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Title 德川農場發達史(一)

Author(s) 林, 善茂

Citation 北海道大學 經濟學研究, 5, 73-106

Issue Date 1953

Doc URL http://hdl.handle.net/2115/31001

Type bulletin (article)

File Information 5̲P73-106.pdf

Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

(2)

f

)JI 

44

徳川農場の愛生

第一一節大土地庭分とその性柊

第一一一節倹令の制定と北海道移伎

第一一一節移住人の保護

第五節開拓使(官)の援幼

(以下火披)

f:

(一)

3

73‑

(3)

徳川農場議議史以リ

第一奪徳川農場の摂生

第一節士族授産と北海道開拓

度臨一一一年十月大政奉還が行われ︑次いで明治二年六月には版籍奉還が行われた︒その結果苔藩主は藩知事に任ぜら

れ︑問時に封鵡は現米の一O分の一に削減された︒そとで藩知事はまたとれに準じて藩士の階級乞整理し家藤を改定

した︒名古屋藩(富尾張謀︑明治二年藩籍奉還後名古屋藩と改む)では明治一一年十一月繰制の改革を行い︑開株三千

石以上の士族は総べてその一O分の一に削減し︑﹁其以下は二九五怯なもって最上の藤とし︑損上谷下之割bL

節減﹂するとととし︑原雄一

OO

石未満五O石以上の者はいやれも五O怯とした︒しかも改定誌はすべて一ニ斗五升入

の依を以て支給するとととした︒また卒挨については明治三年五月及び二月の雨度に渡って改定を加え︑一等及び二

等卒族ともすべて悶石二人扶持に統一した︒

以上の如き大幅の家践の削減が士族の生活に大なる訂撃bL興えたととはいうまでもたい︒そとで各落とも窮迫した

士族に授産の還を開く必要にせまられた︒名古屋藩では明治ゴ一年十月雄︑た返上して節目を請願する士族に封して︑手

賞金を支給して苓毛一地を開墾せしめ︑その身分は無給の士一族としたい内山同年十一月に主り改めて師岡山均誌の制友設け︑

士族にして蹄回を欲する者は士族の身分を保持したままで領内の遁営な土地に移住蹄農させるとととし︑蹄田bL額出

でざる者には従前の藤高の高下にかかわらや︑すべて現石一七石五斗(五O俵)を支給するとととした︒すなわち蹄

問者に謝して成功期間を一O簡年と定め︑内七箇年は従来の俸践を石八雨の相場で換算したものな御手賞金として一

時に支給し︑残り一一一留年は従前の株高にかかわらや均娘一七石五斗を同様石八雨の相場で換算したものを別段御手設

‑74 

(4)

