跡 見学 園女 子大学 国文 学科 報 第 二十七号 (平成 十 一 年 三月 十 八日)
青 山 ︑ 志 賀 家 墓 所 の空 想 と 夢 想 ⇔
ー慧子の誕生︑死︑その埋葬1
町 田 榮
1
さだ 志 賀 直哉 と そ の妻康 (子) と は ︑ 二男六 女 をあ げ た子福 者 で
さと こ
はある︒が︑この夫婦は若くして初子の長女慧子(大五・六・な お やす
七〜同七・三一)を︑さらに第三子の長男直康(大入・六・二〜同七・八)を亡くしてしまう︒生後︑それぞれ五十五日︑三十七
日の短い時間にしか恵まれなかった︒病名は腸捻転︑丹毒とい
る め こ
う︒嬰児たちには︑とうてい耐えられぬ︒第二子は次女留女子(大六・七・二三生まれ)である︒もとより新生児︑乳幼児期のわが子を失うのは志賀ひとりに
限らない︒島崎藤村は︑冬子夫人との問に三男四女をもうける︒
うち三女縫子を︑長女緑を︑次女孝子を︑次いで妻にも先き立
たれる︒二男五女に恵まれた夏目漱石も五女ひな子を失ってい
る︒志賀の身辺でも︑里見弾が山中まさとの初子夏絵を︑帰阪 の特急列車内でその訃報に接する︒生まれて﹁四十八日﹂であっ
た︒短編﹃夏絵﹄(大四・=﹃新小説﹄)に語る︒﹃白樺﹄の盟友木下利玄も︑照子との問に三男一女を生み︑
とし きみ
三児を亡くしている︒長男利公(大元・入・六〜同一〇)︑次男二郎(大三・三・三〜同四・一二・五)︑長女夏子(大六・六・二九.
〜一二・四)たちである︒利公は未熟︑早産児で︑生長が危ぶ
まれていた︒﹃利公の為めに﹄(大二・八﹃白樺﹄)に︑五日間の
生死の記録と追悼歌三十三首を掲げる︒また﹃二郎に﹄(大七・
=﹃短歌雑誌﹄)︑﹃夏子に﹄(大七・九﹃白樺﹄)もある︒
ユ
ここに哀惜の情を傾けた尽した︑﹃くけ戸﹄と題する手記がある︒﹃定本木下利玄全集﹄散文篇(昭五二・九・一〇刊臨川書
店﹀の方に採録されている︒看過できない︒利公に続けて二郎
の夭逝に遭った後︑木下夫妻は傷心にまかせて︑長途の旅と仮
寓とに歳月を送る︒途中︑大正五(一九一六)年十月二十二日
に亡き 利公 ︑ 二郎と の 再会 を求 め て 島 根 県島根 半島 の 突 端︑加
くけど 賀 の 潜 戸と 呼ば れ る洞窟 を訪 れ︑ 一 夜を 過す の だ ︒短文 ﹃ぐ け
く け ど
戸﹄はその体験記である︒後年に発表する﹃出雲國加賀の潜戸﹄(大入・一﹃白樺﹄)三十一首と対をなす︒そのうち﹁旧潜戸﹂と
詞書を付した十三首中に︑
マ マ 亡 き子 う が 夜 き て積む と ふ石 の 塔 し めぐ 多 し 窟 の 奥 に
ママ
潜戸の窟しめみ\くらし吾子も来て何れの塔をくみにけむかも
吾子の為かさねし塔を洞穴にのこしてくればうしろさびし
き
の三首がある︒旧潜戸参りの不思議を詠っている︒実際に︑木
下夫妻は霊妙な一夜の体験を持つことになる︒次は手記﹃くけ
戸﹄の全文である︒
潜戸にいりて夜は小児の霊の来ると云へばまつてゐる事に
する︒腹のすかないやうたべなどしてゐると︑次第に穴の
中はくれてきて波の音のさ・やきさびしく岩もる潮水の音
がひそかにふけてくる︒夜半頃やうやう何か音が近づく︒
なるたけしつかに心の中だけで二人の亡児をおもひ二人待
つてゐると近づいたものがあり二人の膝にふうわりとのつ
た︒重さが丁度二郎位の重さだ︒やはらかいぶく广\の顔
の頬ぺたに頬をつけた︒﹁この頃はあのくるしい病気もな
ママ
ほり楽しきくらしてゐますか﹂ときくと首をたてにふつた︒何 か し て 貰 ひ度 い 事 があり ます かとき いたら い や く を し た︒ 初利 公 は 父 に 二郎 は母 後 か は る︒ ﹁今 度 は丈 夫 な
