松岡義正と北京「京師法律学堂」における民事法の 教育について
著者 熊 達雲
雑誌名 山梨学院大学法学論集
巻 72・73
ページ 129‑263
発行年 2014‑03‑10
URL http://id.nii.ac.jp/1188/00002957/
論
松
説岡 義 正 と 北 京
﹁ 京 師 法 律 学 堂 ﹂ に お け る 民 事 法 の 教 育 に つ い て 熊
達 雲
目次 はじ めに 一 京師 法律 学堂 の設 立経 緯 二 京師 法律 学堂 の組 織構 造と 教育 状況 三 京師 法律 学堂 にお ける 日本 人教 員の 教育 状況 四 松岡 義正 が担 当し た民 事法 の講 義状 況 五 中国 にお ける 民事 法教 育に 対す る松 岡の 貢献 おわ りに
はじ めに 中国
では 近代 的法 学の 教育 を系 統的 に始 めた のは 二〇 世紀 に入 った 後の こと であ ろう
︒清 政府 がイ ギリ スと 通商 航海 条約 の改 正交 渉に あた り︑ 不平 等条 約の 廃止 のか わり に︑ 数千 年の 歴史 を有 する 中華 法系 を見 直し
︑西 洋諸 国 の法 と同 様な 法を 導入
︑整 備す る条 文が 改正 条約 に盛 り込 まれ た
( )
こと をき っか けに
︑中 国は 現行 法の 見直 し作 業に
取り 組ま ざる を得 なか った
︒そ れと 同時 に︑ 新し く整 備さ れた 諸法 が順 調に 施行 でき るよ うに する ため に︑ その 法 理︑ 概念
︑原 則等 を理 解で きる 人材 の養 成は 課題 とな った
︒こ の課 題を 全う しよ うと した のは 一九
〇六 年に 北京 で 創立 され た京 師法 律学 堂︵ 日本 では 北京 法律 学校 と訳 され てい る︒ 本文 では 両方 を同 時に 使用 する こと にす る︒
︶ であ った
︒そ して
︑こ の学 校で 近代 法学 の教 育を 担当 した のは ほと んど 日本 から 招聘 され た法 学者 であ る︒ 近代 以 来︑ 中国 法や 法学 が日 本の 影響 を受 け続 けた のは この 学校 での 教育 と切 り離 せな いも のと 考え られ る︒ しか し︑ 最 初に 刑部
︵法 務省 相当
︶に 所属 され たこ の学 校は 三年 しか 存立 せず
︑さ らに
︑そ の直 後に 清朝 の崩 壊も あり
︑こ の 学校 およ びそ れが 果た した 役割 につ いて は世 間に 忘れ られ てし まっ たよ うで ある
︒中 国の 法近 代化 の原 点を 見出 す ため に︑ 本稿 は京 師法 律学 堂の 設立 の経 緯︑ 同校 の組 織構 造お よび 教育 の実 情︑ 日本 人教 員︑ 特に 民事 法教 育の 担 当者 松岡 義正 の講 義状 況乃 至中 国民 事法 教育 に対 する 寄与 を中 心に 述べ てい きた い︒
一 京師 法律 学堂 の設 立経 緯 修訂
法律 館の 設立 後︑ 伍廷 芳は 内外 の法 に造 詣が 深い 人材 が足 りな いこ とに 気が 付き
︑法 律と 法実 務の 人材 が足 りな けれ ば︑ たと え新 しい 法が 制定 され たと して もそ の施 行が 順調 にで きな いこ とを 懸念 し︑ 修訂 法律 館附 属の 法 律学 校及 び仕 学速 成科 の設 立を 考案 した
︒し かし
︑中 国で 近代 的な 法学 教育 を行 うに は適 任の 法学 教員 を必 要と す る︒ 当時
︑中 国に は近 代法 に詳 しい 人材 が欠 けて いた ので
︑外 国か らそ の人 材を 招か なけ れば なら なか った
︒こ の 背景 の中 で︑ 法的 知識 の構 造を 異に する 伍廷 芳と 沈家 本は 現行 法の 見直 しに つい てや やも すれ ば意 見が 分か れる に もか かわ らず
︑法 律学 校の 設立 につ いて は二 人三 脚で 協力 しあ って いた 模様 であ る︒ この 経緯 につ いて
︑岡 田朝 太 郎の 著書 に寄 せた 沈家 本の 序文 は次 のよ うに 述べ てい る︒
﹁余 恭膺 簡命 偕新 會伍 秩庸 侍郎 修訂 法律
︑並 參用 歐美 科條 開館 編纂
︒伍 侍郎 曰︑ 法律 成而 無講 求法 律之 人︑ 施 行必 多阻 閡︑ 非專 設學 堂培 養人 材不 可︒ 余與 館中 同人 僉韙 其議
︒於 是奏 請撥 款設 立法 律學 堂︒ 奉旨
允擇 地庀 材 俞 剋日 興築
︒而 教習 無其 人︑ 則講 學仍 托空 言也
︒乃 赴東 瀛訪 求知 名之 士︒ 群推 岡田 博士 朝太 郎為 巨擘
︑重 聘來 華︒ 松岡 科長 義正 司裁 判者 十五 年經 驗家 也︑ 亦應 聘︒ 而至 光緒 三二 年九 月開 學︒ 學員 凡數
( )
百人
︒﹂
︵私 は指 示を 受け て廣 東新 会県 出身 の伍 廷芳 侍郎 とと もに 法の 修正 を担 当し
︑修 訂法 律館 を設 置し て欧 米の 法文
を参 照し なが ら法 の修 正作 業に 取り 組ん だ︒ 伍侍 郎が いう には
︑法 律が 制定 され た場 合に 法律 を理 解す る人 材が い なけ れば 法律 の施 行に 必ず や支 障が 生じ るの で︑ 学校 を設 けて 人材 の育 成を 行わ なけ れば なら ない と︒ 私と 修訂 法 律館 の同 僚は 皆︑ その 意見 に賛 同し
︑法 律学 堂の 設立 を要 望す る上 奏文 を提 出し た︒ 勅旨 はそ の意 見を 取り 入れ
︑ 場所 を選 び︑ 人材 を集 め︑ 竣工 時間 を決 めて 学校 を建 築す るよ うに 命じ た︒ しか し︑ 教員 がい なけ れば
︑教 育は 空 言に 過ぎ ない
︒そ こで
︑日 本へ 赴き 著名 な学 者を 招聘 する こと にし た︒ 衆人 はそ ろっ て岡 田朝 太郎 博士 を著 名な 学 者と して 推薦 して くれ
︑高 給を 約束 して 招聘 した
︒裁 判に 一五 年も 携わ った 実務 家の 松岡 義正 部長 も招 聘を 受け て いた
︒光 緒三 二年 九月 に至 って 北京 法律 学校 が開 校し
︑学 生数 はお よそ 数百 人に 及ん だ︒
︶ また
︑京 師法 律学 堂の 設立 は朝 廷で 最大 の実 力者 たる 袁世 凱の 支持 を得 たか らこ そ実 現で きた とい える
︒こ れは 清国 駐屯 軍司 令官 神尾 光臣 より 陸軍 大臣 寺内 正毅 宛に 送信 した 秘密 報告
﹁駐 屯軍 報告 第十 七号
﹂は それ を裏 付け て いる
﹁ ︒ 北京 政府 ハ昨 年夏 其政 務処 ニ於 テ会 議を 開キ
︑富 国強 兵ノ 実ヲ 挙ク ルニ ハ清 国古 来ノ 諸法 律ヲ 改訂 スル ノ急 務ナ ルヲ 議決 シ︑ 上奏 裁可 ヲ経 テ北 京刑 部内 ニ修 律処 ナル モノ ヲ特 設シ
︑修 律大 臣ニ ハ刑 部左 侍郎 沈家 本︑ 同右 侍郎 伍廷 芳ヲ 任命 シタ リ︒
︵中 略︶ 而シ テ修 律両 大臣 ハ事 毎ニ 意見 ヲ異 ニシ
