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* 明治期の津軽地方における讃美歌の受容

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(1)

Bull.Fac.Educ.HirosakiUniv.

8 3:7 7‑ 85

(Ma

r . 20 00)

明治期の津軽地方における讃美歌の受容 一明治初期か ら三十年代前半まで‑

AeeeptaneeoIHym

n

intheTsugaru DistrietduringtheMeijiEra.

安 田 寛 * ・ 北 原 か な 子 **

HiroshiYASUDA*andKan akoKITAHARA**

77

論文要 旨

学制発布後 も遅 々 として進 まなか った公立の唱歌教育 に対 し, キ リス ト教 の宣教師達 は,各 地で 日本人に讃美歌 を教 え続 けた。 したが って, 日本人 と洋楽受容の問題 を考察す る際,音楽 取調掛 と文部省が 中心 とな った音楽教育 のみではな く, 日本各地 で行われたキ リス ト宣教 師達 による讃美歌教育の影響 を無視す るこ とはで きないのである。筆者等 は以上の よ うな問題意識 によって,早 くか らキ リス ト教布教が盛んに行われた津軽地方 を対象 として,洋楽受容 に関す る研究 を重ねてきた。本稿 は,津軽地方での讃美歌の受容,特 に実際に歌 った人々が どの様 に 受 け止 めたのか, とい う意識 を窺わせ る資料 を紹介 し, 明治期の地方 にお ける洋楽受容の一端 を明 らか に しよ うとす る ものである。

キー ワー ド :東奥義塾,弘前女学校,遺愛女学校,讃美歌,オルガ ン,洋楽受容

は じめに

津軽地方弘前 にお ける西洋音楽 の本格的な受容は, メソジス ト派

(MethodistEpiscopalChurch)

宣教師達 の布教活動 と共 に広 まった。私学東奥義塾教 師 として明治七年末 に着任 したイ ング夫 妻 の指導 の下で, 学生達 は讃美歌 を歌 い始 めた と推察 され, 明治八年六月 に同校 の学生達が イ ング邸において集団で洗礼 を受 けた ときには,みなが讃美歌を歌 った ことがイ ング夫人によっ て伝 え られ てい る注1 。

東奥義塾生達が歌い始 めた ことか ら,讃美歌は徐々に弘前市 中に広が った。 この とき東奥義 塾生達 とともにイ ング夫妻か ら讃美歌 を習 った と思われ る中には,成 田 らくの よ うに,後 に弘 前女学校教師 となる人物 も育 った注

2

。 また,明治八年 に東奥義塾 に設置 された小学科女子部 は, 明治十五年 に廃止 とな ったが, 同年函館 に開校 した遺愛女学校 には,弘前か ら多 くの女生徒達 が学びに行 き,その後弘前 に開校 した弘前女学校 の教師 として戻 るな ど,弘前 と函館 の交流は, 明治期 に長 く続 いた。函館遺愛女学校 では盛ん に讃美歌教育が行われ,弘前女学校で も, 開校 当初か ら本多 ( 長嶺)サダの よ うに当時 としては音楽 に造詣深い女性が教鞭 を とってお り,各

*

弘前大学教育学部音楽科教室

DepartmentofMusic,FacultyofEducation,HirosakiUniverslty

**東北大学国際文化学会会員

MemberofTohokuUniversitySocietyforInternationalCulturalStudies

(2)

78

安 田 寛 ・北原かな子

式典な どで も音楽は大きな要素であった注3。

筆者等は, これ までの研究において,以上の よ うな弘前にお ける洋楽受容の流れ を明 らかに してきた。本稿では,最初にその後明 らかになった東奥義塾での洋楽受容の様子を補足する。次 いで,弘前及び函館における讃美歌普及の様子を述べ る とともに,特に, 当時の人々がその讃 美歌 を どの様 に受 け止めたかについて紹介す る。

l .東奥義塾生 と讃美歌 ‑イング夫人のオルガンと 「 頒歌」

東奥義塾生達が讃美歌を歌い始めたのは,明治七年末 のイング夫妻の着任か らま もな くの事 であった と推察 され る。すでに別稿注

4

において述べた よ うに,東奥義塾生 と歌唱に関 しては, これ まで も明治九年の明治天皇巡幸の際の天覧授業での頒歌や, さらに早い明治八年の六月六 日に東奥義塾生達が集団で洗礼を受 けた とき,讃美歌

