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『発生の問題』におけるフッサール解釈

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著者 加藤 恵介

雑誌名 神戸山手大学紀要 = Journal of Kobe Yamate University

号 21

ページ 13‑25

発行年 2019‑12‑20

URL http://id.nii.ac.jp/1084/00000590/

(2)

デリダの哲学研究の出発点とされるのは,1953年から1954年にかけて執筆された高等師範学校の 高等教育資格論文(修士論文)『フッサール哲学における発生の問題』である。ここではまだデリダ は,のちの「現前の形而上学の脱構築」の問題には立ち入っておらず,ここでのフッサール解釈に は,のちの彼の解釈と共通するものと,その後はっきりと変化を見せるものの両面が認められる。

ここでは『発生の問題』における彼のフッサール解釈の特徴を明らかにすることを試みる。

Ⅰ この論文の位置付け 1.「はじめに」

この論文の公刊時(1990年)に付された「はじめに」において,彼はこの論文とその後の彼の思 索との関係について,連続性と変化の両面を指摘している。

一方では,この著作のフッサール読解の従う法則は,「そのとき以来,私が明らかにしようと試み たすべてのことを,その定式化の一字一句に至るまで要請し続けることになる」。その法則とは「差 異を伴う混交=感染の法則」であり,そこで問題にされるのは,「いかなる分析もその現象において 呈示し,現前化することや,あるいは構成要素の瞬時的で自己同一的な点的性質に還元することの できない,根源の根源的な錯綜であり,単純なるものの原初的な混交=感染であり,端緒における 隔たりである」。この混交=感染の必然性によって「現象学的言説が構成される基盤となるすべて の境界」が,問いただされる。それは「超越論的/「内世界的」,形相的/経験的,志向的/非志向 的,能動的/受動的,現前的/非現前的,点的/非点的,根源的/派生的,純粋的/不純的,等々」

である。

しかし他方で,この「根源の根源的混交=感染」は,「後に私が放棄せねばならなかった」「根源 的弁証法」という名称で呼ばれており,チャン=デュク・タオやカヴァイエスの弁証法を乗り越え ようとする。このようにして開始されたフッサール読解は『幾何学の起源』への「序論」(1962年)

『発生の問題』におけるフッサール解釈

Derrida’s Interpretation of Husserl in “Le problème de la genèse”

加 藤 恵 介 Keisuke Kato

Abstract

The starting point of Jacques Derrida’s study of philosophy was his DES thesisLe problème de la genèse dans la philosophie de Husserl. There he tries to introduce the reality into Husserl’ s transcendental phenomenology under the influence of Tran Duc Thao, who reduces the transcendental phenomenology to the dialectic materialism and of Heidegger, who was understood as existentialist.

キーワード:フッサール,デリダ,現象学,弁証法

(3)

と『声と現象』(1967年)のなかで継続されるが,「弁証法」という語は放棄され,この語は,「それ なしで,あるいはそれから離れたところで差延や根源における代補や痕跡を考えねばならなかった,

その当のものを指し示すようになった」1)

この論文は,のちに彼の唱える「現前の形而上学の脱構築」とは,いかなる関係にあるのだろう か。彼の「現前の形而上学の脱構築」は,1960年代の半ばに,ハイデガーが『存在と時間』でいう

「存在論の歴史の解体(Destruktion)」を受け継ぐものとして開始された。具体的にいえば,1964年か ら1965年にかけて行われた『ハイデガー』講義において,デリダは,ハイデガーのこの企てを「現 在の特権によって支配された時間性の形而上学の解体」2)と呼んでおり,「現前の形而上学の脱構 築」とは,これを言い換えたものである。「脱構築(déconstruction)」という語はこの講義ではハイデ ガーのいうDestruktionの訳語のひとつとしてのみ用いられており,デリダがこの語を自らの企てを 呼ぶ語として取り上げ直すのは,この講義以後の『グラマトロジー』『声と現象』においてである。

そこで問題にされるのは現象学の「原理の中の原理」とされる,明証性の根源としての現在の意識 への直接的現前の特権性である。のちに「現前の形而上学」と呼ばれるものは,『発生の問題』では まだ問題とされていない。ここでもフッサール現象学における「形而上学」が指摘されているが3) ここでいう「形而上学」は,「現前の形而上学」を意味しているわけではない。この語は,フッサー ル現象学が現実を離れ,「ノエシス-ノエマの相関関係の「諸構造」に閉じ込められた」「観念論」

であることを意味している4)

確かにここでいう,「混交=感染の必然性」による,「超越論的/「内世界的」,形相的/経験的」

に代表される「現象学的言説が構成される基盤となるすべての境界」の問いただしは,彼のいうよ うに,のちの「現前の形而上学の脱構築」においても引き継がれている(注1)

しかし『発生の問題』は,「現前の形而上学の脱構築」とは別の問題構制のもとにある。ここで超 越論的なものと内世界的なものの,あるいは形相的なものと経験的なものの境界が問い直されるの は,フッサール現象学を「観念論」として批判し,そこに歴史的現実を再導入するという動機によ る。ここで試みられているのは,現象学的な領域,すなわち現象学的還元を経た超越論的な意識に おけるイデア的な意味の領域のうちに,そこから排除される内世界的,経験的,歴史的な「現実」

