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?南農村における神々信仰 : 福建省晋江市農村での 実地調査に基づいて

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?南農村における神々信仰 : 福建省晋江市農村での 実地調査に基づいて

著者 聶 莉莉

雑誌名 国立民族学博物館研究報告

巻 22

号 3

ページ 585‑659

発行年 1998‑02‑20

URL http://doi.org/10.15021/00004140

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最  南農村における神 々信仰

   ?南 農村 におけ る神 々信仰

一 福建省晋江市農村での実地調査に基づいて一

最    莉 莉*

Belief in Gods and Demons in the Southern Part of Fujian Province:

Field Data from a Country Town

Lili NIE

This article aims to describe and analyze the religious activities prac- ticed by the vast majority of the population in the southern part of Fu- jian Province, including sacrifices to spirits of sacred objects, belief in demons, exorcism, and the use of spirit-mediums. The analysis is based on field work which was done three times for a total of two months from

1991 to 1995 in Anhai Town, the City of Jinjiang, Fujian Province.

In this area, almost all of temples, whether Buddhist or popular, see the worship of numbers of Gods from different religion. But this phenomenon dose not mean that there is no classification of temples.

According to the connection to the social life, temples are divided into feixianghuomiao, in which worship is almost entirely conducted by Bud- dhist monks, and xianghuomiao, in which ordinary people can come and go freely, and where individuals and families in the area can worships bringing offerings and incense to pray for blessings whenever they feel the need.

The gods of popular religion including spirits of former human be- ings who have been deified, or the gods of Daoism, wangye, who are believed to bring plague and also can answer requests and grant favors, and even Buddhist saints are divided into two sorts. One is the spirits of

西南学院大学,国 立民族学博物館研究協 力者

Key Words : chushen, shamanism, Buddhism, Confucianism, sacred and secular

キ ー ワ ー ド:「 出 神 」,巫 俗,仏 教,儒 教,聖 と俗

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国立民族学博物館研究報告  22巻3号

chushen, the other is buchushen. The former are spirits who are be- lieved, through some spirit-mediums such as portable shrines, shamans and so on, to be highly responsive to prayers, while the latter preserve providence in silence and are formless. , The former answer emergency or unusual requests in prayers, the latter the daily or usual requests of prayers. It may be said that this kind of division exists mainly because of the needs of prayers.

Chinese popular religion is conducted in the midst of ordinary social life, in the family, village, or city neighborhoods called jing. Most popular rituals are done at home before the family altar or at the temple of the local god who is responsible just for one neighborhood jing or village. The popular religious temples, in which there are usually no Buddhist monks or resident clergy, are run and paid for by local people, such as the committee of old man, lay Buddhists, caretakers and so on.

Many Buddhist rituals are actually performed by lay Buddhist. Along with the gods and some spirits, there are shamans who it is believed can be possessed by gods. It is thought that spirits temporarily come down into their bodies, speak through them, and give them special knowledge. As a matter of fact, ordinary people who have a deep belief in the spirits can also perform as shamans. Therefore, in this area, be- tween the religion and the everyday world, religious specialists and or- dinary people, and between sacred and secular, there is no clear dividing line.

By the Song period (eleventh century) , the shamanism native to the

Fujian area had been blended together with Buddhist ideas, Daoist

teachings about many levels of Gods, and Confucianism to form the

popular religious system common from then on. This paper also

analyzes this phenomenon of religious mixture.

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地図 晋江市地域地 図

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竈  聞南農村 におけ る神々信仰

は じめに

  1)農 村 社 会 の風 景   2)民 間 信 仰 が盛 ん な理 由   3)本 研 究 の 主 旨 1.調 査 地 の概 況   1)歴 史   2)宗 教 的 施設   3)行 政 と人 口 2.「 神 明 」 と祠 廟   1)祀 られ て い る 「神 明」

  2)祠 廟 につ い て の 分 析   3)「 神 明 」 につ い て の分 析     (1)「 陽神 」 と 「陰神 」     (2)「 出神 」 と 「不 出 神」

      a  「顕 霊 」       b  「出嬌 」

      c  巫 師 を媒 介 と して       d  「出神 」 と 「 不 出神 」 の 問     (3)24境 の 「境 主 」

      a  「境 主 」 の 役 目       b  観 音 との 関 係

      c  「境 主 」 の 相 互 関係       d  「 神 誕 日」 の 祭事 3,「 神 明 」 に仕 え る者   1)道 教 系

  2)仏 教 系   3)土 着 信 仰 系 4.地 方 文 化 の土 壌   1)巫 俗 の風 土   2)儒 教 の影 響

    (1)儒 教 の 英 雄 と 「 神 明 」     (2)儒 教 の 倫 理 道徳 観 と 「神 明 」     (3)神 霊 観 の 異 同

    (4)現 実 主 義 の 態 度

    (5)官 僚 ・知 識 人 の民間 信 仰 に 対 す る         態 度

  3)世 俗 化 ・巫 俗 化 した 仏教 の影 響 5.む す び

  1)「 神 明 」 の神 格 に つ い て   2)「 神 明」 の機 能 につ いて

  3)神 職 者 と俗 人 の 間 ・各宗 教 系 統 の間

は じ め に

  本論 文 は,中 国 福建 省南 部,俗 称 閾南 地 域 に あ る晋 江 市 安 海 鎮 で1991年,1992年 及 び1995年 の 夏季 に 三 回 にわ た って 延べ2ケ 月 ほ どを 費 して 行 った 実地 調 査 に 基 づ い た もの で あ る。 地 図 に示 した とお り,安 海 鎮 は 海 岸 に あ り,陸 上 で は,福 建 省 南 部 の大 都 市 泉 州 か ら30キ ロ,厘 門 か ら110キ ロメ ー トル ほ ど離 れ て い る。 海上 で は,安 海 の 港 か ら厘 門 まで37海 里(1海 里=1,852メ ー トル),泉 州 まで51海 里 の距 離 が あ り,今 世 紀 の40年 代 まで,こ の地 域 では 陸 上 よ り船 を よ く利 用 した 。

  1)農 村 社 会 の 風 景

  筆 者 は 中国 の 東北 地 方 で調査 を行 って きた が,今 日の 福建 地 方 の調 査 で民 間信 仰 が 盛 ん に 行 わ れ るの を感 じた。 東 北 地 方 の農 村 社 会 では,「 神 明」 信 仰 は,革 命 以 後, 特 に文 化大 革 命 の 時 期 に 「 封 建 的 な迷 信 活 動 」 と して厳 し く禁圧 され た 。 そ れ 以来,

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国立民族学博物館研究報告  22巻3号 ほ とん ど中断 され た まま で あ る。 村 々の 「 神 明 」 を祀 る廟 は,取 り壊 され た り,他 の 用 途 に転 用 され た り,修 復 され ない ま ま放 置 され て い るた め に,現 在 では 大部 分 の村 に 廟 が な い。 た とえ 廟 が あ って も,地 元 の参 拝者 が少 な く,廟 を訪 れ るの は ほ とん ど 旅 行 客 か遠 方 か ら来 た巡 礼 者 で あ る。

  しか し,閲 南 農村 で筆 者 の 目に つ いた の は,全 然 違 う風 景 で あ る。村 ご とに 必 ず 「 神 明 」 を祀 る廟 が あ り,一 つ の村 に 複 数 の廟 が あ るの が普 通 で あ る。 筆 者 の 調査 した 安 海鎮 に属 す る三 つ の村 に は平 均 八 つ の廟 が あ る。 廟 で祀 られ て い る神hの 種 類 も東 北 よ りず っ と多 い。 また,廟 に は,主 神 以外 に往hに して,「 配 神 」 と呼 ぼれ た 合 祀 神 も祀 られ て い る。 人hは,絶 え 間 な く廟 に参 拝 に来 る。 神 前 の 「供 稟 」(供 え も のを 並 べ るテ ー ブル)に は参 拝 者 が 燃 や した線 香 の煙 が いつ もゆ らゆ ら とた ち上 って,主 殿 外 の 「焼紙 炉 」(炉)に は 参 拝 者 が 神 々に捧 げ た紙 銭 が い つ も燃 や され て い る。 住 宅 が密 集 す る狭 い 路地 で,肉 や 果物,菓 子 な どの供 え もの を担 って廟 に 向 か う婦 人 の 姿 を頻 繁 に見 か け る。 神 を祀 る こ とは人 々の 日常生 活 の一 部分 とな っ てい る。

  革 命 以 後,南 北 を 問わ ず に 中 国 社会 全 体 は,マ ル クス主 義 の イ デ オ ロギ ーの指 導 の も とに置 か れ,ま た,国 家 的 な 規模 で絶 え 間 な く展 開 され た毎 回 の政 治 運 動 は,い つ も民 間信 仰 を 「 封 建 迷 信 」 と して厳 し く批 判 して きた 。 な の に,何 故 閾 南 地域 は,他 の地 域 と異 な って民 間 信 仰 が 依然 と して盛 ん に存 在 してい るのか?  も ちろ ん,経 済 改革 以後,政 府 の イ デ オ ロギ ー面 で の取 締 が 緩 ん で きた の に した が って,筆 者 の調 査 した東 北 地 域 で も緩 や か では あ るが,古 い 民 間 信仰 は 台頭 しつ つ あ る。 しか し,そ の 勢 い は,閾 南 地域 に は全 然 及 ぽ な い。

2)民 間 信 仰 が 盛 ん な 理 由

  閾南 地 域 に 民 間信 仰 が 盛 ん に 存在 す る理 由 は どこ に あ るの か?  そ れ に 関 して は, さ まざ ま な考 え が あ る。

  まず,そ れ は民 間信 仰 の歴 史 の深 さ と,福 建地 域 の独特 な文 化 的 風 土 に 関わ る と主 張 す る学 者 が い る 【 徐   1993:14‑68]。 そ の 見 解 は次 の よ うに要 約 す る こ とが で き る。