Jesus,LoveofMy Sou

l 」を全員で歌 っ た ことが知 られている。 この東奥義塾生達の歌唱は,おそ らくイ ング夫人の指導による もので あろ うとの推測 され るが, これ を裏付 けるかのよ うに,明治

10

6

23

日にイ ングか ら洗礼を 受けた長谷川朝吉は次の よ うに述べている。

余は明治十年西南戦役 に赴かん とす る前 日,菊池九邸, 山田寅之助の二人 とともにジ ョ ン ・イ ング氏 よ り受洗せ り。此オルガ ンは同氏夫人の寄付せ るものにて, よく二〇八番 の 讃美歌 を練習せ ることを記憶す。 ( 『 弘前教会五十年略史』p.

73)

0

洗礼の際の讃美歌に,イ ング夫人であるルー シー

・H.

イ ングによるオルガンの伴奏が付い ていた ことがわかる。イ ング夫人が音楽の専門教育 を受 けたか ど うかは不明だが,女性宣教師 を多 く輩出 したマサチューセ ッツ州の名門女子校マ ウン ト ・ホ リオークで学んでいた ことか ら, 宣教 に必要な程度 の演奏技術はおそ らく習得 していた もの と思われ る。いずれ に して も,東奥 義塾生達は,明治七年末 のイング夫妻着任の頃か らすでにオルガ ンの音 を聞 く機会 を持 ち,明 治八年六月には皆で讃美歌 を歌 っていたのであった。そ して,東奥義塾 に関 して音楽 との関係 で もう一つ興味深いのは, 明治十一年に私立 中学 とな った ときのカ リキュラムの うち,予備課 程に 「 唱歌」が入 っていることである注5 。明治十一年カ リキュラムの原案 となった と推察 され る 「 私立 中学教則署」では 「 頒歌」 となってお り,おそ らく最初 「 頒歌」 として讃美歌を歌 っ てお り,後 に 「 唱歌」に変わ った と推察 され る。

周知の通 り 「 唱歌」に関 しては,明治五年の学制発布により教科 目として設置 された ものの,

「 当分之を欠 く」 とされ るな ど実際にはなかなか普及 しなか った。後に唱歌教育普及のための中 心機関 となる音楽取調掛の設置が明治十二年のことであ り, 同掛 に青森県か ら伝習生傍島まね が派遣 され るのが明治十七年である。帰郷 したまねの指導を受 けた人々によって,津軽地方の 公立教育で唱歌教育が始 まるの も明治二十年代以降のことであった。 これ は津軽地方に限った ことではな く,一般に音楽取詞掛で学んだ伝習生達が各地において行 った唱歌教育が軌道に乗 りは じめたのは,全国的に も明治二十年代に入 ってか らであった。 また,東奥義塾 と同 じよ う に男子生徒達が集まった学校であった同志社で, ドーンによって歌唱指導が開始 されたの も明 治八年末 のことであった注6 。 こ うした状況を鑑みた とき,東奥義塾生達がイ ング夫人のオルガ ン と共 に歌い始めた時期は,全国的に見て も非常に早か った ことがわか る。

残念なが ら東奥義塾での歌唱は長 くは続かなか った。 旧藩学的性格 を強 く有 していた東奥義

(3)

塾が,保守派の人々か らキ リス ト教 との関係 を非難 され るよ うにな った こと, また,財政難で 明治十三年以降外国人教師の雇用が途切れた ことな どが,その理由 として考え られ る。 しか し, 弘前教会では讃美歌が歌われ続 けてい った。 日曜学校 も次第に増 え,そ こで も讃美歌は歌われ た。明治二十年代後半 ともなると,弘前教会では合唱形態で歌われ るよ うになった。例えば,東 奥義塾生であった 白戸良作は,次の よ うに伝 える。

私が東奥義塾 に遊学 したのは明治二十六年四月であった。 当時弘前教会の牧師は山鹿元 次郎先生で,会堂は木造の誠にお粗末な ものであったが,五所川原教会 の借家住居か ら出 て来た私 には,大会堂の様 に思われたのであった。腰掛は二列に並び男は左側女は左側 に 両方 とも殆 ど青年で一杯であった。五六人の田舎教会か ら出た私には,何 も可 も驚異であっ た。第一オルガンを初 めて見た とい うわ け,而 して亦七十の男女の合唱勇壮なる哉,弘前 教会 !自分は此大教会 の会員 となるのだ と密 に少年時代の誇に覚えたのであった。注

7

ここに集 う人々の中には,信仰 もさることなが ら,その合唱に魅せ られた人 もいた と思われ る。いずれに して も,公立学校で よ うや く唱歌が軌道 に乗 り始 めた頃,弘前教会 に集 う人々の 間では,すでに合唱が歌われ るよ うになるな ど,讃美歌は徐々に広が りつつあったのである。

2 .

