危険実現連関論の理論的基礎 : 客観的帰属論の展 開
その他のタイトル Theoretische Grundlagen der Lehre vom Risikoverwirklichungszusammenhang
著者 山中 敬一
雑誌名 關西大學法學論集
巻 45
号 2‑3
ページ 585‑642
発行年 1995‑08‑27
URL http://hdl.handle.net/10112/00024608
危険実現連関論の理論的基礎
ー客観的帰属論の展開
I
山
中
敬
目 次 一.はじめに
二.危険実現連関論の方法論的基礎
三.危険実現連関論の規範論的意味
四危険実現の類型化と帰属基準
五.危険実現類型化の基礎カテゴリー
六.むすぴにかえて
客観的帰属論の中核は︑危険創出連関論と危険実現連関論にある︒危険創出連関論については︑別稿ですでに考察
( 1 )
したので︑危険実現連関論の考察が残された課題である︒その課題のうち︑本稿では︑危険実現連関の判断において 具体的に展開される類型化や帰属基準の展開に先立って︑その﹁理論的基礎﹂について考察する︒したがって︑危険 実現連関論を具体的に展開するにあたっての基礎視座や方法論︑さらに︑刑法体系論におけるその規範的意味の考察 などがその中心課題であって︑類型化および帰属基準については基礎視角を呈示するにとどめる︒
最初に︑危険実現連関論の基本的枠組みを呈示しておきたい︒それは︑客観的帰属論における危険創出連関論と危 険実現連関論との機能の問題でもある︒まず︑別稿における考察によって確認されたのであるが︑危険創出連関は︑
( 2)
決して行為無価値を表すものではなく︑むしろ︑危険無価値を表すものであった︒しかし︑それは︑あくまでも事前 の立場からの法益侵害結果に対する危険判断を表すものであった︒この危険創出連関は︑実行行為性の判断とは切り 離すことができる︒それは︑潜在的実行行為を表し︑事後的に実行行為となりうるものはあるが︑共犯にとどまる場
( 3 )
合もあり︑実行行為と同じものではなく︑あくまでも結果帰属のための︱つの基準である︒そして︑それは︑客観的 帰属にとって不可欠の構成要素である︒なぜならば︑次の危険実現連関の判断は︑論理的にこの危険創出連関を前提
( 4 )
にするものであり︑危険実現の﹁危険﹂とは︑創出された﹁危険﹂を意味するからであり︑また︑政策的見地からす れば︑危険創出連関という事前の﹁予見可能性﹂につながる判断によって︑予見可能な結果に対してのみ責任を問う という意味での国民の行動の自由を保障することが可能となり︑刑法規範の予防的機能と︑事後処理機能との接点が
危 険
実 現
連 関
論 の
理 論
的 基
礎
は じ め に
三三五
︵ 五
八 七
︶
︵ 五
八 八
︶ 第四五巻第ニ・三合併号
( 5)
見出されるからである︒これに対して︑危険実現連関論とは︑発生した結果を行為者の危険創出行為に客観的に帰属
できるかどうかの判断に関する論議であるが︑これを規範論的に考察すれば︑法益侵害の結果が発生し︑評価規範違
反状態が生じたのに対して︑その状態が︑行為者の︑結果に対する支配可能な行為に帰属されるべきものであり︑そ
れによって行為者の行為が︑違法阻却事由がないかぎり︑結果犯における評価規範違反であると確定されるための判
断である︒結果犯における構成要件の充足は︑結果の発生から逆算して︑未遂や実行行為が決定されるのである︒危
険実現連関論とは︑したがって︑刑事制裁を発動するための前提条件としての︑結果と結びつく現実の法益侵害行為
を認定するための理論である︒危険実現連関とは︑その意味で︑刑事制裁の対象としての正犯および共犯の行為の射
( 6)
程を画する判断である︒
次に︑危険実現連関が問題となる分野を明らかにしておこう︒それは︑大きく分けて二つに分類できる︒
最も頻繁な事例類型であり︑それは︑従来︑相当因果関係の問題として取り扱われてきた分野を内容とする︒もう一
( 7)
つは︑わが国では︑判例が︑﹁過失の因果関係﹂の問題として取り扱っている過失犯における義務違反と結果の関係
の問題領域である︒後者の分野については︑危険実現論における一っの派生理論である危険増加論の適用分野である︒
( 8)
これについては︑すでに別著において詳論したので︑ここでは︑体系的位置づけを示唆しておくにとどめる︒
さて︑それでは︑このような刑事制裁の対象たる事実の射程を定めるにつき︑なぜ危険実現連関が︑危険創出連関
に加えて必要なのであろうか︒また︑その判断の際に︑どのような観点からどのように判断されるべきなのであろう
か︒これをめぐって︑従来︑さまざまな理論が展開されてきた︒それは︑因果関係の中断論であったり︑遡及禁止論
であったり︑個別原因説であったり︑相当因果関係説であったり︑あるいは︑規範の保護範囲の理論であったり︑さ
関 法
六
︱ つ
は ︑
゜ ︑
つ えていた場合には︑その結果に対して責任を問われないものとしなければ︑刑法の予防的機能が前面に出すぎて︑自 見て︑その行為規範が予定していた経過をたどって結果が発生せず︑具体的に発生した結果が︑規範の保護範囲を越 からである︒しかし︑事前的に予見可能なあらゆる結果に対して行為者の責任を問うというわけでもない︒事後的に ない結果に対する責任を負わせられることはないという安心感を与え︑予めの行動の自由を保障しておく必要がある 経過をたどって発生した結果に対して︑行為者に責任を負わせることはできない︒あらゆる行為者に対して︑予期し 認する目的をもった判断であり︑規範的な判断である︒たしかに︑刑法は︑行為者が︑予見しえなかった非日常的な には︑どのような行為が︑当該の結果の客観的な帰属可能性をもった︑刑事制裁の対象となりうる行為であるかを確 の大小の問題や因果経過の日常的通常性の問題ないし予見可能性の問題に還元できるものではない︒それは︑最終的 的目的から︑帰属基準の意味が決定されなければならない︒それによれば︑危険実現連関は︑たんなる因果的危険性 らには︑予見可能性の有無であったりした︒しかし︑目的合理主義的な観点からは︑事後的犯罪処理という刑事政策
( 9)
由主義的機能が背後に退くことになる︒したがって︑創出された危険は﹁実現﹂しなければならず︑事後的な規範的
判断である危険実現連関も︑客観的帰属論の重要な柱だとしなければならないのである︒このような観点からは︑最
終的には︑刑法が前提とする規範的価値を指導理念としながら︑自然的な因果力の大きさや社会システムの機能と意
味︑さらに個人の自己答責性ないし自己決定権や社会的な危険分担などを考慮した具体的・個別的な帰属基準を形成