  閾南 の 民 間 信仰 が福 建 とい う地 域 で生 じ,そ の歴 史 がJ新 石 器 時 代 に お け る閾 人 の

トー テ ム信 仰 まで に遡 れ る。 闘人 は,蛙,蛇,犬 及 び 龍 な どの トーテ ムを崇 拝 し,文

明社 会 に 入 って そ こか ら妖精 や 妖 怪 信 仰 が 生 まれ た 。 秦漢 以後,越 人 の一 部 族 と して

の閾 越 人 は漢 化 し始 め た に もか か わ らず,や は り中 原 地域 の漢 人 と異 な り,『漢 書 ・

地 理 誌 』 に は,彼 らは 「 信 巫 鬼,重 淫 祀 」(巫 鬼 を信 ず,淫 祀 を 重 ん じる)と 記 載 さ

れ てい る1)0

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爵  闘南農村における神 々信仰

  唐 宋 の時 代 に 中原 地 域 か らの移 民 が 大 量 に福 建 に 入 り,仏 教 禅 宗 南 派 と朱 子理 学 も 福 建 で創 立 され,福 建 は辺 鄙 な辺 境 地 か ら一 躍 に全 国 で人 口が 一 番 密集 し,教 育 水準

も高 い地 域 に変 身 した 。 仏教 と朱 子 理 学 の活 躍 と共 に,民 間 信 仰 も活 気 に溢 れ,膨 大 な数 の人 格 神 が創 造 され た。,.祖,臨 水 夫人,保 生 大 帝 な どの影 響 力 大 きい 「 神 明」

が,そ の 時 代 に造 られ た の で あ る。 元 明 清 の時 代 に は,地 域 共 通 の 「神 明」 が新 た に 造 られ る こ とは ほ とん どなか った が,人hの 信 仰 は 更 に深 ま った。 また 人 間 と 「神 明」

との 関係 に 大 きな変 化 が 生 じた 。唐 宋 の時 代 に 「 人 間 は 神hの た め に 存在 す る」 とい うな ら,明 清 時 代 に は商 品 経 済 の発 達 に伴 い,か つ ての 状 態 と異 な り 「神hが 人 間 の た め に存 在 す る」 よ うに な り,人 間 と 「 神 明 」 との関 係 は 一種 の取 引 の 関 係 に変 わ っ た。 人hの 「神 明 」 へ の大 量 の 献 金 は,も は や神 々 のた め の では な く,自 分 た ち のた め,即 ち そ の保 護 や 助 け を求 め るた め とな った 【 徐   1993:174‑2941。

  要 す る に,こ の 種 の意 見 は,具 体 的 な状 況 に は時 代 に よ って変 化 が あ る もの の,閾 南 の 民 間 信 仰 が,福 建 とい う土 地 で 「 土 生 土 長 」,即 ち そ の 土地 で生 え て そ の土 地 で 成 長 した大 樹 で あ る と強調 す る も ので あ る1徐   1993:384】。

  一 方,福 建 地 方 の 文 化 が 中原 地 域 の漢 民 族 文 化 と深 いか か わ りが あ る と指摘 す る学 者 も い る。 西 晋 時 代(265‑316)に,中 原 地 域 か ら戦 乱 を 逃 れ て,林,黄,陳,鄭, 銭,丘,何,胡 の八 つ の姓 の人 々が 福建 に入 って 以 来,歴 代 の戦 乱 の歳 月 に,難 を逃 れ るた め に,中 原 地 域 か ら大量 の漢 族 が福 建 に移 り住 ん だ。 福 建 は,王 朝 の中央 か ら 遠 く離 れ た辺 境 に位 置 す るの で,伝 来 して きた 中原 の文 化 は,比 較 的保 存 され た 。 民 間 信 仰 も含 め て 福 建 の 地 方 文 化 は 中 原 文 化 を よ く取 り入 れ て 発 展 して きた1呉 1993:2],

  中原 か ら伝 来 した道 教 と仏 教 が,閲 南 の 民 間信 仰 に 大 きな影 響 を 与 え た と指 摘 す る 意 見 もあ る。 中 国在 来 の宗 教 で あ る道 教 と,後 漢(25‑220)に イ ン ドか ら中 国に 伝 来 した仏 教 は,西 晋 太康 の時(280‑289)に ほぼ 同時 に 閾 南 地 域 に 入 り,泉 州 で は 最 初 の 道 観 で あ る 白雲 観 と最 初 の仏 教 寺 院 延 福寺 が,建 て られ た 【 呉  1993:10‑103】。 そ れ 以来,道 教 と仏 教 は急 速 に 発 展 した。 古 代 の 神仙 思 想,方 術,陰 陽 五 行 及 び識 緯 に 根 源 が あ る道 教 は,福 建 地 方 の巫 俗 信仰 と共 通 点 あ り,民 間 に 比較 的 浸 透 しやす い。

一 方 ,仏 教 も影 響 力 を 拡 大 す る た め に,土 着 の 巫 俗 信 仰 を 導 入 し た 【 徐  1993:

195‑213J。 また,宋 代 か ら儒,仏,道 三 教 が 融 合す る傾 向が 見 え始 め た 【 鄭 他   1993:

1)  越 人 は交 趾(現 在 の ベ トナ ム北 部)か ら会 稽(現 在 の漸 江省 紹 興)に 至 る地 域 に 住 ん で いた が,閾 越 人 は 現 在 の 福 建 省 に住 ん でい た越 人 の一 部 族 で あ る。 『中国 省 別 ガ イ ドー 福 建 省 一 』 【 辻 康 他(編)  1993]を 参 照 。

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国立民族学博物館研究報 告  22巻3号 1]0

  更 に,福 建 地 方 に お け る儒 学 の 発 展及 び輩 出 した福 建 出身 の 王朝 の官 僚,士 大 夫 も, 民 間 信 仰 の発 展y>  役 を演 じた 。 歴 史 の 各時 代 に,福 建 は科 挙 の 合 格者 が 輩 出 して, 北 宋 と南 宋 の両 時 代 だ け で も福 建 か ら進 士 が5,000人 以上 も出 た 【 徐   1993:1771。 彼

らは,中 央 王 朝 の官 吏 に な る にせ よ,地 方 の 官 僚 に な るにせ よ,故 郷 の民 衆 の 神 々へ の信 仰 を 尊重 し,祠 廟 の建 造,宗 教 祭祀 の主 宰,高 名 な道 士 の た め の碑 文 の執筆,宗 教 理 論 の 研 究 と著 作 に熱 心 に と りくみ,さ ら に,故 郷 の民 衆 の 信 仰 す る 「 神 明 」 の た

め に皇 帝 に 上 奏 し神 名 の勅 命 を下 す よ うに 懇 願 す る こ と も熱 心 だ った 【 鄭 他   1993:

3‑4]o

  儒 家 の思 想 家 朱 烹(1130‑1200)は,生 涯 の 大部 分 の 時 間 を福 建 で過 ご し,彼 は仏 教 と道 教 の理 論 を 深 く研 究 し儒 教 の理論 に導 入 した 【 陳 他  1989:58‑59]。 朱 烹 は生 涯 40年 ほ どの学 術 活 動 にお い て,多 くの 弟子 を 養 成 し,そ の弟 子 た ち も朱 烹 の仏 教 と道 教 を尊 重 す る態 度 を 継 承 した 。例 えぽ,朱 烹 の も っ と も優 れ た 弟 子 の一 人,真 徳 秀 は, 泉 州 の 知府 を勤 め る間 に,朱 子 理 学 の 「 仁 」 の理 念 を 高揚 し,「有 功 於 民 」(神 々が民 に功 が あ る)と い う前 提 の も とで,民 間 の信 仰 す るあ らゆ る 「 神 明 」 を政 府 の 祭祀 の 範 囲 に入 れ て,自 ら も 「 請 神 降 福 於 民 」(神 に民 へ 福 を賜 る よ うに 懇願 す る)と い う 主 旨 に基 づ い て祭 文 を 書 い た り,神 々の祭 祀 を主 宰 した りした 【 呉   1993:21‑24]。

  但 し,朱 烹 及 び 朱 子学 の民 間 信 仰 に対 す る役 割 を 違 う立場 で扱 う意 見 も あ る 【 小 島 1991:89]0

  朱 蕪 は弟 子 に次 の よ うに 語 った こ とが あ る。 「 人 倣 州 郡,須 去 淫 祠 。 若 繋勅 額 者, 則不 可 軽 去 」(r朱 子 学 語 類 』 巻 三 一 七 九 条)即 ち,「 地 方 官 に な った ら淫 祠 を 除去 す べ きだ が,勅 額 を掛 け て い る場 合 に は,軽hし く撤 去 しては な らな い 」 。

  淫 祠 は,「 災 い を避 け,福 を 求 め る民 衆 か ら信仰 され て い る廟 を指 して いる 」 。   淫 祠 の対 概 念 と して,正 祠 の 概 念 が あ り,正 祠 は,「 朝 廷 の指 示 で地 方 官 衛 が祭 る こ と

に な って い る祠 廟 とい う意 味 で あ る」 。 孔 子 以 下 の儒 者 を杞 る文 廟 や,明 代 以 降 の城 陛廟,朝 廷 が編 纂 す る礼制 の書 物 に載 るな ど は正 祠 で あ った 。 淫 祠 と見 なす べ き廟 の 中 に,北 宋 以来 の宗 教 政策 に よ り,何 度 か全 国一 斉 に,地 方 で霊 験 あ らた か と され る 廟 を朝 廷 に 届 け 出 させ 額 を与 え る こ とが あ った 。 また,こ れ とは 別 に,早 魑 ・長雨 ・ 盗 賊 襲 来 な どに際 して,霊 威 を 現 して 人 々を 救 った 神 に は,当 該 地 方 官 の上 申を経 て 朝 廷 が 随 時,額 や 封 号 を与 え る。 朱 烹 は,1祠 が 「 い たず らに迷 信 を広 め るだ け で,