函館遺愛女学校生 と讃美歌

函館 と弘前 とは,津軽海峡を挟む とい う地理的条件にも拘 らず,特 に音楽に関 しては関係が 探か った土地柄である.弘前の画家であった平尾魯仙が,ペ リー艦隊か ら聞える音楽の音 に耳 を傾 けたの も,函館でのことであった。 冒頭で も述べた よ うに,明治十五年開校 の函館遺愛女 学校 も,開校当初は弘前か ら学びに行った女生徒が多 く,明治十九年開校の弘前の来徳女学校, 後の弘前女学校 とも教師や生徒の交流が長 く続いた。函館遺愛女学校では,女性宣教師が教鞭 を とり,讃美歌 も盛んに歌われた ことか ら,弘前出身のみな らず,青森出身で遺愛女学校で讃 美歌を学んだ女生徒たちを通 して,青森や弘前に讃美歌が広 まった側面 もあったよ うである。例 えば, 明治十八年頃か ら青森教会 に出入 りし,明治二十年に洗礼 を受 けた とい う三浦泰一郎は 次の よ うに語 っている。

讃美歌は夏季休暇に函館遺愛女学校か ら帰省する女学生方によって輸入 された もので,釈 井牧師は讃美歌は礼拝始めの中に一つ と頒歌を三つあればた くさんだ とい う超越ぶ りで,一 年五十三回同 じ讃美歌であるので,流石幼稚時代で も若い ものは満足せず,夏休み には倒 噴たる女学生の歌 に陶然 として よく練習 した ものだ。注

8

単 に礼拝の形式上歌があれば よい とい うことに とどま らず, よ り良い歌唱を もとめて讃美歌 を練習 した様子が伝わる。 ここに出て くる沢井牧師 とは,沢井弘之助牧師のことで,明治十九 年か ら明治二十二年まで,青森教会の牧師を務めた注

9

。 したが って函館遺愛女学校生に倣 って 讃美歌 を練習 していたのは, 明治二十年前後のことであった と思われ る。

函館遺愛女学校草創期の明治二十年頃までの音楽の様子については,別項注

10

で述べたので,

ここでは省略す る。 同校ではその後 も盛んに讃美歌教育を行い,特 にフィラデル フィア出身の

音楽教師であった ミス ・シンガー

FlorenceEltonSingerが1894

( 明治二十七)年に着任 してか

(4)

80

安田 寛 ・北原かな子

らは,1895 ( 明治二十八)年か ら年会報告書に,音楽部門

(MusicDepartment)

として音楽関係 の報告がな され るよ うになった。1895 ( 明治二十八)年の報告書による と, シンガーは,函館 の生徒達の熱心 さと聡明 さを喜びなが ら注

11

,十三人の女生徒 にオルガンを教え,学校全体の女 生徒達 に トニ ック ・ソル フアメソー ドを教 えた注

12

。また この頃になる と同校では,予備課程の 生徒や子供たちをア メ リカ人女性宣教師ではな く同校の卒業生が指導す るよ うになっていたが, その熱心な教えの結果は,子供たちの朝や 夕べの祈 りでのハーモニーで明 らかになっていた注

130

シンガー達は学校での教育のほか, ミュージカル も上演 し,外 国人や 日本人の友人達を招いて いる。オルガンや声楽のレッスンを受ける女生徒は徐々に増 えていき注

