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俳句と絵画との接点 : 中村不折『俳画法』を視座 として

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俳句と絵画との接点 : 中村不折『俳画法』を視座 として

著者名(日) 中谷 由郁

雑誌名 大妻国文

38

ページ 155‑173

発行年 2007‑03

URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001342/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

俳句と絵画との接点

||中村不折﹃俳画法﹄を視座として||

ノ弘、

r

俳句を詠む画家

夏目激石﹁草枕﹄︵明治三十九年九月﹁新小説﹂︶に登場する西洋画家の﹁余﹂は︑那古井温泉を目指して旅をする︒旅

の途中に寄った茶店のお婆さんと馬子の源さんから︑那古井の温泉宿の那美さんがお嫁入りした時の話を聞くと︑﹁不思議

な事には衣装は髪も馬も桜もはっきりと目に映じるが︑花嫁の顔だけは︑どうしても思ひっ﹂かず︑ジョン・エヴァレツ

l

れはだめだと取り崩し︑代わりに写生帖を開け︑﹁花の頃を越えてかしこし馬に嫁﹂と俳句を書き付ける︒

また︑﹁余﹂は那美さんの切り盛りする宿に泊まり︑那美さんが夜中に振袖姿で俳佃する姿を見て﹁好題目﹂とし︑那美

さんを画題と決めるが︑ここでも﹁海業の露をふるふや物狂ひ﹂と﹁真先に書き付け﹂るのは俳句である︒そして︑次々

と﹁花の影︑女の影の臨かな﹂﹁正一位︑女に化けて臨月﹂﹁春の星を落して夜半のかざしかな﹂﹁春の夜の雲に濡らすや洗

姿

(3)

行く春の独りかな﹂と俳句を詠む︒このように︑﹁余﹂は那古井温泉の旅中︑画題となりそうな場面や景色を見ると画では

そして︑那美さんの従弟久一さんの出征を見送る場面で︑﹁余﹂が好題目とする那美さん本人から﹁先生︑わたくしの画

をかいて下さいな﹂と注文されるが︑ここでも﹁春風にそら解け嬬子の銘は何﹂と俳句を詠むのだ︒右記の俳句の他にも︑

鹿

花許りなる空を贈る﹂など︑都合十六句の句作をする︒﹁余﹂の俳句は︑﹁写生﹂的な句や︑目にした那美さんの雰囲気を

とらえ︑﹁海裳の精﹂などと想像を含んだ表現となっている︒

︵ 注

1七年前後︑﹁余﹂のように︑頻繁に俳句を詠む洋画家は存在したのであろうか︒そして︑文学の一ジャンルである俳句と絵 明治三十九年十一月︶と評しているが︑﹁草枕﹄が発表され︑時代設定された明治三十

画との接点は︑どのような形で試みられていたのであろうか︒俳句と絵画とを出会わせ︑

﹃俳画法﹄を視座として︑俳句と絵画との接点を考えてみたい︒

II 

俳句と絵画の接近

明治二十年代後半から︑正岡子規が主宰する﹁ホトトギス﹂を中心とする一派が俳句革新を起こし︑さらに︑尾崎紅葉

が主宰する秋声会や筑波会などの新派と呼ばれる俳句会が次々と発足した︒そして︑俳句は︑日本国内での活動にとどま

らず︑留学先にまで波及してゆく︒

まず︑明治三十四年一月に︑ドイツ・ベルリンで︑巌谷小波が師匠となり︑白人会が発足︑同じ年の八月頃には︑久保

(4)

