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― 学説史を踏み越えるために

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最初は2018 年12月20日の一橋大学、加藤泰史ゼミにおける合評会(評者は久保厚史氏),

次が2019日7 月13日の東京都立大学哲学会における本合評会,そして同年

10月19日の東北

哲学会におけるワークショップ(司会は城戸淳,評者は佐藤恒徳と嶺岸佑介の各氏)である.

2

拙稿「カントのオデュッセイア」,『東北哲学会年報』第36号,2020 年5月.

石 川  求

学説史を踏み越えるために

 初めてのことばかりだった.単著を出したのも,そしてその合評会をつ ごう三度,開いていただいたことも

1

,そして類似したこうした原稿を今 ほぼ同時進行でかかえていることも

2

.同じ論述を繰り返すのだけは可能 なかぎり避けたいので,相互への参照も促しつつ以下に,去る7月の都立 大学哲学会でパネリストを務めてくださった方々への応答を試みたい.

 初めてのことはじつはもう一つあった.昨年の秋が終わりそうになった ころ,ある著作の存在を知った.Daniel Heller-Roazen, No One's Ways―An Essay on Infinite Naming, 2017. 拙著が出る一年前に合州国でこれが刊行され ていたことに私は気づいていなかった.まず一読できたのは正月明けだっ た.拙著と同様の,いやそれ以上のというべきか,要は無限判断の哲学に かんする歴史的研究である.ただ,著者のヘラー=ローゼンは「研究」で はなく,あくまでエッセイであり試論だといい張るかもしれないが,私は どこまでも研究であって欲しいと強固に望んでいる.

 なにが初めてのことなのか.外国語で書かれた本を読んで,これほど (小

さき) 心臓をドキドキさせられた体験がなかったからである.プリンスト

ン大学で教える著者 (1974年生まれ) はまだ 40代の半ばであるのに,本書

を最新作としてすでに 6冊もの著書を出している.しかも一つ一つが新た

(2)

な (というべき) テーマで執筆され,それぞれ複数の他言語に翻訳 (一つは 邦訳) もされ,そして各界で高い評価を受けているという.表向きの手法 が一貫していることだけは分かる.古今東

4

西―「東」はただし中近東の それ―の文献を調べ尽くして議論を構築するのである.個々のタイトル を見ても,たんなる学術書とは異なる趣向が凝らされている.哲学,文学,

言語学,法学や政治思想さらには音楽や数学にいたるまで,賛嘆の溜息が 出るほど縦横無尽に扱われるようだ.あれこれ書いているだけで切りはな いが,ともかく論じる対象を同じくする少なくとも二冊の本がほぼ同時期 に日の目を見るという奇遇に私は驚愕した.これも初めてといってよいの ではないか,地球の生きた表裏をこの歳になって感じられもした.ととも に,マルチリンガルの域外で書かれた拙著の存在を,向こうはたぶん永久 に知ることはないだろうとの哀愁も.

 本稿のタイトルは当のヘラー=ローゼンの著作を意識し、それに向けて つけたものである.論題としては最後の節になってしまうが,この力作を 私がどう読んだか,この点についても手短に語って筆を措くことにしよう.

1 無限判断というバトン

 無限判断は判断ではない―ひと言でいうとこれが拙著の結論 (の一つ)

である.たしかに主語があり,述語もある.要件は十分に満たされている ではないか.ところが,肝腎の述定がなされていない.主語がなにも規定 されてはいないからである.述語があっても主語は無限の空間にほっぽり 出されたまま,いわば行方不明になっている.主語と述語は関係づけられ てさえいないのである.

 人はこの判断もどきを例文で表示できると思ってきた.とくに伝統論理 学は無限判断に「Sは非Pである」という〝固有の〟表現をあたえて,否 定判断「SはPではない」から区別しようとしてきた.しかしながら,こ の〝定式化〟こそ無限判断の抹殺であり,皮肉にも〝定式〟とは墓標のこ とである.自らは拒否しているはずの述定がなされたものとして扱われ,

言語上では一種の判断としてしか私たちには読めないからである.

 このあたりのまことにもどかしき事情を踏まえつつ,カントの最重要テ

(3)

3

より詳しくは上記拙稿の「1 〈な

ノ ン

い〉の脱論理」で述べた.

クストのまさしく核心の思想を,植村氏は「あいさつ」の中でじつに手際 よく適切に説明してくださっている.的の中心を射貫いたこのような文章 を目にするだけでも拙著を書いてよかったとしみじみ感じる. 

 無限判断のその核心とは,形式論理学の考えるような出来合いの論理を 脱した〈否定〉すなわち〈な

ノ ン

い〉である

3

.脱するといっても,ただしく は暗黙の前提を踏み貫いて,そこに隠された背景を赤裸々にすることを意 味する.しかし,その〈否定〉についてはアリストテレスの論理学を超え て,さらにプラトンそしてパルメニデスへと遡るのでなければ,問題の本 筋がみえないと拙著は主張した.私が無限判断の「バトン」といったのは この〈否定〉のことであり,そして「リレー」とはこの基本理解の継承の ことであった.継承しないかぎり,そもそも無限判断を論じたことにもな らないといいたかった.

 けれども,山蔦氏は哲学者たちの「バトン ・ リレー」ということでそれ 以上のことを考えているように思われる.あたかも学説そのものを受け継 いでおり,それをリレーしているかぎり前走者を批判するのは道理に合わ ないかのように.しかし,そうではない.リレーと自説の展開は別のもの と私は考えたし,以下でも述べるようにそう説明してもみた.ではなぜリ レーなどという言葉を使ったのか.バトンを受け取りもせずに無限判断を 語る人々が歴史上あまりに多いからである.少なくとも,ヴォルフ学派の 面々そして新カント派のコーエンらはリレーに参加することもできなかっ たと私は考える.しかし,こうした外野というより会場外からの妨害が (私 たちはもちろんのこと同時代の哲学者たちにとっても) どれほど大きく根強い ことか.そんな中でバトンを受け取ること自体が至難であり,稀有である.

しかしカントの時代,それを確実に受け取っていたのがたとえばフィヒテ であり,ヘーゲルだった.彼ら独自の学説ではなく,その前段階における 知的環境の (だが選ばれし) 共有をリレーといったのである.山蔦氏も指摘 するようにおそらくカントはフィヒテの知識学を理解し( ようとさえし)

なかっただろうし,最晩年におけるスピノザの評価も怪しいものだ.だが,

それは当該の密かなバトン ・ リレーとは別の話題に属している.

(4)

4

拙著のページ数は数字だけで示す.以下同様.なお引用中の強調は断らないかぎりすべて 引用者により,〔  〕も引用者の補足である.