し︑適正な処罰の前提たる行為の射程を決定するという機能を果たす帰属基準が求められなければならないといえよ
このように︑危険創出連関の要件に加えて︑危険実現連関の要件が働くことによってはじめて︑犯罪の事後処理と
危 険
実 現
連 関
論 の
理 論
的 基
礎
三三七
︵ 五
八 九
︶
第四五巻第ニ・三合併号
三 三
八
︵ 五
九 0 )
しての刑法の機能に適合した︑行為と結果を結びつける犯罪行為としての対象が確定されることになるのである︒こ
の危険実現の判断は︑従来︑わが国では︑広義の相当性ないし因果経過の相当性の問題として︑相当因果関係の中核
的部分であると理解され︑相当因果関係の判断とはこれに尽きるとの見解も有力化している︒しかし︑危険実現の判
断は︑因果経過の相当性の判断に尽きるものではなく︑また︑﹁日常生活経験上の通常性﹂を問うことが︑なにゆえ
結果帰属の基本原理となりうるのかという刑法上のカテゴリーとしての意義が明確ではない︒因果経過が相当︵通
常︶であれば︑結果を行為に帰属するというだけでは︑行為無価値論にもとづく刑法理論においても結果無価値論に
もとづく刑法理論においても︑それらの判断の基礎となる実体としての結果と行為の結合体の範囲を限定する基準だ
とするための説明が不十分である︒危険実現連関とは︑事後処理刑法の犯罪構成要件の前提を画するための原理であ
り︑その意味で事後判断を基礎とし︑また︑事実的・経験的判断によって危険カ・因果力による帰属範囲を限定し︑
規範的判断によって判断の諸要素の刑法的重要性を考慮しつつ帰属範囲を限定するという方法を用るのであり︑刑法
( 1 0 )
の機能の観点からする合目的的なカテゴリーなのである︒結果帰属としての危険実現の判断にとってとくに重要なの
が﹁規範的﹂な観点であることは︑わが国でも指摘されてきたように︑事実的因果的判断に限定すると︑帰属連関の
( 1 1 )
切断の観点を浮き彫りにすることができないということからも明らかである︒﹁人の行動﹂が介入した場合に︑その
規範的意味が帰属という法的判断にとっても重要な意味をもつ︒例えば︑その介入が法によって義務づけられていた
かどうか︑その介入が︑自己決定を尊重する刑法のもとで﹁任意﹂に︑﹁自己答責的﹂に行われたことがどのように
評価されるべきかなどが︑その介入を前提とする帰属判断にとって決定的な役割を果たすことは疑いえない︒しかし︑
行為者によって創出された危険が直接に結果に向かう大きな因果力をもった場合には︑その因果力の大きさをも考慮
関 法
( 2 ) れるのかを根拠づけることにしよう︒
( 1 ) しないならば︑規範的判断がその事実的基礎を失うことになる︒その意味で︑この両者の複合が重要なのである︒
もちろん︑危険実現論の具体的展開において最も重要なのは︑具体的な帰属基準の詳細な類型化である︒それは︑
本稿に続く別稿の課題である︒本稿は︑その展開のための指針を明らかにするための準備作業である︒
二
. 危 険 実 現 論 の 方 法 論 的 基 礎
危険実現論の構想
危険実現連関は︑前述のように︑終極的には︑発生した結果に対する刑事制裁を課するに値する行為であるかどう
かという規範的な判断を問題とするものである︒しかし︑その判断は︑たんなる規範的評価ではない︒そこには︑事
実的・因果的な危険判断が含まれている︒つまり︑危険創出行為における﹁危険﹂とそこに実現されるべき﹁結果﹂
とが︑因果的・経験的に︑どのようなつながりにあるのかということが︑まず︑帰属基準を考察する場合の基礎とさ
れるべきである︒そのような事実的・因果的な危険判断における類型化を基礎として︑規範的な意味をもつ介在事情
の種類や介在態様を分類すべきである︒
ここでは︑まず︑なぜこのような事実的・因果的危険判断と規範的判断との総合によって︑危険実現判断が構成さ
危険思考と規範目的の比較法的論証
( 1 2 )
危険実現連関論において︑上述のような二つの判断が含まれていることは︑客観的帰属論の理論史的考察からも根
危 険
実 現
連 関
論 の
理 論
的 基
礎
三三九
︵ 五
九 一
︶
( a )
ドイツ法における危険思考と規範目的 念が密接に関連していることが重要である︒ 第四五巻第ニ・三合併号 三四〇
︵ 五
九 二
︶
拠づけることができる︒それは︑規範の保護目的の理論の展開過程における︑規範目的論と危険論とのつながりに眼
をやったとき明らかである︒規範目的論においては︑実際上︑二つの責任限定論が混合していた︒それは︑相当説に
( 1 3 )
ハンス・シュトルによると︑相 由来する﹁事実的・危険判断﹂と規範目的説に基づく﹁規範的判断﹂である︒まず︑
当説は︑﹁具体的な事象経過と︑有責に違反された危殆化禁止とを評価的に比較するのではなく︑行為の危険性を︑
生活経験によって計測するという欠点に悩んでいる﹂︒したがって︑﹁行為者によって違反された行為規範によって︑
責任の有無を判断することは︑責任を根拠づける法益侵害を帰属するにあたっての︑相当性公式に比べてより洗練・
改善された帰属基準である﹂とする︒シュトルは︑規範目的論がこの点で優れたものであるとする︒それは︑おそら
く︑当初の相当説が︑客観的危険を高めたかどうかを事前判断する点にその特質があったのに対して︑規範目的論は︑
侵害された規範の事前的に予定していた危険と︑現実に発生した結果の事後的なつながりを問うのであるから︑より
洗練・改善された帰属基準とみなされたのであろう︒ここでは︑行為規範違反と危険︑ つまり︑規範目的と危険の概
このようにして︑規範的判断と事実的判断との総合的判断により確定されるのが︑危険実現連関であるということ
ができる︒このような危険範囲論と規範目的論の結合は︑ドイツにおいては︑ つねに指摘されてきた︒例えば︑﹁規
( 1 4 )
範目的論を内容的に詳細なものにしようとすると︑危険の概念とのその関係について解明することが必要である﹂と
され︑危険概念と規範目的論が︑帰属論の基本概念であると指摘されている︒﹁保護目的に関する問題は︑具体的な
規範の形成に依存しており︑したがって︑間接的に危険に関係している︒他方︑規範的問題としての危険の決定は︑
関 法
具体的な状況にのみならず︑具体的規範︑その規範目的および規制連関に依拠している︒危険の決定と保護目的には
( 1 5 )
相互作用関係が存在する﹂というのである︒
ドイツにおける規範目的論に大きな影響を与えたアメリカの不法行為法における規範目的論においても︑﹁規範目
( 1 6 )
的﹂と﹁危険﹂の関連は︑多くの学説・判例において︑考察の中心に位置づけられている︒アメリカの不法行為法に
