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龍谷大學論集 474/475 - 021田岡由美子「フレーベルにおける「祝祭」(Fest, Feier)の形成的意味 : 「予感」(Ahnung)との連関において」

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(1)

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フレーベルにおける

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問題提起

に立つフレーベルにとって、鉱物、植物、動物、人間等々ありとあらゆる万有は、 それぞれの内に﹁神的なるもの﹂

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ぬ)を宿しており、意識するとしないとにかかわらず、それを外に 顕現していくことが、万有の使命ということになる。とりわけ﹁神の似姿﹂

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自 己 印 ) 自己の内にある神的なるものを、目には見えないけれども感得することによって自覚的に認識し、しかも自らの自 それを目に見える行為として実際の生活の中に顕わしていくことこそ、﹁人間の使命﹂(回 0 ・

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なのである。フレーベルにおいて、自然の事象や現実の生活に起こるすべての出来事 は、究極的には神的生によって貫かれている。その結びつきを自覚しているのが人間ならではの特徴であり、自ら の使命を自覚的に実現していく人聞にとって、プレーベルの説く所謂﹁生の合ご(戸各自由包邑担当閃)という言葉 一般に理解されているような形市上学的な概念のみではない。それはむしろ、ごく日常的な人間の生の具体的 由意志に基づいて、

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ま 実相そのものなのである。それゆえ、大人にも子どもにも﹁生の合一﹂を生きていることの実感をもたせるために、 フレーベルにおける「祝祭J(Fest, Feierlの形成的意味(回岡) F h u n w u F h d

(2)

彼は母と子の身心を通じた楽しい関わり合い、父親の手伝い、園芸活動や散歩、教育遊具での遊び、お話を聞くこ と、歌うこと、季節や宗教にかかわる行事、遊び祭り等々、様々な場面や機会を捉えて工夫を凝らしていたと言え る。なぜなら、人聞は﹁生の合一

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を﹁予感

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することができるとの固い信念を、彼は持っていたか らである。そこで筆者は、フレーベルが強調する﹁予感﹂を、人間の根源的能力として捉えたい。予感とは、乳児 は乳児なりに、少年は少年なりに、大人は大人なりに、絶えず根源的な生の実相を全身全霊で一挙に直覚する人間 ならではの力であると考えも。たとえば吸乳の際の乳児が母との一体感を素朴に感じとっていること自体、すでに フレーベルの謂う﹁神的世界﹂を直覚し予感していることに他ならず、それゆえそれは、彼の説く﹁生の合一﹂の 原初的形態とも言える。フレーベルは、このような﹁生の合一﹂を感じとる﹁予感﹂の育成こそが、人間形成にお 砂る重要な課題であると捉えていわ。そこで彼は、子どもにも大人にも、生きとし生けるものすべてに貫き流れる 宇宙的・根源的な生そのものを、概念ではなく﹁予感 L によって、一挙に全体的に感得させようと企図し、﹁予感﹂ のはたらく契機となり得る場面を様々に工夫し演出し、自らも享受している。例えば、彼の著書﹃母の歌と愛撫の 歌﹄(一八四四)に代表されるように、きわめてありふれた日常生活の連続における、母と子の相互応答的関係の 場面ではたらく様々な寸予感﹂について、彼は熟慮していも。また他方、日常性に亀裂を入れ、ある特定の時間と 空聞を意図的・計画的に設定された行事として﹁祝祭﹂についても工夫を凝らしている。このように、フレーベル は日常における寸連続性﹂を持つ場面と、それに切れ目を入れるという意味で﹁非連続性 L を持つ場面との、それ ぞれ両方の場面において﹁予感 L を持たせるよう注意を払っており、このことが、人聞が真に人間らしくなるため に必要不可欠の要件であると考えていたと、筆者は理解したい。そこで本稿においては、際立って非日常的な﹁祝 祭 ﹂ ( 吋 gyM 在。円)に焦点を絞って考察を進めていくことにしたい。 フレーベルは、しばしば﹁祝祭﹂について語り、また実際にプロデュースしてもいる。それは、例えば地域の子 p n U 0 3 F 町 υ 龍谷大学論集

(3)

どもの遊び祭りであったり、クリスマス祭という宗教的行事であったり、誕生日会という学園の行事であったり、 婚約という社会的なひとつの儀式であったり、歴史的な出来事を記念する祭典であったりというように、さまざま な形の祝祭である。しかし祝祭は、ただ単に宗教的、ないし共同体的・社会的行事として、大勢の人が集まって楽 しく過ごすためだけにおこなうものではない。そもそも祝祭とは、何かを祝福し・ことほぐ集いのことである。フ レーベルはそれぞれの祝祭において、人々とともに何を祝い、何をことほぎ、何を祈ろうとしたのであろうか。彼 が催した祝祭は、右記のように形態こそ多様であるが、その根底には一貫した彼独自の根本思想が流れているので は な か ろ う か 。 フレーベルの恩物や運動遊戯、園芸活動、﹃母の歌と愛撫の歌﹄などに関しては、これまでさまざま な研究者によって取りあげられてきたのに反して、祝祭について語られることは少なかった。 そうした中にあってポルノウは、﹃教育を支えるもの﹄において、学校における祝祭の意義について、﹁それは人 間の生活に欠くことのできない成分なのであり、これなくしては、人間の生活がその完全性にいたりえないものな のである﹂と述べ、祝祭は人間存在を根源から支えるものであって、人聞が真に人間らしく生きるために必要不可 欠なものであることを強調している。その際ポルノウは、特にプレーベルを取り上げ、祝祭の持つ人間学的意義を と こ ろ で 、 すでに認識していたことを高く評価している。 ただしボルノウ自身は、﹁祝祭﹂の語義について、寸祝い﹂(明色司)と寸祭り﹂(司

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同)とではそれぞれの言葉の 持つ雰囲気が少し異なっている点を指摘し、両者を分けた上でそれぞれの教育学的意義について考察している。け れどもフレーベルにあっては、ボルノウのように ε 喝 命 日 常 ョ と 公 司

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ぺ・とを厳密に分げて語られているわけではない。 プレーベルが多くの場合用いている言葉は E 明

