◎論説
新国学の批判緒形康
・・⁝
新国学の言説
伝統文化批判と﹁国学﹂再評価
一九八〇年代と九〇年代の中国学術界を比べたとき︑す
ぐに気づくのは︑﹁国学﹂に対する評価基準が顕著な違い
を見せていることであろう︒﹁文化熱﹂と称された八〇年
代の中国文化をめぐる討論は︑テレビ・ドキュメント﹃河
瘍﹄に象徴されるような伝統文化の徹底的な否定と全面的
西欧化の主張に収轍されたかに見える︒注目されることは︑
そこで厳しく糾弾された伝統文化には︑新伝統と呼ばれた
解放後の共産党イデオロギーが含まれていたことである︒ そのこともあって︑八〇年代の文化批判は︑天安門事件を
ピークとして現政権の反批判をこうむることになった︒
九〇年代の﹁国学﹂再評価の流れや新国学と呼ばれる言
説の勃興は︑八〇年代の文化批判が天安門事件という政治
的介入をこうむらざるを得なかったことへの反省から開始
された︒李沢厚と言えば︑八〇年代の文化批判の運動をリ
ードし︑その運動の挫折を当局による国外追放というかた
ちで一身に体現している人物である︒かれが一九九二年に
アメリカから一時帰国した際おこなった言論活動は︑八〇㈱
̲年代の文化批判に対する内省の代表的な一例である︒学国新李沢厚の内省
41李沢厚は︑五四運動以来の中国現代思想の最大の問題点
はそのイデオロギー至上主義にあり︑それが現代思想を運
動として頓挫させてきた根本要因であるとした︒陳独秀や
胡適︑魯迅の現代中国に対する思想的功績は否定すべくも
ないとしても︑かれらの思想活動は現実の変革を最優先し
たことから︑必然的に思想に対してある種の﹁効果﹂を期
待するものとなった︒現実への影響力のない思想は︑思想
としての価値を認められなかったのである︒そして︑こう
した思想の功利主義こそ︑好むと好まざるとにかかわらず︑
かれらが共産党や国民党との思想闘争に係わらざるを得な
かった当の原因なのである︒かれらの生きた五四期から文
化大革命にいたるまで︑いや八〇年代の文化熱の時代にお
いてさえ︑中国現代思想は現実の功利的な変革を最優先す
る一連の思想の流れであるにすぎなかった︒
李沢厚はこう整理した上で︑今後発掘されるべきなのは︑
そうした思想の功利性を乗り越える独立した自由な思索で
あると述べた︒そうした例が中国現代思想に皆無であるわ
けでは決してない︒例えば︑王国維︑陳寅恪︑呉慮と言
った思想家は︑先の思想家たちとは違って︑思想の現実的
効果をむしろ意識的に排除して︑思想それ自体の独立した
価値︑あるいは学問の学術的な側面を純粋に追求しようと
した人々であった︒かれらの貴重な学問成果を追跡するこ
とから︑中国の現代思想︑ひいては伝統文化に対する新し
い観点・評価軸をわれわれは得ることができるであろう︒ 李沢厚が行った八〇年代の文化批判への内省のあり方
は︑こう見てくると二重の意味を帯びていることがわかる︒
かれは︑八〇年代に推進された伝統文化に対する厳しい批
判の姿勢を崩してはいない︒しかし八〇年代のように︑伝
統文化を総体として批判しようという姿勢はもはや見られ
ず︑それが政治や現実の世界からの独立を目指さず︑つね
に現実に対する﹁効果﹂を求めてきたあり方を批判するの
である︒その上で︑これまで看過されてきた学術の独立し
た価値を追求する一連の思想を伝統文化の中から発掘し︑
それらを軸とした新しい思想史を再構成することによっ
て︑八〇年代の文化熱が陥った一面的な伝統批判を乗り越
えようとしているのである︒
九〇年代の二つの﹁外圧﹂
しかし李沢厚のこうした内省は︑思想の評価基準の再考
にはつながるが︑九〇年代の﹁国学﹂再評価を直接的に準
備したというには︑﹁国学﹂そのものへの言及に不足して
いる︒李沢厚の紹介した王国維︑陳寅恪︑呉憲のうち︑
前二者は確かに二十世紀の中国を代表する﹁国学大師﹂で
あるが︑李沢厚の紹介はあくまで一つの例示にすぎず︑系
統的に新しい﹁国学﹂観を提示しようというモチーフを欠
いているのである︒
八〇年代の文化批判からの継承という李沢厚のモチーフ
以上に︑九〇年代の新国学ブームを準備するにあたって大
きな力を持ったのは︑中国を取り巻く世界文化の情勢の変
化であり︑言うならば︑そうした﹁外圧﹂こそ︑八〇年代
の全面欧化の思想潮流を一八〇度方向転換させる上で決定
的な役割を果たしたのである︒
九〇年代に﹁外圧﹂として︑中国大陸を襲った世界文化
の新潮流とは何か︒
それは︑文化保守主義とポストモダンの二つの流れであ
る︒
私たちは次に︑この文化保守主義とポストモダンの潮流
が︑中国文化の評価にいかなる意味をもつかを論じた余英
時と張世英のエッセイを読みながら︑九〇年代の新国学の
議論に﹁外圧﹂が占める役割について考えてみよう︒