お怜悧 な子 にな つて生 れ て ︑ 又 二 人 で あ ひま せう ね﹂と 云
ママ
つたらいくつくも首をたてにふつた︒それから今度はかるいのが来た︒利公ちゃんかと云つたらさうだと云つて前
のやうな事をくりかへした︒そして長くだつこしたら入口︻字不明
を す か し て み る と□ し ら む 頃 き つと た つて ぴ ち やく
く 足 音 が遠ざ か つ た︒あ け てみた ら砂 に小 さな可愛 い足
跡があり石がつんであつた︒他の子がつんだのだらう︒
加賀の潜戸は︑死児の降霊地といわれる︒旅行者︑木下夫妻
のことさらに訪れたゆえんだ︒水つく洞内にあって︑夫妻は﹁し,
つかに心の中だけで二人の亡児をおもひ﹂凝らし︑﹁待つ﹂て
いると︑すぐにそれが叶えられる︒素朴な︑しかも痛切︑如実
な交歓を結ぶ︒亡き子を偲ぶ至情は︑ひととき実現したのであ
る︒ふたたび肌身を接しえた利公の︑二郎の実在感はみずみず
しく︑豊かだ︒親と子の別れてまだ新しく︑率直な情感が流れ
る︒交信は涙ぐましい︒宗教を超えた︑神秘的な次元に達して
いよう︒
畢竟︑これも夢見の一種であろう︒目覚めは避けられない︒
志賀も青山︑.志賀家墓所に通っては祖父直道︑生母銀と妖しく
なじむ常習者であった︒すでに︑別稿で述べた通りである︒た
だし︑この父親は慧子︑直康とも死別直後にして交信しない︒
愛惜の情に乏しいわけではあるまい︒わけても︑慧子とはあえ
て交信を求めぬ︒交信に堪えられぬからだ︒せめて︑静穏な裡
に安置したいからだろう︒それには理由がある︒直康の場合は︑
志賀は墓所の交信者たる時期にない︒幼児留女子が傷心を慰め
てくれよう︒
直康を亡くして三年後︑次のような墓参記がある︒大正十一
(一九二二)年四月十三日付の志賀日記に︑
(略)俥にのり墓参す︑久しぶりに祖母上に会ふやうな感
情を持つ︒慧子直康の墓には金せん花(?)一輪づ・誰
れか上げてゐてくれた麻布へかへる︑
折りから︑麻布志賀邸(東京市麻布区二河台町二七番地︑現︑都
港区六本木四丁旦二番一三号〜一五号)に妻子を連れて滞在してい
す ず こ ま き こ る︒康 子夫 人︑ 二女留 女子 ︑三女 寿 々 子 ︑四女 万亀 子 であ る︒
一 家 の 箱 根行 に 当 っ て︑当年 一 月十九 日生 れ の万亀 子 の誕生祝
の返礼 を兼 ねた 上京 であ ろ う ︒ こ の日 の 午後 ︑康 子 の 父 で貴族 院 議員 ︑ 子爵 勘 解由小 路資 承邸 (東 京 市牛込 区河 田 町 一 八 番地︑ 現 ︑
都新宿区 河 田 町 )を 同様 に訪 ね て 帰 路 ︑ 志賀 は家 族 と別 れ て ︑
ひとり青 山墓 参 に来た も のらし い ︒
る め
前年の夏︑祖母留女は八十六歳で死去(天保七・七・八〜大一〇・入・一六)する︒長く肺気腫を病んでいたが︑老衰死とい
うべきだろう︒﹁祖母は枯木が枯切るやうに亡くなつた︑丁度︑
我孫子へ帰つた后(注︑大一〇・八・一六に麻布の邸よりいったん
帰宅する)で迎ひが来て行つたら二時間程前に亡くなつてゐた
が︑如何にも自然な死の感じで前に左ういふ場合を想像して恐
れてゐたやうなものではなかつた﹂と︑武者小路実篤に告げて いる(大一〇・八・二四付書簡二一ご○)︒また︑﹁如何にも天寿を
全うした亡くなりやう﹂(大一〇・一〇・七付舟木重雄宛書簡二一二
七)ともいう︒取り乱すことはなかった︒故留女一周忌の法要
は︑翌十一年一月十三日︑祖父直道の祥月命日に営む︒﹁五時
起床(前夜二時就眠)一番の列車にて上京︑青山墓参︑/祖
父十七回忌祖母一周忌﹂(大=・一・一三付日記)とある︒
右の四月十三日は︑故祖父の月命日にあたる︒それに因んで︑