2 ヘーゲルにおける移行について

 拙著の第3章は「ヘーゲルか,カントか」などという随分と大それたタ イトルをもつ.当初はもっと内容に即した地味な章題を考えていたのだが,

編集者の勧めもあって向こう見ずにも踏み切ったのである.読者を目いっ ぱい期待させておいて,なによりヘーゲルが,そしてその包括の論理が十 分に論じられないまま,そそくさと次章以降のカント論へと急いでいるこ とを私も認めざるをえない.ただし,それが読者にどれほど伝わったかど うかは疑わしいにしても,「1 二人の分岐点―包括か,区別か」にお いてヘーゲル的「包括」とそれに対置されるカント的「区別」の最小限度 の骨格は示したつもりでいた.幸いなことに三重野氏と野本氏はそれを受 け止めてくださっている.

 無限判断の〈否定〉はヘーゲルの言葉でいうと悪無限である.カントは 過去からこのバトンを受け取っただけではなく,意識してこの悪無限にこ だわり抜いた.パルメニデスが禁じた否定の道をどこまでも辿ろうとする のである.これにたいしヘーゲルは,同じバトンは受け取ったが,それだ けにとどまらず,悪無限を真無限へと超えようと自説を展開した.このこ とを私は「ヘーゲルが,過去から受け継いだ「バトン」を置き,独力で走 り始める」[119

4

]と表現した.

 正直,私が分からないのは,悪無限から

4 4

真無限への

4 4

この超え方である.

はたして『大論理学』のヘーゲルはその説明に成功しているだろうか.

 ヘーゲル哲学の理論はいわば概念のホーリズムだと私は思う.もちろん

その概念はカントのいうたんなる共通表象とは根本的に異質な,具体的普

遍のことである.ヘーゲルによればこの概念こそ真無限の体現者にほかな

らない.そして真無限は全一者でもある.この全体に関与すればこそ,個々

の有限者も多種多様に活動する余地があたえられる.私たちが概念をもっ

ているということは,これをいいかえると,私たち自身がすでに概念とい

う生きた環境の中にいるということである.この真無限が確保されている

(5)

かぎり,森羅万象は内的に関係し合い,さらには連続している.同一性が,

非同一性すなわち区別と同じだといえるのは,そこに根源的な同一性が連 続性として成り立っているからである.忘れてならないのは,ヘーゲルが 真無限を自己関係として理解していることである.適切な譬えではないか もしれないが,無限大の倍率をもつ天体望遠鏡を真無限の宇宙に向けたと する.そこに見えてくるのは観察者自身であろう.いいたいのは,必ず自 己へと還ってくるような関

ens relationis

係体がヘーゲルのいう真無限すなわち概念だと いうことである.

 ヘーゲルが説明をこうした真無限から

4 4

始める,というのなら話はまだ分 かる.悪無限は真無限の邪な派生態であって,カントのような悪無限的区 別への拘泥は,むしろ真無限からの臆病な退避にすぎないといえばよい.

ところが,『大論理学』のヘーゲルはそれをせず,あくまでカントの立場 から出発して,自身の立場への段階的移行が可能であるかのように論ずる のである. 

 そこでまずヘーゲルは無限判断を同一判断として説明する.「SはSで ある」は,「SはS以外のなにものでもない」という実質的に果てしない 否定であると考える.だからSがただSでしかないのなら,それ以外のど の述語をもってきたとしても,これによってSは規定されないままである.

つまりSは述語Pへの関係そのものをまったくもたない.これを次のよう にいいかえることもできる.Sの否定をさらに否定しても,出発点のSに 還っては来ない.Sの否定たる他者を,さらに否定したら,また別の他者 になり,この空しい逃避行が果てしなく続く.ヘーゲルは『純粋理性批判』

におけるカントの主張 (上述の「核心」) をきっちりと踏まえ,主語と述語 を徹底的に分断の相でとらえている.ここまではよい.

 ところが,突如ヘーゲルは,主語と述語がじつは連続しているといい始 めるのである.他者への関係をもたないとされたSもじつは自己への反省 的関係はもっており,この自己関係にもとづけば,Sの否定をさらに否定 すると,それは自分自身へと還って来るのだと.ヘーゲルによれば,こう して定在の判断 (その象徴がカント的悪無限判断) は反省の判断へとステー ジを一つ上げていく.

 私が分からないのは,なぜ分断から

4 4

連続へと

4 4

,否定から肯定へと,これ

(6)

5

岡崎秀二郎「ヘーゲルの二つの無限判断という思想―判断の無意味さに関する一考察」,

『哲学』第

70号,2019

年.

6

たしかにカント自身もこうした逆説的飛躍を例外的に語る場面がある.とりわけ『判断力 批判』のいわゆる「崇高」をめぐる分析はその最たるものだろう.そこでは,構想力の無 能力がかえって理性の無制限な能力を開顕し,構想力の不快が一転、理性の快を喚起する と繰り返し語られている.けれども,ここにあるのは,逆説の肯定というよりも,むしろ

ほどすんなり移行が可能なのか,である.繰り返しになるが,ことの始め から真無限の自己関係があった,というのならまだしもであるが,他方で そうであるならカントをきっちりと踏まえたことにはなるまい.あらかじ めの連続性とは袂を分かつためにこそカントの〈区別〉すなわち原区別は あり,この〈区別〉ゆえに彼は悪無限を甘受し通したと拙著は考えた.

 私がヘーゲルの「論旨はあまりに不明瞭いや唐突であるといわざるをえ ない」[122]と書いたのは,以上のゆえである.山蔦氏が言及する岡崎氏 の論文

5

は,この問題点に独自の解決策をあたえようとする意欲的な試み である.岡崎氏によれば,当該の「移行」はたしかに「逆説」―この表 現が繰り返されている―ではあるが,「むしろ 〔無限〕 判断の極限的な無 意味さを通して,有意味な判断を成り立たせる背景的枠組みを暗に語り返 すものでもあると言えるだろう」.さらに氏は注で,初期ウィトゲンシュ タインの「論理空間」も例証に挙げる.命題の意味を可能にするこの空間 も,じつはトートロジーのような無意味な命題に支えられている.これは 今のヘーゲルとよく似ているではないかと.

 私はこういう逆説肯定の立場を一発逆転の発想と呼んでいる.目新しい ものではない.闇を見た人だけが光を知りうる.死を覚悟した者だけが生 を活きる.悪をくぐり抜けてこそ善が…….もちろん無から有への大転換,

などなど,挙げたらきりがない.

 しかしながら,はたしてこれは論理なのだろうか.かなり効果的なレト

リックではあろう.とはいえ,ヘーゲルのいう論理の学が,あるいは概念

の労苦(Anstrengung)が警戒し続けるべき飛躍ではないのか.私にはい

ぜん唐突だとしか思えない.もっというと,哲学ではなく,むしろ宗教的

直観のようなものではないか.あるいは信仰か.一種の賭けともいえる

6

 いやいや,これぞヘーゲルの弁証法論理 (のあるべき姿) だとして大いに

(7)

歓迎した哲学者がいた.一人は西田幾多郎,もう一人は (西田とはかなり趣 向が異なってはいるとはいえ) 現代のスラヴォイ ・ ジジェクである.後者に ついては節をあらためて論じたい.

