近 世 農 書 は な ぜ 水 田 の 冬 期 湛 水 を 奨 励 し た か
有 薗
正一郎VIVIV皿III
はじめに
水田でのイネ一毛作と冬期湛水を奨励する農書
水田二毛作について記述する農書
農書が畑多毛作を奨励する理由
考察
おわりに
近世農書はなぜ水田の冬期湛水を奨励したか一[1]
近世農書はなぜ水田の冬期湛水を奨励したか二[2]
1 は じ め に
ね本稿は︑拙著﹃農耕技術の歴史地理﹄第1章の第4節﹁水田二毛作への評価﹂(前掲(1)七〜九頁)で記述した︑
水田への冬期湛水を奨励する農書をさらに拾って列挙する増補稿である︒
水田二毛作は︑水田における生産力発展段階説の指標のひとつに使われてきた︒例えば︑ある高校﹁日本史﹂の教
ヨ むぎうらさくにもう科書は︑﹁(鎌倉時代の)蒙古襲来の前後から︑農業の発展もみられた︒畿内や西日本一帯では麦を裏作とする二毛
さく作が普及していった︒﹂(前掲(2)一〇一頁)﹁(室町時代後期の)農業の特色は︑(中略)土地の生産性を向上させ
にもうさくさんもうさくる集約化・多角化が進められたことにあった︒(中略)畿内では二毛作に加え︑三毛作もおこなわれた︒﹂(前掲(2)
一二五頁)と記述している︒
ハヨ 前者は﹃中世法制史料集﹄に収録されている=エハ四(文永一)年の日付がある水田裏作麦への課税を禁ずる関東
る 御教書(前掲(3)二二一頁)などの史料を根拠にし︑後者は朝鮮からの使節を務めた宋希環が一四二〇(応永二七)
年に詠じた詩に︑摂津国尼崎で﹁日本の農家は秋に水田を耕して大小麦を種き明年初夏に大小麦を刈りて苗種を
種き秋初に稲を刈りて木麦を種き冬初に木麦を刈りて大小麦を種く一水田に一年三たび種く﹂(前掲(4)一
四四頁)と記述していることを根拠にしたものと思われる︒他の高校﹁日本史﹂教科書も︑ほぼ同じ文言を記述して
いるので︑多くの日本人は︑西日本では中世後半には水田二毛作が広くおこなわれていたと思っているようである︒
しかし︑実際には近世に入っても水田二毛作はほとんど普及していなかった︒その根拠のひとつは︑近世の営農技
術書である農書の多くが︑水田ではイネだけを作付する一毛作をおこなって︑冬期は湛水しておき︑畑では冬作物の
ムギ類を軸にする多毛作をおこなうことを奨励していることである︒
農耕技術に関わる研究をおこなう人々は︑近世農書類が記述する水田農耕技術を︑近代以降の水田二毛作の広範な
普及に至る︑ひとつ前の段階であると位置付けてきた︒
その例として︑嵐嘉一は﹁用水にさえ恵まれれば乾田化の可能な水田は著しく多かったのではなかろうか︒(中略)
低湿田と用水不備は稲作の集約化技術導入を阻止したという点できわめて重大な問題を孕んでいると思われる︒﹂(前
掲(5)二二頁)と記述している︒嵐の解釈は︑一定量の用水を確保できれば︑湿田を乾田にして二毛作をおこなう
ことを農法の発展と位置付ける︑農耕技術に関わる研究者の解釈の一例である︒
また︑長憲次は近世には水稲一毛作の段階にとどまっていた規定要因を五つあげ︑なかでも自給肥料に依存せざる
をえなかった段階のもとでの肥料の制約が重要な規定要因であったと記述している(前掲(6)八八〜八九頁)︒長
によれば︑水田二毛作の前提である水田の乾田化をおこなえば︑消耗する地力を回復させるために大量の肥料を投下
する必要があり︑また耕起・砕土・除草などの作業に多くの労力がかかるが︑近世にそれらを克服する技術が普及し
なかった場所では︑イネの一毛作段階でとどまっていたというのである︒