と,イデア的ならざる「実存」を導入することであった。それは超越論的現象学から弁証法的唯物 論に至ったチャン=デュク・タオと,実存主義的に理解されたハイデガーの大きな影響のもとにあ る。『フランスにおけるハイデガー』のインタビューで言うように「この学位論文の構想は,ハイデ ガーへの参照がなければ可能ではなかった」し,「私が発生の問題を選んだのは,これをそこ〔タオ の著作〕から見出したからです」5)

この問題構制の変化は,デリダが二点目に挙げた「弁証法」の放棄にも関わっている。『グラマト ロジーについて』において,時間の「弁証法」によっては「現前の形而上学」をまぬがれられない ことが述べられている。「現前の単純性を脱構築することは,単に潜在的現前の諸地平を,つまり未 来予持と過去把持との一つの「弁証法」を,考慮に入れることには帰着しない」6)

また,この論文においても,その後の「現前の形而上学の脱構築」においても一貫して超越論的 なものと内世界的なものの境界が問題にされ続け,それらの混交が示されるとしても,そこには大 きな違いがある。つまりこの論文では,現象学の超越論的領域のうちに内世界的なものが導入され るのは,直接的に経験される「現実」としてであり,これはタオに倣って,現象学を再び実在論に 帰着させる方向に向かう。しかし「現実」が,経験において意識に直接与えられるものを呼ぶ名だ

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とすると,この「現実」と「経験」への依拠は,『グラマトロジーについて』でいわれるように,こ れもまた「現前の形而上学」に属していることになる。「経験という観念は,形而上学や思弁を解体 しようとして用いられる時でさえ,その機能の何らかの点において,根本的に,存在-神学のうち に記入され続けている」。それは「少なくともそれ自体においてはその含意を決して還元し得ない であろう,現という価値によって」である7)。のちの「現前の形而上学の脱構築」においては,

イデア的なものの現前を可能にしているものとして「内世界的なもの」あるいは経験的なもの,超 越的なものが導入されるとしても,それは「現実」として「経験」に与えられ,意識に直接的に現 前することのないものであることになるだろう。

2.若きデリダ

ベアリングは,『若きデリダとフランス哲学』において,カリフォルニア大学アーヴィング校所蔵 の草稿などの調査を踏まえて,デリダ自身の自己回顧にもみられるような,彼をフランス哲学界の アウトサイダーとみなすような解釈に対して8),1960年代に至るまでのデリダの思索が,フランス 哲学のその時々の状況と,とりわけ在学し奉職した高等師範学校の思想的状況と密接に結びついて いたことを示した。ここでは彼の叙述を簡潔に参照する。

戦後のフランス哲学は,無神論的で人間の主体性を強調するサルトルの実存主義によって席巻さ れたが,その後,構造主義の隆盛に至るまでに,タオによるフッサール現象学の唯物論的読み直し と,キリスト教哲学によるハイデガーの受容があった9)。リセ時代のデリダもまたサルトルの影響 のもとで実存主義者となり,フッサールとハイデガーに向かったのもそのためであった10)。しかし サルトルが実存分析から存在論に至る点に対してデリダは批判的であり,人間の有限性を重視する 観点からキリスト教的実存主義に接近したという11)。サルトルの実存主義の退潮の後,フランスの フッサール研究の流れは,主観主義的な観念論とみなされた『イデーン』を中心にする解釈から,

後期の発生的現象学や生活世界論を関心の中心とするものに移行し,現実世界に立脚する実在論に 向かう12)。とりわけ大きな影響を与えたのは,フッサール現象学から弁証法的唯物論に至る道を示 したタオであった。その解釈の流れの特徴とは,客観的真理を直接的な経験にもとづけることであ り,「サルトル流の実存主義の代わりに」,「フッサールの思索の最終段階」である「受動的綜合の地 盤が実在する世界であると主張する」13)。意識はすでに構成された現実を受容するものとされ,「構 成する意識は,すでに実在する現実を心の中で反復するに過ぎない。世界内での綜合が心による綜 合に先立つ」14)。デリダもまた,高等師範学校への入学とともに,そこでの哲学的,政治的状況に順 応してフッサール研究に転じた。

デリダの『発生の問題』もまた,ベアリングによれば「時代の産物」15)である。それは1950年代の フランス哲学の観念論と唯物論の論争を反映するものだが,デリダはそのどちらにも与しない。タ オは,フッサールが晩年,観念論を離れて現実世界に帰還したとするが,デリダの「構成と構成さ れたものの弁証法」は,最終段階まで,パラドクスとして保たれたままである。タオの弁証法が内 世界的現実の弁証法なのに対して,デリダの弁証法は「能動と受動,超越論的主観と現実,主観性 と客観性,哲学と歴史の出会いと相互内含」である16)。ベアリングによれば,タオにおけるような 現実の弁証法への還元は,デリダにおいては不可能とされる。そこに関与するのは,人間の有限性 であり,ここに実存主義的ハイデガーが導入されることになるだろう。