民衆 教 化 の上 で好 ま し くな い 」 が,朝 廷 の認 可 を 得 て い る廟 とな る と,「 淫祠 」 とは

い え,た だ ち に取 り壊 す には いか ない̲朱 烹 の 発 言 中,但 し書 きの部 分 は,彼 の苦

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瞬  聞南農村における神 々信仰

渋 を 伝 え て い る 【 小 島   1991:89‑90】。

  北 宋 に 始 ま った,地 方 の祠 廟 に対 す る贈 額 ・贈 号 「 政 策 の主 た る 目的 は,民 間 で新 たに 信 仰 され る よ うに な った もの を含 め て,神hを 一 元 的 な原 理 に よ って統 制 し,朝 廷 の管 理 下 に 置 こ う とす る もの で あ った 」[小 島  1991:172】。 が,そ の 結 果 は,民 間 で信 仰 され た神 々に霊 験 が あ り,地 方 官 の報 告 を経 て朝 廷 か らの贈 額 ・贈 号 及 び許 可 が あ れ ぽ,も とも と淫 祀 と見 な され た信 仰 も存 在 の余 地 が あ る よ うに な った。

  北 宋 以 降,闘 南 地域 で は,実 際 に どの 位 の廟 が贈 額 な どを与 え られ た か に 関 しては, 明 らか で は な いが,実 地 調 査 で 見 た か ぎ りr安 海鎮 の廟 は,そ の伝 説 に朝 廷 や官 僚 に 関 係 す る もの が少 な くな く,ま た,贈 額 や 贈 号 を掛 け て あ るの も複 数 あ る。

  近 代 に 入 ってか ら,華 僑 を 通 じて海 外 との つ な が りが民 間 信仰 の維 持 に 果 た した役 割 に 注 目 しな くては な らな い。 闘 南 は,歴 史 上 も現 在 も海 外 へ の移 民 が 多 い 地域 で あ る。 地 元 の住 民 は,台 湾,香 港,シ ンガ ポ ール 及 び マ カ オ な ど,経 済 的 に発 達 した 国 と地 域 に 親族 があ る こ と,ま た,親 族 が フ ィ リピ ン,マ レー シ アな どの発 展 途上 国 で 出世 した り金 持 ちに な った りした こ とを誇 りと して い る。

  台 湾,香 港 及 び 東 南 ア ジ アに移 住 した 福 建 人 は,故 郷 か ら持 ち込 んだ 古 い 習慣 で生 活 して お り,か つ て の 閾南 の民 間 信仰 の神 々へ の 信 仰 を保 ち続 け,特 に熱 心 に 宗 教行 事 を 行 って い る[須 山  1991:107】。 海外 で成 功 した 彼 らは,中 国政 府 が対 外 開放 政策 を実 施 した 以後,積 極 的 に故 郷 と連絡 を取 り,新 中 国 の成 立 後 長 い 間絶 えて い た 交流 を再 開 し,多 額 の寄 付 金 を故 郷 へ 送 った1石 田  1993:82】。 闘 南 地 域 の 廟 観 の再 建 は ほ とん ど海外 の寄 付 に よ って行 わ れ た もので あ る。

  安 海 鎮 で は,各 祠 廟 の修 復 や新 築 にあ た って安 海 出身 の海 外 移 民 か ら受 け た寄 付 は, 20万 元 か ら50万 元 まで 幅 が あ るが,い ず れ に して も巨額 な寄 付 金 で あ る。 海 外 か らの 寄 付 が な け れ ば,祠 廟 の建 設 も不 可 能 とな る。

  現 在,政 府 は,基 本 的 に は民 間信 仰 を 「 封 建 的 な迷 信 活 動 と して反 対 し,制 止 す る」

とい う政策 を とって お り,祠 廟 の 建設 を支 持 しな い し,巫 師 の 活動 を禁 止 し,「普 渡 」 (詳 し くは 後述)な どの年 中行 事 を 阻止 しよ うと して い る。 毎 年 の 旧暦 七 月 「普 渡」

の期 間 中,郷 鎮 の 幹 部 が 「下 郷制 止 普 渡 」(農 村 に 行 き,普 渡 の 活 動 を 制 止 す る)の 行 動 を と る。 各家 庭 の 「 孤 魂 野 鬼 」 を 施す 祭 祀 や,親 族 が集 ま った 家族 宴 会 が 厳 し く 禁 止 され る。政 府 の 命 令 に従 わ ず に 祭 祀 や宴 会 を 強 行 し幹 部 に発 見 され る と,罰 金 を 課 され た り,祭 祀 や宴 会 用 の道 具 を 没 収 され た りす る可能 性 が あ る。

但 し,政 府 の幹 部 も畢寛,地 元 の 出 身者 で あ り,公 に は断 固 と した態 度 を と るが, 彼 らに 個 人 的 に意 見 を 聞 くと,民 間 信 仰 に賛 成 しな い が 制 止す べ きで は な い と思 うと

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国立民族学博物館研究報告  22巻3号 言 つた 人 が か な りい る。 また,「 普 渡 」 の 期 間 中 に,取 締 りの 公務 を終 え てか ら,こ

っそ りと親 族 の宴 会 に赴 く人 もい れ ぽ,民 間 信 仰 が 「 風 俗 習慣 」 だ と思 い,そ の 資料 の 収 集 に取 り組 む 人 もい る。

3)本 研 究 の主 旨

  中国 の 民 間信 仰 に つ い て,今 まで の 文化 人 類 学 的 な研 究 は,台 湾,香 港 に関 す る も のが 圧 倒 的 に 多 い。

  これ らの研 究 は,実 地 調査 に基 づ いて,漢 民 族 の教 団宗 教 の教 義 で は な く,日 常 生 活 に深 く浸透 した民 俗 宗 教 の神 霊 観,儀 礼 及 び関 連 す る広 範 な現 実 を 呈示 した 。 ウ ォ

ル フは神 霊 観 につ い て三 つ の枠 に,つ ま り 「神 明 」(Gods)「 祖 先 」(Ancestors)「 鬼 魂 」(Ghosts)に 分 類 し,そ れ らが そ れ ぞ れ 固有 の性 格 と社 会 的 機 能 を果 た して い る と分析 した[WOLF  1974】。   この 分 析枠 組 は多 くの 議論 を喚 起 した と同時 に,「 こ う した分 類 につ い て の研 究 の多 くは,静 態 的 で あ るた めに,人hの 霊 魂 に対 す る実 際 か つ動 態 的 解 釈 とは整i合しな い部分 が多 い」 とい う批 評 も招 い た[三 尾   1990:244]。

  渡邊 欣 雄 は,漢 民族 の儀 礼 過程 の研 究 か ら神 霊 観 の研 究 へ,後 者 を踏 まえ て また儀 礼 研 究 へ と研 究 を 深 め て い く うち に,幾 つ か の キ イ ・ワー ドを 発 見 した。 即 ち,第 一 に,漢 民族 の宗 教 的 特徴 は,道 教 や 仏教 で はな く 「民俗 宗 教 」 で あ る。 第 二 に,漢 民 族 の宗教 は静 態 的 で は な く 「 動 態 的 」 であ る。 第三 に,儀 礼 の 目的 は 「 迎 福 撰 災」(福 を招 きい れ災 いを 払 う)と い う単 純 な 目的 に貫 か れ て い る とい う 【 渡 邊   1991:3‑4】。

  台湾 の民 俗 宗 教 の特 徴 につ いて,李 亦 園 は,「 拡 散 的 信 仰 」 と解 釈 した 。 つ ま り民 間信 仰 は,内 容 か ら見 れ ば,「 陰 陽 宇 宙,祖 先 崇 拝,汎 神 汎 霊 的 観 念,符 録 呪 法 」 な どを 総 合 し,儒 教,仏 教 及 び 道 教 の 要 素 も取 り入 れ た 複 合 体 で あ る 【 李(亦 園) 1992下 巻:119】。

  台 湾 に在 住 した漢 人 の 大部 分 は,過 去300年 ほ どの間 に大 陸 の福 建,広 東 両 省 か ら 移 民 して きた 人 々の子 孫 であ るの で,台 湾 の 民 間信 仰 は,大 陸 の これ らの 地 域 と共 通

して お り,中 国文 化 の大 伝 統 に密 接 的 に関 係 して い る と考 え られ る。 そ のた め に,台 湾 及 び大 陸 の 学者 は,台 湾 海 峡 両岸 の文 化 を 言及 す る さい に,し ぽ しば 「 閾 台」 とい

う言葉 を使 っ てい る。

  但 し,台 湾 にお け る民 間信 仰 は,畢 寛,台 湾 の もの であ り,そ れ に は,漢 民 族 の台 湾 へ 移 民 の歴 史,台 湾 の土 着 の信 仰 との融 合,及 び近 代 以 来 の 台 湾 の社 会 史 な ど,さ

ま ざ まな要 因 が影 響 して い る。 「 闘 台 」 に 関 して は,「 台」 の 研 究 が 比較 的 さか ん に 行

わ れ た の に対 して,「 閾 」 に つ い て の研 究 は 比較 的欠 如 して い る。

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最   聞南農村におけ る神 々信仰

  中 国 国 内 の学者 に よ る福 建 民 間 信仰 の研 究 は,現 地 調 査 に基 づ い た現 状 に 関 す る研 究 が 少 な く,基 本 的 に は,民 間 信 仰 の 由来,辿 って きた歴 史 及 び 儒 教,仏 教,道 教 な どとの 関 係 の考 察 に 集 中 し,ま た,地 方志,祠 廟 の 碑文 な ど の資 料 に基 づ いた 研 究 が 多 い 。

  本 研 究 は,社 会 人 類 学 的 な実 地 調 査 に よる,閾 南 地域 に おけ る民 間信 仰 の現 状 に 関 す る研 究 で あ る。 本 論 文 の 目的 は,主 に 以 下 の 三 つ で あ る。(1)大 陸 中 国 で 人 類 学 の手 法 で 行 う民 間 信 仰 に 関す る基 礎 的 調 査 と して,安 海鎮 の人 々が 神 々 と交 流 す る様 態 を で き るだ け 具 体 的 に把 握 し,現 状 を 紹 介 す る。(2)人 々 の信 仰 す る さ ま ざ ま な