金として併せ支給することとした︒但し御手賞金千雨以上二千雨未満のものはニ箇年︑一一千雨以上のものは一一一簡年に

分割支給するものとした︒また御手賞金の外に︑蹄田者に封して五筒年間一人一日五合の割で毎月六人扶持乞興える

とととした︒但しとの現米合計五四石の石代金四一一一二雨は上の御手営金よb控除するものとした︒な

h u 士族の身分を

離れて農商に蹄籍せんととを望む者に劃しても︑上の規定に準じて手賞金を支給するとととした︒また卒挨の鶴田希

望者にはその身分に臨じ︑一冗準士族家筋五石二人分取の者には︑五年間月俸一一一人口と御手賞金二六五繭ニ分及び別段

御手金一八二同一分︑一冗御譜代席以下問布二人分取の者には︑五年間月俸コ一人口と御手賞金一一O九雨二分及び別段御

手賞金一八二雨一分を︑それぞれ一時に支給するとととした︒かようにとの制度の趣旨は一時資金の下附によって部

地の買入その他陣農の経費に充てさせ︑五年間の扶持米支給によって農耕の業に習熟させようとするものであって︑

昔時他の諸務に沿いて行われたととろのものとほぼ軌を一にした︒

以上の如き制度によって諜はしきりに士卒の蕗閏を奨撤したので︑ととに一ニ七O飴人の詩願者を生じ︑少参事白井

逸減︑様少参事中川直三郎︑荒川踊五左衛門が師国御用掛に任ぜられた︒ととろが明治五年二月政府の都合で停止を

命ぜられ︑部問中誌のものは・中止させられた︒食時師国を完了したものは僅か二名にすぎや︑彼等は民籍に編入され

v︑大部分は均捺制以前の原礁に復せしめられた︒かようにとの制度は震を結ぶに至ら歩して終ったが︑鹿藩以前

KM

ける士族授産の方策として注目すべきものであって︑明治十年に沿ける北海道開拓も︑見方によっては廃藩以前

に於て慶勝が藩知事として計聾した陣自制度の再興または延長とも見倣し得るのである︒

明治四年七月の陵藩置蘇によって︑家総はそのまま中央政府に引継がれたが︑それは復古の功臣に下賜された賞典

藤とともに閣時歳出の三分の一乃五四分の一に及び︑閣庫の大賞捨とたった︒そとで政府は家職・賞品(繰の鹿止に努

力し︑明治六年十二月二十七日家職奉還規則を設け︑家路・賞典藤一

OO

石未満の者に限り奉還友許し︑その代償と

経済態研究

ζ

‑75

(5)

徳川農相場後出抽出県川門

して永世捺は六箇年分︑終身織は問簡年分友一時に下賜するとととし︑その字額は現金︑字額は年八分利附家総引換

公債読書で引渡した︒また同時に農業牧高に騨業を欲一ずる者に封して官有林野の学慣掛下げを行った︒

しかしとの規定︿家路奉還規則)も主として財政上の理由によって︑八年七月には﹁首分の問主止﹂められたが︑

九年八月に至り設に家路・賞典誌の全騒が行われるに至った︒その結果従前の株高の多少により五年乃五一回笛年分

の秩路公債が一時に支給され︑その公債は六年目より拍銭で元金が償却され︑一二十倍年で全部が償却されるととにな

とれによって士族は公債所有者となったが︑その利子によって生活をなし得るものは組めて少数であって︑︑大

部分は非常な生活難に富酉し︑ために士族授産が枇合的な大問題として取上げられるに至った︒

そとで政府及び府懸賞局は続々の施設乞もうけて士族の就産に努めたが︑富藩主もまた﹁故替の情説傍観するに忍﹂

び守︑費を割いて官民の救済に充てるものが少なくなかった︒書名古屋蒋主徳川隆勝も﹁二百数十年来の務士族常職

をもかれ恒心あれども恒産なきものから俄かに州誌に工に商業に身をやっして老親妻子を誌はんとすれども素より器科

の迅に疎く刀剣甲胃も手濯の損失を防ぐに足らや殆んど飢餓に陥らんとするを﹂憂い︑明治十年五高同友出して名古

庭去に銀行を創設してその利子を富士族の授産に充てることとし︑家扶吉国知行に命じて名古屋去に養護織工場を興

し︑また開拓使管内に拓域組業の地を求めさせた︒

織工場は名古屋士挨の制女子に機織の業を皐ばせて就産の一助にする目的で︑明治十年十月に名古屋久屋町一丁目

に設立された︒蛍一初は鯨の税金で費用乞支えたが︑十一年五月以降は年々二千闘づっ鹿勝が醸出してその資誌に充営し

閉また北海道の拓殖組業は古前知行・海部品蔵等教人が慶勝に謀って︑政府の政策に不平を抱き或いは底世の道に

迷える話器士をして北謹開拓・産業奨鴎の名の下に北海道に移住させようとしたものであって︑明治十年七月吉田知

行・角田弘業・佐治矯泰・片柄功作等が視察隊員として北海道に派遣された︒とれが徳川農場成立のそもそもの護端

‑76 

(6)

(10)  (10)  (9)  (8)  (1)  (6)  (5)  (4)  (3)  (2] (1) 

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一 一 一 一

一 頁

‑77‑

O

第二部大土地底分とその性格

前誌の如く寄名古屋藩主徳川陵勝は資本金五高闘を出して第十一関立銀行を創設し︑利子の一部を以て北海道の拓

殖起業を行わんとして︑明治十年七月吉悶知行等を遣わして開拓使管内に趨地役求めさせた︒同年八月函館支醸の許

可を得て吏員の誘導により管内各地を巡閲するとと公よそ一一一箇月︑設にでl一アップ川の流域に趨首たる移住地のある

とと友確かめ︑十月片山制助作一名を残して一行は師国し陸勝に報告しい午その時の報告指討が﹁開拓使交腐管内路振園

山越内村学遊架部賞況概一容であって︑位置二議・地形・交通・運輸・土質・用材・商積・草木・戸数・産物言

簡単に簡保書にしたものにすぎないが︑ともかくとれによって始めて移位開拓の議が決ぜられた︒そとで明治十一年

:

(7)

徳川抽足場後議奥け

五月民勝の名で﹁士族有志ノ笠へ資金ヲ貸興シ年々若干名ヲ移住就産矯致度一一付路振園山越郡山越内村字遊業部一一一於

一ア瞭野百五十高坪立木ヲ併セ無代償下渡ノ儀﹂乞開拓伎に願出でた︒

これよりさき︑明治五年九月に土地資貸規則及び地所規則が制定され︑

O高坪以上の土地蕗分は禁止されて

いた︒またとの規則の制定以来未開地の賢下・貸附け等を出額ずるものが漸次増加し︑大規模の開墾を企劃するもの

はいまだ司なかったが︑欧米資本主義の影響による営利思想の護産に伴ない将来有望の地域乞占有して他日の奇利を得

んとするものが少なくなく︑ために営見は大土地底分について厳重なる監閥を怠ら喝なかった︒黒岡長官は法の桂げら

れざるを散知していたが︑会道関殻の勢いが飴りにも綬漫で焦燥していた際であったため︑制限外の地積なるにもか

かわらや︑特別の詮義により開拓伎の拓地瀬氏の本旨にも趨し共の方法も確震なるものと見倣して︑麗勝の闘を許し

v但し土地は鹿勝に般に下渡されるものにすぎで地券は例規に従い年々成功検査の上移住人各自に附興されるも

のとされ︑土地制度上後の図体移民に封すると同様の取扱がなされた︒従って形式上はともかくとして賓質的には前

記の規加に違反するものではなかった︒しかしとれは北海道に

KM

ける大土地底分の鳴矢をなしたものであって︑とれ

を契機として蕗分商積は一時に激増し︑士族授産を目的とする諸国体に封して︑大商積の土地の貸付または賀下が盛

に行われるに至った︒

川農村更生協合﹁北海道調査報品目﹂一七支

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使

出制同省一ニ一一二一1

一 一 一 一 ユ 一 一 二 兵

凶﹁御使合戦地之内御下波師側﹂(徳川林政史研究所キ織の原本に擦る)

︒ ︒

4

(8)

(7) 

三 一 一 一

一 一 三 一

一 一 一 一

一 一 一 頁

第 一 一 一

僚令の制定と北海道移住

明治十一年六月土地下渡の許可によって計謹はいよいよ具体化され︑同月用水開墾・治水堤防・新道修築・橋渠架

設・渡航運誌に闘し︑官費による施設を開拓使に願出るとともに︑同伎の許可を得て徳川家開墾試験場僚令を制定し︑

移住の方法︑着手の限序等について詳細たる規定を設けた︒

次いで士口組知行等は第一回の士族移民の募集に取掛ったが︑首時は北海道を蝦夷の地と稿し︑熊狼俳細ずる寒気酷

烈なる未開地で到底普通人の生活するととのできぬ所とのみ信じていた時代であったため︑容易に臆募者を得るとと

は出来十︑彼等の苦心には荒々合らぬものがあった︒明治十一年二月二十七日間の吉田知行の書簡には﹁陳れば入蘇

後穆位有志者に商談候共未内約取結候場合には立至り不中︑寄年牡丹亭へ集合の建中は一員も出頭無之右等は全く一

時の軽瓢論にて北海道を境基の地と定め断乎顧後の念友結ち移頓ずる等の由民商目論に至りては畏縮の体と御一笑一月被

候:::到底論容は多く泊予に粟乞摺むような奇策のみにで恕難を甘じ永遠の目的を立つるなど着賞論には閉口の姿な

り一再々﹂と記され︑また片柄助作より吉田知仔え諮った書簡にも﹁大阪の蓬の御乎隔は迫々御通知致被下候通り南端

充分の御都合に有之候蕗結尾に到り肝心の士族臆募者無之夫れが語障蕗候とは買に以て切鴎に不堪義に御座候︑然し

共の後向設論有之候義と被存候如何の景況に運び候や不堪馳想侯何分にも来書の如く角田弟彦さへ未決着にては他人

の義は幌ぞ難からんと御察中上侯:::高一陸幕の人員極僅少に候はピ是志御謹力の義も無鋒義御廃止より到し方有之

間敷様にも被察焼︑如何御取組めに相成侯はど可否共主

ab御誌を待つ︺とあって︑その場に臨んで畏縮する者が多く︑

臨募者が少ないために折角の計義一の陵止ナらが気遣われた程であった︒

五:

‑79 

(9)

H

吉田知行等が尾張で移民の募集に努力していた頃︑北海道に居残った片柄助作はその首時開拓使函館支鹿に在勤し

ていた尾張の人吉田義方と協力して移住人を迎える準備に従事し︑出越内村副戸長調山浩子の斡旋によって移住人の

家屋及び板戴等建築の設計︑及び用材買牧.工壬J

員が管理底分した︒移住志願者は依令及び委員の命令に違反せざる旨の誓約書を徳川家に発出したる後︑貫民替港籍

闘を愛知牒一憶に出してその許可友受けた︒

明治十一年七月二十七日先遣隊として吉田知行等九名がまや入植し匂︑道路の開撃・家屋一政蔵等の建築を行い

家一五椋︑堅持板賦一棟︑作小屋二椋を落事︑移住人入植の諸準備をたし︑十月六日移住人の一閣は開拓使汽

舶玄武丸にて東京品川を出護し︑九日函館え到着︑十一日午後開拓使汽酷ケプ口ン丸にて同地役出帆し︑十二日午後

遊業部に到着した︒なた一部の移住人はそれより約一箇月遅れて十一月八日現地に弼若し︑都合第一回移住人八二人

(家族移民一五戸︑満身移民一O名)の入棋をみるに至り︑ととに北海道開拓の計書一が始めて質現せられ︑徳川農場

の前身である徳川家開墾試験場の殻生をみたのでるる︒

f

‑80  (6)  (5)  (4)  (3)  (2)  (1) 

﹁地所御波方御願品賞︑円良資御施設願並略錦︑係例議施行方伺書﹂(徳川林政史研究所々臓)

調

徳川家街墾試験揚篠令︑第五卒渡航及家物迩混等の順序を間的にす︑

航の乎瞬間きが詳紛に規定されている︒ (第三五款乃至第五八款)には笈麗容出品籍顧の雛形その他波

(10)

(9)  (8) (7) 

明治十一年以降統計表ハ徳川開墾揚)

大島︑前相拍年表

第二章麗接保護時代

第一部

: lt

さきに下渡乞許可された遊築部一五O

OO

徐坪は明治十一年八月に割渡が

行われたが︑﹁迩柴部川北五十一角坪之義﹂は﹁野草繁茂充分之検閥難行局一一付﹂狛議が願われ︑翌十二年五月に改め

て﹁地所御割渡之俗頗﹂が出され︑二五高田︑五六八坪飴の割渡が行われた︒また明治十四年六月には更に︑最初制

渡された一五O

O高坪の土地左前例に準じて下波の儀が︑慶勝の嗣子義語の名によっ

て出一蹴され︑同年十一月開拓伎の許可を得叩その結果関墾地の商秘は砂前部野一割波地二三八一雨八︑六一O坪︑鷲の

巣割波地七九高田︑二六六呼を合せて︑一一二八一尚一一︑八七六坪に建じた︒

とれらの土地は既誌の如く成懇の上はすべて移住人に下付される約束で割波されたものであって︑道路・防風林・

民萩館の敷地等乞除いて砲は蹴ね移住人に割蛍られた︒その面積は徳川家間墾試験場僚令に﹁耕宅地一戸ニ付一斉坪

ヲ無代慎一一一ア給ス﹂と規定され︑また開拓使の割渡報告にも﹁各戸一一凡五千坪宛磁調一戸一一角坪ヅツ観渡筈之底﹂と

あって︑設初は一高坪bL強定していたらしいが︑賢一際は﹁一戸賞リ登高五千坪ノ見込デ割渡﹂された︒但し割波面詰

は必やしも正確にこ雨五︑000坪と限定されたわけでなく︑地域の模様によって多少の増減があり︑また満身移住

者に艶しては開娘一一奨関上商積乞限らやに開墾させ︑成娘一一面積は制限外と躍もそのまま観渡したとともあった︒かくし

3i 

‑81

(11)