︑而 カモ 沈ハ 自ラ 清国 ノ大 法律 家ヲ 以テ 任シ
︑頑 トシ テ下 ラサ ル有 様ナ ルヲ 以テ
︑彼 ノ比 較的 法理 思想 ヲ有 シ︑ 稍文 明ノ 智識 ニ富 ミタ ル伍 廷芳 ノ意 見ノ 如キ ハ絶 対ニ 之ヲ 軽視 シツ ツア リ︒
﹁伍 廷芳 ハ此 形勢 ヲ見
︑且 北京 政界 一ノ 後援 者ナ カリ シヲ 以テ
︑常 ニ多 クハ 黙々 シテ 経過 シ来 リシ モ其 勃々 タ
ル不 平ハ 到底 禁ス ヘカ ラス
︑遂 ニ前 記訴 訟法 ノ完 成ヲ 期ト シテ 数回 請願 ノ上
︑墓 参ノ 名義 ヲ以 テ帰 省ノ 許可 ヲ得
︒ 将ニ 故山 ニ帰 ラン トス ル途 次︵ 旧三 月下 旬︶ 天津 ニ立 寄リ
︑袁 総督 ヲ訪 問シ
︑自 己身 上ノ 現在 ノ状 況ヲ 詳述 シ︑ 且曰 ク︑ 目下 清国 ニ於 ケル 諸般 法律 ノ改 正新 定ノ コト ハ実 ニ列 強ノ 深ク 注目 スル 所ナ ルノ ミナ ラス
︑又 各国 トノ 条約 上ニ モ義 務ヲ 負フ モノ 尠ナ カラ ス故 ニ︑ 苟モ 一ノ 法規 ヲ定 メン ト欲 セバ
︑須 ラク 内外 ノ法 理ヲ 究メ
︑以 テ其 基礎 トナ ササ ルヘ カラ ス︒ 然ル ニ現 今清 国人 中ヨ リ法 理ニ 通暁 セル モノ ヲ求 ムル コト ハ固 ヨリ 不可 能ノ コト ナレ ハ︑ 現在 ノ如 キ処 置ヲ 以テ シテ
︑法 律改 正ヲ ナス コト ハ到 底遂 ニ之 レヲ 遂ク ル能 ハス 云々 ト︒
﹁右 ノ伍 ノ談 話ハ 痛ク 袁ノ 心ヲ 動揺 セシ メタ リ︒ 於是 カ袁 ハ北 京政 府ニ 勧告 シテ
︑其 救済 ノ道 ヲ講 スベ シト 答 ヘ︑ 直チ ニ其 親密 ノ関 係ヲ 有ス ル左 侍郎 紹昌 及外 務部 右侍 郎唐 紹儀 ニ旨 ヲ通 シ︑ 溥尚 書及 沈侍 郎等 ニ対 シ刑 部ハ 宜シ ク国 家ノ 進運 ニ伴 フ必 要上 速カ ニ法 律学 堂ヲ 建設 シ︑ 日本 ヨリ 第一 流ノ 法律 大家 ヲ聘 シ︑ 学生 ヲシ テ完 全ナ ル教 育ヲ 受ケ シム 可シ トノ 忠言 ヲナ サシ メ同 時ニ
︑経 費ノ 幾分 ハ直 隷ノ 酒煙 税中 ヨリ 補助 スヘ キヲ 以テ シタ ルヨ リ︑ 議ハ 忽チ 決シ テ︑ 前後 無差 別ナ ル清 国官 吏ノ 事業 ハ極 端ナ ル大 組織 ヲ以 テ︑ 法律 学堂 ナル モノ ヲ刑 部ノ 直轄 事業 トシ テ建 設ス ル事 トナ シ
( )
タリ
︒﹂
そこ で︑ 袁世 凱の 支持 を取 り付 けた 伍廷 芳は 沈家 本の 賛同 を受 け︑ 修訂 法律 館が 正式 に始 動し たほ ぼ一 年後 の三 月に
︑二 人の 連名 で京 師法 律学 堂の 設立 を要 望す る旨 の奏 上を 行っ た︒ 上奏 文は まず
︑中 国と 世界 諸国 との 貿易 交流 およ び人 員の 往来 がま すま す頻 繁に なる に伴 い︑ 矛盾 と紛 争が 避け られ ない とし
︑各 級の 官吏 が外 国法 をわ きま える こと がで きな けれ ば︑ 中国 人と 外国 人と の紛 糾を 処理 する こと が
でき ない と指 摘し
︑新 政の 進行 にし たが い︑ 近代 的な 法を 整備 しな けれ ばな らな いと 強調 した
︒
﹁密 かに 臣等 は命 を奉 じ現 行の 律令 につ いて 外国 との 交渉 の進 捗状 況に 応じ て諸 国の 法律 を参 照し て真 剣に 修 正を 行っ てい ると ころ です
︒法 律修 訂館 が開 設さ れて 以来
︑昼 夜を 問わ ず編 纂者 及び 翻訳 者と 議論 しあ い︑ 新し い法 律が 制定 され たと して も︑ 各省 に法 律執 行の 人材 の育 成が 行わ れな けれ ば︑ 法律 の施 行が 自ず とで きる もの では ない ため に︑ 結果 的に は社 会の 為に なに もな らな いこ とを 懸念 して いま す︒ いま 各国 との 交流 が盛 んで
︑情 勢の 変化 が激 しい もの でご ざい ます
︒外 国人 は国 内の 各省 に入 り込 んで いま す︒ 庶民 と宣 教師 との 間に 衝突 が起 き︑ その 紛糾 が生 じる 初期 に︑ 多く の場 合は 地方 官吏 が外 国法 を知 らず
︑適 切な 処理 がで きな かっ たた め︑ 重大 な事 件に エス カレ ート して しま った 訳で あり ます
︒将 来︑ 各地 方に 鉄道 が開 通さ れた 場合 に︑ 内陸 地方 であ れ︑ 辺鄙 な地 方で あれ
︑通 商し てい る沿 海都 市と 区別 がな くな ると 思わ れま す︒ 道路
︑鉱 山︑ 商標
︑税 務な どと いっ た新 政は
︑方 法が 少し でも 違っ てい れば
︑直 ちに 非難 を受 け︑ 法律 を頼 りに せず 解決 でき るも のが 一つ もあ りま せん
︒こ のよ うに して
︑無 形の 憂い を無 くし
︑自 国の 権利 を伸 ばす こと は利 害に 関わ るも ので
︑些 細な 事で はあ りま せん
︒﹂ 次に
︑中 国当 面の 法学 教育 の立 ち遅 れと 人材 の欠 乏を 指摘 し︑ 明治 維新 後の 日本 で採 用し た手 法を 例に して
︑法 律学 校の 設立 およ び法 律人 材の 育成 の意 義を 強調 して 見せ た︒
﹁も っと も現 行法 を修 正す る目 的は
︑通 商条 約に した がい 治外 法権 を取 戻そ うと する こと であ りま す︒ 法律 の 施行 に備 え裁 判事 務の 人材 を広 く育 成す るよ う急 がな けれ ばな りま せん
︒調 べた とこ ろ︑ 学務 大臣 の奏 定学 堂章 程内 に政 法科 大学 が挙 げら れて いま すが
︑予 備科 や各 省の 高等 学堂 の卒 業生 でな けれ ば進 学が でき ない とな って いま す︒ いま
︑予 備科 は設 立さ れた ばか りで
︑専 門大 学が でき るま でに 道の りが まだ 長い
︒進 士︑ 仕学 等の 学校 では
︑目 的は 中外 の大 局を 知り
︑各 種の 政治 にお いて その 大要 をわ きま える 人材 を育 成す るこ とに あり
︑法 学は 普通 の科 目の 一つ に過 ぎず
︑そ この 学生 を外 国留 学に 派遣 する こと が難 しい と断 言で きま す︒ 法学 を習 い学 業を 修了 して 帰国 して いる 学生 も少 なく あり ませ んが
︑中 国の 事情 が分 から ない ばか りか
︑我 々と 相反 する 意見 を持 って いる もの が殆 どで あり ます
︒学 問を 行う には 本源 を分 かる のが 一番 重要 だと 思料 しま す︒ 諸外 国の 法の 優れ てい ると ころ と不 足す ると ころ につ いて は相 互に 比較 しな がら
︑真 剣か つ仔 細に 研究 しな けれ ばな りま せん
︒し かも
︑自 国の 法制 の沿 革及 び風 俗習 慣に つい ては さら に系 統的 に理 解し
︑そ の本 来の 意味 を知 らな けれ ばな りま せん