1

4

,1897

( 明治三十)午 には,生徒全員が第四グレー ドの トニ ックソル フアの レッスンを受 けるほか,毎朝祈 りの前に

tonedril

lを行 った りしていた注

15。

しか し,一歩学校 を出て,町の中に行 くと,音楽の状態は全 く違 うものであった らしい。た とえば シンガーは次のよ うに嘆いている。

通 りにおける 日曜学校の歌の状態 とい うのは,なん ともひ どい ものです。私たちの王女 会 (

King'SDaughters)のメンバーが,毎週一時間相手を しているのは,貧 しくて,ぼろを

ま とった,汚い,幼い子供たちです。私は,彼 らに関 して,なん とも救い よ うのない気持 ちを持 っています。

調子の感覚 もな く,生活や声 を出す ことに,ハ‑モニー もまった くあ りません.彼 らの 中にある音楽 とい う概念は,ただ,公立学校の教師達が歌 と呼んでいる金切 り声であ り,熟 達 していない指が奏でる和楽器 の,耳障 りで調子の合わない音なのです。注

16

このよ うに,公立の学校教育において唱歌が行われ るよ うになってはいて も,函館 も一歩遺 愛女学校を出る と, まだ まだ洋楽が普及 した とは言 えない状況ではあ り, また, シンガー達か ら見る と,遺愛女学校 の生徒達 自身が良い音楽 を聴 く機会が全 くない とい う状況下ではあった が注

17

,明治三十五年 くらいになる と,遺愛女学校の生徒達は,部分的なが らメサイアを歌 うほ どのレベル までにな っていた。 このころに同校 に入学 した児玉満は,後に, シンガ ーの指導下 で歌 っていた上級生の歌 を次の よ うに回想 している。

十一才で入学 し,寄宿舎に入 りま したが, 当時は八年制度で,上の組の方々 とは,年令

も大分 ちが ってお り,生徒 も少な く本 当に家庭的で,土曜 日の夜な どは,みんな一緒に翌

日のため,下着や足袋な どの繕 ろいを し, 日曜 日には着物 を下か らす っか り取替 え,並ん

で会所町の教会に行 った もので した。其教会は今で も同 じところにあ りますが,そこで,此

間のク リスマスイブに,草間牧師の御厚意 によるレコー ドコンサ ー トがあ り,‑ ンデルの

メサイヤを全曲二時間余に亘 って聞きま した。其時,昔学校 のあの‑教場 ( 皆 さん も度々

お聞きになったことのある)で上級生が歌 った美 しい歌が幾つ も其中にあった事を知 り,感

慨無量で した。 当時其意味は よく分 りませんで したが,其美 しい メロデ ーが天使の歌かの

よ うに,今だ に耳に残 っているの も不思議な位です。特 にハ レルヤ コーラスな どの素晴 ら

しか った事,木綿縞や餅等の着物 に自衿, 白足袋 とい う装いの人達の,全心全力を打ち込

んだ熱心な歌い方,神様 を仰 ぎ見て歌 っているかがやいた顔,私共 も思わず引入れ られて

感激 した ことを覚えてお ります。私ばか りでな く級友高松ちか さん ( 第二遺愛幼稚園勤務)

(5)

も 「 本 当にあれは忘れ られない印象の一つです。先年 ウィ ーン合唱団の清々 しい歌声を聞 いた時 も,私 はあの‑教場の声 と同 じよ うに感 じて, とて もなっか しか った」 と話 してお りま した。当時の方々の歌が,いかに純真で清 らかであったか御想像出来 る と思います。こ うした音楽が一般 に進歩 していなかった五十年前,母校にはすでに ミス ・シンガ ーの下で, こんな コーラスが出来ていたのは,何 と嬉 しい事で しょう。其先生が 「 皆 さん,歌 う時は 指 3本入る位 口を大き くあけて くだ さい」 とよく言われた事 も記憶 してお ります。注

18

明治三十年代半ばに さしかかるころには,遺愛女学校 の音楽の水準はかな り高 くな っていた のである。そ して同校で学んだ生徒達が弘前女学校 の教師 として着任す るの も, 明治三十年代 になって も続いていた注

19

。音楽に関 して も,様々な影響があった もの と推察 され る。では,弘 前女学校 の生徒 は,讃美歌 をどの よ うに捉えていたのだ ろ うか。

3

.弘前女学校生 と讃美歌

ここでは,明治三十五年に弘前女学校の本科四年生であった阿保 とし注

20

の体験を紹介する注

21。

としは,函館 に在住 していた とき, 日曜学校で 「 咲 く花に」 とい う曲を習 った。一年ばか りの 後,家庭 の事情でふ るさとに帰 ったが注

22

, ここにはキ リス ト教 を信奉す るもの もなか った。寂 しい時には本箱の底 よ りふ るき歌本 とり出 して例の 「 さく花 に」 を歌 うのが, としに とっての こよなき楽 しみであった。やがて青森に住む ことになった としは,新町小学校 に入学するが,そ こで次の よ うな体験 をす る。