徳川農場後諮市民け

て明治十一年から十四年までに関税品の分一二一雨入︑九四O坪(砂離部割波地の内)については︑年々開拓伎に成墾面

積の届出がなされ︑それにより在に移住人え地券の交付が行われた︒しかるにその後成部一面積を平く届出るととは地

租の納入上などからいって不利なる事賓が認められるに至ったので︑十五年以後は年々の届出は中止されがげ

なゐ以上とは別に徳川氏個人の事業として︑明治十四年八月に牧牛枇設立のために東京府士族鈴木市一一永・井上喬︑

愛知懸士族小瀬新太郎・間島各選とともに︑茅部郡落部村宇野田迫に沿いて草莱地五O高坪の掛下左受け︑また十六

年九月には義躍の名義で開準合祉より荒蕪地一一一五高七︑二九六坪(官臨より開港合祉え割渡中の土地)を金五三五回

で譲渡乞受けた︒

(10)  (9)  (8)  (7)  (6)  (5)  (4)  (3)  (2) (1) 

明治十一年︑市議取裁文移銭ハ徳川林政史研究所存織)

大島日出生稿︑八雲郷土史年表

八雲村徳川家関懇一地沿革

徳川農場︑貸地に闘する書類(八雲産業株式品自社所戴)

同右徳川農場婆覧

同右

自明治十一年至同二十年指令緩(徳川家開墾試験場)

~82

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移住人の入植は前惑の如く明治十一年十月及び十一月に家族移民一五戸︑濁身移民一O名の移住をみたのが最初で

(12)

ある︒十月十二日到着の分ぽ吉田知一・角田弘業・角田弟彦・太田疋定悉・山田信勝・鈴木霊信・水野忠臨・高木任

邦・永田健・志水久三郎・吉田八郎(以上家族)︑天野熊三郎・村上嘉十郎・都築田鶴松・岡野頼隆・井上文治・平川

鏑一ニ部・植松稲太(以上満身﹀の一一一家族移民・七猫身移民であり︑十一月八日軒並泊の分は服部疋競・土岐冬麿・佐

治矯泰(以上家族)︑赤尾政敏・高橋光治・村瀬小金次(以上濁身﹀の一エ家族移民・三満身移民であつがが移住の時期

が沿くれてすでに積品一世間に入っていたため︑第二回移住人のための家屋の建築は明年の零泊を待って着手するととと

かくして明治十二年五月より同年七月までに︑農家二ハ棟︑既一一棟︑板蔵一棟︑事校一様推すを建築落丸山︑翌八月

一日に歪り第二回移住人九O入(家族移民一四戸・満身移民間名)の移住をみた︒その氏名は次の通りである︒同ル野

頼・雲間景網・波多野太郎・今村燈八・原武雄・吉田忠賓・都築貞詩・平川昌雄・中西要賢・小泉幸年・森宮崇・加

藤松︐次郎・岳部徳白・吉田政一(以上家族﹀︑樫野弘道・川口良武・飯沼勘十郎・西村栴六(以上猫身)︒

O能人︿家族移民一四戸・満身移民七名﹀の移住をみた︒その

氏名は弐の諮りである︒遠山典闘・川口良長・辻村勘治・林友則・近藤信章・一色一一一四郎・内堀龍扱・山吹疋精・海

部昂滅・杉立正憲・一佐久間善太郎・飯消守・自・若杉茂親・小寺殻(以上家競)︑林吉之丞・及川鍬吉・今村文次郎・榊

(

以上は基幹移民の移住経過であるが︑とれによって錦戸数四七︑人口二六O徐︑開墾反別六八町歩を算ナるに室内︑

明治十四年七月には遊楽部・黒岩の雨字は山越内村から分離濁立︑八雲村の新立をみるに至った︒

明治十五年五月には移住人補扶として更に家族移民一戸︑満身移民六名の移住をみるに至った︒その氏名は共の語

りである︒市岡金三郎ハ家族)︑石原虎一ニ郎・関門之丞・田島作吉・小菅柳三郎・中川庄吾・津井次郎(以上現身)︒し

‑ 83‑

(13)

