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― ― フランスにおける聖顔の信心をめぐって

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フランスにおける聖顔の信心をめぐって

―カルメル会、クローデル、ルオー―

大 須 賀 沙 織

はじめに

 受難のキリストの傷ついた聖なる顔(Sainte Face)。それは、十字架の道行きで、

キリストがヴェロニカの差し出した布で顔を拭い、そこに痕跡が残されたという伝 承として、また、トリノの聖骸布に写し出された傷だらけの姿として黙想されてき た。そもそも聖顔への信心とは何か、そしてフランスにおける起源はどこにあるか を探るうちに、19世紀前半、トゥールのカルメル会修道女として生きた聖ピエール のマリーという人物に行き当たった。大革命後のフランスで、トゥールの一修道女 が聖顔のメッセージを受け、彼女の死後、カルメル会修道女リジューのテレーズが トゥールのマリーの霊性を受け継ぎ、「幼な子イエスと聖顔(尊き面影)のテレーズ」

となって、傷ついた痛ましい聖顔の信心を自伝、書簡、詩に書き記し、広めること となった。1898年にはトリノの聖骸布の写真が公開され、詩人ポール・クローデル や画家ジョルジュ・ルオーは信仰の深みから聖骸布を見つめ、作品を生み出してい く。威厳に満ちた栄光のキリストではなく、人々の侮辱と暴力を一身に引き受け、

傷つき苦しむキリストを見つめる心性はどのような流れで形成されていったのか。

本論ではまず、十字架の道行きにおけるヴェロニカの伝承を、キリストの受難を幻 視したドイツ人修道女の描写とともに確認し、トゥールのカルメル会修道女のもと で聖顔の信心が具体化した経緯をたどる。その後、その信心がリジューのテレー ズ、クローデル、ルオーにどのように受け継がれ、展開されていったかを考察する。

1.ヴェロニカの伝承、十字架の道行き

 ヴェロニカの伝承は、祈りと黙想をとおして受難の苦しみを心に刻む信心業「十

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字架の道行き」(Chemin de la Croix)の一場面として、信徒の中で育まれてきた。

キリストが十字架を担って歩んだゴルゴタの丘までの「苦しみの道」(Via dolorosa)

を追体験しつつ歩むこの信心業は、エルサレムへの巡礼に代わるものとして中世か ら広く行われてきた。現在では14の停留所(station)をたどる形が定着しているが、

停留所の数にはさまざまなヴァリエーションがあり、フランスで14留の道行きが定 着し広まったのは意外に遅く、19世紀以降のことである。その第6留がヴェロニカ にあてられているが、この出来事は新約聖書には記述がなく、伝承によって伝えら れてきたものである1。群衆をかきわけ、十字架を担うキリストのもとへ駆け寄 り、布を差し出すヴェロニカの物語は、中世後期に受難劇の一場面として書き加え られたものだとする見方もある。とはいえ、それは何もないところから創作された のではなく、6世紀にエデッサ(現トルコのウルファ)で発見された「手描きでな い」イエスの顔が写し出された布、東方教会で「マンディリオン」(Mandylion)

と呼ばれる聖顔布の伝説に基づいているようである2。いつしかマンディリオンと ヴェロニカの伝説は、人々の想像世界の中で合流し、史実ではないが、人々の意識 の中、記憶の中の「真実」となって受け継がれていった3。『公教会祈祷文』では、

十字架の道行き第6留は次のように唱えられる。

1 Véronique ou la Sainte Face de Notre Seigneur Jésus-Christ. Notice historique sur cette insigne et très sainte relique majeure de la Basilique Vaticane, Adrien Le Clère, 1869.

Michel-Jean Picard, « Croix (Chemin de) », Dictionnaire de spiritualité, Beauchesne, 1953, t. 2, col. 2589-2602. Amédée Teetaert de Zedergem『キリストの受難 十字架の道 行き―心的巡礼による信仰の展開』関根浩子訳、勉誠出版、2016.石井健吾「十字架の道 行き」、『新カトリック大事典』、研究社、t. III、2002、p. 141.Philippe Sellier『聖書入門』

支倉崇晴、支倉寿子訳、講談社、2016、p. 294-297.

2 Ian Wilson『トリノの聖骸布―最後の奇蹟』木原武一訳、文藝春秋、1985(The Shroud of Turin, New York, 1978)、p. 149-152.Gaetano Compri『見よ この人を―聖骸布2000年 のなぞを解く』中央出版社、1984、p. 44;『これこそ聖骸布―コンプリ神父がその真相を 語る』ドン・ボスコ社、2015、p. 78-85,98.

3 遠藤周作は聖書に記された受難物語の「事実」と「真実」の場面を区別し、「事実でなかっ

た場面も[]その時代の信仰者がそれを心の底から欲した場面であるから、真実なので ある」と言った(『イエスの生涯』、新潮文庫、p. 146-147)。想像界は歴史において「実体 的現実と同じほど具体的でアクティブな現実」だったというジャック・ル・ゴフの言葉も 思い出される(『中世の夢』池上俊一訳、名古屋大学出版会、1992、p. ii)。

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  第6留 イエズス、おん顔を布に写させたもう

  主はなお歩み行きたもうほどに、おん体もおん顔もあけの血に染みたまえど も、人々は少しもあわれまず、ますます荒立ち騒ぎたり。このときヴェロニカ という女、群衆のうちより走りいで、主に布を献ささげければ、主はおん自らおん 顔を拭い、尊きおん面影をその布に写して返し授けたまえり4

ここでは、ヴェロニカが差し出した布をキリストが受けとり、自ら顔を拭い、ヴェ ロニカに返したとされているが、ヴェロニカがキリストの顔を拭ったするテクスト や彫刻、浮き彫り、絵画も見られ、両方のイメージがともに受け継がれてきたよう である5

 19世紀に入ると、ドイツのアウグスティヌス会修道女アンナ=カタリナ・エム リック(Anna Katharina Emmerick, 1774-1824)がキリストの受難を幻視し、詩 人クレメンス・ブレンターノ(Clemens Brentano, 1778-1842)が彼女のもとで話 を聞きとってまとめ、1833年、『われらの主イエス・キリストの痛ましきご受難』

を出版する6。1835年には仏訳が刊行され7、リジューのテレーズ、クローデル、ル オーにも影響を与えることになる。エムリックはオリーヴの園から磔刑にいたるま でのキリストの動きを詳細に伝えており、それによれば、上の祈祷文にあるとおり、

ヴェロニカが布を差し出し、キリストがその布を受けとり、自ら顔を拭ったという。

  彼女の愛と、神なる主をお慰めしたいという欲求が彼女に超自然的力を与え、

彼女はその服につかまる女の子とともに、群衆の列をかきわけ、兵士たちを押 しのけ、イエスのもとにたどりつき、その膝元に身を投げ、首にかけていた布 を広げて言いました。「どうか、わが主のお顔をお拭いすることをお許しくだ

4 カトリック教区連盟編『公教会祈祷文』ドン・ボスコ社、1960、p. 117-118.