おいては︑ドイツ民法八ニ︱︱一条二項のような他の法領域における保護規定に対する違反が要件として取り込まれては
いない︒したがって︑違反された法律自体が︑訴権を根拠づけるものであるかどうかが︑賠償責任の前提となる︒す
なわち︑﹁法律上の義務﹂
(s ta tu to ry du ty )
に違反したかどうかが賠償責任の基礎となる︒そして︑その﹁特殊な義
務﹂をともなう当該の法律が被告によって事実上侵害されたことが認定されると︑次に︑規範が︑その形式的・実質
( 1 7 )
的効力を前提として︑原告によって申立てられた事実に適用可能かどうかという問いが立てられる︒つまり︑被告は︑
自分は確かに法律上の行為義務に違反したが︑しかし︑その法律の目的
(s ta tu to ry pu rp os e)
とは︑規範目的を検討する重要な要素であって︑ は︑まさに原告または
その侵害された利益を保護すること︑または︑その事象経過に基づいて損害に実現したような危険を回避するという
( 1 8 )
︵1 9 )
ことではなかったと主張しうるのである︒このように︑﹁保護された人的範囲﹂︑﹁保護された法益﹂および﹁回避さ
れる危険﹂が︑侵害された法律の規範目的内に属するものでなければならないのである︒ところで︑具体的損害にお
いてまさに︑侵害された法律に由来し︑その法律が防止しようとしていた特殊な危険が実現されたかどうかと問うこ
アメリカの裁判所においても認められていた︒例えば︑ミズーリー
州のある鉄道会社が︑線路脇に︑﹁防護柵設置法﹂
( f e n
c i n g
st at ut e)
に違反して︑柵を設けることを解怠していた︒
( b )
危 険
実 現
連 関
論 の
理 論
的 基
礎
アメリカ法における危険思考と規範目的
三 四
一
︵ 五
九 三
︶
( C
)
その法律の目的は︑人や動物を鉄道営業の危険から保護することであった︒原告の放牧牛が︑柵がなかったために︑
線路を渡って向こう側の土地に入り︑牧草を食べたために︑牧草が枯れてしまった︒この事案に対して︑裁判所は︑
( 2 0 )
一九二二年の判決において︑その損害は︑法が防止しようとした危険とは関係がないものとした︒このような﹁法律
上の目的﹂の理論
(s ta tu to ry pu rp os e d oc to ri ne )
は ︑
( 2 1 )
て承認されている︒
さ て
︑
第四五巻第ニ・三合併号
三 四 二
︵ 五
九 四
︶
アメリカ法ではすでに以前から周知であり︑裁判実務におい
アメリカ不法行為法においても過失責任をどのようにして限界づけるかという問題は︑すでに一九世紀から
( 2 2 )
大論争を呼んだテーマであった︒ここでは︑﹁予見可能性理論﹂
(f or se ea bi li ty do ct or in e)
と並んで︑﹁評価危険理論﹂
(v al ue
‑r is k t he or ie s)
が唱えられた︒この帰属理論の基礎は︑﹁義務概念﹂である︒正確にいうと︑具体的事情に結
びついた﹁義務の相関関係的要素﹂である︒これが︑危険の概念を事後的に決定し︑評価の次元で危険を取り扱うよ
うにさせることとなったのである︒この理論は︑大きく二つのグループに分けられる︒
(r ea so na bl e f or es ig ht )
とい︑つ基準を︑相関的﹁義務﹂の観念を詳細化するためにそれに組み込まれたルールとする
論 ﹂
(t he or et ic al ri sk theories)
﹁ 予
見 危
険 理
論 ﹂
(p re di ct iv re is k t he or ie s)
である︒もう︱つは︑保護目的思想の特徴を強くもった﹁理論的危険理
( 2 3 )
である︒後者には︑さらに︑規範目的を前面に出す見解と︑フレミングの﹁危険範囲
説 ︶
︵
sc op o e f r is k)
︑およびレオン・グリーンの﹁義務・危険﹂論
(d ut y‑ ri sk co nc ep t)
が あ
る ︒
指導的観点としての規範目的
このようにして︑ドイツ法においてもアメリカ法においても︑規範目的論は︑危険論と常に対になって展開されて
きたといってよい︒危険論の内容は︑必ずしも明確ではないが︑これは︑規範目的論が︑ともすれば︑規範目的解釈 関法
︱ つ
は ︑
﹁ 合
理 的
予 見
﹂
( 3 ) 判断を併用するというバランス感覚が作用したものと思われる︒ロクシンによれば︑保護目的による論証は︑﹁全法 論を中心とする抽象的で実体性の乏しい評価的判断になりがちなのをチェックするために︑事実的基礎をもった危険
( 2 4 )
素材が︑そのもとで少しづつ作業されていく指導的観点﹂であるにすぎない︒したがって︑規範目的から演繹的にす
( 2 5 )
べての帰属基準が自動的に導出されるものではない︒それは︑事実的な事例によって帰納的に集積された経験の蓄積
よって整理され︑体系的に分類され︑思想的に深められた観点︵トポイ︶ でもある︒したがって︑保護範囲の内容的充足に対する手がかりをなすのは︑実務によって徐々に形成され︑理論に
( 2 6 )
であるということができる︒この意味にお
いて初めて︑保護目的論は︑発見的機能をもつということができるのである︒なぜならば︑それは︑法適用の技術準
則︑︵特別の種類の︶解釈︑事物論理および判決理由の公理に遡るものだからである︒
両基準の理論的要請
規範目的論のテーゼに対しては︑﹁構想がない﹂
(K on ze pt io ns lo si gk ei t)
という批判︑﹁曖昧なプログラム﹂である
という批判︑また︑どのような侵害が︑保護範囲に入り︑どのような侵害が入らないのかにつき︑鋭い限界づけを行
( 2 7 )
うことができないという批判︑混乱を招くだけの﹁予測できない一般条項﹂であるという批判などが浴びせられてい
( 2 8 )
る︒このように︑規範目的説に対しては︑その内容の不明確性に関する批判も少なくない︒もちろん︑このような批
判は︑﹁規範目的論﹂の言葉から受ける印象にもとづく表面的な理解に発するものであって︑詳しく見れば不当であ
ることが分かるものである︒規範目的説の基本思想は︑帰属の限界を画するための基準を機能主義的に決定しようと
するものであって︑その意味で形式的な︱つの基準に還元できないことから他の理論に比べてカズイスティッシュな
危 険
実 現
連 関
論 の
理 論
的 基
礎
三 四 一 ︱
︱
︵ 五
九 五
︶