現代中国の偶像破壊主義と文化保守主義の消滅
華人としてアメリカの教壇で中国文化を講じる余英時
は︑ニュー・ライトと呼ばれるアメリカ保守主義の台頭に
類似した現象が︑なぜ現代中国で起こり得ないかを問題に
している︒余英時によれば︑その理由は三つある︒
第一に︑アメリカの思想風土には偶像破壊主義‑自由主
義‑保守主義という三極構造が存在しているが︑現代中国
で自由主義が育つ土壌は全くなかった︒アメリカにおいて︑
偶像破壊主義や保守主義は自由主義という中間地帯を有す ることで︑思想のドグマ化や硬化を免れ︑自由主義という
中間地帯から思想の新しい可能性を吸い上げることができ
た︒これに対して︑現代中国では五四運動に前後する数年
間に︑自由主義と呼ぶに値する思想が芽生えはしたが︑ま
もなく政治的なヘゲモニーを握った国民党も共産党も︑自
由主義は中国の﹁国情﹂に適合しないという観点から︑そ
れぞれ三民主義︑毛沢東主義というイズムによる思想統制
を敷いた︒そのため︑偶像破壊主義と保守主義という両極
端に位置する思想は︑相手の思想を容認した上で討論する
共通の土台(commonground)を持ちえないまま︑互いの
論難に明け暮れ︑いずれも思想的な活力を磨滅させていっ
たのである︒
第二に︑現代中国ではすでに五四運動の時代から︑偶像
破壊主義が保守主義を圧倒して思想界を聾断する悪しき傾
向が続いた︒陳独秀が口語問題に関連して﹃新青年﹄誌上
で敢行した相互討論の禁止は︑その後も思想の首領たちの
踏襲するところとなり︑それは文化大革命で頂点に達した
ばかりでなく︑八〇年代の文化熱の時代にも︑伝統文化を
総体として批判しなければやまないという極端な現象を生
んでいる︒現代中国の思想とは︑偶像破壊主義が保守主義
を弾圧する一連の歴史と表現することができる︒この余英
時の議論は︑かつて林銃生が﹁思想文化による総体論的な
アプローチ﹂(﹃中国意識の危機﹄)という言葉で︑五四期
新 国学の批判
43
の思想を総括した観点に通ずるものである︒
第三に︑そうした結果︑現代中国においては保守主義の
健全な発展が完全に阻害されることになった︒中国の伝統
文化にはもともと︑帝国の政治経済システムを安定化させ
るような︑﹁大一統﹂という保守主義の潮流が存在し︑そ
れは儒教・道教・仏教を融合した新しい思想体系として明
清以来︑社会の広い範囲に普及していたものである︒現代
中国の度重なる偶像破壊主義︑とくに解放以後のあくまで
﹁左﹂傾でなければやまないという極左主義の潮流は︑こ
の民間に存在した保守主義を完全に崩壊させたのである︒
現代中国において︑伝統と現代化は全く異なる範疇のもの
と考えられ︑伝統が完全な悪とみなされるにいたったのは︑
こうした経緯によるのである︒ここで︑かつての﹁大一統﹂
システムを支える帝国イデオロギーが︑帝国の超安定シス
テムを安定化させるものとして肯定的に捉えられているこ
とは注目される︒というのも︑八〇年代の伝統文化批判が
当局の政治介入を招くきっかけを作った﹃河膓﹄の製作者
の一人である金観濤は︑﹁大一統﹂システムを分析した始
めての書物(﹃興盛と危機﹄)の中で︑余英時とは逆に︑こ
のイデオロギーを批判的に捉えていたからである︒
現代中国で保守主義が消滅した過程をこう跡付けた上
で︑余英時はアメリカのニュi・ライトのような保守主義
が中国において市民権を回復するための手段を提唱する︒ それは︑伝統と現代化を対立的に見るのではなく︑伝統の
中から現代化への端緒をつかむ努力をすることにほかなら
ない︒そのためには︑﹁大一統﹂のイデオロギーとしての
儒教を始めとする伝統思想の再評価が強くまたれる︑と余
英時は書く︒
﹁天人合一﹂とポストモダン
周知の通り︑余英時が一九八八年に行った以上の議論は︑
現代中国の偶像破壊主義の役割や文化保守主義の定義をめ
ぐって︑香港の﹃二十一世紀﹄誌上で︑大陸の姜義華との
あいだに激しい論争を引き起こし︑その議論は広く中国の
言論界に知られることになる︒そうした経過を経て︑余英
時の議論は︑九〇年代の新国学ブームに道を開くことにな
るのである︒
しかし私たちは︑余英時の議論に関して︑さらに次のこ
とに注意すべきである︒すなわち︑アメリカの文化保守主
義再評価は︑﹁モダン﹂をめぐる価値観が大きな動揺を始
めた八〇年代に脚光を浴び︑そうした﹁モダン﹂の価値観
を相対化し超越するような﹁ポストモダン﹂の思想の拡大
を促進したことである︒まさにこうした意味において︑余
英時の文化保守主義の再評価は︑中国文化のポストモダン
による解釈を直接に促す役割をも果たしたのである︒
これから検討する張世英の文章は︑ポストモダンという