回米斎︑和凹栄作︑清水雪坂が発起人となってフランス・パリにおいて巴会︑同年十一月には︑夏目激石︑渡辺和太郎︑

渡辺春渓︑桑原瓢逸が主要メンバーとなったイギリス・ロンドンにおける倫敦俳句会という具合に︑次々と誕生している︒

このうち︑ドイツの白人会は︑美学︑文学︑法学︑医学︑理学などを学ぶ留学生が中心となって活動し︑倫敦俳句会は︑

横浜商業学校出身の青年実業家達と英文学者である激石との交流の場となっていた︒中でも︑巴会は︑役人や法学を学ぶ

号明治三十五年四月︶と記しているように︑パリに留学していた画を学ぶ留学生が中心となっている︒ ︵ 注 2

巴会の名は︑﹁仏国巴里の巴字﹂に由来し︑久保田世音の回想によると︑例会は︑当時﹁日本人倶楽部のやう﹂だったカ ︵ 注3

フェ・エシヨリェ︑浅井忠が滞在していたグレl村のオテル・シユヴィヨン︑日本料理屋・巴屋で聞かれ︑明治三十五年

回世音が︑﹁謄写版で績かの部数しか作らなかった冊子であって︑現今どれだけ同人聞に残って居るか知らぬが︑恐らく稀

少であろうと思ふ﹂と述べ︑﹁みもざ﹂の一部を紹介している︒その中で︑杢助︑柴泉︑古泉︑外面︑不折などの句作を抄

出している︒試みに︑雑誌﹁ホトトギス﹂の挿絵を担当し︑正岡子規との交流もあり︑激石の﹃吾輩は猫である﹄や﹃濠

虚集﹄の挿絵を担当した洋画家︑浅井忠や中村不折の句を挙げてみよう︒まず︑杢助は﹁木枯や大根畑に月落る﹂﹁雪の日

の五句︑そして︑不折は﹁寒月や細長い塔狭い川﹂の一句を詠んでいる︒一場面を写し取り︑情景が目に浮かぶような句

だ︒和田英作談﹁画壇の四十年

刊清水﹂第三十四号 足跡を顧みて﹂︵昭和九年八月三十日から十二月十九日まで﹁東京毎夕新聞﹂︑後に﹁季

l

(5)

しかし︑巴会メンバーの句作は︑他でも目にすることができる︒近年︑巴会のメンバーを含むパリ留学中の日本人の間

で︑明治三十四年五月から﹁パンテオン会雑誌﹂という手書きの雑誌が三冊ほど編まれていたことが判明した︒﹁パンテオ

ン会雑誌﹂は回覧雑誌として手書きで編まれている︒﹁パンテオン会雑誌﹂第一号は︑明治三十四年五月二十五日︑第二号 ︵ 法5

は︑同年九月二十一日︑二号から一年半後の明治三十六年三月に第三号が編まれたが︑全三冊で終了してしまう︒その後︑

1900

雲社︶が平成十六年九月に上梓され︑貴重な資料が手元で見ることが出来るようになった︒翻印︑影印︑解題がまとめら

れた資料や︑この雑誌にまつわる論考が収録され︑

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﹁パンテオン会﹂が発足した経緯は︑第一号﹁ぱむておん会記事﹂で知ることが出来る︒

そこには︑明治三十三年十二月二十二日に帰朝する彫金家海野美盛の送別会の席で︑寺嶋誠一郎︑黒田清輝の発案によっ

て発足し︑そして︑﹁会員の手になれる文章絵画等を集めて一雑誌を編む事﹂という規約ができ︑﹁パンテオン会雑誌﹂が

﹁パンテオン会﹂のメンバーは︑洋画家の黒田清輝︑浅井忠︑中村不折︑和問英作︑藤村知子多︑岡田三郎助︑日本画家

の久保田米斎︑竹内栖鳳︑編集を担当した法学者の寺島誠一郎︑東京外国語学校教授の重野紹一郎︑西洋史学者の箕作元

八などであり︑様々なジャンルの専門家の名がみられる︒

中でも︑注目したいのは︑﹁パンテオン会雑誌﹂第二号に﹁巴会句集﹂が載せられていることである︒この句会は︑日本

料理屋の巴亭で聞かれ︑来遊していた白人会のメンバー小波︵巌谷小波︶と百樹︵虚百樹︶を迎え︑杢助︵浅井忠︶︑不折

(6)