5 Missel quotidien et vespéral, Bruges, Desclée de Brouwer, 1924, p. 2287, « Chemin de la Croix ».

6 Das bittere Leiden unsers Herrn Jesu Christi, 1833.

7 La douloureuse Passion de Notre Seigneur Jésus-Christ, dʼaprès les méditations dʼAnne- Catherine Emmerich [rédigée par Clément Brentano], traduite de lʼallemand [par M. de Cazalès], Debécourt, 1835.

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さい。」イエスは左手で布をとり、血に染まるその顔に押し当てました。そし て、十字架の腕木を支えているため自由がきかない右手のほうへ左手を近づ け、両手で布を顔に押し当てると、感謝をこめて彼女に布を返しました。セラ フィアはその布に口づけし、マントの下にしまい、胸に押し当て、立ち上がり ました。女の子はもっていたワインの壺をおずおずと差し出しました。しかし 兵士たちは、イエスが元気を回復することを許しませんでした8

布を差し出した女の名はセラフィア(Seraphia)といい、彼女がここで果たした役 割から、« vera icon » (本物のイコン)を意味するヴェロニカ、あるいはギリシャ 語名のベレニス(Berenice)と呼ばれるようになった9。人々の侮辱をかきわけて、

愛と勇気と信仰を示したヴェロニカは崇敬の対象となり、1413年には、ブルター ニュ公ジャン5世が、聖ヴェロニカの信心会(Confrérie de la sacrée Véronique)

をナントに設立している10。この信心会は長く存続していたと見え、17世紀にレンヌ 出身のドミニコ会修道士アントナン・トマ(Antonin Thomas, 1631-1701)が、こ の信心会のために『聖ヴェロニカへの信心、あるいはわれらの主イエス・キリスト の聖なる顔になされた卑劣な行為と侮辱の償い』(1694)を刊行している11。第2版 は1889年にトゥールの聖顔の礼拝堂で刊行されており、ナント、レンヌ、トゥール へと浸透していく流れが見える。アントナン・トマは『聖ヴェロニカへの信心』に つづき、『神とイエスの至聖なる名の信心』(1696)をレンヌで出版しており12、その

8 La douloureuse Passion de Notre Seigneur Jésus-Christ, Liège, 1853, p. 271 ; Tournai, Casterman, 1859 [Gallica], p. 297. Texte allemand : http://www.gottliebtuns.com/anna_

katharina_emmerich_1.htm

9 La douloureuse Passion, Liège, 1853, p. 270 ; Tournai, 1859, p. 296. Véronique ou la Sainte Face de Notre Seigneur Jésus-Christ, Paris, 1869, p. 11-13.

10 Jean-Augustin Robilliard, « Face (Dévotion à la sainte Face) », Dictionnaire de spiritualité, Beauchesne, 1964, t. 5, col. 30-32.

11 La dévotion à la sainte Véronique ou la réparation des ignominies et des outrages faits à la Face sacrée de Notre Seigneur Jésus-Christ représentée dans le voile de Sainte Bérénice, Paris, L. Guérin, 1694, 154 p. ; Tours, Oratoire de la Sainte-Face, 1889.

12 La dévotion aux très saints noms de Dieu et de Jésus pour la réparation et l’extirpation des jurements et des blasphèmes, Rennes, 1696.

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信心の中でキリストの顔(Face)と名(Nom)は分けがたく結びついている。こ の発想は、以下に論じるトゥールの聖ピエールのマリー、そしてリジューのテレー ズにも見られるのものであるが、ブルターニュ地方に根付いていた思想であったと いえる。ブルターニュ以外では、リエージュで『おおわが主のみ顔よ、誰があなた をこのように傷つけたのか』(1638)、ドゥーエで『聖顔の信心会の起源』(1681)

が出版されており、フランドル地方もこの信心の一拠点となっていたことがうかが える13。このようにブルターニュ地方やフランドル地方を中心に育まれてきた信心 が、19世紀以降、2人のカルメル会修道女、レンヌ出身でトゥールのカルメル会修 道女となる聖ピエールのマリーと、リジューのテレーズをとおして人々の目に啓示 されていく。

2.トゥールのカルメル会修道女聖ピエールのマリー14 誕生からカルメル会入会まで

 ペリーヌ・エリュエール(Perrine Éluère)、のちの聖ピエールのマリー(Marie de Saint-Pierre, 1816-1848)は、1816年10月4日、ブルターニュ地方のレンヌで、

敬虔な職人の家庭に生まれた。マリーは生後間もなく乳母に預けられるが、乳母の 留守中、暖炉に落ちる事故があり、そのやけどの跡は、成長しても消えることなく 顔に残っていたという。このことはキリストの傷ついた顔を黙想するときに、無意 識のところでつながっていたように思われる。物心つくと、両親はペリーヌを教区 の教会に送り公教要理を学ばせる。と同時に、ペリーヌは十字架の道行きを実践す るようになり、キリストの苦しみの場面を読んで激しく胸を打たれる。10歳頃、念 祷(oraison mentale)という祈りがあり、口祷(prière vocale)よりも神をよろこ ばせる祈りであることを知る。方法もわからないまま、念祷を試みるようになり、

13 O Face de mon Sauveur, qui vous a ainsi navrée ?, Liège, Ouwerx, 1638. C. Pora, L’Origine de la confrérie de la Sainte Face, Douai, Serrurier, 1681.

14 以下、トゥールのマリーの生涯と聖顔の信心については、『トゥールのカルメル会修道女聖

ピエールのマリー伝』をもとにまとめた。Vie de la Sœur Saint-Pierre carmélite de Tours, écrite par elle-même, mise en ordre et complétée à lʼaide de ses lettres et des annales de son monastère, par M. lʼabbé Janvier, 2e éd. augmentée des prières et exercices de réparation de la Sœur Saint-Pierre, Tours, Oratoire de la Sainte-Face, Monastère du Carmel, 1884 (1re éd. 1879). 出典は、『マリー伝』以外のもののみ記した。

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あるとき神からのインスピレーションにより、キリストの苦しみと自分の罪のこと を考えるよう導かれる。こうして誰からも教わらず、内的祈りを体得し、習慣とし ていく。

 16歳のとき、修道院で8日間の黙想をし、修道女になりたいと強く願うようにな る。アビラのテレサを慕い、念祷を生きる彼女はごく自然にカルメル会を志してい た。レンヌは17世紀にカルメル会改革運動の中心地となり、女子カルメル会修道院 も1622年に創設されていたが、革命期に解散し、レンヌに再設されるのはペリーヌ の死後、1857年のことである15。受け入れ先が見つからず悲嘆に暮れるペリーヌは、

聖マルタンの祝日(11月11日)、聖マルタンがトゥールの聖人であることも、

トゥールにカルメル会があることも知らずに、カルメル会に入会できない苦しみを 訴える。やがて、思いもよらずトゥールのカルメル会に受け入れが決まり、マリー は聖マルタンが祈りを聞き入れてくれたのだと確信する。修道院に入ったのちは、