 西田は,「私の立場から見たヘーゲルの弁証法」(1931 年)

7

と題した論 考でいっている.「弁証法的に媒介するということは,或物が他によって 媒介されるのではない,自己が他なるが故である,自己肯定が即自己否定 であり,自己否定が即自己肯定なるが故である,無即有ということから弁 証法的媒介というものが成立する」と.そして西田は,「ヘーゲルの論理 の底にケルケゴールの背理……を置いて理解す」ること,さらには「ヘー ゲルに反して弁証法的運動の底に理性的なるものを置く代わりに非理性的 なるものを置く」ことも厭わない.もはやその「底」はいかなる合理も届 かぬいわゆる「絶対無」の場所だからである

8

 しかしながら,西田が繰り返して語るその「即」なるもの―これぞヘ ーゲルが没概念的思考として,あるいは概念による媒介をいっさい無視し た短絡として告発していた当のものではなかったか (西田自身もそれは意識 している) .自己が文字どおり無媒介に他者である,などとこじつける詭弁 を理不尽とみなしたのはヘーゲルではなかったのだろうか.自己と他者で あれ,有と無であれ,私と公であれ,いわゆる対立概念は (三重野氏も確認 しているように) 内容空疎であればあるほど反対物に転化しやすくなるとい う批判を,私はほかならぬヘーゲルから教えられた.そしてこれを踏まえ ることで,カントにおける私と公の区別が,じつはそのような反転の誤謬 を阻止するために設けられていることを改めて理解したのである.十分な 展開にはなっていないものの,このかんの経緯は拙著の「第4章 私を公

理性それ自身にたいする信仰ではないかと私は考える.まさにこのときカントは,信仰に 場所をあたえるために知識を放棄しているのである.いいかえれば,有限な知識による綜 合を諦め,無限の理性に賭けたのだ.なおカントにおけるこの例外的な賭けは,以下でも 論じていく「限界づけ」とは異なり,きわめてポジティヴな確信に支えられている.

7

旧版全集の第12巻(1950年)に収められている.なお髙山守『ヘーゲル哲学と無の論理』 (東 京大学出版会,2001 年)は西田の同論文を非常に高く評価している(その「終章」).

8

西田の絶対無は鈴木大拙のいわゆる「即非の論理」すなわち「A即非

4 4

A」(Aは非Aである がゆえにAである)とも無関係ではない.しかし,これにたいしては立川武蔵の批判がある.

大拙の「即非」はそもそも論理ではなく,『金剛般若経』の誤読にもとづくというのである

(『中論の思想』,法蔵館,1994年,21-25 頁).

(8)

に分かつ」で述べた.カントにとって公は,フェノメノンにたいするヌー メノンがそうであるように,私=自己にたいしてはネガティヴな意味での 他者であり,私をその外部からネガティヴに限界づける,そのような空間 として構想されている.いいかえれば,私を脱中心化するためにこそカン トの公はある.これを先在する他者

4 4 4 4 4 4

(=公) の思想としても拙著は語って みた.

 したがって,山蔦氏がいう「「公」と「私」の区別さえしていれば,「他 者」さえ傷つけることがなければ,「私」の領域ではどのような欲求を追 求するのも自由だというリベラリズム的な価値観」からは,むしろカント こそが離脱しているというのがその章の主旨であった.もとより,ただネ ガティヴに限界づけるだけだから,公がポジティヴな意味で私に「影響し それを変容させる」とはいえない.だが,章の終わりでも述べたように,

公という,外に開かれた「窓」なしに私はありえない. (先在する) 他者へ の関係を内面化することではじめて,自己における人格の分裂 (英知人/

現象人) すなわち「私を公に分かつ」議論の体勢が整うのである.このよ うなわけで,その「4」における山蔦氏の疑念の大意をつかみかねている.

3 ジジェクの無限判断

 山蔦氏はジジェクのカント論およびヘーゲル論を踏まえ,私が彼の議論 に言及しないのは残念であると語っている.ジジェクが無限判断を論じて いることは風の噂では知っていた.だが,自説を組み立てぬうちにともか く他人の説に流されてはいけない,と頑なに敬遠していたら,いつしかそ の存在まで忘れてしまったのである.フロイトの否定すなわち否認

(Verneinung)を無意識に自作自演したわけで,まさにミイラ取りがミイラ になってしまったこのお粗末な失態を今は恥じるしかない.振り返れば,

誘惑への警戒もあった.とりわけVTRの画面に登場するジジェクの言動 にはいくども心を奪われそうになっていたから.速射砲のように繰り出さ れる多種多彩な話の面白さだけでなく,傑出したユーモア感覚に私は弱い.

よい意味でジジェクは危ないぞ,と勝手に恐れ続けてきたのである.

(9)

9 Slavoj Žižek, Tarrying with the NEGATIVE ― Kant , Hegel and the Critique of Ideology, Duke University Press 1993. 酒井隆史,田崎英明 訳『否定的なもののもとへの滞留―カント,ヘ

ーゲル,イデオロギー批判』,ちくま学芸文庫,2006年.

10

私たちのちがいについては後述する.

 しかし,今回『否定的なもののもとへの滞留』

9

の該当箇所を自分なりに 読んでしみじみ感じたのは,遅ればせながら今になって出会えたことの重 みないしはありがたみである.正直いうと,ヘラー=ローゼンの最新作よ りもうれしかった.山蔦氏がおそらく予想しているよりも私はジジェクに 共鳴できる.なによりも驚いたのは,彼がカントの無限判断をまさに「ネ ガティヴな意味における」ヌーメノンに強く関連づけて論じていたことで ある.このくだりには本当に欣喜雀躍した.初めて

4 4 4

賛同者をえたような思 いに囚われた.たしかにジジェクはカントの核心を把握している.それは 無限判断をたんに言語表記から理解しないことによる.これができるのは,

一にも二にもヘーゲルの無限判断を彼が焦点に収めているためである.山 蔦氏も引用しているが,「無限判断のこの論理

4 4

には,カントの哲学革命の すべてが,凝縮されて含まれていると断言したくなる」というジジェクの 言葉には私も,いや私こそがドキリとさせられた.というのも,その「論 理」とは要するに, (私のいい方では) ヌーメノンによるフェノメノンの,

物自体による現象の,限界づけ

4 4 4 4

のことだからである

10

.ここまでいってく れてよいのか,と.