ここで︑﹁パンテオン会雑誌﹂に載せられた巴会メンバーによる句作を確認してみよう︒

句のはじめには︑葡萄と月の挿絵があり︑句の終わりには︑貝殻が三つ巴のように描かれた挿絵がみられるが︑誰の手

によるものかは不明だ︒では︑先と同じく︑激石と交流があり︑また︑﹃草枕﹂の﹁余﹂と同じく洋画家である浅井忠︑中

村不折の句をみてみよう︒

まず︑杢助の句は︑﹁月天心牧師落葉をふミかへる﹂︑また﹁ムlドンにグlジョン食て秋の月﹂とあり︑ムードンとい

う場所で﹁グl

一場面を写し︑切り取りながら︑言葉のリズムによって︑

面白味を感じさせる︒また︑﹁秋の月辻君の顔の蒼きかな﹂﹁小娘の篭にあふる︑葡萄かな﹂とある︒情景を写しながら︑

次に不折の句は﹁エツフエルの塔臆臨として月黄色﹂﹁中景の塔紫に月の入る﹂﹁仰ぎ見る巴里の月や宿の庭﹂と﹁写生﹂

的に表現され︑色彩が目に浮かぶような絵画的な句ゃ︑﹁鶏の恋紫や葡萄畑﹂﹁フランスの恋や日暮の葡萄畑﹂というよう

に︑紫の呆実が広がる畑に﹁恋﹂を重ね合わせ︑恋する感情を想像して詠み込んだ句がある︒

﹁ミモザ﹂や﹁パンテオン会雑誌﹂の俳句で特徴的に思えるのは︑洋画家の句は︑情景や一場面を﹁写生﹂的に切り取っ

て詠みながら︑面白味や想像を含ませた情趣を感じさせる句が多いという点である︒例えば︑不折と同じエッフエル塔を

詠んだ︑外交官の百樹は︑﹁これやこの月の梯子やエツフェル塔﹂と詠み︑エッフェル塔の高さを月まで届くほどの梯子に

ファンタジックな表現をしている︒一方︑不折は﹁エッフエルの塔膿臨として月黄色﹂と詠み︑情景を﹁写生﹂

的に詠んで表現しているのだ︒

浅井忠は直接的に︑彼の弟子的存在である不折は間接的に︑日本に洋画を広め︑﹁写生﹂を唱えたフォンタネlジの指導 ︵ 住6

を受けていたことが想起され︑それが俳句にも生きている︒後に激石の挿絵を担当し︑親交を深めることになる西洋画家︑

浅井忠や中村不折は︑明治三十四年に留学先で俳句を詠んでいた︒

(7)