カルメル会の保護者聖母マリアと、受洗名ペリーヌの保護者、使徒ペトロから名を とり、聖ピエールのマリーと呼ばれるようになる。

神の名と主日の冒瀆

 修道会ごとに継承されている特別な信心の対象があるが、トゥールの女子カルメ ル会では、他の女子カルメル会と同様、幼な子イエスとイエスの聖心(Sacré Cœur)が特に重視されていた。幼な子イエスを霊的花婿として常に黙想の対象と していたマリーはやがて、聖心の観想をとおして、痛ましいキリストの顔の神秘へ と導かれていく16。マリーにおいても、聖顔の信心は、17世紀の出版物に見られたよ うに、神の名の冒瀆の償いと結びつけられ具体化されていく。

 最初の出来事が起こったのは、1843年8月26日、フランスとローマ・カトリック 教会の保護者聖王ルイの祝日の翌日のことであった。聖王ルイはたしかに、神の冒 瀆に対しては容赦なく罰した側面があった17。この日マリーは、世の冒瀆がどれほど 神を苛立たせているかという思いにとらわれ、夕方5時頃、心の中で十字架の下に

15 « Les Carmélites à Rennes » (http://carmel-montigne.e-monsite.com/pages/historique.

html).

16 Dictionnaire de spiritualité, t. 5, « Face », col. 31.

17 Jacques Le Goff『聖王ルイ』岡崎敦ほか訳、新評論、2001、p. 290-295,813.

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身を置き、神との内的対話をはじめていた。するとイエスが心を開き、次のような 言葉が伝わってくる。「私の名がいたるところで冒瀆されている。子どもたちまで 冒瀆している!」そしてマリーはそのことがどれほどその心を傷つけ苦しめている か、冒瀆が毒矢となり、その心をたえず傷つけているかを悟る。

 この出来事に先立ち、聖王ルイの保護のもと神の名をたたえ、神の名の冒瀆を消 し去るための「聖王ルイの40日」(Quarantaine de saint Louis)と呼ばれる祈りが トゥールの修道者、信徒らによって共同祈願として唱えられていた。そして同じ時 期、教皇グレゴリウス16世が、聖王ルイを保護者とし、神の名の冒瀆を償うための 信心会の結成を認める教皇書簡を公布した。こうした一連の流れから見えてくるの は、大革命後のフランスで、神の名の冒瀆が蔓延し、人々はそこにフランスの罪と 神の怒りを感じ、祈りによってフランスの罪を償おうという潮流が生まれていたこ とである18

 神の名の冒瀆とともに繰り返されたのが、主日の冒瀆、つまり日曜日に労働を し、休息の日、神の日の聖性を汚す罪である。これは19世紀前半、工業化が急速に 進むフランスで、日曜日も休まず経済優先で働く労働者が増えたこと、信徒のミサ 離れが進んでいたことが背景にある。これらの罪を償うために信心会を作り、聖マ ルタン、聖王ルイ、大天使ミカエルの保護のもとに置き、主の祈り(Pater)、天使 祝詞(Ave Maria)、栄唱(Gloria)と、マリーに伝えられた「金の矢」(Flèche dʼor)の祈りを唱えることが求められる。「神の名がとこしえにたたえられ、愛さ れ、あがめられますように」というこの祈りは、たえず冒瀆の毒矢に傷つけている キリストの心を慰める愛の矢であった19

聖顔のメッセージ

 1843年8月の出来事のあと、マリーの魂は大きく変化し、神の名の賛美と冒瀆の 償いに、命をすり減らしながら身を投じていくことになる。1845年、マリーはたび

18 Pierre Janvier, Vie de M. Dupont, éd. abrégée, Tours, Oratoire de la Sainte-Face, Paris, Larcher, 1881, p. 63-65.

19 Pierre Janvier, Manuel de l’Archiconfrérie de la Sainte-Face, Tours, Oratoire de la Sainte- Face, 3e éd., 1895, p. 181. トリノの聖骸布のキリストの顔が印刷されたカードの裏に、英 語版「黄金の矢」The Golden Arrowの祈りが引用されている。

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かさなる試練(悪魔の誘惑)に遭い、これまであれほど大切にしてきた信心行為に 嫌悪を催し、かろうじて聖体拝領をするという状態に陥っていた。ある日、十字架 を手に取り、「金の矢」の祈りを唱え、冒瀆の償いとして聖体拝領をする決心をす る。その思いはただちにキリストに受け入れられたことを感じ、試練のあとの静け さ、暗夜のあとの光に包まれる。このとき、聖顔の神秘が突然に啓示される。マ リーは霊の状態でカルヴェールの道に導かれる。

  そこで主は、ヴェロニカの敬虔な務めを鮮やかにお示しになりました。ヴェロ ニカは、唾と埃と汗と血にまみれた、いとも聖なるお顔をそのヴェールで拭い ました。聖なる救い主は、不信心者たちが現在、彼らの冒瀆によって、聖顔に なされた侮辱を新たにしていることを私に理解させました。[]主は私が、

敵の群れをあれほど勇敢にかきわけて進んだ敬虔なヴェロニカの熱意にならわ なければならない、ヴェロニカを私の保護者、模範として与えようとお告げに なりました。私は主がヴェロニカを大変愛していることを理解しました。それ ゆえ主は、私たちの修道院でヴェロニカがとくに敬われるのを見たいと望んで いるとおっしゃいました。

これまでマリーが受けたメッセージにおいては、神の名と主日の冒瀆とその償いが 繰り返されてきたが、ここではじめて十字架の道行きのキリストの顔とヴェロニカ の行為が主題となり、冒瀆の償いと聖顔の信心が結びつけられ、体系的に理解され ていく。そのとき聖ピエールのマリーが見たのは、ヴェロニカが顔を拭う光景で あった。そして「聖顔は冒瀆者に侮辱され辱めを受ける神性」を表しており、キリ ストは「あがめる者のほとんどいない聖顔を拭い、たたえるヴェロニカを探してい る」ことを告げる。そしてそれにつづき、「あなたに私の聖顔を与えよう。聖ヴェ ロニカが聖顔をあがめる方法を教えるだろう。この聖顔をとおして、あなたは驚異 を成し遂げるだろう」という声が聞こえ、ヴェロニカの複製がやがてローマからも たらされることの予告となる。

 1846年3月、冒瀆の償いに思いを向けつづけていたマリーに、ヴェロニカとよき 泥棒の象徴的役割が明かされる。ヴェロニカは十字架の道行きでキリストの顔を拭 い、キリストの人間性の栄光をたたえた。声高に主張するのではなく、キリストの