しかしここで注目すべきなのは,デリダがタオの弁証法を批判するとしても,デリダ自身のフッ

(5)

サール解釈自体は,依然としてタオからの極めて大きな影響のもとにあることである。それは,と りわけ受動的綜合の地盤として実在する世界を置く点に見られる。

3.タオ

チャン=デュク・タオは,1951年に刊行された『現象学と弁証法的唯物論』によって,現象学か らマルクス主義へ至る道筋を示した。タオはここで,現象学の抱える「矛盾」,すなわち「具体的分 析」による「実際に現実的な成果」と「現象学という概念」に基づく「理論的諸原理」の間の矛盾17)

が,マルクス主義によってのみ解決される,という。「われわれは超越論的観念論の真理としての弁 証法的唯物論に到達する」18)。それは超越論的観念論自体をブルジョワ的迷妄として退け,感性的 現実の実在論に立ち返る道である。

タオによれば,『論理学研究』以来,前述語的知覚が,「事実の先件としてだけでなく,真理の条 件としても」前提されており,『イデーン』でも,「こうして知覚される感性的現実が原初的な層」

である。後期の著作においては,この観点が体系化され,「生活世界をいっさいの可知的な意味の根 源および基底,すなわちあらゆる真理の生きた源泉として,たえずそこに立ち返らねばならないも のとして,示している」19)。先の「矛盾」を解決するためには,感性的現実の実在論に立ち返らねば ならない。「意識の見地を自然的現実に吸収することが現象学的袋小路から抜け出ることを可能に する,考えられうる唯一の道である」20)。「「超越論的」という概念は,最初からよけいなものであっ た」21)。「超越論的構成」は,「物質から生命への,そして生命から社会的実存として理解された精神 への現実的生成を,体験という抽象的な面で取り上げ直しているにすぎないことがわかる」22)。構 成する主観性に実在性を拒むことはできず,それは「主体-生成における自然そのもの」であり,

「それによって自然が生物学的発展と人間的歴史とにおいて自己自身を意識する現実的運動なので ある」23)

これに対してデリダは,タオの弁証法的唯物論を,「超越論的」哲学を欠いた「内世界的」弁証法 であるとして批判する(他方でカヴァイエスの概念の弁証法も,構成されたものの次元にとどまり,

やはり超越論的観点を欠いているとして批判している)。「彼は,フッサールの思想の動きを深く力 強く問いただした後で,そしてできる限り近くまで超越論的な純粋さを自分の弁証法に接近させた 後で,「内世界的」発生と唯物論的弁証法の困難に再び陥る」24)。「タオにとっては,弁証法は純粋に

「内世界的」で,それ自体として弁証法によって活力を与えられていないある素材を起点として設定 されているので,それはきわめて神秘的な仕方で「対自」になる。この見方はなおもある形而上学 にとらわれているのである」25)。タオの「内世界的弁証法」によっては,自然がいかにして,いかな る動因によって「自己自身を意識し」「主体」への「生成」を遂げるのか,説明されない。

デリダはタオの弁証法を,超越論的なものを欠いた内世界的弁証法とみなし,これに代えて超越 論的なものと内世界的なものの根源的弁証法を導入することでタオを「乗り越え」ようとする。そ の際援用されるのは,タオが批判した実存主義的ハイデガーであり,彼は「その弁証法を時間性の 存在論あるいは存在の時間性の中に基礎づけること」に着手したと評される26)。といっても彼自身 が「「超越論的論理学」の水準では,「弁証法」という語は類比的な意味しか持たない」27)と認めてい るように,この「弁証法」の輪郭は明らかではない。そしてこの「弁証法」を見出すために要請さ れる読み方自体のうちに,タオの影響はいまだに根強く存しているように思われる。

(6)

Ⅱ 発生のアポリア

『発生の問題』は4部からなり,時代順にそれぞれ,現象学以前の著作,静態的現象学,発生的 現象学,および『危機』作品群の歴史哲学に宛てられている。デリダによれば「発生の問題はフッ サールの思想のきわめて重要な動機であると同時にディレンマを引き起こす契機でもあり,彼は絶 え間なくその契機を拒絶あるいは隠蔽したように思われる」28)。この問題は,「根源的意味と原初的 現実存在」29)の「根源的弁証法」30)を要請する。また,この弁証法の「根源的に構成的な運動」に よって,フッサール哲学の「弁証法的な」理解が強いられる31)。デリダは,フッサールの思索の展 開の行程を,発生をめぐるアポリアを動因として弁証法的に展開したものとして捉え,しかし最終 段階に至っても構成された意味の領域にとどまってこの弁証法を十分に引き受け得なかったものと するのである(注2)

1.概観

第1部では『算術の哲学』と『論理学研究』第1巻が対比される。フッサールの当初からの関心 は,経験的,主観的な事実性ではなく,普遍的,客観的に妥当する学問的規範の基礎付けにあった。