︒前 漢・ 後漢 時代 の経 師は 律令 に詳 しく
︑唐 代や 宋代 にお ける 科挙 試験 には 明法 とい う科 目が あり まし た︒ それ は古 代に おい て経 書を 援用 して 政治 を強 化す る象 徴と され てい まし たが
︑今 日は 内政 外交 を行 うキ ーポ イン トと なっ てい ます
︒国 を強 くし
︑庶 民に 利す るよ う法 律を 順調 に施 行す るた めに は︑ 専門 学校 を設 置し
︑多 くの 人材 を育 成し なけ れば なり ませ ん︒ 日本 では 明治 維新 の初 期に 速成 司法 学校 を設 立し
︑官 民を して 毎日 数時 間に 学校 に通 わせ
︑欧 米の 司法
︑行 政に 関す る知 識を 習わ せて いま した
︒昔 の学 生の 中に
︑現 在高 官を 務め てい るも のが 少な くあ りま せん
︒日 本の やり 方を 倣い
︑北 京で 法律 学校 を設 け︑ 試験 を通 して 各省 の吏 員か ら学 生を 募集 し︑ 学習 修了 後︑ 各地 に派 遣し て新 政の 遂行 の補 助︑ 地方 支配 に充 てら れる べき では ない でし ょう か︒ 学校 開設
の初 期に
︑し ばら くの 間に 臣等 が経 営し ます が︑ 新し い法 律が 公布 され たの ち︑ 勅旨 を仰 がせ 専門 管理 者を 派遣 して いた だき ます
︒﹂ 上記
の説 明と 主義 主張 を踏 まえ て︑ 上奏 文は 講義 の内 容︑ 科目 の設 置や 学校 の運 営経 費の 工面 及び 卒業 生の 使用 とい った 学校 経営 に関 する 具体 的な 方法 を提 示し た︒ すな わち
︑
﹁第 一は
︑カ リキ ュラ ムを 定め るこ とで あり ます
︒大 学堂 章程 を調 べた とこ ろ︑ 法律 学科 に設 置さ れて いる 科 目で は︑ 法律 原理 学︑ 大清 律例 要義
︑中 国歴 代の 刑律
︑中 国古 今歴 代法 制考
︑東 西各 国の 法制 比較
︑各 国の 憲法
︑ 各国 の民 法及 び民 事訴 訟法
︑各 国の 刑事 法及 び刑 事訴 訟法
︑各 国の 商法
︑交 渉法
︑西 洋諸 国法 は主 要科 目と され
︑ 各国 の行 政機 関学
︑全 国人 民の 財用 学︑ 国家 財政 学は 補助 科目 とさ れて おり
︑頗 る整 えて いま す︒ 本学 はそ れら の科 目を 参照 して 加減 を斟 酌し
︑そ れぞ れ国 内外 の教 員を 招き
︑講 義を 担当 して いた だき ます
︒た だ︑ 大学 堂章 程で は四 年で 卒業 する もの です が︑ 本学 は毎 日の 授業 の時 間を 増や して 三年 で卒 業さ せる よう にし たい と思 いま す︒ また
︑速 成科 を別 に設 置し
︑刑 法︑ 訴訟 法︑ 裁判 法等 を習 わせ
︑一 年半 で卒 業さ せよ うと 思い ます
︒ 第二 は︑ 経費 を調 達す るこ とで あり ます
︒教 室の 賃借 料︑ 教員 の給 与及 び書 籍・ 器具
・飲 食・ 雑用 とい った 経 常費 は節 約に 努め ても
︑毎 年恐 らく 銀貨 四万 両が 必要 だと 見込 まれ ます
︒国 の財 政事 情が 窮屈 して いる 現状 を鑑 み︑ 政府 から 費用 の交 付を 請求 せず に各 省の 総督
・巡 撫に よっ て調 達し ても らお うと 思い ます
︒お よそ 大規 模の 省で は三 千両
︑中 小規 模の 省で は二 千両 を集 金す れば 事業 が開 始で きる と思 われ ます
︒分 けて 工面 すれ ば少 なく
て済 むの で︑ 各省 にと って は大 して 難し いこ とで はな いで しょ う︒ この 学校 で修 了し た学 生は すべ て各 省に 配置 して 勤務 させ る予 定で す︒ いま
︑教 育費 用が 各地 方か ら調 達さ れた もの で︑ 卒業 生が 地方 へ配 置す ると いう やり 方は 筋が 通る ので あり まし ょう
︒た だ︑ 設立 経費 銀約 三万 両に つい ては 戸部
︵財 政部
︶か らの 交付 をお 願い した いと 思い ます
︒ 第三 は︑ 任用 を広 げる こと であ りま す︒ 最近
︑官 職へ の道 が難 しく なり
︑各 省の 官職 候補 者に は知 識を 持た な いも のが 数え きれ ない ほど いま す︒
︵研 修機 関の
︶課 吏館 が設 置さ れま した が︑ 総督
・巡 撫は 業務 処理 に忙 殺し
︑ 自ら 督促 指導 に取 り組 むこ とが でき ず︑ その 教育 は形 ばか りと なっ てし まい
︑重 要な 業務 が現 われ ると
︑本 省に は適 任の 人材 がい なく
︑他 省か ら採 用せ ざる を得 なく なっ てい ます
︒平 日で も人 材が 不足 する 問題 が存 在し てい るの で︑ 将来 新し い法 律が 公布 され た場 合に
︑人 材の 需要 がさ らに 高ま り︑ 法律 の趣 旨を わき まえ る者 が多 くい なけ れば 法律 の施 行が 難し くな りま す︒ 法律 の学 習者 は卒 業後
︑大 臣を 派遣 して 試験 を施 し︑ ラン クを 付け るよ うに しな けれ ばな りま せん
︒優 秀者 につ いて は吏 部に 推薦 して 皇帝 へ謁 見さ せ︑ 従来 の官 職等 級に 応じ て道 府︑ 直隷 州知 州︑ 知県 とし て勅 旨を 請っ て任 用し ます
︒も し︑ 学問 や身 につ けた 知識 を活 かす こと がで きれ ば︑ 当面 の政 治に も役 立つ であ りま し
( )
ょう
︒︶ なお
︑伍 廷芳
︑沈 家本 は新 しい 政治 の推 進に 備え る人 材を 育成 する ため に︑ 各省 の課 吏館 内に
﹁仕 学速 成科
﹂を 設け て︑ 四〇 歳以 下の
﹁候 補道 府︑ 佐雑
﹂の 官吏 及び 地元 の名 士か ら選 抜し て法 学の 学習 に通 わせ るこ とも 奏上
( )
した
︒
同年 三月 二〇 日︑ 清朝 廷軍 機処 は皇 帝か ら下 され た伍 廷芳 らの 上奏 文を さっ そく 学務 大臣 孫家 鼐に 下付 し︑ 対応 の措 置に つい て検 討を 命じ た︒ それ を受 けて 光緒 三一 年七 月三 日︵ 一九
〇五 年八 月三 日︶ 孫家 鼐は 回答 の上 奏文 を 提出 し︑ 法律 学校 の設 置に 関す る伍 廷芳 の主 張は
﹁当 面早 急に 成し 遂げ なけ れば なら ない 急務
﹂だ とし て︑ 詳し い 章程 を作 成す るよ う全 面的 に支 持を 表明
( )
した
︒こ のよ うに して
︑政 府の 許可 を受 け︑ 修訂 法律 大臣 は早 速﹁ 法律 学
堂章 程﹂ を制 定し
︑開 校の 準備 に取 り組 んだ
︒
﹁法 律学 堂章 程﹂ には
﹁設 学総 義章
﹂︵ 学校 の創 立趣 旨︶
︑﹁ 学科 程度 章﹂
︑﹁ 職務 規条 章﹂
︵職 務規 則︶
︑﹁ 学堂 試験 章﹂
