本 [ 一 九 七 四 ] @法願訳﹃仏説大般泥沼経 ﹄ に も ﹃ 法務経﹄が文中に登場するように、珍しいがそうい っ た ケ

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スも現に存在するか らである。[大正一二、八九三下] Q d

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『錐阿i皮革11縫』侠:.t捕逸 @ただ、直線部の後半にある﹁且タ論す常行三匝立省、 : : : 略 : : :得勺値サ三賓 4 放

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に関しては、滋宣﹃釈門帰敬 儀﹄からの要略とは思えない。 @﹃浄度三味経 ﹄ には、諸天 ・ 帝釈 ・ 鬼神・官腐らが、それぞれ仏を七匝したり七十匝したり百二十医したりする記 述が見える︹新記続蔵一、三六七中]。これは建仏の回数こそ違えど、侠文六に見える十匝・三十匝・百匝の記述と 類似するもの、あるいはその原型であったのではないかと筆者は考えている。これについては、紙数の関係から別稿 に詳しく論じることとしたい。 @相場本[一九四二]三

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六 頁 ⑬﹁当初の予測に反して、本稿の提示できた新侠文が三つに留まった理由﹂には 、 様々な要素が絡んでいると言える。例 え ば 、 二 五

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以上の筒所の中には﹁明らかなる要略﹂が多かった事、経録における著録をはじめ﹃提謂経﹄教説を引用す る以外の館所もあったという事、そして、新侠文となり得た倹文の多くが敦燈本と重複していた事などが挙げられる。 また、闘機本鉄文と同内容のものが宋代以降の章疏類に度々見られた事も要因の一つであった。塚本倹文二一粂の全 てが、このような現象を塁す訳ではないが、なかなかに多くの類似文が見られたのも事実である。こういった現象は、 宋代以降に﹃緩溜経﹄を引用する章麓類の多くが、時唐代の章疏類を注釈・祖述する事に起因すると忽われ、﹃祖述 の時代﹂とき日われる宋代仏教の特徴がまさにあらわれたものと言えよう。 同様に、これは日本の家統類にも言えることである。例えば、良忠﹃選択伝弘決疑紗﹄や了尊 ﹃ 悉曇給略国抄﹄な どのように、﹁﹃健一掬経﹄を引用する有名な中国の意疏﹂からの孫引と目されるものも多く見られたのである。このよ うな要因が新侠文の発見を妨げた理由と考えられる。 @ニ章一節の通りに作業すれば、必然的に孫引き{要略・改変等も含む)が可能な各々の倹文は排除される。 @ ﹃ 仏 容 解 説 大 辞 典 ﹄ に よ る 。 @この廃仏により、例えば長沙周辺の湖南においては全ての経典が焼かれるなどしている。鎌悶 [ 一 九 九 四 } 一 三 五 頁 。 @例えば、 MM 勾お同定以前の研究である牧田[一九七乙が﹁敦娘本になし L とする塚本侠文六・ニ

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などの類似文 を、本稿は

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中に確認している。この他にも本稿は、逮意的引用と思われる 一 部の塚本侠文{つまり、敦燈本 の端々を切り貼りしたと思われる一部の塚本倹文)の複雑な文章構造を明らかにするなどしているが、紙数の関係か らそうした全ての成果を掲載することは出来なかった。よって、これらの成果をいづれの機会にか発表したいと忽つ

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て い る 。 キ ー ワ ー ド r縫銅波';fI1経a侠文掴進 提間続、援問、波利、塚本倹文、新侠文、数値本、電子大蔵経、散供時期 、 三匝、七匝、行進、法銭

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