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Title 血脇守之助伝

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Academic year: 2021

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Posted at the Institutional Resources for Unique Collection and Academic Archives at Tokyo Dental College, Available from http://ir.tdc.ac.jp/

Title 血脇守之助伝

Journal , (): ‑394

URL http://hdl.handle.net/10130/917

Right

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第 四 章 就 職 戦 線

新聞記者として第1歩

明治二十二年五月'慶応義塾を卒業した守之助は東京新報社に入社した。

東京新報社は当時銀座三十間堀にあった政府の機関紙で、同社の毎月の経費の不足は内務省から支出されていたの

で'県治局長(地方局長)末松謙澄(後の内務大臣)が毎週土曜日の午後には必ず同社に出張して監督していた。

1日の発行部数は僅か1千六百部程度であって、今日の新聞社とは比較にならぬ規模であったがへただし当時とし

ては1流の大新聞であった。

守之助は新進気鋭の政客へ尾崎行雄や犬養毅等にあこがれて'まず新聞記者になることを思い立ったまではよかっ

たが'手蔓が全‑なかったので困惑していた.これを見た盟友中候精一郎が父や叔父に頼み込んで東京新報入社の手

続きをとってくれたのであった。

主筆は朝比奈知泉'編集長は二階堂行文'編集局員には筒井勇'五十風光彰、笠井彰等多士済々であった。

守之助は末席の編集局員で、横浜の英字新聞'ヘラルドの通信電報の覇訳や地方紙四十有余の記事の切

抜き作業などをしていた。ある土曜日の午後のことである。例によって末松謙燈が出社し'会計簿をみて'

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「ほう今月も八百円の欠損か'仕方ない」

といいながらさっさと帰ってしまった。これを聞いていた守之助は'この事業が経済的に独立困難な事を身をもっ

て体験したが、持前の改革への熱情が湧き上り、坂本営業主任をつかまえて'

「この新聞をもっと売れるようにするよい方法があります」

といってしまった。

営業主任は新米の進言をあてにしてはいなかったが、それでも

「どんな方法かね」

と聞き返した。

咽嵯に思いついたのですが、東京市中を走っている鉄道馬車の中に広告を出したらどうでしょうか」

営業主任は意外な面持ちで、

「広告費を出したところで果たして効果があがるだろうか」

と聞き返した。広告などそれほど大切とは考えられていない時代のことである。

「たしかにあるでしょう。どんな事業でも宣伝方法如何によって営業成績が変わる筈です」

幸いにして坂本営業主任はその案に賛成し'「東京新報社の広告掲載料は'新聞の一面が六段あって'広告料は一行十銭連続広告は一行五銭まで割り引きす

る。丸善書店のような大広告を連続して掲載して‑れる場合には一行二銭五厘であるからへこれを参考にしてはどう

いってくれた。そこで守之助は早速鉄道馬車の会社を訪れた。

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当時の鉄道馬車の社長は牟田口元学(改進党の重鎮)で、汐留の鉄道馬車発着所の事務所で執務していた。守之助

にとって実社会に飛び込んで初めての経験である。威儀を正して用件を持ち出すと'社長は、

「いまだ前例のないことですから'私の1存ではご返事できません」

「これを前例となきったら如何でしょう」

「さあ'他の重役の意見を徽する必要もありますから・‑⁚」

乗物内に広告を掲載することなど当時としては破天荒な考えであった。

か‑して守之助の初陣は不発に終わった。世の中のことはそうそう自分に都合よくはいかないと思いながら帰途に

ついた。

入社四カ月を経た7夕'自分の机の前に投げ出された外電を心せわしく手にとろうとした剰邪、折悪し‑窓から吹

き込んだ南風が吊りラソプの吊り鈎の先端を強くはねあげ、それが守之助の睦に強‑引っかかった。

「痛い」

あわてて身を退いたのが余計悪かった.鈎がiそう深く喰い込んでしまった.記者連が総立ちとなって走り寄りよ

うや‑にして釣を引き抜いた。溢れ出る血汐をハンカチで押さえながら近‑の医者で応急の手当てを受けたが、意外

に重傷ということであった。専門医の診断によれば、半月や一カ月では到底快癒しないといわれたので、社の迷惑も

考えて一旦辞職し、帰省することになった。

祖父栄助は六十三歳へいわは六十二歳であったが、守之助が帰省すると女中1人を介抱につけて療養に専念させ

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た.叔父芳松も時々顔を見せてはともすれば沈みがちな守之助の気拝を引き立てて‑れたO