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ぺ・であり、﹁催し物﹂という意味合いも含めて

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を使用して いる場合もある。ところでこの寸予感﹂との連関において祝祭を考えていく際には、宏司自ぺ w と ε 出 川 町 巾 一 九 を 、 そ れ フレーベルにおける「祝祭J (Fest, Feier>の形成的意味(田岡) -597一

(4)

ぞれが持つ雰囲気によって分けるのではなく、両者が内包する人間ならではのリアリティをすくい上げ、そこで 人々が感じとる様々な生の具体的有り様を全体的に捉える方が、﹁予感﹂との連関をより鮮明に浮き彫りにし、そ のことによって、祝祭を通してフレーベルが何を意図していたのかをあきらかにすることができるのではないかと 考える。それゆえ本稿においては、 ε 司

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-とを一括して寸祝う・ことほぐ・祈る﹂という重層的意味 をもつものとして、敢えて﹁祝祭 L と訳すことにする。 さて、篠原助市氏は著書﹃欧州教育思想史﹄において、必ずしも直接的に祝祭に論及しているわけではないけれ ども、プレーベルがおこなった運動遊戯の中で、特に子どもが手をつなぎあう﹁円陣遊戯﹂(同

5

-自 立 巳 ) と は 、 子どもに﹁全体の肢体﹂(のロ

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を体験させ、一同が円になって遊戯することで﹁生の合一﹂を予感させ ることができると説き、それゆえ祝祭の持つ本質的意味と相通じると示唆している点で、きわめて有益である。尚、 この円陣を作って遊戯することについては、後出の﹁遊び祭り(印立巳向。鬼)﹂の節で改めて詳しく触れることにし た い 。 ま た 山 口 文 子 氏 は 、 JF ・プレーベルの運動遊戯にみられる教育思想 L という題の論文において、遊戯祭の意義 を、プレーベルが考案した遊びのひとつである運動遊戯として考察しているが、その中で、円を作ったり、星や花 を表現する運動遊戯を通して、子どもは個と全体の調和を自らの身体で感じとり、﹁生の合一 L を予感するのであ り、﹁アルテンシュタインの遊戯祭﹂では、このような自然と人類と神との﹁全面的な生の合一﹂が、総合的に実 現するところまで高められていると主張している。 さらに矢野智司氏は、著書﹃子どもという思想﹄ の 中 で 、 フレーベルが大人と子どもの双方の人間性を実現する 場所とした寸子どもの庭﹂(阿古骨話

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ロ)という空間の意味について、子どもと大人との交わりという視点から、 人間学的に捉え直す作業をおこなっている。そこで同氏は、﹁アルテンシュタインの遊戯祭﹂を取り上げ、祝祭空 -598一 龍谷大学論集

(5)

聞を創出することによって、子どもにも大人にも﹁生の合ご体験をもたらすことが、﹁キンダ 1 ガルテン﹂の本 来的意図であると捉えている。今回、プレーベルの目指す﹁生の合一﹂が、単なる形而上的概念としてのみならず、 日常の具体的場面でどのように成り立ち得るのかについて、﹁祝祭﹂を手掛りに考察してみようとする筆者の着想 は、この矢野氏の論述に触発されるところが大きい。 このようにフレーベルの﹁祝祭﹂は、これまで主として﹁アルテンシュタインの遊戯祭﹂を中心にして、彼が考 案した遊びのひとつである運動遊戯の観点から捉えられたり、また﹁子どもの庭 L の延長上に、﹁生の合一﹂を大 人と子どもに体験させることのできる場として捉えられている。けれども、矢野氏が著書﹃子どもという思想﹄の 註ですでに指摘しているように、フレーベルが祝祭について言及しているものには、﹁アルテンシュタインの遊戯 祭﹂以外にも、例えば﹁カイルハウ学園のクリスマス祭の催し﹂(回。司包角。

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などがある。しかし実は、プレーベルはそれに加えてさらに﹁婚約 L ( ロ ぽ ︿ 均 一

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ぺ・という言葉を用いているので、明らかに﹁婚約﹂の集いも﹁祝祭﹂に属するものと考えていたのである。 さて、フレーベルはこのように種々の﹁祝祭﹂について語っているのだが、これらの﹁祝祭﹂を通して、プレー ベルが人々に本質的に伝えたかったものは何なのか。フレーベルの寸祝祭﹂とは、彼が究極的にめざした﹁生の合 ごを、日常生活の中で日常性を越えて直覚的に実感できる場ないし瞬間として設定され演出されたものではなか っ た ろ う か 。 フレーベルにおける「祝祭J(Fest. Feier)の形成的意味(回岡) -599一

(6)

そこで、さまざまなタイプの祝祭を順次取りあげることを通じて、これまで形市上的な概念としてしか捉えられ てこなかった﹁生の合一﹂を、その具体的、実践的な問題としてフレーベルが知何に捉えていたかについて、寸予 感 L との連関も含め改めて人間学的・解釈学的に見直してみたい。

祝祭の具体的諸相ーーその一

( 1 ) 誕生日の祝い

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誕生日の意味 人がこの世で一番最初に祝福をうげるのは、生を受げた瞬間、つまり誕生であろう。誕生日の祝いとは、生まれ 出たその日を毎年祝うことを指すが、ここでは誕生日の意味について考察する前に、まず子どもの誕生について、 フレーベルがどのように捉えていたのかをみておきたい。寸子どもが生まれるとは、眼にみえない精神的な本質、 ω 永遠に存在する本質が顕わになること、つまり実在するようになることである﹂とフレーベルは述べる。万有在神 論に立つ彼にとって、子どもとは、たしかに姿形は人間であるが、内に神的生が宿っており、その本質は神のはた らきそのものである。子どもは神からの贈り物なのである。それゆえ︿ああ、無事に生まれてきてよかった。あり がたい。どうぞこの子が健やかに育ちますように。﹀という両親の素朴な思いは、人間の力では知何ともしがたい、 両親や子どもの生を包み込む、より大いなる生の営みが存在し、その極々一部分を自分たちが担っていることを感 じとっている思いであり、宇宙にまで拡がるより大いなる生への信頼や感謝、祈りでもある。﹁子どもが生まれた、 と言われる時、日の出の時と同じように光と喜びがあたり一面に放射しないでありましょうか、それはまた思慮深 い、畏敬の念にみちた厳粛さと一つにならないでありましょうか