O

こうして︑﹁ミモザ﹂の存在と﹁パンテオン会雑誌﹂の発見により︑明治三十四年に︑画家が俳句を詠み︑さらに俳句の

会まで結成していたことが明らかとなり︑洋画家の句作を確認することができた︒俳句を盛んに詠む洋画家が実際に存在

していたのである︒洋画家の間で俳句が盛んに詠まれていたことは︑注目すべき点であろう︒俳句と絵画とは近いところ

そのうち︑ここではそうした俳句を詠む洋画家の一人である中村不折に注目してみたい︒不折は︑明治三十八年から三

十九年に︑﹁吾輩は猫である﹂や﹃濠虚集﹄の挿絵を担当したことで︑激石との交流を持つことになる︒激石は︑不折の画

業を﹁いづれも見事なる出来満足不過之と存候あれは今迄のさし画に類なき精巧のものにて出来の上は定めし人目を驚か

すならんと嬉しく存候︒夜中にてよくわからざり﹇し﹈かど︑かの倫敦塔の図の如きは着色の点に於てたしかに当今の画

︵ 注

7︵明治三十九年三月二日・中村不折宛書簡︶と大絶賛しているのだ︒さらに︑家をあっと云はしむるにたる名品と存候﹂

次章から見てゆくように︑不折は︑子規と共に画と俳句について討論し︑後年は︑﹃俳画法﹄をまとめるに至る︒彼は︑意

識的に︑俳句と画とのコラボレi

ところで︑不折が﹁パンテオン会﹂に入会した経緯は︑﹁パンテオン会雑誌﹂第二号の﹁ばんでおん会記事﹂に︑明治三

十四年八月二十四日・九月七日エシヨリエでの茶話会で賓客として参加した後︑同月九月二十一日のスフロl旅館での晩

餐会の際であると記載されている︒そこには︑﹁歓笑例に依て深更に至る﹂とあり︑巴会が大いに盛り上っていることが分

かる︒このように︑留学生の問で巴会は︑交流の場であり︑﹁俳句﹂は趣味として流行していた︒その中にあって︑不折は︑

留学後も︑意識的に俳句と絵画との関係を追及し︑﹁俳画﹂の世界へと向かってゆくのだ︒その不折を︑俳句という表現形

式へと開眼させたのは︑激石の盟友正岡子規であった︒

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川 岨

中村不折と正岡子規

(8)

パリ留学中︑﹁巴会﹂に参加し︑﹁みもざ﹂﹁パンテオン会雑誌﹂に俳句を寄せた中村不折は︑留学前︑正岡子規との出会

いの中で﹁子規が俳句を作って余が画をかいたり又其反対に余の画に子規が匂を題するといふ﹂︵﹃俳画法﹄明治四十二年

光華堂︶ことをしていた︒さらに後年には︑俳句と画とを融合させた﹃俳画法﹂や﹁不折俳画﹄をまとめるに至る

のだ︒不折は︑俳句の世界と関わり続け︑探究してゆく︒

の挿絵画家として︑浅井忠から紹介され︑中村不折が起用されたことにはじまる︒子規が︑社会風刺画など新聞に挿絵を 入れようと発案し︑挿絵を不折が描くことによって︑二人の親交が深まっていったのである︒子規は︑不折との初対面の

場面を次のように回想している︒

始めて君を見し時の事を今より考ふれば殆ど夢の如き感ありて︑後来余の意見も趣味も君の教一不によりて幾多の変遷

を来し︑君の生涯も亦此時以後︑前日と異なる経路を取りしを思へば此会合は無趣味なるが如くにして其実前後の大関

神田淡路町の小日本新聞社内で不折と出会ったことで︑子規は不折からの﹁教示﹂により﹁意見も趣味﹂も変遷し︑不

折もまた︑子規の影響で﹁前日と異なる経路﹂をもたらされたことを記している︒そして︑二人が出会ったことを﹁前後

の大関鍵たりしなり﹂と述べる︒不折からもたらされた子規の大きな﹁変遺﹂は︑﹁ホトトギス﹂第三巻五号﹁画﹂︵明治

の中で述べられている︒﹁不折君と共に﹁小日本﹂に居るやうになって毎日位顔を合すので︑顔を合す

と例の画論を始めて居た︒此時も僕は日本画崇拝であったからいふ事が皆衝突する︒︵中略︶其内ふと俳句と比較して見て

‑L. 

(9)

1..... 