やがて傷は快癒したが'いつまでもブラプラしているわけにはいかなかった。すでに松島屋の経営は楽とはいえな

かったからである。何か仕事を見付けなければと思いながら仰向けになって天井を凝視しているうち、池田慎平と共

に三十間堀河岸の良明堂という新聞販売店で立読みしている自分を思い出した。そういえば我孫子には新聞販売店が

ない。ガバッと跳び起きた守之助は板場に行って叔父芳松に尋ねた。

「叔父さん'我孫子に新聞販売店があるのかね」

「ねえよ」

「それじゃ、何処から新聞がくるの」

「多分布佐からじゃないかな」

その翌日へ守之助は懐かしい京橋三十間堀河岸の良明堂を訪れ、早速交渉にとりかかった。

「我孫子の町に新聞販売店を開きたいので'よろし‑お願いします」

この良明堂は、地方の販売店に新聞の回送もするかなり大きな店であった。幸い東京新報の記者であった前歴がか

われて保証金なしの交渉が成立した。

徒手空拳事業に乗り出した守之助は大いに張り切っていたが'栄助は甚だうかない顔をしていた。学資をつぎ込ん

できた目的は新聞屋などにするためではなかった。今をときめ‑官員にするためであった。松島屋の表の問を販売店

に改造して仕事に精を出す守之助をみつめて、どうせ永続きはしまいとは思いながらも'何か割り切れぬものを感じ

ていた。

守之助が足を棒にして頼み込んだ得意先は数十軒であったが'配達するとなると近郷近在かなりの距離を歩かねは

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ならなかったので、島根熊吉を配達係として雇うことにした。

この界隈の新聞は先にも述べたように'我孫子町から東三里のところにある布佐町の榎本新聞店から配達されてい

たから'守之助の事業は忽ちその縄張りと衝突することとなった。先方からは人を介して厳重な抗議をよこしたが'

守之助はこのような威嚇を受けつけなかった。それで相手方は方針を変え'損害金五十円を提供し閉店に応じるよ‑

辞を低くして依頼してきた。守之助は中途半端に閉店するつもりはなかったが'丁度その頃へ守之助の友人で当時有

名な哲学者井上円了の門下生の一人から'新潟の三条町米北数枚から英語教師として迎えたいという招鴨が届いたの

で'これを汐に赴任してみょうかという気になった。栄助はもともと新聞販売店に乗り気でなかったので'一も二も

な‑これに賛成し、開店僅か三カ月で新聞販売店は閉鎖となった。

月俸二十五円は当時として相当な給料であったoLかし英語教師は時代の新知識としてそれ相応の服装を整えねば

ならなかったので、東京柳原土堤の古洋服屋をあさって、金十五円也で洋服1揃いを求め、威容を整えた.

英語教師大活躍

明治二十三年一月へ守之助二十l歳、親しい人達に見送られて華々しく赴任の途についた。東京上野発の信越線列

車に乗り、早春の信濃路'雪深い越後路を経て直江津に下車した。直江津からは人力車に乗り米山を越え柏崎に出て、そりそこか乗って長岡へ'長岡から安進丸という蒸気船に乗船し信濃川を下り'やっとの思いで氷雪降る三条町に

辿り着いた。

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米北教校は三条町の南郊'信濃川の支流五十嵐川の南岸にあって、東本願寺の僧侶の機関学校として設立されたも