 しかしながら,それも束の間,ジジェクにはヘーゲルの読解を踏み台に したカント批判がある.私なりに焼き直すと,こういわれている.限界づ けというが,本当は限界の外などない.あるのは現象だけである.だが,

感性にはあたえらないもの

4 4 4 4

を―これもやはり現象でしかないはずなのに

―現象の外部へと誤って投影し実体化することでカントは物自体を捏造 した.ジジェクのいう物象化である.『精神現象学』のヘーゲルは,意識 (な いし思考もしくは概念) に外部はなく,他者もまた意識の内にあるという意 識の全体化 ―ジジェクによれば「〝観念論的〟賭け(wager)」[p.20]

―によってこの誤りを克服する.カントが執着する「自体」なるものも,

しょせん意識にとって

4 4 4 4

存在する.思考のための前提も,前提するという思

考の働き

4 4

が生んだ産物にほかならない.限界づけ以前に〝自体〟があるの

(10)

ではない.この意味で限界づけは超越に先だつ.このようにカント的区別 は固定的なものではありえず,それ自身が流動化する.ヘーゲルが否定性 と呼ぶこの運動にこそ概念の生きた発展がある.

 つまりカントにおける最大の問題点は,人間認識の有限性が抱えている

(とされる) 欠如ないし空無を物自体として擬似対象化し,そしてその幻の

〝超越者〟からの影響をまことしやかに語ったことにある.山蔦氏も指弾 するように,ここには人間の能力にたいする独断的な見切りが潜む.物自 体であれヌーメノンであれ,これらはむしろカントの (謙虚と見紛う) 倨傲 が呼び出した亡霊にすぎない―たしかに鋭い批判である.

 外部の他者がネガティヴに先在する―拙著がカントに寄せて喋々した こんな発言は,ヘーゲルやジジェクにはあまりに素朴すぎて笑うにも笑え ないだろう.だが,事態はそれほど単純ではないと考える.私はジジェク の批判の全容をまだ把握してはいないので (疑念を介した) 当面の応答にし かならないが,とりあえずここでは二点について述べておきたいと思う.

一つはカントにおける有限性の内実に (本節) ,二つ目はすでに問題にして きた「移行」をどう考えるべきか,にかかわっている (次節) .

 まず第一に,カントにとって感性は有限性の象徴ではない.そもそも感 性は悟性とは異質な根をもつ別の能力であるから,欠如や否定という悟性 的規準は感性には適合しない.有限なのは悟性である.そして悟性をさま ざまに限界をもつと考える点では,カントはヘーゲルとほとんど同じであ る.だが,カントにおける空間や時間という感性的直観の形式は制約

(Bedingung)と呼ばれても,そこに制限という否定的なニュアンスは薄い.

むしろ現象には不可欠の条件なのであって,従来の形而上学や存在論がこ の必要条件を無視あるいは軽視して問題を立ててきたことに対抗する積極 的な提言が,カントの感性論には含まれている.ジジェクが「カントの哲 学革命」と呼ぶ推移の,読者に向けた第一波は少なくとも当の感性論によ ってもたらされた.

 そして悟性の概念とは異なり,感性の直観には全体性が形式として成り

立つ.現象の内部をくまなく構成できるのは第一義的に時間と空間であっ

て,カテゴリーや統覚ではない.悟性はどこまでも部分による合成の働き

であり,そこには残余が不可避的に生じてしまう.カテゴリーであれ統覚

(11)

であれ,ともに悟性に深く根を下ろすかぎりで全体性とは否定的に関与す るしかない.現象の全体を可能にするのは感性的直観なのである.

 感性を否定によって理解したくなるのは,ヘーゲルも (ライプニッツなど と同様に) 感性と悟性を連続したスケールで理解しているからである.む ろんそうでなければ『精神現象学』の「 〔対象〕 意識」における感性から悟 性への成長ないし移行という議論は成り立たないだろう.が,カントの認 識論において低次の段階から高次のそれへの移行という成長物語のプロッ トはそもそも筋違いである.

 山蔦氏は「5,光と闇―ヘーゲルと「光の形而上学」―」で,光と 闇の二元論と一元論の話題に関連して,拙著の第3章と終章の論述から,

私がヘーゲルを光の形而上学すなわち一元論「へと分類することを決意し たようにも見える」と評する.拙著を出して,なるほど説明不足だったと 感じられる点がこのあたりの問題でもあるので,この場で書いておくこと にしたい.なお光と闇というのは,もとより善と悪の表象も兼ねている.

 あらかじめいっておくと,最終的にはカントも光の一元論はなんら否定 しないだろう.そのような一元論を断じて排斥するのはやはりニーチェを 待たなければならない.ニーチェからみれば,ヘーゲルだけでなく後期シ ェリングも,カントはもういうまでもなしに,畢竟プラトンの「善のイデ ア」の申し子になるだろう.とはいえ,まずカントは,二元論的な思考法 にはおそらく西洋近代で初めて踏み切った.すなわちあの実在的対立の着 想である.ここでは光も闇も,善も悪も,プラス/マイナスの関係で理解 される.光は負の闇であり,善は負の悪である.ならば,規準をどちらに 置こうとしょせん同じで,極論すれば闇や悪こそが真に独立した原理だと いってもよい.ともかくこれらがなければ光も善もありえないという思想 は,カントこそ胸を張って語っただろう.

 しかし,ここで注意しなければならないのは,この実在的対立があくま

でカントにおいては現象的実在性(realitas phaenomenon)の舞台にかぎら

れることである.彼はその思考法をヌーメノン的実在性には適用しなかっ

た.すべての実在にたいして,善悪の二元論が原理的に成り立つとまでは

いわなかったのである.あるいは闇や悪が勝利して終末を迎える世界を構

想しなかった.だが,この大団円を形而上学的に忌避したのは,ヘーゲル

(12)

11

拙著ではスピノザも光の形而上学に入れた.だが,善悪を徹底的に相対化し,それを「光>

闇」あるいは「真>偽」の一元論から自由にした点では,ほかのどの哲学者たちよりも彼 はニーチェに近い.

12

私はヘーゲルに関連して極力「弁証法」あるいは「弁証法的」という言葉を避けた.拙著 で唯一つかったのは,西田と田辺の自称〝弁証法〟を批判的に語るためである.

も (そしてシェリングもまた) 同じではないのか.彼らも二元論 (または二神

4

論) を徹底できなかったし,それ以上に一元論こそが形而上学には望まし いと考えていたはずである.「光の形而上学」とはこのことを指している

11

.  カントに二元論的発想が強固に存在することはいうまでもない.この先 例なしにはヘーゲルのいわゆる弁証法的思考

12

もありえなかった.しかし,

カントはそれを全面的に,つまり現象を超えて物それ自体にまでホーリス ティックに展開しようとはしなかったのである.発想が一枚岩になり一辺 倒になることの抑止という意味を籠めて,私はカント哲学を「非一元論」

といったつもりでいた.カントは (よくそういわれるような) 二元論者では ない.とはいえ究極の一元論すなわち「光の形而上学」者でもない.優柔 不断といわれればそれまでだろうが,それが批判哲学者の細道であったと 私は考える.