︵試 験規 則︶
︑﹁ 寄宿 舎規 条章
﹂︵ 学生 寮規 則︶
︑﹁ 全堂 通行 規条 章﹂
︵全 学通 用規 則︶
︑﹁ 講堂 規条 章﹂
︵教 室規 則︶
︑
﹁運 動場 規条 章﹂
︵運 動場 規則
︶︑
﹁会 食堂 規条 章﹂
︵食 堂規 則︶
︑﹁ 礼儀 規条 章﹂
︵礼 儀規 則︶
︑﹁ 休暇 規条 章﹂
︵休 暇規 則︶
︑﹁ 学堂 禁令 章﹂
︵学 校禁 止規 則︶
︑﹁ 外部 訪問 者接 待規 条章
﹂︵ 外部 訪問 者の 対応 規則
︶︑
﹁図 書館 規条 章﹂
︵図 書 館規 則︶
︑﹁ 経費 規条 章﹂
︵経 費規 則︶
︑﹁ 督察 出入 規条 章﹂
︵監 督出 入規 則︶ など の規 則が 含ま れて いる
︒﹁ 設学 総義 章﹂ では
﹁す でに 官位 に着 いた 人員 が国 内外 の法 を学 修し
︑政 治知 識を 身に つけ
︑応 用に 活か すこ とを 目的 とし
︑ 裁判 の人 材を 育成 し速 効を 収め るこ とを 期す る﹂ と学 校の 目的 を裁 判人 材の 育成 に定 めら れて
( )
いる
︒
一年 以上 の準 備作 業を 経て
︑京 師法 律学 堂は 一九
〇六 年一
〇月 に正 式に 発足 した
︒清 朝廷 は一 九〇 六年 一〇 月二
〇日 に﹃ 図書 集成
﹄を 学校 成立 の記 念品 とし て贈 呈し
︑法 律学 堂の 成立 に祝 いを 表し た︒ この よう にし て司 法実 務 の人 材を 育成 する 法学 教育 が本 格的 に始 まっ たと いえ よう
︒
二 京師 法律 学堂 の組 織構 造 と教 育状 況 図
に示 され たよ うに
︑京 師法 律学 堂 は﹁ 管理 京師 法律 学堂 大臣
﹂に 任命 され た沈 家本 をは じめ
︑教 務提 調に は曹 汝霖
︑ 董康
︑文 案提 調に は許 受衡
︑王 儀通
︑庶 務提 調に は周 紹昌
︑監 学に は呉 尚廉
︑熙 楨︑ 張元 節︑ 林詒 喆な どが 委嘱 され
︑学 校の 運営 陣が 体制 を揃 った とい えよ う︒ また
︑教 員も 錚々 たる 顔ぶ れが 見ら れ︑ 開校 とと もに 赴任 して いた 日本 人教 員岡 田朝 太郎
︑松 岡義 正以 外に
︑ほ とん ど国 内の 一流 学者 と官 僚で あっ た︒ その 中に 吉同 鈞︑ 姚大 栄︑ 朱汝 珍︑ 銭承 志︑ 陳威
︑ 陸宗 輿︑ 嵆鏡
︑汪 有齢
︑江 庸︑ 張孝 栘︑
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注:筆者が「修訂法律大臣訂定法律学堂章程」と「法律学堂同学 録》に基づいて作成。
図ઃ 京師法律学堂の組織構造図
高種
︑熊 垓︑ 廉隅
︑汪 曦芝
︑薛 錫成
︑馬 徳潤
︑呂 列煌
︑何 廷式
︑な どの 名前 が並 んで
( )
いる
︒
その 中に
︑吉 同鈞 は有 名な 刑法 学者 で︑ 陸宗 輿︑ 江庸 など はそ の後 当時 の政 府大 臣ま で抜 擢さ れた 人物 で
( )
ある
︒
教職 員の 中に
︑許 受衡
︑周 紹昌
︑呉 尚廉
︑張 元節
︑林 詒喆
︑姚 大栄
︑陳 威︑ 薛錫 成︑ 馬徳 潤︑ 呂列 煌諸 氏が 日本 留 学ま たは 日本 視察 の経 験が あっ たか どう か確 認で きな いほ かは
︑す べて 日本 留学 また は日 本視 察の 経験 者で ある
︒ なお
︑教 職員 の半 数以 上は 修訂 法律 館の 職員 でも ある
︒ 京師 法律 学堂 の学 生は
︑三 年で 修了 する
﹁正 科﹂ と一 年半 で修 了す る﹁ 速成 科﹂ と分 けら れ︑ それ ぞれ の学 習科 目が 異な って いる
︒﹁ 学科 程度 章﹂ で定 めら れた
﹁正 科﹂ は履 修科 目が 下記 の通 りと なっ てい る︒ 第一 年に は︑ 大 清律 例及 び唐 明律
︑現 行法 制及 び歴 代法 制沿 革︑ 法学 通論
︑経 済通 論︑ 国法 学︑ ロー マ法
︑民 法︑ 刑法
︑外 国語
︑ 体操
︑第 二年 には
︑憲 法︑ 刑法
︑民 法︑ 商法
︑民 事訴 訟法
︑刑 事訴 訟法
︑裁 判所 編成 法︑ 国際 公法
︑行 政法
︑監 獄 学︑ 訴訟 実習
︑外 国語
︑体 操︑ 第三 年に は︑ 民法
︑商 法︑ 大清 公司 律︑ 大清 破産 律︑ 民事 訴訟 法︑ 刑事 訴訟 法︑ 国 際私 法︑ 行政 法︑ 財政 通論
︑訴 訟実 習︑ 外国 語︑ 体操 など が設 けら れて いる
︒一 週間 の授 業時 間は 三六 時間 とな っ て
( )
いる
︒表 は その 科目 と週 間の 授業 時間 数を 示し たも ので ある
︒ 一 10
学期 の講 義時 間を 一五 週間 とす るな らば
︑表 に 掲載 され た各 科目 の全 授業 時間 数は 表 に示 され た通 りで あ る︒ 表 の授 業時 間数 から 分か るよ うに
︑外 国語 が一 番重 要視 され てい る︒ 殆ど の新 しい 法律 は日 本人 顧問 によ って 日本 法を 参考 に起 草さ れる もの なの で︑ 外国 語と は基 本的 に日 本語 と同 義語 であ ろう
︒次 に重 視さ れて いる のは 訴 訟実 習︵ 三〇
〇時 間︶
︑民 事訴 訟法
︵三
〇〇 時間
︶︑ 民法
︵三
〇〇 時間
︶︑ 刑法
︵二 八五 時間
︶の 勉強 であ る︒ 裁判
官の 養成 とい う目 標に 合致 する カ リキ ュラ ムの 組み 合わ せと いえ よ う︒ それ に対 し︑
﹁速 成科
﹂で は大 清律 例︑ 唐明 律︑ 現行 法制 及び 歴 代法 制の 沿革
︑法 学通 論︑ 憲法 大 意︑ 刑法
︑民 法要 論︑ 商法 要論
︑ 大清 公司 律︑ 大清 破産 律︑ 民事 訴 訟法
︑裁 判所 構成 法︑ 国際 法︑ 監 獄法
︑訴 訟実 習な ど一 四科 目の 講 義が 設置 され た︒ しか し︑ その 当 時の 清朝 には 大清 律例
︑唐 明律
︑ 現行 法制 及び 歴代 法制 の沿 革以 外 の科 目で 教え る法 律が まだ 制定 さ れて いな かっ た︒ した がっ て︑ こ の教 育課 程で 大き な役 割を 果た し たの は日 本か ら招 聘さ れた 法律 教
表ઃ 京師法律学堂の講義科目と週間の授業時間数
第三学年
週間 の授 業時 間数
科目名 科目名
週間 の授 業時 間数
上半期 下半期
第一学年
科目名 週間 の授 業時 間数
科目名
上半期 下半期 上半期 下半期
第二学年
民法 4 民法 3 刑法 3 憲法 大清律例 3
及び唐明律 大清律例 4
及び唐明律
週間 の授 業時 間数
科目名 週間 の授 業時 間数
科目名 週間 の授 業時 間数
法学通論 6
法学通論
4 商法 2 商法 4 民法 4 刑法 3 現行法制 及び歴代の
法制沿革 4
現行法制 及び歴代の
法制沿革
4
民事 3 訴訟法 商法
4 経済通論 4
経済通論
大清 2 2 破産律 大清
3 公司律 商法