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顔を拭い、祈りと賛美と礼拝によって冒瀆の罪を償う女性のモデルである。よき泥 棒は、キリストとともに十字架に架けられ、キリストをののしったもうひとりの泥 棒に対し、キリストをかばって声を挙げた人物である(ルカ23章40-43節)。彼は十 字架上で説教壇にあるかのように声を挙げ、悪い泥棒に冒瀆されるキリストの神性 を、公に擁護し宣言する聖職者のモデルである。傷つき、ののしられるキリスト は、憐れみ、かばう人に慰められ、ヴェロニカには聖顔を残すことで、よき泥棒に は天国を約束することで、彼らの行いに報いたのである。

ラ・サレットの出現

 1846年3月23日から半年間、マリーはメッセージを受けとらず、静かな時期を過 ごしていた。9月はじめ、「母が人々に私の怒りを伝え、私の怒りを静めようとし ている」というメッセージを聞く。この段階ではマリーにも、その報告を聞いた修 道院長にも意味はわからない。ところが、約2週間後の9月19日、フランス東部の 山村ラ・サレットで、聖母マリアが2人の羊飼いの子どもたちに姿を現す出来事が 起こる20。トゥールにこのニュースが届いたのは10月下旬になってからのことであ る。ラ・サレットの出現を知らないまま、マリーは3年前から繰り返される、主日 の冒瀆と神の名の冒瀆、罪の償いのための信心会の創設というメッセージを重く受 けとめ、祈りつづけている。10月25日、父なる神の怒りを静めるのがキリストの顔 であり、聖顔によって多くの罪人が救われるだろうと告げられ、マリーの中で、罪 の償い、フランスの救い、聖顔が切り離せないものとなる。

大信心会の創設21

 マリーは自らの死の予告を受け、残された時間の中で聖顔の連祷、讃歌、祈りを 書き留めていく。また、彼女が受けとったメッセージをまとめ、『冒瀆を償う業の 制定に関する出来事の概要』22と題してカルメル会修道院と少数の信者のために50部 が作られる。トゥールのカルメル会修道院の献身的な友であり、熱心な信者であっ

20 高橋たか子『巡礼地に立つ―フランスにて』女子パウロ会、2004、p. 69-107.

21 Dictionnaire de spiritualité, t. 5, « Face », col. 31.

22 Abrégé des faits concernant l’établissements de l’œuvre pour la réparation des blasphèmes, 1846.

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たレオン・デュポン(Léon Dupont, 1797-1876)が数部を買いとり、親しい友人 たちに郵送する。修道院長も、とくに親しいルーアンとパリのカルメル会に郵送す る。この小さなテクストが実りをもたらし、償いの信心会創設の願いが高まってい く。

 冒瀆の償いをしなければという思いは、17世紀にナントやレンヌにすでに見られ たものであり、大革命後はとりわけ信徒の間で強く共有されていた集団的無意識で あったといえる。念祷に生きる一修道女マリーが果たした役割は、「それまで人々 の魂の底に隠されていたもの」、人々の心の中で醸成されてきたものを意識の表面 に取り出し、顕在化させたことであった。それは、償いの信心会が創設されるや、

入会を希望する信徒が殺到したことからもうかがえる。ラ・サレットの出来事も重 なり、信仰をもつ人々は「フランスの罪を認識し、罰を恐れ、償いの道に入った」

のである。

 トゥールでマリーが信心会の創設を願っている間、フランス東部シャンパーニュ 地方サン・ディジエ(Saint-Dizier)の聖マルタン教会で大信心会の創設が実現さ れる。1847年1月、ラングル(Langres)の司教ピエール=ルイ・パリジ(Pierre- Louis Parisis, 1795-1866)が、サン・ディジエで、主日の成聖(日曜日を神に捧げ る休息の日として肉体労働をせずに過ごすこと)について説教をしたのを受け、主 任司祭ピエール・マルシュ(Pierre Marche)が贖罪信心会(Association réparatrice des blasphèmes et de la violation du dimanche)の創設を思い立つ。7月18日、パ リ ジ 司 教 が 贖 罪 信 心 会 を 設 立 し、 7 月30日 に は、 教 皇 ピ オ 9 世 が 大 信 心 会

(archiconfrérie)として認可する23。大信心会の創設はトゥールのカルメル会の出来 事とつながっており、会則の作成にあたっては、トゥールのカルメル会との交渉の 中で進められた。こうしてイエスの聖なる名に捧げられた信心会は、フランスの守 護者なる大天使ミカエル、聖王ルイ、聖マルタンの保護下に置かれた。大信心会が 創設されたことで、マリーの目的は大部分達せられたが、マリーにとって心残り だったのは、信心会の創設地がトゥールから遠く離れた小さな町であり、トゥール では司教の許可が下りず、創設されなかったことである。また、聖顔の信心につい て、パリジ司教は慎重な態度を崩さず、完全な沈黙が守られたことだった。マリー

23 Dictionnaire de spiritualité, t. 5, « Face », col. 31.

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伝の著者ジャンヴィエ神父が、「1846年当時、聖ピエールのマリーの内面以外では、

聖顔は信仰の対象とはされていなかった」と指摘しているとおり、マリーと同時代 の司教たちは、傷ついたキリストの顔を特別な崇敬の対象とすることについて許可 を与えようとはしなかった。マリーとしては、大信心会の十字架の裏に「この人を 見よ」(Ecce Homo)の顔が刻まれ、大信心会の手引きに「聖顔の連祷」が挿入さ れたのを見たことで満足しなければならなかった24。1847年1月10日、死の予告を受 けたマリーは、残された時間をキリストにならい過ごしていこうと思う。1848年3 月30日、肺結核で病床に就き、1848年7月8日、31歳で死去する。マリーを看取る 修道女たちが聞きとった最後の言葉は「イエス、マリア、ヨゼフ!主イエスよ、い らしてください!主の御名が賛美されますように!」だった。

聖顔の普及

 マリーの遺志を受け継ぎ、聖顔の信心を普及させる役割を担うのは、「トゥール の聖人」(saint homme de Tours)と呼ばれるレオン・デュポンである。1851年の 早春(枝の主日)、デュポン氏はカルメル会修道院長から聖顔の版画を贈られる。

それは、カルメル会修道院長が贖罪の業をめぐって連絡を取りあっていた北仏アラ ス(Arras)の女子ベネディクト会修道院長から送られてきたもので、ヴァチカン のヴェロニカの複製だった。アラスの女子ベネディクト会修道院では、1816年の創 立当初から、聖ゲルトルード(Gertrud von Helfta, 1256-ca 1301)の聖顔の信心を 生きており、トゥールのカルメル会に与えられた啓示に強い関心を寄せていた。

ローマから聖画を複数部取り寄せたベネディクト会修道女たちは、カルメル会修道 院に数部を送ってくれたのである。サン・ピエトロ大聖堂のヴェロニカは、ほとん ど何も見えない布である。それが1849年1月、国民統一運動のさなかのイタリア で、教皇ピウス9世が亡命を強いられていたとき、ローマのすべての教会で教皇領 の保護を願って共同祈願が捧げられており、サン・ピエトロ大聖堂では真の十字架 の木片とヴェロニカの布が公開されていた。公開から3日目、柔らかな光の中で、

キリストの顔がはっきりと浮かびあがり、人々は驚き、ただちに報告書が作成され

24 « Litanies de la Sainte Face », Manuel de l’Archiconfrérie de la Sainte Face, 3e éd., 1895, p. 143-150.