「 神 明」 に つ い て記 述 す る と と もに,共 存 す る異 な る宗 派 の 「 神 明」 を,話 者 の主 観 を よ りど ころ に分 類 し,さ らに人hの 信 仰 心 の分 析 を 試 み る。(3)閲 南 とい う特 定 地 域 の民 間 信仰 の研 究 を通 して,漢 民族 の精 神 世 界 に対 す る認 識 に一 例 を提 供 した い 。

1.調 査 地 の概 況

1)歴 史

 安 海 鎮 が属 す る晋 江 市 は,境 内 に福 建 省 の四 大 河 川 の一 つ 晋 江 が 流れ るた め に 名 付 け られ た そ うで あ る。r晋 江 県誌 』 に よ る と,晋 江 は,「 晋 人 が 南 に 移 る時 に,衣 冠 士 族 は こ こに避 難 して 居 住 した の で 名前 が で きた 」 とい う。

  考 古 学 の発 掘 に よれ ば,今 か ら7,000前 の新 石 器 時 代 に,こ の地 域 に はす で に 居 住 者 が い た とい う 『 晋 江 県誌(建 置 巻)』 【 晋 江 県 誌編 纂 委 員 会(編)  19911。

  周 の 時 代 に,福 建 と漸 江南 部 にあ る 「 七 閾 」 と呼 ぼ れ た七 つ の閾 族 の一 支 が 晋 江 あ た りに 居 住 した 。 春 秋 戦 国 時代 に,晋 江 は越 国 に属 した 。 この時 期 に,漸 江 の越 人 が 南 下 して 閾人 と混 合 し,次 第 に 闘越 人 が形 成 され た 。 秦 始皇 が 中 国を 統 一 した後,全 国を36の 郡 に分 け て,晋 江 は 閾 中郡 に 属 した。 前 漢 時 代 に,晋 江 は 全 国 十三 州 の 中 の 漸 江 と福 建 を統 轄 した 楊 州 の,會 稽 郡 の 冶 県 に属 した 。 後漢 時代 に,福 建境 内Y'五 つ の県 が 設 け られ,晋 江 は候 官 県 に 属 し,三 国 時代 に東 呉 の 領 地 に あ った 。晋 か ら南 朝, 晴及 び唐 にか け て,晋 江 は そ れ ぞれ 晋 安 県,晋 安 郡,南 安 郡,南 安 県 に 属 した が,唐 開 元6年(718)に 南 安 県 か ら分 け られ 初 め て晋 江県 が設 立 され た。 五 代 に 開 闘王 王 審知,王 潮 兄 弟 は福 建 に王 国 を 建 て,百 年 ほ どの 割拠 は,福 建 が 全 国規 模 の 戦 乱 か ら 逃 れ られ,地 域 の社 会 的安 定 と文 化 の発 展 に大 い に貢 献 した 。 宋,元,明 及 び 清 の 各 時 代 に,名 称 が それ ぞ れ異 な るが,晋 江 は基 本 的 に は泉 州 府 に 属 した。

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国立民族学博物館研究報告  22巻3号

  安 海鎮 は,南 梁 の時 代(502‑556)に す で に 開港 し,唐,宋 の時 代 に 「 世 界 一 の 貿 易 港」 と言 わ れ た泉 州 港 に 並 び,福 建 及 び 東 南 中 国 の対 外 交 流 の重 要 な港 の一 つ で あ った 。宋 代 の泉 州 で は,中 国 と外 国 の商 人 は 「 雲 集 為 市 」,つ ま り雲 の如 く集 ま って 市 場 を形 成 し,「市 井十 州人 」,即 ち町 に世 界 各 地 か らの さ ま ざ まな人 が 住 ん で い る と い うよ うな 盛 況 を呈 して い た 【 鄭   1989:4‑14]。

  元代 に,泉 州 及 び闘 南 地 域 の 海 外貿 易 は 繁 栄 か ら衰 微 へ と変化 した 。 元 の 初期,王 朝 政府 が対 外 貿 易 に優 遇 政 策 を と り,民 間 貿 易 が宋 よ りさ らに 盛 ん とな った が,元 末 に 全 国規 模 の 内 乱 でJ外 国 商 人 が相 次 い で 帰 国 し,泉 州港 で は船 舶 の 往来 も中断 した。

  明 代 に な る と,船 が 大 型 化 して 泉州 港 に 停 泊 で きな くな った こ と もあ って,安 海 港 が 台 頭 した。 しか しT明 政 府 は,「 禁 海 」 とい う鎖 国 の 政 策 を と って密 貿 易 者 に対 し て 処 刑す る よ うな 法令 も公 布 した 。

  法 令 が あ るに もかか わ らず,大 きな利 益 を 得 るた め に,商 人 た ち は死 を 冒 して密 貿 易 を盛 んに 行 った。 当時 の安 海 は,商 人 の集 居 地 とな り,「安 平 商 人 」(安 海 は安 平 と い った)は,そ の 人数 の多 さ,海 外貿 易 の経 営 範 囲 の広 さ,規 模 の大 き さ,及 び蓄 積

した 財産 の莫 大 さに よって,近 代 中 国海 外 交 流 史 上 に も有 名 とな った。 商 人 及 び地 方 豪 族 と明 の政 府 との角 逐 の結 果,安 海 は,福 建 地 方 の密 貿 易 の重要 な拠 点 とな り,明 末 に,鄭 芝 龍 の よ うな,大 商 人 で あ りなが ら兵 隊 も保 有 す る地 方 割拠 勢 力 も現 れ た。

鄭 芝龍 の息 子 が,16世 紀 の半 ぽ 頃 に オ ラ ンダ植 民 者 を騙 逐 して台湾 を領 有 した,近 代 中 国 史上 に有 名 な 人物 鄭 成 功 であ る。 鄭 芝 龍 は,台 湾,マ カ オ,ブ イ リピ ソ及 び 日本 な ど との海 外 貿 易 で成 功 して,海 岸 の有 利 な地 形 を利 用 して安 海 を 自分 の商 業 及 び軍 事 の 割拠 地 と した 。

  明 代,安 海 地 域 は,倭 憲 の侵 略 に遭 い,大 き な損 害 を受 け た。 倭憲 の殺 人 暴 行,倭 憲 との 戦 い な どを め ぐ って,後 述す る よ うに,「 神 明 」 が 霊 験 を 現 した り,死 ん だ英 雄 が 「 神 明」 に な った りす る よ うな伝 説 が た くさん あ り,民 間信 仰 は倭 憲 の侵 犯 とい

う歴 史 的事 実 と の関 わ りが大 きか った。

  清 の初 期 に,満 州 人 の政 権 に反 抗 し武 装 蜂 起 した 鄭 成功 は,ず っ と安 海 を 対 清抗 争

の軍 事拠 点 と対 外 貿 易拠 点 の一 つ と して い た。1656年,鄭 成功 と清 政府 の平 和 交 渉 が

決 裂 した翌 年,清 の軍 隊 は安 海 に 進 入 し,町 及 び 付 近 の村 落 を焼 きつ く し,「廃 鎮 」,

つ ま り町 を 徹 底 的 に 破 壊 した 。1661年 に 清 政府 は 「 遷 界 」,即 ち町 を 別 の と ころ に移

す よ う命 令 を 下 し,安 海 鎮 は 一 時 的 に廃 市 とな った。1684年 に政 府 は 「 復 界 」,つ ま

り鎮 を再 び 回 復 す る と宣 告 し,そ の 後,「 海 禁 」 も解 除 され た 。 そ れ 以 来,安 海 は徐

々 に生 気 を と り戻 す よ うに な った 。

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竈    閲南 農村に おけ る神 々信仰

  安 海 が 鎮 と して政 府 に 正 式 に認 定 され た の は,宋 の建 炎 四年(1130)の こ とで,朱 烹 の父 親 朱 松 は,最 初 の監 鎮 官 と して任 命 され た。 以来,上 記 した清 の初 期yY̲̲̲.時 的

に 「 廃 鎮 」 され た 以 外 に,ず っ と鎮 と して存 在 して きた 。 2)宗 教 的 施 設

  安 海 は商 業 の繁 栄 と相倹 って,文 化 的 に も栄 えて きた。 歴 代,安 海 か らは文 人 が 多 く輩 出 し,宋 か ら清 まで に 貢 生200人,挙 人 が200人,進 士 が100人 ほ ども 出 た 喩 他 1983:254‑289]0

  安 海 に は,長 い歴 史 を もつ 宗 教 的 施設 が た くさん あ る。

  観 音 を祀 る龍 山寺 は,伝 説 に よる と,後 漢 の僧 侶 一 粒 沙 が樹 齢 千 年 以上 の クス ノ キ を寄 付 して観 音 の像 を彫 刻 した こ と に 由来 す る。 『晋 江県 誌 』 に よれ ぽ,本 殿 が 「 晴 の皇 泰 年 間 に建 て られ,明 の天 啓 年 間(1621‑1627)に 新 築 され た 」 とい う。 そ して, 龍 山寺 は 台湾,シ ソガ ポ ール及 び フ ィ リ ピンに あ る龍 山寺 の総 本 山 と言 わ れ るr晋 江 県 誌(宗 教 巻)』 【 晋 江 県誌 編 纂 委 員 会(編)  1991】 。

  鎮 の東 南5キ ロほ ど離 れ た 南 代 山麓 に,南 天 寺(石 仏 寺 と もい う)が あ る。 寺 の 本 殿 に は岩 石 に 刻 まれ た高 さ10メ ー トル もあ る阿 弥 陀 仏,観 音,勢 至 の仏 像 が 祀 られ, 仏 像 は宋 の嘉 定 年 頃(1208‑1224)に 彫 刻 され た とい う。