ので'校長は広瀬某といい'修身科を担当する傍ら事務家としての才腕をふるい'教頭は種田諦円といい、校長同様

真宗大学林の出身者で仏学を教えていた。

生徒は一般に真宗の関係者の子弟で、予科二年、本科三年の課程を終了すれば僧侶の資格が与えられる規定となっ

ていた。

三条町にはこの特殊な学校を除いて他に中等教育を施す学校がなかったからへ一般の子弟は高等小学校卒業後直ち

に職業につき'富裕階級の子弟は家庭教師を雇って教育を受けるという有様であった。

そのため'新進の英語教師血脇守之助は、この他で大歓迎を受けることになった。

三条町到着のその夜'雪にとざされた旅館越前屋で風呂を浴び'夕食を終えへ寛いでいると、女中に案内されて広

川貞書というこの町きっての呉服商が訪れてきた。来訪の目的は息子の家庭教師を依頼したいとのことであったが'

若造の自分に叩頭九拝する中年の金持ちの話を聞きながら、この間まで新聞配達をしていた自分と教師としての自分

とのコントラストを奇妙な感じで味わっていた。

翌日放課後'広川家を訪ねた守之助はl家総出の出迎えを受けて、家庭教師の第1歩を踏み出した。広川家の子息

は利発であったが'その友人の加藤東一郎も広川家に来ていて同時に弟子入りすることになった。

守之助は'この土地の人々が教育に極めて熱心なのに就学の便なく放置されている状態をみるにしのびず'赴任し

てあまり日数が経っていなかったが'思い切って広瀬校長に米北数枚を一般家庭の子弟にも開校するよう提案した。

広瀬校長もかねてこの点に気付いていたので、中等教育普及を建言する熱情に動かされ、旧来の偏狭な立場を捨て

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てこれに賛同し'京都の本山に具申して明治二十三年の四月から僧侶の志望者と並んで一般の子弟の入学を許可し

明治二十三年十一月二十九日'多年国民が待望していた第一回帝国議会が開催され'日常の話題に審議の模様が盛

んにとりあげられていた。既に一見識を持っていた守之助は教職にある立場上沈黙していたが'新聞記事をみては心

中穏かならぬものがあった。

明治二十四年三月第1回帝国議会は終了したが'守之助は官尊民卑の弊風未だ改まらず'国民のための議会政治こ

そ目下の急務と考えて生徒に擬国会を開催してはどうかと提言した。

この提案によって擬国会が早速開催されることになり、同校の生徒のl部を政府党'中立党、在野党に三分Lt各

党の首領には教員が当たることにした。

擬国会とはいえ'勢の赴くまま激論沸騰Lt応酬の果ては感情的対立にまで発展し'遂には責任問題となりそうな

事態にまで立ち至ったが'議長に就任した守之助の水際立った扱いにより、漸くことなきを得た。

ドクトル田原利

守之助が三条町の人となってから一年有余は瞬く間に過ぎた。下宿は越前畳から成田八十八宅'さらに村松星とい

う旧商家の離れ座敷へと三転したが、教育に余念なく真面目に勤務Ltその傍ら'漢学に自信のあったことも手伝っ

て、同校の漢文教科書の編集も手掛けるようになった。

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守之助,米北教校の教員時代の下宿先三条町越前畳を訪ね

る (昭和6 10月20日) 英教語学校のの中師こ

に なっ て かのら 守 之 助は 常に 服 装、 容 儀を正和し、 服着は一張羅五をてのツ 紋羽の 織、 袴へ 洋 服の 場 合には 柳 原土 堤で買い 求め、

少々 古びてき たと はい えこの、 地で は 珍いし 服装身包み'にをしし は 町の人 達 か ら は 華 族んさと 呼ば れていた。

明 治 二 十四 年夏'のこ

学 校布教の 講演行脚は耶で、 蘇 教は 我国に 弘む べ から ず

」と 題てし 壇 上の 人なと、 郡 部 各 地を 廻てっ 汗を 流 し、 咽 喉を 唆熱し' 弁

を 振い 絶 讃を 粕た。のこし 布 教 講演は 守 之助に雄 弁 家の名声を 与 える こと に なっ た。

長い 講演 旅行から 村 松屋の 離れ座 敷に 帰てみるとっ' 表 通にり 面し た 母 屋 は 三 条 病 院に 模様

が え さ れ、

数 名の 看 護 婦と 兼 帯をた‑ わえた 若い院 長が患 者の 診 療に当た っ て い た。 ド クト ル田 原 はイン デアィ ナポ‑ ス に 学んだチキチャ ャ キのタでクドI その 前 年 米国 から 帰朝し 東 京 茅 場 町に 開 業そ後へのLt 金沢 市