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た。この現象は3時間つづいた。その夜、そのヴェロニカの布に何枚かの白い絹の 布を触れさせたところ、聖顔が写し出されたという25。デュポン氏の働きによって広 く知られることとなったため、「トゥールの聖顔」とも呼ばれることになるヴァチ カンの聖顔は、このとき浮かび上がったキリストの顔の複製を指す。

 デュポン氏は翌日、聖月曜日に額縁を注文し、聖水曜日に受けとると、応接間に 飾った。ちょうど受難節の最中であり、聖週間の後半、聖顔の前にランプを灯しつ づけようと思いつく。聖土曜日、用事でやってきた女性が目を患っており、聖顔の 前で祈り、ランプの油を塗ったところ痛みが消え、その後次々に、デュポン氏の聖 顔のもとで病気治癒が起こり、この客間が聖顔の礼拝堂としてフランス各地から 人々の訪れる巡礼地となっていく。デュポン氏はそれから亡くなるまでの25年間、

聖顔の前にランプを灯しつづけ、巡礼者を迎えつづけた。デュポン氏が飾った聖顔 の図像の石版画は、信徒の家、教会、修道院、慈善施設に広まり、ヴァンセンヌの 施療院、パレ・ル・モニアルの聖母訪問会、パリのノートルダム、ルルドの大聖堂、

モンマルトルのサクレクールなどにも飾られることになった。1876年3月にデュポ ン氏が亡くなるとまもなく、その自宅はトゥールの司教によって6月に聖顔の礼拝 堂として一般公開される。1884年にはトゥールに聖顔の信心会(Confrérie de la Sainte Face)が創設され、ヴェルサイユ、ランス、ペルピニャン、さらにベル ギー、オランダ、アメリカへと広がっていく。1885年、トゥールの信心会は大信心 会として認可される。

3.リジューのテレーズ26

 レオン・デュポンによって広められた聖顔の信心は、ノルマンディー地方リ ジューのカルメル会修道院、そしてテレーズ(Thérèse de Lisieux, 1873-1897)の 生まれたマルタン家にも伝わっていた27。リジューのカルメル会では、創立者聖テ レーズのジュヌヴィエーヴ(Geneviève de Sainte-Thérèse, 1805-1891)が、「リ ジューの各教会に〈償いの信心会〉を設置する許可を司教館から受けるよう、同市

25 Vie de M. Dupont, p. 226-230. Manuel de l’Archiconfrérie de la Sainte Face, p. 87-91.

26 Dictionnaire de spiritualité, « Face », col. 31.

27 Frances Hogan『テレーズ―その生涯における苦しみと祈り』、山口カルメル会訳、女子パ ウロ会、1998、p. 188.

(13)

の聖職者たちに働きかけ」、「デュポン氏が普及させていたヴェロニカの布の複製 を、修院の聖堂にかかげ」ていた28。マルタン家でも聖顔は特別な信心の対象であ り、テレーズは1885年4月、12歳のとき家族とともにトゥールの大信心会に入会し ている29。『大信心会の手引書』と『聖ピエールのマリー伝』を読んだ影響は、彼女 ののちのテクストにも反映されている30

 テレーズにとってキリストの聖顔は、物心ついたときから家庭の中で祈りの対象 として存在し、とりわけ聖顔の信心を強くもっていた姉ポーリーヌをとおして学 び、カルメル会入会後、その神秘を理解していく31。父ルイ・マルタンは、妻を早く に亡くしたあと、娘たちが次々と修道女を志願して家を出ていき、1888年4月、最 愛の末娘テレーズが15歳でカルメル会に入会してしまうと、精神に異常をきたし、

カーンの精神病院に入れられてしまう。父が恥辱の中に追いやられてしまったこ と、自分が家を出たことが決定的打撃となったことを感じずにいられないテレーズ は「これ以上苦しむことができない」ほど苦しむこととなる。あれほど待ち望んだ 修練期のヴェールは苦しみのヴェールとなり、それはやがて霊的にヴェロニカの ヴェールに変化し、辱められた父の姿をとおして、キリストの聖顔の神秘に浸透し ていく32。「イエスさまのお顔のように、〈私の顔はまことに隠され、地上では誰から も認められない〉ことを望みました。苦しむこと、忘れられることに渇きました」33 とテレーズは述べている。ここで引用される『イザヤ書』53章は、聖顔の神秘を明 かすテクストとしてテレーズの心に刻まれ、やがて自ら苦しむことになる魂の暗夜 を支える言葉ともなっていく。

  見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、

28 『幼いイエズスの聖テレーズの手紙』(以下、『手紙』)、福岡女子カルメル会訳、サンパウロ、

1963、p. 150.

29 Œuvres complètes ( 以 下、Œuvres), dir. Jacques Lonchampt, Cerf, Desclée de Brouwer, 2017 (1re éd. 1992), p. 1266, 1365-1366, 1484.

30 Œuvres, p. 1444.

31 Œuvres, p. 1333, 1452. 『幼いイエスの聖テレーズ自叙伝』(以下、『自叙伝』)伊従信子訳、

東京女子跣足カルメル会訳、ドン・ボスコ、1996、p. 226-227.

32 Œuvres, p. 33-34.

33 Œuvres, p. 189, 1266. 『自叙伝』p. 226-227.

(14)

人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠 し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私たちの病、彼が 負ったのは私たちの痛みであったのに34

父の病気とカルメル会入会後の試練をとおし、大人への転換を遂げたテレーズは、

1889年1月(16歳)、着衣式の日の手紙で初めて「聖顔の」テレーズと署名する35 正式に「幼な子イエスと聖顔のテレーズ」(Thérèse de lʼEnfant Jésus et de la Sainte Face)となるのは、1890年9月8日、聖マリアの誕生の祝日、修道誓願の 日からである。「ヴェロニカのようにイエスさまを慰め、その涙を拭うことができ たなら」36というのがテレーズの願いであった。トゥールの聖ピエールのマリーが

「幼な子」と「聖顔」の霊性を生きたように、テレーズもそれまでの「幼な子」の 霊性に加えて、受難の苦しみを生き、キリストを慰めることを望んだのである。

 1889年10月、テレーズは修道院長マリー・ド・ゴンザグからいただいた聖顔の絵 を、姉のセリーヌに贈っている。セリーヌよりも先に修道院に入ったテレーズは、

セリーヌのために「聖顔のマリー」(Marie de Sainte Face)という修道名を考え、

入会を心待ちにし、この聖顔のマリーこそ「イエスさまの血と涙をお拭いするもう 一人のヴェロニカ」としてこの絵を手元に置くにふさわしいと考えたのである37。テ レーズは、聖顔の信心を教わった姉ポーリーヌのこともヴェロニカと呼んでおり38 テレーズ自身も含め、画才のある姉妹はカルメル会修道女となり、キリストを慰め るヴェロニカとなっていたのである。1890年5月初旬、テレーズの姉レオニーとセ リーヌは、おじのゲラン氏とともにトゥールの聖顔の礼拝堂に巡礼している39。ゲラ ン氏はリジューの大聖堂にトゥールの聖顔を寄贈し、維持費を負担して常夜灯を灯 させるようになる40

34 イザヤ書53章2-7節(新共同訳)。

35 Œuvres, p. 376, 1488. 『手紙』p. 150.