4 民法 4
国際私法 刑事 2
3 訴訟法 刑事
4 訴訟法 民事
4 訴訟法 国法学
4 国法学
民事 6 4 訴訟法 民事
6 訴訟法
民法 6 刑法
4 財政通論 3
行政法 2 国際公法 刑事 4
2 訴訟法 ローマ法
2 ローマ法
4
監獄法 2 国際公法 6
刑法 4 外国語
6 訴訟実習 3
国際私法 2
行政法 裁判所 2
4 編制法
体操 6 訴訟実習 4
訴訟実習 4
訴訟実習 4
外国語 2
体操
4 外国語 3 財政通論 3
卒業論文 4
外国語 4 外国語 4 外国語 2 体操
2
小計 36 小計 36 小計 36 小計
2 体操 2 体操 2 体操
36 小計 36 小計 36
出典:上海商務印書館編訳所 編纂『点校本 大清新法令 1901〜1911』(第三巻)商 務印書館、2011年月、第393〜395課程表に基づいて作成。第三学年の上半期の週間の 授業時間数は36となっているが、どれかの科目が間違った数字が付いていると考えられ る。
習た ちで ある こと が想 像に 難く ない 京 ︒ 師法 律学 堂の 設立 の目 標は 新し い法 律に 詳し い裁 判官
︑検 察官
︑弁 護士 とい った 法曹 関係 者を 育成 する こと にあ る︒ した がっ て︑ 短い 数年 間で 社会 に必 要と され る有 用な 司法 人材 が育 成さ れう るか どう かは 合理 的な カリ キュ ラム の設 計︑ 優秀 な教 員の 選任 がで きる かど うか にか かわ るの みで なく
︑学 生の 募集 にも 大き く関 連す ると 考え られ る︒ とこ ろが
︑ど のよ うな 人間 がど んな 選抜 方法 を通 して 京師 法律 学堂 で勉 強し てい たの だろ うか
︒こ れに つい て︑ 京師 法律
表 京師法律学堂の講義科目と授業時間の總数
60 大清律例及び唐明律
第三学年
60 120
上半期 下半期第一学年 合計
科目名
45 現行法制及び歴代 60
の法制沿革
上半期 下半期 上半期 下半期 第二学年
60 60 経済通論
150 60
90 法学通論
105
30 30 ローマ法
120 60
60 国法学
120
60 60 60 60 60 民法
285 45
60 90 90 刑法
60
60 30 45 商法
90 45
45 憲法
300
90 60 90 60 民事訴訟法
135 30
45 60 刑事訴訟法
135
30 30 国際公法
30 30
裁判所編制法
300
45 30 行政法
105 60
45 国際私法
60
30 大清破産律
30 30
大清公司律
75
45 45 財政通論
300 90
90 60 60 訴訟実習
30
60 60 60 60 60 60 外国語
45 45
監獄法
90
180 30
30 30 30 30 30 体操
360
学堂 が編 集し た第 一期 生の 名簿 から その 概況 を窺 うこ とが でき る︒
﹃法 律学 堂同 学録
﹄と 名付 けら れた 名簿 は縦 二五
〇ミ リ︑ 横一 四五 ミリ
︑二
〇頁 にす ぎな い小 冊子 であ る︒ 名簿 は教 職員 名簿 と学 生名 簿の 二項 目を 設け
︑前 者は
﹁管 理大 臣︑ 提調
︑監 学︑ 監理 員お よび 教員
﹂の 氏名 を掲 載し
︑ 後者 は学 生の 氏名 を掲 載し てい る︒ 名簿 には 二三 二名 の学 生を 収録 し︑ 氏名 以外 に﹁ 字﹂
︑﹁ 年齢
﹂︑
﹁出 生地
﹂︑
﹁略 歴﹂
︑﹁ 住所
﹂も 記載 され て
( )
いる
︒
11
この 名簿 に掲 載さ れて いる 学生 の情 報か ら京 師法 律学 堂の 第一 期生 の構 成お よび 転換 期に おけ る中 国の 法律 学教 育の 現実 を知 るこ とが でき る︒ 学生 たち の情 報を 分析 した とこ ろ︑ 次の よう な特 徴が 見ら れる
︒ま ず︑ 学生 の年 齢 はバ ラバ ラで
︑最 年少 者は 一八 歳︑ 最年 長者 は五 三歳 とな って おり
︑後 者は ほぼ 前者 の父 親と 同じ くら いの 世代 で ある
︒そ の中 で︑ 一番 多い のは 三〇
~三 九歳 の三
〇代 で︑ 全部 で一 一四 人︑ 全体 の四 九・ 一四
%を 占め てい る︒ そ の次 に多 いの は二
〇~ 二九 歳の 二〇 代で
︑六 七人
︑二 八・ 八九
%を 占め てい る︒ 三番 目に 多い のは 四〇
~四 九歳 の 四〇 代で
︑二 五人
︑一
〇・ 七六
%を 占め てい る︒ 一八
~一 九歳 の学 生は 四人 しか なく
︑五
〇代 も二 人︵ 五二 歳一 人︑ 五三 歳一 人︶ にす ぎな かっ た︒ 次に 学歴 の面 では 旧科 挙試 験の 合格 者が 多く
︑擧 人出 身者 は八 一人
︑進 士出 身者 は 六人 で全 学生 の三 七・ 五% を占 めて いる
︒最 後に
︑官 職の 任用 を待 って いる 中下 級官 吏が 殆ど で︑ その うち 地方 の 県知 事の 待機 者と 中央 官庁 の主 事︵ 現在 の課 長級 相当
︶が 最も 多か った
︒官 品の 一番 高い のは 長齢 とい う男 で︑ 四 品叙 され てい る︒ 官職 の一 番高 いの は法 部︵ 司法 省相 当︶ の郎 中︵ 現在 の局 長級 相当
︶を 務め てい た李 懿徳 であ る︒ 以上 は京 師法 律学 堂の 第一 期生 の概 要で ある
︒し かし
︑京 師法 律学 堂は 全部 で﹁ 一期 生の 甲班 と二 期生 の乙 班を 募集 し︑ 丙班 を募 集し たと ころ で京 師法 政学 堂と 合併
( )
した
﹂と のこ とで
︑乙 班と 丙班 はど れぐ らい 募集 した か資 料
12
がな く把 握さ れて いな いが
︑五
〇〇 人説
︵呉 朋寿
︶︑ 六〇
〇人 説︵ 小河
︶︑ 八〇
〇人 説︵ 塩田
︶︑ 一〇
〇〇 人近 い
︵趙 暁耕 李暁 暉︶ など の諸 説が ある 中で
︑一
〇〇
〇人 近い 数字 が事 実に 近い ので はな いか と思 わ
( )
れる
︒
13
学生 の募 集︑ 選抜 につ いて はど のよ うに 行わ れた かよ く判 明さ れて いな いが
︑京 師法 律学 堂の 司法 実務 者の 育成 の趣 旨を みれ ば︑ 殆ど の学 生は 各官 庁か らの 推薦 によ って 進学 した 可能 性が 高い と考 えら れる
︒同 学校 で監 獄班 の 教育 を担 当し た小 河滋 次郎 の文 章は それ を裏 付け てい る︒
﹁法 律学 堂と 云ふ のは 光緒 三二 年︵ 明治 四〇 年│ 原文 のま ま︶ に立 てら れた もの で独 立し て何 れに も属 して 居 らぬ
︒予 が教 鞭を 執っ て居 たの は即 ち此 学堂 で︑ 岡田
︑志 田︑ 松岡
︑岩 井︑ 中村 等の 諸氏 も亦 此所 に居 る︒ 此所 には 現在 約六 百名 程の 生徒 を有 し︑ 既に 速成 班︑ 即ち 一年 半程 教育 した 生徒 と︑ 完全 班と 称し て︑ 三年 間教 育を 施し た生 徒と 前後 二回 の卒 業生 を出 して 居る