④方法論としてのトピク論と類型化論 第四五巻第ニ・三合併号 三四四 印象をも与えるのであろう︒このような批判を避けるためにも︑規範目的論は︑経験的・事実的基礎を必要とするの
( 2 9 )
であるが︑その要請を充たす︱つの試みが︑危険思考との併用である︒
このような意味において︑規範目的論と危険論との併用・総合の正当性は︑比較法や理論史的根拠にもとづくだけ
ではなく︑法的安定性や明確性ないし人権保障の要請という現代的な要請からも論証されうるものである︒それは︑
刑事制裁の効果と人権の保障をその重要な終極的任務とする現代刑法における客観的帰属論の内容にも即している︒
つまり︑危険実現論が︑事後的な制裁規範違反判断の一っであるかぎり︑その基本的な目的に沿った判断は︑処罰に
値する行為の限界を定めるための﹁構成要件の射程﹂を決定するためのものといわざるをえず︑これは︑規範的な判
断であることは疑いない︒したがって︑危険実現論を需導する帰属基準の理念は︑規範の保護目的にあるといえる︒
しかし︑規範の保護目的という解釈に委ねられた基準は︑不明確であり︑実体的基準としてはあまりにも抽象的であ
る︒この意味で︑理念としての保護目的の決定を︑何らかの事実的で実質的・実体的な基準によって補完することは︑
法的安定性を志向し︑明確な判断基準を要求する法学上の基準としては︑必要不可欠の要請である︒
ところで︑危険実現論の指導理念となるべき規範目的とその事実的基礎となるべき危険判断の単純な二層構造論は︑
客観的帰属論の課題解決の手段としては十分ではない︒そこでは︑規範目的という指導理念のもとに︑危険判断とい
う事実的基礎にもとづきながら︑個々の具体的な事例の特徴に応じた事例群を形成し︑それぞれの事例群に適合した
帰属基準を作り上げる必要がある︒このような思考方法は︑戦後ドイツにおいて︑﹁トピク﹂ないし﹁問題思考﹂と 関法
五 九
六 ︶
(S ys te md en ke n)
と対比される︒それは︑談論︑ がその特色であり︑ ﹁ 体 系 的 思 考 ﹂ いう法学方法論として展開されたものと﹁体系的思考﹂とを止揚したジンテーゼを方法論とするものである︒
規範の保護目的の理論について︑このトピク論を基礎にしているとする見解が︑英米法においても︑ドイツ法にお
いても︑展開されている︒それによれば︑﹁帰属の限界は︑トピク的にのみ︑すなわち︑事例群を形成することに
( 3 0 )
よってのみ画される﹂のである︒﹁規範目的論は︑相当説とは違って︑開かれて定式化された帰属基準であり︑それ
( 3 1 )
は︑確かに裁判官に適切な問題の立て方を指示するが︑しかし︑具体的な事案におていて決定の理由を与えない﹂も
の で
あ る
︒
トピクとは︑修辞学的な目的で展開された思考手続であるが︑
( 3 2 )
況を考慮して考察される﹂ものである︒﹁問題思考﹂
状況の中で︑問題を解決するための幾つかの﹁観点﹂を探り︑その観点に従って問題解決の方法を求める思考手続で
ある︒この﹁観点﹂は﹁トポイ﹂
(T op oi )
と呼ばれている︒トポイとは︑﹁通念的なるものにたいする賛否で用いら
れ︑真実なるものへ導いて行くことができ︑そして︑多面的に使用可能でいたるところで受け容れられうるような諸
( 3 3 )
視点﹂である︒この観点が﹁トポイのカタログ﹂に集められ具体的な事案への適用において︑意見が一致するまで︑
つまり︑共通の理解
(s en su s co mm un is )
に至り︑解決されるまで賛否が論じられる︒この方法の法学における実際
の適用としては︑例えば︑裁判官が事件の審理にあたって︑あらゆる論点と解決方法およぴ論拠をいったん提出して
( 3 4 )
みて︑それに対する賛否を論じながら︑合意に至る決定を下すという方法に見られる︒
このようなトピクの思考は︑従来︑法学があまりにも体系的思考に方針づけられていたのに対して︑具体的な事案
危 険
実 現
連 関
論 の
理 論
的 基
礎
フィーヴェクによれば︑﹁談論される実用論的な状
(P ro bl em de nk en )
つまり議論において実用論的︵プラグマティッシュに︶に一定の
三四五
︵ 五
九 七
︶
( 5 )
第四五巻第ニ・三合併号
︵ 五
九 八
︶
に即した理論と論証を考慮に入れて問題解決を図るべきだという主張を伴ったことによって︑戦後ドイツの法学にお
( 3 5 )
いても注目を集め︑現在でも﹁トピク法学﹂
(t op is ch eJ ur is pr ud en z)
という法学方法論上の地位を与えられている︒
( 3 6 )
しかし︑問題思考は︑法学においては︑体系的思考に取って代わるものではない︒それは︑体系思考とは逆に︑法発
見を容易ならしめるための体系的一貫性に欠け︑裁判官の判断の予測可能性と同質性を危険にさらす︒とりわけ︑そ
れは︑法学ないし近代法治国家において中核となる法的安定性の要請において問題を含むものである︒法学が法律に
拘束されるものである限り︑純粋な問題思考は︑近代的法学においては許容できないものである︒とくに刑法におい
ては︑類推解釈の禁止やその派生原理としての明確性の原則の要請により︑このような問題思考は支持することがで
きないのである︒トピク論は体系性をもたず︑個々の﹁観点﹂のたんなる羅列であるという批判があり︑また︑そこ
では﹁純然たる事例群方式の弱点は︑発見されたトポイが無関係に演繹的連関なしに並立している点にある﹂と批判
され︑また︑それぞれの観点の関係・順位に対する正確な基準は存在せず︑そこでは︑﹁正義の問題を論じる方法が
問題であり︑それは︑正義の問題を推し量る観点︑すなわち︑トポイのみを与えることができ︑なぜまさしくこの要
( 3 7 )
因またはあの要因を考慮することが妥当なのかに対する基準がそれ自体からは与えられない﹂と批判されている︒
体系と類型論
このように︑問題思考が体系的思考と対立させられ︑体系的思考を全く排除する限りでは︑法学方法論としては︑
これを採用することはできない︒しかし︑トビク自体についても︑﹁トビク思考は︑あらゆる観点において体系から
( 3 8 )
疎遠なのではない﹂と言われいているのであり︑﹁公理主義的・演繹的体系﹂に対して︑唯一の﹁公理﹂からではな
関 法
四 六
( 6 ) ていくという方法論が最も有効であると思われる︒ 諸概念の内容とは︑
( 3 9 )
く﹁複数の公理﹂から処理する体系であるとも言われている︒少なくとも︑﹁体系的思考と問題思考のジンテーゼは︑
( 4 0 )
一定限度まで可能である﹂ことは強調されるべきである︒
法学における体系的思考は︑法実証主義︑とくに概念法学のモデルのように︑﹁完結した体系﹂の中で︑