から大に悟る所があった﹂とある︒不折は︑子規に俳句と画とを比較するきっかけを作り︑その成果として子規は﹁大に

悟る所﹂があり︑﹁始めて眼が明いたやうな心持﹂がしたという︒さらに子規は︑不折に画についての詳しい説明を請うた︒

そこで日本と西洋との比較を止めて︑日本画中の比較評論︑西洋画中の比較評論といふやうに別々に話してもらふた︒

さうすると一日/\と何やら分って行くやうな気がして︑十ヶ月程の後には少したしかになったかと思ふた︒其時虚心

平気に考へて見ると︑始めて日本画の短所と西洋画の長所とを知る事が出来た︒とう/\為山君や不折君に降参した︒

子規は︑不折に日本画と西洋画との説明を依頼した︒不折は︑日本画崇拝者であった子規に︑西洋画の長所を気付かせ︑

俳句と西洋画とを結びつける考えを見出させたのだ︒

この時︑子規が︑西洋画論から学び取り︑俳句へと結びつけたものは︑よく言われる通り︑﹁写生﹂である︒ ︵ 注 8

子規と不折は︑俳句と画との関係を論じるばかりでなく︑﹁お互いに余が絵をかいては子規は讃をし︑子規が句を作って

は余は其れに対する絵を書いたりして︑兎に角研究を忘れなかった﹂︵中村不折﹁子規居士七回忌号﹂﹁ホトトギス﹂第十

一巻第十二号明治四十一年九月︶という︒実作として︑明治二十七年八月十四日﹁日本﹂に︑不折の画に子規が賛を詠

んだ﹁不忍十景に題す﹂を発表し︑ここで初めて﹁不折生﹂の名が記される︒また︑明治三十三年十月の﹁ホトトギス﹂

四巻一号には︑子規の句に不折が画を描いている︒

回顧すれば明治二十七八年の頃子規と余と小日本編集局楼上で折々子規が俳句を作って余が画をかいたり又其反対に

余の画に子規が句を題するといふ塩梅に俳趣味の交換みたやうなことをやって居ったそれからだん/\それが進んで来

て古人がこれ等のことについて研究した跡を尋ね或は今後如何様にせばよろしきゃなど︑互に討議したことなどもあっ

(10)

たそれで先其当時の事から考へや冶秩序を立て︑簡略に俳画の心得ともいふべきものを陳べて見ゃうと思ふ

不折︑子規共に︑お互いに学び取ったものについて︑詳しくは述べていないが︑不折がまとめた﹃俳画法﹄

に︑子規との出会いがきっかけとなり︑俳句と画とを融合させた﹁俳画﹂を描き︑﹁俳趣味の交換みたやうなこと﹂をして

いたと証言している︒子規と不折との出会いは︑子規に俳句の﹁写生﹂という革新をもたらしただけではなく︑不折へも

俳句とのコラボレlシヨンといえる﹁俳画﹂についてまとめるきっかけを与えたのである︒不折は︑明治一一十七年に子規

と出会ったことをきっかけとして︑俳句と絵画の融合体としての﹁俳画﹂という表現形式を追究し︑明治四十二年三月﹃俳

画法﹄を上梓する︒着想と発表とに時間差があるものの︑子規との出会いから﹃俳画法﹄は実を結んだのである︒

中村不折︵一八六六|一九四三︶が本格的に絵を学ぶのは︑十一字会︵のちの不同舎︶に入塾し︑小山正太郎に師事し

画家として︑彼は起用される︒ここで︑子規との避遁により︑﹃俳画法﹄をまとめるきっかけとなる﹁俳趣味の交換﹂が行

われるのだ︒さらにその後︑明治三十四年パリ留学中に俳句の会﹁巴会L

同四十三年﹃不折俳画﹂をいずれも光華堂より刊行する︒

しかし︑不折の評伝を見ても︑﹁俳画﹂は余技であったという扱いや︑年表に﹃俳画法﹂は載せられているが︑本文には触 ︵ 注 9

‑ L  

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として名が挙げられているのみで︑﹁中村不折﹂の項目にも﹃俳画法﹂﹃不折俳画﹂については触れられておらず︑不折の

平成七年十月

の﹁俳画﹂の項目にも︑近代︑俳画に手を染めた人物

そこで︑本稿では︑不折︑子規との問で交わされた﹁俳趣味の交換﹂について︑不折の側から﹃俳画法﹂を手がかりに 探ってみたい︒そこから︑洋画界と文学の一ジャンルである俳句との交流の一端を見てゆこう︒

﹃俳画法﹂は︑まず︑巻頭に先人の画を載せ︑次に︑河東碧梧桐の句に不折が画を描き︑左のような﹁俳画﹂の実例を一不

·~、

崎 山

そして︑全六章で構成された﹁俳画﹂論を述べてゆくのだ︒

まず︑第一章﹁題一聞の心得﹂では︑﹁断じて此翻訳的の仕事は避けた方がよかろふ﹂と断言し︑句の意味をそのままに描

(12)