u v

かるに同年病気その他の事踏により︑高木任邦・水野忠順(以上第一回家族)︑原武雄及び加藤松一一一郎(第二国家候)等

四戸の退場乞み︑更に明治十七年には山田信勝(第一回家族)︑吉田政一(第二国家族)︑内堀龍眠・若杉師太郎(以上

第三国家族)等四戸の退場をみるに至った︒

喝 な

tN猫身移民は首初主として海部品臓が郷里和合村の塾で教えていた二ハ︑七歳以上一一O歳前後の満身青年よりな

った的︑史的十三年一一百﹁批年招募規則﹂を設けて有震の青年主恭り︑牛馬の飼育・農業機械の取扱に従事させた可

とれは洋式農具の使用によって開墾の進捗をはからんとしたものであるが︑計聾諮りに目的を謹するととが出来なか

ったため︑明治十六年には駿止され批年輩は解雇されるに至った︒

因みに明治十一年から十七年までに至る場内の戸数並びに人口の控還をみると戎の通りであって︑いやれも多少の

起伏はあるが糊して若笠な増加佐しめしているというととが出来る︒

入戸&f‑

口霊立川

八 一 一

一 一 一 一 一 一

間七一 一 六

一 一 一

一 一 六 一

同 十 一 一

一 一 一 五 一 年

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)(7)  (6)  (5)  (4)  (3) (2.)  (1) 

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二四回

一 二 一 一

‑84 

(14)

(10)  (

沿

金子大書記官が﹁北海道一ニ勝巡視復命者﹂の別冊七議の第七項移民の吠態に九引いて指摘しているように︑士族移民

の多くが失敗に臨したにもかかわらや︑徳川家間墾試験場が前越の如く多少の龍伏はあるにしてもともかく殻展の一

詮をたどったのは︑琵藩主である徳川家の大なる保護があったためである︒徳川家ば第十一因立銀行に投資した五一両

国の純袋の中からJ

0年間年々ふす(出する外︑更に朗建常期として二国内六千闘を第三年目よ

り向う八年聞に徳川家歳入中から支出して移民の保護に充勺若党・家作料・米菜料・農兵種苗費等の貸輿を行うと

ともに︑物口問責民・運輸・醸悲・備荒貯蓄・教育・欝療・勧業等に関する諸施設を設けた︒

放費は一戸に付一五歳以上五人と見積り︑四日市港より東京までの来蹄賃金一一一髄︿但し定債のニ制削減︑一人に付

金二国間O銭宛)︑東京より函館までの来枯賃金二二回五O銭(但し定債の二割減︑一人に付金四同五O銭宛)︑また

家物一戸に付八O銭(一日八立方を一銭とす)と見積り︑四日市港より東京までの運賃金四国四八銭(但し定慌O二割

減︑一銭に付金五銭六毘宛)︑東京より函館までの運賃金五回三二銭(但し完慣の五割減︑一銭に付金六銭六犀五毛宛)

乞合して金四四凶五O銭を渡航設定額として支給する外︑荷物の荷浩史及び線地より四日市港迄︑函館より移性地迄

の連法に関する諸経費︑螺地より四日市議迄の一一米描賃及び主食政能料︑東京函館上陸中宿泊寝食の諸経費及び画館よ

り移住地までの主食技話料︑京京函館︑森村等に公ける荷物戴入・戴出人足費を併ぜて金一五O闘の強算で移住雑費

緩務議研究

5 

‑85 

(15)