しかし他方で,この客観的な真理は,現実の経験的主体の根源的,具体的な経験と分離されてはな らない。『算術の哲学』のフッサールは,「演繹的学問の論理学並びに論理学一般は,心理学にこそ,

その哲学的解明を期待すべき」とする「心理学主義」によって32),「心理学的な生の基礎的諸事実に 基づく,認識の基本的諸法則の発生論的な構成」33)を試みた。(ただしデリダによれば,「数と論理 学的基礎概念との発生を説明するために,経験論的発生それ自体の可能性の条件である「対象一般」

というアプリオリな理念に依拠していた」34)。この理念は経験論的な発生によるものではなく,心 理学主義を超える展開を予想させる。)しかしナトルプによる批判などを受けて「経験論的な主観性」

が「絶対的な明証性の源泉である」35)ことは不可能であることを認め,『論理学研究』第一部「純粋 論理学」序説においてそれまでの心理学主義を経験主義として批判する36)。そこでは「論理学的客 観の,それらを志向するあるいは生産するように見える心理学的作用への還元不可能性」37)が示さ れる。しかし「論理学的な客観性の構成的起源」38)が問われぬままアプリオリなものとして持ち込 まれる形式主義を免れるためには,次の段階,すなわち「アプリオリなものの具体的な超越論的構 成」39)を扱う超越論的現象学への移行が必須となる。そのためには,ブレンターノから受け継がれ た志向性の概念を,心理学的なものではなく超越論的なものとして捉え直す必要があった。

そこで第二の段階,静態的現象学に移行する。しかし,「より深い水準で,発生に関する重大な問 題が再び現れようとしていた」40)。「発生は経験論的な事実性の次元に属する」41)が,現象学的還元 によって現実の内世界的発生は排除される。静態的現象学ではすでに構成された意味しか扱われな い。それゆえ『時間講義』では「内的時間意識は,その形相的ノエマ的水準で記述され」「実際に発 生的な時間性」が「形相」「ノエマ」の構造と取り替えられ,「時間の構成的な現実存在」が「時間 の意味」に場を譲る。『イデーン』第1巻において,「人はノエシス・ノエマ相関関係の諸「構造」

に閉じ込められている」42)

そこでフッサールの認めるように「すでに一つの世界を意識している」43)我から出発する静態的 現象学から「普遍的な発生」44)を扱う発生的現象学への移行が必要になる。

しかしこれに対するデリダの見解は,フッサールが超越論的発生に取り組んだ発生的現象学にお いても,すでに構成された意味の次元にとどまり続け,真に発生を問題化しえなかった,というも

(7)

のである。彼によればフッサールにおいては,「意味の発生は常にアプリオリに発生の意味へと変 換され」45),「根源的な時間性」は「すでに構成された形相的構造」に還元される46)。フッサールは 我の能作によらない受動的発生に「深刻な不快感」を感じており47)「純粋な受動的発生は括弧に入 れられている」。というのは,デリダによれば受動的綜合は「現実存在〔実存〕するもの同士のアプ リオリで純粋に存在論的な綜合」なのだが,フッサールはこれを「理論的主体によるいっさいの超 越論的構成に先行し,それ自体としてはいかなる形相的解明にも帰されることのない,純粋な実存

〔現実存在〕的経験」として記述することはなく,「実存〔現実存在〕と前カテゴリー的客観性との 核」とする訳でもない48)

デリダが受動的発生のうちに見るものは,現象学的還元によって排去される実存〔現実存在〕の 経験であり,それは,「あらゆる還元に抵抗」し,「純粋に自我論的な経験」「絶対的主観性の諸限界」

をはみだすものであった。現象学はこの現実存在(実存)との弁証法をなすものでなければならな い。彼によれば「超越論的発生」は,「あらゆる形相学に先行する契機」へと我々を連れ戻し,「前 述定的現実存在」,「生活世界」,「原初的時間」,「超越論的間主観性」など,「「我」の活動から意味 を根源的に注がれたのではない諸審級」の領野にいたらせねばならない。しかしフッサールにおい ては「実際には構成された本質の世界を離れることはない」。超越論的発生は,「実際には常に既に 構成されており,発生に後続するものである」ような「アプリオリに形相的で普遍的な構造」のう ちに保たれている。「意味の発生」は「発生の意味」に変換される49)

そこでは「絶対的主観性の限界をはみ出す」「受動的発生」が問題になっており,これを「形相的 で超越論的な現象学に組み入れ直す」ために,歴史の目的論が導入され,これが第4の段階をなす。

ところが,ここでも現実の歴史の代わりに「すでに構成された意味統一体」が導入されることにな 50)。「この受動的綜合はこのような形式を持った綜合として,そのもののうちで告知される「歴 史」を持っている」51)とフッサールがいう時,フッサールにとってこの歴史は「実在的歴史」ではな く,「すでに志向的意味を付与された現象学的歴史」である。「現象学的歴史は,それがその構成で あり明白化であるところの実在的歴史を前提とする」にも関わらず,フッサールにおいて「一切の 歴史は,その現象学的で志向的な意味」つまり「その歴史に先立って存在し,その歴史を包み込み,