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﹂とプレーベルが言うように、子どもが誕生し たという喜びは、我が子が生まれたという個人的な喜びゃ、家族が増えたという共同体的な喜びを意味するだげで ( 仏 自 の ぬ ぎ 江 田 仲 諸 国 崎

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同)││生の共有 -600-龍谷大学論集

(7)

なく、神的生の営みから生まれ、それに新たに参与する生が誕生したという、よりダイナミックでより大いなる生 の連関における形而上的喜びをも、同時に意味している。そこには、子どもの誕生を心から喜ぶと同時に、生を授 けてくださった神への深い感謝や、両親と新たに授けられた子どもの生が、連綿と連なる宇宙的・神的生の一部分 を成していることに改めて気づき、思わず身がひきしまるような謙虚・厳粛・畏敬の念全てが含まれているのであ る。このように、神的生に与って誕生してくる子どもを目の当たりにして、家族が目に見えない神的なるものをリ ア ル に 直 覚 す る 時 、 それが﹁予感﹂なのである。 一年に一回巡ってくる誕生日の意味についてはどうであろうか。誕生日の祝いを彼はどのように捉えてい たのだろうか。﹁誕生日祝いは、ちょうど一年が各季節をひとめぐりした時であるように、時間の一つの区切りで あり、一つの静止点であります﹂と彼は記し、日常生活の連続的に流れゆく時間に、いわば切れ目ないし節目を入 れるものが、すなわち誕生日であると捉えている。さらに続けてこう述べている。寸この時間への区切りとともに、 そこには直ちに三重なもの、すなわち︿今

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-色町印)があたえられることになります。この静止点は、かくして人間としての最高の営みである自己自身の意味確 に捧げられるものです﹂と。つまり、人はわき目もふらずに過ごす毎日の連続的生活 で は 、 諒 一 一 ( 門 出 命 印 ぬ Z u m 己 u m w 印 日 ロ ロ ロ ロ 肉 ) ふと立ち止まって節目を作ることにより、過去、現在、未来にわたる自己の生を顧み、あらためてそこに 自己の意味を感得することができるのである。このような節目としての時は、物理学的な意味での時間ではなく、 人間として生きられている時間そのものである。この時聞は人間形成的に見ても非常に重要な意味を持つ時間とも 言えよう。子どもの場合一つ歳を重ねるごとに、まるでとても大きく成長したかのように思えて、誕生日を境にし て昨日と今日とでは全く違った自己として感じるにちがいない。またその際に、当の子が生まれてきた時の様子や 乳児の時の出来事、将来への期待などについても、親や先生が自然に語ってやることも必要であろう。そういう大 中 で 、 フレーベルにおける「祝祭J (Fest, Feier)の形成的意味(田岡)

(8)

-601-人の態度を通じて、子どもは自己の生の喜びやかけがえのなさを実感し、このことがひいては、より大いなる生へ の感謝や畏敬の念を感得することへと通じるであろう。そこには連続的日常との断絶において、人間ならではの生 を直哉的に直覚する﹁予感﹂が成立しているのは明らかである。そして、過去・現在・未来の自分を今生き生きと 感じとるという自己の意味発見こそ、またフレーベルにおける誕生日祝いの形成的意味でもある。 ( b ) 共同の誕生日祝い(含∞丘町

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宮町内丘)にみられる生の共有 さて次に、この誕生日の祝いを、プレーベルがふたつの学園の共催としている点に注目したい。彼は共同の誕生 日祝いの意義を次のように述べ、その重要性を指摘している。﹁この共同の祝典は、自分がより大きな世界の深く 結ぼれた一員であるという喜ばしい意識をわたしたちにあたえてくれるのであります。:::全員は自分たちの努力 において互いに支え合っていることを感じ、全員の力が各人に分かたれ、生を事けた日を完全かつ真実に祝うこと ができるのであります﹂と。ところで、ここで使われている﹁共同 L の原語 E 巳

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ロョの意味は、それだけにと どまるものであろうか。

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巳邑ぺ・であるが、この言葉には寸共通性﹂・ 1 共 有性 L ・寸普遍性﹂等々の意味もあることは言うまでもない。では彼の言う

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と は 、 何 が ﹁ 共 同 ﹂ 、 ﹁ 共 通 L 、 ﹁ 普 遍 L であることを指しているのだろうか。ここで言う﹁共同 L という言葉は、﹁プランケンプルクとカイ ルハウで挙行された、それらの学園のメンバーの共同の誕生祝い﹂と訳されていることからも明らかなように、二 つの﹁学園﹂における構成メンバーの﹁共同﹂という理解が、一般にはおこなわれている。しかしそれだけであろ うか。それは単に二つの学園が集まったという、組織上の形式的共同性のみを意味するのではなく、生きとし生け るものすべての生を包含した、フレーベルらしいダイナミックな ではなかったろうか。そこで

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という言葉に焦点をあてながら、 院 院 ﹀

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何 回 巳 百 四 件 ヨ ふたつの学園の共同で催された誕生日祝いについて、 さらに考察を 進 め て い き た い 。 -602-能谷大学論集

(9)

その会においては、二つの学園の教師や生徒、誕生日を迎えた子ども、その親、祖父母、兄弟姉妹等、関係者が 一堂に会し、丸いテーブルを囲んで車座になり、演説を聴き、祈りと感謝のための歌を歌う。また、樫の枝でつく られた環から引き抜かれた一本ずつの枝を一人ひとりの胸にさしていくという演出や、野外で共同の食事がおこな われる。それらを通じて、参加者の一体感は強まる。野外での食事をプレーベルは﹁神の贈り物﹂