36 Œuvres, p. 398. 『手紙』p. 204.

37 Œuvres, p. 34, 401. 『手紙』p. 187.

38 Œuvres, p. 398. 『手紙』p. 204.

39 Œuvres, p. 407-408. 『手紙』p. 200-201.

40 Xavier Tilliette, « Claudel et Thérèse de Lisieux », Bulletin de la Société Paul Claudel, n°

172, 2003, p. 5.

(15)

 カルメル会入会後の1889年から1890年にかけて黙想の中心にあった聖顔は、短い 生涯の晩年となる1895年(22歳)以降、ふたたび濃厚に現れ、テレーズはいっそう 聖顔に寄り添っていく。テレーズの有名な詩篇「愛に生きる」第11詩節では、聖顔 とキリストの名の冒瀆、冒瀆の償いのテーマが結びつけられ歌われている。

  愛に生きる、それはあなたのお顔を拭うこと。罪人たちの赦しを得ること。お お、愛の神よ!彼らがあなたの恵みに還りますように、とこしえにあなたの名 をたたえますように。冒瀆の言葉はわが心にまで響きます。冒瀆の言葉を消す ため、私はいつも歌っていたい。「あなたの聖なる名をあがめ、愛します。」41

償いの大信心会の会員であったテレーズは、聖ピエールのマリーの思いを受け継 ぎ、聖顔を拭い、神の名をたたえ、罪人の赦しと冒瀆の償いを得るために祈ってい 42。このことはまた、テレーズが罪人の回心のために祈ることを自らの使命として いたことともつながっている。その半年後に書かれる「地上のわが天国!」もまた、

トゥールの聖顔の黙想から生まれた詩篇である。

  イエスさま、えも言われぬあなたのご像は、私の歩みを導く星。ああ、あなた の優しいお顔は、私にとって地上の天国。[]おお、優しきわが救い主、あ なたのお顔は聖なる没薬の芳香、この胸にしまっておきたい![]甘美さ溢 れるあなたのお顔の、聖なる刻印を私の中にお残しください43

聖顔を「この胸にしまっておきたい」という思いは、まもなく行動に移される。テ レーズは小さな紙にトゥールの聖顔の切手を貼り、「あなたに似せてください、イ エスさま!」と上下に書き込み、二つ折りにし、小さな袋に入れ、胸元にピンで留 めて身につけるようになる44。1896年8月6日、ご変容の祝日には、聖顔の神秘に自

41 « Vivre dʼAmour !... » (1895), Œuvres, p. 669. Petro Aloysio『リジューのテレーズの詩を 読む』教友社、2009、p. 41-44.

42 Œuvres, p. 1365-1366.

43 « Mon Ciel ici-bas !... » (1895), Œuvres, p. 684, 952, 1370.

44 « Fais que je te ressemble, Jésus ! », Œuvres, p. 968, 1451.

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らを捧げ、「聖顔への奉献の祈り」を作り、唱えている。そこに見られる「おお、

イエスの愛すべきお顔よ![]おお、百合よりも春の薔薇よりも麗しいお顔 よ!」45という呼びかけの源泉は、トゥールのマリーが作った「辱めを受けたイエス への祈り」にある。それは「おお、愛すべきお顔よ」からはじまる呼びかけにさま ざまな形容を付して唱えられる連祷であり、その中に「春の薔薇よりもみずみずし い」という一節がある。『聖ピエールのマリー伝』と『大信心会の手引書』に収め られているこの祈りが、テレーズの心に刻まれていたのである46

 1897年6月、死の4カ月前、幼な子イエスとトゥールの聖顔の絵を手にしたテ レーズの写真が撮影される。1897年8月、死を目前にしたテレーズはイザヤの言葉 と聖顔への信心を振り返り、「〈彼には輝きも美しさもない〉というイザヤの言葉 は、私の聖顔の信心のすべての基礎をなすものでした。より正確には、私の信仰全 体の基礎をなすものでした」47と語っている。テレーズは、イザヤに預言された蔑ま れ、人々の犠牲となるキリストのように、軽蔑され、見捨てられ、人々の痛みと病 を負っていくことを求めつづけたのである48。テレーズの最晩年、四旬節の昼食時に エムリックの『痛ましきご受難』が朗読されており49、受難の光景をいっそうリアル に見つめていたのだろう。テレーズは「かつては美しく甘美な神性が輝いていた」

キリストが、「残酷なご受難の中で、人々の恥、苦しみの人」となってしまったこ と、しかしその「歪んだお顔の下には」、キリストの「無限の愛」があることを見 てとっていた50。1897年8月、聖堂の聖顔の絵が病室に移され、9月30日、聖顔を見 http://www.archives-carmel-lisieux.fr/carmel/index.php/pri-11

45 « Consécration à la Sainte Face », Œuvres, p. 969, 1451-1452.

https://www.archives-carmel-lisieux.fr/carmel/index.php/pri-12

46 « Invocation à la sainte Face de Notre-Seigneur en réparation des blasphèmes [] », Vie de la Sœur Saint-Pierre, 1884, p. 465. « Invocation à Jésus outragé dans sa Face adorable », Manuel de l’Archiconfrérie de la Sainte Face, 1895, p. 152.

47 Œuvres, p. 1079.

48 Juan Catret『リジューのテレーズ―幼な子の心を生きる人』高橋敦子訳、新世社、1997、

p. 154.