の知己の懇望に

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られ'月俸二百五十円という当時稀な高給で赴任して来たところであった。

守之助は自分が高給と思っていたそのまた十倍と聞いて驚いたが'何よりも田原ドクターから最近の米国事情を聞

きたいと願った。

田原ドクターも同じ屋敷内に住む、田舎の人間とは思えない貴公子振りを発揮している守之助に興味を抱いたがへ

お互いにいそがしさにまざれて話し合う機会はなかった。

残暑も漸‑とぎれようとしていたある日の午後'たまたま患者のあい間にお茶を楽しんでいた田原ドクターと授業

を終えて帰って来た守之助とが挨拶をかわしたのが機縁となり'以後別預の交わりを続けていくことになった。

十歳年上の田原は'巧みな話術で米国の国情について話してくれた。守之助が帰ろうとするとへ

「あと僅かで閉院です.夕食をごi緒にしませんか」

と誘われた。

三条町の遊廓の入口に'その頃では珍らしい西洋料理店があった。守之助は二十二歳の今日まで末だ口にしたこと

のなかった本格的西洋料理を田原の真似をしながら口に運んだ。この時までナイフやフォークの使い方を正式には知

らなかったのである。

守之助は強烈な香りのする強い洋酒を勧められて閉口した。

顔を思わずしかめたのを見て田原は'

「ほう'貴方は洋酒はおきらいか、それでは日本酒を‑‑オイお酒」

と女中を呼んだ。

「いや、日本酒も駄目なのです」

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「駄目々々男子よろし‑浩然の気を養いたまえ、そん世の中は渡れない。さあさあ'君へ飲みたまえ」

田原はしつこく酒をすすめた。守之助も思い切って盃を乾した。

「君々、そんな苦しい顔をするものじゃないよ。お寺の住職だって酒ぐらい飲まなきゃいかんよ」

田原ドクタは守之助を何処かのお寺の住職と思っていたのである0

「いや'僕はお寺とは関係ありません

「そいつは余計有望だ。君を酒豪に育てよう」

田原ドクタは自分も酔い'守之助に勧めた。

守之助は事実この時までほとんど酒をロにしたことがなかったから、すっかり胸苦しくなり、下宿に帰って正体も

なく翌日まで寝込んでしまった。

その年の十1月、村松屋が改築を始めたので守之助も当然l時立退きをする必要に迫られたoこれを聞いた田原が

ほど遠からぬ所にあった自宅の二階座敷を提供すると申し出たので、その好意に甘えることにした。

田原から見ると守之助はいかにも野暮天ぐさ‑思われたから'彼は毎夜のように連れ出して紅燈の巷を排梱した。

しかし、回数がつのるにつれて守之助もいつしかこの界隈で人気の的になり'いつも容姿端麗なところから芸妓達

は「天神様」という津名をつけた。

ある日、原は珍しく守之助の顔色を凝視しながら、

「どうも君の顔色はよくないね。そんなヒョロ長い身体では余程健康に注意しないと駄目だ」

といった。

「どうすればよいでしょうか」

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「うむ、冷水摩擦をやるんだね」

「君には是非必要だよ」

とつけ加えた。

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血脇守之助編 「漢文読本」

守之助は以後厳冬の時期ですら一日も休まず信濃川に浴

し、川辺で冷水摩擦を行なった。田原ドクターもこれには

驚いて酷寒の川水に浴することをとめたが、守之助は以後

晩年に至るまで冷水摩擦を毎朝行なった。

明治二十五年の春、守之助二十三歳の折、都合三年に亘

って努力した漢文読本の編集を完了Lt木版で出版するこ

とになった。

血脇守之助編著「漢文読本上巻三条町樋口書店発

行」を手にした田原ドクターは'英語の教師とばかり思っ

ていた守之助が漢文にも造詣の深いことを知り、改めて驚

嘆した。思いがけず守之助の我孫子時代の素養が活きたわ

けである。

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その年の二月突如宗教学校としては驚‑べき学生スライキが発生した。同校の卒業生が上級生にあてて教師松