︒
﹁予 が受 持っ て居 た学 生は 普通 の生 徒と は異 なっ て︑ 予が 教育 を受 けし めん が為 に特 に監 獄班 と云 ふも のに 各 地方 から 募集 した 特別 の生 徒で ある 此監 獄班 は表 面法 部即 ち司 法省 から 法律 学堂 に委 託し た形 にな って ある が︑ 実際 は矢 張り 法律 学堂 の経 営に 一任 せら れ︑ 法部 とは 殆ど 何等 の交 渉を も持 て居 らぬ
︒其 監獄 班の 生徒 が総 計約 百二 十人
︑多 くは 法部 の官 吏或 は大 理院 其他 の裁 判所 に籍 を有 して 居る 人々 から 選抜 した もの で︑ 畢業 の上 は監 獄の 官吏 とし て実 務の 衝に 当ら しむ る筈 で
( )
ある
︒﹂
14
京師 法律 学堂 の講 義お よび 学生 の勉 強の あり 方は どう であ った ろう か︒ その 講義 ぶり につ いて は︑ 聴講 した 学生
によ って 書き 残し たも のが あま りな く︑ 実態 は良 く分 から ない
︒京 師法 律学 堂で 学習 した こと があ り︑ 一九 一二 年 夏に 合併 後の 京師 法政 学堂 一級 正科 法律 班で 卒業 した 呉朋 壽が その 当時 の状 況に つい て思 い出 を書 いた こと があ る が︑ 法律 学堂 に対 して は批 判的 な口 調で 記し
︑日 本人 教習 の講 義に つい ては 殆ど 言及 して いな い︒ むし ろ︑ 京師 法律 学堂 の講 義の 風景 をよ く伝 えて くれ たの は︑ 当時 東京 大学 法科 大学 の教 員を 務め てい た塩 田環 が書 き残 した
﹁北 京見 聞録
﹂で あろ う︒ 彼は 一九
〇八 年春
︵三 月か と思 われ る︶ に中 国と 韓国 を旅 行し
︑中 国の 法 律教 育の 現状 を視 察し た︒ 帰国 後︑
﹁北 京見 聞録
﹂と 題す る文 章を 作成 し︑ 北京 にお ける 法律 教育 及び 宗教 事情 の 見聞 を公 にし た︒ この 見聞 録か ら日 本人 教習 の活 動ぶ りを 窺う こと がで きる
︒彼 は言 う︒
﹁余 ハ一 日北 京ノ 城西 ニ岡 田博 士ヲ 訪ヒ テ京 師法 律学 堂ヲ 参観 シタ リ︒ 学堂 ノ面 積約 五百 坪︑ 建物 ハ凡 テ西 洋 建二 階ニ シテ 大小 ノ講 堂四 アリ
︒会 議室 編査 室教 員室 図書 室等 ノ設 備又 存ス
︒一 講室 ニ入 レバ 岩井 学士 戦時 国際 法ヲ 講ゼ ラル ルア リ︒ 二百 ノ生 徒机 ニ凭 リテ 講本 ヲ繙 キ︑ 通訳 ノ口 ヲ動 カス 秋ニ 至テ 始メ テ眼 ヲ書 ニ移 シ或 ハ考 思ス ルア リ或 ハ記 入ス ルア リ︒ 而モ 半バ ハ無 意識 ニ席 ヲ占 メタ リト イフ モノ ノ如 シ︒ 転ジ テ大 講堂 ニ至 ル︑ 四百 ノ生 徒頻 リニ 松岡 学士 ノ民 法講 義ヲ 筆記 シツ ツあ り︒ 而モ 其態 度ハ 尚前 者ト 異ル 所ナ シ︒ 竊カ ニ其 所以 ヲ訊 スニ
︑ 学堂 監督 ハ常 ニ毎 時間 出缺 簿ヲ 拉シ テ出 缺ヲ 点検 シ欠 席者 ハ其 得点 ヲ減 少セ ラル ガ為 メ︑ 彼等 学生 ハ強 制的 ニ出 校ス ルナ リ︒ 従テ 出校 ハ単 ニ其 義務 ニ過 ギズ
︑多 クハ 学問 ノ研 究ヲ 問ハ ズシ テ学 籍ヲ 有ス ルヲ 誇ト スル ノミ
︒素 ヨリ 全部 斯ノ 如キ モノ ヲ以 テ充 サル ルニ 非ズ
︒中 ニハ 極メ テ真 摯着 実ニ 研学 ヲ積 ムモ ノア リ︒ 試験 ノ答 案間 々教 授ヲ 驚カ スモ ノア リト イフ
︒唯 概観 スレ バ法 律ノ 名ヲ 喜ン デ実 ヲ顧 ミザ ルノ 徒半 バニ 居ル ヲ聞 キ︑ 顧ミ テ我 学界
ノ現 状ニ 比シ 其相 似タ ル弱 点ノ 不幸 ナル コト ヲ
( )
悲ム
︒﹂
15
塩田 の文 章か ら京 師法 律学 堂の 教育 の事 情が 窺わ れる
︒ま ず︑ 一つ のク ラス には 履修 者が 多く
︑二
〇〇 人~ 四〇
〇人 にも 上り
︑教 育の 効果 が推 して わか る︒ 次に
︑学 生は 日本 語が 分か らず
︑日 本人 教員 は中 国語 が語 れな いた め︑ 講義 は通 訳を 介し て行 なわ なけ れば なら なか った
︒し たが って
︑講 義の 内容 がど れぐ らい 正し く学 生に 伝わ った か は判 明し ない
︒第 三に
︑学 生は 出欠 の取 締り が厳 しか った ため
︑講 義に こそ 出る もの の︑ 意欲 的に 法学 の勉 強に 熱 心に 取り 組ん でい たの はや や半 分ぐ らい しか なか った と︑ 塩田 が観 察し てい た︒ ただ 中に も試 験成 績が 教員 を驚 か せた 者も いた よう であ る︒ 塩田 の観 察で 得た 結果 と比 べれ ば︑ 小河 は自 分が 教え た学 生に 対し 満足 して いた 模様 であ る︒
﹁学 生の 教育 程度 年齢 等は 非常 に不 同で
︑中 には 高級 の官 吏も 居り
︑従 って 年も 相応 に長 じ︑ 学識 経験 にも 富 んだ のが 少な から ぬ︒ 一方 には 年も 若く 未だ 完全 の学 歴を 有っ て居 らぬ と云 ふ人 も交 って 居る
︒然 し学 生の 多く は非 常に 趣味 を有 って 熱心 に勉 強し たも ので ある から
︑数 回に 行っ た試 験の 結果 も︑ 概し て優 秀の 成績 を挙 ぐる こと が出 来て
︑余 は勿 論︑ 学校 当局 も亦 大に 満足 した 次第 で
( )
ある
︒﹂ と︒
16
しか し︑ 修訂 法律 館の 付属 学校 の形 で開 校し た京 師法 律学 堂は その 状態 を一 年し か維 持し なか った 模様 であ る︒
﹁然 れど も教 育事 業を 以て 独立 せし めざ るは 其本 旨ニ 叶わ ざる もの ある を以 て昨 光緒 三三 年九 月三
〇日 を以 て 京師 法律 学堂 の独 立を 見る に至 り法 部直 轄と して 毎年 一〇 万両 の特 別会 計の 下に 愈々 其事 務を 拡張 する こと とな
( )
れり
﹂ と 17
ある よう に︑ 翌年 から
︑法 律学 堂は 修訂 法律 館の 直轄 から 法部 の管 轄と 変わ った
︒ そし て︑ 京師 法律 学堂 が開 設さ れた 同じ 年︑ すな わち 光緒 三二 年一 二月 二〇 日︵ 一九
〇七 年二 月二 日︶ に︑ 学部
︵教 育省
︶は 京師 法政 学堂 の開 設の 上奏 文及 び学 堂章 程を 呈出 し︑ 勅旨 によ り許 可を 受け た︒ 光緒 三三 年︑ 京師 法 政学 堂は 京師 法律 学堂 より 一年 遅れ て正 式に 開校 する こと にな った
︒こ のよ うに して
︑北 京に は京 師法 律学 堂と 京 師法 政学 堂と いう 法律 の専 門教 育機 関が 二校 も開 設さ れる 運び とな った