金 融

2

紳 事 済 溌 し 主 義

5

。(寸

O闘で︑町民建具付の家屋を各戸に一戸宛現物支給し︑破損修繕は自排とし模様替は元形を失わざる

限りは随意Eo

農具代は一戸に付金四間四五銭で︑貴地諮設の口聞を現物支給し︑破損修繕及び他品を必要とする場合はすべて自排

とした︒また韓首費は金一回二五銭の代慌で桑百五

OO

(

O本金二銭五原の計算)を現物支給する外︑諾粧物親

等を委員の手で一括購入して移住んに分配した︒

飯米料は一戸に付人口の多少にかかわらや︑老幼男女を平均して丁位五人を臼安とし︑一人一日玄米五合宛の計算

で︑初年度飯米本額九石一斗ニ升五A口の代償金三六回五O銭ハ一石の代金四間)︑ニ年目今額四石五斗六升二A

代償金一八回一一五銭︑一二年目四分の一樹二石二斗八升一合二守五才の代俄金九回一二銭五陸︑合せて金六一一⁝悶八七銭

五霞の貸輿を行うとととし︑満三年間越減法友以て月々現物を支給した山また菜料も同様一一戸に付人口の多少にかか

わらや丁批五人を目安として︑一人一門付金二銭宛の計算で︑初年度本額金一一一六回五O

一一一年目四分の一一期金九四一二銭五底︑合ぜて六三国八七銭五厘の貸輿を行うとととし︑潟三年間遮減法友以て月々中市(

給した︒更に家族の賢員数が了批五人の見積員数乞越えて飯米菜料に不足をつげる場合には︑請願によって蓄積金穀

の内から無利足で必要額を貸興じ︑満五年以内に償還せしめるとととした︒

かくして移住人一戸に付初年度は家屋建築費・技費・農具積苗費・米菜料を合せて二五一一一回︑二年日米菜料コ一六回

O

O七回七五銭の貸興が行わ町五年目より全額を六期に分けて一期を五

0年間に無利見で︑年々四季に分割償却させるとととした︒すなわち第一期の五筒年間には一荷年五

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‑ 8 6 ‑

(16)

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一季二国二五銭として金四五陣︑第四期には一筒年一一闘一季二回七五銭として金五五回︑第五期には一倍年

一一苧二一国二五銭として金六五回︑第六朗には一節年一六回五五銭︑

七五銭の償却を議定した︒

一 三 印 刷

以上は家族移民に封する資金の貸興であるが︑濁身移民に封してほとれと異なる取扱がなされたのはいうまでもな

い︒招寡規則によると︑濁身移民の設費は愛知から東京までの設費・荷物運賃とも一人に付金一五関︑函時から開墾

地までの技費一人に付一凶六O

(

O銭︑計一八回一O銭を支給したが︑東京から函館ま

での航海費は開拓使明治ナ二年甲第関税成規によって波航するため別に支給ぜや︑また函館から開墾地までの荷物運

賃は賢費を齢済するとととした︒な必家族移民と同時に出設する場合は開拓使明治十二年早第四税成規によって︑四

日市搭から開娘一一一地まで在接波航するため︑名古屋から四日市までの按費のみを支給し︑他は一切省略しい付︒家屋建築

費・米菜料等の支給は一切行われなかったが︑その代りに四人乃至八人に封じて家屋一戸の貸渡が行われ︑また五箇

年間は月給六回五OO剖乞本人の勉強不勉強に艇とて支給した︒な必五筒年の満期をすぎて家族を迎え一戸

立乞願う者に封しては︑相営の手営金乞支給する外︑家屋・土地・農兵・米菜料等の貸興︑延納がすべて家族移民と

同様の篠件で行われた︒また移住人の子弟厄介で去を迎えて分家せんとする者に封じては︑普通の移住人同様耕地の

制渡をなし︑珠算の許す範関内に沿いて家屋建築費は字額︑農兵枠(は同額乞移住人と同様の依件で貸興した︒

以上の外に規定外の安金の貸出肌ハまたは給興もしばしば行われた︒例えば明治十五年は凶作であったため翌十六年に

至り一反歩につき除草出商賞二入学︑すなわち金七五銭づっを各自の作付反別に感じて一般に貸興したGまた十五年

六月には窓口虫が殻生し移住人がその撲殺に努めたため︑徳川家より慰問労金として金五O国が下賜された︒更に十六年

九月には柏町虫撲殺蝦定が設けられ︑盤虫⁝簡に付ニ厘づっで買上が行われた︒名目上はともかくとしてーとれらはい

?