その歴史に絶え間なく形式を与える意味」へとアプリオリに還元されている。「現象学と存在論の 弁証法を中断」し,「現実的歴史を「意味」に還元することで「発生を歪曲又は除去」する52)。こう して「形相的な厳密さ」を守ることによって,フッサールは「現実的発生の還元および隠蔽」をお こなっている53)。この問題は『幾何学の起源』における歴史の目的論的再構成にも引き継がれてお り,デリダはこれを,現実を排除する歴史のイデア化として批判するのである。

2.発生のディレンマ

では,デリダのいう根源的弁証法とは,いかなるものなのだろうか。序論で,デリダはフッサー ルの哲学を「絶対的始まりへの要請と,究極的な哲学的準拠としての体験の時間性とを同時的に主 題化する哲学」54)と特徴付ける。

志向性は「思考の心理学的「特徴」」ではなく「根源的明証性の中で論理学的諸本質の客観性へと 無媒介的に到達する意識の,原初的で還元不能な運動」でなければならない。「発生は経験論的な事 実性の次元に属する」が,この事実性は現象学的還元によって括弧に入れられる。しかし他方で,

「志向性とアプリオリな諸本質の直観」は,プラトン主義的イデアのような「叡知的天空に住まう非

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時間的な諸々の論理的意味との単なる遭遇」であってはならない55)。カントにおけるような形式主 義においては,超時間的で非実在的なアプリオリなものと,時間的,経験的なアポステリオリなも のが分離され56)「超越論的なものがその経験論的内容と起源的に一体をなすのでない」ため,それ は「論理的で形式的なもの」となり,「構成的な源泉」ではなく,すでに構成されたものが持ち込ま れていることになる57)

それゆえ超越論的意識によって構成されたものとしての意味の発生が記述されねばならず,それ は意識と経験に与えられているはずのものである。「意味は,そこに実在的対象「それ自身」が自ら を与えに来るところの「根源的な能与的直観」における具体的「充実」に「基づく」のでなければ ならなかった」。「諸本質の構成的起源であり基盤である,超越論的主観性の具体的体験」へ回帰せ ねばならない58)

静態的現象学はすでに構成された意味の領域にとどまっているため不十分であり,超越論的発生 を問題にする発生的現象学が要請される。しかしデリダによればフッサールは,発生論的現象学に おいても,「弁証法」を回避した,という。この弁証法とは「存在論的」であり,かつ「語のフッサー ル的意味で」「超越論的」であり59),超越論的発生自体が「弁証法的」である60)

「あらゆる発生が,あらゆる発展が,あらゆる歴史が,あらゆる言説が意味を有するためには,

その意味がなんらかの形で,起源においてすでに「既在」していなければならず,そうでなければ,

意味の現出と生成の現実のどちらも理解不可能になってしまうだろう」。「どんな意味も意識にとっ ての意味であり,志向的な「超越論的自我」と無関係にはなれないので,意味は「すでに」現前し ているものとして常に現れる」61)

思考と実在,意味と感覚的なものの「アプリオリな綜合こそが,一切の経験ならびに経験の一切 の意味を可能にする」。「あらゆる可能的経験の実在的原理としての根源的綜合」と「超越論的意識 の志向性」とは連携しており,「実在的発生は綜合である」。「このようなアプリオリな綜合は一切の 経験の根源的基盤であり,この基盤は経験自体の中で経験自体によって与えられている」62)

この「アプリオリ」とは,カントにおけるような経験から分離された非時間的なものではなく,

「実質的アプリオリ」63),認識に先立ちこれを可能にする「根源的基盤」であり,しかも単一の根源 に還元されることはなく,それ自体が綜合である。すると,「ある発生の意味もしくは存在の絶対的 に根源的な基盤が,いかにしてその発生の中に,そしてその発生によって,包含されうるのか」と いう問題が生じる。つまり,この「アプリオリな綜合」自体の発生が問われることになる。「いかに して基盤の根源性はアプリオリな綜合でありうるのか。いかにして全ては錯綜から始まりうるの か」。「もしあるアプリオリな綜合があらゆる可能な判断と経験の源泉かつ基盤であるなら,我々は 無際限な弁証法に送り返されるのではないだろうか」64)

その「弁証法」は,より根源的な綜合への無限遡行という形をとりうる。「もし一切の発生と一切 の綜合があるアプリオリな綜合によるそれらの構成に送り返されるのなら,このアプリオリな綜合 それ自体は,それが構成的で超越論的でいわゆる根源的な経験において自身に現れる時,常に「す でに」意味を得てしまっており,常に「すでに」他の綜合によって構成されており,こうしたこと が際限なく繰り返されるのではないだろうか」65)

また,循環,「先取り」という形でもありうる。「現象学的根源性が歴史的「始原性」に先行され ているとしたら」,この根源性は「意味の最初の構成」たりうると断言できなくなるが,「始原性が 始原性として「現れる」のは根源的構成によってのみである」66)。「意味を構成する発生の根源的契