四月新町なる高等小学校二年 に入学 しぬ。 これ よ りぞ少 は物事の道理 もわか りよしあ し も耕ふ るや うな りぬ。 ある 日歴史にて天草の乱の原因を教わ りて,耶蘇教の我が国体 に適 はさるを覚え,その教徒の不倫を怒 りかねて愛せ る 「さく花 に」 も歌 うを好 まずな りぬ。

公立小学校で,反キ リス ト教的教育を受 けた としは,好 きだ った 「 咲 く花 に」を歌 うまい と 思 うほどに,影響を受 けたのである。 「 耶蘇教 の我が国体に適はさる」 と考えたあた りか ら, 日 曜学校で教わ った歌は好きで も,信仰の問題 とはそれ ほど関係なか った ことが窺える。 しか し, ここで も一年ほ ど学んだ後, としは両親 とともに弘前 に移 った。時期的に公立学校‑の入学が 難 しか った ときであ り,何時で も入れ る私立学校がある と聞いて,入学す ることにな ったのが 弘前女学校であった。非常に心細い思いを抱いて,初めて学校 に行 った 日の ことを、 としは次 の よ うに述べている。

さて始業の呼鈴 につれて一同一室 に集ま りて歌‑ るは,思いか けぬかの 「 咲 く花 に」の うたな りき。 これ に例の天草の乱の恩いれて先不快の念 を起せ るにかてて西洋人の独 り言 するよとあや しみ Lが さすがにお さなか りつるときの覚えにてお祈 りなることを知 りぬ。あ あ ここは耶蘇な りしぞ くや しき直 に も帰 らんかあす よ りは来ぬべ きかな どあ らぬ思案の う ちに祈 りもおえて男の先生の御話 に移れ り。

こ うして思い もかけず,懐か しい 「 咲 く花 に」に出会 うことになった としは,公立小学校で

な らった教育を思い出 し心乱れ るが,教師の話に心を開いてやがて信仰を受け入れ るようになっ

(6)

82 安 田 寛 ・北原かな子

たoそ して, 明治三十二年十二月十 日に,洗礼 を受 けている。 この阿保 としのケースは, 当時 の女生徒 の,信仰 と讃美歌を歌 うこととの関係, また公立小学校での教育内容の一端 を伝える 興味深 い証言である。

また,同じく三十五年に本科四年生であった奈良ちか注

23

は, 「 慈愛深き神の御手に引かれて宗 教女学校に入学」注

24

した ものの,最初は信仰の話は退屈であった。 しか し徐 々に信仰を受 け入 れ るよ うにな り,明治三十四年十一月三 日注

25

に洗礼を受けた。ちかは讃美歌について,次のよ

うに語 っている。

ひそかに讃美歌集を懐 に して後園の河辺 に行き 「 世の楽 しみ去 り暗 となる とも我が喜び こそイエス君なれ」 と声 を低 く歌 う月は明かに我れ を照 し風は爽かに我 を慰む活き川の流 れ 白菊の花 も皆我 を慰むるが如 し我芝生 に脆 きて祈 を献げて以前の不平全 く去 り只感謝 し 平和に満 ちて眠 る夜の夢 さえ もい と安 らかな り。注

26

ちかに とっては,讃美歌 を歌 うことはやす らぎであった。 ちかの場合は, 当初か ら弘前女学 校がキ リス ト教徒 による学校である と知 っていたのか,阿保 としほどの振幅はなか った よ うで ある。 当時の人々が讃美歌について書いているものは極 めて少ないが, ここに紹介 した阿保 と し,奈良ちかのよ うに,讃美歌を歌 うことが好 きにな った女性達は,少なか らずいた もの と考 え られ るo また,弘前女学校生の中には, 日曜学校に参加す るもの も多か った。明治三十七年 には,弘前教会が火災で焼失 したために, 同教会が再建築 され るまで, 日曜 日の礼拝が弘前女 学校で行われ るよ うになった注2 7 。明治四十二年になる と,女学校の生徒の合唱隊が,教会での ク リスマス祝賀会 に参加 している注

28

。学校だ けではな く,教会で も歌 っていたのである。明治 八年に東奥義塾生達が歌い始めた讃美歌は,函館遺愛女学校,弘前女学校,そ してい うまで も な く教会 を通 して,広 まってい ったのであった。

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図 1 『 譜附 基督教聖歌集 』( 明治1 7年版)の 「さくはなに」

(7)

4 .