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の 与 ゅ の 。 2 2 ) と言い、人々は自分たちを取り巻き支えてくれる自然をも生みだした神への感謝をもって食事をいただ く。終わると、子どもたちは自分たちが飼育している動物にえさを与えたり、自分たちが世話をしている庭を点検 したりして過ごす。フレーベルは、人間と同じように神的生に与り、途切れることなくその生をそれぞれに展開し ている諸々の自然も、子どもたちの誕生を祝福してくれていると捉え、自然も誕生祝いに参加していると考える。 それゆえ、そこでは人間同士だけの一体感ではなく、共々に神的生を分け持つ人間も自然も相互に繋がり合い支え 合っていることを、人々はあらためて実感するのであり、それはまさしく、自然と人間との生の共有にほかならな し3 0 このように二つの学園から人々が集まり、共同で誕生日祝いを催すことは、より多くの人々に祝ってもらう中で 感ずる喜びとなり、より多くの人々と生を共有しているという一体感を感じることになる。同時に他方では、さま ざまな年代の人が集まることによって、祖父母から両親、そして孫へというように、世代から世代へとひとつの命 が受け継がれていることを人々は実感する。こうして、二つの学園という組織やそこにいる人々が時と場を共にし いわば横に拡がる ε﹀ 口

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昆昆ぺ・と同時に、各世代を通じた命という意味での、縦の 一人ひとりの生が連鎖し次々にその輸が拡大し、全体として大きな生の喜びの ているという意味での、

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己 邑 ぺ w を も 含 み 込 ん で 、 うねりとなっていくのである。そこでは、万有の根源である神的な生を、人々がそれぞれに﹁予感﹂するのである。 以上のように共同の誕生日祝いは、人と人のみならず、人と生きとし生けるものが共有している生命、 さらには フレーベルにおける「祝祭J(Fest, Feier)の形成的意味(田岡) 603一

(10)

世代を越えて重層的につながる生命の流れといった、さまざまな意味での生命の共有性・普遍性を、寸予感﹂によ って一挙に感得する場ないし機会なのであり、そのことによって人々は、深い生の共同性・普遍性を享受すること が で き る 。 ( 2 ) 婚約祝い(︿色。

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世代を越えて連鎖する生 世代を越えて生が連鎖していくことを、より鮮明に人々に印象づける祝祭として婚約祝いがある。プレーベルは 家庭を植物の樹に、婚約祝いを草木が芽吹く春の光景にたとえて次のように言う。﹁婚約の日には、いつでも家庭 という生命の樹の上に、またその樹から発芽する新しい人類の生命が、家族全員および親戚全員の心を特別な心か らの喜びでみたすのである。というのは:::家庭という生命の樹がよりうるわしい新たな発展を約束するからであ ふ﹂と。婚約は、親自身が自己の内にある神的生命を顕現すべく、子どもを産み育ててきた努力を、引き続き婚約 した子どもたちが受け継ぐことを期待し祈る場である。一方子どもにとって婚約は、それぞれの親許から巣立ち、 二人で新たな家庭を築くことによって、自分たちも人聞の使命として自己の内を貫く神的生命を顕現させるべく努 力をするという自覚を持ち、親がそうしたように次の世代を立派に産み育てることを神に誓い、両親はじめ祖父母、 兄弟姉妹、親戚の人々や友人達にも広く約束する日なのである。そこでは世代聞の生の受け渡しが喜ばれ、期待さ れ、ことほがれる。そのことを通じて人は、自己の生が、脈々と続く生の源である宇宙的・根源的生に支えられて 一体感や安寧の気持ちを抱き、一人ひとりの生が、かけがえのない尊さを持っていることを改 い る こ と を 実 感 し 、 めて感得するのである。 つまり婚約祝いとは、共同の誕生日祝いと同様に、世代を越えて生が連鎖しつながっていくことを、人々に﹁予 -604一 龍谷大学論集

(11)

感﹂させ、自分もその脈々と連なる神的生の一端を担っていることを・自覚させる場といえよう。

( 3

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ヴイルへルム・カルル氏の死に捧ぐ(﹀自の

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天国における生

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つながる生と死 さて一般に誕生と対極にあるのは死であろう。なにより人聞にとって、死は大きな悲しみである。にもかかわら ずフレーベルは、﹁ヴィルへルム・カルル氏の死に捧ぐ﹂という追悼文の中で、葬儀のことを、﹁至高の生の祭り﹂

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-を用いている。なぜフレーベルはこのように表現したのだろうか プレーベルは、﹁我々はなぜカルル氏の死を悲しむのか﹂と反語的に何度も聞いかげ、彼の死は決して悲しむに はあたらないと強調している。なぜならば、敬慶なキリスト教徒プレーベルにとって、死とは、神から生まれ出た 生が、神の意向によって再び天上の世界へ呼び戻されることであり、あたかも﹁曹がそのより高き花へと開花す ω る﹂ように、より高次の次元へと聞かれゆくことだからである。そこでは生と死の対立は消え、ひとつにつながっ ている。死とは、終わりを意味するのではなく、より高き存在として天国での生を事受することにほかならない。 つまりフレーベルは自然科学とは異なる形市上的意味での、生も死も含みこんだひとつの途切れることのない普遍 的生命を考えていたのである。われわれが普段日常において考える E 司

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べ・は、今この生を生きていることを互い に喜び合うという意味をもつが、フレーベルのここで言う R 司

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ぺ・とは、先に﹁共同の誕生日祝い﹂で述べたと同 様に、生と死を超えた普遍性をもっ宇宙的・神的生命を感得することであり、それへの希望・感謝・畏敬・祈りを 意味する。たとえ現世において姿形は見えなくても、故人は天上の世界においてより高き存在として、その魂は生 き続けるとフレーベルは捉えている。葬儀を 1 至高の生の祭り L と表現するのも、その故であふ。 プレーベルにおける「祝祭J(Fest, Feier)の形成的意味(田岡) -605一

(12)

( b ) 天国での生を共有すること

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それゆえプレーベルは﹁天国に友をもっということは、美しいことではないか﹂と語り、カルル氏が天国で享受 している生を、地上で生きる自分たちも共に感じとり、喜びたいと考える。葬儀に参加することを通して、人が日 常の生とより根源的な生との連闘を実感することができ、このように天国での生を、リアルに感じとることができ るのは、まさに神的生を直覚的に﹁予感﹂しているからであり、そのことによって人はより深い存在信頼を持つ。 それは宗教的次元での安心立命と言えよう。