  鎮 の町 か ら4キ ロ離 れ た 霊 源 山 に 晴代 に建 て られ た観 音 を 祀 る霊源 寺 が あ る。

  鎮 の 西部 に は,宋 の紹 興年 間(1131‑1135)に 建 て られ,2,225メ ー トル に もお よぶ 石 橋 「五 里 橋 」 が あ る。 この 「 天 下 無橋 長 此橋 」(天 下 の 橋 が こ の橋 よ り長 い もの が な い)と 褒 めた た え られ た石 橋 の た も と とま ん 中 に,観 音 を祀 る水 心亭 と呼 ば れ る寺 が あ る。五 里 橋 を修 築 した さい に,橋 の 両端 に高 さ28メ ー トル の東 塔 と西 塔,さ ら に 東 塔 寺,西 塔 寺 と呼 ぼ れ る寺 も造 った 。 しか し,東 西 塔寺 は 明 の頃 に 民 家 に 流用 され た 。

  鎮 の 町 の 西部 に あ る報 恩寺 は,鄭 成功 の父 親 鄭 芝 龍 に よって,明 の隆 武3年(1646) に建 て られ,隆 武 帝 自 ら 「 勒 建 報 恩 禅 寺 」 とい う額 を賜 った と言 わ れ た 。報 恩寺 は, 鄭 成 功 が 清 の 軍 隊 と和 平 交 渉 をす る場 所 であ るの で,「 遷 界」 の さい に取 り壊 され た 。

「 復 界 」 以 後 の 長 い 間 も,清 政府 を恐 れ て修 築 で きな か った 。 現在 の報 恩 寺 は,だ い ぶ後 の清 の中 期 か 末期 に再 建 され た もの であ る。

  仏教 以外 に,霧 雲殿 と呼 ば れ る道 教 の観 もあ る。 玄武 上 帝 を 祀 る霧 雲 殿 は 明 代 に建 て られ た。 霧 雲 殿 は 文 化大 革 命 の 時 期 に,鎮 に あ る福建 省 の 「 重 点学 校 」 養 正 中 学 校 の 学 生 宿舎 と して 使 用 され,現 在 で もそ の ま ま 占拠 され て い る。 も と も と霧 雲 殿 で 祀

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国立民族学博物館研究報告  22巻3号 って い た 「 神 明 」 の偶 像 は,現 在 熱 心 な信 者 の 家 で保 存 され て い る。 霧 雲 殿 を宗 教 活 動 の場 所 と して 復 帰 させ るた め に,定 年 して 都 会 か ら故 郷 に 戻 った医 師 や 小学 校 校 長 な ど地 元 の学 識 者,果 物 や 牛 肉 の小 売 商 人,信 仰 心 が 深 い主 婦 な どの 有 志 が,「 霧 雲 殿 復 帰委 員 会 」 を 組織 し,養 正 中学 校 を相 手 に 抗争 して い る。

  鎮 の 町 か ら5キ ロほ ど離 れ た 華 表 山 に,草 庵 と呼 ば れ る元 至 元5年(1339)に 建 て られ た マ ニ教 の遺 跡 が あ る。 マ ニ教 はtも と も と3世 紀 頃 に ペ ル シ ャの ゾ ロア ス ター 教 にキ リス ト教 と仏 教 の要 素 が 加 わ って生 まれ た 宗 教 で あ り,唐 代 に 中 国 に伝 わ り12 世 紀 頃 まで行 わ れ た 。上 記 の よ うに,こ の地 域 は 商 業港 で あ り,外 国 の商 人 が た くさ ん在 住 す る につ れ て,マ ニ教 な どの 外 国 の宗 教 も同 時 に伝 わ って きた と思わ れ る。 草 庵 の中 に,岩 石 に刻 まれ た 「 摩 尼 光 仏 」 と呼 ば れ る170セ ンチ ほ どの仏 像 が あ る。

  上 記 した主 な宗 教 的 施設 の ほか に も,古 廟 が た くさん あ る。 例 え ぽ,宋 代 に 建 て ら れ た婿 祖 を祀 る天 妃 廟,同 じ宋 に建 て られ 明永 楽21年(1423)に 再 建 され た崇 鷹,善 利,広 福,顕 済 真君 を 祀 る昭 恵 廟,明 万 歴34年(1606)に 建 て られ た 城 陛 廟,明 万 歴 初 期 に建 て られ た東 西 関 王廟 な どで あ る。 しか し,そ れ らは廃 鎮 の 年 に 清 の軍 隊 に よ って破 壊 され,現 在,同 じ名 の祠 廟 が あ って も,ほ とん ど清 の後 期 以 後 に 再建 され た もの で あ る。

3)行 政 と人 口

  安海 鎮 の土 地 面 積 は67.66平 方 キ ロ,35の 行 政 村83の 自然 村 と一 つ の 「 鎮 区 」(町) が あ り,総 人 口は107,904人 で あ る(1991年 現 在)。 そ の うち,農 業 人 口が82,628人 で, 町 の 人 口が30,093人 で あ る。

  安 海鎮 で は 近 代 以来,東 南 ア ジア及 び 香 港,台 湾 へ の移 民 が 多 い。 鎮 政 府 の統 計 に よる と,こ れ らの地 域)/TL安 海 出身 の華 僑 の 人数 は15,000人 ほ どあ る。香 港,シ ソガポ ー ル,フ ィ リピ ンな ど安 海 出身 者 が 多 い と ころ では 安 海 会館 が あ る。

  鎮 政 府 所在 地 の 町 で は,興 勝,復 興,鴻 塔 と海 東 の 四 つ の 「 居 民 委 員 会 」(鎮 政 府 の下 位機 構 で あ りなが ら住 民 の 自治組 織)と 西 安,型 暦 と安 東 の三 つ の行 政 村 が あ る。

  民 国 及 び 中華 人 民 共和 国以 後 の 行政 区 画 とは 別 に,歴 史上,安 海鎮 の下 には 「境 」 とい う下 位 単 位 が存 在 した 。 「 境 」 は,元 代 に始 ま った 制 度 で あ る。 元 代Y'は,県 の 下 に 「 都 」 を,「 都 」 の下 に 「 境 」 を設 け た。 安 海 は第 八 都 と名 付 け られ,そ の 下 に は18の 境 が あ った。 この 制度 は 明代 に も踏 襲 され,清 に 入 る と,行 政 区画 は変 わ らな か ったが,安 海 の境 が18か ら24に 増 えた(表1を 参 照)。

  安海 の住 民 は現 在,新 中 国 成立 以後 の新 しい行 政 区 画 に 属 しなが ら,日 常生 活,特

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最  閾南農村における神 々信仰

表1  明,清 の歴 代 に 安海 の境 明 の 初期 の十 八 境:

  市 心,薫 頭,蕪 山,仁 寿,挨 北,威 徳,明 義,西 河,靖 西,迎 山,叢 桂,   晋 徳,積 慶,雲 山,源 泉,陽 明,朝 真,市 西,

清 の初 期 の 二十 四境:

  市 心,蕉 頭,薫 山,仁 寿,挨 北,威 徳,明 義,西 河,靖 西,三 公,尚 賢,   興 勝,霧 雲,忠 義,第 一,鎮 西,当 興,城 陸,葦 福,三 輔,朝 天,新 操   北,西 安,龍 山

清 の末 期 の 二 十 四境:

  晋 徳,蕪 頭,驚 山,仁 寿,操 北,威 徳,明 義,西 河,靖 西,三 公,尚 賢,   興勝,霧 雲,忠 義,第 一,鎮 西,当 興,駐 鎮(城 陛),葦 福,三 輔,朝 天,   新操 北,西 疇,復 興

現 在 の安 海 にお け る二十 四境:

  皇 恩(晋 徳),薫 頭,嬬 祖 宮,威 徳,明 義,西 河,興 勝,聖 殿(霧 雲),   関 帝 宮(忠 義),三 公,西 宮(鎮 西),城 陛宮(駐 鎮),葦 福,上 帝宮(朝   天),新 街(新 挨 北),西 安(西 疇),仁 福 宮,高 屠 囲,玄 壇 宮(撲 北),   型 暦,后 庫(驚 山),東 鯉,星 塔,大 呈頭

※()の 中 は そ の前 の 時 代 の境 名 で あ る。

に 「神 明 」 へ の 信 仰 に 関 して は,「 境 」 へ の ア デ ソ デ ィ テ ィが 強 い 。 各 境 に は 「境 主 」 と 呼 ば れ た 保 護 神 が あ る 。 人h,特 に 年 寄 りは,住 所 を 書 く時 に,現 在 の 地 名 で は な

く,や は り境 の 名 で 書 く。

2.  「神 明 」 と祠 廟

1)祀 られ て い る 「神 明 」

  前 述 した 通 り,安 海 に は祠 廟 が た くさん あ り,祠 廟 の 中 には さ ま ざま な 「 神 明」 が 祀 られ て い る。 具 体 的 に は,表2の よ うに整 理 した 。

  上 述 した 祠 廟 で祀 る神 々以 外 に も,ま だ 「 神 明」 が数 多 くあ る。

  ほ とん どの 祠廟 の 山門 の 向 か い側 に 壇 を設 け て祀 った の は,天 公 で あ る。 晋 江 地 域 で は,天 公 は 最 高 の神 で あ る。 民 間伝 説 に よる と,道 教 の 玉皇 大 帝 も天 公 の招 きに よ

って,そ の座 に つ い た とされ る。天 公 は偶 像 が な い が 「 天 公誕 」 と呼 ぽ れ る誕 生 日が あ る。 過 去 には,旧 暦 一 月九 日 「天公 誕 」 の 日に 各 家 は門 の 前 で供 え もの を し,人h は 身 体 を 清 め,か な り厳 粛 な 態 度 で天 公 を拝 ん だ。 また,毎 月 一 日 と十 五 日は,「 敬 天 公 敬 仏 祖 」(天 公 と釈 迦 を 祀 る)日 で あ り,各 家 は朝 と夜 の 二 回 「 敬 香 」,即 ち線 香 を立 て て祀 りあげ た 。 そ して,そ の 二 日間 は 「 敬 天 兵 天将 」(天 公 が 率 い る部 隊 を 祀