ア レキサ ンダー夫人について

本稿の最後 に,明治三十年か ら三十二年まで弘前に滞在 した メア リー

・C.

ア レキサ ンダー

(MaryChristineAlexander)

について述べ る。

メア リーは,夫であるロバー ト

・P.

ア レキサ ンダー

(RobertPercivalAlexander)

の東奥義 塾着任に伴 って弘前に来た.弘前での讃美歌受容 とい う点か らみて興味深いのは,このメア リ‑

はボス トンのニ ューイ ングラン ドコンセルバ トリー出身であった ことである。

1867

年にこの音楽学校をボス トンに創設 したのは,イーヴン ・トウル ジェー とい う人物であっ た。彼は 日本の唱歌教育の成立に貢献 したア メリカ側の人物では第一に挙げるべ き人物で,貢 献の主な ものは,( 1 ) 文部省の唱歌の起源 となった 日本語音楽掛図の制作を支援 した こと

,(2)L ・ W

・メーソンの 日本‑の派遣 と日本での活動 を支援 した こと

,(3)

メソジス ト監督教会婦人外国 宣教協会長

W ・F

・ワレン夫人の要請によって,長崎の活水女学校 にコンセルバ トリー卒業生

A

・ビングを派遣 した こと

,(4)

文部省最初の音楽留学生幸 田延 をコンセルバ トリーに受 け入れ た ことであった。

こ うした ことか ら, トウル ジェ一に とって,唯一の官立の音楽学校である東京音楽学校 とメ ソジス ト監督派が支援 した活水女学校の音楽科は 自分の音楽学校の姉妹校 も同然であった注

29

熱心な メソジス ト派の信者であった トウル ジェ‑はキ リス ト教宣教活動 に対す る音楽の貢献 を高 く評価 していた人物で, コンセルバ トリーを

1883

年に法人化 した際に,五十人の理事を置 いたが,常任理事は十四人で,彼 らはいずれ も各伝道 団体かそれ と関係の深い機関の役員であっ た注

30

J

・イ ングが学び, メソジス ト派宣教師を 日本に多 く送 りだ したイ ンディアナ ・アズベ リー 大学は

,1884

年か らデポ‑大学 となった。その際,音楽科を音楽学部に再編成することにな り,

トウル ジェ‑が,彼が学部長 を していたボス トン大学音楽学部 を卒業 し, 当時ニューイ ングラ ン ドコンセルバ トリーに勤めていた

J・H

・ハウ

(JamesHamiltonHowe)

を学部長 として送 り 込んだ こともあった注

31。

ニューイ ングラン ドコンセルバ トリーは海外 を含めたメソジス ト派の関係機関で働 く音楽教 師を養成す る機関 として機能 していたのである。

以上の ことか らもわかるように,おそ らくメア リーは,弘前 に来た外国人宣教師の中で,本 格的な音楽教育を受けた最初の人物だ った。さっそ く音楽の力を発拝 していたことは

,1898

( 明 治三十一)年の報告書か らわかる。

ミス ・オ ッ トー とミセス ・ア レキサ ンダーは,音楽で非常に価値ある手助 けを していま す。オ ッ トーは,毎週歌唱の レッスンを して, ミセス ・ア レキサ ンダーは,私たちの公的 な楽 しみの場でオルガ ンを演奏 します。注

32

メア リーは,弘前に来て,三つの仕事 を受 け持 った。一つは, 日曜学校の少女たちを教 える

ことであるO このメンバーのほ とん どは,弘前女学校 の裁縫科 の生徒達だ ったo二つめは,市

内での女性 の集ま りの責任者になることだ った

。1898

( 明治三十一)年のメア リー 自身の報告

による と, 1年間に五十回の会合があ り,平均十八人の出席者があった。最後は, 日曜 日の午

後の女性のためのクラスで働 くことだ った。主に女性達 を対象に伝道活動 を し,そのなかには

弘前女学校の生徒 も含まれていた。おそ らく, メア リーに接 した 中には,そのオルガ ン演奏を

(8)