位命題からあらゆる帰結が演繹されるといったものであるべきではない︒それは︑最終的には︑政策的目的に蜀導さ
れる目的合理的な体系であるが︑ それは︑個々の価値的観点や事実的基礎に応じて規範的観点と事実的観点とが相互
( 4 1 )
作用しつつ形成されるある程度﹁開かれた体系﹂ないし﹁動的な体系﹂
(b ew eg li ch es Sy st em )
であるべきである︒ロ
クシンによれば︑﹁その体系には︑最高の犯罪カテゴリー以外からも︑諸々の原理に応じて整序し︑次のような︑具
体的・普遍的な諸概念を使用することが︑概念的演繹という一般的な手続よりはふさわしいものである︒そのような
( 4 2 )
一般的目的設定とそれぞれの特別の法素材との相互浸透の結果から組み合わされるもの﹂である︒
このことは︑客観的帰属に関していえば︑行為規範と制裁規範の観点から︑生じた結果に対する帰属を判断するため
の規範的な基準を︑相当因果関係説のような形式的な体系のみによる判断として構成するのではなく︑具体的な事案
類型に応じた下位の規範的基準を作り上げて︑それを体系的に整序するという方法を採ることを意味する︒法的安定
性を図りつつ︑具体的妥当性を図り︑しかも︑法的安定性を保障するべき形式的明確性が︑過度の抽象化によって予
測可能性を失わないようにするには︑このような︑規範的指導理念のもとに規範的・事実的基準による類型化を行っ
類型の概念
危 険
実 現
連 関
論 の
理 論
的 基
礎
実り多いものであり︑
三四七
︵ 五
九 九
︶
一 定
の 上
第四五巻第ニ・三合併号
︱つの類型は︑他の類型とどのような 三四八
( 4 3 )
﹁類型﹂の概念については︑ラーレンツの考察が詳しい︒ラーレンツによれば︑存在する事例の平均類型を表す①
﹁経験的類型﹂︑経験的に演繹されるが︑その﹁純粋性﹂においては実現不可能な︑むしろ﹁モデル像﹂としての②
﹁論理的類型﹂および︑現実を反映した像ではなく︑﹁模範﹂ないし﹁原像﹂としての③﹁規範的類型﹂の三つの
( 4 4 )
﹁類型﹂がありうる︒第二の﹁論理的類型﹂の例としては︑マックス・ヴェーバーの﹁理念型﹂がある︒第三の﹁規
範的類型﹂は︑﹁規範的理念型﹂
(n or ma ti ve r Id ea lt yp us )
とも言いうるものである︒それぞれの類型概念が法学にお
いてそれぞれに用いられるのであるが︑ここでは︑とくに第一一一の類型概念が重要である︒それは︑﹁法的構造類型﹂
( 4 5 ) (r ec ht li ch e
Strukturtypen)~- 吐t ナフスく。この類型には、法的意味連関の発見や特定の部分的規制の理解にとって重
要な認識の価値が与えられる︒法的構造類型の把握は︑法規定の中に示された特徴の把握によって行われるが︑それ
は︑法律が完結的にまた専ら厳密な定義をしているわけではないので︑法的規定からの﹁遡及推論﹂︵
R客
ks ch lu .B ) ( 4 6 )
によって明らかとなる多数の特徴による補充を必要とする︒法的構造類型を形成するには︑法学的体系構築はどのよ
うな意味をもつのか︒このような類型においては︑その要素が︑それに含まれた生活事実とともに規範内容をなす相
互に関連する規制複合体が問題となる︒このような要素の幾つかのものは︑事例毎に変化し︑個々の事例においては
欠落しているが︑それによってその類型への所属が否定されなければならないというわけではない︒これらの要素の
( 4 7 )
︵4 8 )
全体を﹁動的体系﹂と名付ける︒その他︑類型は﹁可塑的なメルクマール構造﹂をもっといわれ︑または︑﹁メルク
( 4 9 )
マールの可変性と段階づけ可能性﹂をもつといわれることもある︒ところで︑
関係にあるのかについては︑ラーレンツは︑次のようにいう︒それは︑諸々の類型の体系形成によって行われるので
あるが︑その体系形成は︑類似の類型を一列に並べてそれぞれ徐々にその構成要素の重心を移していくというように 関法
︵ 六
0 0
)
以上によって︑危険実現論は︑ ( 7 ) 小 括
︵ 六
0
I )
して行われる︒ラーレンツの言葉によると︑次のように説明される︒﹁構造類型に内在する体系構築の拡大は︑﹃類型
列 ﹄
(T yp en re ih e)
を形成することによって行われる︒それが拡大していくことができるのは︑諸類型が︑まさにそ
の要素が可変であるがゆえに︑次のようにして︑相互に交錯しうることに依る︒つまり︑ある要素が引っ込み︑新し
い要素が新たに生じ︑あるいは前面に出るが︑その際︑諸類型の間の過渡期は︑﹃流動的﹄であるというようにであ
る︒ひとつの﹃類型列﹄においては︑近接してはいるが区別できる諸々の類型が︑それらの共通性と相違と過渡期現
( 5 0 )
象そのものが明らかになるように順列的に並べられる﹂のである︒したがって︑ラーレンツによれば︑類型は︑立法
者がまさにこの類型をこの法的効果と結び付けさせた﹃指導的な評価の観点﹄なしには考えられない﹂のである︒こ
( 5 1 )
こ に
︑ ﹁
評 価
法 学
﹂ ︵
W
er tu ng sj r u is pr ud en z)
に向かう契機が存在する︒
このような類型論においては︑規範の中に当為を発見するという方法を採るのではなく︑規範を処理するにあたっ
てすでに事実を﹁社会的現実﹂からの一断面として考慮する︒﹁というのは︑類型とは︑﹃規範的現実類型﹄としても
( 5 2 )
つねに︑経験的・規範的要素の結合を意味するからである﹂︒したがって︑﹃類型﹄を作 ﹃ 法 的 構 造 類 型 ﹄ と し て も ︑
り上げるにあたってはつねに︑既存の社会的現実からも導かれるのである︒社会的現実は︑また︑それ自体既存の規
範によって造形されることにも注意すべきである︒このように︑類型的思考方法においては︑規範と事実とが峻別さ
( 5 3 )
れないという特徴がある︒
危 険
実 現
連 関
論 の
理 論
的 基
礎
一定の﹁評価的な指導的理念﹂のもとに経験的基礎と規範的基礎にもとづいた﹁類
︳ ︱ ‑ 四
九
第四五巻第ニ・三合併号 型化﹂を行い︑それぞれの類型に応じた帰属基準を分析することによって行われるというのが︑その方法論であるこ とが確認された︒それは︑問題思考のみによるのではなく︑類型論を通じて︑﹁体系化﹂され︑それによって法的安
定性と明確性を獲得するのである︒
( 5 4 )
最近︑プッペは︑﹁現代刑法理論における自然主義と規範主義﹂と題する論稿を著し︑その中で︑﹁今日通説的な規 範主義的刑法理論の方法論的誤謬﹂を批判し︑本稿のテーマとの関係ではとくに﹁危険実現論﹂を方法論的観点から 批判した︒そこでは︑結果への危険の実現という場合に︑﹁危険﹂とは何か︑﹁危険が結果に実現した﹂とはどういう