祝祭の具体的諸相ーーその二

( 1 ) クリスマス祭(色。司

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聖なるものへの開げ ところで、今まで人間の誕生と死に関わる祝祭について述べてきたが、クリスマス祭は、神の子であるキリスト の生誕を祝うおごそかな宗教行事である。それは厳粛さと同時に、子どもには喜びゃ楽しみにあふれた身近で親し みのある祝祭である。 ( a ) 神聖な空間に生まれ変わる瞬間 プレーベルがカイルハウ学園で行なったクリスマス祭においては、大人と子どもによる部屋の装飾、贈り物作り といった準備段階を通して、次第に人々の身も心も、喜びゃ期待、厳粛さに満ち溢れていく。いよいよ祝祭当日、 クリスマスツリーにすべてのロ l ソクの灯が灯されると、部屋じゅうが光に照らし出される。寸そこはあたかも天

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上の園が降りてきて、その尊厳きが現れでたかのごとくであった﹂というミツテンドルフの記述や、﹁私はまるで 天国にきたようでし

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という子どもの言葉からも明らかなように、普段住み慣れた部屋が、厳粛な喜びに満ちた 神聖な空間として生まれ変わる。日常性をはるかに越えた聖なるものへと、大人も子どもも聞かれゆくのである。 -606-龍谷大学論集

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それは、万有を貫く大いなる生の根源である神への畏敬であり、またその荘厳さにふれて思わず祈らずにはいられ ない敬慶の心情であり、さらにこの神的生が自己の内にも宿っていることを感じとる静かな喜びであろう。たとえ 幼い子どもであっても、神的生を一挙に﹁予感﹂することで、天上の神がキリストをこの地上に遣わせたことを、 厳粛さや荘厳さといった、普段とは違った部屋の雰囲気の中で感じとるのである。このように、クリスマス祭はイ エスの誕生を祝うことを通して、地上に生きる大人と子どもが日常を越えた聖なるものへと聞かれていく契機とな り、大人と子どもの生は万有の生を統一する神的生との連関を感得するという﹁予感﹂のはたらく場なのである。 ( b ) 神からの贈り物の生 その後、贈り物を子どもたちが次々に開けはじめると、今度は部屋全体が生き生きとした子どもらしい喜びに沸 き返る。自分への贈り物に喜んだり、贈り物を友達とお互いに見せ合ったり、さっそくそれで遊んだり、自分の作 った贈り物の説明をしたり等々、各々が活気にあふれ、満足にみたされる。フレーベルはこの子どもらしい純粋な 国 喜びを大切にする一方、贈り物は単に教師や両親からのものではなく、ー聖なるキリストが贈る贈り物﹂であり、 贈り物を通して子どもに純粋な喜びをもたらすと同時に、神への感謝の念を育むよう子どもを導く。というのは、 贈り物はキリストを遣わした神、万有の生の根源である神からの贈り物であり、そこには神的生が吹き込まれ、神 の愛が込められているからである。贈り物は、実際には積み木箱、スケート靴、合わせ遊び、動く動物、絵本とい った寸物しではあるが、それらには神的な生が宿っており、子ども達はそれを用いて遊ぶことによって、贈り物に 込められた神的生と自己の内にある神的生が相呼応するのである。それゆえ贈り物を手にした子どもたちの喜びゃ、 彼らの両親や先生への喜びゃ感謝は、日常を越えたより高次の万有の根源である神への感謝につながっている。 ( C ) 自然の生の感得 と こ ろ で 、 聞 フレーベルはクリスマス祭をブ自然への案内の祝祭 L と言う。子ども達は、 クリスマスを迎える部屋 フレーベルにおける「祝祭J(Fest, Feier)の形成的意味(回岡)

(14)

607-の雰囲気作りのために、家の近くにある樹木に鳥がたくさん訪れるように餌を取り付けたり、クリスマスツリーに 使う椛の木を準備したり、その飾りや贈り物に使う木の実や草花を探したり集めたりする。このようにさまざまな 動植物に接することを通して、子どもは自然の啓示に耳を傾げ、導き入れられ、自然の中に隠されている神的法則 を発見し、自然の生を我が事のように感じとることができる。 閉 またプレーベルは、﹁きらめく星の夜は自然の最も崇高なる現象﹂と述べ、クリスマスの荘厳な雰囲気を一層盛 りあげてくれる、星の輝く夜空という自然現象へも人々の目を向けさせる。星のまたたく夜空は、宇宙のすみずみ にまで神的な生が満ち溢れていることを人々に感得させ、人間もその宇宙的生命の一部分であるという喜びゃ不思 議さ、吸い込まれそうになるほどの深い一体感、落ち着いた充足感、あるいはこれらすべてを生みだした神への憧 慣、讃仰、畏敬の念を起こさせる。その時確かに、宇宙にまで拡がる自然の内にはたらく神的生と、人間の内にあ る神的生とが相呼応して共振している。どんなに幼い子どもであっても、この生の響き合いを喜ぶこと自体が﹁予 感 ﹂ な の で あ る 。 以上のようにクリスマス祭は、人間の地上的な生を天上的な生へと聞いていく宗教行事であり、これによって人 は日常性を超え出て、より高次の聖なるものへと自らの魂を導きゆく宗教的心情を育むことができる。 ( 2 ) 遊び祭り

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件)││神と自然と人間の合一 プレーベルは宗教的心情を育むことに重点をおいた祝祭として、クリスマス祭のほかに、その地方で昔から伝え られてきた子どもを中心とする教会の祭りや、子どもの遊戯を中心におこなわれる遊び祭りなど、子どもを主体と した祝祭を挙げている。彼によれば寸祭りの時や祭りの日ほど、幼児のより高い生命を生き生きさせるのに好都合 側 四 な時はない﹂のであり、子どもにおげる﹁より高次の、宗教的な生

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を早くから養 -608-龍谷大学論集

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ω うために、祭りを特に重要視している。その際最も大切なのは、大人の﹁敬度な心﹂(骨円骨

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盟 ロ ロ ) で あ り 、 それが子どもたちの魂を高め清めるとフレーベルは言う。たとえ、祭りのもつ意味をはっきりと理解することので きない幼な子であっても、心からの喜びに浸りつつ、敬鹿な面持ちと心情で祭りの準備にいそしむ大人の態度や、 普段とは全く違った周囲の雰囲気を、子ども達は子ども連なりに敏感に感得することができる。それらの様々な印 象や雰囲気は、やがて子どもの成長に伴い自覚化され、その心情の内に聖なるものとして定着してゆくというので ある。このように、祭りの場こそ﹁予感﹂が働きやすい場だと確信していたフレーベルは、子どもに宗教的心情を 育むため、遊び祭りの場所や内容に関していろいろと工夫をこらしたのである。