84

安 田 寛 ・北原かな子

聴 き, 讃 美歌 を習 った人 々 も多 か った と思 われ る。 も し, もっ と長 く, メア リーが 活躍 で きれ ば, 弘前 の音 楽 の水 準 は, 多少 変 わ っていた か も知れ な い。 メ ソジス ト派 宣教 師 の活動 な どが つ づ られ てい るタイ デ イ ン グス

Tidings

に も, 「ミセ ス ・ア レキサ ンダ ー は, 音 楽 の教 師 と し て優 れ た礼拝 を行 った」 と記 され てい る注

33

。 しか し, 明治三 十 二年 一月 十九 日, 火 災 とい う不 慮 の事故 のた め, メア リーは亡 くな った。 大 変惜 しまれ る事故 で あ った ので あ る。

1

安田寛 ・北原かな子 「 弘前における洋楽受容のは じま り」『 弘前大学教育学部紀要』第

79

号 ( 弘前 大学教育学部,平成

10

3

月)参照のこと。

2

安 田寛 ・北原かな子 「 弘前女学校の音楽教育」『 弘前大学教育学部紀要』第

82

号 ( 弘前大学教育学 部,平成1

1

10

月)参照のこと。

3

安田寛 ・北原かな子 「 弘前 と遺愛女学校の音楽教育」『 弘前大学教育学部紀要』第

80

号 ( 弘前大学 教育学部,平成

10

10

月)参照のこと。

4

安田寛 ・北原かな子 「 弘前における洋楽受容のは じま り」『 弘前大学教育学部紀要』第

79

号,弘前 大学教育学部,平成

10

3

月。

5

『 束奥義塾一覧』 ( 東奥義塾発行,明治十一年)所収のカ リキュラム。なお,明治十一年に,西村 茂樹が束奥義塾 を視察 した際の報告に当時の束奥義塾で教授 していた教科 目がでて くるが,ここに も 「 唱歌」が入 っている 。 ( 『 文部省第六年報 』 復刻版 ( 宣文堂,昭和四十年)

p.61.

6

安田寛 「 京都 と神戸ステーシ ョンの音楽教育史‑ア メリカン ・ボー ド日本 ミッシ ョン音楽教育史 その二

『キ リス ト教社会問題研究』 第

47

号 ( 同志社大学人文科学研究所

,1998

年)p.

30‑3

1.

7

白戸良作 「 弘前時代の回顧」『 弘前教会五十年署史

』p286

。 この文中に 「 男は左側女は左側」 と あるのは原文のままである。

8

三浦泰一郎 「 青森教会思い出」 ( 日本 メソジス ト青森教会代表肥後吉秀編纂 『日本 メソジス ト青 森教会略史』昭和十三年)

p.40.

9

日本 メソジス ト青森教会代表肥後吉秀編纂 『日本 メソジス ト青森教会略史』 ,昭和十三年,

pp.

4‑5.

10

安田寛 ・北原かな子 「 弘前 と遺愛女学校の音楽教育」『 弘前大学教育学部紀要 』 第

80

号 ( 弘前大 学教育学部,平成

10

10

月)

注1

1 "Ihavebeenmuchpleasedwiththeeamestnessanddiligenceofthegirlsinthisdepartment"Mtnutesofthe TweljlhSessionoflheWoman'sAnnualConferenceoftheMelhodistEpiscopalChurchinJapan,1895,p.34

12

" T

hrteengirlshavereceivedorganlessonsduringtheyear,andthewholeschoolhasreceivedvocallessons bytheTonicSolFamethod,whichissowelladaptedtotheJapanese,teachingthempuretonesinasimpleand attractivemanne

r . "Mi

nutesoftheTwelfthSessionoflheWomanAAnnualCo

n

ferenceoftheMethodistEpisI copalChurchinJapan,1895,p.35.

注 13

Theyoungergirls,andthechildreninthepreparatorydepartmentarefaithfullytaughtbyoneofourgraduate teachers,Owada0FumiSan・

T

heresultsofhereamestandpatientteachingareapparentintheharmonywith whichthechildrensingatmomingandeveningprayers."MinutesoflheTweljihSessionoftheWoman与 AnnualConferenceoftheMethodistEpiscopalChurchinJapan,1895,p.35.

注 14 翌

1896

年には

,19

人の生徒がオルガンを習い

,75

人の生徒が声楽のレッスンを受けているoME

'nutes oftheFourteenthSessionoftheWoman与AnnualConferenceoftheMethodistEpiscopalChllrChinJapan

,

1897,p.35.