( 5 5 )
︵
5 6 )
ことなのかについて明らかにされていないと批判し︑﹁危険概念の不明確性と危険実現の基準の多義性﹂を非難する のである︒このプッペの批判は︑危険実現論のみならず︑客観的帰属論の基本的な方法論に対する批判であり︑その まず︑行為者の因果経過と結果に関する表象と︑現実との間の一定のずれが故意に対する現実の因果経過と現実の
結果の帰属を妨げるかどうかという問題を決定するについては︑行為者によって に設定された危険が実現したのでなければならないという基準が︑
プッペによれば︑﹁いかにして危険を構成し︑その危険を別の危険からどうして区別するのかに関する一般的規則は 与えられず︑また︑規範的に正当化されてもいない限りで︑この基準は︑何も述べるものではなく︑容易に操作され
( 5 8 )
うるものでもある﹂︒容易に操作されうるというのは︑次のようなことを意味する︒すなわち︑﹁認識された危険の実 意味でまず︑これと対決しておく必要があろう︒ ⑧危険実現論に対するプッペの方法論的批判
関 法
三五〇 ﹃
予 見
さ れ
た ﹄
︑
したがって故意的
( 5 7 )
ヤコブスらによって提案されている︒しかし︑
︵ 六
〇
現の必要性を肯定しようとし︑これを︑現実の事態もこの下に包摂できるように︑
︵ 六
〇
らば︑まさに認識された危険が実現したということになるが︑これに対して︑その表象からの現実のずれのために︑
結果が︑行為者の故意に帰属されないという結論に達しようとするならば︑予見された結果と現実の因果経過がもは
( 5 9 )
やその下に包摂可能でないように︑特殊な表現において記述しなければならない﹂ということである︒プッペは︑ケ
ネディ暗殺の例を用いておよそ次のようにいう︒ケネディを暗殺した行為者の発した弾丸は︑テキサス州知事にも当
たってしまったが︑彼がケネディを射殺することしか表象していなかったとき︑ケネディにあたるという危険が︑テ
キサス州知事の負傷の結果に実現したのではない︒暗殺者が︑大統領の車に乗っている人のうちの一人に当たるとい
う危険を予見していた場合︑あるいは︑車の上の誰かに当たると予見していた場合︑この危険は︑知事の負傷によっ
て実現したといえる︒ここでプッペが前提にしている考え方は︑ヤコプスの﹁予見された危険﹂の概念である︒ヤコ
プスが︑危殆化の客体と同一の意味で︑﹁予見された危険﹂という言葉を用いていることから︑ヤコプスは︑﹁はじめ
から狙われていた被害者に対する危険と﹃行為手段の拡散範囲内﹄にある者に対して存在する危険とを区別してい
( 6 0
る﹂というのである︒ここでは︑この二つの危険とその区別基準は︑明らかに自然に与えられたものとみなされてい
)るというのである︒これに対しては︑﹁因果経過が行為者によって予見された危険の拡散範囲内にとどまる﹂限り︑
( 6 1 )
その危険が実現したというツィーリンスキーの見解が対立する︒このように︑プッペによれば︑﹁危険﹂の概念も論
者によって多様であり︑都合のよいように︑操作されているのである︒
この論点に関するプッペの批判は︑﹁危険﹂の概念が︑ヤコプスとツィーリンスキーで異なり︑操作されうるもの
だというものである︒しかし︑この批判は当たらない︒まず︑ヤコプスは︑確かに﹁故意が設定された危険﹂は主観
危 険
実 現
連 関
論 の
理 論
的 基
礎
三 五
一
一般的な概念において記述するな
第四五巻第ニ・三合併号
三五二
的に帰属されるが︑その﹁拡散範囲にある危険﹂は主観的に帰属されないものとし︑これに対して︑ ツィーリンス
キーは︑﹁予見された危険の拡散範囲内﹂であれば︑危険の実現があるとしている︒この点では︑プッペのいうよう
に︑両者の見解において確かに﹁予見された危険﹂のみか﹁拡散範囲内の危険﹂を含むかにおいて︑主観的帰属の範
囲が異なっている︒しかし︑これは︑﹁危険﹂概念が異なっていることを示しているわけではない︒むしろ︑﹁故意﹂
の概念が異なっているのである︒この点に関しては︑﹁予見された危険﹂のみに︑故意を認めるヤコブスの見解が正
当 で
あ る
︒
ツィーリンスキーの見解は︑客観的婦属論としては︑意味をもちうるかもしれないが︑﹁拡散範囲内﹂に
ある危険でも︑予見されていないものに︑故意を認めることはできない︒しかし︑ここでは︑問題的は︑むしろ︑ヤ
コブスらが︑客観的帰属論としての危険実現に加えて︑﹁予見された危険の実現﹂という概念を用いた点にある︒こ
の行為客体に対する故意の存否の問題は︑﹁危険実現﹂の見地からではなく︑たんに﹁結果﹂に対する﹁故意﹂の存
( 6 2 )
否の問題として考察すれば足りる︒この客体の錯誤の問題を﹁危険﹂概念によって説明することは︑明確な故意の存
否の問題を﹁危険﹂という曖昧さの残る概念によってぼかしてしまうおそれがある︒このように︑プッペの批判は︑
故意の帰属の問題については妥当するが︑客観的帰属論に当てはまるものではない︒
さらに︑プッペによれば︑﹁実現﹂の概念も多様である︒そして︑﹁﹃許されざる危険の実現﹄という公式の助けを
( 6 3 )
もって解決可能でないような問題は︑客観的帰属論においてはほとんど存在しない﹂ほどだというのである︒プッペ
は︑この概念によって客観的帰属論において解決されるべきだとされる四つの事例状況を検討する︒①規則通りの間
隔をもって追い越していたとしても︑結果は発生していたであろうという場合には︑危険の実現が否定されるという
事例群︒ここでは︑狭すぎる追越しの危険がではなく︑自転車乗りが酪酎していたという危険が実現したというので 関法
︵ 六
0
四 ︶
で も
︑
六 0 五 ある︒②自動車の運転手が︑速度違反をし︑あるいは赤信号で停車しなかった後で︑横断中の通行人を跳ねるという 事故を起こしてしまった事例群︒ここでも︑許されざる速度違反等の危険が実現されていないものとして︑帰属が否 定される︒③行為者がナイフで他人を負傷させたが︑その後︑タクシーで医者のもとに赴く際︑交通事故にあったと
一般的生活危険であって︑負傷の危険が実現したものではないとして︑
帰属が否定される︒④ナイフで指された者が︑治療した医師の医療過誤で︑さらに損害を被ったという事例群︒ここ
ナイフでの突き刺しが︑医療過誤を犯す状況をもたらしたにもかかわらず︑医師の医療過誤の危険のみが実現
したのである︒突き剌した者は︑医者が正しく治療すると信頼してよいのである︒これら四つの事例状況において︑