故祖母墓参に訪れたのであろう︒若き日の志賀日記によれば︑
例年︑祖父直道の祥月命日にひとり墓参りをする︒青山︑志賀
家墓所は死者ならぬ直道と生母銀とに現に﹁会ふ﹂という︑甘
美な夢殿と化す︒排他的︑閉鎖的なひとり墓参者は︑そこの夢
見ゆえに特異な墓参史を形成するほどであった︒後述するが︑
遠く大正六年八月三十日の生母二十三回忌墓参をもって終結し
ている︒彼我対照すると︑﹁久しぶりに祖母上に会ふやうな感
情﹂とは平凡な親愛感︑なつかしさである︒墓参に何らの特異
性はない︒表現上︑往年の残響を見せても︑泉下の故入たちは
誰れひとり︑眼前によみがえることはあるまい︒
次いでわが子の慧子︑直康を葬った墓所を詣でる︒志賀家墓
所からあまり離れていない︑別の墓所である︒逆縁をはばかっ
てか︑日記︑私信︑随筆などにふたりの年忌供養︑墓参の記述
はほとんどない︒おそらく︑事実もその通りであろう︒慧子は
終夜目のあたりに死なせてしまい︑痛苦を﹁早く忘れたかつた﹂
(﹃和解﹄八)︒生まれて六日目に発病し︑一ヶ月間︑病勢と悪戦
苦闘して敗れた直康は﹁苦しみに生れて来たやうなものだつた﹂
(﹃暗夜行路﹄後篇︑第三の十九)という︒前掲︑一月十三日付に
ふたりの墓参を特記しない︒﹁青山墓参﹂に含めてしまう︒む
しろ︑四月十三日付は異例である︒﹁金せん花(?)一輪づ・
誰れか上げてゐてくれた﹂がうれしかったのである︒
故慧子︑直康の墓所はそこにふたりを合祀した石碑一基も現
存する︒すでに︑志賀家墓所内の﹁志賀直哉之墓﹂に一所に葬
られているから︑所在地が残っているというべきかも知れない︒
構成・解説阿川弘之︑撮影大竹新助﹃日本文学アルバムー3志賀直
哉﹄(昭三〇・七・二五刊筑摩書房)に写真一葉が掲載されてい
る︒同書はふたりの石塔に着目して︑写真を撮影し︑採録した
唯一の資料だ︒幸いに︑本学教授の柴田光彦氏のこ仲介を蒙り︑
阿川弘之氏から電話で教示にあずかった︒あの大著﹃志賀直哉﹄
上下(いずれも平六・七・一三刊岩波書店︑新潮文庫いずれも平九・
八.一刊)をはじめ︑﹃志賀直哉の生活と作晶﹄(昭三〇・﹁一〇・三一刊創芸社)︑﹃志賀直哉の人と作品﹄(昭三九・八・二〇刊
学習研究社)など多くの編著︑随筆を書いておられる︒ご教示
の内容は墓碑の現存すること︑志賀家墓所から二︑三分のとこ
ろ︑子供の背丈くらいの高さ︑‑ということである︒充分であっ
た︒十年来︑その存否を半信半疑のまま二十回ほど探し歩いて︑
ほとんど諦めていた︒阿川氏︑柴田氏に心からお礼を申し上げ
る︒
一種イ第四号二十側︒青山霊園管理事務所前の中央道を進 み︑東四通りに入って︑最初の右折通路を曲った︑その左手下
にある︒角地である︒通路に沿って長い三六〇センチ×一七七
センチ(縁石幅二〇センチを含む)方形に縁石を画した︑ささや
かな墓所である︒平地にただ一基︑花立て二本を埋め込んだ高
さ二六センチ︑横幅一二一センチ︑奥行き六八センチと六五セ
ンチの土台石︑その上に高さ七〇センチ︑幅下七七センチ︑同
上三五センチ︑厚さ三〇センチの竿石を立てる︒いずれも小松
の自然石を二段に組む︒ほかに何ひとつしつちいはない︒碑面
を南に向けて建ち︑通路には墓石の狭い右側と裏面しか見せぬ︒
表には︑
慧子與
直康
之墓
と︑三行に刻む︒左側面にまわれば︑細字で
大正五年駄朋訛旧眺歿
大正八年駄朋だ聞甦
父志賀直哉/建之
とある︒悲嘆が伝わって来よう︒誰れの毛筆書蹟か︑建碑の時
期もわからない︒
直康誕生の喜び︑あわれな死は﹃暗夜行路﹄後篇︑現第三の
十七︑十八︑十九章(大=・一〇︑翌一二・一﹃改造﹄)に作品
化される︒仮構軸に載せて描く︒当十一年は神経痛に悩み︑