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輪を作って遊戯することの意味 たとえば一八五

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年八月四日にアルテンシュタインで聞かれた遊戯祭では、子どもたちは輪を作ってさまざまな 遊戯を繰り広げる。この時の﹁輪﹂とは、運動遊戯の一形態という単純な意味だけでなく、世界と自己とのかかわ りを具象化して象徴的に表わすものであり、神性を宿した子ども違が互いに手を取り合って作る輪は、神の意志に 充たされた聖なる空間を、自に見える形で気づかせることになる。フレーベルは輸を作る遊戯について次のように 語る。﹁この遊戯全体を通じて、まさに個々のものは全体から、つまり一つの統一的なものからあらわれ出てきた、 という予感が目ざまされ﹂ふと。輪の中心に立つ先生や友達を見る時、また全員の心を一つにして、リズムに合わ せて前後左右に身体を動かして遊戯を楽しむ時、子どもはたしかに万有の根源である神を感じているし、自己の内 なる神的生を寸予感﹂しているのである。まさに篠原氏が著書﹃欧州教育思想史﹄において説いているように、 ﹁円陣遊戯﹂は﹁生の合一﹂を予感させる体験なのである。さらに、﹁輪﹂を作ることは、寸生の合ごを身体的に 感じとらせるために、寸遊び祭り﹂においてはもとより他の﹁祝祭﹂の場面でも、フレーベルによって繰り返し用 いられている根本的な方法であり、﹁祝祭 L 全体の意図と合致するものである。それゆえ、﹁祝祭﹂もまた寸生の合 フレーベルにおける「祝祭J(Fest, Feier)の形成的意味(田岡)

(16)

-609-ごを予感させる具体的な場ないし機会として工夫されたものであったという点で、 一貫していると言えるであろ う ( b ) 子どもの遊戯を通じて大人が変わる またこの遊戯祭においては、遊戯する子ども達を取り囲むように、子どもの遊戯を観覧する両親、祖父母、兄弟 姉妹、友達、近隣や遠方から来た人々のための観覧場所が設けられている。これは、単に子どものかわいいお遊戯 会を見る、あるいはフレーベルの﹁子どもの庭﹂(回忌

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の実践を近隣の人々に宣伝するという意図をも つだけではない。子どもの遊戯を見る場に居合わせた周囲の大人達も、同様に﹁生の合ご体験をするという意味 を も 含 ん で い る 。 プレーベルは一般に大人の存在について、﹁われわれは死んでいる。:::われわれの語ることがらは、ほどんど ω すべて、虚ろで、空しく、内容も生命もない﹂と述べ、大人が、日々のこまごまとした生活に忙殺されがちである ために、内面の生き生きとした感情を失い、予感が希薄になっていくことを嘆いている。 このように日常に埋没した大人が、遊び祭りにおいて、子どもたちによって繰り広げられる遊戯を目の当たりに し、子どものリズミカルな心身の動きや歌声に触発されて、観覧する大人もそのリズムのうねりに参加するのであ る。すると硬直化していた大人の生も弾みだし、響きだすのである。そこには心地よさ、高揚した気分、躍動感や 解放感といった生への深い喜びが満ち溢れている。こうして大人と子どもの生が、遊び祭りという喜びの高まりの 中で、ひとつの大きな生のうねりとなって共振する。これこそが大人も子どもも﹁生の合一﹂を生きていることで あり、これを実感することが﹁予感﹂なのである。それは我が子であろうとなかろうと、社会的な職業や階級さら には氏族を超えて、大人と子どもが神的生を共有するという、より深い次元での共同感を味わうことであり、宇宙 的・神的生への憧慣・希望・感謝・畏敬・祈りでもある。こうして遊び祭りを契機として、大人は忘れていた自己 - 610一 龍谷大学論集

(17)

の内にある神的生に改めて気づかされ、それを顕していくことが人間の使命であると自覚し直し、もう一度あらた に、宇宙的・神的生との連関において生きようと決意するのである。つまり神の意志を実現する責任を我が身に引 き受げ、それに応え、より高次の自己へと努力する存在に生まれ変わるのである。このように子どもの遊戯を通じ て、大人が人間の本源的な力としての﹁予感﹂を取り戻すこと、ここに﹁子どもの遊び祭り﹂の大人にとっての意 義があるとプレーベルは考えている。つまりこれこそ彼が強調した、大人が子どもの内にある神的生を実感するこ とによって、自己の内に潜む神的生を改めて自覚し、それの顕現に努めるべく生き直すという意味の寸生の更新﹂ ( 聞

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各 自 由 ) な の で あ る 。 ( C ) 神と自然と人聞の合一 さらに、遊び祭りに選ばれた場所は、遠く周りを山々によって固まれ、実り豊かに耕された畑や牧場、森林、そ れに商工業地域が点在している、自然の営みと人間の営みとがひとつに調和した丘の上であった。フレーベルは記 している。﹁この日をあらゆる人々にとって忘れられない一日にするために、じっさい自然はすべてのものを呼び ω 集めようと望んだかのようであった﹂と。空や大気、木々や花々など背後に拡がる自然も、人間と同じく神的な生 を分げ持っているのであり、その自然が人聞の営みである遊び祭りの雰囲気を盛り上げ支えており、人々の生をい っそう生き生きとしたものに感じさせているのである。﹁まさにその遊戯祭は、自然と、人々と、さらには神との 合一の祭川﹂に他ならなかった。このように、自然も人間もそれぞれが神から賜った固有の生を精一杯展開しつつ、 より大いなる生の響き合いを構成し、やがては宇宙全体に及ぶ﹁生の合一﹂のシンフォニーを鳴り響かせる場こそ が、遊戯祭だったのである。こうしてフレーベルは、寸生の合ごを決して単なる形而上学的な理念としてだけで なく、実際に地域の人々も共に参加する遊び祭りにおいて、子どもにも大人にも、これを生き生きと感得できるよ うな特別の場として設定したと考えられる。 フレーベルにおげる「祝祭JCFest, Feier)の形成的意味(田岡) -611一