プッペによれば︑危険の実現として表される関係は︑前の事例群の基準ではそれぞれ帰属が肯定されるのに︑順次︑
次の事例群においては︑帰属が否定されているという関係になっている︒例えば︑①の事例群の基準では︑②の事例
群の帰属は肯定される︒﹁それにもかかわらず︑四つの事例群すべてが許されざる危険の実現という同じ公式で解決
︱ つ
の 理
論 的
公 準
︑
つまり︑正義と法的安定性の実践的要求を特に高度に満足させる方法で解決された
4 ) ( 6
問題の高度な理論的分析の兆候とはいいがたい﹂のであり︑﹁むしろ逆に理論の欠陥なのである﹂︒そして︑プッペは︑
これは︑等価説から個別化説への退行であると断じる︒さらに︑プッペは︑われわれの今後の類型論の展開にとって
も重大な意味をもつ批判を行っている︒ つまり︑﹁結果にそれぞれ実現した危険の叙述は︑評価結果を︑
現代刑法理論の規範主義的循環
(n or ma ti vi st is ch er Zi rk el )
つまり帰属
の肯定・否定を正当化するだけではなく︑評価結果が危険の叙述を正当なものとして正当化するのである︒それを︑
( 6 5 )
であると特徴づけても差し支えない﹂と︒それは︑いわ
ゆる﹁解釈学的循環﹂なのであり︑予めそこへ押し込んだものしか解釈によって取り出せないのである︒﹁規範主義
危 険
実 現
連 関
論 の
理 論
的 基
礎
さ れ
る の
は ︑
いう事例群︒ここでも︑自動車事故の危険は︑
三五三
る ︒
第四五巻第ニ・三合併号 三五四
的刑法理論の一般的命題は︑個々の事案の個々の問題の決定はできない︒なぜなら︑それは﹃評価公式﹄
( 6 6 )
記述的意味をもたないからである﹂︒
で あ
っ て
︑
プッペの第一の批判である︑同じ危険実現判断によって︑段階的に重なっているが︑しかも異なった事案を判断し
ているという批判に対しては︑それぞれの事例がそれぞれ前者が後者の事例の基礎になっているということ自体が正
当な認識とは思われない︒それは︑たんに同じ問題の異なった局面である場合と︑具体的にはもともと異なった問題
であるが︑大きくは危険実現の問題であるという場合とがありうるのであって︑危険実現という指導的観点のもとで
個々の差異があるにすぎないものであるから︑批判は根拠がない︒むしろ︑上位概念としての危険実現の観点に︑さ
らに下位の具体的類型に適合した帰属基準を展開していくというのが︑客観的帰属論の方法論なのである︒
第二の批判である︑類型化と帰属基準とは︑﹁解釈学的循環﹂であるという批判に対しては︑これこそが︑経験主
義と規範主義との総合という視座からのみ説明可能な問題であると答えることができよう︒しかし︑規範主義は︑あ
くまでも︑経験主義を基礎にしたものでなければならないのであって︑それは︑法素材と法理念の関係にあるといっ
てもよい︒その関係は︑ラートプルフの表現を借りるなら︑ミケランジェロが切り出した大理石の塊の中に︑刻むべ
( 6 7 )
きダビデの姿がすでに見ていたという関係であろう︒しかし︑大理石なくしては︑彫刻はありえないのである︒
したがって︑方法論的には︑危険実現の類型化も判断基準も︑出発点は︑﹁事実的・経験的なもの﹂である必要が
ある︒しかし︑その目的は︑﹁規範的なもの﹂であり︑われわれは︑大理石からダビデ像を彫りだすように︑結果の
客観的帰属という目的に向かって事実と経験を規範的に評価しつつ︑事例を類型化していかなければならないのであ
関 法
六 0
六 ︶
( 2 )
︵ 六
0 七 ︶
ここでは︑まず︑違法性の問題と責任
( H
a f
t u
n g
)
の問題を竣別して︑これを考察したミュンツベルクの見解を検 ヽュンツベルクの理論の検討 ︱︱‑.危険実現連関論の規範論的意味
ここでは︑危険実現連関論の刑法システムにおける機能の問題についてもう少し詳しく論じておこう︒それは︑危
危険実現連関の規範論的意味︵責任問題としての危険連関論︶
危険創出判断が︑侵害の危険にさらされうる行為を禁止することによって︑
しようとする行為規範に反する行為が行われた場合に︑事前の立場から︑法益侵害に対する一般的危険判断を行うも
のであるのに対して︑危険実現判断は︑その創出された特殊な危険が︑事後的に見て︑具体的な結果に実現したとい
えるかどうかの判断である︒それは︑未遂責任のみを負わせるか︑既遂責任を負わせるかを区別することによって︑
その犯罪の事後処理の妥当な処理方法を求めるための判断である︒したがって︑この後者の判断は︑行為時の状況の
みならず︑事後に判明ないし展開した事情をもすべて考慮に入れて行われる判断である点で︑事前の立場から︑客観
的可能性を高めたかどうかを問う相当因果関係の判断とは判断構造を異にする︒その意味において︑この判断は︑制
裁規範を発動する前提を画する判断であり︑単なる行為規範違反への結果の帰属の問題ではないということになる︒
( 1 )
危 険
実 現
連 関
論 の
理 論
的 基
礎
︳ ︱ ‑ 五
五
険実現連関論の規範論的意味の問題であるということもできる︒
一般的に結果とその発生の危険を防止
容 と
は ︑
第四五巻第ニ・三合併号
討しよう︒ミュンツベルクは︑行為無価値論を前提として考察を進める︒
ミュンツベルクによれば︑違法とは︑客観的法義務違反であるが︑それは︑命令・禁止を定めた決定規範に違反す
ることである︒そして︑法規範が命令・禁止であるならば︑その客体は︑命令され︑禁止されうるものでなければな
( 6 8 )
らないから︑法規範は人間の態度にのみ向けられる︒ところが︑違法性が︑行為者が法秩序が要求するように振る舞
わなかったという点に根拠づけられるのであれば︑不法行為法において結果がどのような役割を果たすのかという問
( 6 9 )
題は開かれたままである︒法規範は︑それ自体のためにのみ存在するのではない︒法規範は︑いずれにせよ一定の結
果が︑立法者ないし法秩序によって望ましいものである︑あるいは望ましくないものであるとみなされたがゆえにの
み発せられるのである︒このような結果は︑規範の作用により惹起されあるいは回避される︒この作用が失敗するな
ら︑したがって︑ある者が違法な行為を行うなら︑有害な結果は︑制裁を惹き起こす︒したがって︑規範と結果の関
係は存在はするが︑それは︑命令に先行するものである︒つまり︑行為の可能的な結果は︑規範を定立するに当って
の動機なのである︒
したがって︑評価規範論に立つ論者には︑彼らが︑評価は論理的・事実的に法命令に先行すると主張するとき︑賛
同できる︒その限りでは︑評価規範には第一次的な意義を与えられる︒しかし︑この評価の先行性は︑法規範の生成