野某から学んだ英語が間違いだらけであるという手紙を送ったことが発端となった。

同校には守之の外に英語教師て松野某が勤務し、その道の先輩ではあったが'守之助のように本格に英語

を修めたのでほなかったからやむを得ぬことであった。

守之は自分に関係する問題であり'から誤解を受けるおそれがあったため沈黙を守っいたが'全校の問題と

なってきたので遂に校長と談し'全生徒を脇の名において講堂に集め'

学校に求めるろあれば'合法的に手続きを踏むべきである」

た。学生の間に望を集めていた守之の説得は効を奏、一週間にわたる休校も呆っ気な‑終恨た。

'その結果は守助の希望とはに学生に苛ちとなって返ってきた。

松野が担当科目の採点を極度に離たため進級'卒業できないものがかなりの数にった。守之助は不

念を押さえ切れず幾度か辞表を提出うと思った。

ル田のような守之助を慰めながら、いつも、

「男子浩然の気を養

‑ 」

を繰り返すのであっ

守之助にとって'の事は中学教員生活を冷静に振り返らせるチャソスを与えた。

自問自答を繰り返すうちに'世間学とも呼ぶべきものを多少味わったに過ぎず'のままでは学からも遠ざか

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'自分自身をも見失いそうだという自覚に到達した。そこで'早速親しくしていた広川貞吉のもとを訪れて、

どうでしょう、所詮'中等学校の教員なんかやっていては1生うだつが上がりません.実業界に入ろうと思いま

す」

貞吉はその頃既に隠居の身分であったが、一代で巨万の富を築いた傑物で

「先生'それは悪い御了見ですよ。貴方の今の潔白なお気持やへこれまでのご経歴はそれを許さないでしょう」

実業界はむずかしいでしょうか」

「特に商業は幼い時から従事して辛苦に耐えなければ成功はむずかしいでしょう」

「わたくしのような中年からでは駄目でしょうか」

「商売は誰でもやり易く、成功は難しいものです」

実業界入りを貞舌翁に止められた守之助は相変わらず教壇に立っていたが、以前のような充実感は得られなかっ

秋の夕闇が室内を一層薄暗く感じさせるある日の午後'下宿に帰ると東京の友人が毎週送ってくれている英字新聞

ヘラルドが届いていたO

所在なくひろい読みをしていると'ふと電光の如く彼の目を射たのは米国歯科医師の広告文であった。

「おこれだ。頭で働き'書物によって学習していかれる職業である歯科医になることだ」

守之助は歯科医についてほとんど知識がなかったが、

「独立して生計を営める職業である。他から憐れみを受けて金を得るが如き不確実な危い世渡りをするは男子とし

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て嫌気すべきであるという福沢先生の訓諭にもかなっている」

と思った。

「日本では見るかげもない地位に置かれている稼業だが、その混沌たる時代にその道に入って開拓の鍬を入れれば

前途が開かれるというものだ」

「ドクトル田原も君の英語を活かせといっていた。英語を利用して歯科医学を学ぼう」

守之助は早速田原を訪ね'その気拝を打明けた。

「それはよい思いつきだ。米国での歯科医の地位はわが国とは比べものにならぬ‑らい高い。暗夜のような日本歯れいめい科医界彼方に救い出せるのは君のような高潔の士によって初めてなし得られるのだ」

田原は直ちに賛意を表し'大いに激励した。

その頃の歯科医といえは、都会地の極‑一部のものを除き'大部分太刀を携え、駄弁を弄して居合抜きを行なったやしり、いかがわしい歯磨きなどを売ったり抜歯したりするの類いに属するものが多かった。

明治二十六年二月、守之助二十四歳の春'思い出多い米北教校に辞表を提出した。

同校の職員'生徒、卒業生などが集まって盛大な送別の宴を開いた0

広川家へ加藤家でもそれぞれ宴を開き、別れを心から惜しんだ。

田原ドクターは在米中'下宿を共にした片山敦彦という歯科医が東京で開業しているから'まずへそこへ行きたま

えといって添書を手渡した。

三月の末、知己多数に見送られて雪どけの三条の町を後にした。

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