49 http://www.archives-carmel-lisieux.fr/carmel/index.php/au-carmel/textes-lus-et-entendus/

livres-lus-au-refectoire

50 « Prière à la Sainte Face ». Catret『リジューのテレーズ』p. 122-123.

https://laportelatine.org/documents/prieres-et-devotions/litanies/les-litanies-de-la-sainte-face

(17)

つめながらテレーズは息を引き取った51

 テレーズの死の翌年、1898年5月、イタリア人の弁護士で写真家のセコンド・ピ ア(Secondo Pia)がトリノの聖骸布の写真撮影に成功し、フランスでも大反響を 呼び起こす。テレーズはこの新たなキリスト像を目にすることなく亡くなったが、

テレーズの姉セリーヌは、トゥールの聖顔に加え、トリノの聖骸布の模写も残して いる。そしてクローデルは、トゥールの聖顔とトリノの聖骸布、この2つの図像を 眺め、黙想の跡を残すことになる。

4.ポール・クローデル

 1886年の降誕祭にそれぞれリジューとパリで回心の恵みを受けたテレーズとポー ル・クローデル(1868-1955)はその後、受難のキリストを見つめる霊性において も合流する52。1894年12月(26歳)にボストンで着手され、1898年(30歳)12月初旬 に上海で完成する劇作品『都市』第2稿53では、第3幕の終盤で、キリストの聖顔 が不意に喚起される。この戯曲はクローデル青年期の窒息状態とそこからの脱出と 救済の物語が色濃く反映された作品である。革命により廃虚と化した都市で、権力 を委ねられた青年イヴォルは、この都市に与えるべき目的を見出せずにいる。詩人 であった父クーヴルは、息子の誕生後まもなく地下世界に消え、そこで司教になっ ていたが、息子の前に姿を現し、都市の目的は神にあることを示す。神とは何か理 解できず当惑する息子に、クーヴルはキリストの受肉と受難の神秘を明かす。

  おまえの心からある像を消し去ることはできない。

  その像とはヴェロニカの布に印されたものにほかならない。

  それはほっそりとした面長な顔で、ひげが三重の房となり顎を包んでいる。

  その表情はあまりに峻厳でおびえさせ、あまりに神聖で   われわれの中に組み込まれた古くからの罪が

51 Tilliette, « Claudel et Thérèse de Lisieux », p. 6.

52 Tilliette, « Claudel et Thérèse de Lisieux », p. 5.

53 Tilliette, « Claudel et Thérèse de Lisieux », p. 6-7. 栗村道夫『ポール・クローデルの作品 における聖徒の交わり』(以下、『聖徒の交わり』)、サンパウロ、2000、p. 84-98,775- 776.渡辺守章「年譜」、『繻子の靴(上)』岩波文庫、2005、p. 380-382.

(18)

  原初的根源にいたるまで戦慄する。その顔が表す苦しみはあまりに深く   われわれは茫然として、父親が泣いているのを理解できずに見ている子どもの

ようだ。〈彼〉が泣いている!

  おおイヴォルよ、この目を前にして、地上の栄光と輝きを繰り広げようとして もむだなことだ。一度目を上げ、世界を創造したこの目が、

  いまや伏せられ、厳しい涙をこぼしている。

  額からは血の雫が滴っている。

  だが見よ、おお息子よ、おまえの神の口を、おお息子よ、御言葉の口を。

  何たる苦さを味わっていることか!自分に向けられた何と言いようのない言葉 を味わっていることか!

  なぜなら、唇の右端がわずかに開き、むごいほほえみを浮かべているからだ。

  何と全身で泣いていることか、子どものようによだれを流して!

  おお息子よ、慰めるべきこの苦しみがある限り、われわれにパンはない。

  それは、われわれの罪を味わい、身にまとおうとした人の子の苦しみなのだ。

  それは、聖体顕示の神秘において全人類を彼の父に差し出すことのできない   神の子の苦しみなのだ54

ここで描写されるほっそりとした顔、顎を包む三重のひげ、涙を流す目、額から流 れる血、唇の右端の歪み、口の両脇から流れる唾、そして見る者の胸に迫る表情、

こうした特徴はトゥールの聖顔と重なるものである。『都市』第1稿(1890-1893)

では、聖木曜日から聖土曜日まで受難の3日間のごく簡潔な記述であったところ が、第2稿では、ヴェロニカの布に写しとられた受難のキリストをリアルに描き出 す内容に変更されている55。第2稿執筆期にカルメル会修道女との出会いがあったこ とも影響しているだろうか。1895年6月、27歳のクローデルは中国に赴任が決ま り、マルセイユからサイゴンに向かうヤラ号の中でカルメル会修道女幼きイエスの マリーと出会う。彼女との対話の中で聖顔の神秘に話が及んだのかもしれない。修 道女が聖顔の複製をもっていたのではないか、クローデルはそれを見せられるか、

54 La Ville, Théâtre, t. I, Gallimard, Bibl. de la Pléiade, 1967, p. 485. 下線は論者。

55 Théâtre, t. I, p. 403-404 ; notices par Jacques Madaule et Jacques Petit, p. 1260-1265.

Tilliette, « Claudel et Thérèse de Lisieux », p. 6-7.

(19)

複製をもらうかしたのではないかとも思われる。

 『都市』第2稿完成から10年後の1908年11月、天津領事のクローデルはアンドレ・

ジッドにラテン語版『キリストにならいて』を送ってくれるよう頼み、1909年2月 から3月にかけての日記には複数のラテン語引用が見られる56。第2部12章「聖なる 十字架の王道」からの引用もあり、十字架の黙想を深めていた様子がうかがえる。

1910年、プラハに赴任したクローデルは、「主よ、もしあなたに十字架が必要なら、

私がここにおります。[]三度目の転倒のとき、あなたが両腕で抱き締めている のは私です」と日記に記している57。これは、イエスの十字架を担う準備ができてい ること、十字架の重みに倒れるイエスを支えたいという思いを書き留めたもののよ うに思われる。エムリックの『痛ましきご受難』には、十字架の道行きでキリスト が転倒したとき、キレネのシモンがイエスを支えたという描写があり、クローデル はそれを踏まえているのだろうか(この場面の反映はルオーの作品にも現れる)。

そして翌1911年の聖週間に「十字架の道行き」を執筆する。

  第6留

  弟子たちはみな逃げた。ペトロまでむきになって否認する!

  ひとりの女が、もっとも激しい侮辱をかきわけ、死のさなかに   身を投じ、イエスを見出し、その顔を両手で包む。

  教えてください、ヴェロニカ、世間体をものともしないことを。

  なぜなら、キリストが単なる像イマージュではなく、現実のものとなっている人は、

  ほかの人間にはすぐに、不愉快で疑わしい存在となるから。

  []

  一歩ごとの歩みに気をつけよ、なぜならその人は徴シーニュだから。

  なぜならキリスト教徒はみな、不肖ながらもキリストの現実の姿だから。

  そして彼が見せる顔は、とるに足らない反映だから   心の中にある、おぞましく輝かしいあの神の顔の!