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機は,その構成が現実的であるためには,その意味以前にあらねばならず,同時に,その意味がア プリオリなあるいは根源的な明証性において我々に与えられるためには,その意味以後にあらねば ならない」67)。「アプリオリな綜合に基礎を置く一切の意味が根源的な仕方で現れ,かつ自分自身に とっても現れる」のは「未来が現在と過去に先行するような」「先取り」による68)

3.アポリアと弁証法

ここでデリダのいう「弁証法」は,次のような考え方によるものと言えるだろう。

彼は,志向的対象は現実存在から分離されえず,超越論的発生は現実の経験的,実在的な発生か ら分離されえないとする。それは「根源的意味と原初的現実存在」69)の「根源的弁証法」70)である。

彼は「客観性の現象学的到来と,客観性の現出という歴史的出来事」の分離を批判し,「超越論的意 識の発生を,(意識に対する存在の超越における)存在自体による存在の発生と別物とみなす」こと を批判している71)。この点においては,やはりデリダも,当時支配的であったタオによる唯物論的 フッサール解釈の大筋に従っているものといえる。

フッサールは静態的現象学においては現実的,内世界的な発生を還元しているので,現実の導入 は発生的現象学の受動的発生の分析に求められる。これもまたタオの解釈に従ったものである。

「超越論的自我」すなわち「絶対的主観性それ自体が根源的綜合の時間性の中で生産される」のだ 72),これは,構成する主観性が,現実の綜合において構成されるものであるような「弁証法」で もある。「超越論的で根源的な現象学的時間性が「時間化させるもの」,構成するものであるのは,

見かけだけのことであり,超越論的意識自体とは無関係で,その意識に先行してそれを含みこむ「自 然的」時間を起点としてのみ,そうなのではないか」73)

他方でデリダはタオの弁証法を内世界的なものとして批判する74)。「タオにとっては,弁証法は 純粋に「内世界的」で,それ自体として弁証法によって活力を与えられていないある素材を起点と して設定されているので,それはきわめて神秘的な仕方で「対自」になる。この見方はなおもある 形而上学にとらわれているのである」75)。タオの「内世界的弁証法」によっては,自然がいかにし て,いかなる動因によって「自己自身を意識し」「主体」への「生成」を遂げるのか,説明されない。

つまり自然的存在からの意識の発生は,それを経験し記述する超越論的意識を欠いているのである。

これに対して,デリダのいう弁証法は「超越論的」でなければならない。彼は,志向性の構造,

すなわち超越論的意識と志向的な対象,意味の相関関係が,発生の当初からすでに存在しなければ ならないと考えている。そうでなければ,発生は意味を持つものとして意識に与えられない。これ がアプリオリな綜合であり,認識の絶対的な基盤とされる。

意識の発生がそれ自体,意識に与えられねばならない。つまり彼は,発生的現象学において,志 向性による能動的綜合だけではなく,自我の関与しない受動的綜合に関しても,意識に与えられる 経験の記述が行われなければならないと考えている。それは,超越論的意識の発生自体が,経験に おいて意識に与えられなければならない,という(おそらく不可能な)要請なのである。それゆえ

「超越論的発生が,なお根源的,経験論的発生であるなら,いかなる主体に対して絶対的意味が現れ るのか」76)という問いが立てられる。「最も広く根源的な意味で理解された経験,基盤それ自体の 経験も含む形で理解された経験」の「生成における諸々の意味のたちあらわれを記述しなければな らない」。「絶対的基盤それ自体が,その発生論的現出において記述されねばならない」77)

ここにフッサールの発生的現象学へのデリダの特徴的な理解が,あるいはあえて言えば誤解が現

(10)

れている。デリダによれば「発生の意味」と「意味の発生」は,互いに他方に先行せねばならず,

それが無限遡行あるいは循環に帰結するアポリアをもたらす。このディレンマはデリダが発生的現 象学もまた,静態的現象学と同様の,意識への所与の記述の学とみなすことから来ている。超越論 的主観の超越論的発生自体がこの主観自身にとって現れ,意識の直接的な所与となり,その意味が 記述されることを前提しており,この発生自体が超越論的主観性を構成するものであることからア ポリアを導こうとする。そしてこの発生の時間はもはや現象学的還元を経た現象学的時間ではな く,現実の時間であるとして,現実の歴史を導入するのである。

しかし,これはフッサールにおける発生的現象学の方法に関する誤解によるもののように思われ る。

フッサールは「静態的現象学の方法と発生的現象学の方法」において「発生的現象学」を「説明 的現象学」,「静態的現象学」を「記述的現象学」と呼び,区別している78)。「説明的現象学」とは「規 則に即した発生についての現象学」である。