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国立民族学博物館研究報告  22巻3号

表2  祀 られ てい る 「 神 明」

仏教系 番号 ・数 祠廟名称 主神 主要な機能 合祀神

1 龍山寺 観音,釈 迦牟尼 日常の加護,除 災招福外敵 を防御する

保生大帝,武 安王愛笑爺, 月老,魁 星爺,笑 面菩薩, 福徳正神

2 報恩寺 観音,釈 迦牟尼 日常の加護,除 災招福 福徳正神

3 古廊 観 音,関 羽 日常の加護,除 災招福超度

亡魂

4 水心亭 観音,釈 迦牟尼 日常の加護,除 災招福 福徳正神

5 地蔵廟 地蔵王

道教系 6 霧雲殿 北極大帝 日常の加護,除 災招福 笑面菩薩(殿 主),温 星君,

天上騎馬将軍,土 地公

7 関帝宮 関羽 境主 土地公

8 関帝廟 関帝 日常の加護,除 災招福

9 帝金宮 玄天上帝 境主

10 上帝宮 北極大帝 境主 福徳正神,老 龍頭

11‑12 財神廟 趙公明 境主 福徳正神,廣 澤尊王

13‑16 城陞廟 城陛 人間の死期の判定

17‑19 土地公廟 福徳正神 日常的加護,除 災招福,商

売繁盛

夫人

20 土地公廟 福徳正神 境主

21‑22 土地公廟 土地公 日常的加護,除 災招福 土地婆

英雄 23 三公廟 三公爺 境主 城陛及び夫人,土 地公

24 西宮 上江公 境主 東 斗夫 人婿(分 花 娘 々,助 生 娘

々,脚 盆娘 々,老 龍 頭

25 仁福公 境主 福徳正神

26 張巡 境主 夫 人,福 徳正 神,老 龍頭

27 尊王公廟 尊王公 境主

as 王先生廟 王先生 境主

29 李活夫人嬬 子どもの保護神 土地,保 生大帝

巫師 30 婿祖宮 嬬祖 境主 土 地,夫 人嬬

医師 31‑32 保生大帝 鏡主 福徳正神

王爺 33 主師公 境主 武安王

34‑35 七王府 七王爺 除災,疫 病鎮圧,疾 病 平癒,

悪 霊払 い

36 徐王府 徐王爺 除災,疫病鎮圧,疾 病平癒

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話  聞南 農村におけ る神々信仰

37‑38 三陰公 除災,疫 病 鎮圧,疾 病

平 癒,悪 霊 払 い 39 三王爺府 朱郡李三王爺 払 除災,疾 病 平癒,悪 霊

40 王爺宮    王爺 除 災,疫 病 鎮 圧,悪 霊 払 い

41 武府宮    武府公 除 災,疫 病 鎮 圧,疾 病 平癒,悪 霊 払 い

42 邸岳伍三王爺 除 災,疫 病 鎮 圧,疾 病

平癒,悪 霊 払 い

  ∂

43 張金羅三王爺 除 災,疫 病 鎮 圧,疾 病

平癒,悪 霊 払 い

44 照爺 除 災,疫 病 鎮 圧,疾 病

平 癒,悪 霊 払 い

45 五谷爺 除 災,疫 病鎮 圧,疾 病

平 癒,悪 霊払 い 46 遠王宮   遠王爺 除 災,疫 病鎮 圧,悪 霊

払 い

47 劉王爺 除 災,疫 病鎮 圧,疾 病

平 癒

48 霊鷹公嬬廟霊鷹公婿 「孤 魂 野 鬼 」 を慰 め 安 ず る

49 万神爺嬌廟万神爺婿 「 孤魂野鬼」を慰め安ず る

50 相公相婿廟相公相嬬 「 孤魂野鬼」を慰め安ず る

動物 51 烏官爺廟 烏官爺(黒 犬) 家畜 の保護神

52 虎爺公廟 虎爺公(虎)

不 明 53 境主公廟 境主廟 (旧暦 三 月 三 日に誕 生 日)

54 境主公婿廟境主公嬌 (旧暦 八 月 十 五 日,六 月 二 十 三 日に誕 生 日) 55 境主公嬬廟境主公婿 (旧暦 二 月 二 日,十 二 月十 六 日に誕 生 日)

る)日 で もあ り,夕 飯 を門 前 の祭 壇 で 「天 兵 」 に しぼ ら く供 え てか ら初 め て 夕食 を始 め る。

  大衆 が共 に祀 る神 々 以外 に,各 家 で祀 る神 もあ る。 それ は,「 床 母 」,「 七 娘 婿 」,「 竈 神 」,「門神 」,「土 地 神 」 な どの 「神 明」 であ る。

  「床 母 」 は,子 ど もの ベ ッ ドの 神 で,偶 像 は な い もの の,普 段 子 ど もの ベ ッ ドに 宿 り,子 ど もの健 康 と無 事成 長 を司 る。 人 々は,祝 祭 日に 「 床 母 」 に 金柑 な どの 供 物 を し,子 ど もの16才 の 誕 生 日にわ が 子 が元 気 に育 った こ とを感 謝 す る と共 に,最 後 の 供 物 と 「 花 亭 」(紙 で造 った 亭)を 捧 げ る。

  「 七 娘 婿 」 は,天 帝 の 七 番 目の娘 で あ り,広 く伝 わ った民 間 伝 説 の董 永 と結 婚 した

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国立民族学博物館研究報告  22巻3号

「七仙 女 」 と同 じ人 物 の よ うで あ る。 「七娘 婿 」 も偶 像 は な い が,住 居 入 口の 左 側 の 柱 に直 径12セ ンチ,高 さ24セ ソチ ほ どの 「七娘 嬬 灯 」 が 掛 け られ,そ れ が彼 女 の象 徴 とな る。 「 七 娘 嬌 」 は 人hY'男 児 を 授 け,子 ど もの無 事 成 長 を守 護 す る。 人 々は,子 ど もが 満1ヶ 月,1才,16才 及 び結 婚 の と き,そ して 毎 年 旧暦 七 月 七 日彼 女 の誕 生 日 に,「 七 娘 嬌 灯 」 の 前 に,「 七 娘 嬬 寵 」 や 「 七 娘 婿 亭 」(両 方 と も紙 で作 った 神 棚 の こ

と),化 粧 箱及 び 花 を 供 え る。

  「 竈 神 」,「門 神」 及 び 家 で 祀 った 「 土 地 神 」 も偶 像 が な く,一 枚 の紙 に像 や 名 前 を 書 い た のみ で あ る。

  安 海 で は,「 三 歩 一 個 土 地 」 とい う諺 が あ り,三 歩 歩 け ば必 ず 「 土 地 神 」 に 出会 う とい う意 味 で,「 土 地 神 」 の 多 さを 物語 って い る。 「 土 地 神 」 は簡 単 に請 じ られ,赤 い 紙 に黄 色 い文 字 で 「 福 徳 正 神 」 を書 い て壁 に 貼 れ ぽ,「 土 地 神 」 が も うそ こに 存 在 す るの で あ る。 住 宅 内,個 人 経 営 の店,小 さな 工 場及 び 「 祠 廟 」 な ど,あ らゆ る建 築 物 の壁 に 「 福 徳 正 神 」 は貼 って あ る。

  公共 の場 及 び 家庭 で祀 った 「 神 明」 以 外 に,巫 師 に祀 られ た 「 神 明」 もあ る。 この 類 の もの はほ とん ど王爺 や 霊 魂 で あ り,巫 師 が 各 々 自分 の 「神 明」を 祀 って い るの で, そ の数 が 活 動 して い る巫 師 の 人 数 とほぼ 一 致 す る。

2)祠 廟 に つ い て の 分 析

  神 々を祀 る祠 廟 の 呼 び方 は,中 国 では 大 き く分 類 され て い る。 仏 教 の仏 や菩 薩 を祀 る場所 は寺,道 教 の 神 を祀 る場 所 は観 また は 宮,民 間 の俗 神 を 祀 る場 所 は 廟 で あ る。

しか し,実 際 に は 用語 は それ ほ ど厳格 に分 け て 呼 ぶわ け で もな い。 仏 教 の 寺 を宮,廟 と呼 ぶ こ とも あ る し,道 教 の観 を 廟 と呼 ぶ こ と も よ くあ る。

  呼 び方 の混 用 は,民 間信 仰 の現 状 を反 映 した と言 え る。 渡邊 欣 雄 が 指 摘 した通 り, 諸 宗 教 の 混濡 こそ は漢 民 族 宗 教 の 伝 統 で あ り,特 徴 で あ る 【 渡 邊   1991:21】。 表2に 表 した よ うに,一 つ の祠 廟 に異 な る宗 教 の神 々を共 に祀 る現 象 が よ く見 られ る。 例 え ぽ,観 音 を主 神 とす る龍 山寺 は,道 教 の神 も俗 神 も同時 に祀 って い る。 道 教 の霧 雲 殿 は,菩 薩 が 「 殿 主 」 を務 め る。 観 音 を祀 る古 廟 と呼 ぼれ る寺 は,も と もと関羽 を祀 る 道 教 の観 で あ った 。 異 な る宗 教 の 神hを 共 に祀 る こ とは,閾 南 の,広 く言 え ぽ漢 民族

の祠 廟 の特 徴 の一 つ だ と言 え る。

  異 な る宗 教 の 神hを 共 に祀 る こ とにつ いて,さ まざ ま な理 由 と解 釈 が あ る。

  渡邊 欣 雄 は,人 々が神 々 を 「 道 教 の神 だ か ら仏 教 の神 だ か ら とい って祀 って い るの

では な く,ど の よ うな霊 験 が あ り権能 が あ りご利 益 が あ り,自 分 が家 庭 が 世 界 が ど う

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最  閲南農村におけ る神々信仰

で あ るか らい つ祀 らね ぽ な らな いか と い うこ とで祀 って い る」[渡邊   1991:26】か ら, 神 との関 わ りに は,宗 教 派 別 とい うこだ わ りも必要 性 が な くな る と説 明 した 。  確 か に,人 々が宗 派 の立 場 か らで は な く,主 と して 自分 の利 益 か ら神 々を 祀 る面 が あ る。 しか し,諸 宗教 の混 濡 は,全 く リア リズ ム的,「 現 世 利 益 」 的 考 え の み に よ る とは言 え ない。 人hの 「 神 明」 観 に も よる。 人 々の観 念 にお い て は,神 々が た とえ 各 々違 う宗 教 に属 して い て も,互 い に隔 た りな く交 流 しあ い,困 難 ・危 機 の時 期 に 助 け あ い,各 宗 教 間 に は超 え られ な い境 界 が ない と され る。 これ も,人 々が あ ま り場所 を 選択 せ ず に 神 々を 自由 に祀 る原 因 の一 つ とな る。