くことを否定している︒そして︑﹁はじめにためすべき方法﹂として︑句の意味を﹁連想﹂して描くことが大切だと述べて

いる︒第二章﹁画風﹂では︑俳画の歴史を追いながら︑優れた先人について述べている︒第三章﹁画法﹂で︑﹁俳画法の終

局は実は下手に書くという所にある﹂と述べ︑第四章﹁題画の実価﹂では︑﹁俳画﹂を描く﹁秘訣﹂を述べてゆく︒第五章

﹁運筆法﹂でも︑﹁下手に描く﹂ことを提唱し︑第六章は︑最終的なまとめとなっている︒

今回︑注目したいのは第三章﹁画法﹂と第四章﹁題画の実価﹂である︒ここに︑子規との﹁俳趣味の交換﹂が垣間見ら

れるのだ︒まず︑第三章﹁画法﹂から見てゆこう︒

俳画法の終局は実は下手に書くといふ所にあるのだ

下手の所が初学の首途だん/\習ふて上手になるに大抵

な人間は此上手の所で成仏するそうだがモット向上心の強い奴は又だん/\と進んで遂にはモトの下手になるのだそう

すればモウ〆たもの動きっこない上手も下手も一通り卒業した金箔付きの下手なのだ

不折は︑﹁上手しになった後︑その先に進んで最終的には﹁下手﹂になって描くのが良いという︒そのために︑﹁上手に

ならぬ様にする﹂方法を﹁上手排斥法﹂と名付けている︒この﹁上手排斥法﹂は︑﹁対症療法﹂と﹁根本療法﹂のごつに分

Lは︑﹁上手に書かぬように心掛け﹂ることだという︒もう一つは﹁根本療法﹂というもので︑

﹁奈良平安の古文書建築遺跡書画彫刻中国三代の古銅器古文書を手本にせよ﹂と述べる︒﹁不器用な無粋なものを選択して

精巧なるものや意気なものは遠ざける工夫が肝要﹂で︑﹁下手﹂に書くことで︑﹁好結果が得らるよというのだ︒

この﹁下手に書く﹂と類似したことは︑子規が﹃墨汁一滴﹄で書き記している︒それは︑不折のパリ留学に際してのメツ

l

(13)