受動性の分析においても,「我々の考察は,現象学的還元の枠内を動いているのだから,全ての客 観的な現実性と客観的な因果性は「括弧に入れられている」」79)。「現象学的還元は,直接的な経験 の素材に立ち返りながら,まずもって純粋な内的態度において残存する現象学的事実の核をもたら すのであり,この核は,それ以後の探求の出発点をなすのである」80)。連合の分析は,「現実的およ び可能的な再想起の事実」に関わる。「それらは現象学的還元が行われることによって,まずは超越 論的事実として現れてくる。したがって我々は,本質的必然性と本質規則を看取しようとする形相 的本質直観を課題としてもつことになる」81)。「原統覚から統覚がどのように形成されるか,その普 遍的で始原的な規則を作成し,可能な諸形成を組織的に導くこと,かくして全ての所与されている 形成体をその起源から解明することが必然的課題なのである」82)。「統覚の全ての形態は本質の形 態であり,本質法則に即してその発生を持つのであるから,そのような統覚の理念には「発生的分 析」が施されるべきであるということが含まれるのである」83)

つまり,フッサールは発生的分析において超越論的自我の発生を扱うとき,静態的現象学で得ら れた成果について,その本質的な規則を探求しているわけであって,静態的現象学におけるように 経験における意識への所与を記述するのではない。超越論的還元を経たものから出発して,事後的 にすなわち「痕跡」から,発生を構成するのである。自我が介在しない発生である受動的発生自体 の,そのただ中における自我による記述を行おうとするのではない。それゆえデリダのいうディレ ンマは生じないことになる。またそれゆえ「無意識」も扱われうる。「覚起が可能なのは,構成され た意味が背景意識の中で無意識と呼ばれる非生動的な形式において,実際に含蓄されているからで ある」84)

自我の超越論的発生自体が自我によって経験され,意識に与えられ,記述されるものと考えると き,この時のデリダは,いわばフッサール以上に,意識への所与と経験の直接性に固執しているよ うに見える。そしてこの固執は,のちに「現前の形而上学」と呼ばれることになるだろう。

4.ハイデガーへ

この弁証法とアポリアについては,とりあえず,実存主義的に理解されたハイデガーによって,

一応の答えが与えられる。『存在と時間』のいう現存在は,存在理解を備えた存在者であり,世界内 存在という構造を備えている。形相的還元を経ない個別的実存であり,その存在の意味は時間性で

(11)

ある。

デリダによれば,「超越論的構成の時間という決定的な問題」がある。「超越論的構成は,いかな る時間に従ってなされるのだろうか。それは,それ自体として非時間的な主体によって構成される 時間だろうか。主体自体が時間的なのだろうか。その主体は,いかにして同一的な主体として己に 現れ,己を構成するのだろうか」85)。これに対して,「現象学が「それにとって」可能であるところ の主体は,時間的な主体である」86)。これがハイデガーのいう「現存在」であることになる。

先に見た,発生と意味の錯綜は,「存在と時間との根源的で弁証法的な綜合を起点とするのでなけ れば主題化されえなかった。」87)。それは,「自らの歴史的環境に根源的に捉えられた人間」88),形相 的還元を経ない「人間的実在」(注3) を出発点として考察されねばならない。

「フッサールは,より深い時間性―それは自らの本質と弁証法的に融合してあらゆる還元に抗す る人間的実存の時間性に他ならない―へと絶えず送り返された」が故に,そしてそれにもかかわら ず,「結局は時間性を,非時間的な根源性によってすでに構成された形相的構造へと還元してしまっ た」。「そしてこのことは,己の有限性が己自身に現れるような実存の中で哲学を誕生させることを 拒むことを意味していた」89)。純粋な主体とは根源的に歴史的な実存であり,「それは主体の「実存」

それ自体である。この実存は,根源的に時間的かつ有限的なものとして「世界内」にある」90)。「志 向性は時間の根源的現実存在〔実存〕と融合するので,この場合それはもはや理論的眼差しではな い。それは人間的実存それ自体である」91)。「現象学は,綜合的かつ根源的に時間と同一である存在 の,自己構成の一契機なのである」92)

「時間性」「実存」「有限性」「世界内存在」といった用語からも一見してわかるように,ここでの デリダは,「弁証法」という用語の使用を除けば,『存在と時間』における,そして実存主義的に理 解されたハイデガーの大きな影響のもとにある。

このように,『発生の問題』におけるデリダは,一方ではタオの内世界的弁証法を批判し,これを 免れる「根源的」弁証法を構成する契機としてハイデガーの「実存主義」を援用している。しかし 他方で,彼がこの弁証法を読み取る基本的なフッサール解釈自体は,タオの,そしてタオの影響を 受けた当時のフッサール解釈の流儀に従ったものである。デリダは発生的現象学における受動的綜 合に着目し,これを,現実における綜合による存在者の,受動的な受容としてして捉えることによっ て現実を現象学に導入する。ここで見られる現実の導入という契機が,その後の現象学の脱構築に おいてどのように引き継がれているか,がさらなる問題となるだろう。

【注】

注1 マラッティは「経験的なものと超越論的なものの混交,根源の錯綜,意味の時間性,歴史性 を別様に考える必然性」がその後も継続するモチーフであると指摘している。Paola Marrati- Guénoun,La genèse et la trace-Derrida lecteur de Husserl et Heidegger,Kluwer, 1998. p.36.