(18)

おわりに 以上のように、プレーベルの﹁祝祭 L は多面的で重層的であった。たとえば

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誕生日の祝いや子どもの遊び祭り に参加した見知らぬ者同士が、﹁場﹂を同じくすることによって、地域社会はもちろんのこと、それを超えた普遍 的・根源的な生との一体感を感じたり、また動植物を含め生きとし生けるものの生を自己の生の中に実感したりす る こ と 、

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あるいは婚約祝いに出席して、親は親なりに、また子どもは子どもなりに、次世代を産みかつ育てるこ とで人間的生の世代聞の受け渡しが成立することを知り、したがってそれが人間の使命であり、また責任でもある ことを自覚すること、制あるいは葬儀やクリスマス祭に際しては、地上における個々の生が天上におけるより大い なる生と直結しているのを実感すること等々

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実にさまざまな具体相がみとめられた。 それらはまさに、親から子へ、子から孫へというように世代を越えた人と人との聞で、また動植物や星といった 自然と人間との間で、さらには地上における有限な生と天上における永遠の生との聞で行き交うところの﹁生の共 有﹂であり、それはまた、一方では宇宙にまで拡がりつつ、他方では神的生への合一を目指して、順次に拡大・深 化していくダイナミックな全体的連関における﹁生の共振﹂の姿なのであった。これによって人は、自他の生が宇 宙的・根源的な生と繋がっているという深い一体感・共同感へと導かれる。やがてそれは自覚化されて信頼、感謝、 畏敬の念にも至るであろう。つまり﹁祝祭﹂とは、自らもその一部を分け持つ﹁部分的全体﹂としての人聞が、よ り大いなる宇宙的・根源的な生に直面した時の思い││すなわち、素朴に神的生との一体感を享受している際の充 足感や喜び、信頼、さらにそれに一歩でも近づきたいという憧慣や期待、あるいは自己の有限性を自覚した時の謙 虚、厳粛、同時に自己が神的生との連関において生かされていることへの感謝、また森羅万象を生み出す神への讃 何、敬度、畏敬、祈り等々││要するに、人間ならではのさまざまな根本感情が一挙に立ち現われ、トータルに感 n r “ T i c u 龍谷大学論集

(19)

得される場ないし機会であった。 ﹁祝祭﹂は、直線的に連続した日常生活をしばし止めて、非日常的なことを行なうという意味において、連続性 に切れ目をいれる非連続的性格を持つものと言えよう。人は、﹁祝祭﹂という非日常的な場や機会を与えられるこ とで、単調で閉鎖的になりがちな自己の生を、より大いなる宇宙的・根源的生へと聞いてゆく機縁を与えられる。 自分が根源的な生に支えられていると感じとり、自己の生が、実は多様な連関の中で生かされていることに気づく ことによって、形市上的な自己の意味を識るのである。しかもこの認識が、フレーベルの場合、ただの客観的認識 ではなく、大人も子どもも生き生きと寸我が事 L として感じとる、主体的・実存的な生の実感と結びついている点 に、彼の独自性がある。こうして実存としての自己へと聞かれる人聞は、より大いなる生の連関の中で課せられて いる自己の使命を自覚し、それを現実の生活において実現する責任を自ら引き受げ、それへの応答を果すため、よ り高次の自己へと努力する存在に生まれ変わることができる。これを可能にする発端をなすものこそが、自他を貫 く神的生の﹁予感﹂なのであり、ここにはすでに、日常的な発達とは異なる非連続的な覚醒が潜んでいる。しかも、 この寸予感﹂からは、その必然的帰結として、自覚的に﹁生の合ごを目指して努力する人聞ならではの形成的プ ロセスが続くのである。それゆえ﹁予感﹂は、人が十全な意味で人間として成熟していく決定的契機であり、ここ

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にこそ﹁予感﹂の本質的に形成的な意味が存すると一言えよう。したがって寸祝祭﹂の本質的に形成的な意味も、ま さにここに存すると言わなげればならないであろう。 註

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拙 稿 ﹁ フ レ ー ベ ル に お け る ︿ 予 感 ﹀ ( ﹀

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を め ぐ っ て │ │ 主 著 ﹃ 人 間 の 教 育 ﹄ を 中 心 に 再 検 討 す る │ │ ﹂ ( ﹃ 人 間 教 育 の 探 究 ﹄ 日 本 ぺ ス タ ロ ッ チ 1 ・ プ レ ー ベ ル 学 会 紀 要 第 十 二 号 、 一 九 九 九 年 三 三

1

四 九 頁 。 ) に お い て 、 筆 者 は 従 来 プレーベルにおげる「祝祭JCFest, Feier)の形成的意味(回阿) -613一

(20)

の﹁予感﹂概念を、次のように捉えなおそうと試みた。すなわち予感←直観←概念へという発達認識論的な枠組みにお ける初発段階として位置づ砂るのではなく、﹁予感﹂をプレーベルの説く独自の宇宙的・神的生を、一挙に直覚する人 聞の根源的能力として捉えた。

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司 ・ 司 α v o ︼ 噌 ︼ ) 目 。 冨 m g n v m P R N Z v g m -同 曲 目 5 2 ・ E 2 ・ ω -N ω ・ フ レ ー ベ ル は ﹁ 予 感 は 早 く か ら 人 間 の 中 に 啓 培 さ れ ( 匂 出 荷 。 ロ ) 、 強 化 さ れ ( 田 仲 間 件 。 ロ ) 、 陶 冶 さ れ る ( -E 白

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べ き も の ﹂ と 述 べ 、 寸 予 感 L の育成を発達のごく早い段階か ら お こ な う こ と を 訴 え て い る 。

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拙 稿 ﹁ ﹃ 母 の 歌 と 愛 撫 の 歌 ﹄ ( 冨 ロ ロ 向 山 門 ・

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仏 関 g o -o 骨 円 ) を 解 釈 学 的 に 分 析 す る │ │ ︿ 予 感 ﹀ の 深 化 に 焦 点 づ け て ﹂ ( ﹃ 人 間 教 育 の 探 究 ﹄ 日 本 ペ ス タ ロ ッ チ l ・フレーベル学会紀要第十四号、二