  ま た,神 々を共 に祀 る状 況 に 至 って は,各 祠 廟 に それ ぞれ 事 情 もあ った 。

  関羽 を観 音 と同 時 に祀 る古 廟 の場 合,現 住 職 の尼 の説 明 に よ る と,古 廟 は 最 初 関 羽 の 廟 で あ った が,後 に 観 音 が 関羽 に 「 借 道 」,つ ま り場 所 を 譲 って も ら った 。 そ の た め な の か,観 音 を 祀 る正 殿 は正 殿 の あ るべ き位 置,つ ま り前 殿(関 羽 を祀 る)の 真 後 に あ る の では な く,配 殿 の ほぼ 斜 め後 ろ の位 置 に 建 て られ た。 一 方,関 羽 は,宋 を 始 め とす る歴 代 の 朝 廷 に 「 真 君 」 「 義 勇 武 安 王 」 「 三 界伏 魔 大帝 神 威 遠鎮 天 尊 関 聖 帝 君 」 な どの封 号 を 与 え られ た以 後,道 教 の 「 関 聖 帝 君 」 で もあ る し,仏 教 の 「 護 法 伽 藍 」 Y'も な った。 そ れ に よ って,観 音 を 関羽 と同 じ廟 で 祀 る こ とは,宗 教 的 な立 場 か ら見 れ ば 問題 は ない 。

  龍 山寺 で祀 った 俗 神 が 「 借 宿 」(下 宿)か ら 「 永 居 」(永 住 権)を 得 た の であ る。 同 じよ うな こ とが ほ か の祠 廟 で も見 受 け られ る。 こ の よ うに な った の は,主 に革 命 以 後 の 政 治 状況 に よ る もの で あ る。 絶 え 間 な く行 わ れ て きた 政 治運 動,特 に文 化 大 革 命 の 時 期 に,神 々 の偶 像 が 次 々 と取 り壊 され た の を見 て,熱 心 な信 者 は,残 った偶 像 を こ っそ りとま だ破 壊 され て い な い祠 廟 に 移 した り個 人 の 家 に 隠 した り した。動 乱 の 最 中, 安 全 な 場所 を探 す の は な か な か困 難 で,時 に は シ ソガポ ール な ど東 南 ア ジア諸 国 ま で 持 ち 出 し,華 僑 に 預 け た。 改革 開 放 後,神 々 が避 難 先 か ら相次 いで 郷 里 に戻 った が,

も との 祠廟 は既 に な くな って いた た め,ほ か の祠 廟 で 祀 る こ と とな った。

  大 多 数 の祠 廟 では 「土地 公」,ま たは 「 福 徳 正 神 」 を祀 って い る。 偶 像 が あ る場 合, 配 殿 に 祀 られ,そ うで な け れ ば正 殿 の 壁 に 「 福 徳 正 神 」 と書 い た赤 い 紙 を貼 る。 道 教 の神 で もあ り民 衆 に信 仰 され る俗 神 で もあ る 「 土 地 公 」 を 仏教 や道 教 の神 と同時 に祀 る こ とは,「 土地 公 」 が 地上 一 定 の範 囲 を守 護 し,地 元 の神hも 守 護 す る特 殊 な神 だ と思 わ れ て い るか ら であ る。 よ って,新 しい 「神 明」 が 創 り出 され 祀 る祠廟 を まだ 造 って い ない場 合,そ の偶 像 が しぽ ら く身 を 寄 せ る場 所 は 往hに して 「 土 地 公」 の廟 で あ る。

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国立民族学博物館研究報告  22巻3号 安 海 には,「 石獅 巷 」 と呼 ぼれ る路 地 の入 口に石 の獅 子 像 が あ り,そ の 獅 子 を め ぐ って 次 の よ うな伝 説 が あ る。

  「 石 獅 巷 」 の伝 説

 獅 子 は,も と も と この あ た りにあ った 「甜 水 井 」(水 が 甘 い井 戸)の 中 で 修練 し化 け た妖 精 で あ った 。 風 水 の信 仰 と も関 連 す る が,こ の甜 水 井 が 風 水 信 仰 上 の 「獅 子 穴 」 で あ る。

あ る年,旱 魑 が 発 生 し,ほ とん ど の井 戸 は 水 が 湧 か な くな った が,甜 水 井 のみ 人 々に 美 味 しい 水 を供 給 し続 け た。 人 々 は感 謝 の意 を こめ て獅 子 の石 像 を 造 った 。 祀 る廟 が な い た め に,と りあxず 土 地 公廟 で祀 った 。

  あ る 日,皇 帝 は東 南 方 向 か らの獅 子 が 自分 に 牙 を む き出 し爪 を ふ る って 飛 び か か って く る夢 を 見 た 。 そ の後,皇 帝 は 自分 の宝 座 を 危 う くす る 「獅 子 穴 」 を 取 り壊 す だ め に 風 水 師 を 福建 に派 遣 した 。

  土 地 公 が 風 水 師 の到 来 に気 づ き,獅 子 に 逃 れ る よ うに勧 め た 。 獅 子 は 海 に 逃 げ 込 み,風 水 師 が 獅 子 穴 を壊 した が獅 子 を死 なせ る こ とが で き なか った 。 そ の後,あ る 日一 人 の 力 持 ち の 農夫 が,土 地 廟 で居 眠 りを した とこ ろ,土 地 公 が 「獅 子 の石 像 を 路 地 の 入 口に運 べ 」 と指示 した よ うな 夢 を見 た。 目が 覚 め た農 夫 は 土 地 公 の 指示 通 りに獅 子 の 石像 を運 んだ 『安 海 民 間故 事 集 』 【 安 海 文 化 姑  1995]。

  「風水 説 で は,山 脈,龍 脈,地 脈 な ど と呼 ば れ る地 中 の ル ー トを 想定 し,そ こに 気 が 走 って い る と見 な して特 に こ の生 エ ネ ル ギ ー を 生 気 と言 っ て い る」 【 三 浦  1994:

58】 。「 穴 」は,生 エ ネル ギ ーが も っ とも集 中 して,地 気 が も っ とも高 ま るめ で た い 「 場 」 で あ る。 「 獅 子 穴 」 が あ る こ との意 味 は,風 水 が 好 い ぼ か りで な く,新 しい 王 朝 を創

り出す人 物 が そ の地 域 か ら輩 出 され る と思 わ れ る。

  上 記 の 伝説 か ら見 る と,「 土 地 公 」 は 領 域 内 の ほ か の 神 を 保 護 して お り,仮 に,地 元 の 「神 明」 と朝 廷 また は 外部 世 界 との 間 で矛 盾 が生 じる な ら,「 土 地 公 」 は 前 者 の 味 方 とな る。 一 方,霊 的 な 「 穴 」 を失 った 後 の 神 獣獅 子 は,も は や 「 神 明」 で は な く な った。 そ の時,「 土 地 公 」 は躊 躇 す る こ とな く獅 子 に廟 か ら出 て も ら った 。 も し も, 伝説 が あ くま で も人 間 に よって 創 り出 され た もの だ と言 うな ら,こ の伝 説 は,祠 廟 が や は り 「神 明 」 の 宿 る と ころ で,「 神 明 」 で な くな る と,祠 廟 か ら出 て も ら うしか な

い,と い うよ うな 人hの 観 念 を 反映 してい る。

  祠廟 は この よ うに して各 宗 派 の 「 神 明」 が 共 に過 ごす 場 所 と な った。 一 方,人 々の

観 念 には 祠 廟 に 関 す る分 別 が ま った くない わ け で もな い。 そ れ は,地 元 の 言 葉 を借 り

れ ば,「 香 火廟 」 と 「 不 是 香 火廟 」(非 香 火 廟)と の 区別 で あ る。

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最    聞南農村における神 々信仰

  「 香 火 廟 」 は,「 信者 の費 銭 や 線 香,ろ うそ く代 に よって 維 持 す る祠 廟 の こ とで あ る」[李(亦 園)  1996:12】。 「 香 火 廟 」 に は,龍 山 寺 の よ うな仏 教 寺 院 もあ れ ば,西 宮 の よ うな 俗神 を祀 る祠 廟 もあ る。 そ こに人hは 盛 ん に 出 入 りして,神 々に懇 願 を し た り,「還 願 」つ ま りか け た 願 い が適 え られ た お礼 まい りを す る。「香 火廟 」の庭 で は, 参拝 客 の み な らず,参 拝 客 目当 て の 占い 師や,ト ラ ソプを した り雑 談 した りして い る 男 た ち,そ こで遊 ん で い る孫 の世 話 を す る老 婦 人 な どの 姿 も よ く見 られ る。 廟 前 の道 路脇 及 び 山門 の ぞぽ に,線 香 や金 紙 を 販 売す る露 店 が ず ら りと並 び,物 売 りの呼 び 声

も絶 え 間 な く耳 に入 る。 「香 火廟 」 は,も は や 神 々が 宿 る場 所 ぼ か りで は な く,人h の 日常 生 活 の場 と もな った 。

  「 非 香 火 廟 」 は,俗 神 を 祀 らな い仏 教 寺 院 の こ とで あ る。 俗 世 との関 わ りが比 較 的 少 な く,和 尚 や尼 が そ こで静 か に 修 業 し生 活 を す る。 但 し,「 非 香 火 廟 」 の和 尚が 世 間 と全 く隔 絶 して い るわ け で もな い。 和 尚に病 気 を治 療 して も ら った り,読 経 の依 頼