 カントの非一元論はホーリズムの全面展開を回避するためにある.フェ ノメノンとヌーメノンの区別は思考原理の断絶を意味し,両者にはいかな る連続性も認められない.前者から後者へ,その逆についても,だから移 行はない.しかし,現象の内部にかんしてなら,『純粋理性批判』におい ても実在の連続性が語られる場面がある.それが,いわゆる「知覚の予料」

の箇所にほかならない.三重野氏もただしく理解しているように,私は無 限判断のネガティヴな制限すなわち限界づけ

4 4 4 4

とポジティヴな制限すなわち 限定

4 4

を区別した.これを拙著が使った二種の否定でいいかえるなら,前者 が〈な

ノ ン

い〉の〈否定〉であり,後者が「な

ア ン チ

い」の「否定」であるのだが,

ともかくこの後者のポジティヴな制限が内包量の連続性と関係している.

 カントが質のカテゴリーで制限性(Limitation)を呈示したとき,彼は たんにそれを分析論で実質的主題となる感覚的知覚にかんしてだけではな く,もっと広い意味で理解していたように思われる.無限判断のいわゆる

「段落」がその最後でいっているのは,こちらの広い意味での制限すなわ

(13)

13

なお山蔦氏は,ジジェクが2012年に出した大作からの引用によって「移行」を解釈してい るが,これはヘーゲル研究がかねてから難題にしてきた,定在の判断から反省の判断への 移行とはかなり性質の異なるものだと思われる.私の誤読でなければ,氏が解釈するように,

「法は法である」という同語反復が「単なる定義を超えた「法律」の意味についての反省を 促す」ことでその〝移行〟がなされているともしも考えてよいのなら問題は簡単だろう.

無限判断はたしかに同語反復と形は同じであるが,無限判断の提起しているのは,同一の 主語=述語の意味

44

をどう反省するかということではない.たしかに同語反復を無限判断と いいかえてはいるものの,そこでジジェクは無限判断に固有の論理を哲学的に解説してい るのではないと私は考える.ジジェクの哲学的解釈が本格的に展開されているのはやはり

1993年の旧著だろう.

ち限界づけの方だったのである.さらに補足しておくと,ネガティヴな限 界づけは (感性の外部にしかないというかぎりでの) 純粋悟性の機能であるが,

ポジティヴな限定 (ないし縮減) の方は感性的直観すなわち時間

4 4

がすでに 前提されている.つまり限定としての制限性のカテゴリーは (名目は純粋 悟性概念ではあっても) 精確には直観化されたカテゴリーというべきもので ある.連続性は悟性ではなく感性から

4 4 4 4

供給されている.三重野氏はヘルマ ン ・ コーエンのカント解釈についても論及しているが,コーエンの錯誤は,

無限判断の制限をポジティヴなものと思い込んだだけではなく,連続性の 根源をただひたすら悟性に見とろうとしたことにある.経験認識にたいす る感性の貢献を頑なに認めまいとする彼の一辺倒な立場がそれを強いたの である.

4 移行の失敗について

 ジジェクの議論にたいして私がいいたいもう一つの点は,やはり移行の 問題に関連する.

 カントにおいて,フェノメノンからヌーメノンへの〝移行〟はすなわち 感性の越権であり,誤謬である.むしろヌーメノンはこれを阻止するため にフェノメノンをネガティヴに制限する.これが彼の限界づけであった.

これにたいしヘーゲル&ジジェクは,移行がいずれにせよ不可避であり,

さらには経験内在的であると考える.彼らは移行をどう説明するのだろう

13

(14)

14

同じ形容詞を彼はすぐ後で,カントによる否定判断と無限判断の区別についても使ってい る.カントとヘーゲルの,一筋縄では解決できない争点がそこに秘められていることの吐 露ではないかと憶測する.

 ジジェクはカントにたいするヘーゲルの立場が「微妙である(subtle)

14

[p.112]と書いている.これはかなり意味深な表現だと思われる.という のも,ジジェクもあの「反転」または一発逆転の〝論理〟にとにかく乗ら ざるをえないからである.

 ジジェクはメビウスの帯を導入する.フェノメノンの領域を進んでいく と,突然

4 4

,その裏側であるヌーメノンの側にいることに気づく.さらには シェークスピアやモーツァルトの芸術作品を例にとる.絶望へと徐々に下 降していってその底にまで到達したとき,突如

4 4

,一種の天上の至福へと変 わる転倒が実現している.『ハムレット』や『リア王』における絶望のど ん底が『テンペスト』の幸福な言祝ぎへと急転し,『ドン ・ ジョヴァンニ』

の敵対関係の後にすぐさま『魔笛』の天国的調和が待っているように.

 ジジェクはこの反転の論理をさらにラカンやフロイトの精神分析を応用 することで自在に説明しているが,それがどこまでヘーゲルの思想を有効 に再構成できているか,それを論じることは今の私にはできない.だが,

ここでは次のようなジジェクの文章にこそ注目したいと思う.事実ヘーゲ ルの立場は上とは別の意味でも大いに「微妙である」.

ヘーゲルの展開 〔あるいは移行〕 は,けっして,単純に,より深く,よ り具体的な本質へと下降していくものではない.概念的移行の論理は,

定義からして,失敗を,つまり移行それ自身の不可能性

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

を,反省的に 実定化することの論理である.[ibid.]

 ここでジジェクは一変して移行の「不可能性」を語る.すなわち,先に も触れたが,存在があまりにも無内容であるがゆえに,反対物の無へと反 転ないし転倒せざるをえないという (私のいい方では) 没論理にたいするヘ ーゲルの批判的言辞に立ち帰っている.ジジェクはこのヘーゲルとともに,

存在から無へのそうした反転は移行の「失敗」だと考えている.つまり,こ

の反転は通常の論理展開ではなく,本来いかなる媒介とも無縁な論理の飛

(15)

躍なのだと.

 繰り返せば,私自身はこちらのヘーゲル&ジジェクに親近感をもつ.

 さて続くジジェクの分析は (大小の) ヘーゲル論理学のテクストをいち おう踏まえている.エレア派のゼノンは,不変不動の存在すなわち〈ある〉

の真理を証明しようとして,現象としての運動がたんなる見かけすなわち

(実態は) 不合理の無であることから間接的にその真理を裏づけようとした.

しかし,存在から無への〝移行〟が虚しき飛躍なら,その逆の,無から存 在へのそれも没論理でしかない.けれども,移行すなわち論理展開の失敗 こそが,むしろ存在の真理なのだ.現実にあるのは,ただ運動しかない.

つまり運動こそが,たんなる見かけどころかじつは存在の真理なのである.

エレア派はこうしてヘラクレイトスへと,哲学史のステージを上げてゆく ことになる.ヘーゲル&ジジェクは次のようにいいたいのだろう.当初の 移行は失敗する.だが,この失敗に学んで真理へと本当に (あるいは即かつ 対自的に) 移行するのだと.「移行」が多義的に使われている.それでよい のだ.なぜなら,それが成長であり進展なのだから.

 しかしながら,カントのような区別にこだわる堅物ならいうのではない か,その移行は順当な展開ではなく,むしろ挫折の反動

4 4

というべきではな いか.対立物の反転という思考の空回りから

4 4

真理の発見にいたる通路はな い,あるのは断絶であり,哲学の旅人は行き止まりに気づいて,やおら振 り出しに戻り,最初から前提を組み直したのだと.感性から悟性への成長 物語を拒絶したカントは, (虚偽という) 無媒介から (真理という) 媒介への 反転も移行ないし論理展開とは考えないだろう.そこには没論理しかない.