注 1

5 thewholeschoolreceivedvocallessonsinthefourgraded "SolFab"classes;besidesafifteenminutes practiceinvoiceexercises,andtonedrilleve

r

ymomingbeforeprayerinthelargeschoolroom,wherewetryto getinham onyfortheday."MinutesoftheTwelfthSessionoftheWoman与AnnualCo

n

ferenceoftheMeth‑

odistEpiscopa/ChurchtnJapan,1897,p.15.

注 16

TheconditionofthesinglnglnOurStreetSundayschoolsisdreadful.Poor,ragged,

di r t y

littlechildrenwhom

(9)

ou

r

King'SDaughtersmeetforanhoureveryweek・Ihavesuchahelplessfeelingregardingthem・

whichthepublicschoolteacherscallsinglng

,

Orharsh,discordanttonesmadebyunskilmllfingersonthenative instruments.

MinutesoftheTweljihSessionoflheWoman'sAnnua/ConferenceofzheMethodistEpiscopalChurchin Japan,1897,p.15.

注1

7 "OurgirlshavenoopportunltyOfhearingfinemusic.Orchestras,Oratorios,bymagnificentchoirs,andeven thepipeorgan,areal

l

"dreams"tothem;yettheyslngWell・Carrylngthepartseasilyandharmoniously・"

MinutesoftheNineteenthSessionoftheWoman'sAnnualConferenceoftheMethodistEpiscopalChurchin Japan,19011902,p.28.

注1 8 『 遺愛七十五周年史』pp.

364‑5.

注1

9 "FourgraduatesfromourHakodateschoolhaveshownthemselvesfaithfulanddiligentasteachersindiffer entdepartments."MinutesoftheFlfteeflthSessionoflheWomanSAnnual

C on

ferenceoftheMethodistEpis copalChurchinJapan,1898,p.21.

注20 阿保 としは,本稿で取 り上げた ように,本科四年生の時に書いた論文が残 され,その中に明治十 九年二月生まれ と書かれているが,卒業生名簿に記載がな く,その後の進路 も不明であるO しか し 明治三十五年三月二十九 日の弘前女学校卒業式を報 じた四月一 日付 けの東奥 日報紙によると,阿保

としは同校か ら 「 特待証書」 を受けた と書かれている。

注21 明治三十五年度弘前女学校本科四年生論文集 「 玉瑛」所収,阿保 としの 「 余が信仰」 より。

注22 場所は不明である。

注23 明治二十年十二月生まれ。明治三十八年に卒業 している。

注24 明治三十五年度弘前女学校本科四年生論文集 「 玉瑛」所収,奈良ちかの 「 余が信仰」 よ り。

注25 『 弘前教会五十年略史』では十一月四 日になっている (p

.38)

0 注26 奈良ちか,前掲論文 より。

注27 『 弘前教会五十年略史 』 p

.44.

28

『弘前教会五十年略史 』 p

.64.

注29 安田寛 「 晩年の トウルジェー と日本の洋楽」『山口芸術短期大学研究紀要』第28 巻

(1996

年) ,安 田寛 「 唱歌の起源一目賀田種太郎関係資料 と唱歌掛図復元‑」『山口芸術短期大学』第二九巻

(1997

年)参照。

注3

0

安 田寛

L・W

・メーソンの再来 日計画 とア メ リカン ・ボー ド日本 ミッシ ョン」『キ リス ト教社会 問題研究』 第四四巻 ( 同志社大学人文科学研究所,1

995

年)一一一頁以下参照。

31 WilliamWarrenSweet:IndianaAsbuTy‑DepauwUnivers70,18371937,AbingdonPress,p205.

注32 "

MissOttoandMrs.Alexanderhaverenderedvaluableassistanceinmusic,MissOttogivingweeklylessons insinging,andMrs.Alexanderpresidingattheorganatourpublicentertainments."Mz'nutesoftheFlfleenth SessionoftheWoman'sAnnualConferenceoftheMethodistEpiscopalChurchinJapan,1898,p.23.

注33 "

Mrs.R.P.Alexandergaveexcellentserviceasteacherofmusic." Tzdz'ngs,Vol.IV‑N0.8,p.97.

(2000.1.l

l. 受理)

参照

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