モンゴル風物誌 : ことわざに文化を読む
著者 小長谷 有紀
発行年 1992‑06‑09
URL http://hdl.handle.net/10502/4580
ISBN・4‑487‑79事18‑9
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モ ン コ ル 風 物 誌
︑東京書籍
小 長 谷 有 紀
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モ ンゴ ル
風 物 誌 Yuki Konagaya 小 長 谷 有 紀東京書籍
モンゴル風物誌ことわざに文化を読む
2
プロローグ
三百六十度みわたすかぎり草原がひろがっている︒ゆるやかにうねりながらひろがる緑の絨毯
は︑どこまでつづいているのだろうか︒絨毯はゆるゆると傾斜地をのぼり︑やがて森へと徐々に
消える︒あるいはまた︑いつのまにか緑色がはらはらと薄れて︑忽然と消える︒
そんなモンゴル草原を舞台にして︑人びとは家畜とともにくらしてきた︒かれらの生活は︑わ
たしたちの生活とおおいにちがっている︒きっと︑かれらの頭の中も︑わたしたちとは異なって
いるにちがいない︒なにが真理で︑なにが美徳で︑なにが善悪なのだろうか︒わたしたちとおな
じ人生観をもっているとはかぎらないのである︒
モンゴルの遊牧生活については︑人びとの中に身をゆだねることによって︑いくらか理解でき
るかもしれない︒しかし︑いくら人びとの生活を知っても︑ただちに人びとの頭の中まで知るこ
とはできないように思われる︒思考様式というものは︑生活様式にくらべれば︑分析するのはも
ちろんのこと抽出するだけでもむずかしい︒
本書は︑モンゴル遊牧民が︑そのくらしをベースにして構築してきたことわざの世界を少しず
つほぐしてゆくことによって︑かれらの思考様式をさぐろうとしたものである︒モンゴルの風土
とともに︑その精神的風土をことわざによみとろうというのである︒
人生の真理というものは︑ある程度までなら文化をこえて共通しているであろう︒ただし︑同
義同類の真理が︑かならずしも類似した表現でかたられるとはかぎらない︒むしろ︑まったく表
現がちがうにもかかわらず︑おなじ真理がかたられるところに︑各文化のおもしろさをみいだす
ことができよう︒
また逆に︑表現がかなり類似しているために︑てっきりおなじ真理がかたられているにちがい
ないと思っていると︑意外にもまったく異なる意味がたくされている場合もある︒しばしば逆も
また真であるし︑そもそも真理は一つではない︒
ネコがいないような草原では︑﹁ネコに小判﹂はなんというのであろうか︒また︑ネコがいても
魚がないなら︑﹁ネコに鰹節﹂はなんというのであろうか︒そもそも︑そういう概念をあらわすこ
とわざはあるのだろうか︒モンゴルらしいことわざの表現を楽しみながら︑その奥にかくされた
人びとの頭の中にあるモンゴルの風景をあじわうことができれば︑きっともっと︑楽しいにちが
いない︒ことわざを通じて︑異文化への旅に出かけよう︒
モンゴル風物誌
目次
プロローグ
2
家畜 ともに生きる相棒
ヒツジ 従順は美徳か否か
ヤギ この強情なるもの‑
ウシ 母と子をさかれて
ウマ智恵と力と正義の使者
ラクダ ラクダに乗って︑天までとどけ
イヌ 清濁あわせのむ動物
1 0 1 8
25
4 1
6 1 5 2
血貝族 官吏をしたがえ︑金持ちとともに
ラマ僧智恵なき知者
賢者 移動する旅人
老人と若人 重石と泉
8 0
88
9 3 7 4
英雄
結婚 孤独な生涯
人生の決断
親族のきずな近いようで遠く︑遠いようで近い
1 0 4
109
1 1 7
生活
帽子虚飾の手段シラミ小さな悪魔
脂肪 豊かさのあかし
乳製品
肉類
天幕