『ドン ・ ジョヴァンニ』の作曲者と『魔笛』のそれは同一人物だが,複数 の対照的個性を有するモーツァルトの自己同一性は, (ヘーゲル&ジジェク とはちがい) カントにとって顛末が問われるべき論証課題とはならないの である.

 じつは同じことが,ヘーゲル『大論理学』におけるあの無限判断にかん してもいえないだろうか.

 私は前節で,ヘーゲルが論じる無限判断から反省の判断への移行が唐突 であり,論理の飛躍ではないのかと疑っていることを書いた.要するに,

主語と述語の無関係 (悪

4

無限判断) から出発して,どうして両者の関係 (真

4

(16)

15

野本氏はいわゆる対象言語/メタ言語の区別がカントにあったかどうかを問うているが,

経験的/超越論的や,フェノメノン/ヌーメノンも,あるいは直観/概念ですら,かなり 当の区別とは親和的であると私は考えている.カント的区別に反対したヘーゲルは,言語 にかんする区別を認めない初期ウィトゲンシュタインには,先の岡崎氏も別の角度から注 目していたように,似ているだろう.

16

私自身は,この点でヘーゲルはフィヒテあるいはシェリングとも,そう変わらないと考える.

ジジェクは強く反対するだろうが,そうなると彼としては,表がいつしか裏になっている あの「メビウスの帯」を強調しなければならない.しかし,空間のねじれが妥当な論理

4 4

に どう収容、収斂できるか,これは私の理解力を超える.

17

ヘーゲルの自己関係については,拙稿の「3 「非他」と自己関係」で触れた.

無限判断) が生まれるのか,ヘーゲルはこの大いなる進展を説得的には説 明しえていないと.いまジジェクをもじっていうならば,じつはここにも 移行の失敗がある.悪無限判断の行き詰まりはまさにその証言にほかなら ない.だが,むしろここで定在の判断の真理が露わになる,とヘーゲル&

ジジェクならいうだろう.肯定/否定判断は,主語と述語の間に反省とい う関係を前提していることにようやく自ら気づくのである.反転に見えた ものは,じつは反省的関係の (いわゆる揚棄され,止揚された) 結果だった のだ.敗北を介したこの経験こそ真の意味での展開であって,これが定在 の判断から反省の判断への移行の真実ではないか.

 しかしカントならこう返すにちがいない.一方の肯定/否定判断,他方 の無限判断,これらは同じ「質の判断」に属するといえども,一方から他 方への移行はなく,あるのは判断をみる観点の差異なのであって,しかも この隔たりは架橋できない.ちょうど経験 (内在) 的と超越論的の区別に も似て,主語を規定しうる前二者の判断と,規定しえぬ後者の似非判断と の〝間〟を通い合わせること自体が一線を超えることではないのか

15

.と くにカントは,反対物への無媒介的転倒よりも, (死活的区別を我が物顔で跨 ごうとする) 越権行為一般が気になっていた.無際限なものによるネガテ ィヴな制限という発想はここに生まれたのである.

 私はこう考える.ヘーゲルには無関係をも関係に,あるいは不連続をも 連続に,さらには逆理をも合理に転換させうる自己あるいは自我の包括的 な働きがある

16

.この自己への関係性がヘーゲル的概念のホーリズムを支 えている

17

.たいしてカントにはそのような包括的自己ないし主体がない.

なるほど悟性の概念は統覚に管轄されていよう.しかし感性的直観には,

(17)

統覚のノエシスとは異質の (ノエシスには統合,回収できぬ) ノエマがつね に残存する.彼はそれを対象(Gegenstand)として執拗に語り続けた.こ の意味で,直観は概念の外にあり,感性は統覚ないし自己の外部にあると いわなければならない.すべてを包括し,内在化することを拒むなにかが ともかくも立ちはだかっている―こういう思案

18

がカント的区別の譲れ ない一線だと思われる.

5 カントとレヴィナスの他者

 山蔦氏だけではなく植村氏も指摘しているが,カントに関連して拙著が 試みたように「他者」をあえて語ることは,レヴィナスの思想からの影響 を強く想起させるにちがいない.意識してはいたのだが,主題化しなかっ たのは,たんに私がレヴィナス哲学の熱心な読者ではないためそもそもそ の能力がなかったからというだけでなく,両者の本質的なちがいと思える ものに気後れがして,むしろ手が着けられなかったからである.レヴィナ スとは異なり,カントの他者はあくまでも世俗的(weltlich)で,現世的

(irdisch)であると私は感じる.他者のモデルはむしろ世界市民にあり、

神ではないからである.このような発想はレヴィナスには希薄ではないだ ろうか.

 たしかにカントの〈否定〉は否定神学のそれとは重なり合う.そしてエ ックハルトやクザーヌスの否定神学が,ドイツ観念論が好んだ「絶対者」

の概念を先駆していたこともすでに分かっていよう.問題は,にもかかわ らずカントが自身の思想をこの概念に仮託しなかったことにある.なぜカ ントは神を絶対者として語らなかったのか.

 否定神学の〈否定〉は神の絶対的肯定性を文字どおり裏づけるためにあ る.それはパルメニデスの忌避する「否定の道」が,「肯定の道」の真理 を語るために必要なのと同じであり,あるいはスピノザの無限実体が,そ

18

これをカントの遮断壁

(Block)

と呼んでいたのはアドルノである.拙稿「素朴な理性の諸相

―アドルノの『純粋理性批判』」,『思索』第31号,1998年.なおカントにおける「対象」

は以下でも論じてみた.「カント―認識という労働について」, 『POSSE』第27号,

2015年.

(18)

のなんたるかを理解するために,その本質を各自の立場から表現する有限 様態―すなわち実体では〈ない〉もの―を必要とすることとも同じで ある.ところが,カントには,こうした〈否定〉を介した絶対者の肯定が ない.まさに〈否定〉で終わりなのだ.神は認識できないが,思惟可能な ものすなわちヌーメノンに属する.それはけっして肯定では語りえない.

それがカントのいうあの「ネガティヴな意味における」ヌーメノンなので あった.

 比較的最近に読んだ本で深く印象に残っているものに,経済ジャーナリ ストの佐々木実が書いた『資本主義と闘った男―宇沢弘文と経済学の世 界』 (講談社,2019年) がある.宇沢という真に稀有な学者にして活動家の 全容を,現代の世界史および思想史の中でみごとに浮かび上がらせた待望 の大著だが,その「おわりに 青い鳥をさがして」はとりわけ忘れがたい 余韻を残す.

 敗戦直後の時期に,父方の実家があった鳥取県の米子に疎開していた宇 沢は,ある神社の境内で読書することを日課にしていた.分厚い本ばかり 抱えて歩いていると怪しまれるので,彼は空っぽの鳥籠もかかえていた.