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二年)において、子どもの内面的な 成熟と同時に、﹁予感﹂の内容が次第に高次化・醇化されてしていくプロセス、すなわち寸予感﹂の自覚化を明らかに し、フレーベルがそのことに最大限の意を持ち工夫を凝らして、﹃母の歌・愛撫の歌﹄を著していることを論証した。

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呈 印

n v g B g R E n v g ︿ 2 2 8 2 N g m g m 凶旬開 a o F E m -O z -o h w 冨 a o F 出 命 日 仏 m g m 話 " 呂 田 P ω ・ ﹀ 口 出 ・ 呂 田 ∞ ・ ω -a ・ 0 ・ F ・ポルノウ著、森昭・岡田渥美訳﹃教育を支えるもの﹄繋明書房、一九八九年、一七四

1

一 九 五 頁 参 照 同ポルノウによると、﹁祝い﹂(司色町円)には歴史的な記念日の祝典、あるいは葬式や卒業式といったさまざまな祝いが あるが、いずれも荘重さ・厳粛さに満ちているのに対して、他方﹁祭り﹂(司自己には、結婚祝いや歓迎会等があり、 そこにおいて人々は、祭りそのものを楽しみ、新しい深い共同感を味わうことができ、祭りは歓喜に溢れ、華やいだ雰 囲 気 を 持 つ と 言 う 。 刷﹁婚約﹂においては、

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, 一 色 冊 、 " を 用 い て い る 箇 所 が あ る 。 同 q s a m m g B E g o -H O H M 包 括 o 松 田 n v o ω

w o p 宵 m m ・ 4 ・ 4 ︿ - F g m 0 ・ k F ぴ け ゲ 切 円 四 ・ N -E a m -│ │ 以 下 。 ・ 同 ω ・ と 略 記 す る ー ー ω ・ ω g ・ ω ・ 8 H ・ 小 原 園 芳 ・ 荘 司 雅 子 監 修 ﹃ プ レ ー ベ ル 全 集 ﹄ 第 三 巻 、 玉 川 大 学 出 版 部 、 一 九 八 一 年 、 二 八 三 頁 。 仰 の ・ 司 ・ ω ・ ﹀ 宮 -H ・ 切 仏 -Y H 由 g ・ ω ・ ω 由 印 ・ 邦 訳 、 六

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頁 に お い て 、 = & o p w 日 常 向 日 常 巧 a z g n 宮 ョ と 、 ま た 、 。 ・ 可 ・ ω ・ ﹀ ぴ 件 -Y W 仏 ・ ﹁ 呂 田 m w m 山 ・ ω ヨ ・ 邦 訳 六 三 買 に お い て 、 ε 色 巾

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日 R b g n 宮 町 民 g g 白 = と 用 い ら れ て い る 。

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篠原助市﹃欧州教育思想史(上)﹄玉川大学出版部、一九七二年、三六六頁。 剛 山 口 文 子 ﹁ F ・フレーベルの運動遊戯にみられる教育思想﹂、(﹃人間教育の探究﹄第四号、日本ぺスタロッチ l ・ フ -614一 龍谷大学論集

(21)

レ ー ベ ル 学 会 紀 要 、 一 九 九 一 年 、 三 三 頁 ) 。 側矢野智司﹃子どもという思想﹄玉川大学出版部、

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・小原因芳・荘司雅子監修﹃フレーベル全集﹄第三巻、玉川大学出版部、 年 、 二 八 二 頁 。 帥 巴

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ω 宮 ・ 邦 訳 、 同 右 、 三 三 六 頁 。 帥 の ・ 司 ・

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・ 邦 訳 、 ﹃ 全 集 第 五 巻 ﹄ 、 三 一 頁 。 回 虫 丹 0 ・

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・ 邦 訳 、 同 右 、 三 二 頁 。 闘 の -H M ・

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ω 怠 ・ 邦 訳 、 ﹃ 全 集 第 三 巻 ﹄ 、 二 七 六 頁 。 川 仰 の ・ ︼ U ・

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・ 色 申 ・ 邦 訳 、 同 右 、 九 七

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九 八 頁 。 側 巴 同 0 ・

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・ 色 申 ・ 邦 訳 、 同 右 、 九 九 頁 。

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フレーベルの葬儀の捉え方と同様の実例としては、吉田敦彦氏の﹁死から生を見る視線││メキシコの﹁死者の日﹂ をめぐって││﹂(﹃老いと死││人間形成論的考察ヘ岡田渥美編、玉川大学出版部、一九九四年、八七

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一 一 七 頁 ) を 挙 げ る こ と が で き る 。 聞 の -H M ・

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・ 邦 訳 、 ﹃ 全 集 第 三 巻 ﹄ 、 一

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・ 邦 訳 、 同 右 、 六 一 頁 。 倒

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ω 閉 山 ・ 邦 訳 、 同 右 、 二 八 九 頁 。 側

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・ 邦 訳 、 同 右 、 二 八 八 頁 。 一 九 九 五 年 、 一 二 三

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一 一 三 頁 参 照 。 一 九 八 プレーベルにおける「祝祭J(Fest, Feier)の形成的意味(田岡) p h u 唱i p n v

(22)

側 口 町 件 0 ・ω ・ ω ・ 邦 訳 、 同 右 、 二 九 三 頁 。 仰 の -H M ・ω -K F け N ・ ω ・ 目 当 ・ 邦 訳 、 ﹃ 全 集 第 五 巻 ﹄ 、 主 三 頁 。 側 聞 , ・ 甲

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ω -b ・ 闘 の ・ 司 ・ ω -k r H M F P ω ・m m 戸 邦 訳 、 ﹃ 全 集 第 五 巻 ﹄ 、 ニ 七 一 頁 。 帥 思 Z -ω ・ 問 問 ∞ ・ 邦 訳 、 同 右 、 二 七 二 頁 。 師岡田渥美編﹃人間形成論││教育学の再構築のために﹄玉川大学出版部、 再 規 定 に 向 け て ﹂ を 参 照 。 キ ー ワ ー ド 祝祭、予感、人間形成 一 九 九 六 年 、 ﹁ 序 章 人 間 形 成 の ︿ 会 三 的 ﹀ -616一 龍谷大学論集

参照

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