︒財 政が 逼迫 し︑ 法律 教員 も不 足し てい た その 時期 に︑ 法律 に関 する 専門 教育 機関 を二 校も 経営 する こと には 無理 があ った ろう
︒
﹁京 師法 政学 堂章 程﹂ によ れば
︑こ の学 堂は 学制 を五 年と して おり
︑最 初の 二年 は予 科︵ 予備 科︶ とし
︑後 の三 年は 正科 とす る︒ 正科 には 政治 門︵ 専攻
︶と 法律 門︵ 専攻
︶に 分け
︑予 科の 学修 が修 了し
︑正 科に 進学 した 後に 専 攻を 選ん で学 修す るこ とと なっ てい る︒ 同時 に︑ 政治 家を 育成 する ため に︑ 三年 制の 別科 が設 けら れて いる
︒ま た︑ 各中 央機 関に 就職 した 新入 職員 の研 修及 び整 理さ れた 職員 の再 学習 のた めに
︑講 習科 も設 置さ れ︑ 学習 の時 間は 一 年半 とさ れて いる
︒予 備科 の入 学者 の年 齢は 二〇
~二 五歳 以下
︑別 科の 入学 者の 年齢 は三 五歳 以下 とさ れて いた
︒ そし て︑ 予備 科と 別科 の定 員は それ ぞれ 二〇
〇人 と一
〇〇 人で
( )
ある
︒
18
この 二校 の相 違や 特徴 及び その 後の 変遷 につ いて
︑京 師法 政学 堂の 開校 年に 入学 し︑ 一九 一二 年に 卒業 した 同校 のO Bで ある 呉朋 寿は 次の よう な思 い出 を書 いた ので
︑そ れを 引用 して おき たい
︒
﹁京 師法 律学 堂は 計甲 乙二 班を 募集 し︑ 修了 者は 約五
〇〇 人で ある
︒京 師法 政学 堂は 一九
〇七 年に まず 別科 と 予備 科の 二科 を開 設し
︑以 後毎 年別 科と 予備 科の 学生 を募 集し てい た︒ 別科 は三 年で 修了 し︑ 京師 法律 学堂 の程 度に 近い
︒予 備科 は二 年で 修了 した のち 正科 に進 学し
︑三 年で 修了 する
︒一 九〇 七年 から 一九 一二 年に かけ て約 三〇
〇人 の修 了者 が送 り出 され た︒ 京師 法政 学堂 で設 置さ れた 科目 は人 倫道 徳が 重視 され
︑体 育の 科目 も設 けら れて いた
︒正 科は 直接 日本 語で 聴講 し︑ 学生 寮が 付い てい た︒ これ は京 師法 律学 堂と 違う とこ ろで ある
︒京 師法 律学 堂は 丙班 を募 集し て間 もな く閉 鎖さ れ︑ 学生 は京 師法 政学 堂に 吸収 され た︒ 同時 に財 政部 所属 の財 政学 堂の 学生 も吸 収さ れた ので ある
︒一 九一 二年
︑京 師法 政学 堂は 北京 法政 専門 学校 に名 称変 更し
︑政 治︑ 法律
︑経 済の 三科 に分 けら れた
︒こ れを もっ て京 師法 政学 堂は 終結 を遂 げた こと に
( )
なる
︒﹂
19
従来
︑法 律修 訂館 に法 律学 堂を 設け るこ とは 新し い法 体制 が整 備さ れた とき
︑法 の施 行が スム ーズ に行 われ るた めの 人材 育成 に目 的を 置い てい た︒ 法律 修訂 館の 業務 は旧 法の 見直 しと 新法 の編 纂で あり
︑教 育で はな かっ た︒ し たが って
︑京 師法 政学 堂が 開校 され るに 伴い
︑京 師法 律学 堂の 存続 が問 われ てい たと 考え られ る︒ 上記 の説 明で 示 され たよ うに
︑京 師法 律学 堂が 第三 期生 の募 集が 終わ った とこ ろで
︑す なわ ちわ ずか 三年 間の 足跡 を残 して 一九
〇 八年 に京 師法 政学 堂に 吸収 され たこ とに なる
︒
京師 法律 学堂 およ び学 生た ちが 中国 社会 に対 しい かな る貢 献を した ので あろ うか
︒こ のこ とに つい て︑ 同校 の存 立時 間が 短く
︑法 整備 事業 も辛 亥革 命に よっ て挫 折さ せら れた ため
︑正 しい 評価 を下 すの は難 しい かも しれ ない
︒ ただ
︑趙 暁耕
︑李 暁暉 が次 のよ うに 評価 して いる
︒﹁ 京師 法律 学堂 の創 立に よっ て夥 しい 人材 が育 成さ れ︑ 中国 法 制の 整備 にあ る程 度の 貢献 をし てい た︒ その 学校 で教 育を 受け た人 材は その 後の 政治 や法 整備 活動 に大 きな 役割 を 果た した
︒た とえ ば︑ 一九 一〇 年冬 に法 律学 堂を 修了 した 熊煜
︑王 克忠 らが 北京 法学 会を 創立 し︑ さら に一 九一 一 年に 政法 研究 所を 設立 した
︒京 師法 律学 堂の 設立 に刺 激さ れて
︑全 国で 法律 を学 習す るブ ーム が巻 き起 こさ れ︑ 法 律学 堂は 各省 で雨 後の 竹の 子の よう に相 次い で設 立さ れる よう にな った
︒そ のう ちに
︑袁 世凱 が創 立し た北 洋法 政 学堂 等が 良く 知ら れ︑ 法知 識の 普及
︑法 思想 の変 革が 促さ れた
︒そ れ以 来中 国の 法学 教育 は斬 新な 段階 に入
( )
った
︒﹂
20
また
︑李 貴連 の紹 介に よれ ば︑ 北京 法学 会は 沈家 本か ら大 きな 支持 を受 けた
︒沈 は自 ら法 学会 の初 代会 長ま で務 め た︒ 北京 法学 会は
﹃法 学会 雑誌
﹄と いう 研究 誌を 創刊 し︑ 近代 的法 学の 宣伝 のた めに ある べき 貢献 をし てい たと
( )
いう
︒ そ 21
のほ かに さら に取 り上 げて おか なけ れば なら ない のは
︑京 師法 律学 堂の 教員 を担 当し
︑同 時に 北京 法学 会の 会 員で もあ る汪 有齢 が法 学会 の会 員と 手を 組ん で合 資で 私立 朝陽 大学 を創 立し たこ とで ある
︒同 大学 は中 華民 国が 樹 立さ れた 一九 一二 年に 創立 され たも ので
︑法 学の 研究 を重 視し
︑学 校の 管理 が厳 しい こと で有 名で あっ た︒ この 大 学に は日 本人 法学 学者 岡田 朝太 郎︑ 巌谷
藏︑ 中国 人の 民法 学者 余棨 昌︑ 民事 訴訟 法学 者石 志泉
︑著 名な 弁護 士・ 荪 社会 活動 家江 庸︑ ロー マ法 学者 黄右 昌と いっ た内 外の 著名 な学 者が 招聘 され 教育 にあ たっ てい た︒ した がっ て︑ こ の大 学か ら数 多く の優 秀な 学生 が送 り出 され
︑歴 年の 高等 文官 試験 並び に司 法官 試験 を受 けた 同大 学出 身の 受験 者
は常 に高 い合 格率 を維 持し
︑試 験成 績も 高い 順位 を占 めて いた
︒そ のた めに
︑同 大学 は当 時の 教育 部と 司法 部か ら 褒賞 を何 回も 受賞 して いた
︒朝 陽大 学で 教鞭 をと って いた 陶希 聖が
﹁朝 陽大 学二 三事
﹂を 著し
︑﹁ 中国 の法 学お よ び司 法界 にお いて