のた め廟 を訪 れ る人 も後 を 絶 た な い。

  「非 香 火 廟」 と 「 香 火 廟 」の寺 院 とは,主 と して俗 世 との 関 わ りに差 が あ り,修 業, 日課 な ど の宗 教 的 活動 か ら見 る と両 者 間 そ れ ほ ど差 が な い よ うで あ る。 「 香 火廟 」 の 和 尚 も修 業 をす る し,「 非 香 火廟 」 の和 尚 の師 で あ る こ とも あ る。

  仏 教 が 「 香 火 廟 」 を 通 して俗 世 へ積 極 的 に 参与 し,影 響 を 拡 大 して き た と言xる 。 逆 に 言 え ぽ,民 間 信 仰 が濃 厚 に 存在 した閾 南 地域 で は,仏 教 は 生 き続 け るた め に世 俗 化 せ ざ るを え なか った。

3)「 神 明 」 に つ い て の 分 析

  前 述 した とお り,神 々の宗 教 別 は それ ほ ど重 視 され て いな い 。 しか し,人hの 観念 に は,「 神 明 」 に 関 す る分 別 が ま った くない わ け で も ない 。 例 え ぽ,そ の 機 能 に よ る 分 別 が あ る。神 々が,各 々主 要 な権 能 を もっ てお り,人 々は 自分 の 需要 に応 じて 神 を 拝 む 。人 々が妊 娠 か ら,出 産,子 どもの 成長,婚 姻,死 亡 まで を含 め る人 生 の各 段 階,

健康 な生 活,出 世 な ど社 会 生活 の各 方 面 と も,「神 明」 は 司 って い る。

  (1)「 陽 神 」 と 「陰 神 」

  神hは 機 能 に よ っ て 細 か く分 類 さ れ た 一 方,大 ま か に は,「 生 」(出 生,こ の 世,生 き て い る 人 間)に か か わ る も の と,「 死 」(死 亡,あ の 世,鬼,霊 魂)を 司 る も の の 二 つ に 分 類 さ れ た 。 前 者 が 「陽 神 」 と呼 ば れ る の に 対 して,後 者 が 「陰 神 」 と 呼 ぼ れ る

【 李(亦 園)  1996:20]。

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国立民族学博物館研究報告   22巻3号

  上 述 した 「香 火廟 」 は,ほ とん ど 「 生 」 に か かわ る 「 神 明 」 を祀 る廟 で あ る。

  「 死 」 に か か わ る神 明 は,人 間 の死 期 を 判 明 す る 「城 陛 」,後 人 を こ の世 に残 して な い孤 独 な魂 「 孤 魂 野 鬼 」 を統 轄 す る 「 霊 応 公 婿 」,死 者 を 大 量 に 出す 疫 病 を もた ら す 海 の彼 方 か ら漂 着 して きた 「 王 爺 」,な どで あ る。 王 爺 に つ い て後 述 す るが,城 陛 と霊 応 公 婿 の 祠 廟 は薄 暗 く,ぞ っ とす る気 味 の悪 い雰 囲 気 が漂 い,訪 れ る者 がめ った に な い。 子 ど もた ちが いつ も大 人 に入 らない よ うに 注 意 され る。 「 陰 神 」 の 祠 廟 の 寂 しさは,「 香 火 廟 」 の に ぎや か さ と全 く対 照 的 で あ る。

  死 に関 す る議 論 が本 論 文 の範 囲 を超 えた が,こ こで 言 い た い のは,生 か死 か の どち らか に か か わ る こ とに よ って 神 々が確 か に 分 け られ た 一方,実 際 に は,宗 派 間 で きち ん と した 一 線 が 画 され い な い こ と と同 じ く,生 と死 の 「 神 明」 の間 もか な り曖 昧 な と ころが あ る。

  城 陛 は,そ もそ も地 域 の鎮 守 神 で あ り,主 な 権 能 が 「城 池 」(町)を 守 護 す る こ と で あ った 。 唐 代 か ら,亡 くな った 「 正 人 直 臣 」(人 格 者 と清 廉 な官 吏)に 城 陸 を 担 当 させ る よ うに な った め に,城 陛 が 徐hに 「陰 間 」(あ の世)の 「 神 明」 とな った 【 陰 他   1991:3・450]。 安 海 で は,城 陛 を 主 と して人 間 の死 期 を 判 じる もの と して 祀 る が,

同時 に 人hの 脳裏 には 地 域 の 守護 神 とい うイ メー ジ もあ る。

  また,王 爺 も二重 的 な 性 格 を も ってい る。 王 爺 の原初 的性 格 は,丁 重 に祀 ら ない と 痕 疫=死 を もた らす 「 瘤 神 」(疫 病神)で あ った とされ る 【 高 橋   1990:48】。 過 去 の安 海 では,疫 病 が 生 じる さい に,「 王爺 が王 船 を 要 求 しに来 た 」 と思 われ,「 送 王 船 」 と

い う儀 礼 が 行 わ れ た。 具 体 的 に は,巫 師 の 指示 に した が って,紙 か 木 で造 った船 に 王 爺 が 要 求 した と言 わ れ る食 物 や薪 を載 せ た後,船 を 海 に流 す こ とで あ る。 船 に乗 った 王 爺 を 海 の彼 方 へ送 り出 す と共 に,疫 病 も象徴 的 に 境 界 の外 に追 放 した と言 わ れ る。

王 爺 の 姿 は 普 通 の人 には 見 え な いが,「 軽 八 字 」(占 い 師 に言 わ れ た 運 勢 の一 種)の 人 な ら見 え る。 数 十 年 ほ ど前 の 「 送 王 船 」 の さい に 「 軽 八字 」 の人 が 述 べ表 した 王 爺 の 凶 悪 な 姿 が,今 な お安 海 の人 々の記 憶 に 生hし い。

  一 方,王 爺 は,「 陽神 」 の 性 格 も もつ。 悪 疫 追 放,疾 病 平 癒 と い った もの か らr代 天 巡 守,地 域 の 守 り神,福 の神,何 で も願 いを 適 え て くれ る万 能神 とい った もの まで,

さ ま ざ まな 機 能 を もつ 【 高橋   1990:48】。 安 海 で は 王爺 は,後 述 す る よ うに,人hの さ ま ざま な祈 願 に応 じる 「 神 明」 で あ る。

  王 爺 が 原初 に畏 怖 され た瘍 神 の性 格 か ら,多 機 能神 と して の 性格 を もつ に 至 るに は, そ れ な りの過 程 が あ る と指 摘 され た 。そ して,痕 疫 を外 部 か ら内部 に もた らす 王爺 が,

「建 廟 に よ って 内部 に祀 りあげ られ る こ とに よ って,内 部 に とって プ ラス の性 格 を も

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竈   閲南農村 における神 々信仰

つ神 に変 貌 した 」 【 高橋   1990:47‑52】 とい う過 程 が あ るに もか か わ らず,変 貌 後 の王 爺 は,今 なお 畏 怖 され る面 が あ る。 そ れ は王 爺 に逆 らえ ば罰 が与 え られ る と思わ れ て

い るか らであ る。

  「 生 」 に か か わ る 「陽神 」 と 「 死 」 に かか わ る 「陰 神 」 とは,こ の よ うに して相 互 に 転換 す る。 「 陰 と陽 の二 つ の世 界 が互 い に通 じ合 うこ とこそ,中 国民 間 信 仰 の宇 宙 観 の特 徴 だ 」 と,李 亦 園 氏 は指 摘 した 【 李(亦 園)  1996:20】。

  (2)「 出神 」 と 「不 出神 」

  安海 の 「 神 明」 は,「 出神 」 の もの と 「 不 出 神 」 の もの とい う区別 が あ る。

  それ は,人 々 と 「神 明 」 との交 流 の 様式,ま た は 「 神 明 」 の 人 間へ 加 護 の様 式 の違 い とい う立 場 か ら分 け た よ うで あ る。

  「出神 」 とは ロー カル ター ム(local term)で,「 出」 は動 詞 と して 出 る,現 れ る と い う意 味 で,「 神」 は 「神 明」 そ の もの で は な く,そ の神 性,神 意,神 秘 的 な ス ピ リ ッ ト(spirit)の こ とで あ る。 「出 神 」 を す る 「 神 明」 は,一 定 の媒 介 を通 して,或 い は 何 らか の形 で直 接 的 に 人 間 に 自分 の意 志 を表 した り,人 間 の 直面 した 危 機 を排 除 し た り,人 間 の ため に 厄 払 い を した りす る。 実 際,困 難 な場 面 に 陥 って 「 神 明 」 の判 断 が 必 要 とな る場 合,人 々が 頼 った のは,往 々に して 「出神 」 の 類 の もので あ る。

  「 出 神」 の 「 神 明」 は,王 爺 や夫 人 婿 の よ うな俗 神 か ら,龍 山寺 の 「 佛 祖 」 と呼 ば れ た 観 音菩 薩 や,古 廟 の 関 羽 の よ うな英 雄 神 な ど まで,幅 が か な り広 い。

  「 出 神 」 の具 体 的 な 表 現 形 態 また はそ の 媒 介 は,主 に 「 顕 霊 」,「出輪 」 と巫 師 の 三 つ であ る。

  そ れ ぞ れ に つ い て詳 し く紹 介 して い く。

 a  「顕霊 」

  「 顕 霊 」 は,直 訳 す れ ば 「 神 明」 の霊 魂 が 現 れ る こ とで あ り,即 ち,「 神 明 」 が 霊 験 あ らた か な こ とで あ る。 「 霊 」 の か た ちは 一 定 では な く,人 間 に と って プ ラス と マ イ ナ ス の両 面 が あ る。 敬 慶 な信 者V'対 して,も っ と も必要 な時 期 に も っ と も適 当 な か た ち で現 れ て助 け を与 え る一 方,不 敬や 軽 率 な こ とを した人 に対 して は崇 りや 罰 を 与

え る。

  「 顕 霊 」に 関 して,さ ま ざま な伝 説 が あ る。 以下 では,幾 つ か を選 んで 紹 介 し よ う。

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