56 Journal (以下、J), Gallimard, Bibl. de la Pléiade, 1968, t. I, p. 84-88. 栗村道夫『聖徒の交 わり』p. 180,284-285.

57 J, t. I, p. 161. 栗村道夫『聖徒の交わり』p. 285.

(20)

  もう一度、神の顔を見せてください、ヴェロニカ、

  あなたが布の上に受けとめた、聖なる助けの顔を。

  その敬虔な亜麻布のヴェールに、ヴェロニカはかくまった   酩酊の日の、ぶどう収穫人の顔を、

  永遠にその像がつなぎ留められるように、

  血と涙とわれらの唾でできたその像を!58

キリストの徴を帯び、聖顔の反映となる信者が、人の目を気にし、キリストを否認 することのないよう、ヴェロニカにより頼み、語りかける祈りとなっている。それ から20年後の1932年以降になると、クローデルはトリノの聖骸布を研究したポー ル・ヴィニョン(Paul Vignon, 1865-1943)と交流をもち、受難のキリストの顔が 突如、写真というリアルな媒体で現れたことに驚愕する。1932年9月、ヴィニョン はトリノの聖骸布の写真を携え、クローデルを訪問する。

  ヴィニョンの訪問。トリノの聖骸布の衝撃的なキリストの写真。殴打と釘と茨 の冠の跡。私たちのために流された血。頭から足まで念入りに鞭打たれたこの 体。「足の裏から頭まで」[満足なところはない(イザヤ書1章6節)]。言いよ うもなく荘厳なこの顔。これらすべて、ひざまずく以外に、どうやって眺める ことができただろう?59

クローデルはヴィニョンの説明を聞きながら、傷だらけの顔と体を凝視し、驚きと 畏怖の念に打たれている。その後、ジェラール・コルドニエ(Gérard Cordonnier, 1907-1977)から小論『トリノの聖骸布によって啓示された受難のキリスト』60を寄 贈され、その返信として「主よ、あなたの顔は(キリストの写真)」を執筆する。

自らの暗い青年時代、「攻撃的な物質主義と懐疑主義が勝ち誇っていた時代」に立

58 Le Chemin de la Croix, Œuvre poétique (以下、OP), Gallimard, Bibl. de la Pléiade, 2002

[1967], p. 480-481. 詩集『典礼暦の恵みの冠』(Corona benignitatis anni Dei, 1915)第5部。

59 J, t. I, p. 1011.

60 Gérard Cordonnier, Le Christ dans sa Passion révélé par la Saint Suaire de Turin, Librairie du Carmel, 1935.

(21)

ち戻るところからはじまり、この時代、キリストの神性を曇らせるため、福音書の 一貫性のなさ、疑わしさを指摘するためにどれほどの努力がなされていたかを思い 出す。そこに突如、キリストの顔が出現する。

   今、幾世紀が流れたあと、消えかかっていた姿が、突然、恐ろしい真実性を もって、しかも反駁できない資料として、現実的事実としての真正性をもっ て、布の中にふたたび現れたのです。[]突如、1898年に[]私たちはキ リストの写真を所有することになったのです。[]「あのひとだ!」「あのひ との顔だ!」あれほど多くの聖人と預言者たちが見つめたいと渇き求めたこの 顔が[]私たちのものとなっているのです!この世からすでに、望むだけ、

面と向かって神の子を見つめることができるのです。[]

   何という顔でしょう! あの処刑人たちがこの顔に耐えられず、今なお、こ の顔を始末しようと、できるかぎり隠そうとしているのも理解できます。[]

この閉じられた両眼、永遠の刻印を押されたかのようなこの決定的な顔には、

何か破壊的なものがあります。死をもたらす心臓のひと突きのように、この顔 は意識をもたらします。ひどく恐ろしくひどく美しい何かがあり、この顔を逃 れるには、ただ礼拝するしかありません61

聖骸布のひと突きを心臓に受け、その傷はクローデルの中に疼きつづけていたよう に思われる。1935年9月7日の夕方、サヴォワ地方の教会で祈っている。ふと何か が光っているのに気づき、見に行くと、ランプのガラスに夕陽が当たり、そこには 聖顔の絵と、トゥールの聖人デュポン氏の生涯を記したパンフレットがあった62。ト リノの聖骸布とトゥールの聖顔がこうして重なり合いながらクローデルの心に刻ま れていく。1936年12月、ヴィニョンから聖骸布をめぐる最新の報告を受ける63。1938

61 « Votre Face, Seigneur » (Brangues, le 16 août 1935), Sept, 6 sept 1935 ; « La photographie du Christ », Toi, qui es-tu ?, Gallimard, 1936, p. 11-17 ; Œuvres complètes [以下、OC], Gallimard, t. 28, 1978, p. 291-295. コンプリ神父の『見よこの人を』(p. 166-172)に「主よ、

あなたの顔は」のほぼ全訳と「キリストの顔」の部分訳がある。

62 J, t. II, p. 108.

63 J, t. II, p. 164-165, 969.

(22)

年、ヴィニョンは新たに『トリノの聖骸布―科学、考古学、歴史学、図像学、論理 学を前にして』64を刊行、それと相前後し、写真の公開と講演会が催される。クロー デルも講演会に立ち合い、改めて「これらすべての雄弁な写真と血の堆積を前に激 しく感動」する65。1938年4月、クローデルはヴィニョンの講演会の序文となるエッ セーを執筆、「キリストの顔」と題し『フィガロ』紙に掲載される66

  ポール・ヴィニョン氏は、人類が苦しむ神、死んだ神の恥ずべき姿に慣れるま で数世紀を要したということを教えてくれています。ギリシャ正教会は今なお そうした表象を拒否しています。[]「取り除け!取り除け!」と人々は言い ます。おぞましい!耐えがたい!われわれを怯えさせ、糾弾するその像を取り 除け!親切なキリストを作り直せ[]67

たしかに、東方教会のイコンに見られるように、長い歴史の中でキリストは荘厳な 威厳ある顔で描かれることが一般的であった68。そこに目を腫らし、鼻は折れ、血に 染まるキリストの写真が現れたのである。クローデルは回心以来晩年まで、受難の 日である金曜日に、できるかぎり毎週、十字架の道行きを実践しており、十字架の 道をたどりながら、苦しむキリストの顔を見つめつづけた69。1952年、83歳のクロー デルは『十字架の道行き その2』を執筆する。24場の筋書きからなる小さなこの テクストは、パントマイム劇のために書かれた70。第11場が「ヴェロニカ」と題され、

64 Le Saint Suaire de Turin, devant la science, l’archéologie, l’histoire, l’iconographie, la logique, Masson, 1938.

65 J, t. II, p. 190, 221, 997.

66 « Le Visage du Christ », Figaro, 9 avril 1938 ; Contacts et circonstances, OC, t. 16, 1959, p. 232-238. J, t. II, p. 228.

67 « Le Visage du Christ », OC, t. 16, p. 235.

68 Zedergem『キリストの受難 十字架の道行き』p. 8-9.最初の10世紀間、「芸術家たちは 細心の注意を払って、苦しみ嘲笑され、虐待されるキリストを表現するのを避け」、「威厳 と荘重さに溢れたキリストを表現しようと」した。Compri『これこそ聖骸布』p. 80-81.

69 L’épée et le miroir, OC, t. 20, 1963, p. 68. 栗村道夫『聖徒の交わり』p. 285-286.

70 Le Chemin de la Croix n° 2, 23 mars 1952 ; Le Figaro littéraire, 4 avril 1953 ; OC, t. 29, 1986, p. 522-527, 677. J, t. II, p. 800, 1172. 渡辺守章「年譜」、『繻子の靴(上)』p. 419.

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