水田におけるイネ一毛作に対する長の解釈は︑農耕技術に関わる人々の従来の見解を代表している︒また︑この見
解は︑水田が乾田化されて施肥量の制約が緩むなどの条件が揃えば︑水田二毛作は近世に普及したであろうとの推測
に立っている︒
しかし︑﹃農商務統計表﹄の﹁田地作付区別﹂によれば︑一八八四(明治一七)年における全国総計の一毛作田率
ハァ は七五%で(表1)︑近世末には総水田面積の少なくとも四分の三はイネ一毛作をおこなう場であったと考えられる︒
近世農書はなぜ水田の冬期湛水を奨励したか三[3]
近世農書はなぜ水田の冬期湛水を奨励したか四n4]
また︑二〇世紀前半における全国総計の一毛作田率は五七〜六五%で(表1)︑都道府県レベルでは一九五〇年の値
が二〇世紀前半のおよその状況を表している(表2)︒一九五〇年前後は耕地利用率がもっとも高い時期であったが︑
それでも一毛作田はこれだけの割合を占めていた︒
ただし︑近世農書の著者たちは︑冬は水田を遊ばせておくことを奨励したわけではない︒筆者は︑近世農書の著者
たちは︑灌概排水技術の未発展や施肥量の制約などの枠内で︑ひたすら生産力を向上させる視点からではなく︑今の
日本人が使う言葉で表現すれば︑環境に適応しつつ一定量の米を生産する視点から︑水田の冬期湛水を奨励し︑多く
の農民はその意を汲みとって水田でイネ一毛作をおこない︑冬は水の出入口を管理して湛水に努めいていたとの仮説
を持っている︒
すなわち︑近世農書の著者たちは︑ある時点の農耕技術を生産力発展段階の中に位置付ける作業をおこなってきた
近代以降の農耕技術の研究者たちとは異なる視点から︑水田でのイネ一毛作と冬期湛水を奨励したとの仮説である︒
この仮説が実証できれば︑環境に適応する発想に戻る農法を模索しつつある二一世紀型農業の指針のひとつになるで
あろう︒
本稿では︑言及する地域へ普及が可能な農耕技術を記述した︑地域に根ざす農書の中から︑筆者が設定した仮説に
関わる記述を拾い︑およそ時間の経過順に並べて抜き書きする方式で︑仮説の妥当性の是非を検討する︒
本稿でとりあげる二四種類の農書が著作された場所の位置を︑図1に示した︒およその位置と分布を参照されたい︒
H 水 田 で の イ ネ ︼ 毛 作 と 冬 期 湛 水 を 奨 励 す る 農 書
伊予国の﹃清良記﹄(一六二九〜五四年)は︑稲刈り後も田に水を溜めておくことを奨励している︒
稲を刈ても跡の水を留置事第一なれと(前掲(9)一〇六頁)
む 三河国の﹃百姓伝記﹄(一六八一〜八三年)は︑田では裏作をせずに︑冬には田に水を入れておくことを奨励して
いる︒
真性地にして地ふかなる土おもきこわき田をハ冬より正月に至てうち寒中の水をつけてこをらせ土をくさ
らせねかすべし(中略)しらぬあきなひせんよりハ冬田に水をつ\めと世話に云り(前掲(10)]七巻七三
頁)
﹃百姓伝記﹄の著者は︑冬期湛水の効果として︑田に陽気がこもること︑水害と旱害を受けにくいこと︑耕起時に
反転させた稲株が腐りやすくなることの︑三つをあげている︒
水をつけをけハ其田に陽気能包りて稲を植て後能ミのる(中略)寒の水をつけたる田ハ水旱にあひてつよ
く冬水のかわきたる田ハ日にいたミ水にいたむ事はやし打て水をつけをくをくれ田と云上下へかへす
によりて古き稲毛もくさるなり(前掲(10)一七巻七三〜七四頁)
﹃百姓伝記﹂の著者は︑右に記述した土地条件の場所以外の田でも︑冬期湛水をおこなうよう奨励している︒ただ
し︑畑がほとんどない村では水田二毛作もやむをえないとも記述している︒