子どもたちには青い鳥を探しているんだといって適当にごまかし,また子 どものことだからそんな言い訳で済ましてもくれた.このエピソードがそ の後の宇沢を象徴していると考える著者は,丸山真男の名著『日本の思想』

の一節を引いている.ここで語られている「理論家」がまさに宇沢にぴっ たりだというのである.丸山は書いていた.「理論家の眼は,一方厳密な 抽象の操作に注がれながら,他方自己の対象の外辺に無限の廣野をなし,

その涯は薄明の中に消えてゆく現実に対する断念

4 4

と,操作の過程からこぼ れ落ちてゆく素材に対するいとおしみ

4 4 4 4 4

がそこに絶えず伴っている.この断 念と残されたものへの感覚が自己の知的操作に対する厳しい倫理意識を培 養し,さらにエネルギッシュに理論化を推し進めてゆこうとする衝動を喚 び起こすのである」 (傍点は丸山) .

 カントにとって他者とは,そしてヌーメノンとは,エネルギッシュな理

論家だからこそもっている空っぽの鳥籠ではないだろうか.現象にたいす

る「断念と残されたもの 〔すなわち物自体〕 への感覚」.無限判断 (無限に空

っぽの判断) による限界づけはつねにこれとともにあった.ここで先のジ

(19)

ジェクに触れておくと,たしかにジジェクの無限判断も限界づけにかかわ るが,カントのそれとはやはり異なっていると私は思う.ジジェクの限界 づけは, (拙著の第3章の「6 無限判断と限界規定」でも略述したが) 初期ウ ィトゲンシュタインの言語によるそれにも似て,現象世界をあくまで内側

4 4

から

4 4

限界づけるものである.これは (私のいう) ネガティヴな限界づけで はない.ジジェクにおいて限界の外は本来ないので,それをなにかと想念 すること自体が馬鹿げた幻想になる.しかしながら,カントのそれは,ど れほど素朴で無邪気だと嗤われようと,どうしても外を,そして外部によ

4 4 4 4

4

ネガティヴな制限を考えようとする,そのような窮余の限界づけなので ある.いいかえるなら,すべては○○である,あるいは,△△がすべてだ,

という類の,ジジェクの言葉では「観念論的賭け」をカントは行なうこと ができない

19

.どこまでもホーリズムを回避して考えを練る,これがカン トをしてドイツ観念論からは脱離させる指標だろう.

 さて著者の佐々木は私に一層の駄目を押してくれる.宇沢が求め続けた のは,丸山も「現実にたいする切迫した,またトータルな批判意識の所産」

20

と高く評価したユートピア思想であると.ユートピア,ギリシア語でウー ・ トポス,ここにもどこにもないところ,無際限に空っぽの場所,まさに

〈な

ノ ン

い〉の余白.私たちがこの空しさを嗤うことはたやすい.その時々の 模範国家に押しのけられ,ただの一度たりともユートピア思想が実らなか ったというこの日本ではとくに.

 話を戻すと,私がレヴィナスの他者とカントのそれが相容れないのでは ないかと感じるのも最終的にはこの点である.レヴィナスは青い鳥の不在 に,あるいは (既成の現実に跪拝する) 大人たちが,いつまでも空っぽでし かない鳥籠へ浴びせる冷笑に,耐えられるだろうか

21

19

ちなみに観念論に対抗する立場を唯物論とするなら,これはそもそも「内側から(von

innen)」云々という発想を有効だとは考えないように思う.

20

「近代日本の知識人」より.『後衛の位置から』(1982年)に収められている.

21

ごく最近、谷川俊太郎の新作が目に飛び込んできた。題は「からっぽ」である。

「ふたをあけたら/なにもはいっていなかった/からっぽなら/なにをいれてもいいのか/

それともみえないなにかが/もうはいっているのか

 ふたをとじても/からっぽはきえない/なにもないのにからっぽはある/このなかのか らっぽは/そとのからっぽにつうじている/からっぽはおそろしい

からっぽに/なにかいれなければ

/なくしてしまったもの/ほしいのにもってないもの/

みたこともないもの/どこにもないもの」(『朝日新聞』、2020年4月1 日、夕刊)

(20)

6 学説史と哲学史

 話はつながっていた.ヘラー=ローゼンの著作は,ウーティス,すなわ ちギリシア語の「だれでもない者」から議論を開始する.先のウー ・ トポ スとは異なり,こちらの原典は実在する.もちろんホメロスの『オデュッ セイア』である.というか,本のタイトルである No One's Ways ― An Essay on Infinite Naming の‘No one’がそれだった.このあたりのちょっ とした経緯は別稿の末尾に書いたので繰り返さない.

 「だれでもない者」すなわち「無人」のもつ不定性

22

が,アリストテレ スの不定名辞すなわち無限名辞(infinite name)の代表例たる「非人間」

とつながっているというヘラー=ローゼンの見立ては間違ってはいない.

しかし,私の結論をあらかじめいっておくと,著者の焦点がどこに絞られ ているのか,それが結局のところ見えてこないということにある.おそら く私にだけではないと思う.

 ともかく驚嘆すべき網羅である.カントの章を代表例にするなら,関連 する一次二次の資料は調べ尽くされている.著者の注意は,私が取り上げ なかったいわゆる遺作『オプス・ポストゥムム』にまで及ぶ.さらに最後 の二章では,ブール,シュレーダー,フレーゲ,ラッセルそしてカルナッ プなど近現代の論理哲学者が扱われているだけではなく,とりわけハイデ ガーに紙幅を割き,アドルノさらにはサールやチョムスキーを経て,フロ イトとラカン,果てはドゥルーズやアガンベンも論述の対象にしている.

無限名辞に関連してこれだけの一大絵巻はもはや壮観どころではない.た しかに力業とはこのことである.

 しかしながら,私は問いたくなる.著者はこの本で一体なにを解き明か したいのだろう.議論の百家争鳴,その中での相似と相異だろうか.だと しても,なにをもって豪華な扇の要

4

と考えているのか.あるいは読者をど

22

ユートピアがどこでもない場所の理想化を惹起するのと同様,ウーティスもだれでもない

人間の理想化を生むとはいえる.ただし,それがどこまでも風刺や戯画という遊びの世界

にとどまるところがやはり聖ならぬ俗ではないだろうか.オデュッセウスの痛快な悪戯を

嚆矢として,子ども連中から「おかしなおっつぁん」と呼ばれていた宇沢弘文の「空っぽ

の鳥籠」もまたそうであったように.楜澤厚生『〈無人〉の誕生』(影書房,1989 年)のと

くに「ウーティスの系譜」も参照.

(21)

23 Antonin Artaud, »Pour en finir avec le jugement de dieu«, 1948. 宇野邦一,鈴木創士 訳『神の裁

きと訣別するため』,河出文庫,

2016

年.アルトーが最晩年に書いたラジオ ・ ドラマである.