︑朝 陽大 学出 身者 は第 一流
︑ま たは 主流 を占 めて いる
︒法 学教 育の 歴史 上で は朝 陽大 学は 首位 を 占め るべ きで ある
﹂と 高く 評価 して
( )
いた
︒そ の当 時︑ 法学 界で は﹁ 南東 呉︑ 北朝 陽﹂
︵南 方に は東 呉大 学が あり
︑
22
北方 には 朝陽 大学 があ ると の意
︶お よび
﹁無 朝不 成院
﹂︵ 朝陽 大学 の卒 業生 がい なけ れば 裁判 所が 成り 立た ない と の意 味︶ との 説さ えあ
( )
った
︒一 九四 九年 八月 五日
︑朝 陽大 学は 中国 共産 党に 接収 され
︑中 国政 法大 学と 改名 され た︒
23
さら に︑ 一九 五〇 年二 月︑ 共産 党が 直接 に創 立し た華 北大 学を 基盤 に中 国政 法大 学を 吸収 して 中国 人民 大学 とし て 再出 発し た︒ それ 以来
︑朝 陽大 学の 法学 教育 は人 民大 学に 継が れ︑ その 後挫 折等 も遭 わさ れた が︑ 朝陽 大学 の法 学 研究 の伝 統は 依然 とし て中 国人 民大 学に よっ て継 承さ れる こと にな った
︒ 上記 の経 緯を 踏ま え︑ 京師 法律 学堂 の最 大の 貢献 は︑ その 教員 たち と学 生が 私立 朝陽 大学 とい う中 国の 法学 教育 史上 で大 きな 足跡 を残 した 教育 機関 の創 立に 加わ った こと かも しれ ない
︒ 三
京師 法律 学堂 にお ける 日本 人教 員の 教育 状況 修訂
法律 館は 法律 学堂 の開 校の 準備 と同 時に
︑日 本か ら法 学教 員の 招聘 に努 めて いた
︒最 初に 招聘 を受 け︑ 学堂 の開 校と ほぼ 同時 に中 国に 赴任 した のは 刑法 学者 の岡 田朝 太郎 と裁 判官 兼民 法学 者の 松岡 義正 の二 人で ある
︒そ の 後ま もな く︑ 監獄 事務 官の 小河 滋次 郎と 商法 学者 の志 田鉀 太郎 諸氏 も招 聘を 受け 中国 に赴 任し た︒ 彼ら を招 聘す る
契約 の内 容か ら明 らか に示 され たよ うに
︑岡 田ら 四人 に与 えら れた 仕事 は京 師法 律学 堂で 法学 や法 律等 の講 義を 担当 する こと と︑ 修訂 法律 館で 法律 案の 調査 と起 案を 担当 する こと であ る︒ しか し︑ 前述 した 京師 法律 学堂 のカ リキ ュラ ムを 見れ ば︑ 法律 学堂 で開 講予 定の 専門 法律 課程 は殆 ど中 国で まだ 起草
︑公 布さ れて いな い法 律で あっ たこ とが 分か る︒ この よう な背 景の 下に
︑専 門法 律科 目の 講義 を担 当す る日 本人 教員 が講 義に 使わ れる 教材 は日 本の 現行 法︑ 日本 国内 で使 用さ れて いる 法学 教科 書な いし 中国 のた めに 起草 に取 り掛 かっ てい る法 律案 を頼 りに しな けれ ばな らな かっ た︒ これ は︑ 中国 の近 代的 法学 教育 が全 面的 に大 陸法 系に 傾い てし まっ た最 も重 要な 原因 では ない かと 考え られ る︒ 具体 的な 分析 につ いて は後 日に 譲る が︑ 表 が法 律学 堂の 日本 人教 員が 担当 した 科目 の一 覧で ある
︒ 表 で判 明さ れた よう に教 員六 人中 に担 当の 講義 科目 数が 一番 多か っ たの は岡 田朝 太郎 で︑ 法学 通論
︑憲 法学
︑行 政法
︑刑 法総 則︑ 刑法 分則
︑ 裁判 所構 成法
︑刑 事訴 訟法
︑法 院編 制法
︑計 八つ も担 当し てい た︒ 次は 松岡 義正 で︑ かれ が担 当し たの は民 法総 則︑ 物権 法︑ 債権 法︑ 親族 法︑ 相続 法︑ 民事 訴訟 法︑ 破産 法の 計八 科目 であ るが
︑親 族法 と相 続法 は中
表અ 日本人教員の分担した講義科目
出典:筆者が関係史料に基づいて作成
同上 国際法、国法学
松岡 義正 岩井 尊文
民法総則、物権法、債権法、親族法、 同上
相続法、民事訴訟法、破産法、 京師大学堂
京師法律学堂
(京師法政学堂) 岡田朝太郎 法学通論、憲法学、行政法、刑法総
則、刑法分則、裁判所構成法、刑事
訴訟法、法院編制法 京師大学堂
分担した講義名 主な講義場所 兼職した場所 氏名
不明 同上
不明 中村 襄
不明 商法、会社法、船舶法、有価証券法、 同上
志田鉀太郎 国際私法
京師大学堂 同上
監獄学、監獄法 小河滋次郎
不明
国語 に翻 訳し た講 義の 内容 から みれ ば︑ わず か言 及し た程 度で
︑一 科目 とし て計 上さ れる のは やや 無理 のよ うで あ る︒ その 後は 志田 鉀太 郎︑ 小河 滋次 郎︑ 岩井 尊文 の順 とな って いる
︒ これ らの 日本 人教 員は 漢文 の造 詣が 深い が︑ 直接 に中 国語 で講 義を 行う こと がで きな かっ た模 様で ある
︒従 って 彼ら の講 義は 通訳 を媒 介に しな けれ ばな らな かっ た︒ この こと は塩 田の 文章 によ って 裏付 けら れて いる
︒
﹁法 律学 堂ニ 於テ 学生 ガ研 究ス ベキ 課目 ハ民 法商 法刑 法刑 事訴 訟法 民事 訴訟 法監 獄学 及国 際法 ナリ
︒之 等ノ 課 目中 現在 ニ於 テ尚 開講 セラ レザ ルモ ノア リト 雖モ 是レ 学堂 ガ設 立後 未ダ 二星 霜ヲ 経ザ ル今 日ニ 在テ ハ止 ムヲ 得ザ ルナ リ︒ 講師 ハ日 本人 ニシ テ岡 田博 士ハ 刑法 及刑 事訴 訟法 ヲ松 岡学 士ハ 民法 及民 事訴 訟法 ヲ岩 井学 士ハ 国際 法ヲ 新任 ノ小 河博 士ハ 監獄 学ヲ 担任 セリ
︒何 モ悉 ク通 訳ヲ 介シ テ講 義ス ルヲ 以テ 多ク ハ豫 メ稿 本ヲ 生徒 ニ交
( )
付ス
︒﹂
24
日本 人教 員が 京師 法律 学堂 で行 った 講義 の内 容は まず 中国 語に 訳し て学 生に 交付 した ため
︑彼 らは 京師 法律 学堂 のた めに 貴重 な法 学教 材を 書き 残し た結 果と なっ た︒ これ らの 教材 は中 国で 刊行 され た︒ しか し︑ ほぼ 同じ 時間 内に 二つ のシ リー ズも 刊行 され てい る︒ 一つ は汪 庚年 が編 集者 を務 め︑ 京師 法学 編輯 社か ら出 され たも ので
︑書 名は
﹃法 学彙 編︵ 京師 法律 学堂 講義
︶﹄ とさ れて いる
︵宣 統三 年五 月一 五日
︵一 九一 一年 六月 一一 日︶
︒他 の一 つは 熊元 翰︵ 元楷
︶︑ 熊元 襄兄 弟が 編集 者を 務め
︑安 徽法 学社 から 出版 され たも ので
︑題 名は
﹃法 学叢 書︵ 京師 法律 学堂 筆記
︶﹄ と題 され てい る︒ 出版 時間 は一 か月 遅れ て の宣 統三 年六 月と なっ てい る︒ 両シ リー ズは とも に二 二冊 で構 成さ れて いる が︑ やや 異な ると ころ が見 られ てい る︒