‑87 ‑

(17)

yれも移住人に封する護金上の保護に外たらなかった︒

弐に移住人に給輿ナる飯米等の儲蓄並ぴに生産物の国置の用に供ナるため︑板蹴一棟(割問×八開)を金二五六同

(一坪に付八闘の見積﹀の珠算で建築し︑知⁝代慌で下附して一向の共有とした︒とれば単なる倉時ではなく︑移住人

に必要な物笠の配給と生産物の販交のための共同機関として事務所を存じ︑満身移民の青年が数入居住していた︒長

共松市等の生産資材並びに米堕・味噌・醤油・燈油・酒等の日開川口問は委員に沿いて相場低下搬運便宜の時佐川川って一

千に買入れ︑板滅に貯減じて移住人各自に掛下げた︒また縞糸・榔苧・穀物その他の販貨物も︑委員に必いて函館・

京京中川寸の相場わす一問合せ品低の時宜を計り︑或いは官用に供ずるものは買上注額う等︑すべて一千に取纏めてい取離に出

置き︑雨後賢鳴いをたし判︒かように板減は営時間整地に布行ける唯一の物務一流通機関として︑移住人の生活にとって

不可快のものであった︒

また明治十四年には函館遊梁部聞に沿ける物資の輪誌に専用するため西洋形帆舶一隻彰一新迭し︑名を八一日常丸と名付

A J

けて︑移住人一同の用に供した︒(その究額一︑八七三国一五銭︑七月二十九日進水式が行われた)︒更に明治十七年

一月には事務所の底的同で味噌笹川出の製警官一開業し︑移住人の必要とする味笠誌の自給をはかった〆

また﹁天災関荒其他非常ノ難一一松リ臨時需求ヲ燐スル必要いから金設蓄訟の訟を設け︑初年は月々給興菜料の五O

分の一ナ︑なわち一戸一向月六銭として金七二銭︑二年日は同じく二五分の一として金七二銭︑都合二筒年間に一回岡

田銭を各戸より牒出︑貯蓄せしめた︒との積金は委員が保管して︑一

OO

凶に建じた時にはその都度一一同協議の上貸

出の方法佐立てるとととし︑一一平日以降はその時に豆︑り一同の協議の上で更に方法を改定するとととし九o

明治十二年六月には開墾費の一部をさいて八雲小墜校を設立し︑移住人の子弟bL牧容して授業を開始した︒移住人

︿

植松柏太が教鞭をとり︑専ら翠⁝陶りととに任じた︒とれば八雲村に沿げる教育施設の濫腸をなした︒更に明治十七年

‑88 

(18)

九月には公立八雲病院を設立して︑移住人は勿論一般患者の治療ぞ掌らせたが︑その建物はじめ一切の経費は開墾費

T 4

り交掛させい︒とれも八雲村に沿ける皆療施設の時矢をたした︒

最後に勧業施設として︑明治十一年十一月に長閑副主奨闘のため般製綿所を設け︑教師一名乞招牌して移住人一同

をしてその法七色体習せしめ︑翌十二年八月には製隣教師一名の汲遣を官に請い︑移住人をしてその製治方法を墜ばせ︑

さらに明治十四年八月には腕製議所一棟設建泣した︒また明治十一年十二月には移住人の市中より四名の青年(岡野頼

隆・横井田鶴松・平川勇記・井上文治)役選んで開拓使七重勧業試験場に抵遣し︑現業生として牛馬の取扱い︑西洋

農具の使用︑馬具の製作等主目習さぜ

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以上はとの時代に沿ける保護施設の震なるものであるが︑そのために支泊された累年︒開型経費は戎の通りであっ

J合計一一一角九︑六二O

89

芳 明 文 治

子 四 十

交 ‑~年

一 一 一 一 一 一

︑ 八 一 一 一 八 ふ ん 八

一 一 品 ︑

一 品 五 九

・ 九 間 一

♂ 一 一

0七 一 品 ・ 五 五

八 句 同 一

一 一 六 ・

一 品 一 七

一 一 一 寸 五 五 九 ・ 九 一 一 一

O

倒 的 (6) (5)  (4)  (3)  (2)  (1) 

O

土台:

(19)

徳川農場部世議史同

側(301掛 鍋 凶 側 担 問 凶 [23) 122)ω 腕 制 制 御 ( ls)(15)  (14)  (1(12)凶 倒 的

係令︑第六八款

係令︑第七七款

招募規則︑第四位附

招募規則︑第六僚

招募規刻︑第七位限

移住人子弟分家規則問︑第一位制・第二係・第間後

八雲村徳川家間関懇地獄卒

向右

大島鍛稿︑徳川農場

係令︑第七八款乃至八O

徳川農相場要資ハ衛生の項)

沿

同右

附お防波経費甲南年表

‑ 90

参照

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