こへと導こうとしているのだろう.出口のない巨大な迷宮か (私なら迷い たくない) .

 〝選択と集中〟などという最近になって私たちに降ってきた標語は大嫌 いである (予算はバラ撒きにかぎる) .だが,本書は少なくとも私にはあまり にも総花的網羅としか思えない. 

 たとえば本書の第 XII 章と第 XIII 章の隣り合い.前者ではヘーゲルの無 限判断が,後者ではコーエンのそれが詳細に扱われる.哲学に関心がある 人なら,無限判断にたいする両者の考え方がかなり異なっていることには どのみち鋭敏にならざるをえないはずである.じっさい著者は或る箇所で,

コーエンがヘーゲルを,無限判断をおちょくり馬鹿にしているという廉 (真 実はけち) で非難していることに触れてはいる[p.203].ところが,それ だけなのである.私にはこの〝対岸の火事〟感が分からない.この両者を すぐ隣に並べるのなら,その大きな違い,いや反目の由来

4 4

を見極めないで はたして哲学的論究といえるのだろうか.

 もう一つの例を挙げる.著者はコーエンを論じ終えた次の第XIV 章を「判 断の後で」と題し,20 世紀を境にして,それ以前と以後では哲学者たち の傾向が変化したことを次のように語っている.

 

カントとカント以降のマイモンからコーエンまでは,彼らの超越論的 論理学において,判断の諸タイプがそれらの内容と形式によって純粋 理性の本性を特徴づけるその方法に取り組もうとした.彼らは「ない」

や「非~」の機能を,とりわけそれらが述語的規定の諸類型に属する かぎりで考察した.彼らが無限名辞の問題と出会ったとき,それは述 定の理論の影響下にあったのである.

 こうしたことはすべて20世紀には変化した.アントナン・アルト ーが「神の判断 〔裁き〕 と訣別せよ」

23

と命じた時代は,哲学者たちが,

しばしば対立したやり方ではあったが,述定的判断の形式と「訣別し」

ようと努力していた時代でもあった.[p.220]

(22)

24

この両研究については拙著でも触れておいた[41-42].

 著者がいう「マイモンから」の諸家には,とくにフィヒテとヘーゲルが 入り,マイモンだけでなくこの二人にもそれぞれ章があたえられ詳細な議 論が展開されている.それなのに,つまり研究史上,未曾有の力を尽くし たそのわりには,上の総括はどこか拍子抜けではなかろうか.いまコーエ ンは除くが,それ以前の「カントおよびカント以降」の後継者たちによる,

述定

4 4

そのものの可能性をめぐった,すなわち判断それ自体の限界をめぐっ た格闘は,一体なんだったのだろう.彼らもまた,主語/述語という判断 形式の呪縛からどうにかして解放されるべくもがいていたのではないか.

少なくとも 20世紀の「変化」はとつぜん起こった変異ではなく,いまだ 秘められた前史が確実に存在する.ヘラー=ローゼンはおよそ当たるべき 資料にはすべて当たっている.けれども,彼はそこからなにを読みとろう としているのか.私には依然,優秀な詩人いな専門家が向こう岸を超然と 他人事のように眺めているとしか感じられない.十二分に調べられ,情報 もあたえられてはいるが,あるべき哲学史を論じているとは思えないので ある.

 じつは同じことを,無限判断を対象にしたウルフソン(Wolfson, Harry Austryn)や,「否定」全般にかんするホーン(Horn, Laurence R.)の微細 な歴史研究にも感じていた

24

.この二人には隠された共通点がある.前者 はそもそもヘーゲルの無限判断を扱わない.後者は扱うが,どうみても表 面的であり,コーエンのように (ただし彼ほど感情的ではないにせよ) ヘーゲ ルをもてあましている.それを問わず語りにするのが,ヘーゲルによって アリストテレス以来の否定判断および無限判断にたいする観方が「完全に 180°転回した」[p.64]というホーンの大胆な指摘だろう.本来このよう な発言は,ヘーゲリアンだけでなくヘーゲル自身にも寝耳に水のはずであ る.とうぜん論証がなされなければならない.ところが,読者に一瞬の注 意を促すだけで,証明されないまま次の話題に移っている.私にはこの軽 視あるいは冷遇が理解できない.

 このホーンに比べればヘラー=ローゼンによるヘーゲルの取り扱いは理

想的ともいえるほどに丁重である.しかもいわゆる大小の論理学だけでな

(23)

25

ホメロスとパルメニデスの響応は別稿の「4 パルメニデスと否定の道そしてホメロスの 海」で論じた.

く,『精神現象学』はもちろん,すべての関連著作が『美学講義』にいた るまで注視されている.さらには個々の分析の質も,大向こうのヘーゲリ アンをも唸らせるもののように思われる.同じことはカントを対象にした 別の章についてもいえる.ともかく叙述に破綻は見られない.

 ただし,それは各章の内部に

4 4 4

かぎってのことである.内的に首尾一貫し た叙述の大きな塊が十数個,それぞれ意匠を凝らしたショー ・ ケースが 次々と並んでいるかのように進んでいく (でもどこに向けて?) .だが,こ れで真に哲学史といえるのだろうか.ヘーゲルとともに問いたい,哲学史 はそもそも画廊(Gallerie)でよいのか.ヘラー=ローゼンの研究は学説 史ではあるかもしれない.でもヘーゲルは (極言すれば) タコツボに収ま った一話完結を「学」とは認めるだろうか.ましてその行列を真の歴史と.

 ヘラー=ローゼンも当然ながら諸家の相異を意識せざるをえない.けれ ども,この「相異」というのはじつに微妙な概念である.たんなる異なり を意識するのは簡単である.だが,揺るがぬ共通点―これが無限判断の

「バトン」である―を押さえた上で,さらに相異点まで理解するのは,

それとは本質的に別の作業ではないか.ヘーゲルとコーエンという天敵の 隣接にもほとんど無関心といってよいほど,両者を別個のタコツボに収納 して納得したヘラー=ローゼンである.カントとヘーゲルのちがいを彼が 述べても,私には響いてくるものがない.

 あとは拙著の主張と重なる.無限判断の哲学史は,カントというよりも ヘーゲル

4 4 4 4

をその流れに棹さす者として理解できるかどうかが最重要の鍵に なる.しかし,それにはアリストテレスの論理学ではなく,それ以前の形 而上学,とりわけパルメニデスの問題提起にまで遡らなければならない.

じっさいヘラー=ローゼンは,無類の俊傑たる彼にしてもというべきだろ

うか,ホメロスのウーティスを源流のさらに源流として第1章のテーマに

選びながらも,パルメニデスは素通りしている

25

.いきなり第2章がアリ

ストテレスの論理学である.そして,この元祖のどこか煮え切らない態度

をいぶかしみつつその章の記述を終えている.どうしてアリストテレスの

無限名辞は彼の生物学や天文学にも,さらには道徳論や自然誌にも登場し

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