雪害
雨 善意の象徴
解剖学の世界へ
大草原の小さな家
夜の悪夢
天のおつげ
1 26 133
1 4 0
149154 1 7 4
1 8 1
165
エピローグ1 8 8
写真著者
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3
10
家畜1ともに生きる相捧
モンゴルで遊牧の対象となっている家畜は︑ヒツジ︑ヤギ︑ウシ︑ウマ︑ラクダの五種類であ
る︒これらを総称して「マル」という︒
イヌはたいていの牧民が飼っているが︑イヌは「マル」とよばれる家畜の範疇に入らない︒ま
た︑草原にめぐまれないところでは︑ウマのかわりにロバを飼っている牧民もいるが︑ロバもま
た「マル」には入らない︒「マル」とは草原で群れをつくって放牧される動物であり︑これらこそ
が遊牧民にとっての家畜なのである︒
モンゴル草原での生活は︑こうした家畜を基盤にして成立している︒したがって︑ことわざに
も頻繁に家畜が登場する︒それぞれの家畜の特徴をいかした表現がある一方で︑いずれの家畜に
も共通してあらわれるテーマも存在する︒家畜の登場することわざでしばしばとりあげられるの
が︑「成長」というテーマである︒
「泣いて泣いて人になる
鳴いて鳴いて家畜になる」
と︑モンゴルでは人間の成長と家畜の成長とが並行的にとらえられている︒家畜は︑そだつ動物
であり︑そだてる動物である︒その意味では︑子どももまた同様であろう︒「泣く子はそだつ」や
「寝る子はそだつ」といった並日遍的なことわざが︑ここモンゴルでは︑家畜と並行してあらわれる
のである︒
成長をめぐって人と家畜が並行的にあらわされる表現として︑つぎのようなことわざもある︒
「小さい頃から修道僧のようにふるまう
たね二歳子ウシの頃から種オスのようにふるまう」
幼少であるにもかかわらず︑経験をつんだかのようにふるまうことがいさめられている︒これと
同様の意味をたくされたことわざは多い︒
「二歳子ウシになるまえに
種オスウシになろうとおもう」
12
「沸かないうちに色濃くなった茶
二歳子ウシでいるうちに成長した種オスウシ」
などである︒モンゴルのお茶はふつう煮出して濃くするものである︒「時にいたって︑茶がわく」
といえば︑それなりの時期が到来してようやく条件がととのう︑という意味になる︒それなのに︑
沸かないうちに濃くなるなどとは︑即席もはなはだしい︒よほどの奇跡として特別に評価されな
いかぎり︑このことわざのように早熟としてマイナスに評価される現象といえよう︒時が満たな
いうちに早熟することは︑たとえば「歩むまえに︑走るのを好む」という表現によっても風刺す
ることができる︒しかしながら︑単に歩くとか走るといった動作の対比で表現するよりも︑成熟
した種オスの性的行動をもちだすほうが︑はるかに説得力があるだろう︒
こういうとき︑家畜のなかでもっぱらウシが例にされているのには理由があるにちがいない︒
種オスウシは︑成熟するとメスをおいかける︒そうした性的行動は︑ウシにかぎらず︑あらゆる
家畜に共通しているのに︑なぜウシが頻繁にあらわれるのであろうか︒
ウシの場合は︑メスをおいかける期間がラクダやウマよりも長い︒また︑ヒツジやヤギならそ
うした行動を人が管理するが︑ウシこ対しては制限しない︒さらに︑ウシは宿営地のそばにいる
ことが多いので︑性的行動が目撃されやすい︒こうした放牧管理のうえでの特徴があるからこそ︑
どの家畜にもあるはずの種オスの性的行動を︑もっぱらウシが代表しやすいのである︒
このように家畜をたとえにもちだすことによって︑経験を尊重し︑未熟をいましめることがで
囲 い の な か で 母 ヒツ ジ と子 ヒツ ジ の 仲 を と り もつ