田に麦を作跡をまた田かへし稲を作る事費多し然共田斗多くして畠なき村里ハ両作つくるへし(同一
近世農書はなぜ水田の冬期湛水を奨励したか五[5]
近世農書はなぜ水田の冬期湛水を奨励したか六[6]
七巻八四頁)
け 岩代国の﹃会津農書﹄(一六八四年)は︑田で裏作をせずに︑冬には水を入れておくことを奨励している︒ただし︑
畑がほとんどない村では水田二毛作もやむをえないとも記述している︒
山里田共に惣而田ヘハ冬水掛てよし(前掲(11)五四頁)
麦かり跡に晩稲殖てよし又嬬を殖てもよしとかく麦田の稲ハ本田(一毛作田のこと)より悪しされとも畑
不足の処ハ蒔て養を多く入れは余り損もなし(同六四頁)
東北地方の水田では︑一九五〇年代でもイネの一毛作がおこなわれていた(表2)︒以後︑本稿では東北地方の農
書からは記述を拾わないことにする︒
の ﹃農業全書﹄(一六九七年)は︑﹁麦蒔﹂﹁麦跡﹂(前掲(12)一二巻一四一〜一四二頁)などと称する田以外では裏
作をおこなわず︑冬の間は水を入れておくことを奨励しているので︑二毛作をおこなう田の面積は多くなかったと考
えられる︒
ミつたひふゆつヒふかたひかんぢうなを水田をバ水の干ざるやうに冬よりよく包ミをくべし深田の干われたるハ甚よからぬものなり寒中ハ猶よ
ねるたがやく水をためてこほらせをきて春耕すべし(前掲(12)一二巻五七〜五八頁)
いなだたがやむぎまきほかあきたがやところすなぢはやすき稲田耕しの事麦蒔の外ハ秋耕してよき所もあり沙地などハ早く黎水を入くさらかしをきたるもよし
おほはるたがや大かたハ春耕したるにしかず(同一二巻一四一頁)
ただし︑ムギとナタネの項目には︑水田でイネとの二毛作をおこなう技術が記述されている︒
むぎぢたわせあとうちすきかへ麦地こしらへの事(中略)田ならば早稲の跡をうるおひよき内に黎返し(前掲(12)一二巻一五二〜一五
三頁)
あぶらなたはたまきさかやすむしくらミおほ油菜田圃に蒔て栄へ安く虫も食ハず子多し(同一二巻二三一頁)
ゆ 加賀国の﹃農事遺書﹄(一七〇九年)はイネとイグサの水田二毛作の手順を記述しているが︑イグサ以外の作物と
の水田二毛作の記述はない︒
カリシマヒアクヘハヤウへ藺ハ成程上田ヨシ(中略)田ヲ刈仕廻テ温カナル日早ク植タルヨシ(前掲(13)七七〜七八頁)
イグサは湿地に生育する植物なので︑冬期湛水と同じ状態になるが︑イグサを作付した田は瘡せるので︑イグサ苗
の植付場所を毎年変えるよう指示している︒
イナエアトノヤスコトシヲキパンバカヘオク藺苗ハ跡癖ルモノナリ今歳東二置タラバ来年ハ西二置各番二場ヲ変テ置ベシ(前掲(13)八〇頁)︒
したがって︑二毛作をおこなった水田の面積は極めて小さかったであろう︒
バね同じく加賀国の﹃耕作大要﹄(一七八一年)は︑﹁田工冬水ヲカケル必ヨキコト也﹂(前掲(14)二九七頁)と記
述している︒
め じかた安芸国の﹃賀茂郡竹原東ノ村田畠諸耕作仕様帖﹄(一七〇九年)は︑地方役人へ提出した東野村の耕作技術の報告
書であり︑晩稲を作付する湿田には冬は水を溜めておくことが記述されている︒
晩田地持之儀者水田山田杯ハ年内より水ため置二月末より取付あぜ直し持三月上旬より荒おこし仕又
水ため置申候(前掲(15)一一頁)
ただし︑早稲と中稲を作付した田では冬期にムギを作っている(同八〜九頁)︒
め 尾張国知多郡の人が書いたとされる﹃農業家訓記﹄(一七三一年)は︑﹁水田﹂と称する田には︑稲刈り直後から水
近世農書はなぜ水田の冬期湛水を奨励したか七[7]