行為にとって︑またしたがって︑解釈にとってのみ妥当するものであるが︑ある事象を違法性の概念のもとに法的に
位置づけるために妥当するものではない︒結果の評価は︑法規範の内容ではなく︑︵生成の︶根拠である︒規範の内
一定の積極的に評価された行為への義務のみである︒この義務が規定する以外の行為を行った者は︑違法に
( 7 0 )
行為したのである︒かくして︑決定規範と評価規範は︑相互に排斥するものではなく︑補完するものなのである︒ 関法
五 六
︵ 六
0 八 ︶
︵ 六
0 九 ︶
法義務が︑人間の行為に指針を与えるものであるべきならば︑その内容は︑行為の前に確定されていなければなら
ない︒しかし︑行為の結果の評価が︑同時に規範の内容の決定に意味をもつべきであれば︑可能な︑したがって表象
された結果のみが問題でありうる︒現実に発生した構成要件該当の結果は︑行為の後または途上の時間帯において発
生するのであり︑義務の内容決定にとっては排除される︒その意義は︑義務違反の領域にはありえないのである︒結
論的には︑違法性の判断は︑事前的な立場から行われるというテーゼが導かれ︑結果ではなく︑行為の開始時に存在
する行為者による危殆化が︑違法性を認定するために本質的な要因に属しうるのである︒
このことから︑違法性判断は︑刑法または民法上の責任
( H
a f
t u
n g
)
の問題とは独立のものであるということにな
る︒違法性と責任の問題は︑厳格に分離する必要がある︒さて︑決定規範の理論による行為に対する違法性の判断は︑
行為が︑命令または禁止︵行為義務︶に対して違反したときに︑なされるのであるが︑行為義務の内容は︑違反の前
に確定されなければならないのであるから︑それにとっては︑後になってはじめて発生する結果ではなく︑可能な︑
( 7 1 )
︵事前の判断︶︒あるべき行為は︑実際に経過した因果関係によって決定
されるのではなく︑事前の立場から可能だと思われた因果経過によって決定される︒あるべき行為が探究されると︑
違法性の問題にとっては︑行為者の現実の行為がこれから逸脱しているかいないかのみが重要である︒逸脱している
場合が違法であり︑ いない場合がそうでない︒行為の違法性は︑あるべき行為との現実の行為の比較によってのみ確
定される︒行為と結果の間の事実上の因果経過は︑違法性の問題にとっては決定的ではない︒そのことから︑違法性
の対象は︑法律上の構成要件の対象とは一致しない︒構成要件は︑行為および結果を含む︒それによって刑罰その他
の責任に対する前提が定立されている︒結果が発生したかどうかは︑責任の問題にとってのみ重要である︒結果が行
危 険
実 現
連 関
論 の
理 論
的 基
礎
蓋然性の高い結果が基準となるにすぎない
三 五 七
( 3 )
ヽュンツベルク理論の評価 第四五巻第ニ・三合併号
一 ︵ 六
0 )
( 7 2 )
為によって条件づけられたかどうかという検討も同じである︒ここでは︑事後の立場が支配する︒
続いて︑ミュンツベルクは︑規範の保護範囲と責任に対するその意義について︑次のように述べる︒違法性の判断
にとっては︑法秩序の禁止がいかなる根拠から行われたかは︑どうでもよいが︑この根拠は︑責任
(H af tu ng )
に
( 7 3 )
とっては重要である︒違法性は︑それ自体では責任にはつながらない︒行為が可罰的であるか︑損害賠償義務を負う
ことになるかは︑
つねに問題となっている構成要件に依存している︒責任が︑
一切の刑罰および責任構 三五八
ば︑行為者の行為が違法であっても︑結果の発生がない場合には責任は発生しない︒逆に結果は発生したが︑行為が
違法とされえない場合も︑責任はなくなる︒このような単純な事例とならんで︑行為が︑特定の結果︑したがって法
益侵害へのその事前的に確定可能な関係のゆえに禁止されているが︑この行為が一切の事前的に確定可能な関係を失
わせるような全く違った法益にあたる有害結果を惹起したという場合がありうる︒このような場合には︑行為の違法
性が一定の法益へのその関係に依存するという事情は︑責任問題にとって意義を獲得する︒
成要件は︑特定の法益の保護を追求する︒当該の法律の解釈にあたって︑この保護目的は看過されてはならない︒こ
れが︑保護範囲または規範の保護目的の問題であり︑違法性連関とも呼ばれるものである︒
以上が︑ミュンツベルクの行為と結果をめぐる規範論であり︑違法性の問題は︑事前的に見た︑行為とその危険性
の問題であり︑責任︵処罰︶
関 法
の問題に属するのが結果の発生と保護範囲の問題であるという構想である︒ここから分
かるように︑これは︑行為無価値論から違法論を考察する一方︑﹁責任問題﹂としての規範目的論を展開したもので 一定の結果の発生につなげられるなら
( 4 )
六 ここでは︑そもそも﹁違法性﹂の問題と﹁責任﹂の問題を区別することが妥当かどうかが疑問である︒その点は︑
つまり︑規範の保護目的の問題を︑事後的なものと捉える点は正当である︒
しかし︑この構想は︑刑法ないし民法上の規範を︑決定規範ないし行為規範違反とのみ捉える点で︑また︑違法性
判断を︑行為とその行為の危険性のみを対象とする判断とする点で妥当性を欠く︒少なくとも刑法上の違法性は︑事
前的な行為のみを対象とする判断ではなく︑発生した結果を帰属できる危険な行為を対象とするものである︒危険実
現の判断は︑行為の違法性の確定の後に行われる責任
(H af tu ng )
ないし制裁条件の確定のためのものではなく︑む
し ろ
︑
いやしくも︑行為と結果ないしその危険の範囲を定めて︑違法性判断の対象を画するためのものである︒その
意味では︑少なくとも︑結果犯においては︑原則的に評価規範違反といえるような事態無価値の状態が惹起されるの
でなければ︑違法とはいえないのである︒ミュンツベルクのように︑純然たる要件の問題と効果をも含めた要件の問
題を分離し︑要件論としては︑事前的な行為無価値論から体系構築をすべきだが︑効果を含めて考えた要件である
﹁責任﹂の問題は︑事後的な考察によるという二元論的体系論は採用することができない︒このミュンツベルクの二
元論的体系の刑法版が︑構成要件該当行為の中核が行為規範違反にあるとし︑客観的帰属を﹁制裁規範違反という制
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裁の構想のための特殊で補充的な要件﹂であるとするフリッシュの理論であるといえよう︒
事後判断的危険実現論の規範論的意味
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