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きるとともに︑成長して一人前になることを表現することもできる︒
「子ヒツジの毛がぬけて
二歳ヒツジの毛がはえた」
子ヒツジの毛は︑くるくると巻き毛になっている︒これが抜けてはえかわることは︑まさしく成
長のあかしである︒家畜の成長が毛に明瞭にあらわれるという特徴をうまくもちいて︑ことわざ
がしたてられている︒
各種家畜に共通していて︑かつ人にもまた共通している表現として︑たとえば「十人十色」を
あらわすことわざがある︒
「父の息子は同じでない
十本の指は等しくない」
というところを︑ヒツジに登場させて
「種オスヒツジの角は
あっちへ曲がり︑こっちへ曲がり」
という︒また︑「カエルの子はカエル」を家畜によって表現する一連のことわざがある︒
「喉の房毛のないラクダから
短い毛の子ラクダ」
「母が栗毛まだらなら
その子ウマは足元がまだら」
カエルではなくて︑ラクダやウマという家畜が登場するところがまずモンゴルらしい︒さらに︑
ただ単に家畜におきかわっているばかりでなく︑その容貌がはっきりとしかも端的に明示されて
いるところに︑家畜をよく知っている牧民ならではの表現のたくみさがうかがわれる︒同様の句
でありながら︑つぎのように句がつけくわわると少々ニュアンスが変わってくる︒
「栗毛まだらから足元まだら
尻さがりのメスウマから短尾の子ウマ」
すなわち︑悪いものから悪いものへというわけで︑うとましさがはっきりと表現されるようにな
るのである︒
また︑「トンビがタカをうむ」といいたければ︑
る︒
「五両のメスウマから
五十両の子ウマ」 つぎのようなウマのことわざが用意されてい
ことわざでは︑人とともに︑あるいは人のように家畜を表現することができるばかりでなく︑人
のかわりに家畜だけで表現することもできる︒たとえば︑「寝た子を起こすな」というかわりに︑
モンゴルではつぎのようなことわざが用意されている︒
「草原にいる馬群をおどろかせない
寝ているヒツジを起こさない」
「寝ているヒツジを起こさない
横になった草をうこかさない」
子どものかわりに︑ヒツジやウマが登場しているのである︒
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ただし︑一見︑似ているようであっても︑いくらかニュアンスのちがいはある︒日本のことわ
ざで「寝ている子を起こす」といえば︑無用の手出しをしてあたら問題をひきおこしてしまうこ
とであるのに対して︑モンゴルのことわざで「寝ているヒツジを起こさない」とは︑こっそりと
やること︑あるいは他人とかかわりあわずに自分の本分をまもることをいう︒
ふつう︑「寝ている子」は起こさないものであろう︒それをわざわざ起こすことは︑あきらかに
マイナスの評価をあたえられるべき行為である︒一方︑「寝ているヒツジ」は起こすことも必要で
ある︒放牧に出かけるならまず起こさなければならない︒「草原にいる馬群」を追い立てることも
ある︒すなわち︑起こすことはけっして一〇〇パーセント悪い行為とはいえない︒むしろ︑起こ
さないのがふつうではない行動であって︑その行動がマイナスとして評価されれば「こっそりや
る」の意味になり︑プラスとして評価されれば「本分をまもる」の意味になる︒とりあえず︑「起
こさない」こと自体は価値中立的な表現であるといえよう︒
モンゴルの人びとはながいあいだ︑草原で家畜とかかわりあいながら生活してきた︒人は家畜
をみて人を知る︒と同時に︑家畜とのかかわりあいを人間社会での関係に投影することもできる︒
そうしてつちかってきた感性が︑ことわざに固定されてゆく︒さらに︑より繊細な観察眼を駆使
して︑それぞれの家畜の特徴に応じたことわざも展開されてゆくのである︒