一 ム ハ ム

そは君の晴好が余りに大︑荘などいふ方に傾き過ぎて小にして精︑軽にして新などいふ方の画を軽蔑し過ぎはせずや

といふ事なり︒︵中略︶西洋へ往きて勉強せずとも見物して来れば沢山なり︒その上に御馳走を食ふて肥えて戻ればそれ

に上こす土産はなかるべし︒余り躍離と勉強して上手になり過ぎ給ふな︒︵明治三十四年六月二十九日︶

子規は︑風景を中心に描いていた不折に対し︑﹁大景﹂ばかりを描き︑﹁小にして精︑軽にして新などいふ方の画を軽蔑

し過ぎ﹂だというのだ︒それに﹁得々﹂する態度をたしなめ︑最後に﹁上手になり過ぎ給ふなo﹂と述べている︒不折のい

う﹁下手に書く﹂ということと共通している︒この子規の忠告は︑不折を﹁俳画﹂について考え直す契機を与えたかもし

れない︒この﹁下手に書く﹂ことは︑第五章﹁運筆法﹂でも︑﹁一気阿成に下手な形を書いて︑それを面白がって喜んで居

ると言ふ所に真の風流が見える︒其亦下手の画を苦情も云はずに楽しんで見て居ると言ふ所に真の風流が見えるのだo

述べ︑﹁下手しに書くことの重要性を繰り返している︒

続く︑第四章﹁題画の実価﹂では︑﹁俳画﹂を描く﹁秘訣﹂という文脈の中で︑﹁写生﹂について述べてゆく︒

題画の価値は陳腐に流れず斬新にして奇抜なるべく美術的のものたるべし一言ふて仕舞へばこれ丈けだがこれが中々困

難な事件でいざ実行と云ふ場合には思ふ通りはやれるものでないしかしこ︑に一つの秘訣があるが此秘訣を旨くやるこ

とが出来れば自由自在どんな場合もどんな人がまごついて居るときでも自分丈は平然として多々増々弁ずると云ふ態度

でもって面白いものを続々こしらへる事が出来るそれは第一に写生をするのだ此写生と云ふ事がよく出来れば天地万物

片端から取て自家薬龍中のものとなし恰も泉の湧き出す知くとってもとってもとりつくすことの出来ぬ程面白いものを

画いて見せる様になる︵中略︶此写生と云ふ事に入るのが実は普通大抵の苦労ではないよい加減の所で匙を投げて其堂

奥に入らずに敗北する人が少なくない様だ写生と云へば外界の事物を客観してそれでよい塩梅にスケッチブックへ止め

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ればよいので外に準備も何もいらぬ様に問えるが実は直接には必要ないが間接に頭を練て置くと云ふ必要はたしかにあ

つまり︑詩歌や丈の内容を表現する絵を描くための﹁秘訣﹂として︑﹁写生﹂を挙げる︒ここで いう﹁写生﹂は︑﹁外界の事物を客観してそれでよい塩梅にスケッチブックへ止めればよいので外に準備も何もいらぬ﹂も のではなく︑﹁実は普通大抵の苦労ではない﹂と難しさを述べ︑﹁間接に頭を練て置くと云ふ必要﹂があるという︒ここで 言う﹁写生﹂は︑ただものを書き写すのではない︒﹁ホトトギス﹂の中で︑不折は﹁雁来紅草堂主人﹂の名で︑﹁写生﹂に

今の日本画家が第一の欠点は写生を為さゾることなり︒彼等の多くは写生を軽視す︒光琳の画を見て日︑是れ写生に 非ずと︒彼等は写生を解して実物通りに書くこと?心得居るなり︒光琳の画は実物通りに書かず︑実物のうまみだけを 取りて書く︒是れ査に写生の大目的に非ずや︒︵﹁美術界の昨今﹂﹁ホトトギス﹂二巻五号

不折は︑ここで︑日本画家が﹁写生﹂を軽視し︑﹁写生﹂の意味を﹁実物通りに書くこと﹂と解している点を批判してい

る︒そして︑光琳が実物通りに書かずにうまみだけを取り出して描くことを例として挙げている︒ここで批判の対象となっ ている日本画家は︑日本美術院派である︒美術院派を批判して述べている言説ではあるが︑不折の﹁写生﹂観が見えてく る︒不折は︑ここで光琳を例に出し︑実物通りに描くのではなく︑でつまみだけを取り出して﹂描いていることを指摘し︑

﹁是れ量に写生の大目的に非ずや︒﹂と評する︒不折のいう﹁写生

L

﹃俳画法﹂ではさらに︑﹁頭を練﹂ることの必要牲を強調している︒﹁頭を練て置く﹂とは︑どのようなことなのか︑考えて

(15)

俳趣味の交換

不折は︑鳥羽僧正の名を第二章と第六章とに挙げ︑これこそが︑不折の﹁やりたい方向﹂であると評価している︒不折

の誤なからしめ︑他方には其形体実物に拘泥せずして︑種︑の風刺滑稽を檀にしたのは︑何たる妙腕であるか︑殆ど形

容に苦むのである︒其真の妙所︑其得意の技︑それらを感得したものが︑古今幾人あるであろうか︵中略︶僧正のは其

大きな目も口も其ま︑に写生して別に細工も何もしていないが︑其手足首つきが︑即ち其姿がどうしても喜んで居るや

うに見えるので︑其妙味は殆ど解説し難い程である︒此表情の術が外の日本絵に少しも見出されない所である︒

不折は︑僧正について﹁非凡﹂な﹁写生家﹂︑また﹁想化家﹂であると評している︒﹁写生﹂と﹁想化﹂とを駆使して描

くことを目指す不折の立場が見えてくる︒この不折の﹁鳥羽僧正論﹂に対して︑東野茅堂が﹁駁する一文﹂を投じたこと

を受け︑子規は︑次のように述べる︒すなわち︑不折と茅堂とは共に友人なので︑﹁どちらに晶買もなけれども﹂と断りつ

っ︑茅堂は︑﹁鳥羽僧正の写生の伎偏がどれだけに妙を極めたるかも解せざるべく︑只其好きな茶道より得たる幽玄簡単の

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られたき者なり﹂︵﹃墨汁一滴﹂明治三十四年四月二十七日︶とし︑間接的ながら不折の説を支持した︒不折は︑明治三十