注2 ベアリングによれば,4つの段階を貫いて同一の困難,すなわち「意味の発生と発生の意味 のアポリア」が扱われている(YD,127)。このアポリアは「前現象学期のフッサール」から見出 されたもので,静態的現象学,発生的現象学,歴史哲学,とレベルを変え,解決されないまま 繰り返される(130)。彼によれば「発生の問題の分析は現象学を経由する必要がなかった」(127)

ことになるが,しかしこの解釈はこの論文における現象学の重要性を軽視しているように思わ

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れる。というのは,ベアリングのいうアポリアは単に現実的なものとイデア的なものとの関係 に関わるものであり,デリダが強調するこの弁証法の超越論的な契機を無視しているからであ る。第2期以降のアポリアを構成する重要な契機は,意味が意識に与えられねばならないとい う要請である。

注3 PG,251/251これはハイデガーの「現存在」へのコルバンの訳語であり,サルトルによって広 められたものである。のちにデリダはこの訳語を批判しているが,この時点では肯定的に使用 している。ローラーは,デリダのハイデガー読解へのサルトルの影響を推測している。(L.

Lawlor,Derrida and Husserl, Indiana U.P., 2002, p.48)またローラーも指摘するように,この論文 ではハイデガーへの言及に全く出典が示されていない。

【引用文献】

1)Jacques Derrida,Le problème de la genèse dans la philosophie de Husserl, PUF, Ⅵ-Ⅶ. 1990.『フッサー ル哲学における発生の問題』合田正人,荒金直人訳,みすず書房ⅶ-ⅸ頁。(以下,PGと略記し,

原書と邦訳の頁数を挙げる)

2)Jacques Derrida,Heidegger: la question de l’Être et l’Histoire, Galilée, 299, 2013.

3)PG,270/269 4)PG,144/144

5)Dominique Janicaud,Heidegger en France, II, Albin Michel, 92, 94, 2001.

6)Jacques Derrida,De la grammatologie, Minuit, 97, 1967.『根源の彼方に』足立和宏訳,現代思潮社 上137頁。(以下,DGと略記し,原書と邦訳の頁数を挙げる)

7)DG,400-1/下271

8)Edward Baring,The Young Derrida and French Philosophy, 1945-1968, Cambridge, 3, 2011.(以下,

YDと略記し,頁数を挙げる)

9)YD,42-43 10)YD,67 11)YD,54-55 12)YD,106,124,126 13)YD,118-119 14)YD,124 15)YD,127 16)YD,130-133

17)Tran Duc Thao,Phénoménologie et matérialisme dialéctique, Gordon & Breach, 6, 1971.『現象学と弁 証法的唯物論』竹内良知訳,合同出版,2頁。(以下,PDと略記し,原書と邦訳の頁数を挙げ る)

18)PD,227-8/245-6 19)PD,6-7/3 20)PD,218/237 21)PD,9/5 22)PD,8/4

(13)

23)PD,227-228/245-246 24)PG,32/38

25)PG,257/327 26)PG,123/311 27)PG,8/9 28)PG,35/41 29)PG,31/36 30)PG,27/32 31)PG,9/10 32)PG,56/59 33)PG,47/50 34)PG,35/41 35)PG,56/59 36)PG,87/90 37)PG,80/83 38)PG,49/51 39)PG,97/99 40)PG,37/43 41)PG,36/42 42)PG,144/144

43)Edmund Husserl,Cartesianische Meditationen, Meiner, 79, 1977.『デカルト的省察』浜渦辰二訳,岩 波文庫140頁。(以下,CMと略記し,原書と邦訳の頁数を挙げる)

44)CM,78/140 45)PG,39/44 46)PG,41/46 47)PG,39/44-5 48)PG,231-2/230-1 49)PG,38-39/44-45 50)PG,40/45 51)CM,81/144 52)PG,234/233 53)PG,40/45-6 54)PG,3/4 55)PG,36/42 56)PG,11/13 57)PG,46/49 58)PG,36-37/42 59)PG,6/9 60)PG,8/10

(14)

61)PG,9/11 62)PG,11-12/13-14

63)Edmund Husserl,L’origine de la géometrie, traduction et introduction par Jacques Derrida, PUF, 24,

1962.田島,矢島,鈴木訳『幾何学の起源』,青土社,53頁。

64)PG,12/14 65)PG,12-13/14 66)PG,13/14 67)PG,40/45 68)PG,13/15 69)PG,31/36 70)PG,27/32 71)PG,15-16/17-19 72)PG,37-38/43 73)PG,13/14 74)PG,32/38 75)PG,257/327 76)PG,28-29/34 77)PG,14/16

78)エトムント・フッサール『受動的総合の分析』山口・田村訳,国文社,323頁。

79)同書173頁。

80)同書174頁。

81)同書175頁。

82)同書321頁。

83)同書322頁。

84)同書254頁。

85)PG,60-61/63 86)PG,163/163 87)PG,40/45 88)PG,247/246 89)PG,41/46 90)PG,213/211 91)PG,209note/322 92)PG,214/212

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参照

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