四年七月の﹁国華﹂において︑再び﹁鳥羽僧正論﹂を発表し︑前回と同じように評価してゆく︒また︑不折の一百う﹁想化﹂

と﹁写生﹂については︑子規の言説にも見える︒

作者若し空想に偏すれば陳腐に堕ち易く自然を得難し若し写実に偏すれば平凡に陥り易く奇闘なり難し空想に偏する

者は目前の山河郊野に無数の好題目あるを忘れて徒らに暗中を模索するの傾向あり写実に偏する者は古代の事物隔地の

空想と写実を合同して一種の非空非実の大文学を製出せざるべからず︒空想に偏執し写実に拘泥する者は固より其至

つまり︑不折がいうところの﹁想化﹂︑﹁写生﹂との二つが︑均衡した表現を求

めていたことが分かる︒不折が﹁俳画﹂の﹁秘訣﹂として挙げる﹁写生﹂とは︑子規と共通して︑描き写すことと想像す

ることとが均衡を保ったものである︒これが﹁俳趣味の交換﹂の成果であろう︒﹁頭を練て置く﹂とは︑この点を指してい

子規との交流の中で行われた﹁俳趣味の交換L

思えば︑不折の俳句も︑﹃草枕﹄の﹁余﹂の俳句も︑実際に目にした光景を詠いながら︑﹁恋﹂や﹁海裳の精﹂などと想

像を含ませて詠っている︒洋画家のいう﹁写生﹂は︑子規のフィルターを通すことで︑﹁想化﹂と均衡を保ち︑﹁下手に描

く﹂ことを吸収した︒それを不折が﹁俳画﹂として再び捉え直したのだ︒

(17)

VI 

まとめ

不折は︑﹃俳画法﹂の発表後︑﹁俳画とは何か﹂︵﹁ホトトギス﹂二二巻一号大正七年十月︶を発表している︒ここでは︑

﹁俳画﹂についての定義づけがされている︒

私は美術趣味即ち俳趣味だと言ひたい︒俳趣味を明かにする為めには︑俳詰が起った動機に遡って考へるのが良い︒

言ふ迄もなく俳譜が他の文学︑詩歌と別れた動機は︑他の文学を正しい文学として︑その窮屈な形式ぶったのに僚ない

人々が其反対に自然な平民的な自由な気軽な詩を創作したのが俳譜であらう︒︵中略︶平民的文学の俳句に対する平民的

画が俳画であると言ふ定義を下され得ると思ふ︒

﹁俳画の定義﹂を﹁平民的画﹂と位置づける︒続けて︑﹁俳画﹂を描く難しさを述べる︒

自分に絵の揮事を依頼しに来る人の中にも俳画を目して普通の画︵仮に言ふ︶よりも無雑作に簡易なものとして﹁俳

画でもよろしう御座いますから︒﹂など︑言ふ人がある︒これは大いなる誤であって︑実は俳画は他の絵画よりも寧ろ六ツ

かしいものなのである︒と言ふのは﹁形を写真的に写す﹂ある種の絵と異って︑俳画は一種の詩の境遇を掴まへて来て︑

それを巧みに一幅の画に納めたものでなくてはならず︑物の形状を写す技巧の如何に関はらず︑俳趣味を基として描か

ねばならぬからである︒

の﹁余﹂が︑﹁十七丈字は詩形として尤も軽便であ﹂り︑﹁容易に出来る﹂が︑﹁軽便であればあるほど

参照

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